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公述人(
沼田稲次郎君) 私は、こういう
法律は、戦後の
民主主義思想に根をおろしたところの民主政治における基本的慣行を破るのみならず、
表現の自由を不当に拘束する危険性を含むと思いますので、
反対であります。
御承知のように、戦前の
日本と戦後の
日本というものを区別する一つのメルクマールはどこにあるかといえば、国民が
政府の政策について何らか批判的な
意見を持っておる人も、なお集まってそのことを
議論をして、そうしてそれをまた
国会にも反映する努力をすることが公然と認められておるというところに、戦後的な
民主主義の基盤があると思うのです。戦前は、これは御年配の方はおそらく身をもって御体験なさったことだと思いますけれ
ども、とにかく
政府の批判、ことに戦争中のごときは、戦争を遂行していくこと自体について、国民の運命に関するような問題自体についても、何らか批判的な意味を持つ話をどこか町かどでやることすら、これはきわめて不穏なことである、そういう会をやろうじゃないかというようなことを言えば、これは不逞なやつであるという
考え方が、これは
政権の座にあぐらをかいておった
人たちのみならず、一般にそういうおどかしの
もとにふるえておったのではなかろうか。おそらく戦争中、皆さんは、どこかで早く戦争はやめた方が賢明じゃないだろうかという最も国民のまじめな批判をなそうと思われたとき、だれと一体話をし、どこで話をし、それを
政府にどう持っていけるかということをお
考えになれば、やはり黙っておるよりしようがなかったのであろうかと思うのであります。そういう点がきびしく批判をされまして、そういう、何もものを言わないでおるよりほかないと、こういう状態に置かれておったことが、あのような不幸な戦争をもたらしたし、あのような暗
たんたる政治をもたらしたのだということが、いわば世界的にも認識せられて、そこで世界人権宣言というようなこともなされたのでもありますし、わけて、
わが国の場合、国民は何ら抵抗をしなかった、そういう
勢力にほとんど抵抗しなかったということの悔恨が胸を焼いておった関係もあって、従って、戦後は再びそのようなことを不可能ならしめようという
考えを持っておったように思います。そこで、そのような戦後の国民の支配的な規範意識というようなものをやはり頭に
考えてみておかなければならない。つまり第二次大戦後の
民主主義の一つの特徴と申しますのは、選挙というただ一回の国民の包括的な行為によって選ばれた多数者というものが、一たび多数者ともなれば、あとは何でもできるというような仕組みでの
議会政治というものは、結局ファシズムの台頭を押えることができなかったし、あの不幸な戦争を阻止することができなかった、ということに対する深い反省を伴った上に、新しい
民主主義ができてきたと思うのです。ということは、いかに多数者が選挙によって選ばれましても、それは常にやはり具体的な政策を出すときには、国民の声を常に聞くべきものである。そのためには
公聴会というようなものも開く、今なさっておるような形のものもそうでありましょうし、街頭へ出て聞かれるのも一つの手でありましょう。しかし、そうして聞くだけじゃなくて、国民も常にまた
集団的に意思を表明するということを絶えず行なうということによって、われわれはほんとうの
民主主義を守り得るのだ、こう
考えたわけであります。それが第二次大戦後における
民主主義の原則だと
考えておった。だから、おそらくは戦争直後から
議会においでになった
議員の方は、戦争直後しょうちゅうここヘ
デモがあった。戦争直後は窮乏した状態でありましたので、しょっちゅう
デモが行なわれておったのは御存じだろうと思うのです。
〔
委員長代理田中茂穂君退席、
委員長着席〕そうして保守党の
方々もむしろ進んで、各
委員長などという人はその
人たちにお会いになったように私は記憶します。そうして宣言書などを読んでみたり、いろいろな形で意思を反映して、それをまた
委員長も、あるいは
委員の方もこれを受けとめようとなさっておった。また受けとめなければ、少なくも第二次大戦後の政治をやる政客とは言えない。少なくも、保守党であれ、だれであれ、自分の耳に痛いことでも、国民の声を喜んで聞くということが努力されて、初めてほんとうの
民主主義ができるのだし、そのような
民主主義政治をになうだけの人材である、こう承認されておったように私は感じております。つまり戦後十五年の間に、国民は、何か自分らの意思を政治に反映してもらいたい、少なくも
議会に
考えてもらいたいというような事柄については、これはともかくも
デモをする、そうして意のあるところを持ち込んでいくということが一つの型となってきた、慣行となってきた。つまり、戦後的
民主主義の母胎の中から生まれてきた一つの慣行であり、政治的慣行であると私は
考えております。そうして、そのことがまさに基本的人権であり、
集会、結社、
表現の自由であるし、
労働者が自分らの
労働者的利害に関連して行なう限りにおいては団体
行動の自由である、こういうふうに
憲法二十一条及び二十八条において受けとめられておったと
考えざるを得ないのであります。いわば、主婦の方が牛乳値下げというときでも、やっぱりプラカードなどを持ってこちらに見えるというようなことが行われた。それは
国会のみならず、実は全国的に行政をやる人、あるいは何らかの公の意思を決定しようとなさるところ、ここへは国民は何らかの意思を表明する自由を持つのである、これが戦後の
民主主義思想である。これをまず明示しておかなければいけないのじゃないか。そのことにからむと、このように
国会周辺に刑罰規定すら含んだ
法律をもって高く城壁をかまえるという行き方は、どうもおもしろくない。一国の頭脳であり、心臓であるというならば、その頭脳や心臓を守るのはまさに民主的な原理だ。肋骨だとか、あるいは頭蓋骨だとかいうものを構成するのは、これは圧力的な
法律なのではなくて、そのような無機物的なものじゃなくて、もっと有機物的な、すなわち生ける血の流れておるような
民主主義原理、つまりそういう国民の意思に対してはいつも耳を傾けて進んで意向を聞こうとする、そういう政治的な関心が肋骨を作り、あるいは頭蓋骨を作る、そういう要素となるものだろうかと私は
考えておるわけです。従いまして、このような、本来進んで声を聞くべき人である、そして聞くべき側にある
議会が、かえって声を聞かないようなことも可能であるような規制を加えるということは、民主的な原理から見れば、どうも承服できがたい。これは何か多年
政権の上に安定してしまったものが、もはや文句を言わせないという気がまえが出てきておるのではないか。
政権交代ということを予想して、ほんとうの民主的な政治をやろうと
考えるとすれば、このような仕方にはならないのであって、これはまた一面において非常に危険性もあるのであります。
それはどういう点であろうか、先ほど杉村さんがつぶさに
法律論的な吟味をなさいましたし、そうしてこの規定の中に「明白かつ現在の危険」という限定がないというところを指摘なさった。従って、非常に不明確なものがあるということは、これはいわば乱用される可能性を持つということにほかならないそうして私
どもは法は乱用されないようにということを念頭に置いて
考えざるを得ない。従って、読むときには乱用される可能性ということをやはり吟味せざるを得ない。これはたとえば、すでに十年前にできた
国家公務員法百十条とか、
地方公務員法六十一条などという規定が二、三年前から突如として使われ出したり、あるいはまた郵便法七十九条というような規定が、これまた、よもや組合などに持っていかれるものではないと思われておったのが、突如として一昨年の全逓闘争には使われてきたというような、こういう苦い経験を持っておりますと、やはり存在せしめてはならないものは存在せしめてはならないのであって、たとえ
立法者がいかような意味を持ってなされようとも、それを使う者が変わってくれば危険もあるということを
考えざるを得ない。
そこで、この規定ですが、まあつぶさに中身に入って申し上げるのもどうかと思う。と言うのは、先ほど杉村さんが御批判なさっておったように、実は
東京都条例なんというふうなものと非常にからんで参りますし、
東京都条例というものによって尽されておるものもあるのであって、のみならず
東京都条例自体が違憲の疑いがあるとされ、そして私も
憲法違反だと
考えておる一人なんです。この辺のところは今ここで吟味することをやめます。そして、どうい危険を私は感ずるのか、この点をもう少し指摘したい。
これは、もちろん
国会周辺から
デモを遠ざける可能性を持つことは、すぐわかります。が、先ほ
ども申し上げましたように、
国会こそが、まさに
デモを最も歓迎しなければならない場ではないかということです。戦後の民主的な
考え方からいえば、
デモを築地の海岸かどこかの場末に持っていってしまったのでは、何にも意味がないのであります。そうして、こういう規制が出れば、
両院議長の
要請を待たずして、あるいはまた都
公安委員会自体が、もうその批判的
勢力がやり出すようなそういう
デモというものは、もうあらかじめここを通さないように、認めようとしないとか、そういうことも大いに起こり得る可能性がある。そういうことがなくても、これによって、ともかく
デモを
国会周辺から遠ざけることができるようになっているということは、これはむしろ戦後の
民主主義的な
考えから見れば逆行しているように思います。そうして、このことで、先ほど公述なさった方は、ぴしゃっと全部
禁止すべきだという強い御
意見を述べられておりましたが、私はぴしゃっと
禁止をするというような
考え方には、もちろん
反対であります。しかし、このような形で規制することの方が、また別の意味できわめて危険であります。と申しますのは、
議会の多数を占めておって
議長をとっておる政党があるとしますと、これがどの政党であるにせよ、この
議長が党籍離脱ということをもし
考えられ得たにしろ、ともかくもそれがある政党の背景の上に出てくる可能性を非常に持っておる。たとえ党籍を形の上で取ってみても、なおかつ、どちらかのある政党とのつながりは避けがたいでしょう。そうしますと、こういう結果が出てくる。
政府の政策を支持するそういう
デモンストレーションについては規制を加えない、そのかわりに
政府の政策を鋭く批判するような
デモンストレーションに対しては規制を加える、これは、その「
国会の
審議権の公正な行使に著しく影響を与えるおそれがある」と認めるか認めないかは、かかって
議長にあります。そう認められたからといって、これを直ちに違法なものと、違法
——これはまたいろいろ問題はありましょうけれ
ども、ともかくそうやって認められる可能性がある。そうしますと、どういうことになるかというと、戦争中などに見たように、「東条万歳」と言うやつばかりが
議会の
周辺を回ることになる。つまり「
政府万歳」、
政府の政策は国民のために非常に役に立つのだというような派ばかりが、これが
周辺に行なわれる。そうなれば、当然これはまたその批判的
勢力というものは、これはどこか築地の辺で、あるいは板橋辺で気勢をあげていくだけではどうもいかぬということになれば、その
周辺にまあ自分で行こうとするということになる。そうすると、ここでぶつかる。そのぶつかるのを乗り越えて行こうということになると、これは破壊的であり赤であるということに結局なってしまう。そうしますと、結局このような形の
法案でもって、実は国民の世論というものは時の
政権を握っておる政党によって牛耳られるという可能性がある。そうしますと、結局、
政権の合理的な交代によってスムーズに政治を動かしていこうとするこの
民主主義政治というものが、ここで一たび
政権の座についてこれをうまく利用していけば、
民主主義的な形の
もとで実は戦争前に私たちが経験したようなことすら行なわれてくる。簡単に言えば、この
政府の政策を支持する
人たちだけを世論の場に乗せていく、世論の声であるかのごとくさせることが可能ではないだろうか。その点が非常に危険であります。それが
四条、
五条を見ても明らかなところであります。
それから次の点ですが、この
法案が成立いたしますと、同じような理屈をもって
地方議会についてもその規制ということが当然
考えられてくるでしょう。そうしますと、簡単に言えば、
地方の
公安条例というようなものによって、県庁など、市役所などの前でやる
デモはお断わり、許さないという形のことが行なわれてくるのではないだろうか。すでに、本日の朝日
新聞の神奈川版をたまたま見ておりますと、「県庁管理規則」というようなものを作って、この
集団デモ騒ぎを押えるということで、中央の
国会周辺の
デモ規制
立法と呼応して急速に具体化しつつあるというようなことが出ております。これはあまりにも早い呼応の仕方で、驚き入るのですけれ
ども、こうまで早くなくても、おそらく、これは
地方の
公安委員会がこの趣旨に沿って
デモの規制をあらかじめ加える危険性を持つことは、火を見るよりも明らかでなかろうか。政治を知っていらっしゃる方にはあまり詳しく申し上げる必要もないことであります。
それから、先ほどの公述の方が裁判所のお話もなさっておりましたが、これはこの規制の
法案にはありません。しかし、どうやら伏線なのかどうかは知らぬが、いろいろな意味で「荒れる法廷」などということが
ジャーナリズムなどの上に載っているという点から
考えるならば、また事の当然ということで、そこまでも行きそうだ。
国会のように
デモから大いに国民の声を聞くべき場所ですら規制されるとなれば、裁判所のごとき第三者によって公正に判断いたすべき場所は、ましてや規制されていいということになってくる可能性も大いにあるわけであります。
それから、これは杞憂であれば幸いでありますけれ
ども、この
法案には「
審議権の公正な行使」という
言葉が書かれている。「公正な」
——フェアなということでしょうけれ
ども、この「公正な」ということが、これまた非常に含みの多いことになりはせぬだろうかという気がします。つまり一体何が「公正な
審議」なのか。「公正」というのは価値評価を含んでいる。単に
性質であるとかということだけでなくて、他に、何が公正か不公正かという一つの価値評価を含んでいる。そうすると、
政府の政策をぴしぴし批判するような雑音が、
デモではなくて、
ジャーナリズムあたりから聞こえてきても、やがてそういうマスコミの宣伝というものは公正な
審議権を妨害するから規制すべしなどという形で、
表現の自由を規制することにならねばいいが、そういうものの一つの一里づかにならねばいいがということを、私、いささか心配しているのであります。おそらく、これは杞憂でありましょうし、杞憂であってもらいたいと思うのであります。
もうすでに所定の時間も過ぎでおりますので、その基本的な
考え方を述べまして、本
法案には
反対の意を表したいと思います。
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