○鈴木(才)
政府委員 本件は非常に複雑な
事件であります。今御質問の富士茂子は、内縁の夫でありますが、夫の殺人容疑で起訴され、そして一審、二審とも有罪、しかも懲役十三年ということで、非常に計画的な、悪質な犯罪のごとく認定されたのであります。その有罪認定の重要な証人となつた阿部、西野——
事件当時は少年でございますが、この証言が最近うそであるということを、この証人となつた西野、阿部が申しております。今お尋ねのように、どういう
理由で検察庁なりまた一審、二審の法廷においてうそを言つたか、まず
検事があるいは無理な調べをしたのではないか、こういうふうな疑念が持たれるのであります。
今御指摘のように、まず阿部でございますが、阿部守良は
昭和二十九年八月十日に逮捕状の請求が出ました。その容疑事実は銃砲刀剣等の所持取締り違反でありますが、八月十一日に令状が執行されまして、同年八月三十一日に
刑事処分相当として家裁に送致されました。その後は九月一日から徳島の少年鑑別所に送致されておつたのであります。合計二十七日間この少年は拘置されておりました。その間における取調べというものは、結局は阿部守良が篠原という人から犯人といわれております富士茂子に頼まれて、いわゆるあいくちを持って帰つたかどうかという点の調べであります。その一点だけにつきまして、二十七日間この少年が身柄を拘束されながら調べられたのであります。この点にも少し問題があるように思うのでありますが、ただその取調べの過程におきまして、世間でいいます拷問的なことがあったかどうか、これは本人からもよく聞きますと、そのような肉体的な拷問あるいは暴行脅迫、なぐられるとかその他いろいろな拷問はなかったようであります。ただ
一つの、論理的にと申しますか、つじつまの合わないところをどんどんと追及されまして、たとえば一例でありますが、阿部自身は全然篠原のところに行っていない、その篠原の家の様子も知らないのでありまして、
最初は徹底的に否認をいたしておりましたが、阿部の申すのでは、私たちの
調査でございますが、
検事の方からあるいは検察事務官の方から、篠原の家はこういうふうにしてこう行って、そしてここにどういうものがあつてどうだ、そうだろう、そうだろうという質問で、とうとういつの間にか篠原の家の様子がすつかり頭の中に入り、そうしてだんだん、いや実は富士茂子に頼まれてあいくちをもらいにいった、そういうふうな供述になっておる、こう言っておるのであります。しかも、この阿部の逮捕あるいは勾留等の被疑事実と申しますのは、
事件のありましたあの当時に刀剣を所持しておったという容疑事実でございますが、実際はただ阿部が、
事件が起きまして警察官が参りましたときに、ここに短刀があるということを警官に教えただけの事実であります。その事実に基きまして、いわゆる刀剣等の所持容疑でずっと拘引、勾留をしておった。この点もやや冷静に考えますと、問題もあるようであります。ただ、今まで申しましたように、この阿部に対しては、いわゆるの拷問的なことはなかった、こういうことは認められるのであります。ただその少年に対する長期の勾留中におきまして、いろいろとそういうふうないわゆる誘導質問でございますか、本人の答えを質問の形で投げてやるといういわゆる誘導質問的なことによって
一つの最後の調書ができたのである、こういうふうに阿部は述べておるのであります。
それから、なぜ法廷においてもほんとうのところを言わなかったかということでありますが、それは
検事に、検察庁で申し述べたような事実を述べないと偽証でやられるというふうにおどかされた、そういうふうに言っております。何分にも当時阿部は十六でございましたが、十六、七の子供でございますので、われわれおとなが冷静に見たことではこうあるべきではないかというふうな論理では、当時の心理は解釈できないように思うのであります。ただ、現在におきましても、阿部はあくまでも検察庁において述べたこと、あるいは法廷で述べたことは全然にうそであり、自分は絶対に篠原の家から富士茂子に頼まれて短刀を持ってきてはいない。それからもう
一つ阿部の証言の中には、富士茂子に頼まれまして、犯行直後、犯行に使用したと思われる刺身ぼうちようのようなものを川に投げた、証拠隠滅をはかるためでありましよう、そういうような供述もあるのでありますけれ
ども、それも全然仮空のことである、こういうふうに述べておるのであります。われわれといたしましては、阿部の検察庁における、また一審、二審における証言がうそであり、また徳島法務局あるいはこちらから参りました
人権擁護局の
調査官に対する
答弁が真実であるかどうか、これはまだわれわれといたしましては、いずれかということをはっきりと認定しがたいのでありますが、とにかく今申しましたように、現在におきましては、阿部というものは検察庁あるいは法廷における証言はでたらめである、すなわち短刀を篠原から富士茂子に頼まれてもらつてきたという点と、犯行に使用したといわれる刺身ぼうちようを橋の上から川の中に投げ捨てた、この点も絶対うそであるということをはっきりと明言しておるのであります。
さらに西野でありますが、——失礼いたしました。今の刺身ぼうちようは阿部の件ではございません。西野でございます。訂正いたします。西野の証言の重点は、この亀三郎という人が殺されたその当時、富士茂子とその人とが格闘していたのを見た。それからまた犯行後、富士茂子に頼まれて屋上に上って電灯線あるいは電話線を切断した。それから先ほど阿部の件で申しましたが、この犯行に使用した刺身ぼうちようを徳島市内の両国橋から新町川に投げた、こういうふうな証言でありますが、これは全然うそである、自分は茂子と夫亀三郎がその
事件当時格闘しているのを見たことはない、また茂子から頼まれて屋上に上って電灯線、電話線を切つたことはない、もちろん修繕したことはあるのでございますけれ
ども、切つたことはない、それからまた、今申しましたように、富士茂子が犯行に使用したといわれる刺身ぼうちようを徳島市内の両国橋から新町川に投げ捨てたこともない、こういうふうにわれわれの
調査官には申し述べておるのであります。もっともこの西野につきましては、
最初私の方から
調査に参りましたときには行方が知れなかったのでありますが、その後どういうものか大阪の方に所在がわかりまして、故郷の徳島に帰ってきたのであります。帰りました当時には、西野はあくまでも検察庁並びに法廷において述べた証言は正しいということを強く主張しておったのであります。そうして、この検察庁並びに法廷における証言はうそであるということを申しました阿部に対しまして、それは何かの間違いではないかということを強く主張しておったのであります。ところが徳島法務局でいろいろ
調査をし、そうして同人からいろいろ聞いておりますうちに、実際は検察庁並びに法廷において述べたことは全部うそである、要するに先ほど申しましたような事実を全部否認をいたしたのであります。この西野につきましても、やはり相当長期の身柄拘禁がなされておりまして、
昭和二十九年の七月の二十一日に徳島地検に逮捕されました。これはいわゆる罪名は電気及びガスに関する臨時
措置に関する
法律と、有線電気通信法二十一条違反の容疑で逮捕されました。それから同年の七月二十三日に勾留されまして、それが八月十一日まで延長されたのであります。それからさらに同年の八月十一日に徳島家裁に送致されまして、そうして八月十二日に徳島少年鑑別所に送致され、九月三日から保護観察に付されたのであります。この間、身柄の拘束されました期間が約四十五日であります。この間における調べも、結局は先ほど申しました、
最初は西野もがんとして、電灯、電話線を切つたこと、それから富士茂子とその夫の亀三郎が格闘しているのを見たこと、あるいは富士茂子に頼まれてその刺身ぼうちようを捨てに行つたということは全然否認しておったのでありますが、この身柄拘禁後、だんだんとこの事実を認めるに至つたのであります。これなんかもやはり本人に言わせますと、そういわゆる肉体的な拷問というものもなかったようでありますが、この十七、八の子に対する取調べというものが、相当論理的な矛盾をつきつつ誘導していくような
方法で、結局
検事の言う
通り認めざるを得なかったというふうな
調査になっておるのであります。あるいはもう少し詳しく申すといいのでありますが、もし何でしたら、あとから実際にこの
調査をいたしました私の方の齋藤
調査課長にまたあと補足して
説明していただいてもけつこうだと思うのであります。
それから阿部幸市の件であります。この阿部幸市の証言でありますが、これは大体こういうふうに法廷では述べておるのであります。この阿部幸市というのは、さっき申しました阿部守良の兄でありますが、二十八年の十二月六日ごろに守良とラジオを聞いておりますと、ちようど川口某逮捕というニュースが入つたのであります。それで、その守良は駅前からほうちようを預つてきたという話をした、また守良が釈放される朝、被告人が夫婦げんかをしていることを見たことがあると言つた、こういうふうな証言なのであります。これも相当富士茂子に
とつては不利な証言のようであります。ところが、
昭和三十三年の八月二十一日に徳島地
方法務局の安友人権擁護課長に対する供述では、こういうふうに訂正しておるのであります。そのちようどラジオを聞いておつたとき、弟はただ犯人はだれかわからぬと言つたが、二十九年の八月十三、四日ごろ丹羽事務官から調べられ、弟が言つたので認めたと言うのであります。要するに、阿部守良がただラジオを聞いておるときには、犯人はだれかわからぬということだけを言っております。ところが、こういうふうに弟と対決させられて、弟がすでに認めておるからというので自分も認めたのだ、こういうふうに申しました。ただその後に高木
判事のところで否認をいたしましたら、湯川主席
検事に非常にしかられて、再び
検事に調べられたのでまた認めた、それからまた
裁判所に連れていかれましても、高木
判事のところで今度はまた認めたのであります、その後やほり同じように法廷でも同じようなうそをついた、こういうふうに述べておるのであります。これなんかもいわゆる拷問的なこともなく、無理な取調べはなかったと私は思うのでありますが、またそのように観察されたのでありますけれ
ども、結局弟がそういうふうに言っておるぞというので、自分も弟の言う
通りだというふうに認めた、それから否定したところが
検事の方からしかられたので、また同じようにもとの言を認めた、こういうふうな過程になっております。
それから石川の件でありますが、石川幸男、この人は大体このような証言を法廷でしております。これは石川幸男は元被告人方の店員であったのでありますが、
昭和二十九年の四月三、四日ごろ、村の八幡祭に、いわゆるさっき申しました西野を招待いたしました。四月三日に西野がたずねてきた折に
事件のことをいろいろと尋ねてみると、西野は被告人から頼まれて電線を切つたというふうなことを言い、またこういうことを自分が言つたことを他人に漏らしてはいけないと言つた、こういうふうな証言になっておるわけであります。ところが、これらの証言につきましては、こちらの
調査につきましては、そのとき八幡祭のときでありましたが、西野と三枝
事件についていろいろ話をしたけれ
ども、それは先ほど申しましたような証言内容とも違いまして、その当時、川口という人が警察方面の被疑者になっておつたようでありますが、その川口というのは一体ほんとうにどういうのだろうかということをこの石川が尋ねたところ、西野は、それは違う、川口ではない、しかし誰が犯人か自分はわからない、こう言っておつた
程度であります。ところが、なぜこのような証言をし、またそれと同様の検察庁の調書ができたかと申しますと、石川幸男の当局の
調査官に対する答えでは、検察庁の村上
検事に調べを受け、追及をされ、うそを言つた、また
裁判所でもうそを言つた、こういうふうに述べておるのであります。どうしてこのようにうそを言うようになつたか、その過程につきまして、この石川につきましては、まだ十分な
調査があるわけでございますが、詳しく御報告をする必要がございますれば、またあとで申し述べます。
その次は黒島テル子の件であります。この黒島テル子という人は、
昭和二十九年の八月二十七日ごろ検察庁で取り調べを受けまして、テル子が悪い者になりまして、亀三郎との
関係が深いものになれば茂子の罪は軽くなる、こういうふうに言われたというのでありますが、要するに黒島テル子が
一つの悪い者になる。そうして亀三郎と深い
関係にあるということを認めるならば、茂子の罪は軽くなる、これは茂子が嫉妬のためにやつたという動機の情状の点でありますが、そういうふうに言われたというのであります。それで非常にきびしく追及されて、やけ気味になって、亀三郎との
関係が深いというように申し述べたというのであります。けれ
ども、実際は一、二回泊つた、けれ
ども肉体
関係はなかった、出雲大社の招待旅行の計画があったことは知っておるけれ
ども、亀三郎から誘われたことはないのだ、最近ではこのように述べておるのであります。これも必ずしも拷問的なことはないのでありますけれ
ども、やはりあとから考えると、そういうふうに認めざるを得なくなつた、こういうふうに言うのであります。そうして現在黒島テル子は、亀三郎との
関係があったなんてとんでもないと非常に憤慨をしておるのであります。
それからもう
一つ重要な証人といたしまして篠原澄子というのがありますが、この篠原澄子というのは、結局一審、二審では富士茂子に頼まれて短刀を阿部に渡したという証言をしておる人であります。ところが、なぜこのような証言をしたかといいますと、当時妊娠かなんかでありまして、入院中だったのであります。それでいわゆる誘導的な質問と申しますか、こうであったろうと言われたので、その
通りだと述べた、こういうふうに言っておるのであります。これもやはりそう別に拷問はございませんけれ
ども、ただそういうふうな出産で入院中であり、病気中でありましたので、もうあまり深く追及されてもというのでそういうふうに述べた、こう言っておりました。実際三枝亀三郎とこの篠原とは全然
関係がない、こういうふうに現在では述べておるのであります。
大体、西野、阿部、その兄の幸市、石川あるいは黒島、篠原、こういう人が検察庁あるいは法廷において述べたことが違うということを言つた
理由でございますが、それは以上の
通りであります。