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山本参考人 私、
明石丸通信士山本繁一であります。
私、
韓国に
昭和三十一年十二月二十六日
拿捕されまして、
昭和三十三年五月十八日に帰って参りました。その間記録及日記などは
向うの警戒が厳重で手持ちがありませんでしたが、たどたどしく考えて参りましたことをお話いたします。
昭和三十一年十二月十五日十時戸畑港出港、
李ラインを迂回して、同年十二月十八日二十三時山東角のエビ
漁場農林漁区三十八区に到着、
操業開始いたしました。同年十二月二十一日曳網して農林漁区百三十九区に移動
操業中でありましたが、エビ漁獲希薄のため、二十三日二十二時、冷凍船信濃丸にエビ漁獲のみ積み移し、
漁場変更航走南下して、二十四日十一時農林漁区三百二十二区中上に投網
操業再開いたしました。 曳網しつつ南下し、二十五日農林漁区三百二十二区中下より三百二十三区中上にかけて曳網、付近に他船五、六隻見えていました。
二十五日二十二時ごろ、
巡視船「くさがき」より、海上平穏、ライン付近警戒するように注意報あり、直ちに船長に報告いたしましたところ、晴天で天測は何度も行なった、ラインより十五マイル以上西にあり、これより接近しないので心配なしの一言を聞き、船長は位置については自信があると信頼して、私は安心して就寝いたしました。
二十六日午前三時十五分に船橋が騒がしいのに目をさまし、かけ上りましたところ、無灯火の
怪船が探照灯にて本船を照射し、本船船首より左舷側を
通り船尾に通過した由で、私が上りましたときには、
後方にかすかに見えていました。何ごともないものと思い、自室に下りて間もなく、
怪船反転本船に近づいてくるとの大声を聞くと同時に、だっだっと
銃声が聞えてくる。同時に本船は探照灯の照射を受けたのがポールドより見える。私は驚憚一時に口中がかわき、鼓動が速射的に打ち続ける胸の中で、公海、しかも
李ライン外にてこんなことがあってよいものか、どうか無事に脱出できるようと念じつつ、筥崎丸に、「われ
怪船に銃撃を受け全速遁走中」の一信を送る。無線電話にてコース北西と
ブリッジより連絡通報する間もなく、舵輪の音がはげしくなる。ジグザグの様子。速力の相違はいたし方なく、
銃声絶え間なく、流弾による生命の危険も感ずる。左舷側にぶつかる大きな衝撃を感じ、間もなく
ブリッジ内より
銃声三、三発と同時にガラスの割れる音が聞え、四時十五分ごろ停船、
警備艇に横づけされ、艇員多数乗船し来る。私
たちは恐怖と緊張でふるえながら、命令によりデッキに集合、この際各自室より出てくる私
たち船員に対し、なぜ貴様らは逃げたかといって、顔面をなぐられ、足げにされ、この際耳鼓膜裂傷された人もありました。他はすり傷、はれ程度で、釜山港入港のときはもう全快しました。
乗組員二十三名のうち
機関部二名、
甲板部二名を残し、十九名
警備艇移乗を命ぜられ、私
たち警備艇に
移乗して、
警備艇の後部
船員室に軟禁されました。艇長がちょっと遊びに来た様子で語るのに、わしらは忍術使いだよということを聞きました。これはどこからでも出てくるという意味と私は受け取りました。朝になり明るくなってから、連行途中本船
明石丸より
機関員不足のため補充ほしきとの連絡あったらしく
接舷し、
機関員を補充いたしました。その際私
たちのふろしきにて包みしものを幾つか
警備艇に移すのを見ました。
済州港に連行され、後に
拿捕された加茂丸、千鳥丸とともに済汁港出港、釜山港に連行さる。入港して住みなれた本船に帰る。
部屋散乱しあり、紛失物多数あるを知り、さっそく艇長に申し出て返還を要求しましたところ、大体紛失物は時計、日用品、書籍、たばこその他いろいろですが、時計等幾つか高価なものは返されましたが、小さなものはもうよいだろう、革手袋などはもういいだろうといわれて打ち切られました。船長、
警備艇長に呼ばれ、しばらくして船長帰ってくる。顔面赤くなっているので、どうしたかと聞きますと、位置確認書捺印を強要され、幾つか顔面をなぐられたようです。このときは否認して帰ったそうですが、たびたび呼ばれまして、どうにもならなくなって捺印したのではないかと思います。漁具、漁獲物等引き渡しと毎日警備隊にて調書作成の取調べを受けました。この際は船長が一応
李ラインを認めたという形になりますので、取調べは職員が主で、
あとは履歴程度の取調べでありました。これはほとんどが正反対のものでごさいました。三十二年一月一日第一千鳥丸が脱走したので、さっそく当番を残し、大部分留置場に送られました。留置場は地下牢、不潔、食事、握り飯を古い四角の弁当箱の上に多少の海草の塩づけのようなものでしたが、ちょっとのどを通らないので、二、三日は食べない人もありましたが、何日もおる間に、空腹に幾らか半分でも食べれる人も出てきました。十一日五時ごろ、寒風身をさす中を刑務所にトラックにて送られました。八時ごろ入房、いろいろ刑務所内の注意事項を聞き、三・四八坪の板敷に、この中に便所がありまして、大体私
たちは十一人から十人ぐらいで入れられました。日用品の一部とはだ着以外は一切使用禁止、青の獄衣が配付され、さっそく着用、
自分の名前のかわりに囚人番号が与えられ、以後呼び出しはこの番号で呼ぶ。七日ほどして検事取調べあり、手錠をかけられ、ひもでくくられる。寒風の中を立たされ、引かれてバスで検察庁に何回か通った。長い
抑留生活中このときほどみじめな姿はありませんでした。検事取調べは簡単なもので、大体前回の調書を繰り返すのみで、船長がこういうのだから君
たちも入っていたことは間違いない。船長と相談して入っただろう、これ一点張り、簡単に拇印をつく。約二カ月後に裁判が行われ、四、五日後それぞれ刑の言い渡しあり、船長一年、
機関長、一等航海士、二等航海士、通信士十カ月、他の
船員八カ月でした。未決通算七十五日、罪名
漁業資源保護法違反です。船体及び付属品、漁具等はもちろん没収されました。未決期間中にはいろいろと苦しいことも多かったが、既決囚となり、全員坊主頭となる。この刑務所生活については、私
たちの実態報告が出ておりますので一応お調べになっていただきたいと思います。
刑務所の食事は、大体規定は
韓国人で作業のない人は四等食なんですが、私
たちは三等食をいただけました。外米なんですが、米三、麦五、大豆二くらいの主食、この主食の大豆の割合は、私
たち板間にすわりながら用事もないのでよく数える人もありましたが、大体二百ないし三百粒くらいの大豆が入っていたそうです。副食物は大根葉っぱ汁がおもで、
日本人向きではなく、
韓国人の受刑者と同様でございました。大豆以外ほとんど栄養価なしと思いました。
十一月十八日朝刑期を終え出所、収容所より刑事二人が刑務所の玄関に迎えにきておりました。刑事に連れられ、タクシーにて収容所に向いました。このタクシー代も、何か予算がないとか言われまして私
たちが支払いました。収容所に十時ごろ着く、高い壁の外に鉄条網を張ったいかめしい姿に全く驚きました。入所ただちに九百名近くの先輩諸氏の仲間入りをいたしましたが、私
たちが入所したころから日韓会談の好転のきざしがあり、ずいぶん以前よりは万事よくなったと先輩に聞きました。刑事
たちの話によりますと、これくらいだったら厚遇ではないかといわれましたが、刑務所生活で心身ともに弱った私
たちには決して満足ではありませんでした。刑務所よりは幾分よかったようです。所内には運動場がないので、舎内で過ごすので、畳の破れ多くて不衛生な生活でした。私の入りました三舎という宿舎は古い舎でございまして、天井低く、大体私小さいのですが、私よりもちょっと大きい人は
自分で手が届くような天井でした。これは以前は、三十一年ごろまでは天井がなかったそうですけれども、私の行ったころはありました。床も大体一尺くらいで、通路が狭く、一人平均〇・六畳くらいで、夜寝ているときもほとんど寝返りがやっとくらいでした。ただ一つの念願でありました帰国問題が議会、
政府、日赤の御尽力によりまして、三十二年十二月三十一日調印できましたことを深く感謝いたします。
五月十七日帰国人名簿の発表がありましたが、一月一日朗報を外事部長に通達されてよりこの日まで、いつも案じていたことは、私
たちと同時に
拿捕された三船長も刑期が満了されたし、収容者当時二十二名の人
たちは調印後に刑務所を出られた人
たちで、帰国できるのではないかとある程度期待しておりました念願もむなしく、名簿には発表されませんでした。釜山に連行されて以来ともに同じかまの飯を食べ、苦労をともにしてきました年長の船長を
あとに残し、たもとを分ちお別れする私
たちの気持は、言葉に表わせない断腸の思いでお別れして、十八日故国
日本に帰って参りました、正門前で私
たちを送る二十二名の姿はいまだに脳裏を離れません。
帰港地下関の厚生省国立病院における私
たちの診断の結果は、約半数以上の人が安静治療を要するとの指示により、現在それぞれ郷里の病院にて治療中であります。抑留期間の長くなるほど健康が案ぜられます。
抑留者全員帰国を願うものでございますが、もし不可能なれば、人道上の見地によりまして、収容所にて帰国を待つ刑期満了者だけでも早期帰国が実現できますよう、当
委員会においても御検討の上御尽力下さいますようお願いいたします。
なお私
たち留守中はいろいろと
経済的にも御配慮いただきましてありがとうございました。私
たち刑務所、収容所におきましては、栄養補給、医療品、手紙、日用品ほか薬品等、さらに刑務所出所の際は寒さをしのぐふとん等も必要となり、
留守家族の苦しい家計も
承知でたびたび小包を発送していただきました。私の方は会社の給与もあり、何とか細々ながら留守中やっていけた様子ですが、全員がそうではなかろうと考えます。なお帰国、病気、失業とずいぶんお困りの帰還
船員も多くあると思われますので、
実情調査の上すみやかに御援助下さいますようお願いいたします。
なお刑務所及び収容所の実態報告は、私の入所する前のことが収容所は多いのですが、わかる範囲でお答えいたします。これで終ります。