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三宅委員 こういう重大な問題を国防
会議にもかけずに出先で発表されることは、私は少なくとも不謹慎だと思います。これだけちょっと言っておきます。防衛庁長官にはあとになって相当お伺いする点がありますので、おっていただきたいと思います。
次に、私は安保条約改定の
方向はいかにあるべきかという大局論につきまして、四、五の点について
質問をいたします。
第一は、日米安保条約ができた事情をどういうふうに了解しておられるかという点であります。一九四八年、
アメリカは従来のモンロー主義、中立主義を放擲いたしまして、安全保障取りきめ政策に転換をいたしました。その際に上院においてバンデンバーグ決議というものがなされたのであります。その背景をなしたものは、当時における、ベルリンにおける封鎖であるとか、朝鮮戦争等の冷戦がいつ熱戦に転化するかわからないという情勢であったと思います。この
アメリカの政策の変化がすぐ
日本に影響いたしまして、
米国は従来
日本を非武装中立主義でやろうという方針をとっておりましたのを改めまして、当面
日本とドイツを目標に、早く平和を与えて独立させ、再軍備させて、
アメリカの率いる民主陣営の防衛体制の同盟者として迎え入れようとして、一九四九年から対日平和に動き出したことは御承知の
通りであります。従って、
米国側といたしましては、平和条約を結ぶとともに
日本に再軍備をさせ、その上で、バンデンバーグ決議による二十五条の双務的安保条約を八年前に結ばせたかったのが
アメリカ側の底意であります。この
アメリカの希望に
日本は反抗いたしまして今日に至ったのであります。それを八年後、岸さんが今
アメリカの希望をかなえさせる役割をになっておられますが、
歴史の皮肉は、もう一ぺん八年前の中立主義の方が
世界の情勢から見て
日本の安全にもよろしいという転換期にあたって、時代錯誤な軍事同盟強化という役割を
アメリカの希望に即してやっておられるということは、私は
歴史の皮肉であると
考えておるのであります。こういう状態に対しまして、当時の吉田
総理は、頑強に再軍備、憲法改正に反対されたことは、私は吉田氏の骨のあるところだと存じます。骨の髄から親英主義の政治家といたしまして、日米戦争に反対をして憲兵隊に引っぱられたのでありますが、
アメリカが中立平和主義の憲法を指導しておいて、そうして国際情勢が変わったからといって、今度はそれを急に憲法改正、再軍備の線でバンデンバーグ決議による軍事同盟に引き入れようとしたことに対しまして、吉田さんが反抗いたしましたその骨は、私はさすがに吉田さんだと思いまして、吉田氏の高弟である佐藤氏にしても
池田氏にしても、私はそのいいところだけは引き継いでもらいたいと思うのであります。その再軍備の拒否にあたりましては、四つの理由をあげて吉田
総理は拒否したのであります。第一は、
日本の経済復興がまだ十分でないということであります。第二は、今日の
日本には今再軍備をやれば軍国主義が復活する危険性があるということであります。第三は、
日本の再軍備を近隣諸国が容認するようになってからにしなければならぬという点であります。第四は、憲法上こんなことはできないという点であります。以上の理由によりまして、
アメリカ側が、ダレスも何べんも来た、それからその他の使節団も来た。これに頑強に反対をいたされました結果、結局最後にマッカーサー元帥のもとで、
アメリカの使節団と吉田
総理との論争となって、マッカーサーは御承知の
通り東洋のスイスたれと言った建前もあって、
日本の言うことの方が妥当でしょうということで、
日本側に軍配を上げた。これがために、ダレス使節団としては、平和条約を与えることによって
日本に再軍備の決意をさせたいという第一の目標が不可能になって、非常に失望落胆したという事実は、岸さんも御承知だろうと存ずるのであります。そこで再軍備を拒否いたしまして平和条約を結びまするために、
日本の安全保障について吉田
総理は注目すべき二つの案を外務省において作らせられたのであります。
一つは、一九五〇年十月米策の駐留を認めるということによって
日本の安全を保持する場合の条約は、どういう条約にしたらいいかということを作れということを当時の西村条約局長等に下命されたのであります。それからしばらくたって、十一月に
日本と朝鮮を完全に非武装化して、その周囲に非常に広い範囲を限り、その範囲内では、米英中ソ四大国が常時配備しておる陸海空軍をある
程度凍結することによって西太平洋の安全をはかるという
趣旨の条約案を書けと命令せられたのであります。
日本の憲法をそのまま生かし、われわれが今やっておるようなその米英中ソ四大国の
日本を取り囲むところの軍備
計画をある
程度その区域を凍結さして、朝鮮と
日本を非武装朝鮮、非武装
日本にしようという案を講和条約のときにこれを安全保障の道として
考えられたのであります。以上の
歴史的事実の前にわれわれは講和条約締結当時の吉田氏が再軍備、憲法改正の押しつけに抵抗、反対された苦心の跡を知りますとともに、
日本の安全保障についても、非武装地帯案をも用意せられました事実に注目しなければならぬと存ずるのであります。少なくともステーツマンシップを持った政治家吉田氏の脳裏にひらめいた非武装地帯案と精神が、水爆時代の今日また深く
考えに値する
一つの案であるということは確かだと思います。とるとらぬは別でありますけれども、
一つの大きな案であるとして再登場してきた。時代がこういうふうに動いてきたということは、私は
歴史の
一つのおもしろさだと思います。さらに
昭和二十五年六月二十五日に朝鮮戦争が始まりましたが、極東
委員会はその一年前の
昭和二十四年の夏ごろまでは、極東
委員会を構成するソ連をも含めました十一カ国との全面講和をめどにいたしまして、平和条約では
日本の戦争放棄と非武装化が再確認せられ、
日本は十一カ国の共同保障のもとに中立国になるという想定が
中心になっておったのであります。すなわち平和憲法を守り、中立の
立場で
日本の安全を
考えるか、基地提供の
方法によるかという大きな悩みの上に、やむを得ざる悪と
考えて吉田氏は後世史家の批判をも甘んじて受け、
責任を負うつもりをもって、講和条約の調印には、ここにおられます
池田氏など全権団六、七人で調印されましたが、安全保障条約は吉田氏の一人の
責任において吉田氏一人が調印したという事実は、私は
日本を中立非武装でいくか、あるいはやむを得ざる悪として基地提供的な安保条約でいくかといって吉田氏が悩まれた姿が、あそこに象徴せられておると私は思うのであります。
以上の安保条約成立の過程を顧みますときに、改定の
方向は、ある某紙の社説が指摘しておりますが、この四点を岸さん
考えてもらわなければいけません。第一は、新たな防衛義務を双務条約という名のもとに負わせられる。双務性の運用に対する憂慮を取り除かなければなりません。第二は、今や安保条約はその役割を終えて次第に姿を消すべき
段階に来ている。この日米の結びつきは、軍事的にはこれをゆるめ、経済的にはこれを緊密化するという
方向でなければならないというのが第二点であります。第三点は、
日本側の
国民全部が求めているものは
日本の安全であります。
アメリカ側は、
日本の安全のほかに極東の平和を守るというその課題をこの条約に期待しておるのであります。極東の平和を守るというのは、
日本の外で
アメリカが行動することであります。
日本が安保条約に
一つの
目的を期待しておるのに、
アメリカ側は二つのものを求めておる。しかもその
一つは、ときに
日本を期せずして他国の戦争に巻き込む危険を持っておるということであります。これが第三点。第四点は、
日本の安全が保障されるだけでも、
アメリカにとってはその広義の安全保障に資するものであります。安保はそれが必要がなくなるための暫定的なものでなければなりませんという
立場に立って、
日本は平和政策を推進すべきであるというこの四つの点を、社会党の
立場でありません、有力なる某紙の社説が指摘しております。
以上は良識のある
国民の声であるとともに自民党の多くの心ある人士の指摘している
方向であると私は信じます。吉田
総理などの苦心からその経過、そして軍事科学の発達、国際情勢等をながめて、私は少なくともこういう
方向に持っていく感覚であって、これを具体的に言えば、取り消されたけれども藤山さんなどが初めに
考えられた
方向が、保守党としても少なくともとられるべき
方向であると信じます。
政府の
所見を伺います。