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参考人(中村芳朗君) ただいま御
質問のありましたごと、多少その間の
東マルのおい立ちから
説明いたしまして、御了解の願える点も多少あるのではないかと思いますので、その点も
一つ御了解願いたいと思います。
私の方の
会社は、昭和二十二年の六月一日に一応終戦後複数により許可になりましたが、そのときにはちょうど日用品である青果物が統制でありました。その統制のさなかに許可になりましたので、どうしてもその食料品を間に合せるために、私の方の
会社は、
会社の中にちょうど統制
会社の分散したのと、それから新規に許可になりましたわれわれの
会社、大体六月一日に一応は全部新規になったということになりますが、統制
会社の分散したのと、われわれの同志の寄った新規になったのと、二色ございまして、私の方が新規になった
会社でございます。その
会社が一応一ヵ月二十五万貫から三十万貫
程度の
責任割当を
東京都の方から仰せつかりました。そうして、もしその
責任額が達成しない場合は、業務取り消し、こういうことの裏づけによってわれわれは
責任を果さなければならない段階になりまた。しかしそのときには、産地は生産が少いですから、集荷するには、おのずと出血集荷になりまして、また販売については、正貫で渡す、その目切れで。従って、販売は御承知の
通り公定価格のあった時代ですから、公マルです。従って、その間の出血集荷による犠牲、目切れによる犠牲、これが昭和二十二年から二十四年までの間に約二千九百万の赤字を出しました。それと同時に、取扱いが徐々にふえるに従って、現在の
売場——
売場は御承知の
通り業務許可にはなりましたが、あの
神田市場は、戦時中名業界に貸され、おそらく百数十種に及ぶ業者の人たちが入っておりました。ただなかったのは葬儀屋だけです。全部あの
市場がよそに貸された。あのときにわれわれは許可になりましたが、徐々にその
売場を買い広げ、仮事務所を一応買い、改造した。この費用が莫大にやはりかかっております。そしてこれらのものが、一応
会社の出血になっております。そしてなったのであって、結局旧統制
会社と、われわれ新規に
会社になったものとに、非常に内容のハンディキャップがついてきました。そしてその後、私どもの
会社は、朝鮮動乱後にデフレに変り——その当時はわれわれも東洋一を誇る売り上げをしたのですが、しかし朝鮮動乱後におきまして、デフレに変り、産地の価格と消費地の価格との間に、非常にハンディキャップができました。私たちの
会社の組織は主管人
制度といいまして、それはちょうど保険の外交員の歩合
制度というような組織でもって集荷いたしましたので、従ってまだ終戦後の産地の統制の行き渡ららないときには、非常に集荷ができましたのですが、徐々に消費地価格が安くなり、産地の統制もとれてきたので、一応主管大
制度という
制度は時代おくれな
経営になりましたので、私の方でそのときに主管人
制度を廃止いたしました。しかし廃止してみますと、当時の主官人
制度のときに産地に前渡金が多数出ておりましたが、前渡金がそういう相場の激変から回収不能ができましたので、そこで
会社一本の体制に直してみた。ところがそのときに、すでに一応産地の未払資金が約七千万円ありましたのですが、それが私の
会社にいたしますれば、一応主管人に一たん渡し、主管人がさらに荷主に金を渡す、こういう
制度になっております、その間の主管人というのが、産地への前渡金倒れやいろいろな
関係で、
会社から金を取りながら、甲の荷主の品物を乙の荷主に金をやるというふうにやりくりしておった
関係上、そこでいよいよ
会社一本の体制に直してみたときに、約七千万円の未払いがあったのです。そこでこれを、どうしても
会社を根本的に改革して、一本にしたのですが、この仕切りを払わなければならぬということになると、
東マルとしましては、ちょうど二重払いをするような計算になるのですが、しかしそうしていかなければ、生産者に非常に迷惑をかけるのでありまして、そこでまず二重払いする資金を当時勧銀の本店、富士銀行、千葉銀行に融資の申し入れをしました、
実情を申し上げて。ところが私の方で、いよいよ七千万円に対する、
会社の
実情を見まして、五千万円の資金が必要であるというところから、三行で一応融資する段階になったのですが、そこに富士銀行が中途において脱落されてしまったのです。そして
あとで千葉銀行と勧銀で五千万四のうち、二行では五千万円の融資ができないということで、一千万円ずつ、二千万円しか融資ができなかった。しかしそのうち、金利が千三百万円たまってしまって、実際に手元に残ったのは、ただの七百万円。しかし私の方では、そのために他の銀行にこういう融資方をお願いしたのですが、遺憾ながら……富士銀行、勧銀、千葉に内容を申し上げて
協力願うようにお願いしたのですが、金融
機関としては、もう
東マルはどうかというような御懸念のために融資を得られませんでした。そこで、しかし営業を続けるには産地の仕切りをやはり払っていかなければならないので、やむを得ずして個人借りをしてこの補いをしたのであります。そうして産地には一応全額、当時の金は全部渡しました。そうして個人借りをした
関係上、徐々に金利が雪だるま式になったので、二十六年から三十二年までに約二億三千万
程度、金融
機関と個人借りの金利を払った。それがために、非常に
会社は苦しい
経営を続けて参りましたので、放漫経理と非難されました。その
通りかもしれないが、そこに、ただそういう経緯を経てきた
会社の公定価格時代の犠牲、さらにその後に及ぶ仕切りの二重払い、そういうことを経ましたので、かような
経営に苦しんできました。そこで、三十一年の二月にさらに、とうていこのままこれを
経営していくことはむずかしいので、そこで
中央土地という、多分御存じかもしれません、勝田という人の所有しておる熱海の地所と八重州口の地所を借り受けまして、千葉銀行から一億借り入れまして、そうして再建の道をはかるように努力いたしたのですが、しかし途中、勝田氏の方に地所の保証金として五千万円を上げなければならなくなった。そうして千葉銀行の方には利息が約七百万円たまっておつたので、実際に
会社で使ったのは四千三百万円しか使っておりません。それで七月に——これは昭和三十二年ですが、七月になりまして勝田氏の方から、
会社の
経営がおもしろくないようだけれども、とにかく私に
会社を渡すか、土地を買うかという要求が出ましたのです。しかし、われわれ長年業界にたずさわる者としましては、どうしても
神田市場の名誉にかけ、また愛着心といいましょうか、これにかけてもどうしても
東マルをお渡しすることができないということでもって、一応土地を買い入れるということの線をきめまして、土地を買い入れました。その九月に買い入れますと同時に、
あとの残金は月賦で——千葉銀行に月々二百万円ずつの返済、勝田氏には百万円ずつの月賦、こういうものが徐々に重なりまして、遺憾ながら
会社の
実情がなお一そう苦しくなって参りましたので、そこで三十二年の五月に私の方では、どうしても根本的にこれは何とかして、手を打たなければならないというような段階が
考えられましたので、そこで
神田のある某社に、無条件合併を申し入れました。しかしこれは公式ではなく、内々で申し上げましたのですが、申し入れ、かつまた一方、個人借り入れ、金融
機関、こういう
方々は一応元利の猶予を願う、こういう
方法をとって、この打開策を講ずべく努力したのであります。そうして七月の五日に一応
役員会を開きまして、そうして一応これは業界の各
団体の業者に御相談いたしまして、そうして
東マルの再建について何とか御考慮を願いたいというのを申し入れ、また御一任したのであります。ところが、私の方のそういうことがやはり
市場内ですから一応漏れまして、
東マルが危ないという声が
市場内に流れると同時に、生産地にも流れましたので、従って、私の方に一時的個人借り入れ及び仕切金の一時取り立てが参りました。その結果、全力を尽して不渡りを出さないように努力いたしましたのでございますが、遺憾ながら七月の二十三日に不渡りを出すような段階に至りまして、実際申しわけない結果になりましたが、そうして八月の二十一日に
債権者集会をいたしました。そうして私の方の
会社といたしまして、大体そのときに再建案を出しました。一応生産者には、再建さしてくれるならば即五割、開始と同時に五割、
あとは二カ年以内に大体二割五分
程度にして業界方面の人には一応
あとやっていただく。こういう業界方面の御理解ある
言葉によって再建業を出しましたのですが、遺憾ながら一部に強硬な方があられまして、それにお取り上げなく、そうしてその席上で一応
東マル対策
委員というものが生まれましたのです。その方たちが一応今度はお骨折り願いまして、そうして
東マル対策に乗り出していただきましたのですが、一方私の
会社としては、八月の二十九日にこのままでは
会社の再建もどうと思われましたので、法による
会社整理、整理法によりまする保全命令を地方裁判所にお願いしましたところが、幸いに八月の二十九日に一応その命令をいただきました。それをもって、そうして九月十四日に一応保全命令に伴う再建案を都の方に出しました。その場合の再建案としましては、私の力では保全命令をいただく前にも、一応この
会社の性質上、許可営業でありますから、荷主優先支払い
方法は当然、
債権平等の立場から当然支払いは平等であるというような見解をされては困るから、そこで私どもは荷主優先ということを特につけ加えて、そうして許可をいただいた結果、それによって九月十四日に一応荷主に開始と同時に三割、年度内に
あと三割——六割、
あと二カ年以内、それから一般
債権者には法の命ずるところによって徐々に再建しながらお支払いをしよう、というような案を出しましたのでございます。ところが、九月十六日に一応この法の解釈も
行政処置には何ら効なくして、そうして十六日に却下になりました。そうして九月十九日に
農林省において聴聞会が開催されました。それで私も出席し、この上申書にもあります
通り私の方から常務も出席し、聴聞会でいろいろと、九月二十日までの業務停止であり、その後において業務取り消しの可能性も多分にありますので、聴聞会の席上でも、どうか業務取り消しだけは猶予願いたい。却下になりました十六日の案が御不満ならば私の方では再度再建案を出しますから、どうぞ取り消しだけは御猶予願いたい。もし、ここで取り消しをされたならば、私の方ではどうしても荷主、それから従業員、それから一般
債権者にとうてい払う能力がないのだから、どうか再建さしていただいたならば
農林脚には決して御迷惑をかけないで
解決したいと思いますから、どうか取り消しだけは御猶予願いたいということを懇々と切望いたしたのであります。しかるに、そのときにどうしても、一応ここにおられまする場長といたしましても、都の
方針があたかも十六日に業務取り消しの既定
方針になったように——私も聞き及んでおりまするが——十九日にも非常に強硬にその業務取り消しの線をあくまで主張なさったので、非常に私も不安に感じました。そこで再三、どうしてもそれは業務取り消しを強行なされば、私の方では、ことに荷主の仕切りの未払金、それから職員の給与の未払い、退職金、個人借入金、金融
機関、これらの点について一切私の方では、業務取り消しになりますれば、支払い能力はありませんから、どうかこれを
責任をもって
解決していただくということを前提としてならばやむを得ませんが、それ以外ではどうか業務取り消しを御猶予願いたいのだということを懇々と切望して十九日は引き下りました。翌九月二十日四時ごろ局長室に呼ばれまして、そうして局長さんと、ほかに場長さんと、ほか二、三の方のお立ち会いのもとに、九月二十日、一応
中央市場令による
信用薄弱ということで、業務取り消しの通達を受けました。そのときにも、昨日もお願いしました
通り、それを御承知の上で業務取り消しを御発令になったのでしょうかということを重ねてお尋ねしましたところ、局長さんいわく、それは、役員の私財を提供願い、そうしてその不足額については当然
責任をもって処理してやると、それは処理するというお
言葉がございましたので、これ以上お願いすることもできませんので一応引き下りました。そうして翌二十一日、私が
市場へ帰り、一般
債権者——
市場内には対策
委員長がおられます——その方とも相談いたして、こういう昨日の
実情でありましたということを申し上げましたならば、それはお前の言うことは信じられない。一度われわれは再確認に行くからというお
言葉がございました。そうして一応午前十一時ごろ局長さんのところにお伺いして、そうして、昨日中村に言われたというが、事実であるかということを
委員長から伺いました。参りましたのは
委員長と、ほかに
委員の方が小杉、寺川、大橋の諸氏でございますが、そうして私がお供して、五人でお伺いしましたときに、再確認を言われましたときに、局長は、
東マルは許可営業であるから、当然その
責任は
農林省にあるのであるから、その
債務については、昨日も中村にも言った
通り、役員の私財を提供し、その残額については
責任をもって
解決すると、こういうお
言葉がありましたので、行った連中も了として帰りましたのでございます。
さような結果になっております
関係上、昨年一応
解決せられるものと思いまして、皆さんの
委員会にも出席もいたしませんでしたし、また一応どなたにもそんな
関係で、何とかお骨折り願い、御
解決願えるものと言って今日までおりまして、実際ただいま、お前はどういう気持でいるのだというように御指摘を受けましたけれども、実はそんな
関係でまあ今日までおりましたので、一般
債権者に、また
委員の皆様に御心労をわずらわしておりますので、どうか一日も早く何とか御
解決いたしていただくようにお願いするより、現在の
東マルといたしましては、業務取り消しになり、そうして今日に至りましては、何ともその返済の——全
債権者に支払う能力というものがないような状態になっておりますので、従って何とか御配慮願いまして、一日も早く
債権者各位に、御迷惑をかけております一部でも早く支払つていただくようにお願いするよりただ道がないような結果になっておりますので、
一つこの点も御了承願いたいと思います。