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中島参考人 私は
社会教育の
専門家ではございませんが、戦後まだ
日本の
社会教育がこんとんとしておりましたころに、
社会教育に関する興味を持ち、また研究したわけでございます。のみならず、その当時は
社会教育主事といったような名前があったかどうか記憶しておりませんが、この
社会教育は、
公民館とかあるいは
青年館とかその他いろいろなものがある。そういうところの
指導者の
講習に頼まれて
出席したこともございます。それからその後、私自身がそういう
要請に直接に
関係したことはあまりないのでありますが、そのかわり今度は私の仕事の
都合上一年に何回か、もっと数が多いのでありますが、
日本の各地に参ります。特に最近は
僻地、離島というようなところに、しばしば参る機会がある。そこでそういう
経験から、今の
社会教育の
実情を大づかみにつかみまして、そして
意見を申し上げたいと思うわけであります。
はなはだ残念でありますが、現在の
日本では
地域と申しますか、あるいはさまざまな環境による人間のものの
考え方というものが非常に違うのであります。これは単におくれている、あるいは進んでいるというふうに言っていいかどうかわかりませんが、おそらくそうではないのであって、やはりその原因を尋ねますといろいろむずかしい問題があると思います。一例をあげますと、たとえばいわゆる
僻地といわれるところへ参りますと、その
僻地自体も問題を持っております。それはもちろん経済的な問題もあり、また
教育の問題というのがいつもそこでやかましく論じられている。ところが、ここに厄介なことには、近ごろは幾らかよくなったのでありますが、それにもかかわらず、やはり
地域社会の問題を
地域社会の
範囲内でしか考えないという傾向が非常に顕著である。そして、問題によりまして、その
地域社会でどんなに骨を折っても、結局国全体の問題として考えなければ、あるいは国際的な諸
関係まで頭に入れて考えなければ片がつかないというような問題がずいぶんある。しかし、そういう場合に、私などがよその例をあげて、ほかではこれこれこういうふうになっておるというふうなことを申しますと、ときには、逆に、よそはどうでもいい、よその話を聞きたいんじゃなくて、自分のところをどうすればいいのかというような質問を受けるわけです。自分のところはどうすればいいのかと言ったって、よそを考えなければそれはうまくいかないのだ、ということを説明するのに非常に骨が折れるわけです。そういうときに、いつもそういう狭い考え、私は不幸な考えとも言いたいのでありますが、それと私との間をつなぐものはいつも
社会教育の
実務に当っておられる方々であります。そこで、この
社会教育の
実務に当っておられる方方と申しますのは、大きいところで
社会教育主事というような方々がおられる、あるいは
公民館長というような方がおられる、そういう方々である場合もこれは多いのです。しかし私の
経験から申しますと、乏しい
経験とも申せますが、私自体の
生活からいえば、かなりの
部分をさいております勉強の結果でありますが、いつでもそこに第二の人間がいる。それは何かといいますと、全然何の肩書きもない人であります。いわばその土地の有力者というような形で呼ばれましょう、ときにはお医者さんであり、ときには実際農業をやっておられる農村の人間である場合もある。その
人たちは、何かの理由で、
教育の結果かあるいは
生活体験の結果か存じませんが、広い考えを持っている人が存在するのであります。そして、その
人たちは非常に広い考えを持って私どもとも話が通ずるのでありますが、同時に、その
地域社会の人々に対しても、私どもが上から頭ごなしに申すよりははるかに説得力をもって説明することができる。そしてそういう
人たちが私どもを
要求するという理由は、そういうことを考えているのが自分たちだけではない、よそから来た人間もそういうふうに考えているんだということが非常に大きな裏づけになりまして、そこでしばしば話し合いが始まる。そしてほんとうにいろいろ考えなければならぬようになることが多いのであります。最近にも、私は四国地方に行ったのでありますが、四国の徳県島、香川県の僻村、離島へ参りまして痛感したのでありますが、
社会教育にもいろいろありますが、まず
公民館にしてもあるいはその他のさまざまな施設、
機関にいたしましても、これはどうも上から持ってくるものではない。下に盛り上りがないところではどういう状況になっておるかといいますと、形は整っている、
公民館もりっぱに存在する、それから役職員の方々もおられる、何か会合をやれば人が集まる、それは確かでありますが、その集まり方が、何か上からやっている場合には自発性がない場合がしばしば見受けられる。一方、下から盛り上っている場合には、そういう
社会教育の施設に集まってくる人間の心意気が違う場合がある。これはもちろんすべてがそういうふうにはっきり分れるわけではありませんが、そういう点がしばしば見受けられるのであります。これは今
社会教育の必要ということはもう申すまでもないことでありますが、特に、
日本の場合にはものの
考え方があまりにもあっちこっちで違う。これは都会で考えておりますのとだいぶ程度が違うのでありまして、時間がございませんので詳しいことは申し上げませんが、私どもはしばしば意外なものにぶつかったという気持がするのであります。たとえば
政治につきましても、二大政党対立とかなんとかいうふうにいわれておりますが、政党の問題は出てこない。政党以前の問題があるということをしばしば感じるのです。つまり、その土地の有力者がおりまして、その有力者が何党に属するかということはもちろん知っているのでありますが、大へん失礼な申し分でありますけれども、一体その政党がどういう政党であるかということは何も知らない。極端な場合には、何かの御
都合で党籍が変られればやはりその通りになってしまう。簡単に申せば、よく戦争以来いわれていることでありますが、
日本における顔と申しますか、親分子分と申しますか、そういう
関係が非常に強いわけであります。そして、もう
一つ、私の
経験で痛切に、最近に至るまで感じておりますのは、国の権力に対して、そういう土地の
人たちの中には、非常に敏感な人が多いということ。つまり、これは国の権力だけではないのでありまして、たとえば新聞、放送などのマス・メディアに対してもそうなのでありますが、とにかく、どこかしかるべきところから出ているものならば、全然批判しないでそれを受け取ってしまう。これは非常に危険なことでありまして、
政治にいたしましても何にいたしましても、全然批判力を失って、与えられるままになるということは、どの点から考えても望ましいことではない。これは
政治だけではなく、社会問題その他に関しましても、新聞なり放送なりというものはいつも正確に報道しようとしてはおりますけれども、そこには見解の相違も、あるいは認識の相違もある。そういうことは、都会にいるわれわれ、特に私どもはその批判というものを自分の任務といたしておりますから当然のことのように考えるのでありますが、そうは参らない。そのために非常におかしなことが起るのであります。
最近の
経験では、ある島でありますが、その島は実際に電気がございません。実は石油発動機で発電しているのでありますが、夕方六時から十一時まで四十ワットの電球を点灯するだけの発電をしております。それ以外にはラジオも何も聞けない。ただ、トランジスターラジオというものができて参りましたので、電池でもって放送を聞いているという状態の島であります。そして、もともと漁業の島でありますが、北朝鮮に出漁しておりましたのが、最近の情勢でそれが不可能になって、ほとんど全部がその島に戻ってきている。そして、その近海の漁を始めたのでありますが、当然乱獲に陥るし、思い通りに
生活もよくいかないという島なのです。そこで、ある新聞がその島に関する記事を出した。それは、非文化的な離島、それから、医薬のかわりにおまじない、という題で、その
内容を見ますと、この島は非常に文化がおくれている、そして人口があふれているので、出かせぎに行く、出かせぎに行っても
言葉がおかしいから一向にどうも勤めが続かない、トランジスター・ラジオなんか見たこともない、というようなことを書いてある。私は、ちょうどその記事が出ました翌日島に参ったのです。そして、実は、私は調べにいったのでありますから、別にそこで話をする義務はないのでありますが、そういう場合にありがちなように、今晩座談会をするから出てくれ、しかもその村のしかるべき人々に通知を出してしまったからぜひとも出てくれ、というので断わりかねて出たのでありますが、それも普通の平らかな気持でその場に参ったのであります。そうしたら、突然非難攻撃を受けた。これは皆さん方も御
経験があるかもしれませんが、この場合私が何者であるかということは全然
関係がない。私は某新聞に全然
関係がありません。そこに執筆することはありますが、しかし記者でも何でもない。ところが、その島以外から来る者に対して非常に敏感である。そして少しでも悪口を言われれば怒る、少しでもほめればうちょうてんになるという状態がある。ただ、その中に
社会教育に非常に熱心な方がおられます。これはよそから来た、東京から来られた方だそうでありますが、戦災にあわれたり何かして島に落ちつかれた。そして公約には何の
資格も持っておられないのでありますが、非常によく世話をしておられます。その場合にも歴然と、私に対する非難というものは不当であるし、私が怒れば怒ってもいいのでありますが、また私はすぐ察しましたので、まあいろいろなだめたり弁解したりしたわけであります。そういうときにやはり
社会教育の問題がすぐ出るわけであります。そしてそういうような傾向に対して——非常に困った傾向でありまして、いろいろそういう態度があるゆえに、おそらくさまざまな援助の手もあるいははばまれるという場合があるかと思うのでありますが、そういう場合にいつもそこでもって力を尽しておられる方は、公的な
資格を持っておられる方だけでなくして、ほかの方にそうした点を特に強く感じるのであります。
大へんむだ話のようでありますが、やはりこういう実際問題から考えて、今度の
社会教育法等の一部を
改正する
法律案を拝見したわけでありますが、私は法的にむずかしいことを申そうとは思いません。多少は調査はいたしておりますが、その点はほかの公述人なり、あるいは
参考人の方々がよく御存じでありますし、もちろん国会の方々の方が御存じなわけでありますから、私は触れませんが、現在の状態では、ある基準を用いて各地に
公民館を作る、あるいは
社会教育の施設を作るというのは、これは暴挙であります。というのは、もしそういうことをやっても、その土地の事情に合わないことをやったならば、必ずこれは荒廃します。私は
公民館は——これは例の
公民館の設立ということが言われましたときにいろいろ聞いたのでありますが、そのときの一番の誤解は、
公民館とは建物であるということだったのであります。現在はだいぶ進んで参りまして、建物が必要であるということに確かにきております。しかしあのときには、たとえば学校の一部を
利用してもよかったのでありますが、ただしこれは教職員の任務が非常に重くなるというので、学校側ではあまり好まなかったようでありまして、建物を作ればいい、そしてそこにある
教育を受けた人間が入ってくれば、それで
社会教育が理想的に行われるということは、
実情に照らしてどうしても考えられない。これはやはりいましばらく各地の状況を見て、しかもこれを育成していく。その育成も上からくるのじゃなくして、いろいろそこには育成の手がかりがありますから、そういうところをよく見てこまかにやっていく。やや現在よりももう少し水準化したときに、今度は少し上からでもけっこうですが、
補助をするなりあるいは指導をするなりということをしてもいいと思うのです。現在は
補助に対して非常に弱い、指導に対しても非常に弱いという事実も私は
経験しておるのであります。つまり
補助がなければ屈服しているのであります。四国のある部落では、婦人の方々が集まって「満月会」というのをやっておられる。それは満月の夜にみんなが集まってそこで忙しくて放送などを聞けなかったような人のために、放送を聞いた人が雑談の形で話してやる、あるいはその部落に関するさまざまな公的な事柄についても「満月会」で話し合うということをやっております。少しうまくいき過ぎているぐらいにうまくいっているような報告でありますが、現地に行ってみますと事実なのであります。これはいわば模範的なものとして注目されているようなところでありますが、とにかくそういうところでやっているのは何かというと、これは私も実際に行ってみましたが、一人のお医者さんとそれから何人かの主婦が原動力になって、それを続けてきた。そういうところでも、これは金があればいい。私は
補助金について法的なことはさておきまして、どこでも今金が欲しいということを言っておるわけであります。金がなければどうなるかという、金がなくてもやっていけるのです。なぜかといいますと、十円か何か持ち寄って、それを会費にしている。少し大きなことをやるときになると、これは金が要るということは明らかでありますが、それは実際には直接に
社会教育の組織や施設を持たないでも、手を回せば自治体なり何なりが幾らでも持っておる、学校のものも借りられる、そういうことがありまして、これは事欠かないはずであります。もしその気になりさえすれば四方八方からささえの手が出てくるという状況があります。そうしたところにはどんどん金を渡したいのでありますが、全国を見渡しますと、むしろそういう非常に有望な芽が育ちかけているときであるということもまた疑いを入れないと思います。
それに関しまして、今度はまた県なり何なりにも非常にすぐれた方がおられるのでありますが、
教育委員会でもそうでありましょうが、人間の問題が非常に重要なのであります。特に
教育主事という者は、単に技術的、専門的
教育を受けただけではどうにもうまくいかない。そこでこういうことになる。簡単に申しますと、人間が
社会教育に適するということが第一条件であります。ただしどんないい人間でもこれが技術的に欠けるところがあったらば、またどうにもいかないということがある。そこでそういうこともおのずから行われているわけであります。つまり
社会教育に首を突っ込み、中には変なくせのある人がいないではないかもしらぬが、これは大体において好きであり、またそういうふうに適している人でなければやれるものではないのであります。金もなし、そして周囲からしばしば変な目で見られる。農村なんかでは特に非常に古い封建的な考えが残っております。家族
関係その他について都会では普通に考えていることが非常な障害にぶつかる、そうしていやなことも言われるというような目にあいながらもこれに挺身している方々は、私は尊重しなければならぬと思う。ただ金をもうけたいから、自分の
生活の足しにやっているのだというような方がいるかもしれませんが、それ以外に全く善意であり、かつまた人間として、人柄として、これは適任であるという方々に私は数知れず会っております。そうなりますと、今度はそこに
教育をしなければならぬ。その
教育の場合には、これは人格
教育というまでは考えたくないのであります。たとえばこれも非常に乱暴な言い方かもしれませんが、非常に大ぜいの人間のことでありますから、
教育委員会なりあるいは県の
教育機関なり、あるいは中央においても官庁なり、その中の者が全部理想的な
教育者としての
資格を持っているというわけではないのであります。ことに人格の問題になると、これは簡単に割り切れないものがあって、いわば
地域社会の人間を引きつける魅力なんというものは幾ら分析してもわれわれにわからぬ場合がある。そういうような
資格を持った
人たちが、これは自発的に出てくる、あるいは人々が推挙する、そうしてそれに対してどこかでもって専門的な技術的な
教育をするという形が、現在では理想的ではないかと考えられる節が多いのであります。
そういう点から考えまして、これは法
解釈の上からいって、今度の
社会教育法の
改正がどうであるということについては、これはおそらく私は水かけ論ではないかと思う。どちらでも理屈は立ちます。大体
法律というものはそうあるべきものでありまして、それでなければ法
解釈というものは
意味をなさないのであります。どちらにもなるかもしらぬ。しかし
実情に即しました場合に、やはり指導という問題、それから
教育という問題、
補助金というような問題については、最小限度非常に慎重な扱いをすることは、これまた疑いを入れないと思うのであります。この指導に関しましては私が申すまでもなく、悪意でもって妙な片寄った指導がなされるという場合がないではない——残念ながらこれはないでもありません、しかしそのわずかな例をとって私はいろいろ申すのではない。それは指導を受ける方の受け身の側が非常に敏感であり過ぎる。何か権力のようなものにつながっているところからくれば、そうかといってあわてふためいて、実際にはその監督なり指導なりした人が予期しなかったようなところまでぱっといってしまうという例は、おそらくこれは選挙区をお持ちのような方々は当然御存じのはずであります。そこまではおれは考えなかったが、やれやれというようなことは幾らでも例がある。そういうところからやはり指導というものは、もちろんこの法の
改正を行わないでも実際は行われている、必要な指導はしていかぬということはないのであります。だから話し合いの形なり何なりで、こういう法的な根拠は別になくても、善意の指導は行われているのであります。
それから
教育に関しましてはこれは非常に簡単なことでありますが、私はこの
法律の中で、「等」とか「その他」とかいうものが非常にきらいなんです。これは正直のことをいって何が入るかわからぬです。それは
立法当時の方々がお考えになった以外のものが将来入る
可能性がある。これは
立法府の国会の方々がそのときに不純な何ものかを予想しておやりになったとは思わない——思わない方がほんとうであるし、またもしそういうことがあったらこれはまさに不当であるのであります。文部省当局がその中でもって一種の失地回復を試みるとすれば、これは許すべからざる行為であります。そういうことがあるかないかということをここでもって論議すべきではなくて、もしそういうことがないとしても、私はやはりその点お考えを願いたいと思う。つまり「
文部大臣の委嘱を受けた
大学その他」の中に何か入っておるとすれば、——これは
修正されまして
原案に
教育委員会が入っておるのが削除されたのは非常に喜ばしいと思う。私は
教育委員会の実態を知っております。非常にすぐれたものもあるが、中には急ごしらえのものがある。特に市町村になりますと、なぜ市町村に関するさまざまな除外例があるか、
公民館にしても除外例があるかというと、そういう人間はほしくてもいないという
実情がある。そういうことが非常に多い。県にしてもそういうことがあります。いろいろとそういうことがあるという事実が、これまたこの法案の
趣旨が曲っていないということを、私がここでもってそういうふうに想定すると申し上げた通り、一方に
現実論としてお認め願わなければならぬと思います。従って「その他」というようなことは大へんにあいまいであって、
原案にありますように
教育委員会がそれを行うことができるというならば、私はこれに反対せざるを得ない。しかもこの
法律というものは永久不変のものでありませんから、さしあたりのところは各
大学におまかせになってもいいんじゃないか、各
大学がそういう施設あるいは講師などの準備がないというならば、これは
大学教育の問題であります。各地方の
大学の問題は、これは重大なんです。何のために各地方の
大学が存在するか、これ自体がすでに問題になっている。私は各地方の
大学、特に国立
大学などが存在する理由はその
地域社会にも大きな福祉を与えるという点にあるのだと思います。従ってもしそういう点が不足ならば、予算をふやすなり何なりして拡充していきたいということを考えるのであります。
その他大体私の論旨はほかの諸点についても同様でありますが、
補助金につきましても、先ほど申し上げた通り、
補助金というものは、金は確かにあった方がいいのでありますが、もし出るとなったときに、
補助金をめぐってどういうことが起るかというと、これは理屈ではございません、この
社会教育法以外でもたくさんあります。ことにこれが非常に大きな額のものならばまた別であります。ところが私の聞いておりますところは、そう大きな予算ではない。それを公平に割り振ったらどうなるかといったら、これは全くアワ粒みたいに分けるわけです。従って一種の必要悪として不公平にならざるを得ない。どうしても重点主義をとらなければ
意味がない。今のこの世の中で百円、二百円、あるいは千円、二千円の
補助金を出すということは無
意味であります。そういう点から、
補助金については
憲法云々の問題もございますが、時に
補助金という形でなくて、地方予算なりその他でもって考慮を願えれば幾らでも道はあると思うのです。この場合これを削除することは、
補助金を出すのが反対であるということと別の
意味で、これを特にこういうふうに
補助金を出してもいい、賃金的に出すということになりますと、それということになるのは火を見るよりも明らかであります。
私のは実際論でありまして、理屈でああなるこうなると言われても弁駁の余地がありませんが、そのような点から、この
改正案についてはできるだけ慎重に御審議を願いたい。そして現に、私は名を連ねておりませんが、非常に強い反対論が出ておることは承知しております。その反対論者の議論を聞いておりますが、その中には
実務家の中でやはり傾聴すべきものがあると思うのです。そういう点も十分にお考え下すって、これは急いで通しておしまいにならぬ方がいいというふうに、私は
評論家という自分の職務から申しますと、もしよそに書く場合にもそういうふうに書くでありましょうし、ここでも平生思ったことを述べた次第であります。少し時間を超過して申しわけありませんでした。