○原(茂)
委員 今おっしゃった中の、従業員から信頼されないことはさびしいことだとおっしゃったのですが、十分従業員も信頼していると思いますが、
大臣が、自分の従業員から信頼されようとしても、従業員の方が自分たちの仲間を信頼するほどに信頼を求めることは立場が違いますから不可能です。対立する立場にありますから、その対立する立場の中で最もいい協力の
方法は何かというので、相互にたんかいに協力の手段なり
方法を求め合っている姿が今の姿ですから、これは立場も相違しておる。労使の
関係は全逓が正しいのですから……。従って初めから労使がまるで仲間みたいに信頼し合ったらかえってストップしてしまう。切礎琢磨されない。私どもの立場からいうなら、これは違った立場に立ちながらも、そこに共通の、どういう
方法で一体協力できるかを求めていくというところに今の労使の正しい姿があるし、それが発展的なものだ、こういう考えを持っていますから、
大臣が幾ら信頼されようとしても、立場の違う労働階級から百パーセント信頼を得ようとしても、これは無理ですから、やはり立場の違った中で、人間としての信頼性というものをどの程度求めるかということになるかと思います。これは百パーセントこないからといって嘆いてもむだなことだと思いますので、前もって言っておくわけです。
そこで今の御答弁に関連しまして、私があえて申し上げたかったのは、たとえば今度の情状酌量の中に、処分は、今言った実際の遅配その他もなかったということから、情状酌量をしたというのですが、そこでもう
一つ突っ込んで、
大臣が辞職をするほどの
責任を感じて、そいつを加味して——正直でけっこうです。またそうだろうと思いますが、そういった気持が多少でも前段に返って、遅配というものなりこういうトラブルというものが起きるという
責任は百パーセント労働組合だけにあるのではないのだ、人間のやっておることだから経営者側にも当局側にもあるのだという反省は絶対に必要だと思うのです。そういうものが多少あったときにおいて、
責任というか、自分自身がとり得る道があると思う。あるとするならば、この時期に処分をあわてて発表しないということが
一つ。もう少し他に
方法はないかというようなせんさくをやっていただいて、できることならILO条約の批准というものを閣内におきましても——
大臣が最もILO条約に対する関心を持っている一人だと思うので——これは持たざるを得ないのですが、こういう国際的にも進んだ、多くの国々がこれに批准を行なっているこの種の問題が、わが国において現在批准されるかどうか。閣内あるいは自民党内、社会党内、ないし労働階級におきましても一体どういうふうにこれが論議され動いておるか。総括的に見るならば、ことしのうちか来年ごろの間にはどんなことをしても批准される運命にあるのではないかという、すこぶる私は必然性を感じておるのです。私はそうなのです。そういうふうな状態の中では、もう一歩自民党も考え直し、おるいは最もこれを必要とする
大臣の立場において、閣内においても思い切った
一つ発言をし、これに対する正しい理解と協力を得るならば、ILO条約に対する批准というものも早期に希望が持てるのじゃないかと私は思う。この種の処分をするという問題が、やがてはある時期を延ばしておる間に、批准ができた、ないしは批准ができそうだ、もう問題なくできるようになった、それはいつなんだ、こういうきまったときがくるなら、私はこの処分というものはやはり
内容が変ってきはしないか、さかのぼって情状酌量の余地が起って出てくるのじゃないかと思う。批准ができたときと、もう
あと期限の問題だけだ、
あと少したてば批准をすることに全部世論が一致したという二つの場合、そのときにこれを処分するときには、さかのぼって考えたときにこの処分の
内容というものはだいぶ変ってくるだろうと私は思う。そのだろうです。
大臣の先ほどから言われている自分の従業員、
子供たちに対する愛情を込めて、多少自分にも
責任がある、何とかしたいのだという気持をもう一歩進める、そこまで思いをいたしてもらって、この処分の発表も、もうちょっと努力してみよう、ILOその他を頭に置きながら努力してみよう、今やらなければいけないというのなら、そのための時期をもうちょっと延ばしてみるというような跡が、この処分の発表されるまでに出てこなければならない。それがにじんでいない。もう少しそういうところをにじみ出して、自分も違った
意味で努力をするために、処分は本来一月二十四日付でやろうと思ったことを、五月なり六月なりに延ばしたのだが、自分の努力の片方の大きな期待というものがとうとう暗中模索してつかみ切れないために、やむなくこの処分の発表になったのだというようなことに
大臣の
説明の文書がなっていた方が私は気持がいいし、
大臣らしいな
あと思う。今までの
大臣の御答弁を聞いてもそのくらいの親切さがあると、その
説明資料全体が親切なあたたかい低姿勢に一貫されてくるのだ。事労働問題に関する限りは高姿勢で、
あとはすこぶる低姿勢で言葉もいんぎん丁寧な言葉を使ってやっている、こういうふうに考える。ただ「労働問題についてだけ申し上げます。」と、ぽかんと
一つピークをなしておることは遺憾千万だと感じておるということを一点だけ申し上げておきます。
次に少し方向を変えて、濱田さんもおられるので、NHK問題を少しお伺いしたい。この間ちょうど
総理の施政
方針演説のあった日かの夕方六時に、「
子供の時間」の放送を聞きました。それから興味を持って「
子供の時間」というのをほとんど欠かさず聞くように努力しておりますが、このときの放送に、「
子供の時間」で
国会の様子が実にわかりやすく親切丁寧に放送されていたのです。私は「
子供の時間」というのを全体的にいいますと、これは国民が聞くと怒ると思いますが、やはり本来普通のニュースでも何でも「
子供の時間」に
子供に解説をするようなあの程度、あの
内容で放送してもらいたいことがたくさんある。おとなですらちょっと難解な言葉がずいぶんあり、そういうものをそのままニュースその他ではべらべらとしゃべる。これをわかることにして、全国の聴取者はこれを聞いているのですが、私の正直に受けた感じでは、あの「
子供の時間」に放送される程度のやさしい解説つきでニュースその他を放送してもらうことの方が、特に国民全体からいうなら私は非常に喜ばれるしわかりいいし、いいんじゃないかと思う。それほど克明に、わかりやすい、いい言葉で解説しましたら、全国民みんなよく頭に入る。六時の「
子供の時間」だから、
子供だけが聞いていておとなは聞かないか、これはそうではなくて、やはりおとなが一緒に聞いていることは間違いない。それほどいい放送です。私が聞いても
内容は親切でわかりやすい。しかもおとなが聞いています、私も聞いたのですから。それも事実興味を持って聞いていますから。それほど非常に影響力のある「
子供の時間」の当日
国会の様子を放送したのに何をしたかといいますと、——私は施政
方針演説というものの行われるときに大事なことは、それに対する野党である第一党の総裁がこれに質問をするということも行事として当然、これはカップルで、認識としては常識的に持たれているものだ。
総理の施政演説と同時にこれに対する野党のいわゆる代表者の代表質問があるということは常識なんです。ところがおとなも
子供も聞いている「
子供の時間」に、私が聞いていましたら、
総理の施政
方針演説の
説明があった。約四分間克明にありました。それだけなのです。私は聞いていて
あと非常に物足りなかった。社会党の私だから物足りないのじゃなくて、やはり国民もおそらく全体的に物足りない印象を受けると思う。特に大事なことは、「
子供の時間」と銘打って、おもに
子供が聞くだろうという前提であるならば、民主主義の一番大事なことは何といっても
一つの見解が発表されたとき、常識的に恒例的にその反対の立場の見解が発表されるということがわかっているときなら、なおさらに私はその反対の立場に立つ見解というものを同時に出してやる、こういうことが
子供にもし聞かせようという時間であればなおさら私は必要だと思う。「
子供の時間」のときに
総理の施政
方針演説だけが克明に丁寧にわかりやすく放送されていて、その反対党の第一陣の代表質問のこういう質問があった、こういう意見が開陳されたということに全然触れないということは、編集あるいは編集権の
内容に関する問題ですからあえて私がどうこうしようというのでなくて、国民の一人として率直に物足りないし、
子供の教育上からいっても、私はやはり大事な
国会における代表質問あるいは施政
方針演説、これはもうカップルが常識なのですから、その場合にはなおさら正しい
国会の運営のあり方も一部知らせると同時に、民主的な言論のあり方というものが正しく認識されて、たとえばクラスでいろいろ行事をやるようなときにも必要なことにもなるわけですから、せっかくのいい機会にいい教育をしようとなさるのに、一方的に
総理大臣の施政
方針演説だけを、十二分過ぎる放送を、克明丁寧にやっただけで終るということは、あの当日にはふさわしからぬ、こう私は思うのですが、
大臣と濱田さんの見解をお伺いしたい。