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伊關政府委員 最初にお断わり申し上げますことは、先方も
資料が不足と申しておりますし、私の方も
戦争でいろいろな
資料がなくなっておりますので、両方とも不完全な
資料に立って
検討いたしておるということでございます。ただし不完全な
資料ではございますが、ここに一例として差し上げてあるわけでございまして、こうした一例としての
資料を見ましても、鶏三羽に二百億というふうなものではないということが、おわかりいただければいいんじゃないかというふうな
意味でこれを差し上げているわけでございます。
最もわかりやすい例をとりますれば、この
輸送というものが
米軍の爆撃によって、海上も陸上も
主要交通機関というものは断たれた。要するに
南北の
輸送が途絶しました。その結果としまして、南からは北に大体常時十万ないし十五万トンの船が行っておるわけでありますが、これが行かなくなった。その他不作もございましたでしょう。
日本軍が調達をしたということで、北では
餓死者が出ております。それから南におきましては、今度は北から
石炭がこないというふうなことで、電力、
火力発電に困るというふうなことが出たわけでございます。また
日本軍は三月九日の作戦以後は、その残されたあらゆる
運輸手段というものを徴発して軍用にいたしております。そこで
一般の
経済、民需の
関係というものはほとんど物が動かない。
経済が完全に麻痺したというふうな現象を呈しておるのであります。そういう結果として非常に大きな
経済上の苦痛を与えておるわけでございます。たとえばそれらの一例をとりますと、米にいたしましても、平年ならば大体
白米にいたしまして百四十万トンくらいのものを
海外に出しておったわけでございます。これを値段にいたしまして
トン当たり百十ドルといたしますれば、大体一億五千万ドルくらいの米が出ておったわけであります。これが終戦の年になりますと、わずかに五万トン以下しか出ておりません。ここの
数字はもみでございますから、これを
白米に換算いたしますと、六割五分くらいにとるわけでございます。そういたしますと、たとえば米にいたしましても一億五千万ドルのうち、
戦争がなければ、
南部の
サイゴン以南の
デルタ地帯が米の主要な
生産地でありますから、そこでもって
農民に一億五千万ドルくらいの
収入が入ったわけでありますが、それが
戦争のために全然出ておらぬというふうな結果を来たしております。もちろん
日本軍としましては、進駐以来ずっと大体七十万トンくらいの米を買っております。
最後の年にどれくらいの米を買いましたか、はっきりした
数字がございませんが、七十万トン買ったといたしましても、残りの八十万トンというものは、あるいは売れないということを見越して
生産をしなかったか、あるいは
生産をしましてもこれが売れないで持ち腐れになったかというふうなことで、少なくともその一億五千万ドルの半分くらいの
損害は
南部の
農民が負っておるわけでございます。また
ゴムが出ておりますが、
ゴムは平年産が大体七万トン弱でありまして、これは全部
海外に売っておったわけであります。
最後の年を見ますと、わずか十トンしか出ておりません。
日本軍も多少は買ったかもしれませんが、こうした
ゴムを
トン当たり八百ドルと見ましても、五千六百万ドルという
ゴムの
収入が
戦争がなければあったはずであります。そうしたものが
戦争のためにこの
ゴムの
関係者のふところに入っておらぬ、ごく一例をあげましてもそういう
数字が出てくるのでありまして、われわれはその他の
資料がございませんが、
資料があったといたしまして、いろいろな
損害を
算定いたしまして、これが大きな
数字になります。結局
ベトナム側としましては、六年もかかって交渉した結果、三千九百万ドルの純
賠償が、大きな
損失額に対して何割にしかならぬということになりますれば、
ベトナム側は不満を抱くでありましょうし、また実際問題としましても、そういう
数字は出ないのでありますが、いずれにいたしましても、鶏三羽というふうなものではないのでありまして、
南部だけの例をとりましても、そういう大きな
損害があったということをおわかりいただきたいと思うわけであります。