○田上
公述人 初めにお断わり申し上げますが、先ほどの二人の方と同様に、本日私は
自民党の推薦ということになっておりますが、一般職の
公務員であり、
大学に職を奉じておるものでありまして、特定の政党と特別な関係はございません。本日申し上げますることは、ただ私が従来憲法学を
大学において講義しておる、十七年間一橋
大学、東京商科
大学において講義しておりまするし、
行政法学においては二十三年間、昭和十年以来今日の一橋
大学において講義を担当しておりまするので、憲法学、
行政法学の専攻の立場から申し上げることでございます。また、
警察官職務執行法につきましても、私どもは専門の立場から平素講義をし、またいろいろな著書、論文を
出しているのでございます。今回の
改正法案は、もちろん最近に正確な条文は見たのでございますが、しかし、
警察官職務執行法につきましても、すでにかなり立ち入った注釈をも加えて、著書、論文を
出しておりまするから、本日申し上げますることは、格別私にとっては新しい材料、新しい議論を申し上げるわけではないのであります。そういう意味におきまして、別に政治に直接結びつくような特別な意味合いをもって申し上げる用意はないのでございます。初めにお断わり申し上げておきます。
そこでまず私の申し上げたいことは、現在の法案が合憲、違憲と、いろいろ議論がございまするので、違憲かどうかという点につきまして、憲法学の立場からまず簡単に所見を申し上げます。
この問題は、基本的
人権と
公共の
福祉というこの関係につきましても、新憲法の当初から繰り返し学界において、また
判例にもこの点が現われておりまするが、議論されておるところでありまして、決して今回に突然問題になるわけではないのでございます。しかし、重大な関係がありますから、簡単に要点を申し上げておきます。それは、憲法十二条、十二条に
公共の
福祉ということが出ておりまして、十二条では、
公共の
福祉の
ために各
個人は
自分の
権利及び自由を利用する責任を負う、
乱用してはいけないということが出ております。十三条では、
政府あるいは
国会において、立法なり
行政あるいは司法、これらの作用は、常に
国民の
人権を最大限度に尊重しなければならないが、しかし、これは無
条件ではないのであって、
公共の
福祉に反しない限りにおいて最大の尊重を必要とする、こういうふうにございます。ところで、このような
公共の
福祉というものを根拠にして、果して
国民個人の
権利を制限できるかどうか、この点につきまして学説は従来分れております。
一つの立場は、
個人の自由は憲法上絶対無制限である、
言論の自由、
集会の自由その他憲法で保障せられておりまする自由はすべて無制限である、もちろん二十二条とか二十九条のように、特別な
公共の
福祉の制限があれば、これは制限できるけれども、しかし二十一条の
集会、結社の自由のごとき、あるいは二十八条の労働者の団結権、団体
行動の
権利のごときは、全く制限できないのである、こういうふうに申す立場がございます。私はこの立場には実は賛成しかねるのでありますが、これはどうして一部にそういう学説があるかと申しますと、昭和二十年の十月四日に総司令部の覚書が出ておりますが、これは要するに、当時戦争について重大な責任のある、あるいは戦争を推進するような役割も果している
日本政府あるいは官僚、特に問題は内務官僚であったかと思いますが、文部官僚、内務官僚については、これは民主主義に対してはなはだ危険であるから、従って絶対にそういう
日本政府の立場で法令を作って取り締ってはいけない。けれども、これは決して無制限の自由を認めるものではなかったのでありまして、総司令部においていわゆるポツダム政令と申しましたが、総司令部の指令によって、わが
政府に必要ならば政令その他の法令を作らしめて、それによって取り締るのである。無制限の自由ということは法理上全く不可能な、あり得ないことでありまして、人殺しの自由、ど
ろぼうの自由、あるいは公けの
集会において人の名誉を傷つける自由、風俗を乱す
言論、あるいはその他
犯罪を扇動するような
言論は、
もとより新憲法においても保障していない。けれども、その
取締りを
日本政府の手によって、あるいは
日本の当時の
国会によって法令を作らしめ、そして行わせることがはなはだ危険であるから、総司令部が十分監督をし、必要とあらば総司令部の指令によって取り締ることができるのである、こういう立場で厳重な指令を
出し、覚書によってわが
政府並びに
国会の行
政権なり立法権を押えてしまったのであります。
この占領政策が賢明であったかどうか、私は必ずしも間違っていないと思うのですけれども、とにかく御注意申し上げたいのは、その結果として、
日本の
国会の
法律によって、正面から
公共の
福祉を
理由として、
言論、
集会などの自由を取り締ることは、占領中は絶対できなかった。けれども、総司令部の必要と認める場合は、御承知の団体等規正令のような、今日から見るときわめてきびし過ぎる
集会ないしは
政治運動の
取締りも、実際行われていたのであります。そのほか一々申し上げる必要はございませんが、そのように二十年の覚書がいろいろものをいって、従って、少くとも占領の初期においては、わが
政府なり
国会は、絶対に、憲法の保障する
個人の自由を取り締ることはできないという学説が、かなり有力でありました。しかし、この学説は、今申しましたように、
個人が自由を
乱用し、
権利を
乱用しても、なお憲法上は差しつかえない、こういう点において明らかに誤まりでございます。民法第一条でも、
権利の
乱用はこれを許さないとあるのでありまして、新憲法十二条においても、
権利を
乱用してはいけない。
乱用することは、これは憲法の精神に反するのである。その場合には、単に道徳的な責任を問われるだけでなくて、
法律的な責任を当然覚悟しなれけばならないと私は思うのであります。だから、絶対無制限の自由というふうなことは、今日比較的少数の学説であり、われわれの間では、今度の法案については
反対の
意見をとる
学者におきましても、そのような極端な議論は、おそらくはとんどとっていないと存じます。
この学説と正
反対の学説、これは
公共の
福祉という名目によって
国会が
法律をお作りになるならば、かなり行き過ぎた厳重な制限でも、憲法上差しつかえない、とにかく
公共の
福祉というのは、非常に弾力性のある、幅の広い
言葉であるから、これを広く
解釈をして、かなり思い切った
取締りも憲法上可能であるという学説も一部にございます。これは要するに、
国会が最高機関である、だから
国会が
法律を作れば、どのようなきびしい制限を加えても、一応憲法上は正しいのであって、
国民は
反対できないという、
国会の最高機関性を強調する立場でございます。考え方としては、あるいは
イギリス流の考え方かもわかりませんが、
イギリス人は
良識を持って、
国会みずから戒めて、行き過ぎのないようにしていると思うのでございますが、とにかく
公共の
福祉を非常に広く考える。この立場も今日学説がなくなったわけではありませんが、私どもの考えるところでは、やはり比較的少数であろうと思います。
従って、比較的多くの
学者は、その中間の立場をとっておるのでございまして、基本的
人権、
個人の自由を尊重すると同時に、他方においては
公共の
福祉の制限も考える。その場合に、重点と申しますか、力の入れ方をどこに置くかと申しますと、やはり通説では基本的
人権、
個人の自由の方に重点を置くのでございます。これはわれわれも当然と思うのであります。
従って、要約いたしますると、
個人の自由は、憲法十二条にありますように、最大限度に尊重する。従って逆に、
公共の
福祉の
ためにする制限は、最小限度でなければならない。この原則と例外と申しますか、この点は大体一般に認められておるし、また
判例においても
承認されるところであります。この点で、
公共の
福祉、そういう狭くしぼって
解釈をした意味の
公共の
福祉に明らかに反する場合には、制限を加えることができるというふうに説明する
学者と、そうではなくて、
公共の
福祉という
言葉を特に
誤解があるから避けて、
個人の自由には、その本質的な内在的な制限がある、その制限を越える場合には、
個人はやはり
法律的に
取締りを受けるというふうに申す
学者もあります。私は、これはどちらも大体同じことをいっておるのであって、著しい違いはないと思います。
ついでに最高裁判所の
判例をつけ加えておきますと、本日は真野前判事がお見えになっておりますから、いずれお話があると思いますが、昭和二十九年十一月二十四日の最高裁判所大法廷の
判決では二十四年の新潟県の公安条例を合憲と判断しております。さらに最近、三十二年三月十三日の大法廷の最高裁判所の
判決でございますが、憲法二十一条の保障する表現の自由といえども、絶対無制限のものではなく、
公共の
福祉に反することは許されない、こういうふうにございまして、抽象的な表現であれば、まずわれわれはこれに賛成なのでございます。
そこで、これに関連いたしまして、一体
公共の
福祉という
言葉が、あるいは現在の法案におきまする「
公共の安全と
秩序」とかいうふうな
言葉はあまりに抽象的ではないか、だから法案にそういう
言葉を用いるのは不適当であり、あるいは憲法上疑義があるということをしばしば伺うのであります。私は実はそうは思わないのでありまして、たとえば公安条例をごらんになりますと、これは東京都条例その他各地に例がございますが、東京都の公安条例では、公安
委員会は、
集会その他の実施が
公共の安寧を保持する上に直接危険を及ぼすと明らかに認められる場合のほかは、これを許可しなければならない。」とか、その他これに類する
言葉がございます。
公共の安寧保持という
言葉は、比較的普通に使われておる。あるいは
警察法第二条は、御承知の
通りと思いますが、その中に
警察の責務として、「その他
公共の安全と
秩序の維持に当ることをもってその責務とする。」とあります。あるいは消防法一条におきましても省略いたしますが、その中に、「
安寧秩序を保持し、
社会公共の
福祉の増進に資することを目的とする。」とあります。出入国管理令におきましても、「法務大臣が
日本国の利益又は公安を害する行為を行ったと認定する者」について、国外に退去を強制することができるとある。こういう用語例が、まだほかにもございます。
ところで、私どもは、
公共の
福祉、特に
警察関係の法令における
公共の安全とか
秩序の意味は、先ほどから申し上げましたように、狭い意味に
解釈をしているのでございます。あいまいな
言葉のようでありますが、しかし、これはできるだけ狭く考える。特にこの点で国の機関の存立とかあるいは運営に関する
法秩序の維持、こういう問題は、もしそれが
犯罪を構成する場合は別でございますが、そうでない限りは、原則として取り締るべきではない、これはデモクラシーの要求でございます。
公共の
秩序とか公益とか
公共の安全とかいう
言葉の中には、だから
政府自体の利益というものは一応含まれないのであって、一般公衆、
社会公共の利益、不特定多数の公衆の利益というものを考えるわけであります。ただしこの場合に
一つ、蛇足でございますが、ごく少数の特定の
個人の利益というものは必ずしも含まれない。それはむしろ
個人の自由でありまして、本来は、国家が、
公共の
福祉あるいは
公共の安全、
秩序というふうな
言葉で、権力によって介入すべきことでない。でありますから、たとえば
個人が人から借金していじめられておるとか、あるいはかぜをひいて病気になる、そういうふうなことを国家が
公共の
福祉というようなことで権力的に制限を加えることはできないのであって、ただその病気が単なる通常のかぜではなくて、きわめて伝染性の強烈な法定伝染病のような場合でありますと、これはひとりその病人だけではなくて、周囲の多数の人の衛生にはなはだ危険があるから、そういう場合には、
公共の安全、
秩序という概念の中に入ってくるのでありまして、そういう意味において
政府自身の利益を含まないし、またごく少数の特定の人の私的な利益というものも含まれない、そういうふうに一応
解釈しております。
そこで、次に特に問題になりますのは、このような
公共の
福祉をしぼって狭い意味に考えまして、それに反することが明白な場合に、果して国家はどのような形でその行き過ぎ、違反者に対して規制を加えることができるか、この点で実は昨日あるいは鵜飼君からお話があったかと思いますが、一方の
学者は、司法権による事後の規制によるべきである、平たく申しますると、何か騒ぎが起きたときに、けが人が出てから後にその違反者をつかまえて罰するとか、あるいは被害者の立場で加害者に損害賠償の請求をし、裁判所によって刑事の
判決ないしは民事の
判決を求める、期待する、こういう司法権による事後の規制で足りる、またそれ以上に出てはいけないという学説がございます。もう
一つのわれわれの立場はそうではなくて、必要やむを得ない最小限度においては、行
政権による事前の規制も
憲法違反ではない、こういう立場でございます。この点はやや立ち入った問題でありますが、法案に関連がございますから
一言説明を加えたいと思います。
それは、われわれの考えでありますると、裁判所ないしは司法権の本質というものにつきましては、これは
国会の民主的なコントロールを必要としない、
国会が監督するということはできないのでありまして、言いかえれば、
国会の多数決なり多数の意向というものによって批判を受けないで、厳正中立に
——だから性質上は、独立の機関で判断をし、行使することが必要であるとされる種類の作用、これが民主主義の
もとにおいては一応
国会から独立な裁判所によって運営される司法権の本質でございます。従って、司法権の
中心は民事、刑事ないしは
行政事件の裁判にある。他方において、司法権には限界がございます。それは常識的にもおわかりかと思いますが、訴訟
手続による
一つの大きな制約でございます。つまり
手続が非常に慎重であり、それだけに時間がかかる。先ほども
公述人の方の御
意見がありましたが、
判決を下すまでには、ことに
判決が確定するまでにはかなりの時日を要するのであります。従って、この点で事後の規制ではあるが、予防的な措置は性質上不可能であるのみならず、特に裁判所の訴訟
手続に劣る結果としまして、その訴訟に関係する当事者の範囲においてのみ原則として司法権、裁判所の判断が権威を持つのであります。従って、原告なり被告なりないしは被告人以外に法廷に直接現われない一般の背後にある
国民の多数は、裁判所によって救済を受けることはない。そこまでは司法権の手が届かないものでございます。たとえばその点で、
判例にもございますが、裁判所がある
法律を違憲とする、あるいは公安条例を違憲とすときに、その判断が一般的な効力を持つかどうか、こういう点につきましても、これはやや立ち入った議論でございますが、実際の裁判官は、その訴訟当事者の範囲においてのみこの違憲という判断が権威を持つのであるというふうに、慎重な態度をとっておられます。でありますから、平たく申しますと、職務
執行法の適用において何か問題が起きる、そういう場合に、その実際にけがをした人ないしは違法な
取締りを受けた者、そういう人は訴訟になって救済を受けますけれども、しかし訴え出なかった一般の被害者、あるいはそうでなくて、けがをするかもしれぬというふうな、そういう不安の念にかられる一般公衆の立場というものは、司法権の手の及ばない、
保護の届かないところであります。
反対に、行
政権の特色は何にあるかというと、これは明らかに
国会のコントロール、支配の
もとにあるのでありまして、
政府は
国会に対して連帯責任を負っておるのでありますから、民主政治の原則は、行
政権を通して
法律が
執行され、公益が実現される、ここに司法権との非常な違いがでございます。
そこで、
警察関係の法令におきまして、一体司法権による監督、たとえば裁判官の令状がなければ
警察権を発動することができないというような考え方でございますが、これがどの
程度に憲法上は要求されるか。私の考えでは、もしかなり広く
——たとえば一例を申しますと、憲法三十五条で、住居の立ち入り、あるいは家宅の捜索、そういうふうな問題につきまして、常に行
政権は裁判所の許可状がなければ発動できない、令状がなければ発動できないというふうに厳格に三十五条を解しますと、これは
行政目的、
行政作用というものが全面的に裁判所の監督を受けることであって、もはやその限度においては
国会の民主政治のワクからはずされることになる。
国会がかりに内閣を非難し、
末端の
行政機構あるいは
警察機構の行き過ぎに対して非難を加えるといたしましても、しかし、それはすべて裁判官の令状によるものである、令状がなければ何もできないのである、こうなりますと、もし行き過ぎのあった場合には、その責任はほとんど裁判所が負うことになるはずである。しかし裁判所は
国会に対して何の責任も問われない立場でございますから、そうしますと、
国会としては、その
行政の行き過ぎに対して、直接監督を加えることができなくなる。こういう点で、私は一応裁判所の令状を要する場合には限度があると思うのでございます。三十五条の憲法の
規定は、直接には、刑事の作用
——犯人、
犯罪を捜査する刑事の作用に関するものであって、たとえば消防の職員が消防法によりまして
民衆の家あるいは工場などに立ち入って調べる、あるいは保健所の職員が薬事法により、ないしは食品衛生法によって立ち入るというふうなことにまで許可状を要するということは、実際にやっていないし、またその根拠、
理由はないと思うのでございます。ただしかし、
警察法の場合には、
一つの問題は、
犯罪の捜査というものにある
程度の関連を持っておる。初めからその目的で行いまする司法
警察はもちろんでありますが、しかし、一般の
行政目的の
ための
警察でありましても、時として
犯罪を摘発する手がかりとなることがあります。そういう意味において、私はできるだけ慎重に、従って、なるべくならば、そういうふうな場合に許可状をとるということも考えられるわけでございます。しかし、それらの点で無
条件に、裁判所がよろしいと言うまでは
警察権は行使できないということになりますと、これは
行政の
国会に対する責任ないしは行
政権の本質は事後の規制ではなくて、むしろこれは特定の被害者の
ためではなくて、一般の公衆の
ために行わるべきもの、こういう行
政権の本質から申しまして、行き過ぎがある、
解釈において私は必ずしも賛成できないと思うのであります。特に職務
執行法のごとき、これは大体
警察急状権と申しますか、急迫の場合に行われる応急の措置、手当でありまして、暫定的なものであります。先ほども御
意見がありましたが、
不良少年を教化するというふうな、教育していくという、そんな大きな
使命は現在の
警察でとうてい果せるものではない。いわば青
少年の不良化防止ではなくて、そのごく入口の、ただ応急の措置しか、
警察は本来できないのであるが、その応急の措置ができなければ、本人の
ためということだけでなくて、周囲の一般市民の被害を防止することもしばしば困難である、もしそれがあらかじめ裁判官の令状を求める余裕が十二分にあるという場合には、もちろん立法論としましては許可状を求めるということが必要であろうと思いますが、急を要する場合には性質上不可能である、そういう場合には、私は憲法の
人権と
公共の
福祉の関係から申しましても、最小限度における規制は許されるというふうに思うのでございます。この点は刑事訴訟法において緊急逮捕という
規定があり
——、これも鵜飼
教授は
憲法違反の疑いがあるというようなことを書いておられますが、最高裁判所の
判例では緊急逮捕は合憲であるというふうに示されております。もちろん
判例についても少数
意見がよくあるのでありますから、別にそれが絶対に正しい
解釈であるとも言い切れませんが、私は緊急逮捕のような
制度は一応合憲だと考えております。
そこで、時間がございませんが、一応簡単に法案の
内容につきまして、二、三気づきました点を申し上げたいと存じます。
第一の、第二条の職務質問の
規定でございますが、この点でしばしば所持品の提示、一時保管というふうなことが行き過ぎであるというふうな御議論がございますが、一応私の見解は、これは差し押えなり捜索なりとは違うということが明示されておりますから、強制的なものではない。しかし、それならば無意味ではないかという御議論もあるかと思いますが、公務として扱うことが
警察官の職務上、かりにたとえば傷害の事実があったような場合に、それが公務として、特別な手当、
保護を受けるというふうな意味で、また一般
国民としまして職務質問を受けるようなものについて法案に
規定するような所持品の提示については、これは
警察官の職務として行うことが望ましいと私は考えますから、強制的なものであってはいけませんけれども、現在の法案の
通りであれば格別問題はないと存じます。
第三条につきましてはいろいろ御議論がございましょうが、たとえば迷子でありまして、迷子のようなものについて、本人の拒む場合には
保護はできないという
現行法の
規定は、私ど
もとしてははなはだ不審にたえないのであります。これも
解釈上、実は私どもは
改正を要せずして、迷子、ことに意思能力のないような子供が拒否した場合にはそれは拒否と認めない、認めることができないという
解釈を私自身とっておるのでございますが、現在の法文ではこの
解釈にははなはだ疑問が出てくるのでありまして、そういう意味において本人の拒んだ場合を除くというその考え方を変えたことは、私は賛成であります。
三条の二につきましては、十八才未満の虞犯
少年について、特に
少年につきまして
保護と予防の
規定がございますが、これもやはり直ちに許可状を求めなければならないという考え方でございますから、これも先ほどの緊急逮捕の
制度などと比較すれば、一応これで問題はないと存じております。
四条につきましても、これは別に逮捕とかあるいは
犯罪の
取締りとは違いますから略しまして、五条の点は「
公共の安全と
秩序が著しく乱される虞のある」ときという点がしばしば議論になりますが、これは
犯罪があるときに限るのであり、そうして急を要するときでありますから、大体アメリカの
判例などで正確ではありませんが、明白にして現実の危険あるときというふうな考えにかなり近いものである。
判例通りであるかどうかは存じませんけれども、この
程度にしぼっておけば、一応違憲の疑いはないと思うものでございます。
六条につきまして、しばしば公開の施設に対する立入権が行き過ぎである。研究室を捜索されるおそれがあるというような
発言もかつて学術会議でございました。しかしこれはわれわれの常識に反するのでありまして、公開の施設と申しますのは、不特定多数の人、つまり公衆が自由に出入りできる場所であり、その点は
現行法の「多数の客の来集する場所上と同一の意味であると思うのでございます。なぜそれならば
改正するか、それは当局に伺わなければわかりませんが、客というと何か金でも
出して切符でも買って出入りするもののように
誤解されるかもしれません。無料でただで自由に出入りする場合にも、不特定多数の公衆の自由に出入りできるところは公開の施設というふうに考えるのでありまして、実質的には
現行法とかわりがないというふうに考えております。
〔
委員長退席、亀山
委員長代理着席〕
最後に、以上法案についての二、三の点を申し上げましたが、しからば
改正法案が
警察権を
乱用するおそれがあるかという点でございます。実は終
戦前、昭和十年に、美濃部先生の天皇機関説に関連いたしまして、私どもは先生の助手を勤めており、先生の講座の
あとを受け継ぎまして東京商科
大学の
行政法を担当したのでございますが、その点で当時の内務省、さらには文部省からかなりある意味では弾圧を受けた覚えがございます。すでに古いことでありますが、その意味において
警察権の
乱用に対しては、身をもってそのおそるべきことを経験しておるものでございます。けれども、それならば今回の
改正法案が当然旧憲法時代のような
警察権を復活するものであるかどうかと申しますと、私は公安
委員会の
制度を一応信頼するものでございます。二十九年の
警察法
改正におきまして公安管理
委員会という案が一部にございましたが、私はこれは公安
委員会の方にすべきであるというふうに考えておりまして、この
現行法は結論において賛成でございます。また
警察官の教養の点がしばしば問題になりますが、もちろんこの教養は十分に考えるべきことでございますけれども、私のおそれるのは、むしろ幹部が
警察一本でほかの職務に従事しない、そういう現状を憂えるものでありまして、幹部の人事交流が必要である。そうしませんと、かつての士官学校のような軍以外のことは何も知らないという非常識な人間になりやすい。今日の
警察の幹部は、終戦後採用せられましたものは、大体が職階制によりまして
警察以外の畑のことをほとんど知らないものでありますから、そういう意味において、将来はこの点を特に改めるべきものと考えております。
時間が参りましたから、私の公述は一応これをもって終ります。(拍手)