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堀尾参考人 私は、ただいま御紹介を受けました
京都大学工学部の
繊維化学教室に勤めております
堀尾でございます。過日、
コールダーホール改良型発電用原子炉の
安全性に関しまして、
参考人として当
委員会に
出席するようにといわれたのでございますけれども、私は
原子炉の
専門家ではありませんし、また、
原子炉のことにつきまして多くを語る
資格がございませんので、実は、私は
参考人を御辞退したのでありましたが、その後、再び御
招集を受けましたので、本日は、顧みずにこの席に参ったのであります。
私がこの席に
招集を受けました
理由は、よく存じないのでありますけれども、おそらく、私が
日本学術会議の
原子力問題委員の一人であるためかと存ずるのであります。しかし、私は、まことに申しわけありませんが、熱心な
委員でもなく、また、有為有能な
委員でもありませんし、
専門的知識もありませんので、
参考人としての
資格に欠けていることを思いまして、非常に恐縮に思いますが、若干
意見を述べることをお許し願いたいと思います。
日本学術会議の
原子力問題委員会では、
御存じのように、名古屋大学の
坂田教授が
委員長をしておられるのであります。三年前に
学術会議の第四期が始まりましたとき以来、私もこの
委員会に関係することとなりまして、自来、
コールダーホール改良型発電原子炉は、この
委員会におきましては再三話題になって参りました。しかし、この
日本学術会議の
原子力問題委員会と申しますのは、これは、
坂田教授のような方もおいでになりますけれども、その他の大部分の方は、
原子力の
技術的専門家でないのでございまして従いましてこの
原子力問題委員会におきましては、
技術的な問題を専門的に論議するというふうなことは一ぺんも行なわれないのでありまして、むしろ、大局的な
立場に立って
政府が
発電用原子炉の問題に対して慎重を期して、間違いのないように処置されたいということを
勧告申しましたり、また、
技術者から構成されておりますところのあまたの
特別委員会と連絡いたしまして、専門的な討論の機会をあっせんするというようなことをこの
原子力問題委員会で行なってきたわけであります。
コールダーホール改良型原子炉に関しましても、こういうことをやってきたわけであります。
最近の事柄といたしましては、この十二月の三日に
原子力問題委員会が開催されたのでありますが、その席で、
原子力委員会に対しまして、
原子炉安全審査専門部会の
報告書が出されておりますけれども、
認可決定に至るまでには、なお学界の
意見を十分に聴取して万全を期せられたいということと、また、今後、
実施の
段階におきますところの
措置が
安全性を支配する
要素を含んでおるということから、この
報告書をもって事終われりとすることなく、今後十分責任の所在を明らかにして、ルーズに処理されないように留意願いたいということなどを
勧告することをきめまして、
委員長及び
幹事から
原子力委員会に伝達されたと承知しているのでございます。
今述べました点は、私も原理として賛成いたすものであります。ただ、私は、その際に、
委員長に対しまして、この
勧告は、現在審議されておりますところの
コールダーホール改良型原子炉の原案を破棄するとか、あるいはそれを白紙に戻すということを
前提としていないということを確認いたしまして、賛成したのであります。
原子炉安全審査専門部会は、各界の有力な
専門家の集まりではありますけれども、なお念を入れて、広く
意見を聴取した上で
決定に運ばれたいという旨を申した次第でありますが、十二月五日に
——もちろん、それまでにもいろいろ
意見を聞かれてはおるのでありますが、十二月五日には、
原子力委員会では
認可決定いたしたのであります。しかし、私は、今後に引き続きましても、できるだけ有為な
専門家の
意見を聞いて、念の上にも念を入れていただくことを希望いたしたいと思います。特に
原子炉の
安全性は、今後
実施の
段階における
措置に支配されるところが多々ありましてそのことは、専門
部会の
報告書にもあまた記載されているのであります。これは非常に大事なことであると思いますので、今後もできるだけ
——学術会議が申しておりますように、いろいろな有為なる
専門家の
意見を聴取されて万全を期せられたいと希望するのであります。これは、
学術会議の
原子力問題委員会の
委員の一人としての私の
立場からの
意見であります。
次に、私は、別の
立場から、自分の二、三の
見解を述べたいと思います。
私は、すでに述べましたように、
原子力の
専門家ではないのでありますけれども、今までに工業に関係のある
研究に携わって参りました。それから、まことにささやかではございますけれども、自分の
研究したことを工業化して、これを工業的生産に移した経験も持っております。そしてまた、ささやかではありますけれども、工場建設に対しましても関係した経験がありますので、非常に貧しい恥ずかしい経験ではございますけれども、そういう経験に立脚いたしまして、いま
一つ別の
立場から、若干私の感想を述べることをお許し願いたいと思います。
実験室の
研究で得られました理念を工業の生産に移すということは、これは並み大ていのことではないのであります。ちょっと筆紙に尽くせないいろいろな問題があります。実験室では、自分のところで行なっておりますので、自由な、勝手なことがききますけれども、工場の生産になりますと、機械というものは、ものを考える能力はありません。しかしながら、機械的に大量な、いわゆるマス・プロダクションをやるのであります。従いまして、実験室的な理念を、こういう機械生産の理念に現実にもたらすということは非常に苦心を払うところでありまして、さらに、そこへ持ってきて、それが安全に、また採算に合うように運行されねばならないという、幾つかの大きな問題が付随してくるのであります。それゆえに、自分の考えたことが、はたしてうまく工業的にできるものかどうか、その間、われわれは何日も何日も
専門家が集まりまして、非常に不安な気持になりながら、いろいろな論議をいたしまして、
一つの線が出て参ります。そういう線が出て参りましてからでも、なお、あちらを直し、こちらを直し、疑えば疑うほど心配が増してくるのでありまして、ときには、堂々めぐりをして初めの問題に戻ってきたりするのでありますけれども、そういう
段階におきまして幾ら
議論を尽くしましても、いまだかつて、これで完璧だというようなものには、論議というものはなかなかいかないようであります。ものにもよりますか、私
たちの関係して参りましたような事業におきましては、これはここまでいけば完璧だというように、
計画だけで決心のつくことは少ないのであります。おそらく、このままで
議論を続けていきますならば、いつ踏み切っていいかという時期の判定は非常にむずかしいことになると思います。そうしますと、結局、ものはやってみなければわからないというつの
段階に到達するのであります。こういうことを申し上げますと、えらい心細い、たよりないことでものを行なうなと申されますけれども、こういう工場を建設するというようなことには、やってみなければわからないというものが幾つか必ず出てくるのであります。そういう場合には、いきなり大きくやるか、ときには。パイロット・プラントを作りまして、つまり、大工業の中間のようなものを一ぺんやってみましてテストするということ、つまり、一ぺんやってみて、
計画の正確さを確かめるというような
段階を踏むこともあるのであります。こう申しますと、大へんたよりないことでものを進めると思われる向きもあるかとも思いますけれども、そもそも、エンジニアリングといいますものは、こういうような
要素をある
程度持っているものであります。私は、全部の者の
意見が完全に一致する、そして、その一致した
意見が完璧であるということを
一つの理想と思います。また、そういうようにできるものも多々あるかと思います。しかしながら、私は、そういうような理想というものにはなかなか到達しにくい部面もたくさんあることと思うのでありまして、実行
要素を持ったエンジニアリング、つまり、エンジニアリングは一ぺんやってみる、あるいはある
段階においてやってみる、しかし、それはその
前提となる周到な
計画に基づいておる、そして、それの運営は、まさに
実施段階における非常な苦心によってなし遂げられるというのが大体エンジニアリングの
立場であろうと思うのであります。
私は、
原子炉安全審査専門部会の
報告書を、怠慢ではありましたが、最近それを通読いたしました。現在の
原子力の学術並びに工業におきますところの知識経験をもっていたしますならば、これが
実施にあたって
措置すべく
保留された個所がたくさんあるということは、現在の
段階においては当然であると思います。
保留個所の全くない
報告書というものは、おそらく作れないのではないかと私は考えます。従いまして、大事なことは、重要なポイントを遺漏なくつかんであるということ、それから、原理的に実行可能な方法が見出されている、そういう原理が明らかにされておるならば、先ほど述べましたエンジニアリングの
立場からいたしますと、
実施の
段階において万全を尽くして、そして、りっぱなものに作り上げるというように、結局工業はなってくるのじゃないかと思います。その意味におきまして、私は、この
報告書が
実施段階における
措置に
安全性を付託している部門が多いがゆえに許可
決定資料としては不適格であるという
意見には、賛成しないのであります。一般エンジニアリングにおきましては、結局は、その理念の施行の上手下手にかかるところが非常に多いのであります。特に
原子力の場合には、先ほど
田島教授がおっしゃいましたように、
放射線による被害という、他の工業とは別な、非常に重要な
要素を含んでおる点におきまして、その意義はまた工業と非常に違うものがあります。それゆえに、
学術会議が申しておりますように、これらの
実施を通常の工業の通念によって処置するというようなことなく、
政府は、最高の機関においてその責任を持ち続け、また、この
報告書によって許可
決定がなされたといたしましても、さらにすぐれた
実施方法が発見された暁には、その発表をはばかることなくいたし、また、それに対して多くの
専門家の
意見をいれまして、それを尊重して事を進めていただきたいと思います。
次に、専門
部会の
報告書をめぐってずいぶん討論がなされているのでありますが、その討論につきまして一、二私の所見を述べたいと思います。
一般に、工業の施行において、これが安全であるという認可をする場合に、どういう
基準によっておるか。これは
原子力ではございませんで一般の場合でありますが、既存の工業におきまして、そういう工場を建ててもよろしい、そういうことを実行してもよろしいというところの認可は、どういう
基準によって行なわれているかと申しますと、それはエンジニアリングの
立場からいいますと、緊急事態が起こらないようにやっている。普通の工業常識では、緊急な事態が起こらないようにできているということが認可の重要な
要素になっております。従いまして、製作する側は、できるだけ事態が起こらないように、そこへ重点を置いて
技術的に努力する、それから
審査する側は、普通の工業的常識からいうならば、これでは
事故は起こらないであろうという観点に従いまして認可がなされるのであります。従いまして作る側としては、
事故が起こるということはもってのほかでありまして、
事故が起こるということは、すなわち、それは製作側の責任であります。切腹問題であります。従いまして、製作側の
立場は、
事故が起こらないようにすることに全力を入れておりますし、また、認可も、普通の常識では
事故が起こらないというところにおいて判定かなされているのであります。ところが、これを逆に、それにもかかわらず起こるというところに重点を置いて考えますと、これは事柄が非常に変わってくるのであります。どんなことでも可能性を数学的ゼロにすることはむずかしいのであります。
事故の起こるのは数学的にゼロである、そういうようにエンジニアリングをせよといいましたならば、いろんなことかほとんどできなくなると思います。
事故が数学的にゼロであるようなエンジニアリングをやれといいましたならば、これはなかなかできない。どういうような設計においても、必ずそこにはゼロでないところの危険性があるわけであります。そこで、大事なのは、焦点の合わせ方がどこにあるかということで、
議論が非常に違ってくるということです。つまり、製作側は、
事故が起こらないようにというところに重点を置いてものを考える。ところが、別の
立場からは、にもかかわらずゼロじゃないじゃないかというところに焦点を置いてものを考える。この
考え方の重点の置かれ方ということは、これは非常にむずかしい論議になって参るのであります。
こんな例はたくさんあるのであります。非常に下手な例かもしれませんが、わかりやすい一例をあけてみたいと思います。たとえば、エレベーターがありまして、エレベーターには許容重量というのがあります。許容重量の十倍の綱でつってあるということになりますと、これは一応は
安全性のめどができます。ところが、許容重量の十倍であっても、まだ切れることがある。破損することもある。破損した場合には、自動クラッチでフレームをはさんでエレべーターは停止する、そうすると綱は切れてもエレべーターは下へ落ちない、しかし、それでもまだ懸念があるというので、定期的検査をする、これだけのことをやれば、
安全性は百ではない、危険はゼロではないけれども、工業常識からいえば、もうそれで認可していいのではないかというところで、エレベーターの認可がなされるのであります。そういう場合に、われわれはエンジニアリングの
立場としては、そういう規格はありましても、いかにして
事故を起こさないようにするかというところに万全の努力を払うのでありますが、危険性はゼロではありませんから、もし焦点の合わせ方を変えて、にもかかわらず、綱が切れた、クラッチははさまない、エレべーターはどさっと下へ落ちる、今度は落ちるときを対象にしてエンジニアリングを考えたならば、これは非常に事柄は問題になります。つまり、非常に大きなエナージーを持って急速に落下してくるものを、人間に危害を与えないようなマイナスの加速度でそのエナージーを全部吸い込むようなクッションを考えなければならない。そうしますと、今までのエンジニアリングと全く別のエンジニアリングの考えを持ってこなければならないということになります。従いまして、現在の既設の工業におきましては、われわれが考えて、工業的に起こらないようなめどをもって
基準としているのであります。私は、こういう
基準の立て方に対しましては、自分の
意見もあるのであります。いろいろ
意見もあるのでありまして、また
日本としまして、こういう
基準の
研究は非常に重大だと考えておるのであります。しかしながら、
原子力におきましてはそうではないのでありまして、先ほどのエレベーターで言うならば、それが落ちる場合も考えることになっております。つまり、普通のエンジニアリングとは違いまして、
原子炉の設計におきましては、そのほとんどゼロに近いようなそういう事態が起こって、ゼロに近くはなっておっても、もし、それが起こったときにはどうなるかというような点にまでいろいろと論議がされているのでありまして、その点は、ものの
考え方として、
原子炉の場合には
放射線障害という非常に深刻なものがありますがゆえに、普通の工業の
基準とは違いまして、ほとんどゼロに近いようなことが起こっても、なおかつ安全であるということを目標にして設計されていると思うのであります。しかしながら、重点の置き方によりまして、エンジニアリングに重点を置くか、あるいは起こり得ないようなことでも起こったときにどうかというところに重点を置くかということで、
議論が非常に分かれてくるということは事実であります。これをエンジニアリングの側からいえば、非常に意地の悪いところをつくということになってくるわけでありますけれども、しかし、
原子力の問題におきましては両面を考える必要があり、少なくとも、この
報告書によりましては、私は両面が考えられていると思います。ただ、その考えられていることが、はたして
技術的に、学問的にどうかということにつきましては、私は十分な
専門家ではございませんけれども、普通のエレベーターのような
考え方ではなくして、普通のエンジニアリングの
立場以上の考察が払われている、私はそういう工合に考えるのであります。私は専門ではありませんけれども、たとえば、地震につきましては、通常の建物がみなつぶれるような条件、たとえば、普通の設計震度の三倍以上の値をとってあり、ダクトにつきましても、ダクトの破損ということは非常に大きな問題でありますけれども、設計震度を二gにとってある、その上にフレキシブルにしてある。エンジニアリングの
立場で、このくらいにしておきますと、普通の工業常識では、少々地震が起こっても、普通のわれわれが信頼している家、あるいはビルディングがつぶれましても、おそらくつぶれないということを主眼にして設計されたものであります。しかしながら、それでも不測の
事故でダクトが割れるということがある。ダクトが割れたらどうするか。それにはいろいろ
技術的な
見解がありましょうけれども、その炉をすぐにシャット・ダウンするシャット・ダウンしたあとは、発熱しないように適当な冷却を行なう、しかも、それも停電の場合どうだとか、いろいろ考慮されて、いろいろな
措置がされておるのであります。これは先ほどのことで言いますと、普通の毒ガスを送るような場合でもこんな
措置はしないのでありまして、絶対にとは言いませんけれども、工業常識でパイプが破れないということになりますと、一応認可するのであります。この場合は、一応パイプは破れないということを
前提にしておりますけれども、もし破れたならばどうかというところまでやる、普通
原子炉の設計は当然こうなければならぬと私も信ずるのでありますが、一応そういうように重要な
問題点は把握されているのではないかと思います。そういたしますと、エンジニアリングのわれわれの
立場から見ますと、いかにしてこれを間違いなく実行するか、そういうような設計理念が
ほんとうに間違いなく、危害を起こさないように、どういうようにうまくこれを工業に移すかということがこれからの問題であろうと思います。そういう意味におきまして、私は、先ほど述べましたように、問題はむしろ今日が出発点であると思うのでありまして、こういう理念に基づきまして、できるだけ多くの
学者または
専門家の
意見を聴取されまして、間違いのないように、危害のないように、また、わが国の
技術として誇りになるようなりっぱなものを作っていただきましたならば非常にしあわせだと思う次第であります。
一応
見解を申し上げました。