○長谷川(保)
委員 そんな研究じゃだめですよ。あなた方は形式的におそらく調べていると思う。ここにもデータが載っておりますけれ
ども、ノー・ユースというのがたくさんある。(「そんなことをしているから、アメリカはソ連に勝てないのだ」と呼ぶ者あり)使ってないのです。そういうことをみなやっておると思っているでしょうが、大きな間違いです。ノー・ユース、ノー・ユースとたくさんあるのです。さっき言ったように、三十年前やったけれ
どもだめだ、やらない、戦後やってみたがだめだ、やらない、ノー・ユースがたくさんあるのです。おそらくあなたは
教育区のことを言っておるのでしょう。
教育区は御
承知のようにカリフォルニヤだけでも三、四百あります。その
教育区のことを言っているのでありましようけれ
ども、よく調べてごらんなさい。そんなことはありませんよ。
大学はやっております。アメリカの
大学ではライセンスがない。同時にこれは著書と研究が必要なのです。研究を公表する客観的なものとして著書というものが出てくる。だから
大学の名声が上ったかどうか、その
先生がどのくらいの力があるかということは学長にわかる。
勤務評定は
大学の
先生はやっておりますよ。それと間違えておるのじゃありませんか。しかしこれらのことは時間もありませんから、いずれまた十分議論することにいたしましょう。
しかし今の
大臣の
答弁はがまんならぬ。いいですか。今の重大な問題は、制度を守るかどうかということではありませんよ。制度なんか犬に食われてしまえ、制度が何だ。問題は日本
国民の幸福を守るかどうかということです。日本の
ほんとうの民主主義の
教育を守るかどうか、制度なんかどうだっていい。制度や
大臣の三人、五人はどうなってもいいのです。問題は日本
国民の幸福を
ほんとうに守るかどうかということなんです。それを守るために、今日の
教育危機をどうやって突破するか。制度なんかどうだっていいですよ。そうじゃなしに、今どうやって日本
国民の幸福を守るか、日本の民主
教育を守るかということが根本なんです。そこに立たなければこの葛藤を解く道はないのですよ。文部省は制度を守るというのだが、
日教組の方は、
法律違反だ、あくまで平和憲法に従ってやるのだ、平和憲法を守るのだ、民主
教育を守るのだ、これでは葛藤を解く道はないじゃないですか。どこを土台にするかといえば、日本
国民全区体の幸福をどうやって守るか、日本の子供たちの
教育をどうやって守るかというところを土台にして、今までの一切のいきさつを捨てて、虚心たんかいにこの重大な段階に対処する。そうでなければ、これを解く道はないにきまっておるじゃありませんか。私はそういう
立場から今の
答弁に全く不満です。そういう気持でいるから、
教育の危機がきている。これは根本的に
考え直さなければならぬ。
もう一歩私は退いてさらに
考えたい。それは今日の
教育の危機を持ち来たしている
原因として、あげられるのは、文部省があまりにも
日教組との対立に急で、あるいはあなた方から言わせれば、それを逆に言うかもしれない。しかしいずれにしても文部省があまりにも
日教組との対立に急で、
日教組との共通の広場を重んじ、これを拡大していくという努力が見られない。これではどこまでもけんかですよ。なぜ
教育の広場をもっとお互いに尊重して、文部省は共通の広場を広げていくのに努力しないのか。それを広げていくなら、そこに解決の道がある。今日まできたみたいなひどい対立はこなかったと思う。あまりに対立ばかりに急であって、共通の広場を求めようとしないのではないか。共通の広場は私があげるまでもなく幾らでもありますよ。あなたの方で言っているすし詰教室の解消、
日教組もすし詰め教室の解消と言っている。あなた方は今日
法律を守れと言っているけれ
ども、ある
学校教育法施行規則の十八条には、一つのクラスの定員は五十人以下を基準とするとありますが、守られていないじゃないか。私はアメリカに行ってネアの
大会に出てみました。クリーヴランドのネアの
大会に
出席したのですが、そこで
決議されたものは、一クラス三十人の
教育ではだめだ、先ほど
永山さんかが言ったように、これではとてもソ連に勝てない。どうしても二十五人にしなければだめだという
決議をしていますよ。三十五人の
教育をしなければだめだ。今六十人も六十五人もいて
道徳教育もへちまもありますか。ここに高見政務次官もおられますが、ついこの間もあなたの静岡県では六十四名ですか、そんなことで
教育ができますか。問題はまずそれを少くとも三十人以下にするということが、あらゆる
教育の根本ですよ。それならば
日教組は一生懸命やるでしょうし、あくまでも協力するでしょう。なぜそれをやらないか。わずかに五十人にするなんてとんでもない。そんなことで文部省がなまけておってどうします。そういう問題こそ文部省が中心となって大蔵省を説いて突破していく、こういうことができなくて
教育も何もあったもんじゃない。今度新
教育で五十五人も六十人もかかえて、何で
教育ができますか。あなた方のうちで教師をした人がありますか。文部省の役人で
先生をやった人があるでしょう。こんなことができるかできないか、だれが
考えてもわかる。私は昨年も静岡県の奥地の僻地
教育をたびはだしで四十数校歩いて見た。そこの僻地
教育がいかにひどいものか、あなた方歩いたことがあるか。私は足にまめを作って幾日も歩いてみた。僻地
教育がいかにひどいか。僻地
教育をりっぱなものにしようというならば、
日教組も一生懸命やるでしょう。そういう問題を一つもやっておらぬ。育英制度の拡充にしてもそうです。
教育の機会均等は、
教育基本法の第三条に明記してあるじゃありませんか。その育英制度の拡充——おれはやっているというかもしれぬけれ
ども、今の日本でやっている程度のものをやっていると思ったら大間違いですよ。
教育の機会均等というものはここでやらなければならぬ。私はアメリカのミシガン
大学で、十人ばかりの教授と一編に飯を食って大いに話をしようといって話をした。そのとき私は
質問した。米国の今日の繁栄と
国民の生活水準が高まってきたその最も大きな原動力となったものは何ですかと聞いてみた。そのほかに私は多勢の知名の人と会うたびに一々聞いてみた。多くの意見はありますが、その最大のものは、さっき申しましたミシガン
大学の副総長スタートンという人が私に明確に言ったことは、第一にあげるべきことは
教育の機会均等、米国は経済的な理由によって、高等
教育ができないというようなことをあくまでなくするという
立場を、今日も建国以来とってきておる。
大学教育は、能力さえあればだれでも受けられるように、経済的な理由によって決して受けられないことがないようにしてきた。これが今日の米国の繁栄の根本の原動力である、こう言いました。今日の
教育は、実際能力があっても
大学にいけないでしょう。
大学にいけないどころではない。あの入学難は一体どうするんです。私はあの入学難の解決の道があるのかどうかと思って、米国でいろいろ探してみたが、米国ではりっぱにやっている。なるほどアメリカは金があるというでしょう。金があるとかないとかいうのじゃなくて、
政治家の心がまえです。あるいは
行政当局の心がまえです。米国でも金があり余っているわけではない。
ほんとうにそういうことがなされなければならぬ。そういう一人でも経済的な制約によって
大学にいけないというものがないというようにしていけば、
日教組は
ほんとうに喜ぶでしょう。なぜこういう問題をやらないか。
社会教育施設の充実にしても、あるいはまた
義務教育学校の充実にしても、危険校舎の改築にしても、あるいはまた
大学の理科
教育の施設の充実にしても、やらなければならぬことは一ぱいある。そうして
日教組が喜んで一緒にやろうということは幾らでもある。
教育テレビの問題でも、私は昨年
教育テレビの問題を非常に心配した。しかし残念ながら日本の資本家
どもに、
教育テレビを持っていかれてしまった。今日
ほんとうに文部省がやろうとしたって、
教育テレビのネットワークはできないでしょう。そういう仕儀になってしまっている。アメリカでもこれを調べてみた。今残っておるUHFなんという電波では
教育テレビはできないのです。そういうような将来の
教育を決するような
教育テレビをどうするか、電波をどうするかというようなことを、うかうかと資本家
どもにもぎとられてしまって、文部省は何もやっていない。こういう問題をやれば、
日教組も幾らでもできることがある。こういう共通の場を拡張して、違いの方は時間をかけて解決するようにあとに残しておいて、そうして共通の場をずっと広げていくという努力をすれば、
日教組は一生懸命やりますよ。そういう
態度が文部省にないじゃありませんか。なぜそういうことができないか。私は今日の
教育の危機を打開するその大きな問題は、そういうことで、違うことはしばらくおいて、それはあとでゆっくり話をしてまた解決するとしてむしろ共通の場をあくまで真剣に広げていく、これがなされなければならぬことだと思う。こういう問題についてどう思われますか。これは私が言うわけじゃありません。七月六日の朝日
新聞に森戸辰男
先生がそういう点をやはり強く指摘しております。お読みになったと思う。あなたはどう思いますか。