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政府委員(
野木新一君) 実は正直申しますと、私も
ぼた山は見たことはございません。ただこの
法律の定義を書きましたのは、他から知識を借りまして書いたのでございます。
この第二条第二項の定義におきましては、「石炭又は亜炭に係る捨石が集積されてできた山であって、」というのがまず第一の要素であります。「石炭又は亜炭」、これはこれでもうはっきりすると思います。「捨石」というのは、これは鉱業
関係の
法律にそれぞれ出ておりますから、これも大体同じことだと思います。「集積されて」、これも集まって堆積されておる、これも明らかでです。「山であって、」というのですが、たとえば山でも俗にミカンの山というが、ミカンを高く積み重ねれれば山である。ミカン
一つ一つを見れば動産であるというような用法もあるわけであります。しかし一方富士山と言うと、これはミカンの山と違いまして自然にできた山でありまして、こういうふうに、山というのは、ここの用語としても二つあるわけであります。ここにおきましては、「石炭又は亜炭に係る捨石が集積されてできた山であって、」という、きわめて普通の用語を借りて定義しましたわけでありまして、別にそれだけで、特に
説明を加えることもないと思います。ただこれが
一体別の
法律的の角度で見まして、この定義を不動産なりや動産なりやという、全然別個の
法律的
観点から見ますと、これは
基準が違うわけでありますから、
一つの
ぼた山というのも、その実態に即して、あるいはたとえば、古い
ぼた山であってもう何年も捨てておかれたというようなものになりますと、もう草もはえ——実際の実情を知りませんから一応想像して言うわけでありますが——草もはえだりいたして、ほとんど自然の山と同じように普通の地面と
一体不可分のようなことになってしまっている。しかも捨石自体もそれぞれ密着してしまって、普通の地面と、置いた土地と密着してしまったというようなことになりますと、おそらく土地の一部になってしまったという場合もあるかと存じます。そうなると、土地と密着して
一体不可分の
関係になりますると、その見地から見ますと、これは不動産ということにもなるでしょう。しかしながら、
ぼた山の捨石の中にある廃鉱ですか、捨石というのは廃鉱その他及びほんとうの石と両方を含むものと思いますが、廃鉱というものはそういう場合でも
所有権の対象ではなしに、別途鉱業権の対象になる、こういうような
法律関係になってくると思います。ただそこまでいかないもので、まだ捨石がばらばらに個別的に認識できるというような段階におきましては、今言つたような意味の不動産化をまだしていないという場合もあり得るのではないかと思います。これはやはりそこの実態を見て、いろいろの点からその実態によって判断をする、こういうことに
法律的にはなるだろうと思います。しかしながら、不動産化しない、いわゆる堆積、捨石が山状に集積されたもの、これが
一体ぼた山にならないということにはならないと存じます。この定義の
ぼた山は不動産的なものもあるし、動産的なものもある。不動産か、動産かということは、別個の
法律的
観点から論ずる場合に、その論ずる必要によって生まれるわけでありますから、この場合とは直接には
関係ないのではないかと存じます。
次に、
所有権の点でありますが、この
所有権の点は非常にいろいろむずかしい問題があるようでありまして、実は私も鉱業法
関係を特に専門に研究したというわけではありませんから、あるいは行き届かない点もあると存じますが、
所有権の
関係につきましては、まず捨石ですから、捨石それ自体としては動産のわけでございますね。それを鉱業権者がこういう捨石を堆積する場合に、
一体所有権を放棄して捨てているのか、あるいは
所有権を放棄しないで、ただそこに置いておくだけかどうか、これなどはやはり結局事実問題に帰着するのではないかと存じます。たとえば、
所有権を放棄してある
ぼた山をどこかへ捨ておく、あるいは
所有権放棄の意思表示をしてやったというなら、その捨石の個々の動産は無主物になります。何も
所有権者がないということになると思います。それがだんだん堆積して山になってくる。しかし、まだ不動産化していない場合にはやはり動産ですから、無主物の動産の集積ということになるというだけにとどまると思います。それが年を経て全く不動産として地面と密着して、だれが見ても
一体不可分の
関係になって、まうと、これは民法の付合の原理によりまして、不動産
所有権者の
所有にたる、そういう場合も
考えられると思います。それはその場合々々によって具体的に区別して
考えるべきだろうと思います。そうして
所有権がだれに所属するかということは、第二条第二項の定義とは直接には
関係ないわけでありまして、第二条第二項は、
所有権がだれにあるかということは一応度外視して定義を
規定しておるわけでありますから、
所有権があるいは鉱業権者にある場合もあるし、
所有権が鉱業権にレない場合もある。いずれにせよ、西方の場合もそれぞれの具体的場合においてあり得る、
法律的にはそうなるのではないかと一応存ずる次第であります。