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参考人(
葛西嘉資君) ただいま私が今日までのことを
お話し申し上げるようにという
お話でございましたが、もう参議院の
皆様方大体御存じでございますので、あまりこまかくは申しませんで、骨組みのような点だけ申し上げて、
あとは御
質問に応じてお答えさしていただくことにさしていただいたらと思います。
この問題、御
承知のように、
終戦直後から
日本におりました
朝鮮人は、
帰還を希望する者は大部分、もうすでに百三、四十万、
終戦の直後本国に帰っておったのであります。
日本に六十万前後残っておりました者は皆
本人の
意思で残るということになっておって、十何年このままの状態で来ておったのは御
承知の
通りでございます。ところが、ちょうどこの問題が、
日本におる
朝鮮人で
北鮮に帰りたい者を帰すという、いわゆる
北鮮帰還問題が起りましたのは、私の
承知するところでは、
昭和三十一年の初めに、
北鮮におる
日本人の
帰還に関して私
ども日本赤十字の
代表として
平壌に参って
日本人の
引き揚げ交渉をしたときに始まったと思います。このときに
日本人を帰すという
協定をする、これはもう非常に簡単なことであったのでありますが、当時
北鮮側としては、
日本人を帰すかわりに、
日本におる
北鮮に帰りたい者がだいぶあるから、これを帰してもらいたい、こう言い出したのが初めでございます。ところが、なかなかこの
問題解決、御
承知のように、できなかったのでございまするが、初めから私
ども並びに伺うところによると、
政府もそういう御意見であったようでありますが、この問題は非常にデリケートであり、ことにまた、航海の安全というふうな点から考えても、どうしても
赤十字国際委員会に
介入してもらう必要があるというのがその当時からの考え方であったと思います。そんなことで私
ども国際委員会に頼んだわけでございます。
日本人を迎えると同時に、
昭和三十一年の五月だと思いますが、
国際委員会の
代表であるミッチェル、ドゥヴックという二人の人がこの
調査のために来てくれました。
中共、
北鮮、
南鮮、東京というふうな各地でいろいろ
調査をして帰った。このときにはもちろん
大村収容所並びに釜山の
収容所の問題も
一緒に調べてこれに対する勧告のあったことは御
承知の
通りでありますが、そんなにして彼らは帰る。帰るとすぐに彼らは
国際委員会の
首脳部に
報告をして、
赤十字国際委員会としては、同年八月だったと記憶いたしますが、
ジュネーブで
国際委員会が主催をするから、
日本と南北両
朝鮮、三
赤十字のこれらの問題についての
会談をしたいということを提唱いたしました。当時
日本はもう直ちにこれに応じます、それから北
朝鮮の方の
赤十字も応じます、ただ
南鮮の
赤十字だけは、その必要なしということでその
会談がだめになった
いきさつがございます。そんなことであったのでありますが、その後
日本としまして、
日韓会談が進行中であったりなんかいたしますし、昨年
あたりまでそのままの状態できたというのが事実のようでございます。
昨年の秋ころだったと思いますが、
北鮮の方から、実は、
日本におる
朝鮮人帰ってこい、
自分の方はこれを受け入れる万般の準備を整えている。しかもこのとき新しいことは、
配船は
自分の方でやるということを言ったようであります。そんなことから、昨年の
秋あたりから、
日本におる
在日朝鮮人で
帰還を希望する者などがワイワイ言ったというのは
皆さん御
承知の
通りでございます。そんなようなことがあったと思いますが、御
承知のように、本年の二月十三日に、
政府は
北鮮帰還問題を
閣議で御決定になりまして、そうしてその
交渉を
日本赤十字に御依頼になったのでございます。そこで私
ども、
井上外事部長は二月の下旬でありますが、私は三月の十日ころから
向うへ行きまして、
北鮮の方も当初は
ジュネーブに行くことを
反対しておったのでありますが、四月の八日に、
ジュネーブに
向うの
代表も参りまして、四月十三日からずっと、
新聞で御
承知のように、十八回ばかり、ずいぶん長い
会談をいたしておって、六月の二十四日に大体私
どもと
北鮮との間では
帰還に関する
協定に大体
同意を見て、サインをするばかりになっておったのでございます。ところが、その後
話し合いをした結果、この十三日にインドのカルカッタで
調印をしようということに話がまとまりまして、明後日私も行ってこいということで、
向うに
調印のために行こうかというようなことに相なっておるわけでございます。
で、
交渉の中で非常に問題になりました点、大きな点から申しますと、一番
最初に、とにかく
ジュネーブで
会談をするのだということ、これは非常に大きな点であったのでありますが、とうとう
向うでも出てきたということで、これは事実で解決したわけでございます。それから
国際委員会の
建物の中で十八回やったのでありますが、
国際委員会の
建物の中でやったということに私は非常に
意味があるような気がいたします。十八回ともこれは
国際委員会が
建物を貸してくれまして、その一室でやった。もちろん公的な
会談のほかに私的な打ち合せもいろいろいたしました。これは
お互いに、
向うが私
どもの
ホテルにたずねるとか、あるいはこちらから
向うの
ホテルへたずねるというようなことで、おそらく、数は数えてみたことはございませんが、十八回の倍くらいは接触をしておったというふうに思います。
そんなことで、
会談の
場所等については
日本側の言い分といいますか、これがある程度通ったというように私は思います。
それから、
閣議の大体今度の
北鮮帰還問題についての
一つの大きな柱というものは、私
どもの
承知するところでは、本日は
伊関アジア局長並びに
河野引揚援護局長がおりますから、
政府の方で間違っておりましたら訂正していただきたいと思いますが、私
どもの
承知いたしておりますところでは、この今回の
帰国というのが、
在日朝鮮人個人々々の
自由意思でその行く先をきめるという点が非常に大事な点でございます。御
承知のように、
日本におる
朝鮮人の
地位等についてはまだきまっておらぬので、非常に複雑になっておるわけでありまして、こういう場合に
国際通念並びに
赤十字の決議あるいはまた
人権宣言等によれば、
本人の
自由意志で
居住地を選択するのだ、
居住地選択の自由というものは、これは
人間の基本的な
人権なんだ。だからその
北鮮へ帰りたいというのはその
自由意思によってきめるのだという点でございます。従って、私
どもとしましては、この
意思にもし間違いがあっちゃ困るのだから、この
意思というものは非常に大事にせにゃならぬ。それをまあ私
どもは初め
意思の
確認ということを言っておったのでございますが、
北鮮側の方は
意思確認は
人権の侵害であるから絶対
反対だといって
ジュネーブへ乗り込んで参りました。この
意思確認問題というものについての
話し合いというのが、
会談にして四回くらいかかったと思いますが、やったのでございます。非常に、私の受けた印象でございますが、
北鮮側もどうも
日本を
信頼できないというような
態度であったように思います。私
どもの方もまあ何を言い出すか、ああは言っているけれ
ども、その裏に何があるかわからぬというようなことで
お互いに警戒して話をする。従って、話すことは初めのうちはきわめて抽象的なことを
お互いに話し合うというようなことでございます。それを一回
会談をやり、二回
会談をやり、三回目ぐらいになって、大体
向うが何を考えているのだというようなことがぼやっとわかってくるというようなことでございます。一体私の理解するところによると、
向うが
意思確認絶対
反対と言っておったのは、今言ったように
朝鮮人の
日本における
地位というものが非常にデリケートであり、しかも複雑なのだから、
自由意思帰国でやるのだという点については、これはもう
向うも
異議がなかったわけです。ただ、
意思の
確認という名目のもとに
日本側において
朝鮮人のいろいろなことを調べられては困るというのがどうも
意思確認反対と言っておった
理由のように私は見受けました。たとえて申しますと、この
在日朝鮮人は過去において
共産運動をしたとか、あるいは特定の団体へ属しておったとか、あるいはど
ろぼうをして前科があるとか、あるいは密入国を何べんやったとか、そういうふうな過去の、
言葉は悪うございますが、古傷を洗うというようなことは一切しない。ただ
本人の
意思だけは、これは
帰還についての基本的なものなんだから、これはどうしても
日本としてはやらざるを得ない。これができなければもう問題にならぬ。また、
日本には
帰還を阻止する勢力もあるわけだ。そういうふうなものを納得させることができない。だから
意思の
確認ということだけはどうしても必要なのだ、ということを言ったところが、わかりました、
意思確認がそういう
意味ならばいい、ということを第四回の
会議だったと思いますが言ったのでございます。それで
意思確認問題というのはそんなことで終って、最後まで
自由意思帰国だという点については両者はほとんど争いはない、こういうふうに思います。それから
閣議でありました第二の大事な点というのは、
赤十字国際委員会の
介入の点でございます。これも、私
ども理解するところでは、
国際委員会の
介入なしでは
北鮮帰還はやらないのだということを明瞭に
向うに申しておったのであります。ところが、
向うの方は、
国際委員会の
介入の必要はない。現にあなた方が
北鮮におる
日本人を連れて帰るときに
国際委員会が
介入しましたか。これは
日本と
北鮮の両
赤十字が
話し合いをしてそれで帰っておった。その必要を認めない、というのが彼らの
態度でございました。一体、この問題というのは、
二つの
赤十字でやればそれでいいので、何のために
国際委員会を
介入するか、それがわからぬ、こういうふうな主張でありました。私の感じたところをもってしますと、どうも
北鮮の連中は、もし
国際委員会なんかに
介入されるというと、何を言い出されるかわからない。ことに、まあこれは
言葉は悪うございますが、
国際委員会が公正だ公正だと
日本は言うけれ
ども、
ほんとうに公正か、どうも彼らは
日本びいきに違いないと、こう思っておったんだろうと思うのでございます。だから、うっかり入れちゃうと二者が三者になっちゃって、
国際委員会と
日本と組んで
北鮮を何とかされやせぬかというような感じがあったんじゃないかと思うわけでございます。そういうふうなことでありましたが、そんなことはないのだ、
ほんとうに公正なのだということを話すと同時に、
日本としてはこれなしじゃ絶対できないのだ、これが
生命線だと私
ども言ったわけでございますが、
向うも盛んに
生命線ということを言い出した。それが、第六回の
正式会談だったと思いますが、
国際委員会の
介入に賛成しますということを
向うが言い出しました。しかし、それには
限度がある。それは、
日本は
国際委員会にいろいろやってもらおうというふうに考えているけれ
ども、
自分らが言うのは、
日本は
介入が
生命線だと言うからそれじゃ認める。認めるけれ
ども、私
どもは何もそう深入りをしてもらう必要はない。
実務に関与してもらっちゃ困る。
帰還の
実務に関与することなく、
国際委員会はわきにおって、
観察者として、オブザーバーとしてやるということならば
自分の方は
異議はないと言ったのが第六回の
正式会談だったと思います。そこで、自来その
あとは、今度
国際委員会の
介入の程度について
日本側と
北鮮側との間でいろいろ議論があったのは、もう御
承知の
通りでございます。
日本の方は
国際委員会というものにある程度やってもらいたい、あるいは
国際委員会の管理のもとにこの
帰還業務をやるんだ、あるいは
国際委員会の指導のもとにこれをやるんだ、あるいは、もしこの
意思確認が、これは非常に大事なんだが、そういうふうな
意思確認について若干の
苦情が出たような場合においては、その
苦情は最終的には
国際委員会に下してもらう、
日本はそれに従ってやるということにしてもらわなきゃ困るというようなことであったのでございますが、これは、
向うの方は、どうしてもそれは困る、二
者会談だけだ、
日本がその
代り国際委員会に私
どもの
北鮮側の言うようにやってもらうのならばその
限度は
異議がないと、まあこういうふうなことでやっておったのでございます。で、そうやっておったのですが、結局は
日本側としてはそれじゃというようなことで、大体こういうことになりました。今度の
帰国というのは
自由意思による
帰国で
人道上の
措置なんだ。
人道上の
措置をいろいろ
日本がとる場合に、これは
人間のやることだから間違いがあるかもしれぬ。そういうような間違いがあっちゃいかぬから、その間違いを確保するために、
日本は
国際委員会に対して適当な
措置をとってもらうように依頼する。
国際委員会からこっちへ言うてもらう。そうしてその
措置とは何ぞといえば、
三つのことがあるわけでございますが、その第一は、今度の
帰還というのは
朝鮮人の
自由意思で帰すというのだから、その
自由意思で帰すための
組織、
言葉をかえて申しますと、
集団帰国でたくさん帰るのでございますから、それを
登録せんならぬ。
登録の
組織をどういうふうにするかということを
日本がきめて
国際委員会に
アドヴァイスをしてもらう、
助言をしてもらうということ、これが
一つでございます。
登録機構の
組織について
国際委員会から
助言しもらうことを
赤十字が依頼する。それから第二は、そうしてできた
登録機構の運営についていいか悪いかを
一つ確かめてもらう。
組織は
助言によってできて、なるほどこれならば、
人道上正しいということはできるかもしれぬけれ
ども、それを運営するについていいか悪いか見てもらってそれを確かめてもらうというのが第二でございます。第三は、それを確かめた結果、もし必要ありと認めれば、
国際委員会は
日本の
赤十字に対して
助言を与えてくれる、
アドヴァイスを与えてくれる。その
アドヴァイスを与えてもらって
日本はそれに従えばいい。そういうふうな
三つのことを
日本の方から
国際赤十字委員会に頼む。この
限度ならば
異議がない。こういうことに話がまとまったのでございます。さらに、今度の
帰還について、
日本でこのことが
人道的に正しいことであり、ことにまた、
意思の確保に欠けるところがない、こうやってやるんだということを
国際委員会の
代表に
日本に来てもらってそれを
ラジオを通じて一般に周知させる、
ラジオを通じて放送するという点を
日本が依頼する。これも
異議がない。まあ大体それだけのことを
国際委員会に依頼する。
国際委員会の方が
日本から頼んだこれこれの事項を引き受けてやると言ってもらえばこれが動き出す。それがない限りはこの
帰還業務は動き出さない、というのが大体の
協定でございます。
あとの
協定の内容は、
皆さん新聞でも出ておりまして御
承知の
通り、あるいはまた、
中共、
ソ連等ののと同じように、
日本の
新潟港が今度
出港地になりますが、
新潟港までの間の一切の
措置というふうなものはある一定の
限度の制限はありますけれ
ども、
日本側においてこれを処置してやる。それから船場まで
朝鮮の
代表が乗ってきますから、その
北鮮の
代表にそれを渡しますというと、もうそれから先は
北鮮での
定着地までの
措置というものは
北鮮側でやるんだ、こういうことをはっきり書いてございます。で、
協定は、さっき申しましたように、六月の二十四日、
ジュネーブにおいて
起草委員会の仮
調印をいたしましてできておったのでございますが、御
承知のような
いきさつで
調印だけができずにおるというふうなことであったのでございますが、ようやくこの話ができまして、十三日に
調印というふうにきまりましたのは、先ほ
ども申し上げた
通りでございます。それで、まあそれだけのことに一体なぜこんなに時間がかかったのかと
皆さん御疑問をお持ちになるかもしれませんが、別に遊んでおったわけではございませんが、何と申しますか、まあ
お互いが
信頼が非常に薄い。従って、言うときに非常に遠くの方からものを言ってだんだん具体化していかなきゃならぬ。こういうようなことで、さっきも申しましたように、今度の
会談についての山というものは、大きい山が
二つ三つございます。それで、その山の中にさらに小山があるわけですが、その
一つ一つの山を越えるのに、やっぱり今言ったように
抽象論をやり、
向うが何を考えているということを
お互いがだんだんに理解する。まあそんなことで妥結の道が自然に見つけられるというようなことで、大きい
山二つ、小さい山になると
五つ六つを越えるのに、
一つずつ手間がかかったというのが、まあ長くかかった
理由ではないか、こう思うわけであります。はなはだ雑然としたことを申し上げましたが、一応私の
説明を終りまして、御
質問がございましたらば、御
質問によってお答えをさしていただきたい、かように考えます。