○
政府委員(
山本三郎君) お手元に差し上げてございます
二つの資料がございますが、第一番目の、「筑後川水系治水
計画の経過ならびに概要」につきまして、まず最初に御
説明申し上げたいと思います。これを沈みながら御
説明申し上げます。
一番目は、筑後川治水
計画立案の経過でございまして、ここには今日までの改修評画の経過並びに今日の
計画を立案するまでの経過がまず載っております。
筑後川全川にわたる
計画的な改修工平は明治三十年に始まりまして三十六年に一応完了いたしました。それを第一期、第二期の治水
工事といっておりますが、それが一番初めでございます。改修
工事の
計画洪水流量につきましては、
昭和二十八年の洪水の前は、
昭和三十四年に利根川に大洪水がありました後に、治水
調査会というのを設けましたが、二十四年の治水
調査会による改定
計画により改修起点におきまして七千立方メートル、これは朝倉郡の志波村というところでございまして、これは一番あとに図面がついておりますが、筑後川流域図というのがございまして、その中の一番右側が大分県、下が熊本県でございまして、大体山十央が
福岡県になっておりますが、その夜明の発電所の左のところに志波というところがございますが、これが改修の上流端になっております。この志波というところにおきまして七千立方メートル毎秒という
計画にいたしております。そのうちの一千立方メートル毎秒を上流のダムによりまして洪水調節を行なうものといたしまして、巨瀬川合百流点より上流においては六千立方メートル——巨瀬川という川がやはり今の図面でございます、左側の今の志波というところの下に巨瀬川という川がございます。その合流点から上流において六千立方メートル、それからこの合流点より河口に至る区間においては五千五百立方メートルと決定したものであるが、
昭和二十八年の六月の大洪水によりまして、
昭和三十二年の二月にいろいろと
計画を検討いたして、雨の
状況だとか流れの
状況等をいろいろと資料を調べまして、確率計算をもいたしまして、考慮をいたしまして、百年洪水として長谷地点、長谷というのは、先ほどの図面の志波というところの上に長谷という、ちょうど大分県と
福岡県の境のところに長谷というのがございます。この地点におきまして八千五百立方メートルと改定されたものである。これは
昭和二十八年の大洪水の流量に該当するものでございまして、これに該当するだけのものはやっておかなければいけないということになりまして、これだけの流量を
対象にいたしまして、筑後川の流量
計画、
河川治水対策は立てなければいけないということで改定されたのでございます。しかるに上述のごとく長期にわたる改修
工事の結果、下流部はすでに河道が概成されていたので、このような洪水流量の増加に対処するに、河道改修のみによる方法によれば、全面的な引堤及びかさ上げをもってすることになり、技術的並びに
土地利用上等の見地から不適当と考えられたので、この改定
計画においては、河道改修によれない
部分をダムによる洪水調節によるものとし、長谷地点の洪水量八千五百立方メートル毎秒を六千立方メートル毎秒に低下せしめるものとし、河道改修は宝満川合流点より下流は六千五百立方メートル毎秒とし、従来より千立方メートル毎秒増加することにした。——八千五百立方メートルになりますと、非常に流量が多くなりますので、下流の改修
計画だけでこれを
処置しようという案も作ったわけでございますが、非常にたくさんな
土地もつぶれるし、人家も移転しなければならぬ、
工事費も三百億以上、当時かかるというようなことになりまして、上流でぜひ
一つ洪水調節をしなければいかぬ。下流でこれを全部やるとなると、非常に大きなものになるということで、いろいろ検討いたした結果、上流のダムと下流の一部の
堤防の引堤等を行ないましてやろうということに相なったわけでございまして、下流の流量が一千立方メートルふえたために、それだけの分の
堤防を広げるだけでも千七百戸の人家を移さなければならぬということにすでになっておる。これを全部川幅を広げるということになりますと、それの三倍も人家を移転したりしなければならぬということに相なりましたために、上流で何とかしなければいかんということで、いろいろと検討いたしたわけであります。
第二番目に、上流のダム
計画の検討の経過がございます。上流ダムについては、上述のごとく
昭和二十四年の治水
調査会の方針決定以来、大山川——大山川というのは、これが筑後川の本川で、ここが日田でございますけれども、日田の上流で東の方から流れてくる玖珠川という川と、南東から流れてくる大山川というのが合流しております。この二本が日田のところで合わさって、これから下のところが筑後川になるわけであります。大山川、玖珠川筋について
調査検討がなされてきたが、
昭和二十八年の出水による改定
計画では、洪水調節に必要な貯水容量も著しく増大してきたので、これに応ずる各ダム地点の洪水調節上の機能、地質等の検討が行なわれた。
調査地点のおもなもの及びこれに要した
調査費は次表の
通りである。——その次の表に書いてございまして、
調査費として金がつきましたのは
昭和二十七年からでございますが、
昭和三十三年までにわたりまして、合わせますと、二千二百十二万二千円の金がついておるわけでございますが、この中には久世畑が一千万円以上使っております。そのほか「
松原ほか」と書いてありますが、これには——これが
松原ダムの今の候補地点、これが下筌ダムでございます、その他これが築瀬ダム、これが川畑、ダム、それからこれが久世則ダムでございまして、大山川につきましては久世畑、
松原、下筌、二俣、簗瀬、この上に二俣というのがございます、これが川畑——六カ所調べてございます。それから玖珠川の筋は、これが下榎釣と申します、この地点。それから上がりましてこれが猪牟田という地点、それからこれが地蔵原、これが千町無田、ここに鋳物師釣、それから竜門、結局玖珠川につきましては六カ地点、合計いたしますと、十二カ地点ぐらい調べたわけでございまして、「
松原ほか」と書いてありますのは、久世畑以外に使った
調査費でございます。註のところに書いてありますように、
昭和二十八年度においては、西日本
災害調査費より久世畑ダムに対して別途四百七十四万七千円が支出されております。
それから各ダム地点について行なわれた
調査結果の大略を述べると次の
通りである。まず、久世畑ダム地点については数次の溶岩流の堆積によりまして形成された地質であり、さらに河床部には横断並びに流心方向に大
規模な断居が介在し、かつ耶馬渓溶岩下部の泥灰岩層及び河床下の恵良溶岩上の赤色凝灰岩層は脆弱であり、これに接する基盤も破砕が著しく、透水のおそれが大である。これらの不良岩処理は技術的にはなはだしく困難であり、多大の工費をもって処理しても、なおかつ十分な安全を期することが困難であると判定された。——久世畑ダムというのはここでございまして、この一カ所がもしできまするならば、八十数メートルのダムを作りまするならば、今考えておりまする
松原、了察の
二つのダムを作るくらいの貯水容量は得られるわけでございます。ですからこれができますれば、一カ所で非常によかったわけでございますが、これをいろいろ調べてみたんですが、この久世畑が一番問題になっておるようでございますから、詳しく地質図を——詳しい話しは開
発課長にあとでやってもらいますが、久世畑ダムがこの地点でございまして、今いう断層というのは、この地点にあるわけです。それからこの下にもう
一つ大きな断層がございまして、この断層と下の断層が続いておるわけです。ここに二メートルくらいの非常にやわらかい層をかんでおりまして、これが非常に透水が心配だ。それからここに弱い層がかんでおります。一番心配なのはやはりダムの川に沿いまして断層があるわけでございまして、これが下の断層と続いておりますから、その断層ができたと同時に、ここに割れ目ができたということでございまして、非常にこれがさらに増大する危険がある。それからこれがなかなか処理が、これは絶対できないということじゃありませんけれども、だんだん深くなってゆきますので、これを全面的に処理するためには非常に膨大な金がかかるというようなこともございます。従いましてこれは非常にわれわれといたしましても、この地点に作るならば非常に有効であるし、一カ所で済むのでございますので、先ほども申し上げましたように、非常にたくさんの金をかけてやったんでございますけれども、放棄せざるを得なかったというのが実情でございます。
それから次にその他のおもなる地点についての
説明が書いてございますが、まず第一番目に、玖珠川筋の竜門、それから鋳物師釣、それから猪牟田の各地点については、流域面積が非常に狭いわけでございます。非常に上流地点でございますので、たとえばここヘダムを作りましても、雨をキャッチする両校が非常に少ないものですから効果が非常に少ないという。洪水流量が小さいので本川下流に対する洪水調節効果の点で不適当だ。非常に筑後川の流域面積が大きいのに、これぐらいの面積をダムでとめましても、下流に対してはほとんど大した洪水調節になり得ないという点で問題にならないということになったわけでございます。それから玖珠川、下榎釣、これはこの地点でございますので、先ほどの流域面積の点からいいますと、非常に流域面積は大であるが、ダム地点の両岸の地形が割と低いのでございます。それから地質に抑えられてダム高は五十メートル程度が限度であり、結局洪水調節に必要な貯水容量を得ることができないということになったわけでございます。
それから次は、大山川筋の方でございますが、まず簗瀬地点について崖錐が深く川幅が広く、地質的に阿蘇溶岩下部の凝灰山事居は試験の結果透水性——非常に水の漏る性質が大きくて、ダムの高さは六十メートル程度が限度であり、必要なる貯水容量を得ることができないというふうになったわけでございます。
次は、
松原、下筌の両地点の問題でございますが、それは、噴出溶岩から形成され、
松原ダムについては右岸
松原層の節理及び左岸下流沢の小
規模断層のほかは堅硬な溶岩が露出し、また下筌ダムについては均質強固な下筌溶岩を主体とする地質であり、ダム
築造に支障を及ぼすほどの断層は見当たらない。以上のような検討結果に基づき
昭和三十二年八月最終的に
松原、下筌両ダムの組み合わせにより洪水調節を行うことが最も適当であると判定された。——
松原、下筌は、今書いてございましたように久世畑の方は、溶岩が流れていきまして堆積したものであります。これは下から噴出した溶岩でございますので、岩質が非常に均一でございます。これは九州大学の地質の先生にもよく見ていただきましたけれども、
松原が一番いいという人もありますし、下筌が一番いいという人もありますけれども、いずれにいたしましても、この地点は筑後川の筋におきましては一番良好の地点であると、こういうふうに地質学者も言っておるわけでございます。
次は、下流改修
計画の概要と現状を御参考までに申し上げておきたいと思います。前述のごとく長谷地点の
計画洪水流量を六千立方メートル毎秒として現在河道改修
工事を実施中であるが、改修
区域については従来の改修上流端より上流の把木、原鶴
地区——これは把木、原鶴はその上流にありますが——並びに日田市
地区を施工
区域に編入し、かっ本川に流入する巨瀬川、宝満川等の各支川の百取りつけ
区域を延長して改修することにいたしました。本川の改修
工事は浚渫、掘削並びに
堤防かさ上げによる河積の増大がおもであるが、久留米市周辺の二カ所では引堤を行ない、また現状が霞堤の
部分は霞堤として残すようにしておる。これらに伴う
工事量は
昭和三十年以降掘削六百九十万立方メートル、浚渫五百万立方メートル、築堤一千万立方メートル、護岸四十二・五キロメートルに及び、
工事費は合計百六億円に達する。
昭和三十四年度末までにおけるでき高は約十七・七億円にすぎない。——こういうふうな
事業量を持っておりまして、筑後川の下流におきましても、先ほど申し上げましたように、千七百戸ぐらいの移転を行なわなきゃならぬと、今、
松原、下筌の移転の家屋は約三百五十戸程度でございますが、下流におきましては千七百戸程度の人家の移転をやらなきゃならぬということになっているわけでございます。
次は、不筌、
松原の概要と現況を申し上げます。この両ダムによりまして
松原における
計画洪水流量三千八百立方メートル毎秒のうち、二千七日立方メートル毎秒の貯留を行ない、下流の長谷における
計画洪水流丘八千五百立方メートル毎秒を二千五百減らしまして六千立方メートルに低減するとともに、洪水期以外の貯水池の利用を考慮して
二つの発電所を設置し、合計最大出力三万九千七百キロワットの発地を行なうものである。貯水池の
規模及び工々及び工期は次の
通りである。——この三つのダムによりまして洪水流量を二千七百立方メートル減らして、下流の流量は従来の
計画よりもふえますけれども、六千下立方メートルに減らしていこうということでございます。このダムを作りますると、洪水期以外にはこれを利用いたしまして発電ができるわけでございますから、洪水調節に支障のない範囲におきまして発電をいたすわけでございまして、その計が三万九千七百キロワットの発電ということに相なっております。
貯水池の
規模は、下筌、
松原ダムの
二つについて書いてございますが、下筌ダムの方が上流で
松原が下流になっておりますが、流域面積は下筌が百八十五平方キロ、
松原が四百九十一。それから湛水面積、これは水没になる面積でございますが、下筌が二平方キロ、
松原が一・九平方キロ、それから満水位の高さはおのおの三百三十六メートルと二百七十三メートルでございます。それから総貯水量は下筌が五千九百三十万立方メートル、
松原ダムが五千四百六十万立方メートル、有効に使える量が五千百八十万と四千六百四十五万立方メートルでございます。そのうち洪水期にあげておきまして治水に使う量が下筌が五千八十万、
松原が四千五百十万立方メートルでございます。発電に使う容量は五千百八十万、四千六百四十五万、これは治水容量として貯水いたしておりますので、洪水期以外にはこれだけの容量が発電に使われるということでございます。堆砂の容量といたしまして七百万立方メートルと七百五十万立方メートルとっております。
それから工費及び工期でございますが、下筌ダムと
松原ダムは並行いたしまして、まあ下筌の方を先に作るわけでございますが、全部の
費用といたしまして百十七億八千万円かかるということになっておりまして、着工は下筌が三十三年四月竣工が三十九年三月、
松原が着工三十四年四月でございましたが、竣工は
昭和四十三年の三月ということに見込んでおる次第でございます。なお、下筌ダムはコンクリートのアーチ・ダムでございまして、
松原ダムはコンクリートの重力のダムでございます。
それから次に、もう
一つの資料でございますが、「下筌
松原ダムの補償交渉の概要及び水没
地区実態
調査表」というのがございます。
その前に、今の
松原ダムがここで、下筌ダムがここでございますが、県の
関係を御
説明申し上げておきますと、この太い線が県界になっております。ここが熊本県でございます。従いまして
松原ダムの貯水池も、この分岐点から上流の区間は両県にまたがるわけでございます。それから下筌の方も大体貯水池の下流半分ぐらいは両県にまたがるということに相なっております。ここが熊本県こちらが取り巻いて大分県ということになっております。それから町村は熊本県は小国町一町でございます。それから大分県の方は、一番上が上津江という、上津江がこの貯水池の一番上流端が少しかかるわけでございます。それからこれから下、ここまでが——
松原の地点のところからずっときましてここが中津江村になるわけでございます。それから
松原ダムの右岸の
部分が栄村でございます。それからこれから下の
松原ダムの区間が大山村になっております。従いまして、熊本県が小国町一町、それから大分県側が上津江、中津江、栄、大山村の四カ所になっております。そういう
関係になっております。
まず、下筌
松原ダム補償の交渉の概要を申し上げます。
昭和三十二年夏ごろまでの
予備調査をやっている時代には、地元
関係者は比較的協力的であった。すなわち
昭和三十一年の一月の測量は
関係者の了解を得てこれを行ない、その補償金も支払い済みでございました。しかし
昭和三十二年秋ごろより熊本県側
関係者の態度が硬化して、
建設省当局との面会を一切拒絶するようになり、
昭和三十三年四月以降の
実施計画調査を実施するにあたっても、大分県側
関係者は
建設省の
説明会にもよく出席し、比較的協力的であったが、熊本県側
関係者はますます反対の意向を強くし、面会を拒絶するとともに、大分県側
関係者にも積極的に反対の働きかけを行なうに至った。——初めのうち、
調査をやっておる間は非常に協力をいただきまして、
関係者も了解をしていただいておったわけでございますが、
昭和三十二年の秋ごろに急に、熊本県小国町方面でございますが、態度が非常に硬化して参ったというのが実情でございます。
このため当局は、と申しまするのは
地方建設局でございまするが、熊本県側の
関係者の説得を続けるほか、
昭和三十四年に入りまして、面会もできませんので、
土地収用法の
規定による立ち入り
調査及び試掘等の手続をとりまして、立ち入り
調査については三十四年の一月八日、九州
地方建設局長より熊本県知半あてに、
土地収用法の十一条の手続でございますが、熊本県知半あてに通知をいたしたのでございます。それから試掘の許可の問題でございますが、これは
土地収用法の十四条の
関係でございますが、試掘等については同年の四月の九日に熊本県知事から許可を受けております。
それから一方、熊本県側のダム地点の
土地所有者に試掘等の申し入れを行なったが、面会を拒絶された。そこで文書により法に定める手続に従って試掘を行なうことを通知した後に、
昭和三十四年の五月十三日に現地に立ち入りまして試掘等の障害となる立木の伐採を開始いたしたのでございます。これは試掘等の許可を得たわけでございまして、その後地元の所有者の方々にその了解を得ようということで申し入れをいたしたのでございますが、面会を拒絶されたので、やむなく現地に立ち入りまして試掘等をするために妨害となる障害物を除去したのでございます。ところが五月の十九口になりまして、地元民の方々約三十名が現地にすわり込みまして試掘等の妨害をしたので、紛争を避けるために作業を中止いたしたのでございます。
そういう
状況でございましたので、一時中止の上いろいろ方法を考えまして、その後、ダムサイトの
土地の所有者でありまする小国町の志雄部落の
関係者は
話し合いをしようと思っておりますのに、現地に、さく、小屋等を
建設し、気勢を上げるとともに、
建設省当局との面会を拒絶し、さらに熊本県知事の説得、それから下流受益者代表久留米市長等の——これは筑後川の改修の既成同盟会長でございますが、久留米市長さん等の協力要請にわざわざ出向いたのを拒否して今日に至っておるのが実情でございます。
それから、次に水没
地区の実態の
調査表がございます。
まず、
松原ダムの
関係の村別、部落別の
関係戸数、世帯数、人員等がまず書いてございます。
松原ダムにおきましてはまず大分県の大山村、それから栄村、中津江村、この三カ村が
関係いたすわけでございまして、それから熊本県の小国町がそのほかに
関係ございます。このうちで非常に強硬な反対をいたしておられるのが志屋部落、浅瀬、芋生野と申しますか、こういう
地区でございます。
それから下筌ダムの
関係でございますが、これは中津江村が一番たくさんでございまして、これは大力県でございます。それから上津江村も大分県でございます。それから最後の小国町が熊本県でございます。熊本県の非常に反対の強いのは四戸でございます。
それから次のもう
一つの表でございますが、
松原、下筌ダムの水没
地区の
調査表でございまして、これは詳しい
調査をいたしませんとはっきりはいたしませんわけでございますが、現在このダムを作ったたために水没される予定の
地区の中にありまするいろいろの物件でございます。まず、下筌ダムにおきましてはたんぼが約三十四町歩、畑が二十二町歩、山林が八十三町歩、原野が五町歩、宅地が六町歩余り、墓地が一反五畝でございます。合計いたしまして面積が亘五十一町歩ということに相なっております。それから
戸数は百七十三戸でございます。世帯数が百八十五、人員が千九人、非住家が二百五十五でございます。その他公の建物といたしましては法務局、その他学校等がございまして、これらの公的の
施設につきましては、各官庁にみな了解を得ておるわけでございます。
それから
松原ダムでございますが、これは先ほど申し上げましたように大山村、栄村、中津江村、小国町に
関係いたすわけでございますが、たんぼ、畑、山林、原野、宅地等はここに書いてある
通りでございまして、合計いたしますと百四十町歩かかるわけでございます。それから
戸数が百三十八戸、世帯数が百四十一でございます。人員が八百八十八人、非住家が二百十六でございます。その他学校、発電所、社寺等がございます。合計いたしますと、この
二つのダムで
土地が二百九十一町歩、
戸数が三百十一戸、世帯数が三百二十六、人員が千八百九十七人、非住家が四百七十一ということでございます。
それらの内訳はその次に町村別に書いてございますが、一番大きいのはやはり中津江と小国でございまして、中津江村が九十四町歩、小国町が九十七町歩、それから
戸数にいたしますと中津江が百七十戸で、次が小国町と大山村の五十三戸ずつでございます。世一数におきましてもやはり中津江村が一番たくさんございまして百八十二世帯、それから人員も九百八十八人、非住家が二百二十八ということに相なっております。このうちで大分県の部内の各町村におきましては、従来とも
説明もよく聞いていただきますし、また比較的協力的だったわけでございますが、先ほど午前中にお話しを申し上げましたように、最近熊本県側の反対がなかなかおさまらぬということと、それからもう少し早くやらなければいかぬ、
建設省は何をしているのだというような話から、約束は白紙に返すというようなことを決議をされまして、きょう
地方建設局の方へその文書を持って参られたということを聞いております。この
内容は、新聞でございますので、はっきりは申し上げられませんが、「水没者は
建設省の出先機関との過去における協議あるいは了承の一さいを白紙にかえす」、「現況に基づき
河川予定地制限令の即時撤廃を要求する。過去の物的、精神的損害に対する補償を要求する。」というような項目を
地方建設局にきょう持ってこられたというふうな情報が入っております。従いまして大分県側は非常に協力的でございましたが、ちょっとこういうふうな点で、向うが片づかないなら、われわれだけ黙っておるわけにはいかぬというような空気が出て参っておるというのが現地の
状況でございます。
以上、簡単でございますが、もう少し地質等、あるいはダム地点等につきまして詳しい御
説明がお入り用でございましたら、開
発課長も参っておりますので、申し上げたいと思います。