○山本米治君 私は、かねて
通貨単位というものは、
経済一切の基準になっておる非常に重要なものだというふうに
考えておるわけです。
通貨単位のしっかりした国というものは、
経済もしっかりしておる。これは
アメリカのドルとかイギリスのボンドとか、そういうものが相当購買力がある、価値内容がある、そして安定しておるということをみてもおわかりになると思うのでありますが、
日本では、捨て顧みられない、水に浮く一円のアル玉、こういう点で、こういう貨幣を使っておる、単位としておる
日本の
経済はあまり伸びないと、やはりもっと円が値打があって、せめて一円という
通貨の単位、一切の
経済の基準たる
通貨単位というものが、価値をもって、せめて一円でライスカレーが一ぱい食えるとか、あるいはライスカレーでなくても、そばとかうどんが一はい食えるという価値内容を持たないと、これは
国民がもう貨幣に対する尊重の念というものを持たなくなる。これがひいては資本蓄積ということもできないということになるわけで、そういう
意味からも、私はゼロを
二つとった一円を百円というデノミネーションをやったらどうかと
考えておるのでありますが、賛成者もいるけれ
ども、この
委員会でも、だいぶ賛成者も多いし、今の日銀の山際総裁も、個人的には賛成しておられます。で、これに賛成しない方といいますか、それは内容がわからない、あるいは内容を誤解されておる方が多いのであります。誤解のうちで一番多いのは、貨幣だけゼロを
二つとって、百分の一に切り下げても、物価かその
通りになるかどうか。貨幣は百分の一に切り下げたが、物価はその
通りにならぬとすれば、
経済が非常に混乱する、こういうことは百も承知である。私はそういうやり方には絶対反対であります。戦争の
あとに、各国がインフレと戦ったそのときに、わらをつかむ気持で、
通貨の数量が少なければ幾らかでもインフレがおさまるということがあり得ると、九分の一に切り下げる、十分の一に切り下げるということをやった国もあります。これは非常に貨幣混乱のもとであります。貨幣というものを持っておると損をすると、孫子の代までも貨幣は持つな、貯蓄はするなということになるわけでありますから、こういうやり方は私はいけないと思うのであります。私の主張は、新しい
通貨単位の設定による単純なあるいは純粋な
通貨の整理ということでありまして、債権者にも、債務者にも、何人にも、損もない、得もないという方法であります。で、新しい
通貨単位を設定するとすれば、もちろん新しい名前をつけて、たとえば円を新円とかあるいは両というような名前をつけてもいいのでありますけれ
ども、何もあえて名前を変える必要はない。歴史を見ましても、名前を変えないで新
通貨単位を設定している例はある。たとえばロシアがそうであります。あれは一九一七年の十月革命以後、ロシアは二十四年までに三回新
通貨単位を設定しておりますが、名前はずっとルーブルという名前を続けている。それで一九二二年型の紙幣では、一万分の一に、つまり新旧
通貨の連続
関係を一万分の一ときめた。二十三年型の紙幣では、またそれまでの紙幣の単位の百分の一にきめた。またその翌二十四年には、旧
通貨との交換割合は五万分の一にした。これは三回合せますと五百億分の一に切り下げたことになるわけでありますが、このように名前はルーブルというものをそのまま使いながら、単位を、実質上設定しているというやり方があるわけであります。
もちろん新単位を設定すれば普通は新しい名前をつける。だから新円とかあるいは両とかいうのもいいでありましょう。しかし私はもし
日本でやるとすれば、百分の一に切り下げる。そうして相変らず円という名前をそのまま使う、あえて新円としなくても、そのまま続くというやり方でいいと思うのでありますが、名前を変えた
通貨整理のことをいうデノミネーション、私のいうデノミネーシコン、一体このデノミネーションという
言葉が、非常にむずかしいわけであります。
日本ではこのデノミネーションは、私が今まで
説明したようなことに使っているようでありますが、
日本語の訳があまりない。いろいろなのを見ても、たとえばある
学者は貨幣の称呼単位あるいは呼称単位の切り下げということを言う人もありますが、どうもあまりきまった訳がない。で、デノミネーションという英語は、これはもちろん金額とか額面とかいう
意味で、スモール・デノミネーションというと、小額紙幣のことでありますが、
日本では大体このデノミネーションという
言葉で、私がただいま申しましたように、
通貨単位の整理
通貨の数字の整理、こういうようなことを内容としているように思うのでありますが、第一次大戦後、ロシアから分離したバルト三国、こういうとこりではやはりみなただいま申したような
通貨整理をやっているのでありまして、リトアニアでは今までのロシアから受け継いだルーブルの呼称価値を五十分の一に切り下げて、リタという単位にした。ラトヴイアではやはり五十分の一に切り下げて、ラトヒいう単位を設定した。エストニアでも、それまでのエストニアマルクという暫定
通貨の紙価を百分の一に切り下げて、クローネという単位を設けてある.昔から、新興国家でなくても、あるいはドイツとかオーストリアというのでも、非常なインフレをやり、
通貨整理をやったことは御承知の
通りであります。ドイツでは一九二三年の十一月がインフレの最高潮で、それまでのマルクというものを、旧マルクの呼称価値を一兆分の一に下げて、レンテンマルクとし、そのレンテンマルクをさらに一対一でライヒスマルクに切りりかえたことも、御承知だと思うのであります。またオーストリアでも新しくクローネというインフレの
通貨を改めて、一万クローネを一シリングと改めたわけでありますが、要するにこの名前を変えるにしろ変えないにしろ、実質は新しい
通貨の単位を設定するということであります。
そこで先ほどのような疑問、貨幣は百分の一に切り下げた、物価が百分の一になるかどうかということは、疑問が起る余地がない。
一つの商品について
一つの労働の対価、物価について
二つの価格が
成立するわけであります。古い紙幣でいえば千円を、新しい紙幣でいえば十円だ、こういうような
二つの価格
関係が成り立つのでありますから、そういうことは全くの誤解であって、だれも何ら損も得もない方法なんであります。で、こういう方法をやりますというと、今の大きな数字、ことに
国民経済に関するような数字というものは、やたらに大きくて、
言葉では言いますけれ
ども、頭の中で概念がこないのであります。で、百分の一にせめて切り下げますと、たとえば
通貨発行高五十億だというのが、五十億になります。ことしの
予算は一兆三千億というのが、百三十億ということになる。たとえば月給三万円の人はこれは二百円の月給ということになる。対米為替相場一ドル三百六十円が、三円六十銭というような
関係になるわけであります。
で、こういうことをやる意義はどこにあるかといいますと、理論上は先ほど申し上げました
通り、やってもやらなくてもいいのかもしれませんけれ
ども、この利益というのは、まず非常にべらぼうな大きな数字というのが簡単になる。帳面をつけるのに、零が
二つ節約できて、簡単になる。ひいては能率が上る。一万円札の問題でも、取る金額の割合に銀行券の金額がこまかいと銀行の能率が落ちるということが、一万円札を発行する有力な原因であったわけでありますが、こういうように百分の一に切り下げれば、簡単になりまして、能率も上り、間違いも少くなる。こういうこともありますけれ
ども、無形なことでありますが、より以上重要なことは、私は
通貨に対する信任ということだと思う。水に浮くようなアルミの一円というものを、貨幣単位にしておっちゃ、
国民は貨幣を尊重しない。せめて一円というものを人が拾う——今では駅にばらばら落ちていてもだれも拾わない。これを拾う一円にしなくちゃならない。ライスカレー一ぱい食える一円にしなければならない。あめ玉一袋一ぱい買える一円にしなければならないというのが私の
考え方だ。これで
通貨に対する
国民の
考えを一新する。
通貨の信用を
回復する、こういうことになるのです。ところが
大蔵省は、ここ数年来大体貨幣価値が安定しそうだ、すなわち大額紙幣一万円札、五千円札を出そうという時期にこのインフレートした円で
通貨体系を落ちつけようという
考えであります。従って先ほど申しました五千円札、百円銭貨が出ておるわけであります。つまり既成の事実を作りつりあるのでありますが、私はこういうように一度インフレートした円で体系を作った上でも、このデノミネーションというものはできることだと思う。私はこれをやることがぜひ必要だと
考えておるのでありますが、
一つ御所見を伺いたい。