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帆足委員 私は今次の
レバノンの事件を見まして、米英がほんとうに自由主義国であるならば、封建勢力と無知と迷信、それから王侯の独裁を倒して、ちょうど明治維新やケマルパシャの
革命や、イギリスの名誉
革命のように、国民の自由それから新しい憲法、新しい土地制度等、民族の
独立と自由と平和を回復しようとするその流れこそが、これはどの歴史学者もこれをもってアジアの自由主義への目ざめと描くだろうと思うのです。そのアジアの自由への目ざめに対しては常に懐疑的であり、まあ仕方がないからやむを得ず認めているけれども、事あらば機関銃で弾圧しようとし、従来弾圧してきた西欧
諸国、それに対して今自由を要求する勢力が戦っておるのが今日の流れだと思います。従ってみずから自由を口にする政権であるならば、どちらに好意を持つか、
内政干渉をしないまでも好意を持つかというならば、自由の
政府を作ろうとしておる側に好意を持つべきであって、今や没落の、瀕死の状況にある昔流の——私は
英国流の皇室を言っているわけじゃない、昔流の封建的な王侯、酋長がくずれていくのに対して、これに突つかい棒を自由主義国が自由の名においてしようなんというのはばかばかしくて、そういうことをいいと思う青年は
日本だって一人もいないだろうと思うのです。これが歴史の矛盾であって、だれが見ても、イギリスや
アメリカが、一方においてはかっては名挙
革命、かつては
独立戦争を起した自由の民でありながら、今はアジア
諸国に必ずしもほんとうの理解を持っていないということがアジア
諸国民の英米に対する不信であり、懐疑の念だと思う。こういう中に入って
日本は、過去のように満州を持ち、中国を半植民地とし、台湾、朝鮮を支配していたならば、私は心に正義がどっちにあるかということを知りつつも、仕方なくフランスのような
立場に立ち、あるいはイギリス、
アメリカに追随したでありましょうけれども、
政府の今次の問題に対する藤山さんの
声明も、岸さんの
声明も実にりっぱな最初の出だしであったことは、われわれが幸か不幸か植民地というものを持たない、ほんとうの自由の国になった、その点で
日本はスイスや
スエーデンなどと同じ客観的
立場に立たされておると思うのです。それからまたそういう点において
日本は帝国主義と共通の利害を本来ならば持っていないはずである。第二には同じく
日本はアジアに属しておる、そしてアジア
諸国民を今や搾取したり弾圧したりする
立場になくて、互恵平等の
立場からアジア
諸国と貿易もし、産業投資も心からそれをし得ることを叫び得る状況に立たされておる。従いまして同時に私は、
日本は当然
お互いに誤解もありまた不満足なところも多少あろうとも、インドのネール首相やエジプトのナセル、またはインドネシアの国々とも互恵平等の
立場で話し合い得る基盤を持っておる。従いまして
日本の客観的に置かれた地位を、小学校の社会科の教科書に書いてあるような常識で考えましても、
日本は
ソ連、中国のような
共産主義国圏に属しておるのではないことはもちろん、同時に
アメリカやイギリスの利害にもっぱら追随すべき客観的
立場に置かれていない。似ている
立場というならば、西欧
諸国では
スエーデンとかノルウエーとかそういう国々と多少共通するところがある。また似ている
立場というならば、バンドン精神、すなわちインドやエジプトやインドネシアの
諸国と非常に多くの共通のものを持っておる。しかもそのアジアの中において、アジアの孤児という国々、これはみずからアジアでありながら
独立自主の精神をまだ持っていない、また歴史の不幸のために、イギリスや
アメリカのかいらい政権になっている国々、南ヴェトナムとか、李承晩政権とか、蒋介石政権とか、キューバ島とか、フィリピン、これらの国々はその道徳的善悪を論ずるのではなくて、その置かれた歴史的地位からして、インドやインドネシアやエジプトのように
独立自主の気魄を持って進んでおる国でなくて、他国の軍事占領下にとにかく生きている国々、それらの国々とただひたすら仲よくして、それをまさかアジア精神とは
外務大臣は言われないだろう。そうだとするならば、私は今日の
外務大臣が一人の文化的政治家として卒然として
自分の置かれた地位をごらんになるならば、一方において西ヨーロッパの小さな国々、小さくてしかし幸福と平和を探求している国々と多くの共通性がある、同時にまたアジアで今
独立しようとして、自主
独立の道をたどろうとして、他国の軍事基地などに身を落していない国々、それらの国々に大いに共鳴するところがある。そうしてその両側に一方に
ソ連があり、中国がある、他方に
アメリカがありイギリスがある。また
アメリカやイギリスの軍事基地になっているかいらい的な
諸国が今苦しんでいる、これが今置かれた状況だと私は思います。従いまして今次の
政府の
中近東に対する最初の出だしは国民ひとしく拍手を送ったと思います。やがて
政府の
政策がよろめくにつれて国民は不安を感じた。不安を感じながら敗戦国
日本というものはやはりこういうものであろうかと、
政府に対して
同情と理解を持ちながら非常に心配している。そこで
日本の
立場というものに対する国民自身の反省も行われ、また
政府に対する批判も行われつつあるというのが、私は今日のありのままの現状であろうと思うのであります。こういう
観点から今度の
レバノンの問題を見ますと、先ほど
大西委員が指摘されたように、問題の技術的な一番の中心問題は、
政府は一方では
警察軍に
賛成し、他方では監視団の
強化に
賛成している、私はここに問題があると思います。もし
日本政府がほんとうに
ソ連にも
アメリカにもとらわれずに、調停者としての役割を果そうというならば、この問題の本質をよくお考えになって——東京新聞の社説もきわめて明確にこの点を指摘していたと思うのですが、
ソ連案に棄権をするならば同時に
アメリカ案に対しても私は棄権をすべきであったと思います。と申しますのは、
日本政府は
警察軍に本来
賛成していない、そしてあのときの
留保条件は、
国際連合の監視団の
報告にあるごとく、
レバノンにおいて
外部からの
干渉の事実はまだ起っていない、そのことを
アメリカの
決議案に
賛成するときにも松平代表は
留保条件に入れているわけです。
留保条件に入れているならば国際
警察軍が発動する基礎がないということを同時に
留保条件に入れたわけでありますから、国際
警察軍を承認した
アメリカ案にはいかに苦しい
立場であろうと、私は論理を理解している
政府ならば、これは
賛成できなかったはずだと思います。従って当然棄権すべきはずであった。一体藤山外相は監視団の
強化という問題、
国連警察軍の
派遣という問題が全くこの
段階において異なる見解に立つところの異なる範疇であるということにお気づきになっていないかどうか、これを伺いたいと思います。