○
片山委員 それらの問題について、積極的な
政府の
憲法擁護の活動を、尊重の
意思表明を願わなくちゃならないのでありますが、それらはおしまいに、一まとめにして
総理大臣の所信を伺うことにいたします。ただいまの
お話はまことに不十分であって、満足をするわけにはいきません。
進んで今度は、
基本的人権の問題についてお尋ねをいたしたいと思います。先にも申しました
通り、
主権在民、
国民主権、
国民は
主権者である。これには根底がなくてはなりません。からっぽで
主権者であるというわけではありません。その根底、その背景、うらはらになっておりますものは、言うまでもなく
基本的人権の擁護であります。
国民主権は、
国民の
基本的人権を擁護することによって保障されておるのであります。
基本的人権は、
主権の存在についての
一つの保障であります。よってわが
憲法も、他の世界の
憲法と原理を同じゅういたしまして、
人権の尊重を基本として戦後初めて組み立てられたる
民主憲法、こういうわけであります。この
人権擁護の世界歴史的な経過、歴史的な発展ということが、やはりこの
憲法のうちに表われて、その歴史の流れ、世界における
人権擁護の発展の順序に応じて、わが
憲法も作られたものであるということがはっきり記載せられてあるのであります。
長いこと申し上げることを避けまして、要点だけ申してみたいと思いますが、それはこの
憲法の中に表われている前文であります。この前文の中の一節に「わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、」とあります。わが国全土、
日本全土にわたってもたらす自由のありがたさを、自由の恵沢を確保し、さらに、中略をいたしまするが、
政府の行為によって再び戦争の惨禍が起らざるようにすることを決意して、
主権が
国民にあることを定めて、この
憲法を確定すると書いてあります。この
憲法の確定の根底は、自由の恵沢、自由の恩恵、ありがたさを十分に確保いたしまして、そして
主権が
国民にあることをここに確認した
憲法でありますから、
基本的人権の擁護というものは、非常に絶対的なものである。
制限をつけてはいけない。半分だけ与えるというようなことはいけない。円満で、全部的なものでなくてはならない。しこうして、「これは人類普遍の原理」であるとまで書いてあります。人類普遍の原則としてこの
民主主義、しこうして
民主主義が、政治の具体性を持って
国民主権となり、
国民主権は
基本的人権の上に安定をするのである、これが人類普遍の原則である、こういうふうに明瞭に書いてあるのであります。これをくつがえしてはならない、
あと戻りさせてはならないということで、この
憲法はさらに進んで、あらゆる努力を払ってこれを擁護し、支持し、その
基本的人権の後退を防止しようと努めておるのであります。ややともすればこれが後退される。今度の
警職法の
改正案というものは、
基本的人権の後退であるということは、もう世論の一致しておるところであります。後退して切りくずされる。切りくずされることを防止するために、あらゆる努力を払わなくてはならない。つまり
国民全体が
主権者であって、取り締られる客体ではないのであります。
自分たちが
国家の秩序を保って、
公共の福祉を念願して、
国民の幸福を実現しようとするために不断の努力を払う、こういうふうになっておるのであります。これを一々
条文に当てはめてみますならば、きわめてこの
考え方の正しいことが、そういう順序で努力していることが、よくわかるわけであります。
ごく顕著なものだけをあげてみたいと思います。先ほど申し上げました
通り、第十章の「
最高法規」、これは他の国の立法例に少い個所であります。非常に格上げをいたしております。他の
法規よりも一段と高き
国家の基本
方針である、中外に向っての
国民の
方針である、宣言である。私はこれを
国民宣言なりと
考えるのであります。こういう
最高法規という点を掲げて、そうして侵すことのできない大きな権利であるということを、その
内容にうたっておるのでありますが、まず第一段に第十章として、三カ条からなりまするきわめて重要なる、後退を防止し、
基本的人権はどこまでも完全に傷のつかないように守り通していかなければならないということを明らかにいたしておるのであります。
さらに「この
憲法が
国民に保障する
基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の
国民に与へられる。」侵すことのできない
——不可侵の永久権利であるということを、
憲法の条章「
国民の権利及び義務」の中に書いておるのであります。第九条は御
承知の
通り「戦争の放棄」、その次の第十条からは、他の国の立法例と違いまして、驚くなかれ三十一カ条からなりまする
人権保障です。そんなに書かぬでもいいじゃないか、訴訟法に譲ってもいいじゃないかというような
議論が、立法当時あったほどでありまするが、しかしながら、じゅうりんされて土下座させられておりまする、あるいはつんぼさじきにほうり込まれておりまする
国民の権利を十分擁護して、しかもこれを後退せしめないように、
あとじさりを防止する
国民の努力を要求するために、格上げしただけじゃなく、永久の権利として現在及び将来の
国民に与えられたるものであるということを明記して、その確保をはかっていかなくてはならないという
意味から書かれたのであります。
第三には、これは「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去
幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の
国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」今度は「信託」という言葉を使って二度繰り返しておるのであります。
法規において二度同じことを繰り返すということは珍しいことであります。重複を避けて、一ぺんでわかっておるじゃないか、一回きりでいいじゃないかといって、繰り返して書くことは立法例においては避けて、一回で明白にしておるのにもかかわらず、重要事項であるという
意味で、しかもなおこれをエンフアサイズするために、過去
幾多の試練に耐えて、弾圧を食った、
幾多のイバラの道を通らなければならなかった
人権擁護のために、その「試練に堪へ、現在及び将来の
国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」不可侵の永久の権利ということを二度書いておりますることを、大いに、注目をしなければならないわけであります。
さらにまた第四番目におきましては、今度は
国民は
主権者である
建前から、その
建前を保持するために、
国民の不断の努力によってこの権利を保持しなければならない。
国民に責任を負わせる、
人権擁護の責任があるのである。
人権擁護の第一の責任は、
国民不断の努力である。
国民は、これは
自分のものだから守り通そう、こういう心持を持って動いておるのであります。そうして、さらに、言葉を続けて
憲法の条章は、「
公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」
国民に責任がある。
公共の福祉は警官の責任以前に、
国民自身が
公共の福祉のためにこれを利用する。これが
天皇主権制における
警察制度と書き方の違っておるところであります。
根本的に構想が違っております。思想が違っております。
国民が
主権者となって
自分たちの福利を
自分で増進しよう。そのために必要なものは何かというならば、
基本的人権である。かくしてこそ
国民主権がその
地位を安定させて
国家の秩序が保たれていくのである、こういうふうに書いてあるのであります。
もう一度これを二言で要約して申しますならば、
国民がみずからのものとして不断の努力で育て上げていかなければならない
基本的人権である。
公共の福祉のために
基本的人権を利用しなければならない。活用していかなければならない。そうして
公共の福祉を実現しよう。元来この
公共の福祉あるいは
公共の利益、安寧維持とかいうことについては、いろいろの学説があります。私の乏しき
研究でありますけれ
ども、これを言い出したのは徹底的な
国民主権論者でありますルソーであるといわれております。ルソーは、
天賦人権説、民約論で、もう徹底的な
国民主権論者であることは御
承知の
通りであります。それゆえ彼はこの言葉を出しまして、
基本的人権を最大限度に尊重する
建前で、福祉を利用してよき社会を作りたい
——社会保障とまでは行かなかったのでありますが、彼は「
公共の福祉」という言葉を最初に使った学者であると今日いわれておるのであります。そういう
意味から申しますならば、
公共の福祉は
国民の不断の努力と
国民の利用とによって、
国民の責任においてこれを大いに発揚する。しこうしてそのために
基本的人権は守り通していかなくてはならない、そのために
国民主権を実現する、こういう段階で進んでくると思うのであります。
元来、
基本的人権なるものは、たなからぼたもち式にひょこっとくるものではないのであります。わが
憲法もこれを承認いたしまして、多年の試練に耐えて不断の努力で、与えられたものではなくして、自由を求める人間の最大の奮闘と努力によって獲得されたものであるということを明らかにいたしております。一応これが成立をいたしたといたしましても、常にこれを擁護していかなければならない。常にこれを育て上げてこれを活用して努力を払っていかなければならない。こういうように絶えず育て上げていかなければならない責任を
国民自身が持っておるという書き方が、
国民主権の
憲法、従ってこれから来たる
警職法でなくてはならないわけでありますにもかかわらず、今回お出しになっております
警職法は明らかに
矛盾しておるのであります。わが
憲法は、
国家主権論または
天皇主権論の
立場から
基本的人権を規定したものではなくして、
主権在民の
観念を明らかにいたして、そうしてすべての
法規に対して指令を出しておるわけであります。そういう
建前でありますから、もうこの
警職法は
現行法が限界です。これ以上いじくり回して
改正をして、
警察官の権限を拡大しないことにはどうもつかまえられない、あるいは治安の維持ができないというような糊塗的な
枝葉末節的なものではないと私は思うのであります。
さらに理屈ではなくして、従ってわが国の
憲法の
制定も、世界の歴史がこれに当てはまるわけでありますけれ
ども、この
基本的人権というのは、人類多年の不断の努力の集積であり、積み重ねであるということは、今ここで申し上げるまでもなく、すでに御存じの
通りであります。もうくどくど説明の要はありません。まず、
一つの例だけをとってみますならば、一二一五年にできましたマグナ・カルタでございます。人民の権利を保障する、人民の権利を確保する、弾圧はしない、じゅうりんはしない、マグナ・カルタに署名をする、一六〇〇年英国における権利
請願なり権利章典、これらの
幾多の
国民の努力の積み重ねた成果が、今日の常識の法典といわれるコンモン・ロウの原則が不文法として英国においてはでき上っておりまするということは
周知の事実であります。でありまするからして、一言一句よくこれを翫味してむだなことは書いていないのであります。ただ形容的な美文を連ねておるわけじゃないのでありまして、不断の努力、福祉の利用、人類多年の試練に耐えて侵すことのできない永久の権利としてこれが確保せられておるという
基本的人権は、どうしてもこれは国政の上で尊重していかなければならないのであります。
今回のこの
警職法は、
国民を取締りの客体と見て、最大の尊敬どころの話じゃない。つまり
警察官の認定で
疑惑と不信を
国民に投げつけて、犯罪の嫌疑の名によって
国民の自由を拘束せんとするものであります。まことにわが
日本における多くの先覚者が獲得いたしましたこの自由の権利を、基本的な人間の権利を、単なる一片の
疑惑を持ってじゅうりんする。
学術会議が立ち上ったのもこの
ゆえんでありましょう。キリスト教団体が信仰の自由を叫んで立ち上ったのもこの
ゆえんでありましょう。そういうわけ合いでありますから、この
改正法は旧明治
憲法下における思想をそっくりそのまま出したものである。
人権擁護、
基本的人権の尊重を土台としてでき上っておりまする
国民主権下においては、こんな
改正法は出すべきものじゃない。もう筋が
根本的に違っておる、構想が違っておるのでありまするから、私はそういう
意味をもちまして、ここに
憲法違反の理由をもちましてこの
警察改正法というものは
撤回すべきものである。のみならず
公共の安全と秩序という名のもとに勝手な解釈をして、
国民の自由、幸福追求の権利を侵害し、集会、言論、結社の自由を侵害し、あるいは勤労者の団結や団体交渉権の侵害をするということりを
決議するのも無理はないと思うのであります。
これらの各団体の
決議を要約してみますと、こういう
表現を用いております。本法は
国民の
基本的人権、特に身体の自由、集会、結社の自由、居住及び所持品に対する不可侵の原則に対し、重大なる侵害を与えるおそれがある、よってもってこれに
反対を表明する。本法は
国民主権の
立場に立つわが
憲法の
基本的人権を侵害するものであって、違憲なりと断ぜざるを得ないのであります。
首相のこれに対する弁明あるならば伺いたいし、これに対して押し切ろうとする
考えの那辺にあるかを明らかにしていただきたいのであります。