○
今井参考人 申し上げます。
国民全体を通じまして、
予算には御
承知のようにあれほど強い
関心が持たれておりますのに、
決算につきましては非常に
関心が薄い。これは、
政府当局、あるいは公務員、あるいは
新聞紙等においても、そういう
感じがいたします。しかしながら、
予算は、使うために、いかに
税金が有効に使われるかというために設けられたものでありますから、その
実績を
検討することは、
予算の編成以上に重要な問題とも言えるわけでありまして、今の日本の片寄った風潮というものは、確かに改める必要があろうかと存じます。
国民といたしましては、
自分たちの納めた
税金がいかに
右効に使われておるかということにつきましては、もちろん知る権利を持っておるわけでありまして、こういった点につきまして、
決算委員会が再度
検討されようとすることに対しまして、衷心から
敬意を表したいと思います。
まず、ごく大ざっぱな
常識論から出発いたしますれば、申すまでもなく、
国会は
国権の
最高機関でありますし、
国政全般に対する
監督権も持っておられますし、また、申すまでもなく
国民の
代表の
機関でございます。他のいろいろの場合にも例がございますように、
予算に対しまして
最大の
発言権を持つものがある以上は、その結果であります
決算につきましても、
最大の
発言権を持つべきものというふうには当然なってくると思います。しかしながら、これを
現行の
憲法その他の
法律と取っ組む段階になりますというとやはり相当問題が出てくるように感ずるのであります。私は、
法律につきましてはいわば
しろうとの
立場にございますが、この
決算委員会で従来から言われております例の
議案説、
報告説、この
二つの
対立点につきまして、
しろうとの
立場でありますが、
一言最初にこの点の
意見を申し上げさせていただきたいと思います。
議案説は、
憲法八十三条の
財政原則を根拠にしておられるようでありますが、しかし、
決算を
財政処理、こういうふうに言うことは無理であろうと思うのです。
財政処理とはやはり
事前の
関係をさすというふうに解するのが、すなおではなかろうかと考えます。特に
憲法におきましてのこの種の
条文の
書き方を考えますというと、八十六条の
予算に関する
条文、あるいは八十七条第二項の
予備費の承諾に関する
条文、また九十条の
決算の
提出に関する
条文、あるいは九十一条の
財政状況報告に関する
条文、これらの
条文を並べて読んでみますと、やはり
書き方がかなり書き分けられております。従いまして、
憲法の
解釈論としてすなおに読みますれば、この九十条から
議決ということを持ってくることも、無理なようであります。いわば八十七条の
予備費と九十一条の
財政状況報告のまん中くらいの場所に置かれておる。これは
委員部から御送付いただきました
資料を
検討しておったうちに、前の
法制局長官であった
佐藤達夫君が言っておった
意見でありますが、私も、そういう行き方が
憲法解釈としてはすなおではないかと思います。特に
憲法上の字句は、よほど尊重してみませんというと、ほかの方に
影響してくるということもある。その
意味からも、この点は
一つの
条文を切り離して考えることは問題だろうと思っております。
憲法八十三条の
財政処理の
原則から、その精神を援用して
議案説を言われておる方もおられるようでありますが、しかし、これもやはり同じように考えられるのであります。これは
決算の
確定という
立場から考えましても、そういうことになってくるのではなかろうかと思われます。結論的に申し上げますれば、私は、やはり
決算は
閣議の
決定によって
数字的に
確定される、
会計検査院がそれを
確認いたしました上で、
報告書を添えまして
国会の御
審議を仰ぐ、こういう順序になると解すべきだと思うのであります。
国会におきまして
決算の
数字を動かすことができないということは、これは
通説になっておるようでありますが、
民間の
会社等の場合におきましては、
決算は
株主総会において
確定する、こういうことがいわれておりますけれども、国の
決算の場合におきましては、
原則といたしまして、
一定の時点までの
現金の
収支であります。従いまして、そこで
数字が
確定いたしますと、やはり動かすことができないという
通説が生まれてくるわけでありますが、ところが
一般の
会社の
決算の場合には、
決算の織り込む
数字の中に、
現金収支に属さないものも入っております。たとえばいろいろの
引当金でありますとか、あるいは
準備金でありますとか
——貸し倒れ準備金、
価格変動準備金、
退職引当金、そういうような
現金収支に
影響のない
数字も
会社の
決算の中には計上されるわけでありまして、こういう
数字につきましては、時と場合によっては修正という問題も起こり得ると思います。また、それによりまして
あとの
利益処分という問題も出て参るわけでありまして、そういう
意味から、
民間の例をここに持ってくることも適当でないような気がするのであります。すなわち、
数字的に
確定したもの、それを
国会で御
批判を受け、御
検討を願う、こういうふうに考えるのが、どうもすなおなような気がするのであります。前の二十五年の討論の場合に、
衆議院の
法制局長をしておって
入江君は、
国会の
審議で
決算が
確定するというようなことを述べておられるようでありますが、これは
確定という
文字の
使い方だと思います。
数字的にはやはり
閣議決定で
確定する。しかしながら、その後
検査院の
確認を経ましてさらに
国会において御
審議を仰がなければならぬ、そういう
手続を経ないと
決算手続は完了しない、
国会の
審議の終了によってその
手続が済む、そこを
確定という、こういうふうに
確定という
文字を解するならば、
入江君の言うような説も立つでありましょうが、
数字的に動かせないということになりますと、やはり
数字の点におきましては、
閣議決定によって
確定すると解する方が、私はすなおなように考えるのであります。
結局、
議案説をとるか、
報告説をとるかというと、私は
議案説をとるようになることに少しも反対するものではないのでありますが、ただ、そのためには
憲法の
改正ということが必要になってこよう、今の形では無理じゃないか。とにかく
前例をとうとぶ
国会が、すでに七十年間の慣行を経ておられますので、そういう
意味からも、その点は考えなければならぬかと思うのであります。特にこれを明文化したといたしましても、その
意味は、
法律的に
政府の
責任を解除するという
意味になるかと思うのでありまして、現在の行き方では、政治的に
政府の
責任を解除するというようなことになるかと思います。
法律的に
責任を解除する方が明白であり、望ましいといえるでありましょうが、しかし、その実際の
効果は、政治的に
責任を解除することにいたしましても、そう大きな隔たりはないのじゃないか。現に
一院の
不信任案によりまして、大臣の首もすっ飛ばせるのでありますからして、私は、その点は大きな開きではないように考えるのであります。結局、
現行の九十条を
中心とする
憲法を私なりに解釈いたしますれば、
国会の
議決によりまして成立した
予算を
内閣が執行いたしまして、その結果を、
国民の
代表である、あるいは
国権の
最高機関である
国会にお目にかける、そうして御自由に
一つ御
批判、御
検討、御注意賜わりたい、こういうふうな形のものが、今の九十条の
条文から出てくるすなおな線のような気がするのであります。
また、
立場を変えまして、もしこれを
議案といたしますと、
議決の場合には、
法律的には、結局突き詰めれば諾否、イエス、
ノー二つに分かれてしまいますが、もちろんこれは
やり方でいろいろの
方法もございましょうが、むしろ
縦横に
批判を加えるという
意味、またその方が
決算というものを
国会が
審議される一番望ましいあり方だ、こういうように理解いたしますれば、かえって今のような扱いも都合のいい面がその方には考えられる、こういう気もいたすのであります。
しかしながら、現状のように
両院が別々に
議決をされますと、
国会の
意思が那辺にあるかということは、確かに困る問題であります。現に、従来も、
両院におきまして変わった御見解が示された場合があるようであります。
政府といたしましても、違った場合には、一体どちらの御
意見を尊重したらいいか、結局において無視される、こういうことになりやすいかと思います。もちろん一部には、かえって
両院が自由にそれぞれ
批判を加えていただいた方が、
批判の場が広くなる、また、
役人としては、
一院からおしかりをこうむりましても十分こたえるのであって、
国会の
議決という形にならなければ
敬意を表さないわけでもないという見方もあるようでありますが、しかし、これは一致に越したことはないと思います。やはり
国会の
一つの
意思の
決定という形で
批判が生まれます方が、より有効であることは、申すまでもないと思うのであります。しかし、
国会の
意思決定を
一つにするというためには、そういう
憲法に触れるような道をとりませんでも、私これはよく知りませんが、
国会法の
改正によりましてできることではなかろうかと存じます。もっとも、これも必ずできるとも申しにくいのでありましょうが、承るところによりますと、
会期延長等につきましては、すでに
前例もあるそうでありますから、できるのではないかと考えるのであります。しかしながら、もし話のまとまらない場合における
衆議院の
優位性という問題、すなおにまとまりませんと、これはやはり
憲法の明文が要るというふうな
議論まで発展するおそれは含んでおりますが、そうなりますと、前にも言われましたように、
合同審査会の活用というようなことしか
方法もないようになって参ると思いますが、
しろうとの
法律論はそのくらいに差し控えたいと思うのであります。
議案説、
報告説というものは、
憲法解釈論としては確かに大きな問題であり、また非常に興味のある問題でありますが、私のような
立場から率直に申し上げさせていただけば、
決算審査の権威あるいは
効果が、もちろんこれにも若干の
影響はありますけれども、この
決算審査の
地位を権威あらしめるための
方法としては、
一つの手段にしかすぎないのではないか。やはり
決算審査の
やり方につきましていろいろ御工夫をされるということによりまして、こういう若干の
マイナス面はカバーできるのではないか、そういう気がするのであります。
そういう見地から少しく申し上げさせていただきたいのでありますが、九十条の
条文からは、
会計検査院の
検査報告を
中心にして
国会が
審議されるような
感じになっておりますけれども、しかしながら、
国会というものは、この
検査報告中心主義がむしろいけないのじゃないか。もっと自由な、変な言葉でありますが、もっと
国民的センスと申しますか、そういう
立場に立つ御
批判が、
国会の
常任委員会である
決算委員会の
審議の
中心であってしかるべきじゃないか。もちろん
憲法にもございますから、
検査報告というものを一通り聞きおかれることは必要でありまするし、それを省けという
意味ではございませんけれども、ただいま
検査院がやっておりますような
不法、不当、
予算の
目的外流用とか、こういうような問題をチェックするためには、やはり
検査院のような
機構が適当でもあり、
機構によらなければできないのでありまして、この面に徹底いたしますと、
憲法を変えまして、
検査院を
決算委員会の
下部機構か何かに持ってこない限り、無理ではないか。むしろ、それ以外の面におきまして、
決算委員会がやる、
国会らしいと申しますか、
国会の構成にふさわしい
立場におきまして、大局的に御
批判いただいてしかるべき部面が相当ありやしないか。その
意味から、
検査院の未
確認事項等にも、そうこだわられる必要はないのじゃないかという気も実はするのであります。これは
一つの思いつきでありますが、たとえばある省の
予算の
使い方が非常によろしくなくて、
検査院から絶えず毎年大きく
批難事項があげられておるが、一向に改善の
実績もない、こういうふうな場合には、私は、
決算委員会の
決定によりまして、ある省の
予算でもいいですが、
一定の範囲に対しまして、
事前監査制度を設けるというふうなことも考えたら、おもしろいんじゃないかという気がするのであります。要するに、ある省の
予算の
使い方が非常になっておらぬということになりましたら、二、三年なら二、三年、
一定の期間を限りまして—これは深く
検討しておりませんけれども、
法律上もできそうに思うのでありますが、
会計検査院からある
検査官なり何なりを派遣いたしまして、そうして
事前の
監査、
事前のチェックがなければ支出できない、こういうようなことを
一定期間行なわせる、こうなりますと、これはいわば準禁治産ですか、そういうところに置かれるわけでありまして、その省としては非常な侮辱でありますから、いやでもおうでも改善されるのではないか。形式的にしかられたのでは、おおむねしかられるときには当事者はいないということになりますので、いずれかというと、軽視される
可能性がありますが、累年続きまして不成績のところには、そんなことをこれは政令をいじくるくらいでできるのではないかと、深く
検討しておりませんけれども、そういう
感じもいたします。また、
検査院の
検査は、申すまでもなく
不法、不当ということになりますので、どうしても形式的な
検査に重点が置かれてしまいます。しかし、むしろ
決算委員会は、いい
意味におけるといいますか、政治的な
審査が加わってよろしいんじゃないか。すなわち、いわゆる
国民的センスにおいて
税金がいかに有効に使われたか、こういうことを大局的に追及される面がもっと
中心となっていいんじゃないか。たとえば、
決算の形におきましても、
検査院の
検査におきましても、この金がいつ出たか、時間的な問題は、ほとんど取り上げられておりません。私かつて
地方財政を
全般的に
検討させられる
経験を持ったことがあるのでありますが、国の
補助金などは、その点非常に妙なことになっておりまして、時期を失する例が非常に多いのであります。そのために金が死んでしまう。こういう問題などは、やはり
国会でお取り上げになるのが一番適当だろうと思うのであります。また、
予算総則なりあるいは
財政法なりによりまして、現在の
予算は相当
移流用が認められておりますが、そのために、いろいろ当初の予想とは変わった形で金が出されてしまう実態も少なくないと思うのであります。これはもちろん
不法でも不当でもありませんけれども、しかしながら、そういう面も、やはり金を経済的に使うという
意味からは、追及さるべき
一つのポイントではないかと考えます。またさらに、ちょうど
農業改良法には、さすがにアメリカさんの指示のせいですか、
決算に必ず
経済的効果をくっつけて出せ、こういう
条文がくっついているようでありますが、こういったことなども、もっともっと
全般に広めてよろしいのではないか。
決算は、どうも二、三年おくれますので、その
意味から励みがないという声も承りますけれども、たとえば
災害復旧であるとか、
食糧増産であるとか、その他いろいろ重要な費目につきまして、ここ二、三年を並べて
判断する。結局金の
使い方が大きくなったが、
効果がそれに正比例しているか、
失業者の数は減ったか、ふえたか、輸出の振興はどうなったか、こういった大局的な
立場から
批判を加えるためには、二、三年おくれている方が、
実績をつかんだ上で現在の状態を押える
意味で、かえって
効果的なような気もするのであります。さらに
一般の
行政面におきましても、消防にしても、警察にしても、税務にいたしましても、そういうふうな際における
役人の数、あるいは
庁費、こういったものが、この何年間に一体どうなっておって、そのために
行政の成績、
効果はどうなっているか、こういったような問題こそ、
決算委員会で強く取り上げられまして、
政府に対して
警告を発せられ、結局それがその後における
予算を組む
一つの最も有力な
資料になる、こういうためには、私は、今
行政管理庁がやっております
行政監察の結果なども、十分御活用いただいていいのではないか。また、
行政監察の上に、そういう
意味における御
注文をつけられることも、
一つの
方法じゃなかろうかと思うのであります。
予算執行後のことはすべて
決算委員会の御担当でありますから、そういう点につきまして、必要に応じまして、
随時現地も視察されまして、大局的に私は、
会計検査院の
検査報告というものはむしろたなにしておいて、そういうような
経済効果、
行政効果、国費というものがどのくらい有効に使われているか、要するに、古い時代と比べ、また戦後における何年間と比べ、それが年々能率的に向上しているか、低下しているかということにつきまして、
各省に強い
警告なり御
注文なりを発せられ、またそれによりまして、そういう不成績なところは、
あと予算をふやさぬ、こういうことまではっきり言われますれば、これは、いやでもおうでも、
各省ともハッパをかけられると思うのであります。妙なふうに発展いたしましたが、
国民的な考えから、
国民の一人として
決算委員会にお願いするとすれば、そういう点に、むしろ、大きく問題をお取り上げいただくことをお願いしたいように存じます。
以上、口述を終わります。