○佐野委員 私は、地方自治の本質と
町村合併促進法の
目的という観点から問題を
考えておるわけでありますが、その
意味から
考えて参りますときに、特に地方自治の本旨から
考えて参りますと、非常に問題があったのではなかろうか。特に、
町村合併促進法の
目的並びにその場合における国の行政の関与、この点を
考えて参りましても、非権力的な行政関与としてこの
法律が成り立っておる。しかも時限立法として
法律が提案され、国会を通過しておる。こういう
意味から
考えましたならば、国の行政は、あくまでも非権力的にこれを進め、援助、助言をする。こういう
立場を堅持するのが当然でなかろうか、かように
考えるわけであります。私の一番おそれますことは、
法律がひとり歩きをするということがよくいわれております。だからこそ、ここには
目的が明確でなければなりません。明確なる
目的の規定のもとに行為が許される。しかるにかかわらず、
町村合併におけるいろいろな態様を見て参りますときに、おそらくだれよりも
自治庁の皆さんが御
承知の
通り、いろいろな紛争ができて参った。画期的にわずかの期間において
町村を減少した。その反面に、大臣が今言われましたように国家の意思が働いておったのだ。しかしながら、
町村合併の
法律を読んで参りましても、国家が権力的に進めるということは許されないものだと私たちは
考えるわけです。しかしながら、実際やられて参りましたことを見て参りましても、いろいろ再建団体の内容を見ましたときに、
町村合併をするために数百万円の金を使っでおる。村の三役あるいは地方有力者に、買収という言葉が語弊があるといたしますならば、いろいろな
意味で使われておったことが明らかになって参っております。
第二に
考えられますことは、やはり
自治庁の意思あるいは県の
方針、国家の
方針、こういうことが強く打ち出されて参っておる。ですから、現在の予定しておる起債を取り上げる、あるいはまた
町村合併のあれは六条、十三条、十五条、こういうのを悪用、拡大解釈いたしまして、特に補助金をやらないとか、あるいはまた交付金におきましても、これに対して
考えがあるのだ、あるいはまた起債にいたしましても
考えるのだ。こういう威嚇的な言辞のもとに
町村合併というものが進められて参った。これも事実であろうと思うのであります。
第三として、やはり
県当局あるいは村当局なりが、いろいろめんどうになって参りますと、国家警察権力を動員いたしまして、
町村合併を一気に押しやる、こういうためにいろいろな問題が起きて参っておることも御
承知の
通りだと思うわけであります。こういう形をもってしたからこそ、画期的に
町村合併ができたのだとも逆にいえるのではないか、かようにも
考えるわけであります。しかし、私の一番おそれますことは、地方自治の本旨から
考えて参りますならば、少くとも先ほど大臣がお述べになりましたごとく、
住民の自主的、自律的な精神に基いて
運営されねばならないし、そういう形において
町村合併は進められなければ、組織
運営を能率的にするという本来の
目的から逸脱するということにもなるわけでありまするし、この点につきまして、私は、非常に遺憾だった。かように
考えておるわけであります。と同時に、そういう結果として、
町村合併が進められた場合において現われてきた問題につきまして、たとえば行政
局長は、
町村合併をやって表彰を受けたところはすべてよくいっておるのだということがありましたけれ
ども、富山県の場合におきましては、まっ先に県自体が全国の表彰を受けておる。各
町村長はみんな表彰を受けておる。非常にすぐれたところなのでありますけれ
ども、たとえば出て参りました
一つの郡があります。ここには二十幾つの
町村があった。しかも漁業と山林と、非常に平和な富山県の
北海道といわれるような一角があったわけでありますが、この一郡が全部市になってしまった、一体こういうことが果して
住民の意思であったかどうかと
考えられると、よくおわかりになるだろうと思うのであります。そこで問題として出て参りますことは、そういう原始産業を
中心とした純然たる山村部落を無理やりに一郡全部一市にしてしまう。こういう行き方が表彰に値する模範的なところだといわれるわけでありましょうけれ
ども、しかしながら、その場合におきまして、市民税の問題がいろいろ問題になっております。その部落におきましても、非常に裕福な部落もあったし、山村五、六カ村を
合併いたしますならば、優に自主的に
運営ができるという条件にあったにもかかわらず、全部やってしまった結果として、氷見市は赤字団体になった。それはそれといたしまして、たとえば市民税の五つの方式のうち、氷見市も、やはり第二方式のただし書きをとっておるわけでありますが、このただし書きをとっております結果といたしまして、同じ市である高岡市とこの氷見市の
住民税にどういう
関係が出て参っておるかと申しますと、たとえば二十五万円の所得のある人が、第二方式のただし書き、扶養家族三人として、氷見市の場合は三千九百十円であり、隣りの高岡市は四百円である。こういう
地域的な不均衡が出て参っておるわけです。あるいはまた三十万円の所得のある人の五人扶養家族を見て参りましても、氷見市の場合は五千四百七十円、高岡市の場合は五百四十円。同じ土地で隣接の同じ市がこういう状態になっておる。しかもここにおいては、農民、漁民を
中心にした零細な人たちの集まりであるわけでありますけれ
ども、こういう過酷なる徴税方式をとらなくちゃならないといたしますと、非常に問題が出てくるのじゃないか、かように
考えるわけであります。
私は、
町村合併の中においても、こういう問題がやはりずいぶんあるんではないかということと、もう
一つ関連いたしまして、この
町村民税の徴収に対する五つの方式、
地域的にこのような不均衡をもたらすところの方式に対しまして、どのように
考えておられるか。それがまた県民税にもこのまま反映して参りますから、非常に不均衡が拡大されるというのが現状となっておるわけでありますから、これらに対する御意見をお聞かせ願いたいと同時に、私は、税の問題に触れましたので——
自治庁の見解としてとっておられる現在の地方税は、租税受益説を
中心として構成しておられる。租税受益説という学説は、資本主義の初期においては、世界各国で論議されたかもしれませんけれ
ども、もはや今日の
段階においては、古くかびた理論となってしまっておる。こういう理論に基いて、地方における自主財源を与えるという名目のもとにこれを拾い出してこられた。ですから、租税受益説は当然応益原則というものを作り出してくるわけでありますし、応益原則のもとにおきましては比例制をとる、こういうふうになって参るわけであります。こういうことが非常に多くの矛盾を来たしておるのではないか。そのために租税公平の原則すらも逸脱した今日における地方税のあり方が示されて参っておるのじゃないか。こういう点についても、
自治庁の方の御見解をお聞きいたしたいと思うわけであります。