○三田村
委員 午前の本
委員会で、六号、七
号台風による
被害県であります
長野、
山梨、
福井の各県
知事あるいは
県議会議長その他の
方々から御
陳情、御
要望がございました。私は
岐阜県でございますが、
岐阜県も同様の
災害をこうむりまして、現在非常にその
対策、処理に困難を来たしております。率直に申しますと、まだ
岐阜県に関する限り
災害継続中でございまして、
あとから
現地の模様、その
事情を申し上げてみたいと
思いますが、
揖斐川の
下流でその
支流牧田川が
決壊いたしまして、約三千
町歩の
面積、
耕地面積にいたしまして二千五百
町歩、これが、一番多いときには四・五メートル、約五メートルくらいの水浸しになってしまったのでございます。それが、
河川床の
関係がございまして、その
決壊個所を締め切るわけにも参らない
事情もあり、ようやく二十日ごろから
締め切り作業にかかりましたが、九月の四日ごろどうにか
締め切りが終るのでないか。
締め切りを終りましても、まだ残っておる
湛水——あそこに曲線が書いてありますが、
相当量、一・五メートルから二メートルくらいの水がまだ残るのでございます。どうしてこれをくみ出すかということに
県当局も懸命の
努力を払っておる段階でございまして、
知事も、
県当局といたしまして、そういう
関係がございますので、
長野、
山梨、
福井と同様に当
委員会でその
実情を申し上げ
委員各位の御
協力を仰ぐはずでございましたが、まだ上京に至らないのでございます。
〔
委員長退席、
丹羽(兵)
委員長代理着席〕
私はちょうどその
被害地の
中心におりまして二十三年間ここで
政治生活をやって参りました。その二十三年間の
政治生活のうちで、今度の
災害ほど痛烈な
責任を感じたことはないのでございます。そういう意味合いから、
災害地住民の意思を正直に代表して、その
要望なりあるいは要求なりを申し上げ、
同僚委員各位の御支援と御
協力を仰ぐと同時に、
政府、
農林当局に対しても
実情を訴え、二、三の点についての御所見を伺っておきたいのでございます。
まず最初に
概略申し上げてみたいと
思いますが、私、十四日
東海道線の開通を待って
現地に参りました。十五日、十六日、十七日、十八日、まる三日間
現地をつぶさに見て参ったのでございますが、何と申しますか、
惨状目をおおう
状態でございまして、どうしたらいいか見当がつかなかったのでございます。簡単に申しますと、
岐阜県の
災害は、
台風とは申しますが、風を伴わない
集中豪雨による
被害でございます。従って、その
被害地は、
山間部と、
下流平坦部、海に入るごく間近、海の高潮の
影響を受けるような
地帯の
決壊によるはんらんでございました。その間の
平坦部は雨だけでございますからそう大した
被害はございません。しかし、この二者関連しまして、私はここにわれわれの重大な検討と反省を要する問題があるのではないかという気がいたします。それは、御
承知のように、戦時中から戦後を通じて
乱伐をやりました。
農林省、
建設省にせっかくの御
努力、御苦心を賜わりまして
山間部の
砂防施設も
相当整備されておったのでございますが、
山間部の
雨量六百四十三ミリなどという大量の降雨がありますと、現在程度の
砂防施設ではたえ切れないのでございます。一瞬にして
砂防施設がくずれ去ってしまいました。
現地に行ってみますと、何かオオカミがひっかいた跡を見るような気がいたします。
砂防施設が全部なくなってしまいまして、とんでもないところに大きな川ができておる、山のような大きな石をごろごろ持ってきておる、こういう
状態で、
山間部に大量降った
豪雨が一挙に
揖斐川にはんらんしてきた。怒濤のごとく
揖斐川に流れ出して参りまして、
決壊の
場所は、あの
養老山系、
滋賀県境から流れて参ります
牧田川という、これは
揖斐川の
支流でありますが、その
合流点の
上流千メートルくらいのところで切れた。切れたのが十四日の夜七時五十分ごろでございます。一瞬にして、その
揖斐川の大量の水が巻き返し、
牧田川の水と
一緒に逆流いたしまして、先ほど申しましたように約三千
町歩に及ぶ
水没地帯を作ったのでございます。
名所として言われている養老公園の段に立って見ますと、一夜にしてこつ然として琵琶湖ならざる
養老湖が出現した。松島湾を遠く見るような形でございます。森とか、高い石垣を組んだうちの二階家だけ見える、
あとは満々と満たされた一望の海原、こういう格好になっております。何とも痛々しい限りでございまして、しかも、従来の築堤の
関係とでも申しますか、長い
輪中生活をいたしておりまして、周囲を囲んでおる
堤防というものは、実はむしろ
堤防という
概念よりも
道路という
概念が強いような形で、両側にずっとうちが立ち並んでおります。そういうところでございますから、いかんともなしがたい。しかも、冒頭に申しましたように、
揖斐川の濁流が逆流して入っておりますから、私が参りましたのは十五日のちょうど正午ごろでございましたが、まだ入っておるのです。締めましても、一億二千万トンと称するその
湛水をどうやって処理するか、締めることは必要でございますが、締めればたまった水を出す道がない。
ポンプ操作をやるといったって、私も、自衛隊かどこかにでかい
ポンプでもないか、
現地に立っておる
建設省の
責任者といろいろ話してみたのですが、かりにでかい
ポンプを持っていってみても、
農林省の
方々も非常に御心配願ってそういうことも考えてみましたが、結局、小さな
堤防ですし、でかい馬力の
ポンプを持っていけばコンクリートで地固めしなければなりません。一週間や十日それにかかってしまう。結局は、一応本流の水がだんだん減水していくに従って
湛水された水があの表にあるように出ていくのを待って適当な時期に締め切る、それから
ポンプ作業にかかる、こういう道しかないのでございます。
その
湛水地帯の
住民、これはほとんど全部農民でございますが、この
立場から申しますと全く
悲惨そのものであります。
耕地面積二千五百
町歩、あの辺は
岐阜県の穀倉と言われまして、非常に良田であります。
農林省も御
承知の
通り、反当四石くらい平均とっているところでありまして、大体ことしあたりの
収穫予想は十万石と言っております。十万石と申しますと、米価にして十億、これが一瞬にして壊滅した。三日四日水につかっておれば何にもとれないということは常識であります。しかも、
自分たちの住んでおった家は
屋根のむねまで埋まってしまった。そういうことですから、火事と違いましてだれも手伝ってくれないから、夜具も衣類も全部置いたままで出てしまった。ようやく大きな
家畜類、牛やわずかの豚は出しましたが、ヤギとか豚の大多数、そういったものは水の中に置いたままですし、ネコも犬も鶏も何もかも水びたしで、どろどろの中にそういう汚物、悪物がぶつぶつとわいている
状態です。そこにつかってしまった家の
屋根をながめながら、
自分たちはどうするんだと、今何千の
住民が
堤防にさまよっている姿というものは、私はほんとうに見られない気がいたしました。
私は
政治の
責任とかむずかしいことを申し上げるのではありません。特に
農林省当局に申し上げて、われわれともどもこういった
災害をどうしてなくするかということを考えなければならぬということを私は切実に考えるのであります。端的な言い方をいたしますならば、
乱伐の過去のことはもうどうにもしようがない。切ってしまった木をまた持っていってもとに返すわけにいきません。しょうがないですから、それなら、山の中の
砂防施設を堅牢にして、
相当の
雨量があってもこれが崩壊しないような
処置を講ずるということ、そうすれば、その
洪水、
雨量の流出を調整することによって、大きな本川の
洪水も調整できましょうし、同時に、
堤防は、水を防ぐ使命ということにわれわれは深く
思いをいたして、切れない堅牢な
堤防にすれば、
被害はなくなるんだということであります。これは切実な
被災者の声であります。切れなかったらという声であります。これは非常に重要な問題であります。
私は
岐阜県でありますが、
岐阜県には、御
承知の、
揖斐川と
長良川と
木曽川と、大きな川が三つあります。この間も天の公平の原則もこれは非常に迷惑だと言ったのでありますが、去年は
木曽川の
上流の
飛騨がはんらんいたしまして、
飛騨地方が大きな
被害をこうむりました。おととしはやはり
木曽川の
関係で東濃方面が大きな
被害をこうむったのであります。二十八年は
長良川の
下流がはんらんいたしまして、大
へん農林省に御迷惑をかけました。ことしは
揖斐川の
上流と
下流というふうに、三つの大きな川がみんな水で大きな災いをもたらした、こういうことでございます。これも
農林当局特に
耕地関係の方は御
承知の、
揖斐、長良、木曽の三大川が伊勢湾に落ちる一番の下には、
三川分流工事として、
宝暦年間に
徳川幕府が外様の
雄藩薩摩の
弱体化工作のためにやりました大きな
治水事業の跡が残っております。
千本松原という一種の
名所として残っておりますが、ここだけは不思議に切れません。どんなに大きな
洪水でも、
薩摩の義士と言われる
平田奉行が行なってくれたあの大きな
治水事業はそのまま残っております。皮肉にも今度はその
平田奉行の墓も埋まってしまいました。しかも、切れている
場所はその上です。私は、しみじみ、これを
思いかれを
思い、一体
政治の
責任はどこにあるのかと考えたのでございます。そういう点は
農林当局も十分御
承知のことと
思います。
県当局からもそれぞれの
陳情が参っておりますし、具体的に
事務上の折衝もすでに始めておりますから御理解願えておると
思いますが、その点はどうぞ格段の御
配慮をわずらわしたいと
思います。
さらに、非常に苦しい
災害現地の
実情であります。これは午前の
委員会で
災害地各県の
知事からも話がありました。ことに、
多芸輪中の
陥没地帯の
町長、
自治体の
管理者の
立場から申しますと、もちろん
農作物皆無だから
免税にしてくれるでしょう、
免税にするということは役場も収入皆無ということなんだ、しかも、家は埋まってしまった、着る物もない、食う物もない、米びつに入っていた米もない、明日から食わせなければいけないが、どうやって食わせるのですか、法律上
処置がないと言って済まされません、こう切実に
町長は言っておりました。私もその
通りだと
思います。
山間部に行きますと、これまたひどい。今の
砂防施設がみなこわれてしまいました。また、
道路も
決壊しているし、橋も落ちてしまっている。
林道もこわれてしまっている。おのおの
中央官庁の
所管は異にいたしますが、地元の
立場からいたしますと
区別はないのです。
みな一緒なんです。県道も国道も
町村道も
林道も
区別はありません。
砂防でも、
施設の
所管がどこであろうと
区別はない。しかも、
山間部でありますから、特に
山間部の
揖斐郡の奥に行きますと
薪炭生産をもって生業としております。これは俗に言う炭焼きです。今
薪炭生産の最盛時でございますが、その
かまがみな流れてしまう。
かまの中にあった素材も流れておりますし、せっかくでき上った炭も俵ごと流れてしまう。一
かま起すのに二万円、三万円かかるそうでございます。しかも、
かまを作るのに一年かかる。生きる道、食う道を失ってしまって、どうして食わせるかということが
自治体の
責任者の切実な
悩みであります。その場合すぐ目につくことは、大きな
災害復旧事業をやってもらいたい、せめて
日雇い労賃でも与えて、そうして食いつないでいこう、こういう考え方でございますが、なかなかこれがいかぬ。やれ査定が済まぬ、やれ何が済まぬで、むずかしいのであります。一体どうしたらいいのだということが
山間部の村長の深刻な
悩みであります。炭だけでなくて、私どもの方の山の方では
コンニャクイモを作っており、
お茶を作っております。
コンニャクイモも
お茶も流れてしまいました。わずか三
反歩か五
反歩の
耕地は、これはまた下の
水没地帯と違いまして土砂で流れてしまって跡形もない。こういうさんたんたる
状況で、つまり、生きる条件をことごとく失ってしまったと言っても過言でないような悲惨な
状態であります。
これは、もちろん、昔なら、仕方がない、個人の
責任で何とかしろと言えますが、
福祉国家とか
社会保障とか言っている
政治の
責任から申しますと、県であれ国であれ、とにもかくにも
共同社会の
責任主体として何とか
措置していかなければならぬことは、私当然のことだと思う。そういう
立場から、どうぞ一つこの機会に、当面の問題としてはいろいろな手続もありましょうが、できるだけ迅速に
現地の
事情をきわめられて、すぐ
仕事にかかれるようにしてもらいたい。
自治体の
責任者は、どうにもしようがないのだ、
災害復旧の
仕事でもやってもらって、
林道でもっける
仕事でもやってもらって、県の金でもよろしい、国の金でもよろしい、どこの金でもいいが、一日二百円でも三百円でも
労賃を与えて、それで食いつなぐ道を開くのだ、それ以外に道はありませんと言う。私もそれ以外にないと思う。その村が仕方がないから借金でまかなっていこうといったって、今許してくれません。
自治庁も許してくれません。どこも許してくれないのです。だから、そういう点は、どうやったら
被災者の
立場が救われるか、
——被災者の
立場を救うということは一にかかって私は
政治の
責任だと思う。そこにどうぞ
思いをいたしていただきたいと思うのでございます。これは私の今回の
災害に対する切実な一議員としての
責任感の披瀝でございますが、そういう
立場に立って
岐阜県の
災害についても格段の御
配慮を煩わしたいのでございます。
なお私は
岐阜県の
立場から率直にもう一言づけ加えたいのでございますが、今度の
災害は、午前中にもありましたように、
山梨、
長野、
福井、
静岡、こういうところは非常に
災害の度が大きいのです。
面積も広いようですし、
災害の度もひどいようです。
岐阜県は
災害の順位がずっと下の方で重要度はだんだんぼけていっているような気がするのです。これは私は非常に残念です。
被害の
金額は少いかもしれません、
面積は狭いかもしれませんが、深度においてははかり知れないものがあるのです。
被災者の心理的な
立場に立ったら、これほどつらいことはないのです。自分の家は目の前に見えるが水浸しになって入れない、どこにも食う道がない、こういう
状態というものは実に深刻でございます。だから、
被害の
金額によって
被害対策の順位をつけてほしくないのです。これは私は
岐阜県を代表する議員の一人として強く強く御当局に申し上げておきます。
さて、
被害対策でありますが、これは、県の方からも書類にして、あるいは係官が出て具体的な折衝をしていると
思いますから、私からあまり具体的なことは申し上げません。ただ、
農林省の
所管ではございませんが、しかし、
湛水地帯の
被災者は農民なんですから、一つ
建設省と緊密な御連絡をとっていただいて、一万二千の
陥没地帯の農民、
岐阜県の穀倉
地帯と言われた二千五百
町歩の地域が少しでも光明を見出し得るように、格段の御
努力をお願いしたいのです。これが第一です。これについては、いろいろお考えでしょうから、
あとで
農地局長の御意見を伺いたいと
思いますが、先ほど申しましたあの計算は、これから来月の十五日まで雨がちっとも降らぬという計算なんです。仮堤を作って仮
締め切りを九月五日までにやるといいますが、その間に雨が降ったら元も子もなくなってしまう。仮堤の作り方いかんによっては、今全部の
堤防がぐざぐざになってしまっておりますから、やはりどこが切れるかわからぬという不安がある。とにもかくにも、外の水と中の水と大体同量になったのですが、今くみ出せる道がないのでございます。
ポンプ操作にいたしましても、せっかく御心配をいただいて作った揚水、排水用の
ポンプも全部水浸しで、きようで十幾日もつかっておりますから、おそらく出してみても使いものにならぬと思う。どこか近間から能率の高い
ポンプを集めてもらって、
締め切りと同時にぱっと出してもらうということで、私は
建設省の方と御相談願いたいと思うのでございます。ここは昔から言われている沖積
地帯というのですか、
長良川、
揖斐川、
木曽川の三つの大きな川がだんだん土砂を海の中に送り出していつの間にかできた土地ですから、どこまで行ってもぐさぐさのどろなのです。そこに輪中を作って、小さな万里の長城のようなものを作って昔から
輪中生活をしてきたのが、近代化されて、せっかく
農林省、
建設省の新しい指導で今のような農業経営の形態ができた。しかも、かこいだけはまだ弱いのですから、こういうことについてどういう
処置をとるべきか、われわれはもろちん考えなければなりませんが、特異なケースであり、まだ
災害継続中の輪中の
湛水地帯の
処置をどういうようにするかということについて、
農林省当局にもそれぞれお考えがあると
思いますから、この機会にその
概略を伺っておきたいと
思います。