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辻原分科員 私はその考えを改めて進めてもらいたいと思うのです。それは何もそうしなければならぬ——できるからそれでいいんだという考え方も
一つの
議論でありますけれ
ども、しかしさきに申しましたように、少くとも社会
教育の中で図書館あるいは博物館はすでに規定をされておる。同時に公民館もそれより以上の
効果を社会
教育の上に期待できるのでありますから、何も社会
教育の上で措置しようということで、できるから済ますんだというような考え方には立ってもらいたくない。もちろん中身のことでありますから、どちらであろうと同じだということも言えないこともありませんけれ
ども、しかしこれを取り出すことによって、
地方においての公民館の果す役割というものがより広範になるということを考えた場合に、社会
教育法でもって事を済まそうというのは、
文部省としては少し消極的過ぎるというふうに私は考えます。社会
教育の中で、あるいは今具体的にやっているものを見ますと、青年
学級にしても、あるいは婦人
学級その他公民
教育全般をとらまえてみても、実際
地方において何を中心にやっているかというと、公民館なんです。これは統計の上に、あなた方が出されたこの中には、はっきりそのことが書かれている。そういたしますと、いろいろその
議論はあります、ところが社会
教育くらい、
議論はあっても実際むずかしくまたつかまえにくいものはないわけです。そうすると、やっぱり何かそれを行う中心というものを社会
教育の上で与えてやらなくてはいかぬ。それが図書館になるのか、あるいは博物館になるのか、そういう
議論は私は成り立たぬと思う。どうしてもやはりこれは自主的な形で行われる公民館活動というものが中心になって、それが青年
学級とも婦人
学級とも成人講座とも結びついて、こういうような重要な役割を果すのですから、あなたの、また
文部省が考えている考え方は、私は社会
教育への消極さの一面を物語っていると思って、この点についてははなはだ不満であります。そういうことが影響いたしましたかどうかは知りませんが、ともかく
予算を見た場合には全くがっかりさせられるのであります。少くとも
文部省予算というものが、今日国費の中でも
かなりのウエートを持ってきておるにもかかわらず、社会
教育予算というものが、
指摘するまでもなく、すべてのものを全部拾い上げてみて、社会
教育の振興
予算が十一億ですか。具体的に
地方に補助金として回される、いわゆるほんとうの
地方の行政の中で行われる、あるいは
地方の住民がそれによって独自な社会
教育を展開するというものは、そのうちの一億
程度でありましょう。そういうような形では、いわゆる特に環境による
教育、あるいは社会の浄化という役割をになう社会
教育としては、きわめて不十分である。これは総括的に申さなければならぬと思います。
そこで一、二具体的に聞いて参りますが、今私が申し上げました公民館、それについて設置の補助を出しておりますが、ここの統計で見ますと、本館、分館があって、そして各市町村の別にどの
程度のものが今日作られておるかということが
数字で表わされておりますが、その概要をこう見てみましても、やはり常識的に考えると同じように、
数字も、市では本館、分館とも
かなりできておる、それから町に至ってその次に位する、その次が村だ、やっぱりこういう常識的な
傾向を示しているわけです。ここで考えられることは、まあ、わずかな補助金であります、年額一千万が、ことしは千八百万ですか、その
程度のあれですから、実際公民館について云々といったって、これは国よりもむしろ市町村の責任に帰している点が多いわけなんです。だからまあ、
予算の全体を増額させるということ、これはもちろん必要でありますが、同時にどういうものを中心にして設置させるかということについて、やはり構想を立ててやらなければならぬと私は思うのです。もちろんそのことは
文部省でも計画を立てられておるのでありますけれ
ども、
一つあきたらぬ点がある。それは、非常によい
規模のもの、たとえばそのわずかな補助金を配当するにしても、聞くところによれば、百坪
程度のものを中心として、それ以上のものが大体中心になっているモデル的な公民館を設置させよう、こういう考え方、それは確かに私は一理あると思うのです。よりよいものをモデルとして作らせる。ところが実際に公民館活動として、また社会
教育として期待されるものは、むしろそういう一般社会の中でそういう
機会に恵まれない僻地山村あるいは農村、こういうところを中心にした社会
教育あるいは公民館活動をわれわれとしてはより期待しなければならぬと思います。
教育のいわゆるマス・コミに接しない、文化の波をあまり受けないような地域、こういうところにむしろ重点を入れてやるということが私は現実的ではなかろうかと思う。そうすると本館の設置もさることながら、分館でやってもよろしい。奥地に入りますと、隣の部落から隣の部落へ五里も六里も行かなければならないようなところがたくさんある。そういうところへ作る公民館というものを非常に
地方の住民は希望しておるのです。集会所もありません近年ようやく、これは
文部省のおかげですけれ
ども、例の僻地
教育振興ということで集会所が学校に作られた。これがどれほど僻地の学校
教育のみならず、文化を高める上に役立っておるかということは、おそらく皆さんが想像する以上であります。このくらい実際
地方にきいておる
予算は私はないと思う。それと同じように、公民館、それすらこれは補助が少いためにまだまだ設置されません。しかも限定されておる。ですから、
地方の文化活動などというものは奥に行けば行くほど部落単位が多いのです。そうすると、その部落単位にした公民館の設置というものが、結局、
地方の文化の要求に見合う
一つの
施策ではないか。とするならば、百坪以上しかやらないとか、あるいはそういう小さい
規模のものはあまり相手にしないということでは、これはますます都市と農村、山村の開きというものは大きくなるのです。だからむしろ
予算の方が僅少になればなるほど、小さくともそういうところにどんどん目を注いでいって当てがっていく、こういう行き方をとるべきではなかろうか、私はそのことを痛切に感ずるのです。そして部落ごとの分館でもよろしい、建てればそこが集会所になり、青年
学級あるいは婦人
学級あるいは成人
教育の
教育の場になるという、そういうものを当てがっていく、これがほんとうの
機会均等だろうと思うし、社会
教育の
一つの眼目だと思う。認識の方はおそらく持たれておると思うけれ
ども、
予算が少いということでやっておりませんが、何か少い
予算の中でもそういうことを研究して今後やる意思があるか。さらに、従来の
予算千万、千八百万というものはそういうモデル的な大きなものを作って刺激する、それは
地方負担があるのですが、そんな僻村ではそれだけの
地方負担が持てない、勢いこれは都市が中心になるのです。あるいは町が中心になり、市が中心になるのです。だからそれはそれとして、新しくそういう奥地の
一つの部落あるいは僻、地僻村といわれるようなところの小さな公民館をも、どんどん国が
一つ目を注いでやっていくという構想を立てられないか。これは
事務当局の話と同時に、文部行政として
大臣の御
意見もあってしかるべきだと私は思いますが、お考えを承わっておきたいと思います。