○福島
公述人 安保条約の御
審議の過程で、私の
意見を申し上げる機会を与えていただきましたことを、光栄に存じます。忌憚ないお話をさせていただきたいと思います。
安保条約は、もともと、でき上がったときから平和
条約と抱き合わせであって、感心しないという話はありました。そういう面は、多分にあっただろうと思います。だからだめだということになるかどうか。それに関連しまして私が思い出しますのは、
日本の憲法制定当時のいきさつであります。これも押しつけの憲法だということをいわれたことがあります。私は、当時総理大臣秘書官を勤めておりまして、当時の書記官長楢橋さんが司令部へ出頭して、これが
日本の憲法であるといって渡された正副二通の英文の憲法に、受け取りを署名して帰ってきた、その署名するのを、通訳としてそばで見ておったことがあります。従って、ちょうだいした憲法であるということだけは、私に関する限りは間違いありません。だからといって、でき上がりが気に入らないからといって、さりとてその現在の憲法の原則がおかしいということは、われわれは考えていないと思います。憲法改正をすれば、改悪
反対と言うにきまっておるいうような
情勢というものは、憲法のでき上がり方は気に入らなかったけれども、その原則は、われわれの今日の憲法として、われわれの
承認し得る憲法であるという考え方が広く支持されていると思います。
安保条約についても、ふできのところはたくさんある。これ改良したらどうかという議論はありましょうけれども、日米の安保
体制というものが、全般的に国民に
承認されてきたということは、憲法と同じように、今までは事実であったのではないかと私は思っています。平和
条約ができ、独立ということになり、これから、再建とか今後の生存という問題を考える
日本としては、どういう方向で国の安定をはかっていくか、そういうときに、われわれは、
アメリカとの
協力によって
日本の経済再建をはかっていこう、独立の保全をはかっていこう、大体そういう方式を、その当時は是認したのではないかと思っています。そういうことであればこそ、
安保条約に関する論議というものは、今日はいざ知らず、数年前は、
安保条約改正論というものが非常に盛んであったのではないかと思います。国会における当時の御論議というものはよく
承知いたしませんけれども、少なくとも当時の新聞論調その他は、
安保条約改正論、改正論というものが非常に盛んでありました。あまりさかのぼって言うわけにも参りませんので、とりあえず昭和三十二年の夏、岸首相の
アメリカ行きの前後から、各社の新聞の、
安保条約に関する社説を、一応念のために拾い上げて並べてみたのですが、ほとんど全部が、
安保条約改定をしろという議論をしております。そして、その改定点などをあげております。世の中をあげて
安保条約改定論が盛んであったことは、ここ三、四年間、間違いがない事実であります。その調子に乗ってかどうか、その支持を受けてかどうか知りませんけれども、また、そのほかに動機があってのことかどうか知りませんけれども、政府は、
アメリカとの間に
条約改定を取り上げ、どうにかこうにか改定案ができた。当時、少なくとも新聞の社説で取り上げた
安保条約の改定点というものは今日の改正案においては一応取り上げられておる、ほとんど全部改定せられておる。
そういうことで、
安保条約の新しい改正案というものができて、いよいよ最終的な
審議ということにかかりますと、議論は一転して、改定論ではなくて、
安保条約不必要論になったというのが、現状であろうかと思います。少し皮肉で申しますならば、政府もいいつらの皮であるということが言えるのではないか。そういう政治
情勢の世の中、保守党と革新政党が対立しておる世の中でありますから、安保改定問題というものも、その与野党両党の間において争われている。争われている間にだんだん形が変わってきて、改定論から不要論になるというようなにとは、わからないでもございません。しかしながら、問題は、どうやって国の安全を将来に期待していこうか、国民の利益と繁栄を増進していこうかという、国策をきめると申しますか、政治上の態度をきめる問題でございます。政治問題として争われている間に、問題の根本が失われては困るということが、私ども局外者の
意見でございます。政治問題と申しましても語弊があるかと思いますけれども、与野党両党の間の問題と化して、少し俗な
言葉で申しますれば、
条約改定問題は政治的なフットボールになって、あっちにけられ、こっちにけられしている間に、議論の内容が変わってくる。議論の内容が変わることがけしからぬということではございませんけれども、私どもとしては、扱い方にいささか不安を持つ。いわんや、これが与野党の間でなくて、政府・与党の間の、派閥の間の問題になって、扱い方が混乱するというようになったのでは、
——日本人は、国際政治がわかるかと言われて、何を言うかという返事をしたかったんだけれども、ちょっと言い出しかねた、そういうことを、私の友だちがロンドンで経験したという話をして聞かせたことがあるのですけれどもわれわれは、国際
情勢を、ほんとうにわかっているのだろうかという疑問をやっぱり持たざるを得ない。岸内閣に
反対するのは自由であります。岸信介さんに
反対するのも勝手であろうと私は思う。しかしながら、岸信介に
反対する、岸内閣に
反対するために、事のついでに、
安保条約をその道具に使って、これに
反対して目的を達しようということでは、問題の扱い方が違うのじゃないか。(笑声、拍手)何か立場の都合で、国際
情勢を都合よく
解釈して、それを前提として
安保条約の議論をしよう、そういうことは行なわれるかもしれませんけれども、その都合で国際
情勢が動いてくれるという保証はないのでございます。われわれは、国際
情勢を見そこなって大東亜
戦争に突入して、未曽有の敗戦を経験したことは、すでに一ぺんやっております。できれば、もうそういうことは繰り返したくない。
言葉がぞんざいで恐縮でございますけれども、
安保条約の改定といった問題は、一体どういう事情でこうなったのだろうか。三、四年さきは、
安保条約を改定しろといったところで、
アメリカが受け付けるはずはなかろう、改定々々という議論を盛んにしていけば政府が困るであろう、そういうことで、安保改定論が盛んであったのだろうと私は思います。政府が取り上げてみると、案に相違して
アメリカが受け付けたということで、仕方がないから、今度は
安保条約不要論ということで攻めなければならないということに、おそらくなったのではなかろうかと思いますけれども、しかし、これでは国民が、
安保条約を理解して支持しようか、
反対しようかというときに、困るのではなかろうか。
安保
反対の議論はたくさんあります。しかしその中には、
安保条約即徴兵制度、それならば
反対、
安保条約即
戦争、それならば
反対といった、一種の感情的な中立論もたくさんあります。そういうものを差し引いてみますと、
安保条約の
反対論というようなもの、つまり、せんじ詰めて申せば、ここで
安保条約不要だということを言う以上は、
アメリカとの協
力関係は
反対である、
ソ連との提携によってこれから国を立てていこうということにならなければ議論にならないと思いますけれども、そういう意味の
安保条約反対論が、この国で大勢を支配しているとは、私は考えておりません。
そこで
安保条約というものを、われわれは、何の必要があって持っているのかということでありますけれども、少なくとも、その目的は、国の安全をはかろう、国民の繁栄をほかろうということから、結局出発していると思います。われわれのこれからの判断も、すべてこれが原則にならなければならないのではないか。今日、わが国は、不幸にして
世界で孤立している、月の
世界にたった一つある国といった状態ではございません。
世界の
情勢の中に生活せざるを得ない。政治もしくは外交問題としては、現在、そうしてまた、将来予見し得る国際
情勢のもとにおいて、どんなふうにこの国を立てていくか、どんな方角でこの国を運転していくか、どういう立国条件が、この国の目的のために、国民の利益、国の安全の目的のために適するかということを考えることが、当然
安保条約審議の土台にならなければならないのではないかと思います。くどいようでございますけれども、すべての判断の基礎は、国民の利益、繁栄を前提として、国の安全を保障する方策と、安全度のより高い方に向かっていくという考え方で、判断されなければならないのではないか。問題は、国の
政策の問題でございます。個人の問題ではありません。個人ならば、好ききらいはいろいろあります。利害
関係もいろいろあります。場合によっては、個人は利害
関係を超越しても差しつかえない。
自分が好きならば、全財産を投じて、一ばくち打っても差しつかえない。負けたら負けたで、それであきらめるという手もございます。しかし、政治の問題としては、ばくちを打たれては困るということは、国民全部が考えております。絶対に、国の安全と国民の利益を、ばくちの対象にしてくれては困る。絶対的な安全度というものは、あるいは突きとめられないかもしれませんが、それならば、われわれの知り得る限りの条件のもとにおいて、最も安全と考えられる、最も国民の利益に合致すると考えられる方策を選ぶほか、ないのでありましょう。
今日の
世界は、冷戦の
世界といわれております。言わずと知れた、
ソ連、
アメリカの対立というか、あるいは共産圏諸国と自由諸国家群との二大陣営の対立ということでありましょう。これからの
日本が、どういうふうにやっていくだろうかということを考える場合に、
日本がイニシアチブをとって、この二大陣営のどっちか、あるいはそれ以外の国に
戦争を持ちかけるというようなことは、一応ここで考える必要はございますまい。それならば、われわれは、この国を将来どういうふうに持っていくかということになれば、その二大陣営のいずれかに属するか、いずれかに加担するか、あるいはいずれにも属しないか、いずれにもくみしないか、この
二つの行き方しかないのではないか。われわれの
日本が、国の政治制度として、支配的制度として、共産主義的制度を取り入れ、
ソ連、中共に加担して、いわゆる共産国家の一員となる、これも一つの案であります。共産圏国家の実例は幾らでもあるわけです。存在しておる国もあるのでありますから、これが案にならないということはない。しかしながら、現在共産圏諸国家の一員として存在している国々を通じてわかることは、その国の政治は、
ソ連共産党の指導を頂点とする統制のもとに生きていかなければならぬということであろうと思います。共産党員にあらざれば人にあらずというのを、一応
承認してかかるわけであります。ほんとうの意味における民主主義社会で、これがあるとは、私は思いません。また、おそらく
日本国民の大部分も、
日本の将来に適する制度だと思っているとは、私は思っておりません。しからば、共産主義政治制度を取り入れないで共産圏の一員になる
方法があるか、そういう国の実例はございませんので、ないのだろうと思います。遠い将来のことはいざ知らず、さしあたりの問題として考えますならば、
日本が共産圏に加わる、それを国の方針とするということになることは、さしあたりは
アメリカと手を切るということ、絶縁するということを意味するだろうと思います。われわれは、人口九千三百万人を養う政治、経済を維持していかなければならない。
日本経済の存立の条件というものは、やはり自由国家群を離れて存在し得るかどうかということを、もう少しまじめに考えてみなければならない。経済、法律というものが、
日本の将来にとっての要件であるということは、だれでも自覚していることである。のみならず、経済以上の問題に政治の問題があります。われわれが今日から得た自由、
安保条約の問題をこれほどまでに自由に論議し得る自由、こういう政治というものを、私は民主政治だと思っております、この自由な民主政治というものは、われわれが、この
戦争の犠牲において獲得したものであります。失いたくありません。共産圏に参加するということは、おそらくこの自由を失うということになるのじゃないか。
ソ連で中ソ同盟
条約の論議が、今日の
日本のように行なわれたということは、聞いたことはありません。また、これは私の商売のことで申訳ございませんけれども、先般二カ月ほど前に東京で開催されましたIPI、
世界新聞編集者
会議というものがございますが、その
会議の憲法として、新聞の自由を持たない国の代表は、参加させないということになっております。李承晩の
韓国と一緒に
ソ連の代表者も、参加を認められておりません。経済条件から申しますれば、
日本は、共産圏諸国になって生存するというめどは立たないと思いますけれども、申し上げた政治理念の問題は、われわれにとっては、それよりも大きな問題ではないか。
日本が、今日まで何十年か知りませんけれども、いろいろ変転の
歴史をたどって、今日獲得したこの民主政治というものを統制政治に置きかえるという行き方は、これからのわれわれの政治の問題として、賢い考え方だとは思うわけには参りません。私は、共産圏参加ということは、この国の将来の問題として成り立ち得ない、理屈はどうか知りませんけれども、私ども国民の大部分は、これを
承認しないであろうということを申し上げておるわけでございますが、それならば、中立はどうかという問題があります。
多少ここで話がそれて恐縮でございますけれども、一つの経験を申し上げたい。私は、一昨々年になりますか、四年ほど前に、スイスヘ、飛行機会社の招待で、同行十四、五人の
日本の各方面の諸君と一緒に旅行したことがあります。こちらは、ただですから、見物に行っただけなんで、大したことは考えておらなかったのですが、スイスの首府のベルンに着きましたときに、向こうの放送局から、
日本からデレゲーションが来たんだからラジオのインタビューをする、代表者一人に出てきてもらいたい。しゃべる
言葉の
関係で私が選ばれまして、放送局へ出かけていったのです。解説者を
相手にして、今度の旅行の目的とかいうようなことを聞かれた。何のためにスイスに、これだけの同勢を組織してやってきたかというのです。ただだから来たと言うのは格好が悪いですから、スイスは有名な観光国であるから、見物に来たと言ったのですが、なかなか
承知をしない。もう少しちゃんとした目的があって来たのだろう、
日本は、それくらいの、いいかげんな目的で、ぶらぶらと外国を旅行できる国だとは思わない。もう少しちゃんとした目的があるのだろうということをしきりに追及しますので、なまの放送でもありますし、あいさつに困りまして、そのときに一つ返事をしてみました。われわれ、
日本に暮らしておるんだが、
日本では、従来
世界は
二つに割れておると思っておった、ところが、近ごろ、
世界にはもう一つやり方があるのじゃないか、三つ目のグループというものが、あるのではないかということが
日本の中で論議され出してきたので、参考のため、大先輩たるスイスに見学に来たと返事をした。そうすると、若い人でしたが、その解説者は形を改めまして、それはもってのほかの心得違いである、スイスをこれから見物するということだから、よく見て帰るがいいけれども、スイスが、中立を維持するために、どれだけの犠牲を払ってきたか知っておるか、スイスの人口は四百万である、動員できる予備、後備
兵力は百万である、スイスの上空にはジェット戦闘機が訓練のために常時飛んでおる、それのみならず、スイスの中立というものは、アルプスに囲まれた天然の地理的条件によって維持されておる、
日本のような大国
——と言いました、大国が、スイスと同じような中立を維持できるとは思えない、こういうことを言ったわけです。この人の言ったことがほんとうかどうか、
日本は、スイスのような中立は維持できないのかどうかということを考えてみたいと思うのですが、問題は、
日本が中立を維持したいとするときに、中立国同士が因縁をつけてくるということは、まずありますまい。そうなれば、因縁をつけてくるのは二大陣営のいずれかである。
日本の中立を否認するような手段に訴える連中があるかというと、
アメリカ側はどうかということになりますけれども、
アメリカの建国以来の
歴史に徴して、まず
日本に領土的野心を持っておるとは、ちょっと受け取りにくい。現在の
日本の政治
体制を、変更しようと強制してくることは、ちょっと了解しかねる。われわれが今日維持しておる生活様式なり、政治理念なりというものを変更させたいとは、
アメリカはおそらく迫ってくまい。
ソ連、中共はどうであるか。鉄のカーテン竹のカーテンのことでよくわかりませんが、格別
日本に対して領土的野心があるかどうか、おそらくないでありましょう。しかし、
ソ連、中共いずれにしても、
日本における共産主義運動の進展に興味を持っておると思います。
日本における共産主義運動が、中立になれば、若干そのひもの強さが強くなるということは、覚悟しなければならないかと思います。いわゆる国際共産主義で、全
世界の共産化が
ソ連、中共の理想であるというようなこと、私自身は、それを間違いないと主張する材料を持っておりませんけれども、
ソ連、中共の
指導者の言動の端々には、そういうことではないかと思われる点は出ております。少なくとも、
日本の共産主義化には関心と興味を持っておる、共産主義化させたいと希望しておるということは事実である。孤立した場合に、
日本が、そうはいかないということでがんばろうとすれば、
ソ連、中共との間には若干のフリクションは考えなければなりません。結局中立主義というものも、
日本の場合にとっては、なかなかむずかしい問題であるということは言えます。アジアにおける唯一最大の工業国であります
日本は、これが孤立しておる場合には、共産圏にとっては非常な獲物でありましょう。興味の対象でありましょう。平和攻勢
時代であるから、そういうとぼけた心配は、する必要はないという議論もあります。
世界は雪解けであるというまくら
言葉が、はやった
時代もあります。しかし、
ソ連、中共の
指導者たちの
言葉を聞くまでもなく、共産圏の平和攻勢は手段であります。当分の間というふうに彼ら自身も言っているわけです。その間に経済建設に邁進する必要があるからだと言っております。しかし、イデオロギー攻勢はやめないのだ、ますます推進するのだと言っております。武装するにせよしないにせよ、
日本が中立主義を採用した場合の
情勢というものは、イデオロギー攻勢の最大の目標になるということだけは、覚悟してかからなければならないのだと思います。
しかも、われわれの将来の
状況を考えてみます場合に、中共の将来の発展というものは、どうしても勘定に入れておかなければならない。中共の資本蓄積というものは、何十年かの日時をかせば、あるいはさらにそれよりも早く、経済単位として成長するということは、私は当然だろうと思う。
日本が自由諸国家群とのつながりを持たず、東南アジアにおける自由諸国群との経済
協力とか、そういう面における用意が不足であれば、将来は、いつのことか私は知りませんけれども、孤立した
日本の経済は、中共の経済にのみ込まれてしまうということは、覚悟してかかる必要があるのであろうと思うのであります。
現実の政治の問題としては、共産圏傘下も中立主義も、必ずしも確信は持てないということが事実であろうと思いますが、それならば最後の道はどうであろうか。自由諸国家群の一員としてやっていけるかどうか、それが
日本の国にとって安全であるか、また、有利であるか、それが残されているだけであろうかと思います。そうして現在の
日本はその道をたどっておる。さしあたりは、日米安保
体制による安定の確保ということを、われわれの立国の基本にしておるというのが現状でございます。これによって、
日本の生存のための経済的要件も充足しておる。最近の
日本の経済状態がこれを有力に証明していると思います。われわれの
世界というものは、究極は国連の充足による安全の保障という
時代がくるのでありましょうけれども、そこにいけるまでは、当分は、
日本は日米安保
体制でやるほかはないと私は思っております。また、それならば、どういうふうな伸展を遂げつつ、どういうふうな
体制を維持しつつ、この国は維持していけるかというめどがつくと思います
長くなりますけれども、もう一つ、ここで私に思い出話をさしていただきたい。私は、今日は、各種各様のいろいろなくだらないことをやっている人間でありますけれども、昔、外務省に働いたことがあります。二十七、八年前、一九三八年でございますから、それほど前でもございません。ワシントンで斎藤博さんがなくなったことがあります。私はニューヨークにおりましたので、ほとんど斎藤さんの最期の枕頭にはべったわけでありますが、斎藤さんは死にかかって半分意識不明だというときであります。支那事変が始まって、相当日米
関係の工合の悪いときでありましたけれども、斎藤さんの少なくとも私に対する遺言としては、
アメリカ人のコモンセンスを信じろ、
日本は
アメリカに対していろいろな問題をこれから起こすのであろうけれども、その場合の考え方の基本として、
アメリカ人の持っておるコモンセンスを信じろ、そういうことを私に言って聞かしてくれたことがある。私に関する限りは、この
アメリカ人のコモンセンスを信じ切れなくて、大東亜
戦争に突入して、斎藤さんの言った遺言はいやというほど思い知ったということであります太平洋
戦争の原因はいろいろありましょう。いろいろありましょうが、その有力なものの一つは、当時われわれが
世界情勢を見誤ったこと、
アメリカは民族の寄り合い世帯だから、
戦争になればばらばらになる、
ヒトラー・ドイツは
世界を征服する、勝つ方に加担した方が得なんだというコンプレックスから始まったのじゃないか。今日
ソ連か
アメリカかと言っているわけですけれども、われわれはもう一度ここで、今度はわれわれ自身のコモンセンスを働かしてみたい。九千三百万の国民のために、最も安全度の高い国の方針をきめてみたい。常識的であることは、おもしろみが足りないかもしれませんけれども、しかし、事は国民の生活全体の問題であります。民主主義に特有なまだるっこさがあります。しかし、国民全体が選挙権を行使する、選挙権の行使を土台とする自由主義的民主政治の方が、幾多の弱点はありますけれども、選挙らしい選挙をやらない
ソ連、中共の政治に比べては、国民のための政治であるということは言えるのではないか。そう思うのは私だけではないと思います。
そろそろ結論を申し上げますと、現在の
世界の
情勢下においては、
日本の立場と必要を考えますと、日米の安保
体制、その外交方針というものが、基本としては安全性が多い、安定度が一番高い。安保
体制を基本的には
承認するということになりますれば、今日御
審議になっておりますところの改定案というものは、今日ここまで参ります、政府ですか、与党ですか、よく知りませんけれども、手ぎわそのものは、あまり芳ばしくないところも多々あるのではないかと思いますけれども、しかし、改定案とされているものは、従前のそれよりは一段の進歩であることは間違いありません。そういっても、今は改良の時期ではないという議論があります。前のままでいいじゃないかという議論であろうかと思います。それは
ソ連その他に対する思惑であろうと思いますけれども、日ソ共同宣言にも、日米安保
体制の存在を前提としてというまくら
言葉がちゃんとついておる。今さら
安保条約がいかぬという理屈は、
ソ連との
関係においては存在しないのではないか。安保
体制がいかぬという理屈はない。もしあるとすれば、それはこじつけであろう。いかぬという理屈がないとすれば、当事者が少しでも改良を加えたり、国民の利益、権益に関する部分について規定が十分でないものについては改定を加えたり、あるいはこれがディフェンシブに、防御的にできておる面が十分でない、もっと十分な防御的な性格を明らかにしたい、そういったような改定の努力というものは、一応この改定案には見られるところであろうと思います。完全ではないでしょう。なぜここをこうしなかったんだという議論は、私自身も持っております。しかしながら、物事は、一歩改良すれば前のものよりは悪いということはできない、これは単純な理屈であります。悪い方へ戻れという理屈は、私どもは今日成り立たないと考えておりますので、一歩々々前進していく日米
体制、そういう意味において、今度の改定案は支持されるべきものだと思います。また、長い目で見ましても、
日本は、二大陣営の対立の中心国である
アメリカに
協力するということで、
アメリカに対する
日本の
発言権というものも、そう弱気であってはいかぬと私は思います。
アメリカをして二大陣営門の
戦争に突入させないように、
日本の利益、
日本の
意見というものを、もっとしっかりと
アメリカに談じるという覚悟も持つ必要もあるし、そのためには、
アメリカとの間の
協力体制というものは、
日本にとって、
日本の最も必要とする平和の維持に近道であると私は考えております。(拍手)