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法制局長(齋藤朔郎君)
国会法五十六条の三の中間
報告の規定に関する解釈について、われわれの
意見を明らかにするようにという御
要望でございますので、一応文書にしたためまして、お手元へお配りいたしておきましたのが、
結論的なわれわれの
意見でございます。もう少しそれを肉づけいたしまして、敷衍いたしまして御説明いたしますと、結局問題点は、議案を付託された
委員会の審議が、ある程度の
段階に達しなければ議院は中間
報告を求められないのか。あるいはそうでなくて、付託されれば、その後において
委員会の審議がどの程度の
段階に達しようとも、付託された以後は、
事情のいかんによっては、議院は中間
報告の求めをすることができるのか、そういう点に問題の
中心点があるように
考えるのでございます。もちろん私から今さら申し上げますまでもなく、法律の解釈の行き方といたしましては、法文の文字に重点を置いて、その文字をもととして形式論をあやつって解釈する、そういう行き方もございますが、それに対して、法文の文字を無視するわけじゃございませんけれ
ども、それにあまりこだわり過ぎずに、むしろ法規の設けられた趣旨、その他の実質的な点を
判断して、合理的な解釈を見出していこう、こういう
立場もございました。われわれといたしましては、むしろ、あとに述べましたような観点で法律の解釈をいたしておるつもりでございます。
さて、
国会法は御
承知のように、
委員会中心主義をとっておると言われておりますけれ
ども、しかし、それは
委員会の決定が最も至上のものだ、最も高いものだという
意味じゃございませんで、議院の最終的の意思決定は、その議院の本
会議がきめるのが当然なことでございますから、
委員会中心主義ということは、その本
会議の
審査の
一つの便宜、本
会議の
審査をより効果的に実質的にするために設けられた制度だと思うわけでございます。言いかえれば、本
会議が主であり、
委員会は従であると言わざるを得ないと思うのでございます。従いまして、もしかりに
委員会の
審査がある程度の
段階に達しなければ、その議院の本
会議は中間
報告を求めることができないのだ、こういう解釈をとりますると、
委員会の行動いかんによって、その議院の最終的の意思決定が左右されてしまう、言いかえれば、
委員会のいかんによって本
会議の機能は停止されてしまうというような結果にならないとも限りませんので、さような事態を防ぐための、これはやむを得ない
一つの制度として設けられたのだと
考えるのでございます。御
承知のように、法律の中には、法律があるからといって、それがどんどん行われるのが望ましい法律もございましょうし、法律はあるけれ
ども、それはむしろ通常の状態においては、そういう法律の行われないのが望ましい法律もあると思うのでございます。たとえば離婚の制度というようなものについて
考えてみましても、離婚に関する法規があるからといって、どんどん離婚をやっていくということは、必ずしも望ましいことではないので、離婚制度というのは、婚姻生活の破綻を処理するやむを得ない最終のぎりぎりの線で初めて活用される
一つの制度だと思うわけでございまして、さような
意味におきまして中間
報告の制度も、やむを得ないぎりぎりの場合にとられる手段でありますから、もちろんそういう制度があるからといって、どんどんそれを活用するということが望ましいわけじゃございませんで、その運用については慎重なる取扱いが必要だということは、申すまでもないことだと思います。
法文の解釈として問題になりますのは、この
国会法の五十六条の三の一項に「
審査中の
案件」とある。で、それに対して参議院規則の三十九条には、「
委員会は、議案が付託されたときは、先ず議案の趣旨について説明を聴いた後、察査に入る。」、こういう条文がございます。
国会法の五十六条の三の一項の「
審査中」ということと、参議院規則三十九条の「議案の趣旨について説明を聴いた後、
審査に入る。」、ここに言っておる「
審査」と、
国会法のさっきの条文の「
審査」、これは同じだという文字解釈を、かりにいたしますと、議案の趣旨の説明を聞いた後、
審査に入ると書いてあるんでございますから、文字だけから
判断いたしますれば、議案の趣旨の説明があって後、
質疑応答があって初めて
審査行為が始まるんだ、だから
国会法でいう「
審査中」というのは、趣旨説明のあった後の
質疑応答が始まってから後において、初めて「
審査中」と言えるんだと、こういう
一つの文字解釈、これは文字だけをもとにして解釈をいたしますれば、そういう解釈ももちろんできると思うのでございます。しかし法文の字句と申しますのは、同じ文句が使ってあるから、常に同じに解釈しなければならぬかと申しますと、さようなわけではないのでございまして、同じ字句を使ってありましても、法律または規則の違いによって、そこに
意味のニュアンスがかかってきておるという例は、これはたくさんございます。われわれの
考えといたしましては、
国会法五十六条でいっております「
審査中」というのは
一つの手続――これは議院の
委員会の
審査というのは
一つの手続でございますが、手続的に
考えた観念でありまして、議案が付託されれば、その
委員会で
審査すべき手続が始まっておる、だから「
審査中」というのは、
審査すべきことになっておる議案、こういう
意味に解釈するわけでございますが、参議院規則の三十九条の、趣旨の説明を聞いた後に
審査に入ると書いてある「
審査」ということは、これは行為的な観念でございまして、これは質問応答という
一つの人間の行為にとられた観念でございまして、必ずしも文字が同一だからといって同じ解釈にならなくても私はいいんじゃないかと思うのでございます。これは
一つの別の例でございまするが、
国会の議案の
審査も
一つの一連の手続でございますが、その他に手続としては裁判所で行なっております訴訟手続というものも、これも一連の手続であります、こういう訴訟手続なんかの言葉の使い方を見ましても、弁論という言葉がございますが、弁論ということは、普通われわれ
常識的に
考えましたら、検察官の論告、弁護人の弁論あるいは証拠の申し出、あるいは法廷でいろいろ口で
質疑応答、論争をするというのが弁論という普通の言葉だろうと思います。これは行為的に
考えた弁論で、参議院規則の三十九条にいう「
審査」も、同じような人間の行為を頭に置いて
考えた言葉でございます。それに対しまして、これは純訴訟法の問題でございますけれ
ども、弁論を併合する、あるいは弁論を分離するという言葉がございます。この場合の弁論というのは、そういう論告とか、弁護人の弁論を半分に割るとか、二つに合わせるとか、そんな
意味をいっておるのであって、弁論を併合するという言葉は、二つの事件の訴訟手続を
一つの訴訟手続に合わすということで、分離すると申しますことは、
一つの訴訟手続で起訴されておる事件を、二つとか、数個の事件に分つ、だからこの併合、分離という場合の弁論というものは行為的な観念でなくて、訴訟手続的な観念でございまして、こういう場合に同じ言葉を使いましても、別の
意味合いになっている例があるわけでございます。参議院規則の三十九条と
国会法五十六条の三の一項の「
審査」という文字は同じでございますけれ
ども、そこにそういう解釈をいたしますれば、矛盾なく理解ができるのじゃないかというふうに私
どもとしては
考えた次第でございます。