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大塚参考人 大塚でございます。主として
安全審査機構についての
意見を述べよということでございますので、それにつきまして、日ごろ私の考えておりますことを、できるだけ腹蔵なく申し上げてみたいと思います。
初めにお断わりをいたしますが、私のきょう述べます
意見は、すべて私の個人的な
意見でございますから、そのようにお含みを願いたいと思います。
原子力に関する安全
審査、つまり、具体的にいえば、
原子炉なら
原子炉の
安全性を確かめるという
仕事が非常に大切であるということは、ここで繰り返す必要もないことでありますけれども、その安全
審査をいたします場合に、どういうことが大きな
問題点として出てくるかということを二、三あげて、できるだけ具体的に考えてみたいと思うわけであります。
まず第一は、安全であるかどうかということを、何をよりどころにして判定するかという問題であります。つまり、実際の
審査をいたします場合に、いわば、ものさしに相当するような
幾つかの数字的な基準が用意されておりまして、その基準に照らし合わせて判定をする必要が出てくるわけですが、その数字をどういうふうにきめるかということの前に、どういう基本的な
考え方に立ってこの問題を扱うかという、基本的な
考え方を打ち立てるということの方が先決であります。その基本的な
考え方というものは、どなたかが、ただおきめになったというようなものでは、やはり安全
審査の場合には不十分なのでありまして、できるだけよく討論をして練り上げる、しかも、その討論の過程なり結果なりの段階で社会的にも広くそれが認識され、理解されていなければいけないわけです。こういう基本的な
考え方に立って
原子力の安全
審査が行なわれておるのだということが広く理解されていない限り、どうしてもその結果に対して十全な信頼は得られないということになると思います。ものさしに相当する数字の方は、
わが国の場合には、
外国の数字を借りるということは、実に抜かりなく行なう習慣が多いわけですけれども、基本的な
考え方を練り上げるという点については、
わが国の場合、実に不活発ではないかと私は考えております。にもかかわらず、逆に、
日本の場合には、
御存じのように人口の密度が非常に高い、しかも、地震のことをいつも念頭に置いて
安全性を考えなければならない、そういうふうな理由によりまして、特に大規模な
原子力発電所の場合には、その立地条件という点で、諸
外国に比べてきわめて不利な
立場にあるわけであります。しかも、
わが国の場合には、敗戦後、講和条約のできますまで
原子力の
研究は禁止されておりましたために、
原子力の
研究、
開発というものは、
わが国の場合、歴史が非常に浅い。しかも、一たんスタートしたからには、先ほどからも何度か話がありましたが、できるだけ早く追いつこうということで、主として輸入にたよりながら急激に
開発、利用を進めつつあるわけであります。つまり、経験に著しく乏しく、歴史の浅いところへ、しかも、急速に
開発しなければならないという
事情があるわけでありますが、
安全性という点から考えますと、これは一番不利な条件にあると思います。立地条件が不利であり、かつ、そういうふうに歴史の浅い、経験の乏しい中で、どうしても早く物事を進めなければならないという
安全性の
立場から見ての不利な条件、それを考えてみますと、やはり、
わが国の場合には、よその国以上に安全
審査の問題については神経を使うべきでありますし、よく討論をすべきであると考えるわけであります。たとえば、去年の七月に
コールダーホール改良型
原子炉の設置に伴う安全問題に関する公聴会というのがございましたが、私が公述人として参りまして申しましたことの
一つに、
原子力委員会の安全
審査の体制があまりにも無原則過ぎるのではないかということを申しました。それは、ある
一つの場所に潜在的な危険性を持つ
原子力施設を集中するということから生ずる公衆の危険の可能性のふえることについて、どのあたりまでがはたして妥当な限度だと考えるのかどうか、
原子力委員会は一度も明らかにされたことはないのではないかということを申したわけであります。この問題につきましては、いまだに私ははっきりしたお答えを聞いておらないように思います。一カ所に集中することからくる利益というようなことは、私もよく
承知をしておりますけれども、しかし、一カ所に集中したことからくる公衆の側の危険性の増大をどう考えるかということについて、基本的な
考え方がいまだに打ち立てられておらないように思うわけであります。
それは一例にすぎませんけれども、いわゆる
原子力時代に入りまして、
原子力発電にせよ、あるいは放射性アイソトープの利用にせよ——アイソトープの利用の場合には、産業面への利用もございますし、医学的な診断、治療の方向への利用もございますが、人間社会がそういう面から受けつつある利益は非常に大きいということは、よくわれわれも認識するところであります。ですから、その活動を停止するというようなことは決して考えられない。けれども、そういうふうな利用面が増すにつれまして、より多くの人々がより多くの放射線を浴びるようになる。そのために放射線による身体的障害、つまり、その人の一生の間にからだに故障が起こるという障害の問題や、その子孫までに故障が及ぶ遺伝的障害を問題にしなければならなくなるわけであります。
原子力発電事業やアイソトープの利用が将来広がれば広がるほど、人間の集団全体を守るための手段が必要になってくるわけでありまして、その場合には、特に遺伝的な障害が問題の中心になると思います。そこで、だれしも考えますことは、そういう
原子力利用のプラスの面、それに伴う、どうしてもつきまとう放射線障害のマイナスの面等を考えて、そのバランスをとったところで物事をやるべきではないかという考えがだれしも浮かぶわけであります。けれども、この
考え方自体は、もちろん正しい
考え方で、健全な
考え方でありまして、反対する方はおらない、平和利用に関する限りおらないと思うわけでありますが、実は、世界の現状は、このバランスの勘定ができるほど知識が発達しておらないのであります。これは
日本の例ではなくて、世界的な権威を持っております国際放射線防護
委員会、ICRPと略されておりますが、このICRPの一九五八年の勧告の序論の中にも、はっきりとそういうふうに書かれております。そういう現状の中で、しかし、利用面をやはり進めなければならないのだという事態におきまして大切なことは、結局、現在の学問の知識と、それから慎重な
立場をとりながら導いてきた推論とに基づいて、職業人なり一般大衆がそれぞれ、このあたりの線までは放射線を浴びることは十分がまんできるだろうという線を引く、その範囲内で利用面を推し進めるという方向をとらざるを得ないわけであります。
わが国の場合にも、そういう原則的な
立場の点では、今申しましたことの例外ではございませんで、特に、
わが国の場合には、ICRPの勧告をすなおに受け入れる、これは今までそうでありましたし、今後もそうであろうと思うわけでありますが、その点では非常にけっこうだと思われるわけであります。その場合に、どこでがまんをするか、そういう線をICRPにだけたよっておるわけには残念ながら参りません。それは、ICRP自身もそういう基準のすべてを明らかにしてくれておるのではございませんでして、肝心かなめの最後のところは、やはり
各国々々によって
事情も異なることでありまして、最終的には、その国でそれぞれ
責任を持ってきめなければならないということをはっきり言っておるわけであります。
御存じのように、
わが国の場合には、実際的な
仕事は
原子力委員会の下の安全基準部会がそういう
仕事をしておられると思いますが、この部会のこの面での活動が今まであまり活発ではございませんでしたために、どうしてもおくれがちになっておるという印象を与えてきたかと思います。そういう、どの線で職業人なり大衆ががまんをするか、あるいは、もう少しはっきり申しますと、その線
程度であれば十分がまんができるのではなかろうかという線を引く場合の問題として一番困りますことは、万一の事故の問題であります。その事故による災害をどう扱うかという問題であります。何事も予定通り正常に動いておる限りにおきましては、先ほどから何度か引用いたしました国際放射線防護
委員会の勧告に従うということで、大体物事は片づきますが、そういう事故時の問題、緊急時の問題ということになりますと、ICRPもまだ手をつけ出した
程度でありましてどうしても
わが国は
わが国なりに頭をひねって答えを出していかなければならないわけであります。しかも、先ほどからこの問題のむずかしさを少しお話しをしたつもりでありますが、だれにやらせても簡単にすぐ答えが出るというような問題ではない問題に、どうしても答えを出さなければならないというところが、今の一番むずかしい点であります。
これにつきまして私が
参考のために申し上げたいことは、イギリスにおきまして一九五七年の暮れにウィンズケール
原子炉の事故がありましたことは、皆さん御
承知の通りであります。それによって公衆に損害を与えたわけでありますが、その場合には、
原子炉の事故、つまり、
燃料が化学的に燃え出したわけでありますが、その消しとめる措置が非常に適切でありましたために、あの
程度の被害でおさまりました。その
意味では処置が非常に正しかったために結果が好運であったといえると思いますが、それにこりまして、イギリスの
原子力公社と訳されておりますアトミック・エナージー・オーソリティがイギリスのメディカル・リサーチ・カウンシル、医学
研究協議会とでも訳すそういう
組織に諮問をいたしまして、事故による緊急時の大衆の受ける線量がどの
程度までなら容認できるものかという点を問いただしたわけであります。その問いを受けまして、イギリスの医学
研究協議会の下の電離放射線に対する防護
委員会というところが作業をいたしまして、ある線を引きまして答申をいたしました。その線は、総体的に申しまして、きわめて慎重な側に立つものだといっていいと思いますが、国際放射線防護
委員会もまた、医学
研究協議会の出しました線を、この問題の有益で、かつ健全な解決への道と考えるというふうにいっております。私の申し上げたいことは、実は、この医学
研究協議会の勧告の中に、こういうことがある。それは、事故によりましてイギリスの全人口の五十分の一——イギリスの人口の五十分の一と申しますと約百万人でございますが、それに比べて少ない人数の人がかなりの放射線を浴びた場合——かなりと申しますのは、原語ではシグニフィカント・エクスポジュアと書いてございますが、そういう場合を仮定いたしまして、
幾つかの線を出しておるわけであります。そうなりますと、
原子力開発を担当している側の人間から見れば、百万人に比べて少ない人数などという、大げさなことをなぜ考える必要があるのだろうかという主張が出てくると思います。百万人に比べて少ない人数というものは、もちろん、二人か三人もそうでしょうけれども、やはり五十万人というような感じ、あるいは何千人という感じがこの中に含まれるわけであります。
原子力の
開発利用を担当して、これを推進している側の人間にしてみれば、われわれがこれほど慎重に安全の対策を考えてきている、設計にしても、建設にしても、運転にしても、保守にしても、これだけおれたちは真剣にやろうとしているのに、なぜ百万人に比べて少ないというような大げさなこと、大災害を考える必要があるのだろうかというふうに思いがちであります。また、実際、逆に、そういう
原子力開発利用を進める側の
立場の人が、かりに全人口の五十分の一、あるいは百万人より少ない人数というものを対象にして考えたなどということを口に出したりいたしますと、たといそれが全くの仮定の上のことなのだと弁解をいたしましても、世間はそうはとりませんで、それ見ろ、あいつらは非常に危険性のあることを
承知の上でああいうことをやろうとしているのじゃないかという疑いを生み出すわけであります。だからといって、今度は逆に、それでは
開発利用を推し進める
立場の人たちが、かりに、たかだか何百人なら何百人でもけっこうでありますが、どんなにころんでも何百人以上には影響は及ぼさないのだと言ったといたしましても、それに基づいて大衆の容認すべき線量を引くというような作業をいたしますと、今度は逆に、国民の側は
承知ができない、信用することができないわけであります。つまり、大事なことは、大衆の、あるいは従業員も含めてでありますが、それが容認する、そこまでは許すという線というものは、その人たちの健康を守る
立場にある人々なり、
組織なりが作業をして基準をきめ、これを勧告して初めてうまくいくわけであります。昨年イギリスからファーマーという人が
日本にやってきたことがございます。私は、残念ながらその方にお会いするチャンスを持てなかったのでありますが、人づてに聞いた話では、彼は
原子力公社の中で安全を担当しておる人間でありますけれども、この緊急時の基準の問題につきましては、医学
研究協議会の基準を紹介いたしまして、それを批評することさえ決してしなかったと私は了解しております。つまり、それに従って対策を考えるという一貫した
態度を彼は持っていたと思うのであります。ところが、
日本の場合を申し上げてみますと——先ほどから、
委員長から忌憚のない
意見を言えということでありますので、申し述べるつもりなのでありますが、
原子力委員会の安全基準部会の下に
一つの小
委員会がありまして、そこで緊急時の大衆の容認すべき線量を扱っておられるわけでありますが、この件につきまして放射線審議会の方へ諮問をされました。そこで放射線審議会の方では、それを受けて作業をやる
グループをお作りになったわけでありますが、諮問を出した側の基準部会の小
委員会の
委員長が、諮問を受けて作業をする側の
グループの有力なメンバーとして入っておる。つまり、自分がボールを投げておいて、ボールより早く走っていって、またそのボールを受けて投げ返す、そういうふうなことをしようとしておられるようにお見受けいたします。これは、私は決してその人個人を問題にしておるのではございません。むしろ、その個人の方は、かえってそれは非常な迷惑であろうかと思うわけでありますが、私の申したいことは、そのような体制の
あり方に反省すべき点が多々あるのではないかということを申し上げたいわけであります。イギリスにおけるファーマー的な
立場に相当する
日本の方が、イギリスにおける医学
研究協議会がやるべき作業に相当する作業にまで入っていかれるということは、どうも私としては納得が参りません。つまり、大切なことは、見かけの体裁を整えた体制ではなくてこういうことをやれば大衆は信用するかしないかということをあらかじめ念頭に置いた、きめのこまかい、神経の行き届いた体制をおとりになるべきであると考えるわけであります。安全
審査が公正でなければならないことは申すまでもありませんけれども、公正ということは、公正だ、公正だと叫んでみても何らいい結果は得られないのでありまして、だれが見ても、なるほどと思うような公正な
やり方のできる機構と、そう思われるだけのりっぱな作業の進め方をしなければならないのではないかと思います。いかに個人的に誠実な人間が
仕事をしてみたところで、こういう問題につきましては、やはり機構と作業の進め方ということが正しくなければ、結果はいいものにはならない、信用されるものにはならないと思うわけであります。安全
審査の公正ということを述べましたことに関連いたしまして申しますと、
わが国のこの前の
コールダーホール改良型炉の経験によりますと、資料の公開ということをめぐってたいぶ紛糾したと思います。
学術会議を通して資料の公開を要求、お願いをいたしましたが、ほとんど必要な期間中には見るべき結果は得られなかった、そのために無用な摩擦を生じたという印象を持っております。これは、
わが国の場合には何しろ初めてのことであり、しかも、肝心な部分が輸入によるものでありましたために、先方からの商業的秘密を守れというような事柄がからみまして、非常に処置に困られたのではないかということも重々察しておりますけれども、今後はそういう苦い経験を生かされまして、たとえば、
アメリカの
審査制度を見習われまして、よりよい資料の公開の原則を立てていただきたいと思うわけであります。
アメリカにおきましては、
原子力局でお作りになった資料を
参考にいたしますと、この安全
審査の場合の資料の公開ということや、あるいは公聴会の開催ということが、ずいぶん進んだ形ででき上がっておるように伺います。つまり、申請者の方から特別な要求のない限り、災害総合報告書を含む申請書がすべて民衆の閲覧に供せられるようになっており、公衆の閲覧を差し控えてほしいという部分があれば、その理由をつけて出すべきなのであります。そして、
原子力委員会がその理由を検討いたしまして、資料を公表することが公共の利益から要求されない、しかも、かえって利害
関係人の利益をそこなう可能性があると
決定するに十分な理由がある場合に限ってのみ一般の閲覧を避けることができる、それ以外には、原則として一般の閲覧ができるようになっておるわけであります。そういうことをぜひ取り入れられまして、無用な摩擦を避ける努力をあらかじめよく御検討下さって、機構を打ち立てていただきたいと思うわけであります。
それから、もう
一つの点は、
安全性一を確保するという問題は、非常に長い期間にわたって根気の要る
仕事でございます。もちろん、そういうことも皆さんよく御
承知のことではございますが、設計、建設、運転、保守のすべての段階で、いつもいつも慎重な
考え方と慎重な処置をとっておりませんというと、
安全性は確保できません。
安全性というものは、事故を起こしますと、とやかく非難を受けますが、事故のない間は、それほどみなからほめられるわけでもなし、賞讃されるわけでもない、非常にじみな
仕事であり、しかも、この施設の最後の瞬間に至るまで、よくそのめんどうを見ませんと、いつ事故が起こるとも限らないという、非常に根気のいる
仕事でございます。けれども、
わが国の場合に、安全
審査の機構が、まだそういう長期間にわたる
安全性を見守っていく機構にはなっておらないように思います。一度手をつけた
原子炉の最後まで安全を見届けていくということを、今のままの安全
審査部会にやらそうというのでは、今の部会の機構からいって、あまりにもお気の毒であります。けれども、国民の側からいえば、だれかが、どこかの公正な機関がその
仕事を持っておって、長い期間にわたって安全を見続けていくということをやっていただきませんと、安心がならないわけであります。そのことは、決してその事故が起こった場合の
責任の所在を明らかにして、そこを処罰するというようなけちな量見から出ていることではありませんで、
安全性の確保ということは、本来そういう形であるべきであると思うわけであります。つまり、ある機関が作業して、その結果は、ある
程度文書に残して次に回したと申しましても、そういうことでは、やはり
安全性は確保できなくて、やはり、もっときめのこまかな安全の監督の仕方、監視の続け方をできるような機構を用意されるべきではないかと思うのであります。
学術会議では、先ほど
向坊さんからのお話にも出ましたように、ことしから
原子力の
研究、
開発長期計画に関する一連のシンポジウムを用意いたしまして、近く第二回目を開催いたしますけれども、そのときには、
わが国の
原子力組織の
あり方について少し扱う予定になっております。私の考えによりますと、きょう私に与えられました問題であります
安全審査機構ということについても、もっと広く、
原子力委員会の
あり方全体にまでさかのぼって考えませんと、十分な答えは出てこないのじゃないかと考えておる次第であります。
私の用意いたしました
意見はこれだけでございますが、先ほど私に対する御質問がございましたので、それについてつけ加えさせていただきますと、まず、
一つは、
原子力委員会の
あり方の問題でありますが、
原子力委員長は
原子力委員会の
責任者であるばかりでなく、一方において国務大臣であるということで、つまり、行政の
権限を持っておられますが、
あとの
原子力委員はそういう
立場にはございません。私は、
原子力委員会は
諮問機関であると了解しておるのであります。にもかかわらず、
原子力委員の方々が、
日本の
原子力の基本的な方針なり、大きな
計画について所信を明らかにされた例がないように思います。そういうことでは、
日本の
原子力をまとめていくという
仕事はとてもできない。これが純然たる役所である場合には、その
立場にある人がいろいろ抱負を述べたり何かするのは差しさわりがあるかもしれませんが、
原子力委員というものは、もっと先を見越して、自分の
意見をおおらかに述べる、そうしていろいろの
意見を聞くという
態度をとらなければならない人たちではないかと思うわけであります。たとえば、
長期計画の問題にいたしましても、
長期計画はある
程度内輪でお練りになって、それを案としてお流しになって、形式的に
意見を求められるというのでは不十分でありまして、大切なことは、練っていく途中の段階で広く
意見を聞き、討論を重ねるという点にあろうかと思います。でき上がった最後の印刷物は、記録としては貴重かもしれませんが、そのこと自身にはそれほど大きなウェートを置くべきではなくて、その過程に持っていく途中の皆さんの話し合い、討論をまとめ上げていくというところが一番の眼目であるべきだと思うわけであります。
もう
一つの問題は、
日本の
産業界の
グループの数が多過ぎるがどうかというような御質問、及び
発電計画をどうするかというような御質問があったかと思いますが、そのいずれにつきましても、私が申し上げたいことは、もっと広い討議をすることであります。
原子力委員の方々が、日常非常に御多忙のようではありますが、そういうことよりも、もっと気軽に外のシンポジウムなり討論会に出られまして、じかにその問題を扱っており、考えておる人たちの
意見に触れる、そうして
意見を交換するということになっていただきたいと思うわけであります。先ほど、
向坊先生も分担と
協力ということを強調されたと思いますが、私もまた、その点では非常に同感であります。それは、どこかで話をつけておいて、それを強制するというのでは決してなくて、それをやる人たちが話し合いをした上で、それをやっていくという体制になっていただきたいものだと思うわけであります。どうもありがとうございました。