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植村参考人 私、ただいま御
指名を得ました
植村でございますが、たまたま
南ベトナムとの
交渉について
関係を持ったものでありますから、一応ごくあらましの
交渉の
経過を申し上げたいと思います。
私がなぜこの問題に
関係を持ったかと申しますと、たまたま
工業家の五、六人の方々と
親善ミッションを組織いたしまして、
南方諸国を回る企てがあったのであります。それが一九五六年、つまり
昭和三十一年の三月でございました。で、その参ります前から伺いますと、ちょうどその年の初めごろから、前に沈船の引き揚げが問題になっておりまして、それが中途で
停頓状態になって、そこでいわばあちらとしまして、
全面賠償交渉をやりたいという
要求が出まして、それが問題になっておったころであるのであります。その
要求なるものが前から申しておるようでありますが、二億五千万ドルの
賠償をよこせという非常な膨大なものであって、当時の
小長谷大使が先方と折衝されたようでありますが、いわば取りつくすべもないような
状況である。ところでちょうどお前はあっちへ行くのだから
大統領にも会う機会もあるわけであるしするから、そのときに、もしちょっとでも話が出たようなときに、いわば全くサイドからの問題として早くやったらどうだというようなこと、あるいはそんなめちゃなこと言ってもいかぬじゃないかということで、
意見交換をしてみたらどうかというようなことが、当時
外務省の
アジア局長中川君からもありまして、それはどんなことになるかわからぬが行ってみますということで参ったのであります。ところがちょうどそのときに、三回、
大統領と、ちょっとそのことについては別に話をしたいから来いということで会いまして、それで私としましてはそのときにこういうことを言ったのであります。早く
経済の復興をやらないととてもいかぬじゃありませんか、
賠償問題ということがえらく問題になっておるようであるけれども、それはそう大きなものを期待するということは無理なんだ、むしろ
経済協力の線で必要な基礎的なものを早くやれ、それが一番いいじゃございませんかということを申し上げてあったのでありますが、だいぶ
大統領も動いたようでありますが、
最後に閣議を開いていや、
賠償問題というものが解決しない以上はうっかり
経済協力なんというものに手を出すことはいかぬということになったようでありまして、それでその後
書簡の往復が二、二回ございましたが、そのままに終ってしまったわけであります。ところがその後やはりこの問題を何とか解決したいという
政府も意思を持たれておりまして、私もこの
賠償の問題につきましては、いろいろな御
論議がありますが、要するに、
日本としてできるだけ早く
賠償の問題というものを全面的にきめる必要があるのじゃないか、当該の国といたしましても、何か問題がありますと、すぐ
賠償が解決してない、これをまず解決することが先であって、お前の言うこともそう簡単には聞けぬじゃないかという
議論が小さな問題についてもすぐ出て参る。また
経済の
協力というような面から見ましても、やはり全面的にどことでも、
賠償問題が解決しますと、初めてわれわれとして
一つの基本的な
条件がわかるわけでありまして、
経済協力をやることからいきましても望ましいし、早くやることはどうしても必要であろう、
政府がそう言われるならば、私、前にそんなふうな
関係もあったので、多少いわば真剣に
議論をしたこともありまして、ひっかかりもないではない。それじゃ
一つ参ってもよろしゅうございますということで、
外務大臣の
特使として
昭和三十二年九月二十八日から十月の末日まで
ベトナムに参ったのであります。そのときには
外務大臣の
特使というような形で参ったのでありますが、あちらとして、私と
話し合いをする
相手としてトウ副
大統領を任命する、副
大統領と隔意ない話をしてくれ、こういう
お話でありましたので、副
大統領と
お話しをいたしたのであります。やはり初めから二億五千万ドルというふうなものの細目を示しますし、いろいろ
日本は
賠償する
義務があるというようなことを申しますが、
日本政府も
賠償の
義務がないということを考えているわけではないしかしそういうことを言われても、それにはおのずから
日本との本問題に
関係のあるほかの国々との比較の問題もあるだろうし、現実のこちらの戦時中にこうむられた
損害というものもあるだろうし、そういうことを言われてもとてもいかぬのだというようなことをだんだん
お話しいたしまして、そうしてたまたま、これは
久保田参考人が非常に詳しいそうですが、私が初めて
大統領に会いましたときから、ぜひ
電源開発をやりたい、これは
経済開発の基本でもあるし、それから現に
サイゴンの
電力料にしても相当高い、また供給も十分でない、こういうような
状況では
工業化もできないからぜひやりたいというようなことは前にも言っておりまして、やはり
経済協力の
重要眼目としてあげておったわけであります。そこでもう少し具体的な問題から考えてみたらどうですか、
賠償でもって二億五千万ドルは高い、それじゃ高いというなら、二億ドルにするとか、一億五千万ドルにするとか、半分にされるとか言われても、これはなかなかこちらとして聞けるものじゃないと思いましたので、むしろこれにどうアプローチするかということが非常に私としては苦慮したところであります。だんだん話しておりますうちに、
経済開発、民生安定ということに一番
関係のある
向うの熱心な問題として
電力の
開発が感じられましたので、この
電力の
開発というようなことを
一つ賠償でやるというような考えで
話し合いをしたわけであります。だんだんあちらもそういう気持になって参りまして、私が帰りますときには、これははっきりしたことでございませんけれども、
おぼろげながら
向うで考えておることは、
ダニムの
電源開発というものについて
賠償でやりたい。それからこれは小さい問題でありますが、いろいろな
経済建設をやりますのに、
機械の修理あるいは部品の
製作等についての
機械工業の力がないのでありまして、これを若干整備しないといけないという
意味で、
機械工業の
センターを作るために
機械を二百万ドルくらい。それと
肥料及びソーダということを
向うは言っておりましたが、その
工場を作りたい、これを
賠償でやってくれ。ずっとその費用を考えてみますと、大体六千三百五十万ドルか六十万ドルか、その辺になってくるのであります。これはむしろそれをよこせというふうな形というよりは、そのくらいの
要求はどうしてもするであろう。それからそのほかに一般の
経済協力として三、四千万ドルくらい、
合計一億ドルくらいの
規模でものを考えているということがほぼわかってきたわけでありますが、まだこれではとうてい話にはすぐ乗れませんので、私としましては、一応大体こんなふうな模様であるというところで帰って参ったのであります。その後
岸総理が、あれは幾日でありましたか、あそこを訪問されて、やはり
賠償問題についてなお商議を続けるということと、それからあちらで言っているということの報告を受けて、この全部について、とうていそれはまだ
日本として容認できるのではないというふうな
お話があったようであります。その後、だんだんそういうふうに詰まって参ったものでありますから、もう一ぺん、
日本は
賠償をほんとうにやる気があるかどうか、やるならばすぐでも来てほしいというようなことがございまして、その次には十二月十四日から年末まで私はまた
サイゴンへ参ったのであります。このときはいわば
賠償に関する全権といいますか、そういうような資格で、一応
政府としての
交渉もできるというような形で参ったわけであります。そこでまた
議論をして参ったのでありますが、
議論は、私といたしましてもそうでありますし、いわゆる
経済協力の方につきましては、これは
双方の
実業家がやろうという
お互いの了解に立たなければ出発しないのでありますし、十年間にどうするとかなんとかいう問題でありますが、
賠償の方はきっちりした問題でありますので、私もそちらについてもう少し合理的な線が出てくることに
努力いたしましたし、あちらもそれはだんだんに詰まってがんばったというのが
実情であります。それであちらは約六千三百万ドル
程度の
規模はどうしても
賠償でよこしてくれということを申しますし、私はそれはとてもできない、いわば四千万ドル以上の
賠償というものは言ったってとうていやれるものじゃない、結局四千万ドルだとか五千万ドルだとかいう
意味でなくて、この
ダニムの
発電所の
建設ということは、あなたの方も非常に必要と思っているし、私
自身としても
工業の基礎であると思うし、
サイゴンの
電力料というのは、
日本の金に換算してみますと、
家庭用は三十五円、
工場用の動力でも二十五円というふうな形になるのであります。
日本から見ると三倍以上になります。こういうのを少くとも現在の半分にできるというふうな点もありますので、そういうふうなものを
一つやったらどうか。ことに非常に大きな
計画になっているけれども、第一期と第二期だけを
一つ取り上げる。
両方とも八万キロの
計画でございますが、第一期を三年間くらいでやる。それからその次に二年くらい追っかけて、
合計五年で十八万キロ、そういうようなことでやったらいいのだし、それのうちでわれわれの考えているところでは、第一期工事の
外貨所要分は三千七百万ドルくらいになりますが、それと
機械工業センターの二百万ドルを加えて
合計三千九百万ドルというくらいのところにやれば、これは
日本政府の方でもよろしいと言う
可能性もある、それ以上はとうていだめですというようなことで、
がんばりにがんばったのであります。
最後までなかなか
向うの線が出て参りませんでしたが、
最後に少し動いてきたらしいという気配も見えたのであります。そこで私はまた同じことを言いましたが、どうしても聞かない。それでは帰りますということで
大統領に会ったのですが、そのときに、
最後的に私が言えば、あとは、この
肥料の
工場というものは大へんむずかしい問題であるけれども、やるとしても
肥料の
工場と、それから多少現地の通貨が足りないということもあるが、こういうものは借款でやれる。そうすれば仕事はできるし返す
見込みもあるのだから、そうしたらどうですか。それなら、ここでよろしいとは申し上げられないけれども、これは私の個人的なサゼスチョンです。あなたの方がそれでも
一つやろうかということなら、私は
日本へ帰って皆さんに説得してみよう。ただしこれを全部
賠償であるというようなことでは、説得もとうてい一分の
見込みもないというようなことで、しかしそれでもということで、とうとうまとまらずに帰ってきたというのが、私の直接
関係しました
内容でございます。
その後いろいろ折衝がありまして、大体私のサゼスチョンなるものに基いて
賠償の問題は考えよう
——外交交渉の
内容についてはこまかく聞いておりませんのではっきりいたしませんが、大体の
ラインとしてはそういうようなことで、
条件だとか多少の振り分けというものを、きっちりきめるということで動くようになっておるというのが
賠償に関する私の関与しました
内容でございます。
時間がありませんのでこの辺にいたしますが、私どうも考えますのに、やはりこの
賠償の問題は早期解決するのがいいのじゃないか。それはいろいろな
論議がございます。ことに
南北の
統一ができてないときにやることは、いかがかという御
論議は前からもあるのでございます。この点は確かにありますし、また遺憾な点でありますれども、
日本として考えますときに、ただいまのところ正式な
相手としては、
南ベトナムの
政府を
代表として使うよりしようがない。それでは
南北の
統一ができるかということにつきましても、これは必ずやいつの日かできると思いますが、どうも常識的には相当手間がとれはしないか。一方
貿易の
関係だけから見ましても、やはり
南ベトナムに対しては、多いときは五千万ドル見当、一応四千万ドル・ベースの
輸出があるのであります。
輸入の方は塩でありますとか、あるいは米が
輸入できませんと、今のところではあまり大きな何はありませんので、
日本の金にして三十二年度が十八億六千万円、三十三年が少くて四億六千万円というようなことであります。それから
北ベトナムの方は、
輸入が
ホンゲイ炭その他があるものですから、三十二年は四百五十一億何千万となっておりますし、三十三年は減りましたけれども、やはり二十一億ぐらいのものはございます。これに反して
輸出の方は、三十二年はきわめて少いもので千万円以下です。それから三十三年は少しふえましたが五億何千万という
程度です。
輸入の方は、
北ベトナムの方が買うものがありまして、ことに炭を買いますと相当入ってくる。それから
輸出の方は、
南ベトナムの方が圧倒的に多いというような形になっております。
いずれにしましても私どもは、政治問題とからませないといかぬといいますけれども、
経済問題としては、政治の
正常化といいますか、これができるだけ早い時期にくることを望みますが、
経済はできるだけ進めていきたいというような立場をとるものであります。ことに
輸出を必要といたしますわが国としまして、四千万トル・ベースの
輸出がございますし、その面からだけでも、また
経済の
協力というような面からいたしましても、できるだけ早く正常な、
賠償なんかの難問題が解決された形に持ってきて、そしてできるだけの
協力もし、
お互いに
両方が立つような形で
経済の発展を望んでいきたい、こう思うものでございます。
時間がありませんのでこの
程度で……。