○鈴木(才)
政府委員 それでは私から、
人権擁護局並びに新潟県の
人権擁護委員との共同のもとに調査をいたしました結果を御報告いたします。これはまだ全部の調査を完了いたしておりませんので、中間的な報告と御了承願いたいのであります。
調査をいたしました人権問題は、さきに衆議院の地方行政
委員会におきまして、小澤
委員から「恐怖の町オオミ」という
一つのパンフレットを示されまして、そしてこの中にいろいろの人権問題があるのでありますが、その
一つ一つの事実を示されまして、この事実があるかないか、この事実があるとすれば、相当人権を
侵害するように思われるからこういう点を調査しろ、こういうふうな御要望でございましたので、私の方では地方行政
委員会において小澤
委員から御指摘になりました点を重点におきまして、事実ありやなしやという点を調査をいたしました。従いまして、これから私が御報告いたしますのは、この小澤
委員から指摘されました数々の人権問題についてのわれわれの調査の結果の御報告と御了承願いたいのであります。
まずこの数々の人権問題が指摘されておるのでありますが、このいろいろの人権問題が起きましたその背景を少し申し述べてみたいと思うのであります。少し詳しくなるかと思いますが、御了承願いたいと存じます。まずこの問題の起きました新潟県西頸城郡青海町と申しますのは、富山県の境に位置いたしておりまして、一方は
日本海に面し、他方は山に囲まれて平地がきわめて少なく、農業と漁業もふるわず、もともと貧村であったのであります。ところが青海町の背後にございます海抜千二百二十二メートルの黒姫山は、全山が良質の石灰岩でありまして、化学工業の原料として優秀なものであります。これに目をつけまして大正十年に当時住民三千八百名の青海村に、電気化学工業株式会社が青海工場を建設いたしたのでございます。そういたしまして、青海村は電化青海工場とともに発展をいたしまして、現在は世帯数が三千五百、人口約一万七千を有する青海町となりました。右世帯の約七割までが電化青海工場に勤務いたしておるのであります。一方同町の予算はその半分以上が電化の固定資産税によってまかなわれておりますほかに、町政面では町長、町会
議長とともに、町議二十六名議席のうち十四議席を電化青海工場の職員で占めており、青海町は名実ともに電化青海工場の町となっていると申しても言い過ぎではないと思うのであります。
次に人権問題が発生いたしましたその経緯と概況でございますが、この人権問題が発生いたします背後には、まず明星セメント工場誘致をめぐる
一つの対立があるのであります。それは昭和電工、
日本カーバイド、信越化学の三社は、西頸城郡黒姫山の石灰石、これは埋蔵量五百億トンといわれておるのでありまして、
日本最大のものであります。これを採取するために、昭和三十一年に、青海町に
日本石灰石開発会社を設立いたしたのでにありますが、さらに昭和三十三年五月、石灰石採取の際生ずる砕石を利用いたしまして、青海町に明星セメント株式会社の新設を計画いたしまして、農地約二十万平方メートルの買収に着手いたしたのであります。
右の動きに対しまして、電化側では青海のような小さな町に、
一つの大セメント工場ができますと、必然的に過当競争を招き、共倒れの危険がある、北陸線の輸送力に限界がある、従業員の引き抜きなど、労務上多くの問題がある、電化は——電化と申しますのは青海電化工場でありますが、電化は現在明星の工場予定地から約八百メートル離れた田海地内に、メラニン、塩化ビニール製造用の有機合成工場を新設中であり、これはセメント工場の粉じんをきらうので非常に迷惑する、こういうような理由をあげまして、
反対に乗り出したのであります。一方明星側は、まず
日本最大といわれる青海の石灰石資源を開発するのは国家的使命である。電化側の言う企業防衛は、石灰石をひとり占めしようとする独占主義の現われである、次に輸送力については、金沢鉄道局で調査した結果、まだ相当に余裕が残っておる。次に県外にある既存のセメント会社に技術援助を求めるのであって、労務上の問題は起こらない。さらに製造工程を湿式にすれば粉じんは出ない、こういうふうな反駁で、新設計画の強行をいたしまして、まっこうから対立をするようになったのであります。
次に明星セメント側では、昭和三十二年に青海町が制定いたしました工場誘致条例に基づきまして、工場敷地のあっせんを町当局に申し入れたのでありますが、前記の通り、町政に関しましては電化が圧倒的に勢力を持っておりますので、
反対意見が強く、結局結論を得るに至らず、その間昭和三十四年四月末には明屋セメント誘致
反対派は十九名の町議が中心となり、明星セメント設立
反対期成同盟を作りました。また賛成派は七名の町議が中心となって明星セメント工場誘致促進同盟をおのおの結成いたしました。本問題は町ぐるみの対立と
紛争に発展するに至ったのであります。
さらにこの陰におきまして昭和三十三年の五月二十八日に電化青海労組の定期大会におきまして、同労組は明星セメント誘致問題を正式に取り上げまして、その席上執行部からセメント業界が操短の
現状にあるとき、狭い青海町に明星が進出することは電化との間に過当競争を招き、そのしわ寄せは組合と家族にまで及ぶ危険がある、この際組合員の生活権擁護のために、電化経営者の企業防衛に同調して、明屋セメント設置に絶対
反対すべきであるとの緊急動議が
提出されまして、論議の末満場一致をもってこれを可決、この
趣旨を機関誌、掲示等を通じて組合員に周知いたしたのであります。
このような状況の中で、昭和三十三年の十二月一日と同月二十七日の二回にわたりまして電化従業員革新同盟の名で労組の諸君に告ぐと題し、電化——電化と申しますのは電気化学工業の略でありますが、電化の横暴と御用化した電化労組に対し痛烈な批判をしたビラが青海町一帯に配布されたが、さらに職場を明るくする会という名で労組を批判した印刷物が配布されたのであります。電化労組では、これらのビラにつきまして、大会の決議を誹謗したものであると重視し、同月二十三日中央
委員会の諮問機関として調査
委員会を設立、右ビラの出所を調査した結果、これらの批判運動は執行
委員の宮川久昭、長澤吾作、山本善一の三名が明星誘致派と気脈を通じて行なったものと断定し、統制違反者として処罰
委員会に付し、昭和三十四年四月十日第九回中央
委員会におきまして組合員の権利停止一カ年に付し、会社も出勤減給等の処分を行なったのであります。その後七月二十九日の電化労組の臨時大会におきまして右三名の除名を決議いたしたのであります。この除名決議に基づきまして会社側は労働協約第十条のユニオン・ショップを
適用いたしまして、八月八日付で右の三名を解雇処分に付したのであります。そしてこの右の処分に対しまして被解雇者側は除名される覚えはないと主張いたしまして、同年九年三日新潟地裁に地位保全の仮処分の申請を行なって、現在新潟地裁において審理中であります。こういうふうな状況のもとにおいて、労組内において、またその労組を支援いたします総評あるいは今労等の対立もありまして、いろいろここに人権問題が起きたのであります。
次に、具体的に小澤
委員から指摘されました人権問題の点に触れてみたいと思うのであります。それはまず第一点は、ばく然と申しますと、信書の秘密を侵した点でありますが、具体的に指摘されました点はこうであります。昭和三十四年の四月三日の午後電気化学工業株式会社——以下電化と申しますが、いわゆる電化の青海工場社宅のNという人のうちで中学三年の長女Uさんが母あての手紙を受け取ったのでありますが、そこに電化の守衛Kの奥さんが姿を現わしまして、その封書を渡してくれと申しました。ところがそのあて名が母となっていたので、U子さんがちゅうちょしておると、あけてみなさいと言われ、何げなしに開封すると、もう見たから持っていってもいいでしょう、こう言ってそれを持っていってしまった。そしてこういうことが社宅の軒並みにやられまして、集めた手紙はみな電化の社宅係に集められた、こういう点であります。
本件につきましては、関係者十四名を私の方で調査いたしたのであります。大体判明いたしましたところは次の通りであります。それは昭和三十四年四月三日午後三時か四時ごろ電化青海工場の社宅に居住しております電化の工員長澤吾作という方の長女陽子さんが——当時十五才であります、自宅で留守番をしておるときに、同会社の守衛の奥さんが右長澤方に立ち寄りまして、右の陽子さんに向かい、陽子ちゃん、お前さんのところへも宣伝ビラがこなかったかねと尋ねまして、おらのところにもきたよと返事すると、ちょっと見せなと言った。すると陽子は母あての封書を開封し、
内容をよく確かめず、右守衛の奥さんに渡した。その奥さんはその場でその
内容を見まして、同会社の悪口を書いた宣伝文であることを確かめた上、これは同会社の警備員をしている上谷という方のもとにとついでおりますねえさんの方へも見せた方がよいと思い、陽子に向かってもらってもよいかねと頼み、陽子が了承したので、その封書を受け取り、近くの同会社南社宅に住む上谷トミという方のところにおもむきまして、こんな宣伝ビラが来たよと言って、右上谷トミに手渡したというのであります。この事実は認められるのであります。ただこの封書の差出人が何人であったかにつきましては、関係者は現在これを記憶しておらないのであります。そして、右封書はその後どのように処分されたか明らかでございません。またその桑原という方、これは同会社の守衛の奥さんでありますが、桑原スエ子さんが、他の何人かの指示によって同様の封書を収集していたかどうかについても、今のところ確認することができないのであります。要するに、それは会社あるいは会社の住宅係の命令によって、そういうふうな会社を誹謗するような文書を全部集めていたかどうか、
個人あてに来たそういうふうなビラを集めていたかどうか、この点はやはり確認ができないのであります。大体右の点につきましては、このような調査の結果であります。
次に、このように軒並みに行なわれ、集められた手紙は、みな同会社の社宅係に持参されたという事実の有無についてでありますが、当時、明星セメント株式会社を青海町に誘致するかどうかの問題につきまして、電化青海工場は右誘致に絶対
反対の
立場を表明し、同会社の労働組合もこれに同調いたしましたため、右誘致賛成派と
反対派が対立いたしまして、青海町民また賛成、
反対の二派に分かれて
紛争しております。これは先ほど述べた通りであります。これに昭和三十四年四月施行の地方選挙もからみまして、両派が互いに宣伝ビラを同町民及び右電化青海工場従業員に配付し、文書その他による活発な宣伝戦を繰り返していたのは事実であります。明星セメント株式会社誘致派から郵送等の方法により宣伝ビラ等がそのまま、あるいは封書によって電化青海工場の社宅に届けられると、これを受け取った同社宅居住の工員たちは、同工場や同工場の方針に全面的に同調しておりました同会社労働組合の
立場を敏感に察知いたしまして、このような文書を受け取っても、これをそのままにしておくことができず、多くの工員は、それらの文書をみずから進んで同会社の社宅係に届けておった、こういう事実が認められておるのであります。すなわち、現在までに調査したところによりますと、同会社側の指示によって封書等の収集等が行なわれていたと認められる明確な資料はございませんが、前記社宅に居住しておる同会社の工員等は、同工場の誘致
反対の方針を誹謗し、明星セメント株式会社の誘致を是とする宣伝文書を受け取りましても、これをだれにも告げないで、そのままにほうっておくと、このことがいつか会社側に知れまして、明星誘致派と何らかの連絡があるもののようにとられはしないかという畏怖心をみずから持つようになり、そこで会社側の誤解を避けるために、
自分たちに二心なしという真情を
訴えようとして、このような印刷物を受け取り次第、みずから進んで会社の社宅係員に差し出していた事実は認められるのであります。
その次に御指摘になりました点は、新聞の買い占めの点であります。これは、電化は新聞を絶えず注意していて、気に食わぬ記事が載っていると、これを社宅に配らせない、これまで二度も買い占めをやっておる、こういう事実の有無を調査したのであります。右の事実の有無につきまして、関係者十四名に当たってみましたが、昭和三十四年二月九日及び同月十一日付発行の新潟日報が配達されなかったといううわさがあることは判明いたしたのでありますが、右同日付の新潟日報には電化関係の記事は記載されておりませんので、結局本件事実は現在までのところこれを確認することができないのであります。
第三に、見張人に見張りをつけるという点であります。その
内容は、昭和三十四年一月二日に、会社の守衛長がその部下全員を集めまして、新任のあいさつとして、部外者を監視せよと訓示しておりますが、同会社は町から社宅に通ずる入口の二カ所に守衛所を設け、投光器のあかりを強くして、風体の変わった者が行くと、社宅係に連絡して尾行する。社宅の四軒長屋の両側に見張りが立ち、だれがいつ入ってきたか、出たか、これをこまかに報告させた。これを怠ると逆に見張人が密告されるという二重スパイ制度があった、こういう点であります。この点につきましてわれわれの方で調査いたしました結果、関係者約三十五名について当たってみましたところ、昭和三十三年十二月三十日ごろ、会社正門付近守衛室におきまして、当時の警備係長からその部下である警備の責任者約六名に対し、口頭をもちまして、怪しい者を監視し、また情報を収集するよう、こういう指示をした事実はこれを認めることができるのであります。会社の南社宅に通ずる入口に社宅係員の詰所が置かれておりまして、十数名の係員が昼夜三交代制によりまして勤務に服し、通行人を監視することのできる状況にあることは認めることができるのでありますが、風体の変わった者が同所を通行した場合、右の社宅係員がこれを尾行し、四軒長屋の両側に見張員が立ち、だれが入ってだれが出たかをこまかに報告させた等の事実があるかどうかにつきましては、現在までの調査ではこれを明らかにすることができないのであります。しかし、明星誘致派と目されております者が右南社宅におもむきまして、宣伝活動等をいたしました場合、右社宅係員がこれを監視、尾行し、妨害した事実は認められるのであります。
なお本件に関連いたしまして、会社の敷地外である青海町等におきましても、漸次警備員等によりまして明星派の者に対する尾行、監視が行なわれた旨を当局に
訴える者が多いので、調査いたしましたところ、明星誘致派と目される者及び昭和三十四年四月施行の地方選挙において、反電化派の候補者ないし運動者と目される者に対して、昼夜を分かたずに会社側従業員によって尾行、監視がなされた疑いが濃厚であります。
次に、第四に奥さんの分も判こ押せという表題でありますが、こういう事実が指摘されたのであります。それは、会社は昭和三十四年四月施行の地方選挙に際し、その従業員全員の判こをとった。ある職場で奥さんの名も署名してくれと言われて、おかしいんじゃないか、私は会社に勤めているから判こを押すが、女房の分まで署名はできぬと言った人が、お前は明星派だと烙印を押され、のけものにされた、こういう事実であります。この点につきまして調査をいたしましたが、関係者五名に当たりましたが、現在までのところ、このような事実を確認することはできておりません。
第五に、電化ににらまれて店がつぶれたという点であります。この
内容は、青海町の商人たちは、会社のいやがらせで明日は破産させられるのではないかと戦々きょうきょうのありさまです。私たちの仲間で会社にたてついたということで、会社立ち入りを禁じられ、大損を受けた人たちがたくさんいます、年間一千万円の取引差しとめを食った小川土建、やはり年間一千万円以上の材木取引を停止された小野さん、西頸城運送など、またパチンコ屋がにらまれてつぶれたり、文具屋が店を閉めたりした、こういう事実であります。この点につきまして関係者五名を調査いたしましたが、前記小川土建でありますが、そういう人たちの申告によりますと、大体次の通りであります。まず小川建設という名前で土木建築業を営む青海町町
会議員の小川正雄は、昭和二十六年十一月ころから会社の
指名請負人となり、年間約一千万に上る取引をいたしておりましたところ、昭和三十三年四月ころ同町の議会におきまして、明星セメント株式会社も工場誘致条例によって誘致すべきである旨の緊急動議を、八名連名をもって
提出したことなどから反電化派とにらまれまして、同年五月ころから同会社の入札
指名を受けられなくなりました。そのため同会社の仕事は自然打ち切りとなったということであります。また丸田組製材所という名称で製材業を営む同町町
会議員の小野正徳という方は、親の代から同会社と取引をしておりましたが、明星の誘致に賛成したため、昭和三十三年三月ころ、同会社から取引停止の申し入れがあり、同年四月か、五月ころから電化との直接取引年間約一千万円、電化の御用商人といわれる田辺建設との取引年間二千万円が停止されたというのであります。次に、西頚城運送株式会社及び株式会社双葉商会の代表取締役、同町町
会議員の西山という方は、明星誘致に賛成したところ、同会社の逆鱗に触れて、昭和三十三年四月ごろ、会社との間に期間一カ年の石灰石の運搬契約を締結いたしましたが、同年六月ごろ一方的に会社から右契約破棄の通告を受け、そのころ同会社製品の販売特約店として年間約四千五百万円の取引をしていた前記双葉商会に対しても、同会社の製品を取り扱うことができなくなったとそれぞれ陳述しておりまして、その事実もわれわれの調査ではおおむね認められるのでありますが、ただこういう事情のために店がつぶれたという事実は、現在まで確認することはできないのであります。
右のように会社との取引を停止されたということ
自体をもって、直ちに人権を
侵害されたとは言い得ないといたしましても、右のような取引停止の事実は多数の同町民に知られております。そのほか同町政に会社が強力なる勢力を扶植している事情等もありまして、町民の多くは絶えず会社側の鼻息をうかがい、思うことも容易に口には出さず、また会社側から好ましくない人物と目されておる者との交際もみずから遠慮するという萎縮した心理
状態にあった事実も、これを認めることができたのであります。
第六に医師が逃げ出すという点であります。この
内容は、大光病院というのが約五年前に付近に建てられておったところ、当時診療所と称していた電化病院の取り扱いの不親切もありまして、当時はすごく評判を呼んだのであります。会社はこれが気に入らず、またかねがね病院の敷地をわがものにと思っていたから、いつものでんでいやがらせを開始した。たとえば水道を引かせない、あの病院に行ったらいかぬと社宅中に言い渡す、それでも徹底せぬと見えて、社宅との
境界線に有刺鉄線の垣を張りめぐらした、これでは幾ら仕事熱心な医者でもいや気がさして逃げ出そうというもの、去年の暮れ、とうとう病院は閉鎖してしまった、こういうような事実が記載されておるのであります。ところが、この点でありますが、関係者五名について調査いたしてみましたところ、右大光病院の経営者野中忠子は、最初歯科医を雇い、同病院の経営に当たっておりましたが、成功いたし、次いで昭和三十年五月ごろ会社の南社宅隣接地に用地を求めて総合病院を建設いたしたのでありますが、開業を急ぐのあまり、病院への通路も水道施設も整備しなかったので、通路は隣接する会社
所有のあき地が利用され、また水は社宅の居住者からもらい水をしていたようであります。ところで、右野中は、昭和三十一年二月ごろ、会社の社宅係長に対し、前記通路と社宅水道の病院への延長につき便宜供与方を依頼したのでありますが、誠意がないとして会社から拒絶されたのであります。その後大光病院では別に通路を開設し、町水道の延長工事をしてこの問題は解消したのであります。一方会社側では、昭和三十一年四月下旬ごろ、大光病院と社宅間の通行によってくずれた土手の修復工事をいたし、
境界線に沿って有刺さくを設置した事実は認められるのでありますが、会社側が特にいやがらせや営業妨害をしたために医師が逃げ出したという事実は、現在までのところ、これを確認することができないのであります。結局大光病院は、総合病院当時の借入金や医師に対する雇用条件の違約等から医師等が長続きしませんで、昭和三十三年夏ごろになりますと、医師もいなくなったので、経営難に陥り、結局病院を閉鎖するのやむなきに至った、このようにわれわれは確認いたしたのであります。
第七は、リヤカーや松葉つえで出勤という点であります。その
内容は、会社には危険な職場がたくさんあり、けがをする者がひきもきらないのでありますが、百万時間の安全競争だとかで、休みさえしなければ安全の成績に影響しないというので、家に休んでいても痛さに変わりはないだろう、ぶらぶらしていてもよいのだから会社へ出てこないかといって、にこにこぽんと肩をたたく。従業員は足親指を骨折した人も、指二本切断した人も、ひざ下骨折した人も、肋骨を折った人も、医師の休業診断が出ていても痛さにうめきながら松葉づえをつき、リヤカーに乗って通勤する。やむを得ず休む人は年休扱いで休む。顔を出せばぶらぶらしている
わけにいかないから、傷の痛みに顔をしかめながら働く、このような例がこの一年間だけで、うそでも何でもない、五十件を下らない、こういうふうな事実であります。この点につきまして負傷した工員及び診察した医師、職場の上司等の関係者約三十名につき調査いたしましたところ、会社が休業の診断を受けた工員を強制的に就労させていた事実はこれを認めがたいのであります。しかしこれらの負傷者に対しまして、安全担当と称する当該職場の係員から軽作業に回してもよいからできるだけ出勤するようにとか、会社に出勤している方が幾分でも有利だから出勤するようになどと勧奨を受けまして、そのため負傷した工員においてかなり肉体的に無理と思いながらも出勤していた若干の事例が見受けられるのであります。なお、かように出勤勧奨しなかった場合におきましても、右安全担当係員の言動に影響されまして、安全週間ないし安全月間中等でありますと、それを気にいたしまして、職場における安全成績を低下させまいとして、相当の負傷を受けながら休業しないで自発的に同僚に背負われて出勤するとか、リヤカー、自転車の荷台に乗るとか、または松葉づえもしくは竹のつえを使用するとかいたしまして、出勤した工員の実例が相当あります。右のごとく自発的に出勤した工員中には、休業した場合、昇進、昇給等に対する影響を考慮して、心ならずも出勤した事例も見受けられるのであります。また負傷した工員におきまして、年次休暇よりも公傷休を選択しようとしても公傷休の場合は休業災害となり、会社の安全成績にも影響を与えるので、これまた不本意ながらみずから年次休暇を選び、また会社側において本人に連絡しないで年次休暇に振りかえた事例も見受けられるのであります。
次に、社宅道路の交通妨害の点であります。これは、会社の社宅に行く道路は
一般人も通行しているのでありますが、昭和三十四年四月施行の地方選挙の際、公明選挙宣伝用の自動車を妨害して通さなかった。会社側の者が右道路にバリケードを設けたので、火事の際消防自動車も通行できず、ほかの道路をわざわざ遠回りしていかなければならない事態が起こった、こういう点であります。私の方で関係者七名を調査いたしましたところ、昭和三十四年四月九日午後四時ごろ公明選挙の幕を張りめぐらした青海町民主化クラブ同盟の公明選挙の宣伝バスを、会社の南社宅入口付近におきまして、会社側の者により小型四輪トラックを使用して、その通行を阻止した事実が認められます。また昭和三十四年十月十一日会社従業員の解雇
反対総決起大会が、青海町青海川橋海岸で開催された際、そのデモ行進が会社側南社宅方面に押し寄せてくるとの情報によって、会社敷地内での双方の激突を未然に防止するため、管理上の必要から会社側はその敷地の入口二カ所にバリケードを設置いたしましたところ、たまたま会社南社宅に近接する大沢部落内の豚小屋にぼやがありまして、その際消火に向かった消防自動車は、社宅地域内の右道路を避けて、町道を通って現場に向かった模様であります。以上の事実につきましては、まず刑事上の責任の有無が問題として論じられなければならないと私たちは
考えるのであります。最後に、自民党青年部結成に対する圧力という点であります。この質問の要旨は、電化青海工場経理課事務員松澤衛は、昭和三十二年暮れから同三十三年秋にかけて自民党青海町青年部の結成に努力いたしておりましたが、このことが会社の上級幹部に知られますと、さっそく呼びつけられ、種々の圧迫を加えられた。しかし右松澤は、これを押し切り、昭和三十三年十月二十六日、青海町清源寺において右支部の結成式をあげ、同支部の青年部長に就任した。ところが今度は、右松澤の妻で、当時会社の庶務係タイピストとして勤務していたミツエに対し、配置転換等のいやがらせを行ない、やむなく右ミツエは会社を退社した。こういう点であります。この点につきまして、関係者四名を調査いたしましたところ、前記の松澤衛は、昭和三十三年八月三十一日、青海町自民党青年部結成第一回準備
委員会においてその準備
委員長に選ばれたのでありますが、その後会社の幹部らは、同青年部結成の動きは、自民党青海支部長である明日生誘致派の加藤義平につながる反電化的行動であると判断し、右松澤衛に対し、昭和三十三年十月十日ごろより同月二十四日ごろまでの間約四回にわたり、会社の二階応接室において、同会社の経理部長、勤労係長及び社宅係長等より一時間ないし二時間くらいずつ説得されたのであります。右説得につきまして、たとえば勤労係長において右松澤に対し、自民党の支部長が明星派の加藤義平であるし、現在町は電化と明星に分かれて騒いでいるのだから、その混乱に拍車をかけてもらっては困る、君も雇員に昇格する時期が来ているが人間には信用が大切だ、従って君自身の信用を落とすような行動は避けた方がよいという
趣旨のことを述べた事実があるのであります。しかし右松澤は、前記のような説得には応じないで、十月二十六日青海町清源寺において自民党青海町青年部の結成式をあげ、次いでその第一回大会を開き、同人が同部の青年部長に就任したのであります。すると同月二十九日ごろ、同会社のタイピストをしていた右松澤の妻ミツエがタイプ係の責任者に突然呼び出されて、事務の仕事をするように申し渡されたが、特に定まった仕事も与えられなかった。そのうちに
会議室の掃除係を上司から命ぜられたので、くやしさのあまり同月二十六日退職願を出した事実は認められるのであります。
以上、御指摘の点について、当方においてその事実の有無を調査した結果を申し上げたのであります。以上の点につきまして、まだ全部の調査は終わっておりませんが、大体の中間報告は以上の通りであります。
ただ、私の方ではこの中間報告の結果を総合いたしましても、ある点におきましてこの会社の従業員の大半は社宅に住んでいる人が多いのであります。たとえば、具体的に申しますと、今まで読みました中の南社宅と申しますのは、会社の敷地内、工場にすぐ隣接したところに建てられてこおりまして、戸数が七百六十六戸、家族数が三千六百三十六名、こういうふうになっておりますが、社宅はほとんど無料に近く、いろいろな点において工員は非常な便宜を受けておるのでありますが、ただこの社宅に対する会社の管理権というものの限度をやや越えまして、この社宅に住んでおりまする
一般の従業員の市民としての生活と申しますか、そういうものがやや制限を受けておる。こういうふうな点を認められるのであります。
さらにまた、この会社が町政についての支配的な力をもっていることは否定できないのであります。その間において多数者あるいは支配者としての
一般市民に対する影響力において、その限度をやや越えたものがあるようには認められるのでありますが、まだ的確な最後の結論を出すに至っておりません。
以上の通りであります。