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1958-11-04 第30回国会 衆議院 地方行政委員会公聴会 第2号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和三十三年十一月四日(火曜日)     午前十時十三分開議  出席委員    委員長 鈴木 善幸君    理事 内田 常雄君 理事 亀山 孝一君    理事 渡海元三郎君 理事 丹羽喬四郎君    理事 吉田 重延君 理事 川村 継義君    理事 中井徳次郎君 理事 門司  亮君       相川 勝六君    天野 光晴君       飯塚 定輔君    加藤 精三君       金子 岩三君    纐纈 彌三君       世耕 弘一君    津島 文治君       綱島 正興君    床次 徳二君       西村 直己君    長谷川 峻君       山下 春江君    太田 一夫君       加賀田 進君    佐野 憲治君       阪上安太郎君    下平 正一君       北條 秀一君    矢尾喜三郎君       安井 吉典君  出席国務大臣         国 務 大 臣 青木  正君  出席政府委員         警察庁長官   柏村 信雄君         警  視  監         (警察庁長官官         房長)     原田  章君         警  視  監         (警察庁刑事局         長)      中川 董治君         警  視  監         (警察庁警備局         長)      江口 俊男君  出席公述人         国学院大学教授 北岡 壽逸君         評  論  家 中野 好夫君         日本健青会会長 末次 一郎君         YWCA常任委         員弁護士    渡邊 道子君         一ツ橋大学教授 田上 穰治君         前最高裁判所判         事       眞野  毅君  委員外出席者         専  門  員 圓地與四松君     ————————————— 本日の公聴会意見を聞いた案件  警察官職務執行法の一部を改正する法律案(内  閣提出第二七号)      ————◇—————
  2. 鈴木善幸

    鈴木委員長 これより警察官職務執行法の一部を改正する法律案について地方行政委員会公聴会を開会いたします。  ただいま御出席願いました公述人は、北岡壽逸君及び中野好夫君のお二人であります。  この際、議事に入ります前に公述人各位一言ごあいさつを申し上げます。御多用中のところ特に御出席をわずらわしましたのは、さきに御通知申し上げました通り、本委員会において審査中の内閣提出にかかる警察官職務執行法の一部を改正する法律案は、国民一般的関心及び目的を有する重要な法律案でありますので、成規手続によりましてここに公聴会を開会し、学識経験を有せられる方々公述人として選定し、各位の本法律案についての御意見を拝聴し、もって本委員会本案審査に慎重を期することといたしたのであります。つきましては、以上公聴会開会趣旨を御了承の上、それぞれのお立場より忌憚のない御意見の御開陳をお願いする次第であります。  なお議事の進め方につきましては、公述人意見陳述発言時間はお一人三十分程度でお願いし、公述人お二人の御意見陳述が終りました後、公述人お一人当り三十分程度におきまして、委員から質疑が行われることになっております。  また衆議院規則の定めるところによりまして、御発言の際には委員長の許可を得ていただくこと、公述人発言はその意見を聞こうとする案件の範囲を越えないこと、公述人委員に質疑することはできないことと相なっておりますので、あらかじめこの点をお含みおき願います。  それではまず北岡壽逸君から御意見の御開陳を願います。公述人北岡壽逸君。
  3. 北岡壽逸

    北岡公述人 戦前日本警察の非常に強い国でありまして、その上に治安警察法という集会、結社、言論の自由を正面から取り締る法律がございました。しかもこれが乱用されまして、多くのりっぱな学者がその災いを受けたことは、私の最も遺憾とするところでございまして、河合栄治郎さんのごときりっぱな自由主義者が、軍部、フアッショを攻撃したばかりに、この法律によって処罰を受けたことは、当時において私ども非常に憤慨したところでありまして、もしわが国の警察戦前のようなものにしようという企てがございますれば、私もまつ先に立ってこれに反対いたしたい一人でございます。しかし政府にも、自民党にも、戦前状態を復活したいといったような考え方は一人もないと私は思うのであります。この危険な企ては、むしろ自民党と正反対の側にあるので、もし共産党政権でもできようものならば、言論、思想の自由はもとより、生命の保障も根こそぎとられるので、われわれはこういうような危険なおそるべき政権の出現を防止するために、多少警察権を強くしなければならぬというのが今日日本の要請でないかと思うのであります。ところが、この法律を作りました占領軍は当時におきましては、日本戦前のような警察権の強い国になることをひたすらおそれまして、警察権を極度に弱体化しまして、本来の警察使命を達成するに必要な権限さえも与えなかったのでございます。そこで、この警察の本来の使命達成に必要な権限を与えようというのが本改正趣旨と思うのでございますが、これらの点につきまして、いかに現行法が不備であるか、それがためにどんな不祥事が起ったか、それがためにどういうふうに改正しなければならぬかということは、政府当局から詳細な説明がありますから、私はここでそういうことを述べることは差し控えます。ところがこの法律に対しまして、総評社会党中心といたしまして、学者婦人層宗教団体まで猛然たる反対運動が起っておりますので、私は主として現下の本改正に対する反対運動を批評したいと存じます。  まず第一に、ちょっとおとなげないのですが、一言街頭ビラに言及したいと思うのでございまするが、私もあまりばかばかしいからこれは紙くずにして捨てたのですが、きょうここに来るので紙くずかごから拾ってきたのでありますが、社会党総評、新産別ずらっと並べたこのビラには、この法律ができると、警察官が勝手に通行人の身体検査をしたり、保護という名目で何日間も警察に置くことができるとかいうようなことが書いてある。これは第二条の曲解でありましょうが、第二条にはそんなことは書いてない。犯罪を犯しそうな危険のある者とか、凶器を持つおそれの確実な者とかいうようなことが書いてあるのであります。また保護検束も、精神錯乱とか泥酔者不良少年自殺者、そういうような者に限っておるのでありますから、だれでもかれでも検束するということは、この法律には全然ない。それから弁士中止とか、やたらに臨検ができるとかいうこともこういうビラに書いてございますが、あまりこんなものを批評するのもおとなげないことでございますから、これ以上申しませんが、ただ本改正反対の大規模署名運動が今日行われています。しかしこの署名運動というものは、こういったようなビラを読んで、これは大へんだと思って反対に署名している連中でございますから、こんなものが何十万、何百万出ましても、政府方々はあまり気になさらない方がいいと思う。その他婦人団体とか宗教団体とかあるいは学者と称する方々でも、こんなばかげたビラで動かされている人があるようでありますから、こういうことはあまり気になさらぬようにされた方がよろしいと思います。これは私が申し上げるまでもなく、むしろ反対があまりばかばかしいので、政府の方は本改正案成立の確信を強めておられることと思うのであります。  次にもう少しまじめな反対論としまして、第二条におきまして警察官凶器を調べる権限を与えたり、自殺者不良少年等保護検束をはかる規定を第三条に設けましたことが、憲法違反であるといったような論が、いわゆる学者の仲間にあるようでございますが、私は、これはどうも少し思い違いではないかと思うのであります。われわれは自由人権と申しましても、すべてそれは社会公共福祉に反しないことを条件とするのでございまして、われわれは暑いからといって道のまん中で裸になることもできない。街路やここでつばを吐くこともできない。言論の自由があるからといって、人を罵倒したり侮辱することもできない。すべてそういうような社会公共福祉に反しないという限度において、われわれは基本人権を保障せられておるのでございまして、決して無制限に何でもしていいというものでもございませんので、そういう点につきまする学者の御意見も私はどうかと思うのであります。  次に本案中心問題は、何と申しましても第五条の「公共の安全と秩序」という言葉が少し強過ぎて、こういう公共の安全、秩序というばく然たる観念を警察官が自由に解釈して、これによって制止警告をするというようなことは、言論集会の自由が侵される心配があるんじゃないかということが本案中心になっているように思いますから、その点につきまして私の所見を申し上げたいのでございます。この点におきましても、反対者の側に多少の誤解があるように思います。たとえば先日朝日新聞に出ておりました法政大学の助教授の人がちゃんと銘打って書かれたものの中にも、公共の安全と秩序ということが乱されると、それだけで末端警察官がすぐに法規を適用しまして、制止警告ができるというように考えておられるようでございますが、これは法文の読み違えではないかと思うのです。私が読んだところによりますと、第五条の後段の発動のためには、「犯罪が行われよう」とするということ、それから「公共の安全と秩序が著しく乱される虞のあることが明らかで」あること、これらの条件がそろっておって初めて制止警告ができるのでございまして、ことに犯罪が行われようとしておるということが一つ条件なのでございますが、今言ったように誤解であるように思います。それにこういうような問題になっております大衆暴力に近い活動の場合におきましては、警察本部長かもしくは警察署長指示責任もとにこれは取締りが行われておりますから、末端の警官が自由に判断をして民衆運動を取り締るということはなかろうと思うのであります。しかしながらかように申しましても、近時盛んに行われますところのいわゆるジグザグ行進とか、渦巻行進とか、あるいはピケと称してスクラムを組んで、エリコンの陸揚げを防止したり、官庁を占領したり、それを妨害した公務員を取り囲んでつるし上げたり、公務及び業務の執行を妨害するいわゆる大衆行動に対しましては、本条がこれを防止できるということはこれは明白な事実でございまして、本法の正当なる行使によってかかる法秩序を乱れるところの大衆活動を防止しようというのが本案の重要なねらいであろう。社会党方々は、元来こういうことに痛みを覚えないはずでございますが、総評とか、日教組とか、全学連とか、ああいう方々運動は、これで取り締られるのですから、反対するのも一応無理からぬことと思う。  こういう取締りをするのがいいかどうかということにつきまして、私は少し述べてみたいと思うのでございます。これにつきましても、全学連の方はずいぶん乱暴なことを言っておる。それを引用しますと、彼らの行動革命運動である。暴力革命をねらっておるというのですけれども、それもあまりおとなげないから、全学連のことは差しひかえますが、日教組総評連中も、合法か非合法かということは、力関係できまるということを公言しておる。これを文字通り解釈しますと、警察権の盲点に乗じて、実力をもって非合法活動を積み重ねて、革命までに持っていくのだということが総評日教組のねらいであるといっても、これは総評日教組の方も御否定はなさらないだろうと思う。彼らの企図しておりますいわゆる革命というものがどんなものであるか、これは私が申し上げるまでもないと思うのでございますが、かりにどんな政権ができましても、革命によってできました政権というものは、そのあとにおいて反革命運動を抑制するということは、これは歴史が証明しておるのでありまして、その反革命抑制ためには、国民の自由、人権というものは大規模にじゅうりんされます。大量の虐殺さえ行われるということは、内外の史実を引用しなくてもはっきりわかることでありまして、大学教授などという方が、毛筋ほどの人権の尊重を力説しまして、この恐るべき暴力革命の道を開くような、現在の警察制度をこのままにしておこうと主張されることは、どうも了解し得ないところでございます。そこでいずれの国におきましても、こういうような暴力行為による革命運動なんかというものを防止するためには、それぞれ必要な制度を講じておるのでございます。私は、ここにイギリス制度をちょっと引用さしていただきたいと思うのですが、イギリスという国は、刑法でも何でも判例でございますから、判例を引用さしていただきたいのでございます。一九三六年のダンカンとジョーンズの判例というところにこういうことを言っておる。警察官憲が、公開の集会——パブリック・ミーティングが平和を破るおそれありと合理的に判断するならば、かかる集会を防止することは警察官の義務である。かかる集会を続けようと固執するものは、警察を妨害するものとして犯罪とせられるとちゃんと判決を下しておる。一九三五年のトーマス・ソーキンズの判例によりますと、こういうことを言っておる。治安を乱すおそれがあって、あるいは治安妨害扇動演説が行われるところのおそれが合理的に判断されるならば、警察個人の家における集会におきましても臨検することができるという判決を下しておる。そのほかにイギリスには、反乱罪取締り法律とか、それから秘密保護法とか、戒厳令とか、反乱扇動取締法とか、各種の法規が備わっておりまして、社会秩序暴力をもって乱そうという者に対する警察官権限はすこぶる強いのであります。しかしながら、こういう法律が幾らありましても、英国官憲は、これをみだりに使って民衆運動を圧迫しないということは、皆様方御承知の通りでございますが、英国官憲がこの大きな権限を持ちながら、それを乱用も利用もあまりしないのは民衆良識があって、そういうと警察の御厄介になるような、治安を乱るようなことをしないからであると思うのであります。いずれが先かと言えば、私はやはり民衆良識が先であって、警察官良識があるだろうと思うのでございまして、民衆権利乱用するならば、やはりこれを取り締るため法律を作り、警察官も出なければならぬと思うのでございまして、現在の日本ほど、制度としましては警察官の弱い、民衆運動をやられましても手も足も出ないような国は、ちょっと外国には、文明国中にはないように思うのであります。  すべて法律というものは必要に応じて発達するのでございまして、現在のごとき集団暴力行為がありますれば、こういうような改正が行われるということは、どうもやむを得ないところだと思うのであります。新聞で見ますと、明日を期しまして相当大規模政治ストが行われるそうでありますが、このようなことが行われますならば、またこれに対する取締り法規提案されるのではないかと思うのであります。もとより現行法におきましても、政治ストは違法でございますけれども、現実に政治ストが行われました場合に、これを未然に防止する方法は現在にはない。従って、こういうことが行われまして、われわれの国民生活国民産業を危殆に陥れますならば、これを未然に防ぐために、ほんとにきめ手のある有効な制度を設けなければならぬと思う。現在の労働組合には相当大きな権利を与えております。労働組合がこれを乱用するならば、これを防止するために、労働組合権利を制限するということは当然でございまして、権利乱用というものは、自分の首を自分でみずから締めるような結果になる。どうもこの法律もそういう観があるのであります。私は、うしろ傍聴席方々にはどんな方がおられるか知りませんが、前の社会党方々は、議会主義合法主義の政党でございまして、それが革命を企図するような日教組総評に引きずられて、集団暴力行為を防止する本法反対されることは、どうも了解に苦しむところであります。新聞大学の先生は何と言いましても、国民の九割は、暴力革命共産党はきらいであります。従って、警察を無力化して、暴力革命に道を開くような状態は、すみやかに防止する方法を講じなければならぬと思うのであります。  最後に、私は一言政府の方にちょっと申し上げたいのでございますが、今日、この法案に対しまして最も猛烈に反対していますのは、どうも日教組その他の公務員方々であるように思うのであります。社会党方々は、本改正の二条とか三条というものはもっともだと認めていられますし、(「認めておりません」と呼ぶ者あり)また今日のような大衆活動もしくは本改正を誘発したような、秩序のない野放しの大衆活動に対しまして、反省をしなければならぬということも考えているように聞いておるのでございます。そうして共産党とは共闘しないということも、社会党方々は言っておられるように聞いておるのであります。ところが、社会党を引きずって、事実上共産党共同活動をさせていますのは、総評日教組だと思いますが、総評は、四分の三は公務員でございますし、日教組は、ほとんど全部、九十何%が公務員なんです。どうも本改正に対する反対運動は、政府のひざ元のように思うのでございます。はなはだ悪いことでございますが、どろぼうを捕えてみればわが子なりということがございますが、どうも公務員がこの反対の急先鋒なんです。しかもこれはりっぱな政治運動でございますから、私なんか、法律を見ますと、公務員政治活動を禁じられておる。にもかかわらず、公務員がこんなはでな政治運動をせられるのを政府がじっと見ておられるということは、少し私は了解に苦しむので、大衆の行き過ぎた運動取締りも大事でございますが、まず足元に気をつけられた方がいいだろうと思います。  以上、私の意見を終ります。(拍手)
  4. 鈴木善幸

    鈴木委員長 次に中野好夫君から御意見の御開陳を願います。公述人中野好夫君。
  5. 中野好夫

    中野公述人 私はどうも札つきの反対屋ということになっておりますから、すぐ反対理由を申し上げますが、第一は、出され方——新しいことではありませんが、出され方にあると思うのであります。これはもう四十日の会期にわざわざ短くされて、しかも、それが十日ほどたちましてから出たことは、国民としては非常に突然という印象を受けざるを得ない。もっとも警察の方——それからきのう河野さんと一緒になりましたが、河野さんなどは、もとからやっておったので、われわれは知っておったとおっしゃるのですが、それは警察の方や自民党の一部の方であります。国民としては突然といわざるを得ない。しかも、私、警察庁関係PRのものを非常に精読するのでありますが、PRにあげてあります家出少年保護とか、自殺のおそれのある少年保護とか、凶悪の犯人の凶器の問題、そういう主として個人犯罪の可能があるようなことに関するものなら、これは乱用防止規定がはっきりさえしておりましたならば、ある程度もっともな理由で、たとい国民の前にお出しになりましても、そう一々反対が全部起ると考えられないのであります。ところが警察庁がお出しになりましたパンフレットの中で、なぜおそくなったかということを見ますと、これは「慎重に検討しなければならないと同時に、重要なものであるだけに、政府の最終的な提案の意志がきまるまでは、慎重にとり扱い、したがって、これをすすんで発表するようなことはいたしませんでした。」と書いてあるのでありますが、ああいう個人の、家出少年とか、自殺のおそれあるとか、ぐれん隊の凶器というようなことならば、早くお出しになっても少しも差しつかえなかった。そうして国民世論をお聞きになった方が、今はかえってよかったんじゃないか。きのうも広瀬さんが読売に、「愛される警察」と、共産党まがいのことをおっしゃっておりますし、「国民警察」と書いておられますが、それならば、こんなことぐらいが穏密裡に研究され、国民の前に突然出される必要がどうしてあるのかわからない。しかも一たんお出しになると、まるで保守党の運命をかけて戦うんだというようなことをおっしゃいますと、重要なものであるだけに、重要なというものが何を含んでいるのか。これは国民として疑惑を持たざるを得ないだろうと思うのです。疑うのはあったりまえでしょうという歌がありますが、そういう歌の文句になるのではないか、これが一つであります。  それからもう一つ、これは一番問題になっております公共の安全、秩序という条項だと思うのであります。この公共の安全、秩序云々につきまして、ちょうどここにいらっしゃいます柏村さんが朝日にお出しになりました中に、この言葉は「法律の常として抽象的表現をとってはいるが、しかしすでに法律上熟している言葉であり、解釈もほぼ統一されたものがある」から、乱用のおそれはない。私は実は法律しろうとでありますから、どんな解釈統一がありますのかと、実は相当いろいろな法律の専門の人に聞いたのでありますが、どうも法律のその統一された解釈というのを伺うことができませんので、こんなものがあると思えぬ、むしろこれはもっと内容を伺いたいくらいであります。私は法律しろうとでありますが、私はナチ歴史が好きで読んでおります。ナチの立法の歴史など読みますと、やはりこの公共云々というような、こういうのが非常に問題になりまして、それはゲネラル・クラウゼルとか、カイザー・クラウゼル、すなわち概括条項といいますか、あるいは帝王条項というのは非常におもしろいと思いますが、つまり昔の独裁的な専制君主などが、やはり公共安寧秩序ということを出しまして、あとかんぷくろの中身には何を入れるかというと、帝王の都合のいいような内容を何でもぶち込めるというので、外国でも非常に問題になっている。解釈統一どころか、およそ反対のものじゃないかと私は思うのであります。そういうわけで、私にはこれが統一できておる解釈というのはいまだにわからない。そうしますと、これは第六条にそれがことに私は指摘できるのでありますが、時間が惜しいからちょっと先に進みます。  それからよく公共安寧秩序が乱されてという場合に、いろいろなPRの方で例をあげておられます。別府騒動、それから砂川事件、それから勤評反対、それから道徳教育講習会に対する反対等、確かにこれは一応法秩序が破られたという点では共通だろうと思うのですが、実際こういう法秩序が破られたそういうケースを、個々の場合の事情、動幾その他を調べてみると、そういうふうに別府騒動から勤評問題、あるいは砂川までを一緒くたに、一からげに私はできるものではないと思うのであります。たとえば砂川が問題になりますが、私は砂川流血事件をけっこうなことだとは少しも思っておりませんが、しかし、なぜあんな残念なことが起らなくちゃならぬかという動機は考えなくちゃいけない。これはもう皆さんに申し上げるのは釈迦に説法になりますけれども、ああいうことが起る根拠になっておりますのが、たとえば行政協定といたしますと、行政協定が通るときのことは、国会皆さんの方がよく御存じだろうと思うのです。これは非常に危険だからというので、ずいぶんそのころの野党それから世論などが食い下ったのですが、あのころ、二十六年から二十七年春でございますが、その答弁はいつでも内容は、非常に常識的なもので簡単なものだ、これを重要視する気持がわからぬ、これは吉田さんの言葉です、それから、これはただ行政上の事務の手続の問題である、細目である。そういうように何でもない、何でもないということばかりおっしゃって、しまいにはこんなものは国会承認を経る必要がないというので、承認決議案野党共同提案で出たにもかかわらず、通してしまった。そしてそれが通ってさてふたが開いてみると、その六カ月あとから、あの至るところに基地騒ぎが起って、つまり必要とする施設及び区域を、ほしいといえばどこでもどられる、その法的根拠になったために起った。ああいうものは私は民主的な協定とはどうしても理性のルールから考えて信じられないのでありますが、そういうものをこしらえておくから、砂川のような騒動が起るのだろうと私は思うのです。だから、ただあれを法秩序が破られたというだけで、別府のテキ屋のけんか騒ぎと砂川事件とを一緒にするというのは非常にむちゃな話だ。もう一つ頭に浮びますのは昨年六月に起りました東京湾の本州製紙に浦安の漁民が押し寄せた事件がありますが、あれなどもその前に東京都で水質試験をやって、あれは六月六日でしたか、六日に会社に対し一時操業をやめるようにこれは口頭で申し入れて、会社もそれに応じたらしいのでありますが、ところが六月九日からまた水を流し出したものだから、六月十日にとうとうしびれを切らして、浦安の漁民が押し寄せて、暴行を働いて法秩序を破ったのでありましょう。しかし、たとえばあのときは現行法でありますから、あれは会社が先に知っておって警察も出ておったようでありますが、まさに犯罪が行われようとするときまで、つまり明白にしてかつ現にある危険が起るまで手を出せなかったから残念だった、それでああいうことが起ったとおっしゃるのでありますが、もし今度の改正案のようになりますと、犯罪が起ることが明らかになった場合は制止警告ができるのでありますから、おそらく会社側もその情勢を知って連絡しておけば、あの浦安の漁民はあそこに来るまでにとめられ、おそらく公務執行妨害がすぐ起るだろうと思う。まあとにかくすぐとめられて、それによって確かに法秩序は形の上では維持されただろうと思うのですが、そうしますと、警察というものは一体だれの利益を保護したかということになると、非常におかしい。そういう警察の使われ方をしたら非常におかしい。現に十一日には向うの社長と川島さんとがお会いになったりして、そうしてその話の結果かどうか知りませんが、十一日には、実際会社側がちゃんとろ濾過性設備ができるまでは操業停止という命令まで今度は文書で出ておるわけであります。それをもし、なるほど法秩序は維持されるかもしれませんが、一体だれの公共安全秩序ため警察が働いたか、私は非常におかしいことになったのじゃないかと思う。(拍手)あれなどももう少し早く国会で水質汚濁防止法案を通してあげておいでになれば、ああいうことは起らなくて済んだのだろうと思います。そうしてみますと、まだこういう例は幾らもございますが、その別府事件から砂川事件、本州製紙と、それは確かに一応みな暴力によって法秩序が破られたようなものでありますけれども、それをこれだけ事情がそれぞれ違うものを十ぱ一からげにして、公共の安全、秩序を破ったからというのは、これがほんとうにみそとくそとを一緒にするというので、ただ色が同じ黄褐色であってねばねばしておるということだけが共通でありますけれども、そのほかは全然違っておるものを、こういうようにひっからめるというのは、私は非常に危険なことではないかと思うのです。そういうふうにもし、ただおもに法秩序ということだけを守り、それの動機も考えないで、それから事情も考えないで、とにかくだれのため公共であるかということも考えないですべてをやったならば、もしそれが行われるとするならば、歴史の中における百姓一揆のようなものもそれから革命——革命というとすぐびっくりなさいますが、明治維新の革命を入れてもいいと思うのですが、そういうようなものはおそらくできなかっただろう。今だって、徳川三百年の太平がいまだに続いているだろうと思う。国会の中にはずいぶん浪花節の好きな方がおありのようでありますが、たとえば浪花節にあります佐倉宗五郎の義民伝とか、あるいは磔茂左衛門とかいうのに非常に御感心なさるのでありましょうが、一体宗五郎のように実在したかしないかもわからないような人に、民衆がいつの間にかああいう伝説を作り上げて、そうして宗五郎を一つの義民としておるようなその気持というものはこれは一体何によるか、あれはみな法秩序を破った人であります。それが法秩序の方に考えなくちゃならぬものを、しいて維持しようとすれば、ああいうことが必ず私は起ってくるんじゃないかと思うのです。現に自民党の与党の方でも、お役人から出身の方は別でありますが、党人出身の方などは、若いときには法秩序をお破りになって、交番の焼打ちをしたり、そういうことをしたことを今でも手柄話にお話しになる方も、ずいぶんおありになるのであります。だからそういう方はこういう事件——砂川の問題とか本州製紙の問題のときなどは、もっと気持もおわかりになっていただけるんじゃないかと私は思うのであります。金持ちけんかせずという言葉がありますけれども、こういうふうに権力とか利害を握っている者は、実際暴力に訴えないが、金持ちの隣に住んでいる貧乏人は仕方がない。しまいにはこぶしも振り上げなければならないということは、われわれの住んでいる市井にもしょっちゅう起ることじゃないかと思うのであります。  そのほか個人の法益を重じていたのに対して、今度は公共の法益を重んじるという理由もあげられております。私も、もちろん憲法十二条にありますように、基本的人権というのは、そういう個人の法益というものは、公共の法益のために利用されなければならぬものだということは聞いておりますが、ただもし個人の法益というものと公共の法益というものが、何か別のもので——そういう説明もどなたか警察庁の方の対談の中にありましたが、一方に個人の法益があり一方に公共の法益があり、そうして今度はこちらを重んずるんだという、そういう考えの中に、もし個人の法益と公共の法益と何か対立して、別のものにおいて、さらにそれが何かうっかりすると公共の法益というものは個人の法益というものに優先するとか、優位するとかいうことになってきたときには、昔は、たとえば国家というものは個人を絶した上にあった。滅私奉公というような方向にも、これは杞憂かもしれませんが行かぬとも限らない。だから個人の法益と公共の法益という考えも、実際においてよほど考えていただかないと、公共法益優位というようなところまで行ったら、私は、今の戦後の民主的な考え方とは非常に違ったものに行くだろうと思うのです。  それから健全な労働運動や平和運動は、決してあの第五条を妨げるものでない、弾圧するものでないというお話であります。これも一々邪推ばかりしておると切りがありませんが、ただ一つだけ、たとえば警察庁の方から出ております説明のところに、こういうところがあるのであります。「所謂平和集会勤評反対デモ等の際に右翼との衝突が起る場合」それからしばらく飛ばして、「そのまま放任しておくと次第に両者が接近して行き、遂に両者が衝突して暴力事犯等が起り混乱状態に陥って著しく社会不安を惹き起すようになる。」「両者が接近する前に制止の措置を講じ、衝突を避け、事故を未然に防止して社会不安を起さないようにする必要がある。」から、この立法の必要があるとおっしゃる。一応これを読みますと、もっともなんであります。しかし、このごろ平和集会などいたしますと、大てい右翼といっては極端かもしれませんが、妨害者が出てくることがございます。和歌山のぶらくり横町の場合は、私はあとでちょっと調べに行ったのでありますが、あのときも最初は、赤い教員を葬れというような車が、行列の周囲を何度か往来していた。そのころは今の現行法ですから、まさに犯罪が行われようとするときまでは手をお出しにならなかった、何も干渉されなかった。最後に車が中に突っ込んだので、とうとう起ったのでありますが、そういうふうにこれから平和集会やらそういういろいろな民衆運動がありますと、きっと妨害者が出て接近するだろうと思うのです。右翼と限りませんが、接近してくるだろうと思うのです。そうすると、まさにこれは犯罪が行われるのが明らかであるということで制止なさいますと、つまりこれはどれでも反対者が出てくれば、これを防止する口実になり得ると思うのです。またさらにもっと進むとつまり平和運動やらをやめさせるためには、そういうものを雇われる必要もないでしょうが、そういうものを出して接近さえすれば、すべてこれお前もだめだ、こっちもだめだで、結局どうにもやれなくなる。今は、そんなことがすぐ起るとは考えられませんが、この法が存続しておる限り、そういうことを欲する政府ができたときには、これは起ると思う。これはやはり決して健全な平和集会、それから労働運動大衆運動を弾圧するものでないとおっしゃるだけでは、全部を信用することもできないのであります。  それからこの乱用の問題がありますが、この乱用のおそれはない、それは確かに第一条に今度もそのまま残っておりますが、これはほとんど倫理規定にすぎないとしか思えないのであります。それじゃ乱用された場合は、国家賠償法とか、それから刑法にも、国家公務員法の中にも、懲戒とかいろんなところがあるとおっしゃるのであります。私、念のために数字を調べたのですが、どれだけそれが適用されたかというと、これは数字をあげません、あとで御質問があればあげてもいいと思いますが、おそろしく適用されていないし、適用されてもほとんど何も実効を生んでいないということになりますと、第一条というのは、いよいよ倫理規定にすぎないものになっているとしか思えない。そうしますと、あと警察を信頼せよ、信頼せよとおっしゃるのであります。私など疑いたくないのでありますが、しかしとにかく信頼せよ、信頼せよと言うためには、今まで信頼できる実績を残していただきたいのであります。これは警察だけではないのであります。私は、日本戦前治安維持法など今引っぱり出そうと思いませんが、戦後だけ取り上げましても、たとえば憲法の第九条の第二項の「前項の目的を達するため、」ということが、このごろいわれているようなあんな含みがあるものであるということは、私たちあの憲法ができたとき、政府からいろいろ出されるPRなど読みまして、そんなものがあるなど思いもよらなくて、私などまことにそのときの政府の宣伝を信じておったら、「前項の目的を達するため、」というのは大へんな伏兵であったということに、今になって驚いておるのであります。それから砂川事件もとになった行政協定のことは、もう申し上げましたので繰り返しませんが、そういうふうに残念ながら、信用しておるとだまされるという結果が実際起っておるのであります。それは国民はきっと知っておると思います。きのう広瀬さんのお書きになりましたものも、全部信用しろ、信用しろというお話であります。信用したいのでありますけれども、しかしお役人出身の方は、元来ふん縛ったり取り締ったり、統制することによって点数を上げて、ずっと出世街道をお歩きになった方ですから、ちょっと、こういう気持はおわかりにならないと思うのでありますが、私なども、戦争中ずいぶん信じておったのであります。そういう戦前から信じろ、信じろとおっしゃった方が、それがみんなはずれておった。その同じ方が、戦後になってまた信じろ、信じろとおっしゃっても、私はなかなか信頼することができないのであります。金色夜叉を書きました尾崎紅葉に、またもこいちゃでだますのかという都々逸がありますが、またもこいちゃでだますのかという、そういう気持を、私も、国民もきっと持っておるのではないかと思うのです。そういうことを考えますと、ただ信頼しろ、信頼しろとおっしゃるだけでなく、そのためには、信頼できる実績を今までに作り上げておいでになってなければ、私はちょっと無理じゃないかと思うのです。  私まだ言いたいことはございますが、大体そういうわけで、私の反対します理由を総合いたしますと、この警察PRの文句にありますような、つまり国民の一部も確かに——それには乱用のないように保障する規定がよほどしっかりしなければ問題でありますけれども、とにかく一応はこの理由に対して納得のできるような条項だけであるならば、こんなに不意にお出しになって、それをそのまま何でも無修正で押し切ろうなんということをなさらなくたって、私は済むんじゃないかと思うのです。それを何でも、とにかくこの臨時国会で、たとい会期を延長しても押し切ろうとおっしゃるのでありましたら、無理にでも無修正のまま押し切りをしなくちゃならぬという裏に何か隠れているものがあるんじゃないか。邪推するなとおっしゃっても、少し無理なんであります。おそらく来年の通常国会には、安保条約の改定の問題が出てくるだろうと思うのです。しかも最近の——これはきまったかどうか知りませんが、共同防衛の義務を持つ区域が西太平洋まで伸びるというようなことになって参りますと、現在の憲法のワク内で一体どういう内容がかんぶくろの中に詰め込まれるのかと思いまして、これはおそらく重大な国民運動だって起り得ると思うのです。そうすると、そういうものに対して早くこれを成立さしておかなければならぬということも、一つ理由なんじゃないかというふうにさえ私どもには考えられるので、こういう杞憂が当らなければ非常に幸いだと思うわけであります。そういうわけで、少くともこの場合だけ、何とでも短期に押し切りたいというような御無理をおっしゃらないで、これがいいとも思いませんが、せめて国民健康保険のときにお示しになったああいう柔軟性くらいはお持ちいただいた方がいいんじゃないかと思うのであります。もしこれを強行してお押しになりますと、私はこんなことは少しも欲しないのであります、好ましくないと思いますけれども、非常に残念なことが起るんじゃないかと思います。法というものは、法秩序を守れ守れとおっしゃいますが、先ほど申し上げましたように、この法の成立の事情とか、その法が何を守るために、何の公共の安全と秩序を守るために作られたものか、それからまた、その成立の手続というようなことに無理がありましたならば、これは欲すると欲せざるにかかわらず、法秩序を破るようなことが、日本だって幾らでも——日露戦争のあとの交番焼き討ち騒ぎとか、いろんなことが起るのです。法の背後にやはり人間というものがあるのでありますから、これは必ず起るのであります。そのときに、それは起したやつ、つまり交番を焼き討ちしたやつ、あるいは砂川の測量を妨害したやつが悪いんだというだけでは済まないのであって、政治というものは、なぜそういうことが起るかというところまで考えていただかなければ、私は政治じゃないと思うのであります。そういう場合に、外交文書にありますが、そういうことが起った場合には、それによって一部処罰される人間ができるかもしれませんが、それを罰しただけで済む問題じゃなくて、そういう法律を作った政府にも責任がある、そういう外交文書にあります言葉を使って私の公述を終ることにいたします。(拍手)
  6. 鈴木善幸

    鈴木委員長 これにて両公述人の御意見の御開陳は終りました。  これより両公述人に対する質疑に入ります。質疑の通告がありますから順次これを許します。矢尾喜三郎君。
  7. 矢尾喜三郎

    ○矢尾委員 第一の開陳をせられました北岡先生にお伺いいたしたいと思います。  先生は、御意見を出されます前に、社会党を初め民主団体が発行いたしましたビラ紙くずかごの中から引きずり出してこれを持ってきたというようなことを申されたのでございます。私はそういうような言葉がどういうところから出たかということは問いませんが、しかし、このビラ紙くずかごから出されてごらんになる前に、北岡先生は、過去の悪法といわれた行政執行法やあるいは治安警察法等につきまして、詳細にお読みになったことがございますか、失礼でございますがお伺いいたします。
  8. 北岡壽逸

    北岡公述人 一応詳細に見ております。
  9. 矢尾喜三郎

    ○矢尾委員 ただいま詳細にごらんになったかということに対して、一応ごらんになったということを聞きました。過去におきますこの治安警察法あるいは行政執行法は、一条一条を読んでいきますと、これが国民を弾圧する法案である、あるいはまた国民をこれによって暴圧する法案であるというようなことは、その文字の中には認められぬと私は思うのでございます。しかしながら、過去における社会運動、労働運動等につきまして大きな暴圧を加え、また、個人人権を阻止した、人権を大きく押えつけたということは、この両法律規定によって行われたのでございます。しかしながら、法律条項一つ一つを読んでおりますと、そこにはそういうようなことをやるというような具体的なことは書いてないのです。大まかに一警察官の判断によって、認定によってこれが悪用されてきておるのでございます。われわれが今日出されております警職法改正案に反対をしておるということも、この条項を見ておりますと、なるほどもっともなことだ、公安を害するおそれがある、法の秩序を乱すおそれがある、これを取り締るのに何が悪いか。それを口実として無事の人間を取締り、そうして無事の人間に対して警察力によって人権を奪うようなことがあってはならないから、私たちはこういう法案に対しては反対だという意見を持っておるのでございます。先生は、これに対しまして、今、条項を見ておるともっともなことである、こう言っておられました。過去の条項もまた今日の条項も正しいものである、過去の治安警察法行政執行法も正しいものであって、正しく運用されておったと御認定になりますかどうかということをお伺いしたい。
  10. 北岡壽逸

    北岡公述人 ちょっと私はただいまの質問者の意を解するに苦しむのでありますが、治安維持法というものは、正面から集会言論の自由を圧迫しておるのであります。     〔発言する者あり〕
  11. 鈴木善幸

    鈴木委員長 御静粛に願います。
  12. 北岡壽逸

    北岡公述人 戦前一番乱用せられましたのは治安維持法でございまして、私有財産制度を否認することを目的として結社する——社会党なんというものは正面から忌避している。協議しましても、扇動しましても七年以下の懲役になっている。言論集会、結社を正面から罰した法律でありまして、私はこういうものは悪法である、こう思っております。行政執行法は、公安を害するからという非常にばく然たるものに対して無制限に検束を加えられる。これは法文そのものが悪いものでありまして、別に乱用じゃなかろうと思うのです。それからまた博愛とか、密淫売現行犯があると警察官が認定すれば、居住者の意思に反しても個人の私宅に入れるのですね。法文そのものにちゃんと書いてある。だから別に法文にだまされたのじゃなくて、法文にそう書いてあるんですから、今日の法律とは全然違う。治安警察法にしましても、法文は持っておりませんが、これは集会とか、結社につきまして、非常に広範な権限を持ち、これを禁止すると書いてある。これは法文そのものが悪いのでありまして、別にだましたのじゃない。われわれは、もしこういう法律を復活しまするならば、それに反対するということを初めに申し上げておるのであります。
  13. 矢尾喜三郎

    ○矢尾委員 今の北岡先生の御答弁を聞きますと、治安警察法治安維持法を一緒にせられておるのでございます。法が乱用されたというが、広範に書いておるからそれに引っかかって過去において取り締られた、こう言っておられる。昔の治安警察法の八条には、「安寧秩序ヲ保持スル為必要ナル場合二於テハ警察官ハ屋外ノ集会又ハ多衆ノ運動若ハ群集ヲ制限、禁止若ハ解散シ又ハ屋内ノ集会ヲ解散スルコトヲ得上とある。こんな条項です。たった二行の条項です。これが悪用された。これが言葉を変えて第五条の中に入っておるのです。そうして第十二条には、「集会又ハ多衆運動ノ場合二於テ故ラニ喧擾シ又ハ狂暴二渉ル者アルトキハ警察官ハ之ヲ制止シ其ノ命二従ハサルトキハ現場ヨリ退去セシムルコトヲ得、」退去しない場合においては、公務執行妨害罪という刑法上の法文をひっさげてこれを逮捕、検束することが行われておる。それがやはり第五条の中に言葉たくみに入れられておるのです。言葉は変っておりますよ。     〔「目的が違う」と呼び、その他発言する者あり〕
  14. 鈴木善幸

    鈴木委員長 御静粛に願います。
  15. 矢尾喜三郎

    ○矢尾委員 治安警察法あるいは行政執行法というようなものの言葉を変えて、今日この法案の中に入れておる。だから私が最初にお伺いしましたのは——われわれが反対をし、民主団体の人々が反対をしておるのは、過去において行政執行法あるいは治安警察法によってあらゆる暴圧を受け、あらゆる弾圧を受け、悪用されてひどい目に出会うておる人々の声、幾千万人の声が今日反対の声となって現われてきておる。その法律趣旨言葉たくみに今度の法案の中に入れられておる。だからわれわれは反対をしておるのであります。条項を読んでおれば、昔の行政執行法、治安警察法の一条といえども、説明者が説明すれば——当時の提案者は、国民を弾圧するんだ、暴圧するんだ、良民を苦しめるんだということで提案したんじゃないんです。明治三十三年六月二日にこの法律が出された。明治時代は何ごともなかったが、大正、昭和にかけて社会運動が勃発し、労働運動が激しくなってきたそのときにおいて、初めて暴威を振って、戦争までこれが続けられたではございませんか。行政執行法、治安警察法がいかに過去において良民を芳しめたか、その苦しめた法文が今度の警職法に入っておるのです。(「入ってない」と呼ぶ者あり)入っておる。入ってないと言うのは君たちが迷っておるからわからないのです。もっと研究して十分に考えていただきたいと思うのでございます。こういうようなことでございますから、社会党がなぜ反対しておるか、民主団体がなぜ反対しているかということを十分究明していただきまして、ただ単に述べるということでなく、私たちの反対の基礎のあるところをくまれた公述を希望する次第ございます。
  16. 北岡壽逸

    北岡公述人 ただいま私が申し上げましたように、今度の五条は単に公共の安全、秩序だけでなくて、犯罪が行われようとしておるということと、かつ公共の安全と秩序が著しく乱される、こうゆうことが重なっておると思います。それから、「公安上という言葉はいけないとおっしゃるならば、現行の警察法にはこう書いてある。「警察は、個人の生命、身体及び財産の保護」云々と書きまして、「公共の安全と秩序の維持に当ることをもってその責務とする。」と書いてある。警察官職務執行法においても、職務の中に「公安の維持」というものは書いてある。それは警察というものは要らないのだとおっしゃるなら別ですが、警察というものを認める以上は、警察はパブリック・セキュリティ、パブリック・ピースを守るというのが職責でございまして、理想としては、こういうものがなくても、みなが節度を重んじまして世の中が平和にいくのが理想でございましょうが、それがいかないから、今日の倫理の状態におきましては、世界の国どこにも警察がない国はない。警察はパブリック・ピース、パブリック・セキュリティを守るということをどこにも書いてある。たまたまこれが、昔の法律でちょっと似たものはございましょう、元来警察の本旨というものは違わないのですから。これが似ておるから昔の治安警察法の復活じゃないかというのは、ちょっと思い過ごしじゃないかと思います。それから、国家賠償あり、公安委員会あり、刑法の規定もあり、いろいろなものがあるのですから、私はこれに対する乱用防止規定はあるだろうと思うのですが、これは私が申し上げなくたって政府当局から申し上げると思いますから、私はこれ以上言う必要はなかろうと思います。
  17. 矢尾喜三郎

    ○矢尾委員 ただいまの御答弁並びに御公述によりますと、こういう条文があるのだからとおっしゃるが、それなら別にこの法案をあらためて出さなくてもいいのです。それで取り締っておればいいのです。また乱用のことは、提案者がいつまでもこれを持っておるならいいのです。明治三十三年の治安警察法にしたって、三十三年に出された当時の司法大臣なりあるいは警察当局は、正しい解釈をして正しく運用するのだと言われたかもわからない。それが二十年も三十年もたってから暴威を振ってきた。その根拠はどこです。その認定するのはどこです。一警察官がやるのですよ、現場の事情を見て。自分がちょっとむかついたことがある、自分の感情をちょっと害したことがあるというような場合において、その人の認定によってそういうことが行われるおそれがあるような法律に対しては、政府としては提案を控えるのが当然ではないかと考えておるのでございます。今日のこの警職法につきましても、われわれはそういう根拠から反対いたしておるのでございます。  最後に先生に一言お尋ねいたしますが、今年一月から六月までに警察官の職権乱用によって四百二十七件という人権侵害事件があったと人権擁護局において発表されておる。それに対しまする方策というものは、最近において世論がやかましくなってきたから、新聞記者に対する警察官のあやまりに対してちょっと言いわけのようなことをされましたけれども、すでにこれが行われておる。こういうような法律ができて、過去において幾百万という人間があらゆる暴圧を受けておる。それは一警察官の認定によって誤まって受けておる。法律によって賠償するとか、補償をするということはありますけれども、それは検挙されて懲役になり、それが無罪であったという場合においての補償であって、誤まって警察につかまり、十日、二十日とほうり込まれる。こういうようなことをされて帰ってきたときに身にしんだ汚点は、警察官が罰せられようが、警察署長が罰せられようが、ぬぐい去ることはできないのです。私たちはそういうことをまず考え、そうして国民に対しては、こういうような保障ができておるというような態度でもっていこう、だからこういうことをやるのだというならお話はわかるけれども、そんなことは少しも考えない。ただ単に警察が取り締る上において、こうすればよいという都合のいいような法律を次から次へ出していくというようなことは感心せないと思うのですが、先生はこれに対しましてどういう考えを持っておられますか。
  18. 北岡壽逸

    北岡公述人 私は、警察官乱用防止を切望する点におきましては人後に落ちないつもりでございますが、乱用防止をおそれるのあまり、占領軍警察がその目的を達成するに必要な権限を奪っておるというふうに思います。先ほど矢尾さんは誤解をされたのでありまするが、警察の目的に、公安の維持に当ると書いてある。公安の維持ということを警察の目的にも書き、それから警察の職責にも公安の維持ということをちゃんと書いてあるのです。おそらくこれはあなた方はだれでも反対なしに御承認になったのだろうと思うのですが、これに必要な手段を与えていない、これが問題なんです。公安の維持をはかれと書いておきながら、犯罪が行われた。まさに棒を振り上げなければこれを押えられない、もしくは血が流れてからでなければこれを検挙できない。それでは警察の目的は達せられないから、そこで犯罪が行われることは明らかだ、そうして公安が乱れる、秩序が紊乱するというような場合に、これを制止するという警察の目的を達成するように必要な手段を定めているところに今度の特質がある。その点につきましては公安の維持というようなものを警察の職責から除いてしまえといったような意見でございますれば、これはまた別問題でございますが、目的には置いておきながら、職責にはしておきながら、手段を奪っておる。これは現行法の非常な不備であろう、その点を直すのでございまするから、今さらこんなものに反対するのはおかしいと思うのであります。
  19. 矢尾喜三郎

    ○矢尾委員 今議論を重ねましてもいたし方ございませんから、最後に一つお伺いしたいと思います。公安を害する、公安を害するということを申されましたが、このごろ警察当局なり大体の人が、公安を害するといわれるのは、労働運動におけるデモであるとか、また最近における勤務評定の反対闘争であるとか、あるいは道徳教育の反対というようなことで、たとえばメーデーのときにずっと労働者が旗を立てて行進しておる。それもただ単に警察が道路の妨害をせないくらいの程度にやっておれば、もう静かに終る行進も、それをトラックに警察官を何百人も乗せて、ちょっとシグザグやったからといって、それを押したり何やらするからああいうようなことが起るんです。また道徳教育にしたって、道徳教育はだれが受けるかというと、校長です。     〔発言する者あり〕
  20. 鈴木善幸

    鈴木委員長 御静粛に願います。
  21. 矢尾喜三郎

    ○矢尾委員 四十以上の学校の校長さんを集めて道徳教育をやるということについて、一堂に集めて、小学校の生徒を教えるように道徳教育を教えなくても、これは印刷物にでもして渡して、そうしてわからぬようなところに解釈でもつけておけばいいのに、一堂に会して道徳教育をやるんだ、そうしたら日教組がこれに反対するだろう。そこでこういうようなけんかを売るような、いわゆる挑発をしておるというようなことがあるのですね。こういうことについて、先生はどういうようなお考えを持っておられますか。
  22. 北岡壽逸

    北岡公述人 どうもデモ隊のジグザグ行進とか、それから日教組の道徳教育の妨害のデモというようなものが警察の干渉を誘発する。逆に、警察の干渉がこういうようなことを誘発しておるとおっしゃいますが、これは実は卵と鶏がどちらが先かということと同じで、どうも私はジグザグ行進がやっぱり先で警察が干渉するのであって、静粛にまっすぐに歩いておるものを警察は干渉しない。それから道徳教育の講習会をやる。これはどうも政府がそういう考えで講習会をやるということを——これは先ほど中野さんのお話じゃないけれども、明治維新の革命をやるような意気込みでもって、これを防止しなければならぬということはなかろうと思います。どうもこういうことを妨害しようということが、やはり警察の干渉を誘発する動機になると考えるのが国民良識じゃないかと思います。
  23. 鈴木善幸

  24. 渡海元三郎

    ○渡海委員 ただいま矢尾委員から、自分の体験に徴されましたお話がございました。いかなる因縁か、私、前の委員会におきましても、矢尾委員あとに質問に立ったのでありますが、私も矢尾委員と同様に、この法案で昔の警察に返るということであっては絶対にならない。このように考えておるものでございますが、この点に関しまして二、三中野先生に主としてお聞きいたしたいと思います。  中野先生はただいま述べられました中で、警察PR出した小冊子を見ると、個人犯罪については、なるほど当然であると思われるようなことがたくさん書いてあるというようにおっしゃいましたが、もとよりこれは政府提案のいたし方についての一つの説明として言われたのでございまして、承認した意味には聞いておらぬのでございますが、そういうような事態が、こういった法律を作る必要があるという社会情勢であるということだけはお認め願えるでしょうか。
  25. 中野好夫

    中野公述人 あれのPRの中にあります個人犯罪に関するようなこと、それからあるいはある種の少年保護というようなことに関して、確かにこれは一部もっともな理由というものもあるし、これならそうだれもかれもが、たとえば宗教家、芸術団体までが反対に立つこともまあないであろうと私が申しましたのは、それだからこの警職法全体の法律が成立するのに理由になると申したのではないのであります。と申しますのは、もっともだとしましても、それではさらに果してその全部は現行法の範囲内で——現行法というのはこれじゃありません。他の法律、軽犯罪法とか、この前の国会での刑法の一部改正で、通常いわれます凶器準備集合罪ですか、それから新しく変りました銃砲刀剣類等所持取締法とか、そういうようなもの、それから交通違反取締法、そういう別の現にある法で取り締れるのではないかということも、まだまだ相当問題があると思うのです。だからそのために警職法を作らなくちゃならぬという理由にはすぐにはならぬと思います。私は法律しろうとでありますから、この点は、あらゆる法律家その他で慎重に審議していただかなくちゃならぬと思うのであります。それから、それにしましても、そういうようにしても、これまたやっぱり乱用の危険はありますから、今のようなただ一条の乱用を戒めるという倫理規定に近いものだけではこれまた足りない。だからもしそういう一部のものがありましても、まだまだ問題は残るのであります。それだからこの警職法が必要だ、今度の新しい警職法が必要だというふうに、そう一足飛びに私は賛成しているのでは少しもないのであります。  それから、そういうまた個々のことがありましたら、それは個々の問題に限ってもっと厳密に——私は法律しろうとでありますが、厳密に、これは改正でけっこうだろう。あるいは必要ならそのもっともな理由のある、それに乱用の危険もない、そういうような限定された改正からやっていかれるべきでありまして、そういう一部の理由があるからといって、そういうものも抱き込んで、抱き合せにしたこういう法律が作られるということは非常に危険でありまして、たとつえば家の中に二、三匹どうも食い荒して困るネズミがおるから、そいつを退治しなければいかぬから家を焼かなければならぬというふうになってくる法律は非常に困るのであります。そしてその気味が多少あるんじゃないか。たとえば先ほど時間をとりますのでやめましたが、第六条の立ち入りのところの改正を見ますと、現行法では、「前二条に規定する危険な事態が発生し、」云々とあるが、どういうわけでございますか、今度は「前二条に規定する」という限定がなくなってしまいまして、いきなり「人の生命」云々となりまして、しかもそのあとに、今までなかった「公共の安全と秩序に対する危害」という非常に広いものが加わっておる。こういうことになりますと、今までのよりもかえって権限が非常に拡大解釈の幅を広めてしまって、わざわざ今まであった厳密な「前二条に規定する」というようなものもなくなってしまっておるところにやはり危険がある。それから個々については、なるほど一応もっともなというようなものがありましても、限定するより、むしろこれに便乗して広くなっているような形跡さえ、疑いさえ、私のような法律しろうとでも考えざるを得ないのであります。同じ立ち入りでも、戦前のを申しますと、大へんヤジが飛びますが、古い行政執行法の第二条によりますと、立ち入りのときは「日出前、日没後二於テハ生命身体又ハ財産二対シ危害切迫セリト認ムルトキ」これは非常によく似ている。「又ハ博奕、密売淫ノ現行アリト認ムルトキニ非サレハ現居住者ノ意二反シテ邸宅二人ルコトヲ得ス」。かえって戦争前の方が限定があるくらいで、それに比べますと、今度のは立ち入りのときでも、いきなり「人の生命……(発言する者あり)静かにお聞き下さい。「人の生命、身体若しくは財産又は公共の安全と秩序に対する危害が切迫した場合」行ける云々と規定して、ずっと広くなってきている。
  26. 渡海元三郎

    ○渡海委員 ただいまの個人的判断に関しましても、他の実体法でやれるんじゃないかという議論……     〔中野公述人「やれるんじゃないかと申しましたが、私は法律の……」と呼ぶ〕
  27. 鈴木善幸

    鈴木委員長 ちょっとお待ち下さい。
  28. 渡海元三郎

    ○渡海委員 また、ただいまの六条の規定に関する問題は、委員会でよく逐条的にも審議がされた問題でありますので、私はあえてこれに触れません。ただ、今言われました小さな例をだしに使って大きな家を焼いてしまう。そのことは公共の安全、秩序といわれるこの文句が入っているところに問題がある。それで宗教団体とかそういうものが反対されている。先生言われましたようなナチの例の中には、概括公益あるいは帝王の公益、こういうふうにいわれる。なるほどそんなに「公共の安全と秩序」という問題が、帝王の公益を守るというふうな意味で使われるようであれば、私といえども、この法律には反対しなければいかぬと思う。昔の治安警察法を例にとられましたが、第八条に「安寧秩序」という言葉がありますが、あの当時の解釈からいたしまして、このもとの法であります治安維持法の中には、確かに国体を変革する思想というふうなことがありまして、現在の政策を乱すようなものがすべて公共の安全と秩序を破壊するものである、こういうために使われたと思うのでございますが、私はこの条文に書いてあるこの「公共の安全と秩序」というものは、そうじゃなくして、昔の警察と今の警察戦前との変っておるところは、要するに国民警察である。国民警察であるということは、公共安寧秩序ということが、国民公共の安全と秩序でなければならぬ、私はこう思っておるのです。昔の安寧と秩序の考え方と、今の公共の安全と秩序の考え方と私は根本的に違うのではないか、このように考えるのです。前の、私益とそれから公益とが対立するという議論があの新聞の中であった。こういうふうに言われましたが、これは対立するものではなくして、むしろ、個人の権益の寄り集まったものが公益だ。こういうふうな解釈が現在の公共の安全と秩序というものであって、そういう意味から考えたならば、宗教の弾圧だとか、言論集会の弾圧とかいうものは、むしろ考えられないのではないか、こういうふうにも解釈されるのですが、この公共の安全と秩序というものが、前の治安維持法、警察法のときに出された観念と、今日における観念とは私は明らかに区別さるべきものではないかと考えるのですが、先生のお考えはどうでしょうか。
  29. 中野好夫

    中野公述人 公共法益と個人法益を、渡海さん並びに渡海さんの党の方でも、今おっしゃいましたように考えて下されば非常にけっこうでありまして、その通りに実践していただきたいと思うのであります。     〔発言する者あり〕
  30. 鈴木善幸

    鈴木委員長 御静粛に願います。
  31. 中野好夫

    中野公述人 それから帝王条項と申しましたのは、これは皆さんの方で勉強していただけばまだ幾らでも出てくるのですが、つまり今は帝王というものはない。なぜカイザー・クラウゼルといったかというと、それは昔の車制君主の時代からすでに公共の安全という名前において、帝王ための利益、秩序が守られることが公共の安全と秩序であるから、カイザー・クラウゼルというような言葉ができたんでしょうが、ところが今は——日本もついこの間まではありましたが、今は確かにないと思います。しかし私は、たとえば先ほど本州製紙のことを例に述べましたが、ああいう場合にああいう種類にまで、今度の警職法で警察の行為が及びますと、たとえば国家公務員法のあの懲戒のところに、一項がありますが、これは何も警察官だけじゃありませんで、国家公務員全体ですが、「国民全体の奉仕者」という言葉になっております。果して国民全体への奉仕者になることになるかどうか。つまり、あの場合ですと、浦安の漁民はけしからぬやつだとお考えになっておるかどうか知りませんが、あの場合ですと、警察のあの使い方が今後数重なって参りますと、これは決して国民全体への奉仕者ではなくて、国民のある一部の階層といいますか、それの奉仕者になるおそれが非常にある。こういうことは、先ほど渡海さんのおっしゃいました国民警察ということ、私は国民警察になることが望ましいので、そう実際になっていただきたいとすれば、あれは国民全体への奉仕者になるということから逸脱するおそれがある。非常に悲しむべきことになるおそれがあるということを申したのであります。
  32. 渡海元三郎

    ○渡海委員 大へん失礼な言い分かもわかりませんが、私、先生の今の御高説を聞いておりまして、動幾がよければ手段はかまわないのだ、こういうふうな意見に、言い過ぎかもしれませんが、感じたのでございます。ただいまの本州製紙の場合も、それをとめたということは会社側の利益を守ったという姿になったかもわかりませんが、動幾がよく、漁民の方たちが言われることが当然であっても、あるいはそれはああいったときに警察のとった手段が誘発して起ったかもしれませんが、しかし、そういったことを行うという手段方法は、やはり法治国であればやめなければならない。元来私は、民主主義の政治というものは回り道をする忍耐の政治じゃないかと思う。なるほど一揆を起し……     〔発言する者多し〕
  33. 鈴木善幸

    鈴木委員長 御静粛に願います。
  34. 渡海元三郎

    ○渡海委員 あるいは直訴をすることによって事が簡単に解決されれば起らないかもしれない。     〔発言する者多し〕
  35. 鈴木善幸

    鈴木委員長 御静粛に願います。
  36. 渡海元三郎

    ○渡海委員 しかしながら、忍耐強く法秩序を守りながらこれの実現に向って行くところに、ほんとうの民主主義というものができてくるんじゃないか。そういう意味において、現在はあまりにもその法秩序というものの乱し方がきつ過ぎる。ひんぱんに行われている。このような姿では、ほんとうの民主政治というものは現われないのじゃないか。こういう点に本法が作られた意図もあるんじゃないかと思いますが、この点をいかにお考えになりますか。     〔発言する者多し〕
  37. 鈴木善幸

    鈴木委員長 御静粛に願います。
  38. 中野好夫

    中野公述人 私の申しましたことが、渡海さんには、目的のためには手段を選ぶ必要がないというふうに聞えたとおっしゃいましたが、私にはどうしてそういうふうに聞えたか、ちょっと不思議に思えるのです。現に私は、道徳教育問題に対して文章を書いたことがございます。御参考になれば、この二月の太陽という雑誌、つぶれましたが、基本道徳——それにちゃんと書いてあるのですが、私は、今の文部省がやろうとしている道徳教育には反対でありますけれども、道徳教育が要らないということは決して言わない。むしろ幾つかの基本的な人間関係の道徳というのは要る。その中に、たとえば三つほどあげた中に、すべての場合に目的が手段を正しくするわけではない。つまりいい目的を達するためにはいい手段でなくちゃならぬ、そう書いてあります。私は今でもその信念でおります。たとえば道徳教育の講習の例をとりますと、皆さんは、ああいう場合のあの反対運動がけしからぬ、あのやり方がけしからぬから作れとおっしゃるのだろうと思います。私も、あの道徳教育の阻止のやり方の中に、たとえば道徳教育の講習阻止そのものでなくて、あたり近所の住民にまで迷惑を加えるようなああいうやり方、それからたとえば、あるところで会場になっておりましたその会場の建物の一部をこわすようなやり方については、私は、はっきり反対でありますし、私がかりに教師で日教組の組合員でありまして、ああいう阻止に行けという指令がありましたら、私はたとい首になっても絶対に行きません。(「どうかな」と呼ぶ者あり)その通りでありますが、しかしそれは、そこで使用されている公共の建物をこわすというようなこと、それからあたり近所の住民に迷惑をかけるということに対して反対なんであります。そして私は行きませんが、なぜ私は行かないかといいますと、私ならば、ああいうものをやらして、向うにできるだけたくさんしゃべらせた方がボロが出て非常にいい材料になるのでありますから、どんどんしゃべらせて、それを聞いてきて反駁した方がよほど正体がわかっていいのでありますから、あんなことは絶対に私はいたしません。つまり、悪いということより、こんなばかなことはありません。それは必ず国民の批判を受けると思うのです。おそらくこの次に教科課程指導要領に対し、講習がまた開かれるだろうと思うのですが、おそらくこの次はあんなやり方の反対運動——反対は私はあるだろうと思いますが、おそらく起らない。それはなぜかといえば、国民の批判というものは、何も政府与党の方が御心配なさらぬでも、国民は判断し得ると思うのです。現にこれは、たとえば火炎びん戦術というものがもう二度と——きょう志賀さんいらっしゃるかどうか知りませんが、もう二度とおやりにならぬだろうと思うのですが、つまりあれが法によってよりも、むしろ国民がそれを批判したことによって、もうできなくなってしまっておるように、周囲の住民に迷惑をかけたり、それから公共の建物を破壊したりするような運動は、おそらく法がなくても私はなくなると思う。それじゃ、もちろん法でやればそれは一つも起らないで済むかとおっしゃるかもしれませんが、私は、民衆が民主的にだんだん成長していくために、絶対に一つもあやまちをしないようにというので、法で取り締るということがいいことか悪いことかは非常に疑問で、むしろ悪いことだと私は思っております。これはユネスコから出しております緊張の世界、ワールド・オブ・テンションという書物の中に、民主主義というものはピープル・キャン・トウ・ロング、つまり民衆というものは間違いを絶対にできないように法で縛ってしまうのではなくて、民衆はときには間違いもやる、間違いもやるけれども、民衆自体の批判とかそういうことによって間違いが是正されていく。それを許すのがデモクラシーだと、デモクラシーの定義みたいなことが書いてあるわけであります。だから何と申しますか、法で間違いをすることもできないようにするということが——私は、与党の方も野党の方も、皆さんきっと民主主義の強い日本国民を育て上げるという御趣意には御同意だろうと思う。それならば悪いこと、間違いもできないような法的秩序だけを整備していくことがほんとうの民主主義の成長にはならぬと私は思うのであります。
  39. 渡海元三郎

    ○渡海委員 ただいま中野先生のおっしゃいます、ああいったばかげた道徳教育の反対運動はすべきでなく、当然これは法がなくてもおさまっていくだろうというお考え、私もそうなってほしい、こう思うのですが、そのために、そういった流血惨事を起すあの醜い姿をできるだけ少くするためにこういった法を作るか、あるいは法を作らずしてやるか、これは考え方の違いであると思いますので、議論をしようと思っておりませんが、ただ最後に乱用の点について二、三例をあげておっしゃいましたが、私も、確かに乱用の点は注意しなければならないと思うのでありますが、それは今先生が言われましたように、乱用ということは、これは人間が神様でない限り起り得ることでありますが、故意に乱用する危険性があるかどうかというふうなことが、たとえば先生は、健全なる労働運動を弾圧するものではないと言っているけれども、右翼が出てきたならば、当然健全な労働運動が押えられる、こうおっしゃいましたけれども、私は当然そういうふうなことの起るときに使われるということでなしに、右翼をまず押えて、正当なる労働運動ができるようにやるのが政策である。     〔発言する者多し〕
  40. 鈴木善幸

    鈴木委員長 御静粛に願います。
  41. 渡海元三郎

    ○渡海委員 むしろそれが必要ではないか。今笑っておられますけれども、そうあらねばならないし、またそのつもりでやられなければならぬと思っておる。お互いに信頼感がないということが世界を二つに大きく割り、あるいは今のように社会党のヤジが飛んでいるような姿なんです。私は、警察というものは、政府というものは、少くともそういった意図を持って進んでもらわなくてはならないと思っておりますが、そういった善意から見れば、この法律も正しいのではないか、こう思いますが、いかがでしょうか。
  42. 中野好夫

    中野公述人 乱用することがなければこの法律もいいのじゃないかとおっしゃいます。つまり乱用するおそれがなければという仮定の上に立ったことで、ほんとうならば、岸さんのように仮定の上に立った御質問には答弁ができませんと言うといいのでありますが、しかし乱用の危険がなければとおっしゃいます。そのなければという保障がどこにあるかということが私たちの疑問であります。
  43. 渡海元三郎

    ○渡海委員 私の言葉がちょっと足らなかったかと思うのでありますが、そういう意味じゃないのです。私は、少くとも先生が例にあげられたような故意に乱用するといったようなことは、立案者といえども、政府といえども、こういう意味でこの法案の審議に当っていくべきものではないかと申し上げたのであります。しかしこれは乱用ということは神様でない限り起り得ると思います。私も学校で死刑制度全廃論を習いましたが、もしこれが無実であったならば、償うことができないものである。だから死刑はやめるべきである。私は確かにその説は正しいと思いますが、現在死刑全廃論が叫ばれながらもそうなってはおりません。英国におきましてもそういうふうに聞いております。そういうことを考えましたならば、乱用のおそれがないということを前提に置かなければなりませんが、神様でない限り一、二のことはあるとしても、こういったことも必要じゃないか、こう考えるのですが、先生が信用されないという例にあげられました今の——おそらく人権擁護局の数字をあげられただろうと思いますが、あの中で、数字をあげてもよいが取り上げたものが非常に少い、こうおっしゃっておられました。私も、あの数字を今持っておりませんけれども、取り上げた数字の中で事件になったものが少いということは、見方によっては等閑視されておるということにもなりますが、また少いということは、取り上げた数字の中で乱用に値しないものがあったんだという証左にもなるのじゃないかと思うのです。私も、内容そのものを調べたわけではなく、聞きただしたのではありますが、私の認識はあるいは間違っておるかもしれませんが、そういった面も多分にあると思いましたので……。
  44. 中野好夫

    中野公述人 職権乱用で取り上げた数が非常に少いということは、乱用が少いからだとおっしゃるのでありますが、数字をあげますと、これは法務年鑑で調べたのでありますが、刑法百九十四条、百九十五条に職権乱用のことがございます。これは公務員ですから警察官ばかりとは申しませんが、三十年度に検察庁が受理しているのが五百五十九件で、少くないのです。ただそのうちで起訴されたものが十一件であります。三十一年度は三百十七件受理しておるのでありますが、起訴は実に三件であって、決して乱用の疑りいがあったのが少いのじゃなくて、それによって起訴までいったのが非常に少いということで、少し含みが違うのじゃないかと思います。
  45. 渡海元三郎

    ○渡海委員 これも見解の相違になりますから、御答弁は必要ないと思いますが、私もその数字は知っておったのです。ただ先生は、起訴されたものが少いという点を、保障がなくて取り上げる件数が少いのだ、だからそんなことをやってもだめだということでありました。私は、取り上げられた件数は多いけれども、実際よく調べてみたら、内容が何して少かったということは、相当そういう面もあったので、全部の数字はそうじゃないとしても、内容のことについて私も少しは研究したものでございますから、この点はそういう意味で申し上上げたわけです。
  46. 鈴木善幸

    鈴木委員長 川村継義君。
  47. 川村継義

    ○川村委員 時間が大へん迫っておりますので、私ここでいろいろ御議論申し上げたいとは思いませんが、ー、二の問題について先生方にはっきりさせていただきたいと思います。  まず初めに公述いただきました北岡先生にお尋ねいたしたいと存じますが、先生は先ほどの公述の中で大へん勇ましい御意見をたくさんお述べいただいたのでございますが、共産党の出限を阻止するためにはこういう法案は必要である。今までは警察本来の使命を取り上げてしまったというような結果になったから、このようなところに権限を広げつることも必要である。社会、公共福祉に反しない程度において人権はこれをある程度制限しなければならない。あるいは総評日教組のこういう革命的な今日までの行動を見ると、大衆行動取締りは、この法案等によってぜひともやらなければならないというような点等について、だんだんお話をお聞きいたしたのでありますが、そこで先生に警察法の第二条に示しておるところの、いわゆるー警察の責務」という言葉で表わしておりますが、第二条第一項及び第二項について、私がここでその文句を申し上げる必要はございませんけれども、先生はこの条項をどのように御解釈なさっておるか、その点をまず一つお聞かせおき願いたいと思います。
  48. 北岡壽逸

    北岡公述人 どうもどこにポイントがあるのだかわからないのですが、警察法の第一条にも第二条にも、第一条には公安の維持ということがございますし、第二条には犯罪の予防とかいうことがございますし、公共の安全、秩序維持もありますし、私は、当時の立法者はもちろん、おそらく社会党もこれには異議がなかったのだろうと思います。これは世界各国いずれも——世界各国に警察のない国はありませんが、いずれの国の警察にもこういう文句があるのだろうと思うのです。これを守るのが警察任務であるにもかかわらず、守る手段がない。簡単に申しますが、現在におきましては、血が流れてからやっと犯罪人を検挙するということだけでございまして、警察任務が達せられないというところがこの法律提案せられた根本的の理由じゃないかと思います。きわめて簡単ですが、よくポイントがわかりませんから……。
  49. 川村継義

    ○川村委員 私が先生の御見解をお聞きしたいと思って申し上げておりますことは、警察法の第二条第一項に、御承知の通り警察の責務ということでいろいろ並べておりますが、第二項で「警察活動は、厳格に前項の責務の範囲に限られるべきものであって、その責務の遂行に当っては、不偏不党且つ公平中正を旨とし、いやしくも日本国憲法の保障する個人権利及び自由の干渉にわたる等その権限を濫用することがあってはならない。」こう規定いたしておりますから、私といたしましては、警察活動、いわゆる警官の職務執行等においては、第二項というようなものが中心となって警察の職務が行われなければならない、このように強く考えております。ところが、先生のお話をだんだんお聞きして参りますと、どうも第二項におけるところの御解釈というそのお考えが、前の第一項に規定いたしますところのいろいろの交通の取締りその他公共の安全と秩序の維持に当る、こちらの方に非常に重点を置いてお考えになっておられるようでございますから、その点をどのようにお考えなさっておられるか、それを一つよくここでお教えおき願いたい、このような意味でございます。
  50. 北岡壽逸

    北岡公述人 一項と、今申されたこととは、両々相待って警察の職責を発揮しているのだろうと思います。別にこれについてどうもこれ以上講義することはありませんが、きわめて明瞭でございまして、とにかく一条、二条に公共の安全と秩序維持とが書いてあるのです。これはおそらく社会党方々も御賛成なすったと思うので、警察というものを作る以上はこれは当然なんです。これが一党に偏してはいけませんから、一党に偏して何とかいうような修飾を加えてありますけれども、しかしながら、一党に偏してはいかぬ、憲法を重んじろということは、いわば乱用の防止でございまして、警察の根本の目的が公安の維持、犯罪の防止、公共秩序維持にあることは一点疑いなかろうかと思いますが、これはちっとも矛盾していない。私は、片一方に重きを置くべきものではない、両方によって警察の職責がはっきりきめられておると思います。
  51. 川村継義

    ○川村委員 私が申し上げたのは、言葉が足らないかもしれませんが、この第二条第二項に示しておりますところの「日本国憲法の保障する個人権利及び自由の干渉にわたる等その権限を濫用することがあってはならない。」この規定は、警察官公務員として警察活動をやる場合、その職務を執行する場合に、これは最も強く、いわゆる民主警察警察官として規定された制約であると思うのです。ところが、今度の警察官職務執行法の問題については、いろいろお聞きになっておられると思いますけれども、非常に個人のいわゆる憲法で保障するところの権利を侵害するおそれがあるのだ、あるいは必然的に侵害をするところの要素を持っているのだというようなことで反対されております。これは先生の御存じのことだと思います。ところが先生の先ほどのお話、あるいは先ほど矢尾委員の質問等にお答えいただきましたのについては、先生は、そのような基本的人権を擁護する、こういったようなお考えの前に、どうも公共福祉といいますか、あるいは公共の安全を守るというか、そのようなことが大事であって、それが優先するものであって、そのあと人権というものは守らねばならない、このようなお考えのようでございましたので、この後われわれがいろいろこの警職法を審議していく上に非常に重要な問題であるから、先生のお考えをお聞きしているわけであります。  もう一つそれにつけ加えて、憲法のことについていろいろここで先生とやりとりすることはもういたしたくございませんし、またする必要もないと思うのでございますけれども、憲法で認めておるところのいわゆるわれわれに与えられましたところの個人的な権利、基本的人権というようなものは、とかく組合等につきましては、御承知の通り団体交渉、あるいは団体行動権等がございます。各種の人権を認めているわけでございますけれども、先生のお話から聞くと、どうもそういうようなものの前に、いわゆる十二条、十三条でいうところの公共福祉ためにそれらを利用することが優先的であって、いわゆるその他与えられたところの人権というものはそれに付随していくものである。こういうお考えのようではないかとわれわれはお聞きしましたので、その点について先生のお考えを一つはっきりとお示しおき願いたいと思うのであります。
  52. 北岡壽逸

    北岡公述人 個人権利公共福祉の問題は、これは調和すべきものでございまして、いずれも一方をもって他を押えることができないものであろうと思いますので、私は、はなはだよくない例をあげますが、われわれはちょっとつばきをはきたいからといって、ここでつばきをはいてはいけない。暑いからといって裸になれない。しゃくにさわったからといって人を侮辱できない。こういったふうに、いろいろ制限つきにわれわれの言論及びその他の自由というものが認められておると思うのであります。ところがこれは、きょう実は議会の速記録を見たかったのですが、新聞だけしかないのですが、きのう鵜飼君が何か自殺のおそれある者を防止することも、個人の思想、良心の自由を侵害する疑いがある。憲法に反するとはっきり言っておりませんが、反する疑いがあると言っているのですが、こうなりますと、ちょっとどうかと私は思うのです。われわれは自殺する者を、これは本人の権利であるとして放任してはいけない。     〔発言する者多し〕
  53. 鈴木善幸

    鈴木委員長 御静粛に願います。
  54. 北岡壽逸

    北岡公述人 われわれは、こういった者を保護するとか、それから公共福祉を守るということは、やはり警察にまかされた職務でございまして、公共福祉が優先するということは私は言いたくないのです。言いたくないのですが、調和すべきものである。たとえば今例にあげられました労働運動にしましても、労働者の地位を向上するために雇い主に対して争議権を持つということはこれは必要である。今日、文明国におきましてはそれを認めている。しかしながら日本のように、労働者の地位の向上のために認められました事業主に対する対抗策としてとられる争議権を利用しまして、政治ストをやるとか、さらにまた争議をするというけれども、他人が仕事をしたいというのに、スクラムを組んで妨害する。こういうことは私は行き過ぎであろうと思う。こういうことをとめ得ないということは、現在の警察制度の欠陥でございまして、この労働者の争議権にしましても、おのずから限界というものがある、この限界を越える傾向がございますから、それを押えるのでございまして、これはおのずから文明国共通の基準があります。日本におきましては、ややもすればこの文明国の共通の基準を踏み越えるおそれがあるので、こういう法律が必要になってくるのではなかろうかと思うのであります。
  55. 川村継義

    ○川村委員 私がお尋ねしていることについて、先生の解釈いただいたのが少しはずれているのでございます。ただいま先生のお言葉の中にございましたが、労働者がスクラムを組んでいろいろ妨害するというようなことはいけない。あるいは今おっしゃいませんでしたけれども、先ほどおっしゃいましたように、たくさんの者が集まってデモをやる、こういうことはいけない。こういうようなお考えが十分おありのようでございます。団体行動権とか、団体交渉権というものを、どのように御解釈なさっておられるか。この辺の先生のお考えというものが大体推測できるような気がいたしますので、もしも今出されております警察官職務執行法がわれわれの人権を大巾に制限する、あるいはそういうおそれのあるものがあるというようなことになりましたら、先生としてもこの警職法に御賛成下さらない。このように解釈してよろしゅうございますか。
  56. 北岡壽逸

    北岡公述人 ただいま私がデモを認めないということでございましたけれども、そんなことはございません。私はデモはやっていいと思っているのです。デモの名においてジグザグ行進とか渦巻行進ですか、それから官庁占領とか業務妨害、公務執行妨害、こういうことはいけないので、普通のデモというものはこれは文明国共通の、共産国におきましては認められないですが、自由主義国におきましては認めておるのであります。それからこれで大幅に人権を制限されると申しますが、現行法におきましては制限せられているのです。交通取締法とか軽犯罪法とか「いろいろな法律でもって制限せられているのですが、現実に予防とする警察に力がないだけなんです。やってから処罪すればいい、しかしそんなことをしたのでは警察の目的を果せず、いたずらに人を犠牲にするだけでございますから、これを行使するということでございまして、人権じゅうりんは乱用されれば別でございますが、乱用さえされなければ、これによって新しく人権がじゅうりんされるはずはない。現行法においてない権利を行おうとするものを押えるだけであると私は思います。乱用防止について御努力を願うことにつきましては、私はもとより一点の異議はない、全然賛成でございます。あなた方どうぞ警察官乱用防止ためにあらゆる努力をされることを痛切にお願いする次第でございます。
  57. 川村継義

    ○川村委員 今あなたのお答えいただきましたことは、この後われわれがこの警職法を審議していく上において非常に参考になると存じます。ただ、この警職法の問題につきましても、あるいはわれわれの基本的人権をどのように見るか、どのように考えていかねばならないかということについて、ずいぶんあなたとわれわれの考え方が隔たりがあるということだけは、ここでぜひ申し上げておきたいと思います。  次に、中野先生にお尋ね申し上げておきたいと思いますが、先生のお話の中に、柏村長官がいつでございましたか、新聞の論壇に、五つの疑問に答えるということで書いておられます。それを先生御引用いただいたのでありますが、私もそれを読んで、「公共の安全と秩序が著しく乱される上というような言葉、これについて非常に疑問を持ったのでございますが、先生からいろいろ先ほどお話がございまして、われわれが注意しなければならぬことは、いつでも取り締る当局であるとか、あるいは政治をやる者は、こういう抽象的な言葉でごまかしていくというようなきらいがある。抽象的な言葉で表現しておかないと、やっていく上について非常に工合が悪いというような形になって現われてくることも多いであろう、そういうことなど考えておるわけであります。現行法の問題が幾つかございますけれども、たとえば五条、六条の問題から考えましても、現行法でいうところの制止あるいは立ち入り、こういうものの前提としております個人心々の個々の人命、あるいは身体、財産に対するところの危険があるかどうかということは、これは具体的な事実の判断でありましょうから、これを個々の警察官の認定にまかせても、ある程度私は差しつかえないのじゃないかと思っておるわけであります。ところが今度改正になりますところの「公共の安全と秩序が著しく乱される虞のある」あるいは「急を要する」というようなことにつきましては、こういうような問題の判断は、一人々々の人命、財産に対する具体的な危険のあるなしというような判断とは違った性質のものとなってくる。いわば少し高度な総合的な判断でございますから、非常に慎重でなければならぬ。これが一つ間違うと大へんなことになる。いわゆる乱用される危険性が非常にある。これをいろいろ警察官の自由の認定にまかせておくということは絶対いけない、こういう考え方を持っております。先生が二、三日前の新聞にもお書きいただいたと思うのでございますが、週間朝日の読者欄に書いてあった治安維持法の成立のときの反対討論の記事を私も見たのであります。ああいうような事態なり考え方がこの警職法についても出てくる。従って当局が何と言いましょうとも、情勢の変化ということについては、第五条、六条等の乱用ということは最もおそろしいものである。特に保守党の政策が行き詰まる、あるいは保守党の政策の凋落の速度が急テンポに加われば加わるほど、これが必然的に乱用されるというような危険性が非常にあると私は考えておるのでございますが、この点について一つ先生のお考えをお示しおき願いたいと存じます。
  58. 中野好夫

    中野公述人 御質問の要点は二つ三つくらいになったかと思いますが、最初に予防的に措置をとること、制止警告、つまりそれは非常に危険であるとおっしゃったと思いますが、これは私もさっき申しましたように、たとえばPRのものを見ますと、別府の事件などは改正法ならば、〇〇港と書いてありますが、あれは徳島の小松島のはずだと思うのですが、あそこに乗り込むときにすでに制止することができたろうと書いてありますが、テキ屋の場合はそれでもいいかもしれませんが、それを全部他の集団運動大衆運動に持ってこられますと、これはおかしいと思えば、集まる前に駅のところでもうすでにとめられてしまうだろうということもあり得る。別府の事件を小松島でとめることができれば、ある地点で明らかに起ると思われるものは、もっと手前でとめることができるというようなことになってこないという保障はどこにもないわけであります。だから私はやはり「まさに行われようとする」——警察官としては非常に御同情できる点もあるのでありますけれども、一方において民衆、人民、国民人権、自由というようなことを考えますと、今の明白にしてかつ現にある危険という規定の方がよろしいと思うのであります。そのほかこれだけじゃありませんが、外国——たとえばフランスなどはもっと警察の職権が強い。だから日本ももっと強くしなければならぬだろうとおっしゃるのでありますが、これは都合のいいときには外国の方に見習い都合の悪いときは外国のはいかぬ、国情に合わさなければならぬ。それぞれ都合のいいときに都合のいいことを引かれるのは困りますが、やはり明白にして現にある危険というのは、これはアメリカの方の考え方ですが、外国がどうであるとかなんとかいうことを考えないで、私は日本の実情、国情に合せるという、まことに与党の方のお考えと似てくるのですが、つまりそれがアメリカの精神であろうとどうであろうと、現に日本——とにかくフランスのようにすでにフランス革命のときに人権宣言というようなものをやっておるそういう伝統のあるところと、つい十何年晦までの日本を考えますと、やはり私は現実の明白にしてかつ現にある危険、クリア・アンド・プレゼント・ゲインジャーという考えでやっていく。自分で民主的な訓練が今までできる機会のなかったわれわれ日本国民にとっては、これくらいで置いておく。これは先ほど申し上げましたように、あやまちを犯すこともありましょうけれども、つまりあやまちを通じて成長していくというようにやっていただく方がけっこうなのであります。その意味においても、つまり予防々々ということは、あやまちもできないような法秩序を作ってしまうということにおいて、私は非常に危険だと思う。危険でよろしくないと思うので、やはり反対せざるを得ないのであります。  もう一つ御質問の点、聞き漏らしてしまいましたので、また……。
  59. 川村継義

    ○川村委員 よろしいです。
  60. 鈴木善幸

    鈴木委員長 床次徳二君。
  61. 床次徳二

    ○床次委員 中野さんにお伺いしますが、時間がありませんので、要点だけ申し上げてみたいと思うのであります。  まず第一に、公共の安全、秩序に対しまして、どうも政府が都合によって中身を勝手に公共の安全、秩序という言葉できめては困るのじゃないかというお話がありました。なお、今日までかかる場合において法秩序が破れました個々の事実、動きから見まして、だいぶ事態が違うのだということを言っておられるのでありますが、今回提案せられましたところの改正法を見て参りますと、この点は共通の性格をはっきりつかんで、くくって対象としておるというふうに私は考えるのであります。この点条文をお読みになりますとわかるのでございますが、「犯罪が行われようとしており、」これを「そのまま放置すれば、」「公共の安全と秩序が著しく」というふうになっておりまして、この前提がありますので、共通の性格をつかみ得る。私どもは、はっきり防止しなければならない共通のものがあると思っておるのでありまするが、往往にして、この条文が読みにくいために、世間では誤解をしておるのであります。先生なんかからただいまのようなお話がありますると、非常に社会は誤解して、何でも取締りの対象になるかのように思うのであります。この点はいかがお考えになりますか、承わりたいと思うのであります。
  62. 中野好夫

    中野公述人 確かに共通の表現でしぼってあるのであります。だからむしろ私の方は、それだから危いと申し上げたので、実はこの共通でしぼってある、たとえば先ほど非常に下品な例を引きましたが、色が黄色でねばねばしているというだけでしぼってあるから危険だ。私は、どれを含むのだろうかと思ってPRのものを読みますと、つまり別府——先ほど申しましたのは、私が製造したのではないので、みなそれにあるのであります。別府の事件、王子の事件、砂川の事件、勤務評定、なるほどこういうものをすべてしぼっておるのだと私も実は教えていただいたのであります。そうすると、決してその間には共通でしぼるべきものでないものを、最も右を別府問題といたしますと、最も左が砂川に至る。砂川の問題と別府のテキ屋の乱闘を、まさか一緒に一つのカッコの中にくくれるとはお考えにならないのではないかと思うのでありますが、つまり暴力の対象ということだけでおしぼりになるところに、私は実は非常に危険があるのだということを申し上げておるのであります。
  63. 床次徳二

    ○床次委員 しぼり方におきまして不十分だとおっしゃるのでありまするが、ただいま朗読いたしましたごとく、犯罪が行われんとしているということは、これほどはっきりした事実はない。犯罪ということは明瞭なる観念だと思うのでありまして、単にみその黄色いのと、くその黄色いのと同じだというふうな比喩をもってなさることは、大へんな誤まりだということを申し上げたいと思うのであります。  次にお尋ねいたしたいことは、先ほど佐倉宗五郎とか、砂川事件、あるいは王子製紙等の事件をお話しになりました。民主主義に対しまして、間違いがあっても仕方がないんだ。この間違いを積み重ねていくところに、なお民主主義の発展があるのだというふうにおっしゃる。しかも中野さん自体、自分は間違いをしないのだけれども、しかし間違う者もあることはやむを得ないかのようにおっしゃっておるのでありますが、このことは、やはり社会の秩序に対する非常に大きな問題じゃないか、見方によりますると、やはり暴力を肯定することに世間は理解すると思うのでありまするが、この点に対する御意見をもう一回はっきりしていただきたいと思う次第であります。
  64. 中野好夫

    中野公述人 最初の、犯罪が明らかに行われようとするときというのが、私にはその内容がよくわからないから、PRを読みましたら、ああいう事件が載っておったので、ははあ、これだけを含んで、こういうのがみなすべて犯罪が行われることが明らかな場合なんだろうということを察したので、今の御質問とむしろ逆であります。あれが教えてくれたのであります。  それから佐倉義民伝とか、何と申しますか、いろんな暴力法秩序を破る行為を、私が起ったことはやむを得ないから是認する、けっこうなことだと言っているというふうな含みで解釈されておるのかもしれませんが、先ほども申しましたように、どれ一つとして、私は砂川のときも申しましたように、決してあれがけっこうなことだとは申しませんという言葉が速記にも残っておるはずで、非常に悲しい残念なことですと申し上げたのであります。だから、あの暴力が非常にけっこうだ、非常にいい暴力だなんて一つも言っていないのであります。これは私は、ある政治の、たとえば強硬な、そういうどんな動機であろうと、それから起る地盤、理由にどういうことがあろうとも、ただそれを法と権力をもって身動きもできないように縛っていけば、必ず幾らいやでも起るということを申し上げたのであります。これは肯定するかと申しますと、つまり何と申しますか、幾ら好まなくても必ず起るということ。でありますから、先ほどの英米だって、英国などは王様さえ首切っておりますが、どこにだってある。英国の婦人参政権運動が盛んであったころは、ずいぶん女の人が街頭で、今ならば警職法に引っかかるようなことを起しておるのであります。それが結局婦人参政権のできるまで続いて十九世紀の終りになっておりますが、そういうふうに、これは何も暴力が肯定とか否定とかいう問題じゃなくて起る。起させないように、そういう起ることがないようになさるのが政治じゃないかと私は思うのであります。
  65. 床次徳二

    ○床次委員 民主主義の間違いがときどきできるのもやむを得ない。これ間違わないようにするのが政治だとおっしゃるのでありますが、近ごろは、なかなかこの間違いがしばしばあるし、同時に、あえて故意に間違えるものも少くないと私ども考えておるのであります。従って、これを防止することが非常に大事だと思うのでありまするが、時間がありませんので、この点はこの程度にいたしまして、次に、私どもは正しい民主政治を推進させるためには、合法的な国民運動がそれぞれ認められておる。なぜこの合法的な活動の範囲内におきまして国民の要望が実現できないのか。あなたはその点は、合法的な国民運動に対しまして失望を感じておられるということを私たち疑わざるを得ないのであります。むしろはっきり申しましたならば、現在の民主政治の機構を否認するもの、国会の政治というものを否認しておられるのではないかというふうに私ども解せられるのであります。平和憲法の精神をもち、この議会を運用いたしまして民主政治をだんだんと推進させようとしておるのでありまするが、どうしてもその間違いが認められなければ政治ができないかのように思われておるのでありまして、この点は大へんなことだと思うのでありまするが、もう一回御意見を伺いたい。
  66. 中野好夫

    中野公述人 私が民主政治あるいは議会政治を否定しているじゃないかとおっしゃる。これは大へんけっこうなことを伺いましたが、しかし私は、もし議会政治というものが国会内だけで、皆さんを選びました国民というものを無視した国会内だけの数の多少によってすべて行われるのが議会政治だということならば、私は非常に間違った国会政治だと思うのであります。   「それは民主政治の破壊だ」と呼び、その他発言する者多し〕
  67. 鈴木善幸

    鈴木委員長 御静粛に願います。
  68. 中野好夫

    中野公述人 どうも委員会が一番安全秩序が乱れるようであります。     〔発言する者あり〕
  69. 鈴木善幸

    鈴木委員長 御静粛に願います。
  70. 中野好夫

    中野公述人 先ほどだれか、私をさして、言論国会の書記長だったと申しておられた方がありますが、それは何によってお調べになりましたでしょうか。     〔「そんなことと関係ない」と呼び、その他発言する者あり〕
  71. 鈴木善幸

    鈴木委員長 御答弁願います。
  72. 中野好夫

    中野公述人 今も出たんです。私は言論国会の一会員でさえない。お調べになったらわかるでしょう、名簿を。そういう誤まった解釈において行われるということが危険だと私は言うのです。
  73. 鈴木善幸

    鈴木委員長 公述をお続け願います。
  74. 中野好夫

    中野公述人 もう一つ何でございましたかな、国会政治を否定して……。
  75. 床次徳二

    ○床次委員 正しい国民運動によって運動することをせずして、かかる民主政治の誤まりによって民主政治がだんだん進んでいくという考え方は、現在の民主政治の機構を否認するものじゃないか、議会政治に反すると思う。
  76. 中野好夫

    中野公述人 私は実は、国会内だけの数がすべてを決定するというのは、何もほんとうの国会政治じゃないと思うのであります。たとえばこの間五月の総選挙がありまして、結果が、自民党の方が大へんお勝ちになりましたときに、うるさい新聞が私たちにまで意見を求めたのであります。私は、公約にあることをぜひ守って下さい、守って下さいという意見ですが、私はむしろ公約にあることをやっていただくよりも、何とかお願いだから公約にないようなことをしていただかない、それだけが心配だということを共同通信に言ったのでありますが、国会の選挙というものは、一定公約の範囲で皆さんにお願いしておるのでありますから、公約にあまり載っていない思わぬものが出てきて、それが非常に危険であったという場合は、いわゆる国会の外においてそれに対する反対の意思表示、あるいは運動——今の警職法に対する反対のどこに非合法なものがあるか、教えていただきたいと思います。
  77. 床次徳二

    ○床次委員 ただいまの御意見は参考人の御意見として承わっておきます。私どもは全く別個のことを考えている次第でありまするが、さらに最後にお尋ねいたしたいと思います。昨日の朝日新聞に参考人の御意見が出ておるのでありますが、「みんなで勉強を、愚民政策を粉砕する最強の道」という論文を書いておられるのであります。きょうお話しになりました論旨と大体同じでありますが、大正十四年三月八日の記事を引用されまして、さらに治安維持法の当時と現在の警職法改正案とは全くそっくりそのままであるように論ぜられておるのであります。しかも、警察官並びに与党のおごりがある。国民の一人一人が法案そのものに対して、またその背景について徹底的に勉強する必要がある。この勉強そのものが十分民主政治のためになるんだということを言っておられると思うのであります。私は、言葉はまことにその通りでありまするが、大正十四年の時代と今日の時代といかなる変化、進歩があったかということに対するお考えが少いのじゃないかと思う。国民に対して勉強を要求しておられるのでありまするが、そもそも憲法そのもの自体も、帝国憲法より今日の民主憲法に変っております。警察制度そのものにおきましても、本質的に当時の中央集権の警察制度から今日の公安委員会中心警察に変っております。法規そのものにおきましても、治安維持法、行政執行法等のありました当時と、今日の警察法とは雲泥の相違があるわけであります。しかも国民自体の基本人権に対する認識そのものたるや、これは非常な進歩があったと思います。
  78. 鈴木善幸

    鈴木委員長 時間がございませんから、簡潔に願います。
  79. 床次徳二

    ○床次委員 今日、民主政治そのものに対する非常な進歩があったことを私も認めるのでありますが、かかる環境において、大正十四年と今日とを同じようにお考えになるということ自体が大へん認識が違うのじゃないかと私は思う。今日われわれ国民といたしましては、いろいろ御懸念のありましたような乱用という問題に関しましては、お互い国民自体が基本人権を尊重するということに対しては、非常な強い熱意を持っておる。国会におきましても、もとよりしかりであります。なお、その他の条件といたしましては、人権擁護局初め擁護委員活動いたしておりまするし、警察法自体の実施に当りまする職員の素養の向上その他におきましても、もとより大いに努めておりまするので、この大正十四年と今日との相違に対しましては、参考人も十分おわかりいただいておるのじゃないか、それをあえて無視して議論をなさるということは、むしろ国民を愚にするものじゃないか、私自身はさように考えるのでありまするが、これに対する御意見を伺いたい。
  80. 中野好夫

    中野公述人 たとえば週刊朝日のあの読者でも、「法の乱用は杞憂か」といって、私だけじゃない、あの読者も書いておるのでありますが、大正十四年と今日が違うこともよくわかっております。ただ私はこういう法案の通る場合の、乱用のおそれがないということが、決してそれだけの言葉の保証は確かな保証でないということがいかに似ておるかという点だけは似ておるということを書いたのであります。ほかの人は言う人もありますが、私は治安維持法——文章を出してもいいのですが、今度の警職法が治安維持法そのものでは決してない。決して同じものとも言わないし、戦前警察が今日の警察と同じだとも言っていない。しかしあのときにも朝日に書きましたように、あのときの反対演説で、今の若槻内相のような紳士と書いてありましたか、そういう方の政府ならば起らぬだろうといって、あの坂東幸太郎氏が反対演説をしておりますが、これもできますと、何もいつまでも——ただいまの政府よりもっと悪いのができるかもしれませんが、とにかく政府もかわりますし、公安委員だってかわります。こういうもので、とにかく反対運動が一応困難になってくるような地ならしができれば、その次でこれにまたさらに改悪をもう一度できることも——あなた方はおやりにならぬでしょうが、それもできる。ちょうど治安維持法の歴史がそうなんで、初めのものよりもずっとひどくなってくる。そういうことになる基礎、私は治安維持法的な基礎工事ということは書きました。今も考えております。それをおそれるのであります。だから今の警職法がそのまま戦前治安維持法と同じだ、あるいは治安警察法と同じだ、それから戦前警察と今の警察が全く同じだとは少しも言っておりません。しかし、そういうものにもなり得る歴史の教訓はあるということを申し上げたのであります。(拍手)
  81. 鈴木善幸

    鈴木委員長 これにて北岡公述人及び中野公述人に対する質疑は終了いたしました。  北岡公述人及び中野公述人には、御多用中のところ、長時間にわたり御出席をわずらわし、貴重な御意見の御開陳をいただき、委員一同を代表して厚く御礼を申し上げます。(拍手)これにてお引き取り願います。  この際、午後一時三十分まで休憩いたします。     午後零時三十七分休憩      ————◇—————     午後一時四十三分開議
  82. 鈴木善幸

    鈴木委員長 休憩前に引き続き会議を開きます。  ただいま御出席を願いました公述人は、末次一郎君、渡邊道子君、田上穣治君及び眞野毅君の四人であります。  この際、議事に入ります前に、公述人各位一言ごあいさつを申し上げます。御多用中のところ特に御出席をわずらわしましたのは、さきに御通知申し上げました通り、本委員会において審査中の内閣提出にかかる警察官職務執行法の一部を改正する法律案は、国民一般的関心及び目的を有する重要な法律案でありますので、成規手続によりましてここに公聴会を開会し、学識経験を有せらるる方々公述人として選定し、各位の本法律案についての御意見を拝聴し、もって本委員会本案審査に慎重を期することといたしたのであります。つきましては、以上公聴会開会趣旨を御了承の上、それぞれのお立場より忌憚のない御意見の御開陳をお願いする次第であります。  なお議事の進め方につきましては、公述人意見陳述発言時間は、お一人三十分程度でお願いすることとし、その順序は、まず末次一郎君、次に渡邊道子君、次に田上穣治君、次に眞野毅君の順序とし、四公述人の御意見の御開陳が終りました後、公述人お一人当り三十分程度におきました、委員から質疑が行われることになっております。また衆議院規則の定めるところによりまして、御発言の際には委員長の許可を得ていただくこと、公述人発言はその意見を聞こうとする案件の範囲を越えないこと、公述人委員に質疑をすることはできないことと相なっておりますので、あらかじめこの点をお含みおき願います。  それではまず末次一郎君から御意見の御開陳を願います。公述人末次一郎君。
  83. 末次一郎

    ○末次公述人 私が末次であります。公述に入ります前に、私の立場を申し上げます。  私は自民民主党の推薦で本席に出席いたしましたが、自由民主党の党員ではございません。また自民党と何ら特別な関係を持ってもおりません。ただ従来青年運動を進めております立場から、私どもはここに提出されております警職法の改正については、これに賛成という立場に立って参りました。そういう意味から自由民主党からのたっての御推薦があって、それで出席さしていただきました。最初にお断わり申し上げておきます。  本論に入ります前に、関連した二つの意見を申し上げておきたいと思います。その一つは、この法律改正案を国会に提出された政府与党の態度についてであります。私ははなはだ遺憾なことであったと考えておるものの一人であります。なぜなら、国民の生活や権利にきわめて深い関係を持つこの種の法律については、あらかじめその趣旨等をできるだけ国民に知らせておいて、十分その討議を経て国会の審議が行われるということが、もっとも望ましいのでありまして、今回の提出に当ってそういう措置をとられなかったことは、どのような事情があるかは存じませんが、まことに遺憾であったと思います。特に国民の中には、昨今の社会情勢の中から、警察のあり方がこのままでよろしいと考えておる人は、私どもの見るところでは比較的少いのでありまして、十分な事前の啓蒙等が行われておったとしますと、現在見らるるような混乱も起らなかったでありましょうし、不必要な疑惑や誤解もなかっただろうし、またためにする反対運動の口実を与えることもなくて、もっと冷静のうちに討議検討を進められることができたであろう、そういう意味ではなはだ遺憾であったことを、最初に申し上げておきたい。第二点は、これは社会党皆様方に対する私の見解でありますが、ともあれこの改正案が国会に出されましたときに、社会党ではどこまでもその審議を阻止するという態度をおとりになりまして、まことに遺憾なことでありますが、議員団はもとより、秘書団まで動員されて委員室を占領される、あるいはついには乱闘まがいの状況まで現出するというようなことに相なったのでありますが、私はたとい目的がどうであれ、また理由、動機がどうであれ、とにかく神聖なるべき国会においてそのような行為が許されるはずがないと思うものの一人でありまして、これまたはなはだ遺憾なことであったと申さねばならないと思います。いずれも今日までの経緯の中で関連のあることなので、冒頭に私の見解を申し上げました。  続いて本論に入ります。改正案に対する私の態度でありますが、結論から申し上げますと改正案に対して賛成であります。この理由を申し上げます。第一は、現行法規が占領下に作られたものであるということであります。申すまでもないことでありますが、占領下において作られた諸立法は、占領軍の当時の占領行政の基本目的に沿って作られたものと理解しておりますが、その占領軍の占領目的の大綱には、幾つかの柱があったと思います。その中で私の理解する限りでは、戦前、戦中の日本を弱くしようという考え方がきわめて大きな柱となっていたことは、いなめない事実であると思いますが、そういう意味でこの警察官の職務権限執行等をきめた現行法の制定に際しても、連合軍のそうした意思が強く反映していたことは、否定できないことだと思うのであります。そのことが一つ。それからもう一つは、昭和二十三年制定当時は、言うまでもなく占領下の状態にあったわけでありまして、そのような状態においては万一警察力だけで処置し得ない事態が起った場合には、占領軍が出動し得るということを前提として作られたものだと私は理解いたします。この日本を弱くしようという占領方針が基本になって作られたものということ、及び必要なときには連合軍が出動することができるということ、この二つの前提を設けて作られたために、現行法は必要以上に警察力を弱めていたものだと私どもは理解いたします。加うるに昨今の情勢は、これはあとで申し上げますが、このままの弱い警察力では、治安維持その他の面からはなはだ不安にたえないという意味で、戦後十三年を経た今日でもありますので、ここいらでその根本的検討をはかろうということは、私は理を得た当然なことだと思うわけであります。  私の賛成する理由の第二点は、昨今の社会情勢から見ての必要論であります。これは申し上げるまでもなく、最近の社会情勢はきわめて検悪であります。また好ましからぬ風潮が至るところにびまんしておると私は思います。たとえば道徳観念の低下であるとか、あるいは観念的なうわずったへ理屈が今日ほど横行した時代はなかろうと私は考えるのであります。そういうことにしても、また利己主義と申しますか、そういう社会連帯観念がきわめて欠けておるというようなことにしても、そのほかまた凶悪犯罪が非常にふえてきた、あるいは少年犯罪もふえてきた、そういったような一般的社会風潮は決して好ましい状態にあるとはいえない。その原因がどこにあるかということは、これは本日の問題とは離れるので触れませんが、もとより政治の貧困に負うところが非常に大きいと思います。同時にやはりそれを組み立てておるいろいろな一つ一つについて私どもは考えなければならぬと思うのでありまして、その意味から改正法の第二条、第三条等で青少年犯罪の予防の問題を取り上げられたことやあるいは保護の問題など取り上げられたことは、私は当を得た措置であると考えるものであります。なおまた昨今の風潮の中で最も私どもの心を痛めますことは、法秩序を頭から全く無視して、集団の力によって暴力行為をほしいままにする風潮であります。そうしてまたこれをあたかも是認せんとするがごとき風潮であります。私ははなはだ遺憾な傾向であると思うのであります。しかも昨年からにとしにかけてこれらの傾向をながめてみますと、だんだんその傾向が容易ならざる事態に進みつつあると私は観察いたしております。たとえばよく伝えられておるような苫小牧の労働争議のああいう激しい行き方などは、私どもの知る限りでは善良なる労働者諸君、あるいは善良なる労働組合運動を進めようとしておられる諸君は、大へん迷惑しておられることをよく知っております。そういう問題にしても、あるいはまた非常に過激でついに流血の惨事まで引き起しました勤評反対闘争にいたしましても、あるいは各地で繰り広げられました道徳教育講習会に対する反対闘争にいたしましても、あるいはぐれん隊の集団暴行であるとか、そういう事柄などにつきましても、私は全く目に余るものがあると思います。こういう状態をよく静かに見ておりますと、日教組が昨年和歌山大会で決議いたしました中に、合法か非合法かは力関係によってきまるということがあることが伝えられておりますが、全くそれを地でやっておる感がいたします。またもう一つ、そういうこととあわせて私非常に憂いを深くいたしますのは、目的のためには手段を選ばないでもよろしいという誤まった考え方が最近頭を持ち上げてきておることであります。こういった傾向をこのまま放置いたしますと、それがどういう結末を示すかということは、これは私から申し上げなくてもよくおわかりいただけることだと思います。私は、そういう意味で今度の改正案の中の一番ポイントとなっておるのは、第五条及び第六条の警告制止あるいは立入等の項目であろうと思っておりますが、そういう意味でこの改正案に賛成するわけであります。もし現状の状態を放置しておきますと、社会秩序というものはだんだんなくなって参ります。もちろんこれに対するに、単に法律を作っただけで解決するとか、あるいは警察力を強めることだけで解決するなどとは毛頭思いません。社会運動をしておる私どもの立場から言えば、やはり国民の中に健全な良識が盛り上ってくることでありますし、また政治がもっとスマートに行われることも必要でありましょうし、あるいはもっともっと他の要素が加えられるべきではありますが、ともかくあらゆる努力を集めてこういう事態を阻止することが必要である、私はそう考えます。一部の反対議論の中に、このような法律を作ると警察国家になって、警察官というものはもうおそろしいものになってしまうという御意見もございますが、私は数カ所の反対闘争の激しい現場をながめましたが、もしこういう現場をごらんになった方々であるならば、警察官がおそろしいという気持をお抱きになる前に、何とたよりない警察官だろうというお気持を持たれるだろうし、同時にまたああいう電柱をもってとびらを破るということが公然と行われるような事態をごらんになっておりますと、一体これはどうなるであろうという不安こそ感じるのではなかろうかと思います。少くとも私はそういう感じを持っておる者の一人であります。  さらにこの際注意を呼び起していただきたいと思いますことは、私どもがそういう一連の集団的暴力行為をじっと観察しておりますと、その中には非常に素朴な純情な気持で立ち働いておられる方々も多数おられます。またそういう人々のそうせざるを得ない気持もよくわかるつもりであります。しかしながら同時に比較的少数の人々がこのような動き、このような素朴な人々の感情などを利用しようとしたり、あるいは利用したり、あるいはそれを計画的に組織化したり、しようとたくらんでおる動きがあるということを、私どもは見のがしてはいけないのではなかろうかと思います。私は一昨日和歌山から帰って参りました。和歌山県の各地で講演会をいたしました。その幾つかの会場で偶然ぶつかったことでありますが、ある和歌山大学の学生が私のところへやって参りまして、六月ごろ和歌山の勤評闘争が非常に盛んなころ、その学生も大いに活躍したそうでありますが、だんだん静かに考えてみると、自分の動いていた動き方が必ずしも正しいことと思えなくなってきたという話をいろいろいたしました。どういうことでそういうふうになったのかということを聞いてみますと、東京から乗り込んで来て、われわれを指導してくれた全学連連中の言動を見ているうちに、自分自分の動きそのものに疑問を持たざるを得なくなった、これが自分の考え込んだ動機なんだ、こういうことを申しております。あるいはある父兄は、勤評をやると戦争につながるとか、あるいは勤評をやると大へんなことになるというように思い込んで最初は動いておったが、だんだん落ちついて考えてみると、子供の教育をほんとうに考える親としては、ああいう動きをすべきでないということがわかってきた。そういうことを告白している親もおりました。またこれは私の友人から知らせてきたことですが、私の友人がたまたま東京へ帰る途中、ちょうど勤評問題で一番騒がしかった直後、上り列車に乗って東京に帰ってきた。たまたまその列車の同じ座席に、労働組合の指導者とおぼしき三人づれの人と同車したそうでありますが、いろいろお話し合いをなさっておるのを聞くともなしに聞いておったが、こういう言葉が出てきたそうです。和歌山県人というやつは非常におめでたい県民だ。付和雷同性が強いようで扱いやすかったね。こういう話をしておられたというにとであります。私はなるほどそういうことはあり得るだろうと、この知らせを聞いて思ったのでありますが、そういうふうに、いわば職業的運動家ともいうべき人々が、きょうは北にあすは南にという工合に、大へんな御活躍をなさっておることを知っておるわけでありまして、そういうような話が一方において行われているということを見失うと、素朴な人々のことだけを考えておると、実態を見つることを誤まるようになるのではないか、私はそう考えております。  またこれは多少突っ込むことになりますが、これも私の観察であります。御存じのように、毎日ソビエトのモスクワ、北京あるいは平壌などから放送が行われております。その放送を時折聞いてみますと、中には内政干渉に類するようなことも間々あるようでありますが、ときどき微妙な変化を示しておると私は観察しております。私の観察では、そういう放送の呼びかけなどと、今申し上げました一部特定の職業的な方々の働きぶりとが、何となく微妙な関係を持つ現象を見落せない、こう私は思っております。(拍手)そういうふうに考えて参りますと、たとえば私はこの中にも御存じの方がおられますが、ソ連や中共などからお引き揚げになる方々の世話を長くやって参りましたが、そういう引き揚げの際に、これまたごく一部ではありますが、特定の動きをなさる方々が入ってお帰りになられます。そういうこともまたきわめて微妙に関連を持っておると思われるのでありまして、そういったことを考えて参りますと、国内における最近の集団的な暴力的傾向というようなものも、それを単に偶発的なものとして見たり、あるいは極部的なものとして見たりすることは、どうも間違いではないだろうか、もっと根の深い、もっと背景の広いものだと見るべきではなかろうか、そういうふうに私は思うのであります。従いましてその根があまり広がらないうちに、どうにもならないようになってしまわぬうちは、しかるべき措置を講ずべきである。そのしかるべき措置の一つとして、私は改正案に示されたような措置は妥当なる措置だと思うわけです。  またこれも私が非常におそれる傾向の一つでありますが、徳島の道徳教育講習会の際、裏山に集まられた方々が拡声機を鳴らし、笛を鳴らして講習会のじゃまをなさったという事件は、これは新聞にも広く報道されておりますが、そのとき地元の人々が警察にあれを何とかせいと申し入れをなさったときに、警察では現行法ではそれができないと答えた。そうしたら地元の人々は、それではわれわれがやるというので、警察に大へん怒りを感じながら、付近の人々がやかましいからやめてくれというような動きをなさった。こういうような事柄を見ましても、また最近の東京における例の共同製本のストライキに暴力団がかり出されたというような事実を見ました。また先般来あちこちで問題が起っておりますが、今もどなたか非公式な御発言の中でおっしゃったように、名古屋かどこかで暴力団の連中ビラをまいたそうでありますが、そういう暴力団の直接行動に類するようなことが目につくようになって参りました。警察に対する不信の念から、よしわれわれがやってやるというような、こういう傾向が出て参りますと、極端にいえば無警察状態に突きやっていくわけであります。力と力の対決ということになっていくわけでありまして、まことに不幸なことといわざるを得ないと思うのです。(拍手)そこに至る前にしかるべき措置を講ずべきである。そういう意味で現下の情勢を思うとき、私はこの改正案は妥当であると思うのであります。  その次に第三点は、改正することによっておそれられる数々の不安については、私自身の解釈では、これを解消できると考えるからこの改正案に賛成するわけであります。ともかくも今や国をあげて反対運動が行われている。これは今までわれわれの目に映る限りでは、今までの反対運動の中でも非常に力強い形をとって反対運動が行われておる。しかしながら、私どもはその反対運動を見る場合に、冷静に観察しなければいかぬと思うのであります。つまり反対運動の中にも、その立場やその論点は、実は区々まちまちでありまして、そういう事実はこれを冷静に観察しなければならぬと思います。たとえば反対論の中には、全くためにする反対論があります。これはとにかく文句なしに反対でありまして、何でも反対であります。従って改正案の条文に基くことなく、被害妄想的なキャッチ。フレーズを掲げての反対、これらは問題にするに足らぬと私は思うのであります。むしろそういう人々には、そういう人々の一部が中心になって引き起されたであろうあの過激な集団暴力行為が、実はこのような法律を作ることを早めたということを反省してもらいたいと思うのであります。(拍手)そういうことはなくて、もっぱら虚構の事実を訴えたりしておられる。こういうためにする反対運動であります。たとえば警察国家になるのだという議論がありますが、私の理解し得る限りでは、そうなるとは思いません。たとえば改正法案によりますと、憲法に保障されております言論、結社、集会、出版の自由の中の言論、結社及び出版はそのまま何も触れないわけで、集会の中のほんの一部にある種の制約を加えようというのでありまして、場合によっては私どもも、運動を進めていく過程でその制約を受ける場合もあり得るかもしれない。しかし全体のためにはそういう不自由は忍ぶべきである。そういう意味で、これが直ちに警察国家になるとは私は理解できません。  また戦前治安維持法に戻るということでありますが、私は法律の専門家でありませんのでこまかいことはわかりませんが、私どもが常識的に理解できる範囲では、治安維持法は思想を取り締るものであるが、今日のこの警職法は行動を取り締るものであって、その立法の本質が違う。また世論の力というものは全く無視できないのでありまして、戦争中のああいう国民のあり方と、今日かくのごとく違って展開された世論が、逆にもとに戻るということはとうてい考えられないところでありまして、そういう意味で、警察国家ないしこれが戦前のようになるのだというような不安は、私自身は持ちません。いわんやこれが直ちに戦争につながるというような論理は、私の頭ではどうしても理解できないのであります。  反面、同情すべきというか、一緒になって考えるべき反対論というものもあります。たとえば、戦前警察に非常にいじめられた経験をお持ちになる方々が、まるで本能的にこれに反発されるお気持、私どもは不幸にしてほとんどその経験を持っておりませんが、しかしながら私どもなりにもそういうお気持はわかるような気がいたします。また今は大したことはなさそうだが、それがだんだん広がっていって、そうしてやがて昔のようにおいこら警察になるのじゃないかというような、主として家庭の主婦などがお持ちになっておる素朴な不安、これもまた一緒になって考えるべき問題だと思います。また警察官の素質とも関連いたしますが、今でもある人権侵犯というようなことが、今後もますます起ってくるのではないかという不安、こういった工合にまじめに考えてみるべき反対論もあるのでありまして、それらの立場と論点の異なる反対論を一緒にして考えてしまうと、これは間違いであると私は考えております。  そこで私は与党の方々にもお願い申し上げたいのですが、今までにも政府からいろいろと説明が国会でも行われました。しかしなおかつその不安があるのだという方々に対しては、与党、政府は、さらに懇切にその不安を解く努力をしてもらわなければならぬと思う。同時に私なりに考えますと、第一の乱用のおそれということについては、これはしろうとでありますから、専門的なこまかいことは抜きにして、改正法を見ましても、現行法をそのまま残しました第一条の乱用防止規定及び改正いたしました各条章にも数々の制限規定があるわけでして、私はその制限規定等によって乱用のおそれはないものだと信じております。ただ乱用のおそれがあるという御意見もあることは事実でありまして、私がお願いしたいのは、そういうおそれをお持ちになる方は、乱用がないように、むしろ修正案というか、そういう具体的な意見をお述べいただけば、建設的な方向へ進んでいくだろうと考えるわけです。  次に認定の問題であります。つまり警察官の判断にまかされることが非常に多いからという危険の問題です。これにつきましても反対論の中には、何もかも現場の一警官が判断するのだという議論もありますが、私どもが常識的に考えますと、酔っぱらいと接触する場合の判断は、パトロール中の一警官がやるということはあり得るでしょうが、第五条、六条等に規定されておる公共秩序と安全というような問題に関しては、一人の警察官が判断するというようなことは常識的に考えてあり得ないと思うのです。しかしながらこれについては、やはりこれを明確にしておくということもよろしかろうと私は思うのであります。そのためには、たとえば警察官職務執行法規範というか、服務規程というか、そういったものにその認定責任を明確に規定しておくというような措置によって救われるのではないか、こう考えるものであります。  それから人権侵犯等に対する不安であります。これは何と申しましても、警察官の素質を高めるということと一番深い関係があるわけでして、私どもが実際現場でながめておりましても、警察官の中にはもっと勉強せぬかいと言いたくなる連中がおります。またそういうことをしばしば申したこともございます。中にはわれわれ警官に常識とり教養を高めろという前に、われわれがよくぶつかるあのデモ隊の指導者や、デモの中で騒いでおる連中の常識と教養を高めてくれ、こういうを言う警察官もおりますが、しかしながらそれは問題は別でありまして、やはり警察官の持つ社会的使命を思うとき、私は現状でよろしいとは思いません。政府並びに警察当局ではいろいろとその努力をしておられるとは思いますが、私どもの見る限りでは、この数年著しく末端警察官がその質を高めたというふうには思えないのでありまして、警察内部の研修制度、研修要領等についても、この機会に根本的な検討を加えて、その素質を高める努力をしてもらいたい。またそういうようなこととあわせて、警察部内の監察制度をもっと強化して、警察官による非行あるいは人権侵犯等の事件が根を絶やすように、もっと積極的な施策を講じてもらら。同時に万一の場合の救済措置として、人権擁護委員をもっと増強する。あるいは法務省の人権擁護局をもっと強化する。これは最悪の場合の救済措置でありますが、そういったことによって、おそれられる不安を解消していくという措置が講ぜられ得るのではないか、私はこのように考えます。  以上申し上げたような、大きく分けて三つの観点から、私は改正法案に賛成するわけであります。  これを要約して申し上げますと、人間の最も自由なる状態というのは、申すまでもなく何人にも拘束されない状態を申すと思います。自分のしたいほうだい、自分の良心や理性の命令さえも受けないというような状態こそ、最も自由といってよろしかろうと思います。しかしロビンソン・クルーソーならいざ知らず、多数の人間が営む社会生活において、そういうことが許されるはずがありません。そこで一定の道徳や秩序法律制度というようなものが生まれてきたと思うわけです。その場合に全体の福祉個人の自由との関係をどう調整するのかというのは、これは人によってものの考え方が違うわけでして、たとえばソビエトや中共のような共産主義国では、大幅に個人の自由に制限を加えます。日本に来た外国人などが、日本はうらやましいと言われるくらいに、現在の日本は自由があるそうであります。いずれにいたしましても、それはその国々によって違うわけでありますが、私の見解では、全体の福祉個人の自由というものはもちろん調整さるべきでありますが、その場合のよって立つ基礎はあくまでも個人の自由に置くべきだと思う。しかしながらその個人の自由に立って、しかも今日の日本の現状をながめますときに、私はこの改正案に見られるような程度の自由に対する制限というものは全く当然であって、その意味で改正案は賛成できるものだ、こういうことであります。(拍手)  最後に一言、今後の審議に関する私の要望を申し上げて終りたいと思います。冒頭に申し上げましたようにいろいろな問題がございましたが、とにかく審議、軌道に乗ったことは、私も国民の一人として大へん嬉しく思います。ここで皆様方に大へん僣越でありますがお願い申し上げたいことは、どうか一つ十分に御審議を願いたい。しかしながらあくまでも具体的に、ここにある法案の条文をもとにした御論議をしていただかないと、抽象的な政治論やイデオロギーを先に立てた議論をしておっては、これこそ幾らせられても事は片づかないと思います。その意味で、どうかなるべく具体的な討議を進めていただいて、すみやかな時期に結論をお出し下さるようにお願いしたいということが一つ。もう一つは、きのうあたりからの新聞を見ておりますと、なかなか不穏なことが書かれております。それは何かあす、あさってあたりまたもや乱闘が起るのではなかろうかとか、あるいは強行突破とか、まことに不穏な字句が盛んに表われて参りますが、新聞の人たちにはそういうことが起ればおもしろいかもしれぬが、国民にとっては大へん悲しいことであります。私がお願い申し上げたいことはたといどんな理由があろうとも、ああいうばかげたことは断じてやっていただきたくないということであります。私どもは青年の一人として、国会政治の健全な成長を期待しておるものの一人でありまして、そういう点についてはどうか深い御考慮をいただいて、国会においてまずその範をお示し願いたい。これは、私はやがて国民が審判するであろうと思いますが、ともかく理の通らぬ無理は断じてやってもらいたくない、このことを最後にお願いを申し上げて、大へん乱暴な言葉を用いましたが、私の公述を終ることにいたします。(拍手)
  84. 鈴木善幸

    鈴木委員長 次に渡邊道子君から御意見の御開陳を願います。
  85. 渡邊道子

    ○渡邊公述人 初めにお断わりを申し上げておきたいのは、私と同姓同名の方が今度社会党から参議院議員に立候補いたします。けれどもその方と私とは全然別ものであることを申し上げておきます。従って、私はここに社会党から推薦されましたけれども、一人の国民として立っているのでございます。(拍手)  私はこのたび政府国会に提出なさった警察官職務執行法改正案に対して、二つの理由から反対をいたします。(拍手)  第一の理由は、この改正案は基本的人権を基盤とする民主主義の原則を根底からくつがえすもの、そういう考え方の上に立っているということでございます。第二の理由は、この改正案の内容が非常に乱用されやすい危険性を持っているということでございます。  第一の理由として申し上げました民主主義の原則を根底からくつがえす考え方の上に立っているということにつきまして、少し具体的に申し上げたいと思います。この法案の提出者の側から主張される一つのこととして、一人のあしき者の基本的人権を尊重するために、他の九十九人の善良な市民が迷惑をこうむるのをそのままにしておいてはいけないということがしばしば繰り返されています。この考えは一見もっとものように見えて、実は民主主義の原則からはずれた考え方であると思います。この場合一人のあしき人とは個人、他の九十九人とは公共という考え方のように受け取れるのでございますが、このとき個人の尊重を第一義とするか、公共の立場が先行するものとなすか、そのことによって民主主義の原則に立つかあるいは全体主義的原則に立つかが分れると思います。この場合の九十九人、すなわちマジョリティが公共と考えるその考え方は、全体主義に通ずるものであると思います。  身近かな例をとってこのことを考えてみたいと思います。学校で貧さのために一人の生徒が盗みをしたといたします。その子供を退校させれば、ほかの子供に迷惑がかからず、ほかの子供は守られるかもしれません。しかしそのとき、もしその生徒がなぜ盗みをしたのか、何とかしてよい生徒にすることはできないだろうかと学校当局者が真剣になって考え、その生徒を救うために他の生徒と話し合い、みんなで協力するといたします。そのために一時は学校運営の円滑さが阻害されるようなことが起るかもしれません。けれども先生も生徒も一人の人間を救おう、生かそうと努力する努力の中から、ほんとうの教育というものを学ぶのではないかと思います。民主的なものの考え方というものは、こうした努力の中から積み重ねられていくものだと思います。退校させてしまえばこれで片づくというような安易な考え方からは、民主社会は生まれて参りません。昭和の初め思想犯の検挙が相次いで行われたとき、東京女子大学の学長は故安井てつ先生でございました。他の大学に比べて、東京女子大学からは最も多くといわれるくらい幾人もの生徒が検挙されました。ほかの大学では、検挙された学生たちを退学処分にいたしました。しかし安井先生はそのときに、一人も学校当局から退学にするという態度をおとりになりませんでした。検挙された学生に対して、先生は思うことをそのまま述べて、そして正しい法のさばきを受けなさいと言いながら送り出しました。そして寒い留置場のことを思って、一人心々の背中に真綿を背負わせて送り出したのであります。そのあと幾愛も生徒をたずね、また裁判のときには上申書を出すなど、教育者としての愛情を注がれたのです。東京女子大学からは何名、また何名と新聞に出たことのもみ消しをなさるようなことは一つもなさらずに、たずねてくる新聞記者には、将来のある生徒をことさらに傷つけないでほしい。あなたの妹だと思ったらどうなさるか考えてほしいといって訴えた、それだけであります。外部から見ますと、先生のこういう態度は他の善良な学生を顧みないように見えるかもしれない。しかし当時の学生は先生のそうした行為の中から人間の真実を学び、ほんとうの教育というものを学びました。迷える一匹の羊のために、他の九十九匹を野においても探し求めて救うという精神の上に立つことが、民主主義の真のあり方でございます。  今日の社会の混乱を見ておりますと、そんな甘ちょろいことを言っていてはどうなると思うか。国際共産主義と手を結んで国内の治安をかき乱そうとしている勢力に対して、あるいは知らず知らずのうちにそういう勢力の影響を受けようとしている者たちの動きに対して、そのような理想論を述べていてはだめなのだ、もっと直接に強い力をもってつぶす方法をとらなくてはならぬのだ、きっとそういう考えが出て参ります。また今日のような凶悪犯罪が横行しているときに、なまぬるいやり方では、だめなのだということが出てくると思います。その一つの現われが警察官職務執行法改正案だと思います。しかし凶悪犯罪警察力を強化することによって絶滅できるものではないのでございます。しかも科学的捜査の方法を完璧にすることよりも、警察官権限を拡大することに意を用いたこの法案のようなやり方によって、大きな効果をもたらすことができるでしょうか。なぜ凶悪犯が発生してくるのか、その社会的、経済的な条件に対する分析と、それに対する対策を講じることなくして、凶悪犯罪は決して絶滅するものではないと思います。警察力が強大になれば、犯罪はかえって凶悪なものになっていくのではないでしょうか。かくして強力化された警察力というものは、その権利と自由を守ってやるのだと言って、他の国民権利、自由までをも奪ってしまうことになるのではないでしょうか。  最近の勤評ストやデモに見られる一部の団体の行き過ぎを、私ども国民は決して無条件には認めるものではございません。それだからこそ総評の登校拒否、日教組の休暇戦術、全学連の非常識なデモに対して、あれだけの非難を集中いたしました。総評は登校拒否の戦術を後退させ、日教組の休暇闘争は乱れ、全学連の動きに対しては学生の間から強い批判が生まれ、この法案の反対運動には、全学連及び共産党とは他の団体は絶対にともに戦わないという一線を引きました。彼らの行き過ぎを後退させたのは政府の説得によるものでございましょうか。警察力の威信によるものでございましょうか。いな、それは世論の力であったと思います。その世論の力を正しく反映させた報道陣の力であったと思います。公共秩序と安全を乱す者、その者に反省させるというやり方によってのみ、ほんとうの意味で秩序を守る者とさせる、この行き方が民主社会のあり方だと思います。  こうしたあり方を現在の日本に作り出すためには、忍耐と時を要します。なぜなら現憲法によって権利と自由を保障された国民は、今までのあまりもの圧迫の反動として権利と自由の都合のいい一面だけを主張し、その反面にあるきびしい自己練摩によって、その権利と自由を行使するのだという点をないがしろにしてしまい、そしてその権利と自由を乱用するという傾向が一部に生じてきました。国民の生活がやや安定し始めた昭和二十五年ごろから、政府は憲法第十二条にうたってある自由、権利の保持の責任とその乱用の禁止とを国民に徹底して宣伝、教育すべきでした。ところが不幸にも昭和二十五年朝鮮事変の勃発によって以来、現憲法の精神を徹底させることよりも、現憲法を改正しようとの意図が前面に押し出されてきました。それ以来の歴代政府の動きはここに申し上げるまでもございません。私はここに今日の国家の混乱をもたらした最大の原因があると存じます。こうした原因によって生まれた混乱を静め、社会の秩序を作り出していく原動力は、国民の健全な批判精神よりほかにないと思います。強い国家権力は一時混乱を静めるかもしれません。しかしそれは一種の解熱剤のようなものであって、薬のきき目が切れればまた熱を出すように、混乱を長く静めておこうとするには、より強力な弾圧を続けていかなければなりません。こうして生まれるものは警察国家の最たるものであるわけでございます。提出者側は、この法案は警察国家をもたらすものではないと、そういうふうに説明されます。そう思うのは曲解であると申されます。けれども警察国家をもたらす考え方の上にこの法案が立っているのだということ、そしてその運用によっては必然的に警察国家を作り出すことになるのだということに気づいていただきたいのです。国民に思うことを存分に言わせ、行き過ぎた考え方、行動をとる者があれば、国民の間で徹底的に批判し尽す、こうした雰囲気、こうした個人と社会のあり方を作り出していくのが、民主主義の立場に立つ国家の任務であると存じます。(拍手)このやり方は迂遠なようで、時がかかるようであって、実は一番早い確かな民主国家への道であると思います。前に述べた勤評ストに示された国民良識とその結果は、何よりも雄弁に日本にもこうした民主社会が生まれ得ることを物語っているのだと思います。(拍手)  この法案はそうした国民良識の芽をつみ取ってしまう危険を十分に含んでいるのであります。国民の間に、この法案に反対すると、あとのたたりがおそろしいとか、反対した団体の集会に私服が入り込むぞというようなことが相当強く広まっているのでございます。そんなばかなことがときっとおっしゃるだろうと思います。ところがそういうばかなことと思われることを大まじめにとっているのが、善良な素朴な国民なのでございます。(拍手)その考え方の根底には、昨日鵜飼先生が指摘なさったように、日本人は取締り法規に定めてあること以上に心理的に圧迫を感じてしまう傾向があるからだと思います。この法案は多分にその傾向を助長するおそれがあると思います。ですから乱用はしない、心配しなくてよいのだとどんなに提出者側がおっしゃっても、すでに政府のやり方を批判するような集会出席する青年の思想調査をしたり、母親大会に出席した婦人のことを調べたり、集会に私服が入り込むとか、そういう事実が新聞紙上に伝えられている現在、そして第一線の警察官から、今までやっていることを合法化するだけじゃないかというような声を聞かされている現在、この法案によって民意の自由な発表が阻害されないとは言えないと思います。(拍手)  さらに民主主義の国家においては、警察力の行使は具体的にはっきりその限界を定めた法律によって規律されるのが建前となっております。アメリカの連邦裁判所で、言論、思想の自由を制限する立法の合憲性を判定する際の一つの基準として、一九三七年以来はっきりと採用してきた「明白かつ現在する危険の原則」があとう限りその法律に反映さるべきであります。現行警察法は、できるだけ拡張解釈をされるおそれのあるばく然たる字句を避けて、一応明白かつ現在する危険の原則の趣旨によって法文を制限していると思われます。そのうち政府の原案には、善良の風俗、公けの秩序という字句がありましたのを、削除されたのでございます。今度の改正案には、そのばく然たる公けの秩序と安全という言葉が前面に押し出され、しかも個々の警察官の判断に、それを乱すかどうかの認定をゆだねております。具体的な場合、公けの秩序、安全が乱されないかどうかの判断は、裁判官にとっても非常にむずかしいことといわなければなりません。(拍手)そして具体的にどんな場合に公共秩序と安全が乱されることになるのかということを、はっきりと示した判例は、いまだないと存じます。  今まで述べましたように、この法案が民主主義の原則に反する考え方の上に立ち、法案の内容それ自体がたとい乱用されなくとも、国民の基本的人権を侵すおそれを持っていると私は思うのでございます。民主的な警察人権の擁護と警察の能率とをどう調和させるかということに、一番の困難と問題を感じます。戦後警察が民主的になってきたことは、だれでも認めるところでございます。その人権を擁護する民主的警察が、能率という点をいかにして上げていくかということ、そのことにおいて警察官それ自体も国民と一緒になって協力して、悩んでいく、そのことからほんとうの意味の民主的な警察が作られていくのであります。(拍手)私の友だちで婦人相談員をしておる人があります。その人が警官と一緒になって夜の女をつかまえるために夜中に張り込みます。警察官は三晩も徹夜のような形でもって夜の女一人をつかまえるために張り込んでおるのです。その人が今度改正されたら仕事が非常にやりよくなる、簡単だということを言ったのを聞いて、その相談員はぞっとした感じを持ったそうでございます。三日間一人の夜の女のために張り込むその努力、その中からその警官は民主的に作り変えられていくのだと思います。その警察官の能率だけを高めるように改正することによって、人権を侵害することは明らかであると思いますので、そうした改正を私はしてはならないと思います。(拍手)  第二の理由は、すなわちこの改正案の内容が非常に乱用されやすい危険性を持っておる点についてでございますが、これについては昨日専門家の鵜飼先生が非常に詳しくお述べになりましたので、私が触れる必要がないと存じます。私は法律の実務家として二、三の点に触れたいと存じます。  第三条の二、触法少年と虞犯少年の問題でございますが、こうした少年にすぐ警察力を働かせることによってこの少年たちを救うことは、絶対にできないのではないかと思います。少年がなぜそうなったかということについて、ここに私どもおとなはもう一度深く考えてみなければならないと思います。今この法案の対象となるような少年たちは、戦争のさ中に生まれて、あの混乱期の中で育った少年たちでございます。それが彼らの心にどのように大きな影響を与えたか、おそらくそうした少年を一人手がけたことのある方方は身にしみてお感じになっておるだろうと思います。私は先年死刑囚五十四人について——そのとき七十人でございましたが、五十四人について彼らがどのような育ち方をしておるかを調べたことがございました。そして見出しましたのは、全部が不幸な家庭に育って、不幸な育ち方をして成年に達しているということでございます。こういうふうな背後にあるものそのものに対する反省をして、それに対する対策をおとなたちは一生懸命になってで立てることをないがしろにして、直ちに安易に警察の手にそれらの少年をゆだねるということは、私はあってはならないと思うのです。現在の少年法において、児童福祉法において、もしも欠けるところがあるならば、少年法の改正、児童福祉法の改正をそれぞれ専門の委員方々たちにおまかせして、審議をしてもらって、法案を作ってもらい、それを法律にすることによってのみ解決すべきだと思います。保護といいましても、警察保護というものはほんとうの意味の保護ではないと存じます。警察に一たび足を踏み入れてその実際をごらんになった方々は、私の言うことがわかって下さると思います。(拍手)  次に第四条には、新たに「その場に来集する者」という規定が入れられました。たくさんの人たちが集まって殺到をして、そして危険な事態が発生するおそれがある場合に、そこに来集し、これからやってこようとする者をとめることができるという規定でございます。おそらく「その場に来集する者」という人たちの中には、報道陣も含まれるだろうと思われるのであります。そうしますと、騒ぎが起ったときに、警察側は自分の側に有利な証拠と写真をたくさんにとれます。客観的に両方を冷静に観察することのできる報道陣を入れずに、しかも写真もとらせないということの結果が、裁判の上においてどう現われるかということでございます。(拍手)人権が侵害されたら、裁判があるではないかということをおっしゃる方がございます。しかし、こうした群衆の中で起った事件というものが、どれくらいの月日をかけて裁判するかというと、これはメーデー事件が何よりも物語っていると思うのです。メーデー事件は、来年の二月ごろにやっと本論を終るそうでございます。これからあと裁判官が専門にそのことにかかっていながら、しかもそれだけの時日がかかっているのでございます。そうしますれば、その間に人権を侵害された者たちの生活、失われた名誉、そうしたものは一体何によって回復されるのでございましょうか。(拍手)しかもその裁判において大切な証拠となるべき客観的な資料、写真、そういうものが被告人側にはなく、警察側にはたくさんあるという事態において、果して裁判官が正しい裁判ができるでございましょうか。(拍手)私は実務家としてその点を一番におそれるのでございます。先ほどもお話に出ましたが、人権を侵害されたら人権擁護機関に訴えて、そしてそれを救済してもらえるではないか、人権擁護委員をふやして、人権擁護局の機構を拡充して、ということをおっしゃいましたが、人権擁護局というものは法務省の中に置かれているのでございます。その働きの中には限度がございます。限界がございます。人権擁護委員というのは、みな私たちが期待しているような働きができる立場には立っておりません。いかに人権擁護局の人数をふやして、それを整備いたしたとしましても、民間の人権擁護団体というものが、アメリカその他の国に比べて、もう絶無といっていいくらいに少い現在の日本において、完全なる人権擁護ができるということがどうして期待できるか、とこういうことを言いたいのでございます。  次に、第四条、第五条に共通する問題として、第四条、「危険な事態が現に発生する虞がある場合」、第五条、「犯罪が行われることが明らかであると認め」「公共の安全と秩序が著しく乱される虞のあることが明らかであって、急を要する場合」この三つのいずれの場合にも、判断は個々の警察官にゆだねられております。実際の場合に、個々の警察官が命令を下すわけではございません。背後にある総指揮官が下すのだと思われます。しかしどのような状態になっているかといえば、第一線にある、その現場にいる警察官からの刻々の報告が、無線を通して、現場を知らない最高指揮官のところに伝えられるのであると思います。(拍手)そうすれば、最高指揮官が判断するといたしましても、その現場にいる警察官が、もう危ない、急を要するというふうに判断をして、それを伝えれば、よしやれということになるのではないかと思います。そうしますれば、私どもはここでもって、その認定の判断を第一線の警察官にゆだねているという点に、実に不安を感ぜざるを得ないのでございます。以上私は実務家として感じております点のみを、第二の理由については触れました。  最後に私は、この法案を審議するにつきまして、決してせっかちになってはいけないと思うのです。私ども日本人は、せっかちでもって世界に有名でございます。しかし、もし背後にある何かがせっかちにさせるのだということであれば、なおさらのこと私どもはここでせっかちになってはいけないと思います。この改正案は廃案にして、そして公正な審議会、これは反対の立場にある者の意見も謙虚に聞く委員方々で構成され、あるいは反対の立場の者もその中に入れるという審議会を作って、法案を練り直していただきたいのです。そしてそれを国民に示して、国民とともに、この治案の維持が必要だとおっしゃいますならば、その事実をはっきりと、隠すところなく、それはもちろん必要の限度でございますけれども、隠すところなく私どもに教えていただきたいのです。そうして法案を練って、納得のいく形でもって、いずれの日にか作り、もしもどうしても必要であるならば、将来近いときでもそれはいたし方ないかもしれませんが、あくまで国民の納得のもと改正案を作り、それを審議して、この警察官職務執行法を作っていただきたいと思うのでございます。(拍手)
  86. 鈴木善幸

    鈴木委員長 次に、田上穣治君から御意見の御開陳を願います。公述人田上穣治君。
  87. 田上穰治

    ○田上公述人 初めにお断わり申し上げますが、先ほどの二人の方と同様に、本日私は自民党の推薦ということになっておりますが、一般職の公務員であり、大学に職を奉じておるものでありまして、特定の政党と特別な関係はございません。本日申し上げますることは、ただ私が従来憲法学を大学において講義しておる、十七年間一橋大学、東京商科大学において講義しておりまするし、行政法学においては二十三年間、昭和十年以来今日の一橋大学において講義を担当しておりまするので、憲法学、行政法学の専攻の立場から申し上げることでございます。また、警察官職務執行法につきましても、私どもは専門の立場から平素講義をし、またいろいろな著書、論文を出しているのでございます。今回の改正法案は、もちろん最近に正確な条文は見たのでございますが、しかし、警察官職務執行法につきましても、すでにかなり立ち入った注釈をも加えて、著書、論文を出しておりまするから、本日申し上げますることは、格別私にとっては新しい材料、新しい議論を申し上げるわけではないのであります。そういう意味におきまして、別に政治に直接結びつくような特別な意味合いをもって申し上げる用意はないのでございます。初めにお断わり申し上げておきます。  そこでまず私の申し上げたいことは、現在の法案が合憲、違憲と、いろいろ議論がございまするので、違憲かどうかという点につきまして、憲法学の立場からまず簡単に所見を申し上げます。  この問題は、基本的人権公共福祉というこの関係につきましても、新憲法の当初から繰り返し学界において、また判例にもこの点が現われておりまするが、議論されておるところでありまして、決して今回に突然問題になるわけではないのでございます。しかし、重大な関係がありますから、簡単に要点を申し上げておきます。それは、憲法十二条、十二条に公共福祉ということが出ておりまして、十二条では、公共福祉ために各個人自分権利及び自由を利用する責任を負う、乱用してはいけないということが出ております。十三条では、政府あるいは国会において、立法なり行政あるいは司法、これらの作用は、常に国民人権を最大限度に尊重しなければならないが、しかし、これは無条件ではないのであって、公共福祉に反しない限りにおいて最大の尊重を必要とする、こういうふうにございます。ところで、このような公共福祉というものを根拠にして、果して国民個人権利を制限できるかどうか、この点につきまして学説は従来分れております。一つの立場は、個人の自由は憲法上絶対無制限である、言論の自由、集会の自由その他憲法で保障せられておりまする自由はすべて無制限である、もちろん二十二条とか二十九条のように、特別な公共福祉の制限があれば、これは制限できるけれども、しかし二十一条の集会、結社の自由のごとき、あるいは二十八条の労働者の団結権、団体行動権利のごときは、全く制限できないのである、こういうふうに申す立場がございます。私はこの立場には実は賛成しかねるのでありますが、これはどうして一部にそういう学説があるかと申しますと、昭和二十年の十月四日に総司令部の覚書が出ておりますが、これは要するに、当時戦争について重大な責任のある、あるいは戦争を推進するような役割も果している日本政府あるいは官僚、特に問題は内務官僚であったかと思いますが、文部官僚、内務官僚については、これは民主主義に対してはなはだ危険であるから、従って絶対にそういう日本政府の立場で法令を作って取り締ってはいけない。けれども、これは決して無制限の自由を認めるものではなかったのでありまして、総司令部においていわゆるポツダム政令と申しましたが、総司令部の指令によって、わが政府に必要ならば政令その他の法令を作らしめて、それによって取り締るのである。無制限の自由ということは法理上全く不可能な、あり得ないことでありまして、人殺しの自由、どろぼうの自由、あるいは公けの集会において人の名誉を傷つける自由、風俗を乱す言論、あるいはその他犯罪を扇動するような言論は、もとより新憲法においても保障していない。けれども、その取締り日本政府の手によって、あるいは日本の当時の国会によって法令を作らしめ、そして行わせることがはなはだ危険であるから、総司令部が十分監督をし、必要とあらば総司令部の指令によって取り締ることができるのである、こういう立場で厳重な指令を出し、覚書によってわが政府並びに国会の行政権なり立法権を押えてしまったのであります。  この占領政策が賢明であったかどうか、私は必ずしも間違っていないと思うのですけれども、とにかく御注意申し上げたいのは、その結果として、日本国会法律によって、正面から公共福祉理由として、言論集会などの自由を取り締ることは、占領中は絶対できなかった。けれども、総司令部の必要と認める場合は、御承知の団体等規正令のような、今日から見るときわめてきびし過ぎる集会ないしは政治運動取締りも、実際行われていたのであります。そのほか一々申し上げる必要はございませんが、そのように二十年の覚書がいろいろものをいって、従って、少くとも占領の初期においては、わが政府なり国会は、絶対に、憲法の保障する個人の自由を取り締ることはできないという学説が、かなり有力でありました。しかし、この学説は、今申しましたように、個人が自由を乱用し、権利乱用しても、なお憲法上は差しつかえない、こういう点において明らかに誤まりでございます。民法第一条でも、権利乱用はこれを許さないとあるのでありまして、新憲法十二条においても、権利乱用してはいけない。乱用することは、これは憲法の精神に反するのである。その場合には、単に道徳的な責任を問われるだけでなくて、法律的な責任を当然覚悟しなれけばならないと私は思うのであります。だから、絶対無制限の自由というふうなことは、今日比較的少数の学説であり、われわれの間では、今度の法案については反対意見をとる学者におきましても、そのような極端な議論は、おそらくはとんどとっていないと存じます。  この学説と正反対の学説、これは公共福祉という名目によって国会法律をお作りになるならば、かなり行き過ぎた厳重な制限でも、憲法上差しつかえない、とにかく公共福祉というのは、非常に弾力性のある、幅の広い言葉であるから、これを広く解釈をして、かなり思い切った取締りも憲法上可能であるという学説も一部にございます。これは要するに、国会が最高機関である、だから国会法律を作れば、どのようなきびしい制限を加えても、一応憲法上は正しいのであって、国民反対できないという、国会の最高機関性を強調する立場でございます。考え方としては、あるいはイギリス流の考え方かもわかりませんが、イギリス人は良識を持って、国会みずから戒めて、行き過ぎのないようにしていると思うのでございますが、とにかく公共福祉を非常に広く考える。この立場も今日学説がなくなったわけではありませんが、私どもの考えるところでは、やはり比較的少数であろうと思います。  従って、比較的多くの学者は、その中間の立場をとっておるのでございまして、基本的人権個人の自由を尊重すると同時に、他方においては公共福祉の制限も考える。その場合に、重点と申しますか、力の入れ方をどこに置くかと申しますと、やはり通説では基本的人権個人の自由の方に重点を置くのでございます。これはわれわれも当然と思うのであります。  従って、要約いたしますると、個人の自由は、憲法十二条にありますように、最大限度に尊重する。従って逆に、公共福祉ためにする制限は、最小限度でなければならない。この原則と例外と申しますか、この点は大体一般に認められておるし、また判例においても承認されるところであります。この点で、公共福祉、そういう狭くしぼって解釈をした意味の公共福祉に明らかに反する場合には、制限を加えることができるというふうに説明する学者と、そうではなくて、公共福祉という言葉を特に誤解があるから避けて、個人の自由には、その本質的な内在的な制限がある、その制限を越える場合には、個人はやはり法律的に取締りを受けるというふうに申す学者もあります。私は、これはどちらも大体同じことをいっておるのであって、著しい違いはないと思います。  ついでに最高裁判所の判例をつけ加えておきますと、本日は真野前判事がお見えになっておりますから、いずれお話があると思いますが、昭和二十九年十一月二十四日の最高裁判所大法廷の判決では二十四年の新潟県の公安条例を合憲と判断しております。さらに最近、三十二年三月十三日の大法廷の最高裁判所の判決でございますが、憲法二十一条の保障する表現の自由といえども、絶対無制限のものではなく、公共福祉に反することは許されない、こういうふうにございまして、抽象的な表現であれば、まずわれわれはこれに賛成なのでございます。  そこで、これに関連いたしまして、一体公共福祉という言葉が、あるいは現在の法案におきまする「公共の安全と秩序」とかいうふうな言葉はあまりに抽象的ではないか、だから法案にそういう言葉を用いるのは不適当であり、あるいは憲法上疑義があるということをしばしば伺うのであります。私は実はそうは思わないのでありまして、たとえば公安条例をごらんになりますと、これは東京都条例その他各地に例がございますが、東京都の公安条例では、公安委員会は、集会その他の実施が公共の安寧を保持する上に直接危険を及ぼすと明らかに認められる場合のほかは、これを許可しなければならない。」とか、その他これに類する言葉がございます。公共の安寧保持という言葉は、比較的普通に使われておる。あるいは警察法第二条は、御承知の通りと思いますが、その中に警察の責務として、「その他公共の安全と秩序の維持に当ることをもってその責務とする。」とあります。あるいは消防法一条におきましても省略いたしますが、その中に、「安寧秩序を保持し、社会公共福祉の増進に資することを目的とする。」とあります。出入国管理令におきましても、「法務大臣が日本国の利益又は公安を害する行為を行ったと認定する者」について、国外に退去を強制することができるとある。こういう用語例が、まだほかにもございます。  ところで、私どもは、公共福祉、特に警察関係の法令における公共の安全とか秩序の意味は、先ほどから申し上げましたように、狭い意味に解釈をしているのでございます。あいまいな言葉のようでありますが、しかし、これはできるだけ狭く考える。特にこの点で国の機関の存立とかあるいは運営に関する法秩序の維持、こういう問題は、もしそれが犯罪を構成する場合は別でございますが、そうでない限りは、原則として取り締るべきではない、これはデモクラシーの要求でございます。公共秩序とか公益とか公共の安全とかいう言葉の中には、だから政府自体の利益というものは一応含まれないのであって、一般公衆、社会公共の利益、不特定多数の公衆の利益というものを考えるわけであります。ただしこの場合に一つ、蛇足でございますが、ごく少数の特定の個人の利益というものは必ずしも含まれない。それはむしろ個人の自由でありまして、本来は、国家が、公共福祉あるいは公共の安全、秩序というふうな言葉で、権力によって介入すべきことでない。でありますから、たとえば個人が人から借金していじめられておるとか、あるいはかぜをひいて病気になる、そういうふうなことを国家が公共福祉というようなことで権力的に制限を加えることはできないのであって、ただその病気が単なる通常のかぜではなくて、きわめて伝染性の強烈な法定伝染病のような場合でありますと、これはひとりその病人だけではなくて、周囲の多数の人の衛生にはなはだ危険があるから、そういう場合には、公共の安全、秩序という概念の中に入ってくるのでありまして、そういう意味において政府自身の利益を含まないし、またごく少数の特定の人の私的な利益というものも含まれない、そういうふうに一応解釈しております。  そこで、次に特に問題になりますのは、このような公共福祉をしぼって狭い意味に考えまして、それに反することが明白な場合に、果して国家はどのような形でその行き過ぎ、違反者に対して規制を加えることができるか、この点で実は昨日あるいは鵜飼君からお話があったかと思いますが、一方の学者は、司法権による事後の規制によるべきである、平たく申しますると、何か騒ぎが起きたときに、けが人が出てから後にその違反者をつかまえて罰するとか、あるいは被害者の立場で加害者に損害賠償の請求をし、裁判所によって刑事の判決ないしは民事の判決を求める、期待する、こういう司法権による事後の規制で足りる、またそれ以上に出てはいけないという学説がございます。もう一つのわれわれの立場はそうではなくて、必要やむを得ない最小限度においては、行政権による事前の規制も憲法違反ではない、こういう立場でございます。この点はやや立ち入った問題でありますが、法案に関連がございますから一言説明を加えたいと思います。  それは、われわれの考えでありますると、裁判所ないしは司法権の本質というものにつきましては、これは国会の民主的なコントロールを必要としない、国会が監督するということはできないのでありまして、言いかえれば、国会の多数決なり多数の意向というものによって批判を受けないで、厳正中立に——だから性質上は、独立の機関で判断をし、行使することが必要であるとされる種類の作用、これが民主主義のもとにおいては一応国会から独立な裁判所によって運営される司法権の本質でございます。従って、司法権の中心は民事、刑事ないしは行政事件の裁判にある。他方において、司法権には限界がございます。それは常識的にもおわかりかと思いますが、訴訟手続による一つの大きな制約でございます。つまり手続が非常に慎重であり、それだけに時間がかかる。先ほども公述人の方の御意見がありましたが、判決を下すまでには、ことに判決が確定するまでにはかなりの時日を要するのであります。従って、この点で事後の規制ではあるが、予防的な措置は性質上不可能であるのみならず、特に裁判所の訴訟手続に劣る結果としまして、その訴訟に関係する当事者の範囲においてのみ原則として司法権、裁判所の判断が権威を持つのであります。従って、原告なり被告なりないしは被告人以外に法廷に直接現われない一般の背後にある国民の多数は、裁判所によって救済を受けることはない。そこまでは司法権の手が届かないものでございます。たとえばその点で、判例にもございますが、裁判所がある法律を違憲とする、あるいは公安条例を違憲とすときに、その判断が一般的な効力を持つかどうか、こういう点につきましても、これはやや立ち入った議論でございますが、実際の裁判官は、その訴訟当事者の範囲においてのみこの違憲という判断が権威を持つのであるというふうに、慎重な態度をとっておられます。でありますから、平たく申しますと、職務執行法の適用において何か問題が起きる、そういう場合に、その実際にけがをした人ないしは違法な取締りを受けた者、そういう人は訴訟になって救済を受けますけれども、しかし訴え出なかった一般の被害者、あるいはそうでなくて、けがをするかもしれぬというふうな、そういう不安の念にかられる一般公衆の立場というものは、司法権の手の及ばない、保護の届かないところであります。  反対に、行政権の特色は何にあるかというと、これは明らかに国会のコントロール、支配のもとにあるのでありまして、政府国会に対して連帯責任を負っておるのでありますから、民主政治の原則は、行政権を通して法律執行され、公益が実現される、ここに司法権との非常な違いがでございます。  そこで、警察関係の法令におきまして、一体司法権による監督、たとえば裁判官の令状がなければ警察権を発動することができないというような考え方でございますが、これがどの程度に憲法上は要求されるか。私の考えでは、もしかなり広く——たとえば一例を申しますと、憲法三十五条で、住居の立ち入り、あるいは家宅の捜索、そういうふうな問題につきまして、常に行政権は裁判所の許可状がなければ発動できない、令状がなければ発動できないというふうに厳格に三十五条を解しますと、これは行政目的、行政作用というものが全面的に裁判所の監督を受けることであって、もはやその限度においては国会の民主政治のワクからはずされることになる。国会がかりに内閣を非難し、末端行政機構あるいは警察機構の行き過ぎに対して非難を加えるといたしましても、しかし、それはすべて裁判官の令状によるものである、令状がなければ何もできないのである、こうなりますと、もし行き過ぎのあった場合には、その責任はほとんど裁判所が負うことになるはずである。しかし裁判所は国会に対して何の責任も問われない立場でございますから、そうしますと、国会としては、その行政の行き過ぎに対して、直接監督を加えることができなくなる。こういう点で、私は一応裁判所の令状を要する場合には限度があると思うのでございます。三十五条の憲法の規定は、直接には、刑事の作用——犯人、犯罪を捜査する刑事の作用に関するものであって、たとえば消防の職員が消防法によりまして民衆の家あるいは工場などに立ち入って調べる、あるいは保健所の職員が薬事法により、ないしは食品衛生法によって立ち入るというふうなことにまで許可状を要するということは、実際にやっていないし、またその根拠、理由はないと思うのでございます。ただしかし、警察法の場合には、一つの問題は、犯罪の捜査というものにある程度の関連を持っておる。初めからその目的で行いまする司法警察はもちろんでありますが、しかし、一般の行政目的のため警察でありましても、時として犯罪を摘発する手がかりとなることがあります。そういう意味において、私はできるだけ慎重に、従って、なるべくならば、そういうふうな場合に許可状をとるということも考えられるわけでございます。しかし、それらの点で無条件に、裁判所がよろしいと言うまでは警察権は行使できないということになりますと、これは行政国会に対する責任ないしは行政権の本質は事後の規制ではなくて、むしろこれは特定の被害者のためではなくて、一般の公衆のために行わるべきもの、こういう行政権の本質から申しまして、行き過ぎがある、解釈において私は必ずしも賛成できないと思うのであります。特に職務執行法のごとき、これは大体警察急状権と申しますか、急迫の場合に行われる応急の措置、手当でありまして、暫定的なものであります。先ほども御意見がありましたが、不良少年を教化するというふうな、教育していくという、そんな大きな使命は現在の警察でとうてい果せるものではない。いわば青少年の不良化防止ではなくて、そのごく入口の、ただ応急の措置しか、警察は本来できないのであるが、その応急の措置ができなければ、本人のためということだけでなくて、周囲の一般市民の被害を防止することもしばしば困難である、もしそれがあらかじめ裁判官の令状を求める余裕が十二分にあるという場合には、もちろん立法論としましては許可状を求めるということが必要であろうと思いますが、急を要する場合には性質上不可能である、そういう場合には、私は憲法の人権公共福祉の関係から申しましても、最小限度における規制は許されるというふうに思うのでございます。この点は刑事訴訟法において緊急逮捕という規定があり——、これも鵜飼教授憲法違反の疑いがあるというようなことを書いておられますが、最高裁判所の判例では緊急逮捕は合憲であるというふうに示されております。もちろん判例についても少数意見がよくあるのでありますから、別にそれが絶対に正しい解釈であるとも言い切れませんが、私は緊急逮捕のような制度は一応合憲だと考えております。  そこで、時間がございませんが、一応簡単に法案の内容につきまして、二、三気づきました点を申し上げたいと存じます。  第一の、第二条の職務質問の規定でございますが、この点でしばしば所持品の提示、一時保管というふうなことが行き過ぎであるというふうな御議論がございますが、一応私の見解は、これは差し押えなり捜索なりとは違うということが明示されておりますから、強制的なものではない。しかし、それならば無意味ではないかという御議論もあるかと思いますが、公務として扱うことが警察官の職務上、かりにたとえば傷害の事実があったような場合に、それが公務として、特別な手当、保護を受けるというふうな意味で、また一般国民としまして職務質問を受けるようなものについて法案に規定するような所持品の提示については、これは警察官の職務として行うことが望ましいと私は考えますから、強制的なものであってはいけませんけれども、現在の法案の通りであれば格別問題はないと存じます。  第三条につきましてはいろいろ御議論がございましょうが、たとえば迷子でありまして、迷子のようなものについて、本人の拒む場合には保護はできないという現行法規定は、私どもとしてははなはだ不審にたえないのであります。これも解釈上、実は私どもは改正を要せずして、迷子、ことに意思能力のないような子供が拒否した場合にはそれは拒否と認めない、認めることができないという解釈を私自身とっておるのでございますが、現在の法文ではこの解釈にははなはだ疑問が出てくるのでありまして、そういう意味において本人の拒んだ場合を除くというその考え方を変えたことは、私は賛成であります。  三条の二につきましては、十八才未満の虞犯少年について、特に少年につきまして保護と予防の規定がございますが、これもやはり直ちに許可状を求めなければならないという考え方でございますから、これも先ほどの緊急逮捕の制度などと比較すれば、一応これで問題はないと存じております。  四条につきましても、これは別に逮捕とかあるいは犯罪取締りとは違いますから略しまして、五条の点は「公共の安全と秩序が著しく乱される虞のある」ときという点がしばしば議論になりますが、これは犯罪があるときに限るのであり、そうして急を要するときでありますから、大体アメリカの判例などで正確ではありませんが、明白にして現実の危険あるときというふうな考えにかなり近いものである。判例通りであるかどうかは存じませんけれども、この程度にしぼっておけば、一応違憲の疑いはないと思うものでございます。  六条につきまして、しばしば公開の施設に対する立入権が行き過ぎである。研究室を捜索されるおそれがあるというような発言もかつて学術会議でございました。しかしこれはわれわれの常識に反するのでありまして、公開の施設と申しますのは、不特定多数の人、つまり公衆が自由に出入りできる場所であり、その点は現行法の「多数の客の来集する場所上と同一の意味であると思うのでございます。なぜそれならば改正するか、それは当局に伺わなければわかりませんが、客というと何か金でも出して切符でも買って出入りするもののように誤解されるかもしれません。無料でただで自由に出入りする場合にも、不特定多数の公衆の自由に出入りできるところは公開の施設というふうに考えるのでありまして、実質的には現行法とかわりがないというふうに考えております。     〔委員長退席、亀山委員長代理着席〕  最後に、以上法案についての二、三の点を申し上げましたが、しからば改正法案が警察権乱用するおそれがあるかという点でございます。実は終戦前、昭和十年に、美濃部先生の天皇機関説に関連いたしまして、私どもは先生の助手を勤めており、先生の講座のあとを受け継ぎまして東京商科大学行政法を担当したのでございますが、その点で当時の内務省、さらには文部省からかなりある意味では弾圧を受けた覚えがございます。すでに古いことでありますが、その意味において警察権乱用に対しては、身をもってそのおそるべきことを経験しておるものでございます。けれども、それならば今回の改正法案が当然旧憲法時代のような警察権を復活するものであるかどうかと申しますと、私は公安委員会制度を一応信頼するものでございます。二十九年の警察改正におきまして公安管理委員会という案が一部にございましたが、私はこれは公安委員会の方にすべきであるというふうに考えておりまして、この現行法は結論において賛成でございます。また警察官の教養の点がしばしば問題になりますが、もちろんこの教養は十分に考えるべきことでございますけれども、私のおそれるのは、むしろ幹部が警察一本でほかの職務に従事しない、そういう現状を憂えるものでありまして、幹部の人事交流が必要である。そうしませんと、かつての士官学校のような軍以外のことは何も知らないという非常識な人間になりやすい。今日の警察の幹部は、終戦後採用せられましたものは、大体が職階制によりまして警察以外の畑のことをほとんど知らないものでありますから、そういう意味において、将来はこの点を特に改めるべきものと考えております。  時間が参りましたから、私の公述は一応これをもって終ります。(拍手)
  88. 亀山孝一

    ○亀山委員長代理 次に、眞野毅君から御意見の御開陳をお願いいたします。公述人眞野毅君。
  89. 眞野毅

    ○真野公述人 私は政治には何も関係がありません。不偏不党かつ公正に物事を考えてここに公述をいたしたいと思うのであります。政治論から申しますといろいろと不満なこともあり、私も感じておりますが、私は四十四年間在野在朝の法律家として生活をしてきたものでありますから、本日は時間もありませんので、主として、というよりは、ほとんど全部法律家の立場から本改正案について意見を述べたいと思うのであります。  この改正につきまして、いろいろ提案のほんとうの意図がどこにあるかということについて政治上の見解が述べられておりまするが、現行の警職法なるものは、昭和二十三年の占領中に作られたので、これは個人の自由、人権というものに重きを置き過ぎたんだ、今度は公共の安全と自由という面から必要な程度改正をするんだということが一番の根本になっておるようであります。それはちょっとその言葉を聞くというと、個人の自由、人権というものは私の利益、私益である、公共の安全と秩序は公けの利益、公益である、公益は私益に優先する、こういうところへ予防線を張って、そっちへ導こうとするようなふうに受け取れるのでありますが、公益優先ということも、現代の民主政治のもとにおいては必ずしもそういうことは言えない。これが独裁政治または全体主義の政治であるならば、公益は常に私益に優先するのでありまするが、民主政治のもとにおける憲法にいわゆる個人の基本的人権というものは、私益であると同時にそれを尊重することは公益であるのであります。従って、公共の安全、秩序というものが公益であるがごとく、個人の基本的自由というものもやはり公益なんです。この問題は公益と私益が対立するのではなくして、公益と公益が対立する、そういう問題であります。(拍手)従って、改正案に幾らか公益に関することがあるからといって、すぐに個人の基本的自由というものを制限することは許されない。両方の公益と公益を比較考量して、いずれが比重が重いかということを十分考えなければならぬのであります。比重を考えるときにどういう点に重点があるかということは、個々の場合にいろいろ違いまするが、民主政治のもと、現行憲法のもとにおきましては、基本的人権の方に相当重点を置いて考うべきものであるということは、ただいまの田上教授が御講義なすった通りでございます。公共の安全、秩序ということの方の比重が軽いか、あるいはどちらの比重が重いかということがはっきりしない、そういう場合には、基本的人権の方の側を尊重するのが当りまえであります。公共の安全と福祉の方の比重が重い、そういう場合に限って基本的人権の制限というものが許されるのであります。     〔亀山委員長代理退席、委員長着席〕 最高裁判所の判例をごらんになりますると、公共の安全、秩序のちょっと上の段にある、まあ親玉と申しますか、公共福祉ということ、公共福祉ということがあれば制限できるといっていることは、今申し上げたように、公共福祉の要素が幾らかでもあれば、すぐに個人の基本的自由が制限されるというものではなく、両方の比重を比較考量して、公共の安全と自由の方に比重が重いときに初めて個人の基本的自由の制限をしておる法律が憲法に適合する、適憲であるということがいわれるのであります。国会の審議を新聞で毎日拝見いたしておりまするが、そういう点の審議がどうも欠けているのではないか。乱用のおそれありと片方は言い、片方は、いや乱用のおそれはないぞ、ここの公聴会でも出ましたが、そんなことを抽象的にやっていて、まるで子供が水鉄砲を両方からやって争っているようなふうに少くとも私には感ぜられる。事実そうであるかどうか知りませんが、そういうふうに感ぜられる。それでありますから、この改正がどうしても必要であるということならば、こういう事実があったのだ、これを取り締るには現行の警職法では不可能だ、それであるからこの限度の改正をする必要があるということは、提案者の政府の側からまずよく説明しなければならない。これはちょっと裁判に似ています。この法案はたんねんに——皆さんが常識で簡単に解釈できるものではない。やはりそういう事実があったかどうか、つまり裁判でいえば事実認定、ここでいえば事実を確定すること、そういう事実が一方ではありと言い、一方ではないと言う。事実が対立したら、もうそれ以上審議の進めようがない。その事実がまだほんとうに突き詰めて審議がされていないように、外部から見ますと現われてくることが相当あるように感ぜられるのであります。これは私は非常に遺憾に存じます。  それから、岸総理の提案理由の説明のうちにあったと思いまするが、たとえば別府事件、王子製紙の争議、そういうようなものは現行の法律では取締りができぬから改正の必要があるということを言われていたように記憶をいたしておりますが、別府事件につきましては、昨年、ああいう事件つまり東田的に凶器を持って集まった、そういう犯罪については、刑法の改正によりまして特別の犯罪を認めたわけであります。われわれも法制審議会の一員として関与いたしまして、初め法務省で出してきた案は、そういう必要があるから立法したい、立法することはよかろうということを申しましたが、どうも原案そのものに乱用のおそれのある個所があった。それだから、法制審議会においては乱用のおそれのないように修正をした。それで原案を通した。その原案が政府提案となって国会へ出て、一たび国会に出るや、与党といわず野党といわず、いずれも両方の賛成を得て、たちまち法律ができたことはここにおらるる皆さんよく御承知のことと思うのです。そういう特別な法律ができておるのに、わざわざ警職法を改正しなければできぬということは、言えないのじゃないか。それだから、少くともこの改正提案理由として、別府事件を持ち込んで説明をしなければならぬようなことは、やはり理由が非常に薄弱なことである。(拍手)それから王子製紙の事件につきましては、裁判所の命令をも拒否したというようなことをよく言われておりまするが、これは私は事実は直接にはよく聞きませんが、ある方面から聞いたところによりますると、やはりその事件を扱われた弁護士、それは同時に代議士であるということを聞きましたが、その仮処分の申請が不備である、従って不備な仮処分である、その仮処分に触れない点で争いがあったということで、別段裁判所の裁判までを拒否したということはないように私は聞いておりまするが、もう少し詳しく事実を調べると、別府事件とかあるいは王子製紙の事件を、この法案を立法化するに必要なる理由として掲げることができるかどうか、そこは非常に疑惑を持つ。すなわち現行法で十分取り締れるのじゃないかということも言い得る余地が相当あると思う。それからまたやはり同じように、岸総理の新聞に出た言葉には、集団暴行に対しては、善良なる国民保護する必要がある、こういうことを言われておりまするが、集団暴行に対しては、現行法で十分取締りができるのであります。(拍手)このように、この法案の理由には、いろいろ、何と申しますか、現行法取締りができるようなものまでも取り入れて言われておるということは、公正なる立場にあるわれわれとしては、理解ができない点があるわけであります。率直に私をして言わしむるならば、この法案というものは、提案の順序その他あらゆる面を考慮の中に入れて、何かどうも特別な意図がある、やはり何か陰険さをわれわれに感ぜしむるようなものがあると私は感ぜられる。そこが非常に遺憾なところであると思うのであります。  それから一番重要な改正案の中核と申しますか、そういう点につきまして私が見解を述べたら、乱用のおそれはないというようなことを単におっしゃる方がありまするけれども、法律乱用のおそれがあるようになっておるのだということを法律的によく御説明申し上げて——これは単なる憶測ではないのです。それから過去の経験から推測するというようなものでなく、法律自体が非常に乱用のおそれが十分あるようにできておる。ここに柏村長官もおられまするが、柏村長官は口を開くと、よく公共の安全と秩序ということは今では非常に熟した言葉であるということをたびたび述べておられる。ところが私はわずか四十四年しか法律生活を営んでおるのにすぎないのでありまするが、まだこういう言葉法律語で熟しておるとは決して思わない。私に、かりに人があって、公共の安全と秩序とはどういう意味であるか、その定義を聞かしてくれということになると、私はどぎまぎせざるを得ないのであります。この公共の安全と秩序のもう一つ上にある公共福祉という言葉、これも同じなのであります。これをどういうふうに定義を下すか。無理やりに作ればできますが、しかしなかなかできるものでない。それでありますから、私、最高裁判所に満十一年近くおりましたが、公共福祉ということについての定義は、判決のうちに一回も下したことはありません。公共の安全と秩序ということについても、最高裁判所の判例一つも述べておりません。ただいま田上教授は、公共の安全と秩序自分はこう解するということをおっしゃいましたが、おっしゃったこと自体でも相当むずかしいでしょう。私には頭に全部は残っていない。皆さんの頭にも全部は残っていないと思う。これほどむずかしいことなんです。こういう熟していない言葉法律の中に取り入れて、それによってずうっといくと公務執行妨害罪というものが成り立つのが自然の順序になっておる。これがおそろしい。そういう熟しない青い実を指さして、これが熟した、熟したと言うと、これを信じて食べる子供はすぐに青酸カリで死んじゃいます。この法律を熟した、熟したと言われる裏面には、非常な青酸カリに劣らぬような猛毒が含まれておるということを理解しなければならぬと思うのであります。     〔「その通り」「神経衰弱だ」と呼び、その他発言する者あり、拍手〕
  90. 鈴木善幸

    鈴木委員長 静粛に願います。
  91. 眞野毅

    ○真野公述人 それだから……(発言する者あり)これから言うことをよく聞きなさい。それだから、もしも公共の安全、福祉を害するというようなことをもって犯罪とすることができますか。こういうばく然たる言葉をもって犯罪の構成要件としたならば、それは罪刑法定主義に反する、法として違憲、無効であることは明白であります。こういう非常にばく然とした不明確な言葉を用いて、一警察官の判断によって制止をすると、制止をされた人間は、おそらくそのときの状況として反抗するでしょう。反抗して大きな声を上げたり、石をほうっただけでも公務執行妨害になる。これは私が最高裁判所をやめてから出た判例ですが、石をほうっても公務執行妨害になる。そうすると、公共の安全と秩序というような不明確な言葉で公務執行妨害罪というものを形作るおそれが十分にあるのであります。そういう犯罪の構成要件とならないようなものを並べて制止をするという形は、はなはだまずいと私は思うのであります。大体警告を発するときに、犯罪を犯そうとする状況があるから警告を発するのだ、警告を発してから制止をするときには、もう犯罪に接着していかなければならない。ところが、この五条の改正案を見ますると、「人の生命若しくは身体に危険が及び、財産に重大な損害を受け、」というところまではこれは犯罪に近づいていることはもうはっきりしています。生命、身体、財産という、目で見える具体的なものに危害が及ぶ状態に達したから、そこで制止をするということが必要になって、犯罪予防ということと一連の関係はあります。ところがこの後段の方の「公共の安全と秩序が著しく乱される虞のある」というところは、これ自体は犯罪とすることができない、現在でも犯罪とはなっていないものであります。そういう事態が来たからといって、犯罪は一体どういう犯罪であるか、しまいには、公共の安全、秩序ということで制止をしてしまう。そうすると制止をすると、反抗によって公務執行妨害罪というところへいく。やはり犯罪の予防でありまするから、人の生命もしくは身体、財産に危険が及ぶというような犯罪がもうそこへ出てこなければならぬものを、犯罪が出てこずして、公共の安全と秩序というものを取り上げ、しかもそれは犯罪の構成要件として犯罪をきめるわけには法律上許されていない、憲法上許されない、そういうところへ結びつける、そこに非常な無理があると思うのであります。これは法律上そういうことになるのは当然のことであります。それはどういうことかと申しますれば、何ゆえ罪刑法定主義に反するかといえば、そういう不明確な事柄をとらえてきて人を処罰することは、非常に人権の尊重を侵す、人権侵害の乱用になるから、罪刑法定主義から憲法は無効といたしておる。それだから、こういう事項を用いれば乱用になることは自然の勢いであります。私自身は別にこの法案の全部が全部いけないというわけではなく、もう少し詳しく理由を承われば、この部分はいい、この部分はいけないということになりまするが、今言ったような公共の安全と秩序ということは、五条、六条の問題を貫いて、しかも本改正案の一番の骨子となる一番重要な点でありますから、この点において私は反対意見を持っておるのであります。  それから、よくこういう法律を作っても乱用は行われぬ、世界の趨勢が人権の擁護に向っておるから乱用はない、こう言われる意見がありまするが、日本法律の運用が必ずしも世界の機運と一致するかどうかということは、これは神様といえども保証はできないでしょう。(笑声)  それからもう一つよく御注意願いたいことは、法律というものは妙なものですね。でき上ると、作った人の説明や意思には関係なく、一人で歩きます。こう走る。(拍手、笑声)そういうこともあります。独歩し、独走するのであります。それが危険であります。そういう実例を一つ申し上げましょうか。御存じの方もあろうと思いまするが、それは「暴力行為等処罰二関スル法律」、大ぜいの者、数人で暴力をやるときには、一人でやるときより重く罰するという特別の法律があります。これは皆さん御承知でしょう。この法律ができるときには、政府関係者の説明は、これは小作争議であるとか、労働争議には断じて用いません。こうおっしゃいましたが、法律は走るのです。その後この法律によって小作争議あるいはまた労働争議の人々が処罰されたことはたくさんあるのです。そういうように、法律を作るときには細心の注意を用いないと非常に悪いのです。警職法というような国家権力と国民とが直接接触するこういう法律のごときは、きわめて必要な限度、最小限度において立法をだんだんとはかっていくことがいいのであります。それでありますから、法律の中にも最小限度の必要ということで権限を行使しろということがうたってありますけれども、それは最も必要なことだ。それで、ことに政治に中立であって、不偏不党でなければならぬということがうたわれておりまするが、それはやはりそういうような反対の傾向があるからこそ法律の中にそういうことがうたわれておるのであります。  それから、ときどき聞くことでありますが、法律の中に乱用が戒めてあるから乱用はない。そういうことはこれはきわめて形式的な法律理論で、昨日も何かの新聞でそういうことを見ました。こんな非常に形式的な議論が今なお大新聞の論説のようなところに掲げられているのを見て、私は実は情なくなったのであります。(笑声、拍手)法律は万能ではない。実際はどう行われていくかということは、また法律自身が動いていく。そういう先の先までお考えになって立法をなさらないと、非常に悔いを千載に残すことになる。この改正案の一から十までいけないと私は申すのではなく、労働争議その他において非常な行き過ぎがあることはよくないと私も思っております。ことに暴力によって事を解決しようという考え方、そういう行動、それがいけないことは私も十分に考え、先にど勤評問題について現地の調査をいたしました報告書のうちにも、それは十分に書いてありまするが、それとまた、この改正そのものを認めていいかどうかという点は非常に違いがある。必要な限度は十分検討して、今のように事実をまず確定して、その事実の必要なる限度、しかも最小限度に、慎重に、憶病にこういうものは立法をしなければならぬと思うのであります。  それでありますから、私の結論はもう言わずして知れた。つまり慎重に扱え、悔いを千載に残してはならぬ。私は別にためにする意思をもって反対するのではない。よく新聞などで皮膚で感ずると言いますが、私はこれを自分の骨髄で感じておる。そんな皮膚じゃありません。そういう意味において、私は不偏不党、公正中立という立場からこれを深く考えておるのであります。  はなはだ粗雑のような点もありましたが、私の真意を間違いなく御了解願いたいと思います。(拍手)
  92. 鈴木善幸

    鈴木委員長 これにて四公述人の御意見の御開陳は終りました。  これより公述人に対する質疑に入ります。質疑の通告がありますから順次これを許します。加賀田進君。
  93. 加賀田進

    ○加賀田委員 時間が限られておりますので、端的に質問をいたしたいと思いますから、御答弁もその点でできるだけ簡単にお願いいたしたいと思います。  まず第一点として末次さんにお尋ねいたしたいのですが、公述の最初にいわゆるこの法律の提出の手段にいろいろ批判がございました。国民のいろいろな世論も聞かずしてこういう重要な法案を出すということは、政府としても手続上反省すべきだ、こういう御意見があったのですが、この点は社会党としても従来そういう態度をとっておったのです。そこで、もしこういう重要な、国民の基本的な人権にも接触するような法案が、世論を聞かずして突如として国会に出された場合に、末次さんとしてはどう処置するような意見を持たれるか、この点に対して。
  94. 末次一郎

    ○末次公述人 お答えいたします。私は先ほども申し上げましたように大へん遺憾の意を表したわけですが、その後、私どもは国会に提出されたのであるから国会において十分納得のいく審議をしてもらいたい、こういう要望を繰り返しておるのであります。そういうことによって事を解決してもらいたい、こういうわけであります。
  95. 加賀田進

    ○加賀田委員 なお慎重に審議をしてもらいたいということですが、それは提出されたあとの事後処理でありまして、社会党としてはやはりこうした非常に納得のいかない提出の仕方に対しては、もとの白紙に返して出直してくるべきだ、そしてあらため国民の批判を浴びて、それに立って態度というものを決定すべきだ、こういう態度をとっておったわけです。ただ慎重審議そのものに対してはいろいろの深い意味があると思うのですが。  次にお尋ねいたしたいのは、社会党が先般の十三、十四日に本委員会でとった態度に対していろいろな批判がございました。これは今申し上げた通り、やはり社会党だけがそういう態度をとって独自で踊ったわけじゃない。結局相手方があるわけであります。相手方の今申し上げた当初の出方、提出の仕方というものに対しては、われわれの白紙に戻したいという意見の中でああいう問題が起った、そういう場合にもちろん国会として正常な運営を好むことはわれわれも同じでありますが、そういうもとの白紙に戻したいという意見と、いやいやこのまま実行して審議をやるのだという意見の対立した場合に、末次さんとしてはどうお考えになりますか。
  96. 末次一郎

    ○末次公述人 私は国会というところはあくまでも条理を尽して審議するところであって、たとい反対意見であっても互いに相手の立場を認め合って、寛容の精神で論議するところだと理解しております。従いまして政府の提出の仕方に不満であるということはわかります。私自身も先ほど申し上げた通りですが、従ってそれを阻止するために手段方法を選ぶ必要はないという考え方は認められない、そういう意味でああいう措置をなさったことははなはだ遺憾である、こう申し上げたわけでして、私の考えでは、もし私がそういう立場にあるといたしますならば、政府の提出の仕方がいかに不条理であるかということを、あらゆる方法を通じて国民に周知せしめて、次の機会、あるいは選挙その他でその信を問うということが、民主政治の常道であろうと考えます。
  97. 加賀田進

    ○加賀田委員 しかし、次の機会といいますと、実際この法律案もすでに通ってしまうのですから、通ってしまえば今お話にあったように、ひとり歩きして何をするかわからぬということになりますね。  次にお尋ねをいたしたいのは、いわゆるこの法律が昭和二十三年に提出された、従ってアメリカの占領下において日本を弱めるという一つの目的のもと警察自体も弱化されてきたのだ、こういうお話でございましたが、弱められていくということは、逆に強化されるという問題も私は出てくると思うのです。弱いとか強いとかということは相対的な意味だと思います。従って弱められていくという問題と逆に日本が強化された問題が生まれてくると思います。その点に対して、弱められた諸点と、そのために強化された問題との比較を願いたいと思います。
  98. 末次一郎

    ○末次公述人 今の御質問の後段の趣旨がよくわかりませんので、ちょっと……。
  99. 加賀田進

    ○加賀田委員 アメリカの占領軍によって日本が弱められた、こういうお話でありましたので、弱いとか強いということは比較論です。結局何かに比較して弱いとか強いとかということが言われる。日本全体のどこが弱められたか知りませんけれども、いわゆる弱められたということになると、逆に強められたという問題があるわけです。従って弱められた個々の問題と、そのために強められた問題とを説明してもらいたいと思います。
  100. 末次一郎

    ○末次公述人 私が申し上げた弱められたという意味は、先ほど申し上げたはずですが、戦前の体制を弱めようとした、こういうことで、戦前に比較して弱められた、こういう意味でございます。それは逆に強めた面もあるだろうということですが、それは言えるわけでして、個人の自由とか個人権利とかが戦争中は大きく制限されていたやつが、逆に非常に強められた、これはうらはらですから当然だと思います。
  101. 加賀田進

    ○加賀田委員 弱められたという点に対して国際的な関係もあるでしょうし、国内的な関係もあるだろうと思います。弱められた基本的な考え方としては、ああいう悲惨な戦争状態に引きずり込んでいった指導的な諸勢力を弱めていったのだ、こう私は考えるわけです。その一環としていわゆる国家警察であったあの警察力が弱められてきた一つの現われだ、こう見ておりますが、その点はどうでしょう。
  102. 末次一郎

    ○末次公述人 そういう見方も成り立つと思いますし、それから私は、私が従来やって参りました運動の面からいいますと、多少違う点も考えられるのであります。たとえば御存じのように、占領下において占領軍によって作られた政令八十九号ですか、これはちょっと正確ではございませんが、私が終戦直後から取り上げておりました戦争犠牲者の救護援護という問題について、たとえば遺族に対しての援護をしてはならぬということが連合軍の命令であった。従ってそれが行われ得なかったわけです。私は当時連合軍の司令部にそれは間違いだ、そういう考え方は間違いだということで、さんざん陳情等をして何度か大いに議論したことがありますが、そういった面に現われておった占領軍の考え方は、戦死した者は戦争に従事した者である、国家のために戦った者である、国のために死んだのだから、そのために特別な援護をすべきでないということで、それは今お話の中に出てきた戦争中の指導勢力を弱めるということにはなり得ずに、当時の国家というものに対するものの考え方は、今とかなり違う面もありますが、いずれにしてもしごく純情な気持で祖国に命をささげられた人は、たといその戦争が是であろうとも非であろうとも、その死はいたむべきである、国家体制が変ったとしても、国民のものの考え方が変ったとしても、その死に対して報いることは国家として当然の義務である、私はその当時そういう論点に立って司令部にもぶつかり、当時の政府にもぶつかったのでありますが、そういうことも一口に指導勢力の力を弱めたというようには考えないので、一面にはそういう面もあったというふうに私は考えております。
  103. 加賀田進

    ○加賀田委員 特異な例は別として、占領政策の基本的な政策としては、やはり戦争勢力というもの、戦争の指導的な立場に立った力というものを弱めることが占領政策としてとられてきたと思うのです。もちろん個々の問題として、いろいろ国民としても不満な点もあるし、了解できない点も多々あったと思うのですが、その点はどうですか。結局私は弱められてきた中心となるのは戦争勢力にあったと思うのです。その点はどうでしょう。
  104. 末次一郎

    ○末次公述人 私は今申しげ上げたような例から、中心と申して果してよろしいかどうか、中心というよりもかなり比重を置いた、主としてというような、これはニュアンスの問題ですが、むしろ私は社会運動の立場から、接する面が直ちに戦争指導勢力ということに直結しない面で制約を加えられたことが、あまりにも多かった私どもの経験から申しますと、それを中心としてというか、ほとんどというような意味には私は理解せずに、かなりその点についてはみそもくそも一緒にしたやり方であったと、当時大いに痛憤したことがあるくらいであります。
  105. 加賀田進

    ○加賀田委員 そこでいわゆる占領政策というか、まず天皇の力が弱められてきた。もちろん国際的には軍隊が解体されて、戦争によって国際問題を解決することを阻止されてきた。それから経済的にはいわゆる独禁法等を作って独占資本等の力を弱めていった。こういうことで、いろいろ私は過去大東亜戦争に国民の意思を無視して引きずり込んでいったそういう指導層の力というものを弱めていったと思うのです。そういう戦争の方向に国民をかり立てる力の一つとしては、いわゆる過去の警察の力を弱めるため警察法の改正その他の機構改正ということがなされたのではないか、そう見ているのですが、そのことが逆にいえば、憲法で保障されている基本的人権というものはやはり逆に強められていった、そういうことで相対的に弱められた点があれば、逆に国民の基本的な人権というものを強められたという点があるのではないか。そこで考えられるのは、そういう戦争勢力を弱めていこうという一つの占領政策の手段として、警察の過去の機構、あるいは権限というものを弱めた。そのことが今度の警察官の職務執行法に基いてある程度強化されるということになれば、これはやはり占領政策であろうとも国民が喜んで日本の民主体制というものを賞賛した時代よりも、少し後退したような感じを受けるのじゃないですか、その点はどうですか。
  106. 末次一郎

    ○末次公述人 お答えいたします。最初の説明の際に申し上げましたように、私の賛成の理由の第一点は、そういう特殊事情下に作られたものであるから検討するということは時宜を得た措置であるということ、それから現実の必要論から私は言ったわけであります。そして同時に最後に申し上げましたように、今真野先生からは、個人権利というものは民主社会においては公益だという御説明がございましたが、法律的な理解はともかくとして、私どもの常識論で参りますと、今度の改正は、やはりある意味で個人の自由にある種の制約を加えることは間違いないと思います。しかしそれが必要だという認識に立って、私は先ほど申し上げたように、改正案に賛成するのだということなのでありまして、あの際にも申し上げたように、全く無制限に自由な状態、これが全く一番自由でありましょう。しかしまた見方によっては、それは逆の不自由を作ることになろうかとも思いますが、いずれにしても、私は現在の情勢あるいは現行法が作られた経緯等にかんがみて、こういう二つの面から結論を求めたわけであります。
  107. 加賀田進

    ○加賀田委員 次に飛びますが、御説明の中に二条、三条を引用されて、青少年——のあなたも青年運動を指導されているそうですが、青少年保護の問題でこういう改正というものは非常に必要なのだというお話もありましたが、しかし私は青少年を善導していくとかあるいは犯罪を防止するとかいうことは、今渡辺さんも申された通り、現在の法律下においても児童福祉法を充実するとかあるいは少年法に基いて、家庭裁判所の調査官を、予算をとって相当充実していくとかいうような方法によって、青年というものを育成善導していくというやり方が、やはり民主政治としてあたたかいやり方ではないかと思うのです。単にこれを従来のままに、あるかないかわからないような姿に置いて、警察の力だけで青年を善導することは実際問題としてちょっと私は困難じゃないかと思うし、今のやり方は少し先にやるべきものをあとにして、あとでやるべきものを先にしているような印象を受けるのですが、この点はどうでしょうか。
  108. 末次一郎

    ○末次公述人 お説の通りでありまして、私も現行法においてもまた改正法においても、少年保護はみな警察がやるのだと規定してあるようには私は理解しておりません。先ほど田上先生からも御説明がありましたように、瞬間的、せつな的に警察の接触が一番多いわけです。特に私どもは事務所を上野に持っておりますから、上野駅の特殊事情に接することが非常に多うございますが、そういう場合のことをここには規定してあるのであって、本来の少年指導というものは当然お説の通りになると思うし、また少年院とか感化院とか、そういった施設をすらできるだけ避くべきだ、これは当然のことだと思います。
  109. 中井徳次郎

    ○中井(徳)委員 議事進行について。ただいま私どものところに入りました情報によりますと、自由民主党の諸君は会期を三十日延長したいという希望を正式に議長の手元に今出されたそうであります。私どもはこの重要法案を十月八日に政府が突如として出されました。そのときには十一月七日までが会期であるということははっきりしておった。この重要法案をわずか一月以内でやることは非常に無理だというので反対したにもかかわりませず、今日までとにかく慎重にやってくれという議長の調停によりまして、熱心にやって参りました。しかるに十一月七日という会期は両党においてかたく約束をした、国会対策委員長の間においてもあるいは議運の正式の会議においても約束されておる、そうして自由民主党の委員の諸君はそれでけっこうだと言う。にもかかわらず、今日またこういうふうに約束をたがえて、いわゆる土俵を幾らでも広げていくというようなことでは、議会のまじめな審議はできないのであります。従いまして私どもは今日そういう事態が突発しました限りにおきましては、この加賀田君の質問、それから自由民主党からどなたか一人お立ちになるそうでありますから、それは私ども寛容の気持をもって認めますが、それ以外の公述人に対する質問はこれを留保していただきたい。そうしてこの二人の質疑が終りましたら理事会でも開いていただきまして、今後の処置をお諮り願いたい。この委員会における今後の処置というものを委員長からお諮り願いたい、かように思います。
  110. 鈴木善幸

    鈴木委員長 ただいまの中井君の御発言の会期延長の問題は、議長及び議院運営委員会等において今後検討される問題でございます。この公聴会の今後の取り進め方につきましては、中井君の御発言理事会等に諮りまして、善処いたしたいと存じます。
  111. 中井徳次郎

    ○中井(徳)委員 従いましてお二人の発言が終りましたら一つ休憩にしていただいて、お諮りが願いたい。わかりましたか。
  112. 鈴木善幸

    鈴木委員長 了承いたしました。
  113. 加賀田進

    ○加賀田委員 私の質問中に——、慎重審議の立場に立って、いわゆる四十日間という会議の期間の中で、国会議員としての責務を果すために、慎重審議をしておったのですが、自民党の方から突然そういう会期延長の問題が出る、いわばわれわれは本委員会の運営に対しては新たな見地から検討いたさなければならぬと思うのです。ただいまは公述人もお見えになっておりますので、私は簡単に質問をして終りたいと思います。  田上さんにお願いしたいのですが、この法律は、私は立法の精神から、一般の法律と異なった見地から、検討しなければならない問題じゃないかと思います。いわゆる乱用の問題がいろいろ論議されておりますけれども、一般の法律であれば、たとい乱用されてもそう国民の基本的人権に大きな影響がないし、乱用されても、事後処理も簡単にできるという形の中で立法されておると思う。この法律警察官が直接日常の市民の基本的人権にいつもさわる仕事をするわけなんです。従ってこの立法精神としては、たとい乱用されても、なお善良な人々にはもちろんのこと、たとい悪い人といえども基本的人権がそうあまり侵害されないように考慮すべき性格を、立法精神として持つべきじゃないかと思うのですが、この点はどうでしょう。
  114. 田上穰治

    ○田上公述人 簡単にお答え申し上げます。ただいまの御質問の点において、私ども警察権の発動というものは最も慎重にしなければならない。従って法律規定の上におきましても、先ほど申しました必要最小限度という公共福祉の範囲を、最も狭く解釈しなければならないという点においては全く同じ意見でございます。ただしかし、私の時間がなくて十分申し上げられませんでしたが、今回の法案におきましては、私の見るところでは、かなり厳格に慎重に要件をしぼってある。だから私としては憲法違反とは考えないということでございまして、決してこの種の法令が、ほとんど無条件公共福祉という一つのまことに便利な理由ですべて差しつかえない、合憲であるというような議論ではなくて、最も慎重に警察関係の法令は検討すべきであると存じます。ただしかし、蛇足でございますが、先ほどの真野先生からちょっと御指摘がございましたが、私の解釈は「公共の安全と秩序が著しく乱される虞のあることが明らかであって上云々というような五条の規定とか、六条の規定にそういう問題がございますが、これは罪刑法定主義を直接真正面から考えた、つまり犯罪構成要件として、つまりその要件等の規定を厳格にあるいは精密に規定するという場合と少し違うのではないか。これは行政法規だと私は考えております。もちろん、それにいたしましても、慎重にすべきでありまして、これは五条について一々ごらんいただければけっこうですが、時間がございませんので。もし公務執行妨害ということになりますと、これは権力的な行政法規はみなその意味において犯罪と関係がございます。私は直接の罰則をきめた刑罰法規であれば、それは確かに真野先生の言われるように、おそらく公共の安全とか秩序というふうな表現でありますと、かなりばく然としておって疑問があると存じます。けれども、警察官職務執行法の場合には直接処罰する規定ではなくて、これはむしろ被害者とか一般公衆の利益も十分に考慮しなければならない。これが行政の作用の一般の目的でございます。そういう意味において、たまたま加害者の立場あるいはいわゆる違反者の人権という点におきましては、これは裁判所のお考えになるような見解が妥当すると思うのでありますが、私が行政法規と申し上げましたのは、たとえば保護を加えるというふうな規定は、直接の目的は罰する規定ではない。もちろん間接にその裏を申しまして、これに関係者が反抗した場合には先ほどの公務執行妨害の問題が起きるのでありますが、しかし三条とかその他の規定を直接罰則というふうには私は考えないのでありまして、その意味においては先ほどもちょっと申し上げましたが、他のわが国の法令の中にも実例がございます。その意味で御趣旨に一応は賛成でございますが、具体的な法案の条文につきましては、見解を異にするものでございます。
  115. 加賀田進

    ○加賀田委員 まだ質問があるのですが、今申し上げた通り、会期延長の問題がすでに両党において話し合いが続けられている中でありますので、われわれとしてはこの本日の公述人に対する質問を保留いたして、引き続いて理事会でこの問題の処理を委員長に要望いたします。
  116. 鈴木善幸

    鈴木委員長 綱島正興君。
  117. 綱島正興

    ○綱島委員 ただいま問題になりました公共の安全秩序、この問題について真野公述人にお尋ねをいたします。なるほど公述人が申された罪刑法定主義の立場からいえば、不明瞭な刑罰規定を置くことは非常に慎しむべきことには相違ございません。これはもう法律家のみならず、あらゆる国民が体験したことだと存じております。また学界の意向も世界中その通りである。しかし犯罪はいろいろな形で、犯罪自身に進歩というか変遷がありまして、従って、法に取り入れられる概念もだんだん変化をいたして参る、社会の事象の変化につれられなければならぬということは、御同意であるかどうか、お伺いをいたします。
  118. 眞野毅

    ○真野公述人 ただいまの御質問は御趣旨がよくわかりませんが、やはり時勢の進運に従って、法律の表現の仕方が変るということを認めるかという御趣旨であろうと思いますが、そういうことはむろん時勢の進運に応じて法律語の表現が変ることは当然のことであります。たとえば新憲法前にはかたかなで書いたものが、今はひらがなであります。ポツとマルを打つことは以前にはなかったが、今の法律にはある。それから各条文に見出しをつけるようなことも、前にはなかったが今はある、そういうふうにいろいろ法律語は変ります。たとえば今の問題になっておる「公共の安全と秩序」という言葉は、新憲法以前においては「公共の安寧」という言葉、あるいは「公安上というような言葉で表現されておりましたが、その言葉が、言葉は変ったが内容は同じであるか、言葉が変れば内容も変るかということはしさいに検討しなければならぬ。国会における答弁におきまして、国家公安委員会委員長言葉によると、前の公共安寧秩序というものと、今度の公共の安全秩序という言葉は、思想的に非常に違うということが書いてありましたが、それは新聞で見るとそれだけのことで、ほんとうの意味はどういうことかわかりませんが、とにかく言葉が変ると内容も変るというふうに受け取れたのであります。それは言葉が変らなくとも内容が変らぬこともあり、変ることもある、表現は時勢に応じてだんだんその国民の理解のしやすいような表現を用いていく。昔の法律はむずかしい言葉を使った。むずかしい言葉を使う方が法律らしいというようなことがあったが、今はやさしい言葉を、だれにもわかるような言葉を使わなければならぬという、表現の方法に関する根本の考え方がある。これは当然のことであろうと私は思います。それでよろしいですか。(笑声)
  119. 綱島正興

    ○綱島委員 先ほど田上公述人からるる説明されました通り、この法規行政法規です。これが直接の刑罰法規ではございません。ただそのことから公務執行妨害罪の成立の要素になり得る、こういうことで重大視されなければならぬという御意見は賛成であります。しかしその程度の概念ならば、公共の安全それから秩序ということの理解ならば、私はそれによってこれが著しく阻害されることが明白で、急を要するというようなことのため制止をいたすということになりますならば、これは警察官が特別に自分だけの別な考え方で悪意をたくらんでしたのか、したのじゃないかというようなことは、これは私は現在の常識としてしてわかり得ると思う。一体法律の条文が必要であるということは、人がその事実を理解し得るかどうかということがあるために、その文章があるんですね。事柄を理解しあたわざるものは、それはなるほど法律用語としてこれに反しなければならぬでしょう。しかしそのことによって事実を理解し得る、社会通念が発展して参りますれば、その用語を使うことに何らの不当はないと考えるのでありますが、公述人はどういう御意見でありますか。
  120. 眞野毅

    ○真野公述人 だれにもわかるというなら、それでけっこうですが、公共の安全と秩序というようなことは、法律生酒に相当な年期を入れてもなかなか定義的なものはあげることはできない、定義的のものをあげることが非常に困難あるいは不可能に近いということと、もう一つはある具体的の事実が公共の安全と秩序を著しく乱すかどうか、著しいか著しくないかだけでも、相当警官は判断に迷うべきでしょう。こういうことは非常にむずかしいことだから、いろいろの事実を調べ上げて初めて裁判所で認定する、それだけでもむずかしいくらいの事件でありますから、とっさの間に現状のような教養の程度警察官がそれを認定して誤まりなきを得ないか、これが非常に乱用に持っていかれるおそれがあるんじゃないかということを非常におそれる。たとえば旧憲法時代にありました行政執行法のうちにも、公安を害するおそれのあるものを検束するということがある。それがどういうように取り扱われたかということになりますと、公安を害するとか害しないとか、そういうことはほとんど抜きにして、きわめて自由に検束がされた、これは事実である。だれかが、今の法律が拡張解釈をされるおそれがあるということをよく言われておりますが、これは私をして言わしむれば、ほんとうは拡張解釈じゃなく軽く見る、軽く見る結果は軽視または無視ということになる。条文のうちには、公安を害するおそれのあるものという文句が初めはあるんだけれども、それがだんだん軽く見られて、しまいにはそんなものはあってもなくてもいいような適用を受ける。それでこういうばく然たる不明確な言葉を用いるというと、だんだんそういう方向に行くというおそれがある、こう私は信ずるのであります。
  121. 綱島正興

    ○綱島委員 この法案の記載の状況から見まして、一番初めに人間の生命、身体、そういうことをあげておって、それと並べて公安の規程があるのであります。従ってこれが解釈に当っては、かようなふうな非常に重大なものをさしておるということは、一応理解しなくちゃならぬ。そうしてしかもどちらかというと、一般的概念でございまして、法律的用語としてはまだ確定した概念がはっきりしない程度でございますから、適用については非常に消極的適用を必要とするでしょう。公述人はそういうものはみんな無視されるんだ、こういう御意見でありますが、そういうことを言った日には、立法はほとんどできなくなる。何も無視される、こういうことになったら——法律というものは無視されないで、正常に執行されることを予定して作るものでございまして、無視という事柄を主にして論争いたすことは、そのものの本質に反する御意見じゃないかと思う。なるほど老練なる判事上のあなたとしては、これはどうも乱用されてはならぬから、なるべくそういう法律は除いてみた方がいい、全般でなくても一部の修正もしかるべきじゃないかという御意見のようにとれたのであります。このお考え方も、必ずしも私は範疇を越えた御意見だとは思いませんけれども、それじゃこういう立法をしなければならぬ社会事実があるかという御意見、これは私驚くべきことだと思う。新たな立法をするにあらざれば、秩序が守りがたい状態にただいまなっておることについては、これはほとんで疑う者がない。このことは、かつてなるほど治安警察法時代とかなんとかで取締りを過酷に受けたこともございますけれども、その時代とただいまでは、憲法が改正になっておりまして、基本憲法というものが全く違います。そこですべての法の解釈も、憲法の条章に順応した範囲において解釈され、執行されなければならぬのでございますから、かつての治安警察法の時代を拉しとらえて問題にされることは、私は現代に対する立法者として、あるいはそれの立法の批判者としてのお考え方としては、これははなはだ不当じゃないか。裁判所も、これは私が実際に経験をした事実でありますが、かつて私は日本の労働運動にデモンストレーションをしなければならぬと考えて、足尾で最初デモンストレーションをやりました。何でもない——いかにも騒擾罪に似ておりますので、裁判所はとうとう僕に一年六カ月の騒擾罪の罪を申し渡された。そのとき予審判事に、これはデモンストレーションというもので西洋にあるんだという話をして、それは何だ、これは社会的な意思表示だ、そんなら内容証明でやればいいんじゃないか。そういうくらいに、判事さんたちもけっこうなかなか世の中の動きには御理解がないことが多いのであります。従って一番大切なことは、特別な法律専門家の意見とかなんとかいうことよりも、社会の多くの人が属しておる観念、思想、必要等を本体としてものを考えることが必要なんだ、それが民主主義立法なんです。そのことを除いて、一部の事情からのみお考えになることはどうかと私は考えるのでありますが、この点については眞野公述人及び何とかいう御婦人の公述人のお二人にお尋ねをいたします。
  122. 眞野毅

    ○真野公述人 ただいまの綱島委員のおっしゃいました、新しい憲法があるんだから、憲法の条章に従ってものを考え、判断をしていくという方面に持っていかなければならぬという御説は、私も同感なんです。もうほんとうに同感なんです。そういう立場から、私は先ほどの公述において全部申し上げたのでありまして、そこが大切なんです。非常に何と申しますか、世の中というものはいろいろ進歩をしていくときには、新しいものの考え方をするものはやはり自分たちの敵であるというように考えられるけれども、少し眼を大きくして、長い目でものを見るならばどういうことになるか、これは私の体験したことでありますが、私の友人の森戸辰男君、あなたもよく御存じでしょう。あの森戸辰男君が朝憲紊乱という罪でやられたでしょう。あの無政府主義者のクロポトキンの研究という論文を東京大学の経済学研究という雑誌に出しただけでやられた。その当時の新聞を今見ることは私はできませんが、非常に印象に残っているのは、もう大々的に極悪無道の人間のごとく宣伝されましたけれども、そしてこれに対して大ぜいの人が弁護に立った。花井卓藏、今村力三郎、特別弁護人は吉野作造、三宅雪嶺それから京都の学者の方面からも民間からもいろいろな人が出、私もその弁護をいたしましったが、とうとう有罪になって実刑を受けました。実刑を受けて出てきたときに私は刑務所の門まで迎えに行きましたが、手がこんなにはれているのです、寒いさなかにやられて、しもやけとひびが切れて。そういう人間の思想は社会のために果して危険であったかどうかということを、今日ちょうど四十年くらいです。四十年たった今日考えてごらんなさい。保守党の皆さんもやれ憲法調査会の会長になってくれとか日本労働協会の会長になってくれといってお迎えにおいでになるじゃないか。彼の思想が四十年の間に転向も何もない同じ人間なんです。私はしょっちゅう友人としてつき合っているからよく知っておりますが、性格も何も変ってない。それが四十年前には極悪無道の、日本国を滅ぼすような大悪人として新聞にも掲げられておる。それが今日は今言ったようなことに変った。少し大きく物事を見ないと誤まるということは言い得ると思います。やはり憲法がある以上は憲法を尊重して事を運ぶのがいいのじゃないか。その憲法は国民の基本的人権というものを尊重し、保障することには、あの憲法は何ヵ条でありますか、全部で百三ヵ条のほとんど三分の一に近いものが、国民の基本的人権を擁護するという条文に費しておる。そういうことから見ても、この基本的人権というものの尊重をもう少ししないと、日本の民主政治というものは成長しない、こういうことを私はおそれているのであります。私の言うことは全部憲法の精神に合致するものと私は信じておる。あなたは信じないかもしれない。それは考え方の違いであります。
  123. 渡邊道子

    ○渡邊公述人 私は今おっしゃいましたことを、憲法をあくまでも守るという立場に立ってのことでございますならば是認いたします。しかし今憲法を改正しようという、そういう動きに乗っていることはよく御存じだと思います。私ども国民はそれをよく知っております。そうなれば憲法が改正されていった場合に、どのような政府が私どもを支配することになるのかという点について、国民として憂えなきを得ないのでございます。今法律をお作りになる皆様が乱用の危険はない、基本的人権は害することはないとおっしゃって下さいましても、それをそのままに受け取ることはできない。先ほど眞野先生もおっしゃったように、法律は一度作られてしまえば動き出すのです。そこでその法律の中に公共の安全と秩序という言葉を使いましたときに、それに対する解釈というものは、そのときの政府によって違ってくるのではないかと私は思います。そこでもしも基本的人権というものを公共の安全と秩序よりも重んじないというような政府が支配するようになるときには、公共の安全と秩序ということによって基本的人権がすっかり侵害されてしまうことになるのではないかということを私はおそれるのでございます。
  124. 鈴木善幸

    鈴木委員長 綱島委員、簡潔に願います。
  125. 綱島正興

    ○綱島委員 答弁の方が簡単に、こちらは簡単に言っているのだ、よけいなことだ。  今のお話でありますが、どういう政府が支配するかもしれない、憲法を変えるというようなことを言っている、こういうことでありますが、憲法改正国会の三分の二以上が賛成しなくてはできない。また国民の投票にもよらなくてはならぬ。どうして、そんなことがたやすくできるものじゃない。全くものをおそれておられるようだが、たまたま岸君が言えばまるでそれが世間中を食ってしまうオオカミが来たような考え方をしておられる。ただ問題になるのは、当該法律がどうであるかということであります。先でどうなるかということよりは、当該法律が現在においてどういう形をとるかということであります。もっと言いかえるならば、現在において妥当性を持つか持たないかということ、先ほどおっしゃったようにどういう事実が発生しているか、その事実が発生しておらなくてはならない。現行法取締りにくいような、しかも人権にも関係し、公けの秩序にも関係する、そういう事象が発生しておるかというお尋ねでございましたが、なるほど一部のものは法律で取り扱えば取り扱えぬことはないけれども、そのことがたちまちにして妥当なる法律だと言えぬ場合があるのであります。  そこでこの改正が必要になったのであって、この改正というものは、何もことさらにこれから締めつけて国民を昔の状態に返してやろうなんというのでこんな改正をするならする人が愚かであるし、ただする者はそうじゃないと考える。解釈する方は反対解釈される。これは愚かなる者はいずれに存するかわからないが、どうも皆さんのお話を聞いておると、非常にその杞憂を持ったお話でございます。  それは具体的に言えば、概念が一致しないというか、今まで公共の安全ということのためにはあらゆるもので実は論ぜられております。たとえば民法の権利の行使ということも、いわゆる公共の利益に沿わないものは、実際権利でも権利の行使はできないということが言い始められたのは四十年ぐらい前からですよ。こういうことが一般にいわれております。ただきまった概念のものが今まで公けに確定していないにとどまるのでございます。言葉として公共の安全とか公共秩序とかいうことを言ってわからない者はございません。おそらく高等学校の入学試験に出したって一通りのことは書くでしょう。そこでこれは警察の行為に対する一つの指導的立場を持つ行政法でございますから、これが刑法に関係するときは非常に大切でございますが、また公務執行妨害といっても、公務執行に当らざるものを妨害したって妨害にはならぬ。決してそれは公務の執行に当らざるものを、警察官がやれば何でも公務だというわけにはいかない。そこでこれが公務の執行に当らない、公共の安全に沿わないものであるとか、あるいはそういうものならかりに制止をしたところで、応じなくても犯罪は構成いたしません。そこでこの問題というものをそれほどおそれて言われることには、私どもは常識的に了解しがたいのであります。どうも不思議でかなわぬ。ことに渡辺さんのお言葉のうちにはこの法律があたかも不良少年を直したり何かするように思われているようなお言葉がございましたが、この法律はそういうことを目的としておるのではございません。不良少年があらゆる治安を害したりするようなときの一応の処置でございまして、これによって決定的事実を導き出そうとするものでないことは、判事の同意書その他留置し得る期間、保護し得る期間というものがきまっておるようなことで明らかでございます。そこでむしろ僕が考えることは、これで何か日本を憲法改正から戦前状態に返すんだというような宣伝があることそれ自身が、社会を混迷させるものではないか。この法律は、この法律に値するだけの意見が正しいのだと思いますが、御意見はいかがでございましょうか。
  126. 渡邊道子

    ○渡邊公述人 私は公正な立場に立った一人の国民として、朝鮮事変以来の日本の動きを見てみまして、どういう方向に日本が向いつつあるかということ、そのことを先ほど眞野先生が骨の髄で感じているということを、ほかのことをおっしゃるときにおっしゃいましたけれども、私は骨の髄からそれがどういう方向に向おうとしているかを感ずるのでございます。これはだれの宣伝によるものでもございません。私が新聞を詳細に読み、そして過去の歴史をよく勉強し——そう大して勉強していないかもしれませんけれども、とにかく一応見て、そしてよく考えてみた上でもって感ずるものであって、それは決して事実を抜きにした私の感傷でも何でもございません。またノイローゼ的現象でもございません。そのことはおそらく自民党の方でもよく御存じではないかと私は思うのです。私が今さらどういう方向に向おうとしているかということを御説明申し上げる必要もないと存じます。
  127. 綱島正興

    ○綱島委員 時間がちょうど十九分になりましたからやむを得ずやめますけれども、私がこの際最後に申し上げておきたいことは、相当の知識のある人、相当の経験を備えておる人の発言が、社会の混乱を誘発するようなことのないように御注意を願いたい、こういうことを警告いたしまして私の質問を終ります。
  128. 鈴木善幸

    鈴木委員長 この際、暫時休憩いたします。     午後四時四十四分休憩      ————◇—————     〔休憩後は会議を開くに至らなかった〕