○
長谷川(峻)
委員 今度の
引き揚げは、
報道機関によって大々的に取り上げられて、
国民注目の的となっておったのですが、その最大なる原因は、
中共からの
引き揚げが、これをもって集団的なものとしては
最後のものである、これが
一つ。さらに、もう
一つは、その間において、その
引き揚げ船の中に、
日共党員が
密出国して、その
人たちが変名で
乗船して、途中で覆面を脱いで名乗りをあげた、こういうことが大きなセンセーションを呼び起していると私は思うのであります。そこで、この間について調査した結果を御
報告申し上げようと思います。
今回の
白山丸による第二十一次
引き揚げによって
帰国した者は、
総数五百七十九名です。その内訳は、いわゆる
引揚者のうち、
一般邦人三百七十四名、旧
軍人軍属七十五名でありまして、ほかに再
渡航者と、すでに
新聞で御
承知の、いわゆる
密出国者として戦後渡航し、今回の
引き揚げ船に便乗して
帰国した六十五名及び華僑二名となっております。そのうち
男子は三百四十六名、
女子は二百三十三名、そのうち八才以下の
子供は
男子九十名、
女子七十四名となっております。なお、そのほかに遺骨十柱が
引き揚げてきております。
引揚者が
現地から持ち帰ったものといたしましては、金が香港ドルで五十五万八千六百七十七ドル、
ポンド小切手で一万八千ポンド、大体一
人頭日本金で十万円見当、それだけ持って帰っておるということであります。
荷物としては、
総数九百四十八個でありまして、一人平均一・六個、こういうことであります。
引き揚げ地点といたしましては、
瀋陽地区、昔の
奉天地区が一番多く、次いで上海、
ハルピン、北京、重慶、成都その他少数なものが各
地区から
引き揚げてきております。
落ちつき先を見ますと、大体東京が一番多く、次に大阪、神奈川の順となっておりますが、これは従来と同様に、比較的就職しやすい大都市に集中している傾向がここでも見られております。
次に、このたびの
引き揚げの大きな特色といたしましては、第一は、すなわち先ほど申し上げましたように、今回の
引き揚げが、おそらく
最後の
集団帰国になるであろうということであります。
中国紅十字会は、
引揚三団体の
代表に対して、ことしの
引き揚げは、今回で
最後であると語ったのですが、さらに、
集団帰国は今度をもって打ち切ると、はっきり申し入れたことが、われわれ引ま揚げに
関係している
委員並びに
国民に大きな衝動を与えているゆえんであります。従って、今度の
白山丸が
最後の
帰国船だということからいたしまして、何もかも捨てて、各
地区から
引き揚げ地に集中してきた、
引揚者の持ち帰った
荷物が少いというのも、こういう理由によっているのであります。ですから、いかに
中共に残っている
諸君が
引き揚げというものに大きな関心を持っているかということは、ここでもわかるのであります。
第二は、いわゆる
密出国者グループの
乗船の問題です。すなわち、
白山丸の
吉田船長及び
引揚三団体の
代表に会いまして、
塘沽出港から
舞鶴入港までの
経過その他の情勢を聞きましたが、これによりますと、
白山丸が七月三日に
塘沽港に着き、
乗船代表が
天津の
繁華街にある
国民大
飯店に
集結中の
帰国者をたずねたときには、
飯店に集まった者は四百七十余名だった。ところが、
中国紅十字会は、数日後に、
帰国者の数は五百五十人以上になると連絡してきたそうであります。そうして三
団体代表が、
中国紅十字
会側と
帰国打ち合せを済ませて、
帰国者全員の
集結を待って、八日
塘沽に戻って参りましたのは午後四時半、三
団体の
代表が
白山丸に
乗船後、十分たたないうちに
塘沽を出港する、こういうことなんです。これについては種々の
事情もあるでしょうけれども、従来でありますと、三
団体の
代表が先に乗り込んで、
引揚者が
乗船して出帆しておった。ところが、今度はその逆なんです。そして
塘沽出港後一時間ほど
経過して、
乗船者名簿の作成にかかったところに、
密出国者六十五名の
代表から、
自分たちは偽名で乗ったんだということの了解を求めてきたのです。でありますから、船内では、この
人々の取扱いについては非常に対策を協議した。しかしながら、今さら引き返すわけにはいきません。いわゆる向うにいた
方々の
引き揚げてきた船、それに対してこちらから
密出国した
人々がその船に便乗して帰ってきた。でありますから、法的にはとられる手段はいろいろあったでしょうけれども、何さま、六十五名を途中で
舞鶴の港以外に下船させるというひまもなかったろうし、さらに、そのためには
一般の
日本に
帰りたいという
帰国者の
上陸もおくれるということを考慮したことが
一つと、それから、
白山丸のチャーターの期限が、ちょうどもう十三日で切れるのであります。そういう
関係から、
予定通り、その間に何ら手配せずに十三日に
舞鶴に入港した、こういう実情であります。
次に、
舞鶴における
援護状況を申し上げますと、
乗船者中の、いわゆる
密出国者グループの大
部分には、
逮捕状が発せられておった。それで、十三日の
白山丸入港当日は、警視庁の
公安部、
京都府警の
機動隊、並びに十七
都道府県の
捜査官約六百名が派遣されていたのであります。そして、従来円滑にやっておった
引揚業務が、こういうことによって支障を来たすんじゃないかということを、
一般の
方々、
係官、
国民ひとしく非常に憂慮しておったのでありますが、
関係者の十分な
話し合いが続きまして、私
たち委員が
白山丸の
船長室に午前十一時に参りまして、
船長と
引揚三団体代表と今回の
引き揚げ経過について
いろいろ話をしている間に、
一般の
帰国者がまず次から次へと船をおりて
祖国の土を踏み、そしてこの
一般帰国者の
方々は平
桟橋に向って、無事に
地方援護局に収容された、こういうことであります。
そこで残った問題は、
密出国者の問題であります。この
方々は、前晩から参りました、いわゆる
共産党の
本部の
方々の
折衝などが船で行われました
関係から、なかなか手間どったのでありますが、その間
話し合いが進みまして、
家族とまず船の中で面会させ、そして
警察権の介入もなく、船の中で
帰国者業務を済ませる、こういう段取りがつきまして、
予定よりも約数時間おくれて、夕方の午後六時過ぎに平
桟橋に
上陸を完了したのであります。われわれは
国会より派遣された立場から、ことさらにこういう
交渉ごとには介入しませんでした。そして薄暗い夕やみの中に、この六十五人の
密出国者の
方々が全部
上陸するのを見届けることができたのであります。しかし、この
諸君が
上陸後、
逮捕状を持っている各
都道府県の
警察官によって、そのうち五十九名が
逮捕、連行、その後取調べを受けていることは御
承知の
通りであります。これが今度の二つの特徴の概要であります。
次に、
一般帰国者の
引揚援護寮における
状況を御紹介いたしますと、私
たち委員が、
白山丸から数名の
最後の
一般帰国者とともに
援護局に戻りましたときには、先に、長い者で二十四年、短かくて数年ぶりに故国の土を踏んだ
引揚者が、すでにそれぞれ各
部屋々々に落ちついて、
出迎えの
家族との面会あるいは各県より参りましたところの
係官との相談、そして歓談、
久しぶりに緑濃い七月の
祖国の空気を一ぱい満喫しているのを見たのです。
男子は
開襟シャツ、
女子は色とりどりのブラウスと、さっぱりした服装で、
子供たちには国境も敗戦も何もありませんから、無邪気に構内をかけずり回っておった。われわれはここで、この間において
一般引揚者の
代表四名の
方々と
懇談会を開いて、
中共の模様などを拝聴することができたのであります。それを若干御紹介いたしますと、
社会主義建設途上にある
中国の大衆、それから農民の
生活の向上の問題、あるいはまた、
社会施設がどんどん発達している点などについては、
一般帰国者も賛美の気持をもって物語っておりました。それで、これは
委員が全部聞いているのですから、一様に了解していることなんですが、大体、
中共は
日本をどう思っているか、こういう
質問をしたわけです。そうすると、
国旗問題あるいは
日中貿易の
問題等について、
中共の人心は非常にわが
岸内閣に対して悪い、こういう話があった。そこで、一体、
中共では旗というものをどういうふうに考えているか、こう申しますと、
新興国家ですから、旗を非常に大事にする。われわれは、
久しぶりに
日本に帰ったその
方々に、国内のことなどお知らせすることも
一つの
参考になると思いまして、
日本では、終戦後あまり
国旗というものをみんなが尊重しなくなった。
新興国家は旗を尊重する、しかも、その
中共においては、まず
祖国を愛する、その次には
国旗を愛する、あるいは
公共的施設を愛する、さらに勤労を愛せる、こういうことがいわれているという話がありました。それで私は、それは非常にいいことだ、わが
日本においては、
祖国を愛せよとか、
国旗を愛せよというふうな話などをすると、なかなかもって
保守反動であるとか、時代おくれであるとかいうふうな世の中になりつつあるのだ。そういう話から、だんだん
一般帰国者に対して話を進めて参ったのであります。
そこで、最近
中共において
社会上おもしろい問題はどうだろう。たとえば、よく
日本のえらい
方々が
中共に参ると、
ハエが一匹もいないというが、これはどうなんだろう。こんなところで話をしますと、いや、私
たちは、みないつでも
ハエたたきを一本ずつ持って歩いた。現に
天津に参りましたときに、
自分が
ハエたたきを持っていないものだから、
子供が、おじさんはどうして
ハエたたきを持っていないんだという
質問をされたくらいで、昔ほどの
ハエはおりませんが、いる。さらにおもしろいことがある。最近は四
害駆逐運動、すなわち、ただいま申し上げました
ハエとか蚊とか、さらにネズミとか
スズメ、こういう
駆逐運動が始まっている。
スズメは一体どうして駆逐するのだ、
奉天、いわゆる
瀋陽の
地区においては、一日
じゅう屋根の上に、あるいは木の上に
子供たちが登って、
がんがらがんをじゃんじゃんたたく。そうすると、これは私ども新発見であり、これは、みなそういうことを初めて聞いたのですが、
スズメというものは、六時間空の上に飛んでいると、ばたばた落ちてくる。ですから、一日たたいていると、
スズメがばたばた何万羽も落ちてくる。それじゃ、さぞ
焼き鳥屋が盛んだろうといったら、
焼き鳥にとてもならぬものだから、肥料にいたします。(笑声)老いも若きも、そういうふうにやるということは、一体どういうところにあるか、
自分たちの
生活と
国家の利益が結びつくということがよく了解されて、
皆さん一生懸命やっているようでありますという話を聞いたのですが、これは私自身の浅学と申しますか、そういう点からして、非常に大きな
参考になったような気がします。さらにまた、ある農村の
合作社では、三年かかって
土地改良、灌漑をやろうとしたのが、驚くなかれ、十八日間でできた、こういう話などもありました。こうしたことは、いずれも従来の
報告と大差ないように見ましたけれども、
一般引揚者といえども、国と
社会と
自分たちの
生活というものを非常に深く考えさせられるようになったということは、非常に注目すべきことである、こういうふうに思ったのであります。
さらにまた、この話の中で、今回の
引き揚げにまだ参加しない、なお
中共に残っている
人々の
消息についても若干聞いてみたのです。
日本人の孤児であるところの、十九才になる娘さんが、まだ保育園で働いているということやら、あるいは
病院生活を送っている二、三の友人は、療養して、からだがすっかりよくなったら、何とか
日本に
帰りたいといって、もんもんの日を送っているという話などがありました。こういうことなどを聞きまして胸を打たれたのでありますが、
最後に四人の
帰国者一同がいわく、
自分たちは
祖国に帰ってきたけれども、どうか
一つ就職の問題と住宅の問題を
国会あるいは
政府当局、みんなの力でお世話願いたい、こういう話がありました。これは、まさに偽わらざる
共通の願いだろうと思って、胸を打たれた次第であります。なお、その
あとで、私
たち委員は、各
部屋々々を回って、
引揚者の
方々の今後の御健闘を祈り、激励の
あいさつを述べてきたのであります。私
たちがこういうことをやっている間に、
密出国者の
上陸について、
援護局と
警察と
本部派遣の
共産党代表との間にいろいろ
折衝が行われておりました。私
たちにも
調停あっせんの労をとってもらいたいやの話がありましたけれども、
国会から参った
関係上、私
たちはそれに介入せず、そして、いよいよ五時過ぎに
密出国者の
諸君の
上陸を開始するということを聞いたので、その現場にかけつけて、その
状況をつぶさに拝見してきたのであります。
こういうふうに見ますと、
昭和二十一年の
ソ連引揚船「
大久丸」以来、ちょうど戦後十三年です。そうして、
舞鶴に
ソ連と
中共から六十六万の
帰国者を迎えております。これを二百万の
日本の
家族が
出迎えて、そうして、この
白山丸の
集団帰国が
最後です。そうしますと、この日でさえも、鹿児島から、あるいは仙台から、
自分のまだ帰らない夫を探して、この
引揚者の中におりはしないかという一縷の望みを持って来ておった
留守家族の御
婦人方二人がおった。
一般帰国者あるいは
援護局の
方々の話によりましても、まだ
中共には四千名の
邦人が残っておる、こういうことでありますから、われわれ
関係者は、非常に責任の重大なるを痛感したのであります。そして、この
舞鶴の
援護局は十一月の十五日をもって閉鎖する。二十数名の
職員諸君は、ここに約十三年間がんばっておった。私
たちは、マイクを通じて、この
職員諸君が長いこと労苦されながら、あるときには
日の丸梯団、あるときにはアクチブと、いろんな
日本の新しい言葉があそこで生まれた、あのむずかしい
引き揚げの
事務を担当してこられながら、この十三日を
最後に
集団引き揚げが終り、
あとは
残務整理をし、歳末の街頭にほうり出される、職をなくしてしまう、こういう問題については、ぜひとも
一つ当局の
皆さん方に十分なる御処置をお願いしたい、こういうことを申し上げまして、私の
一般報告を終る次第であります。