○山本(勝)
委員 そこで、初めの貧乏追放ということと関連してくると思うのですが、貧乏の問題というものは、御
承知の
通り何千年来の問題で、何とかして貧しい労働者の生活を高めていきたいということはわれわれの念願でありますが、その
方法の問題、失業者をできる限り少くする
方法、貧乏をできるだけなくしていく
方法とか、
方法の上にやはり危険な
方法と危険でない
方法が出てくるのだと思う。それから、今日は社会党の諸君はおられませんけれども、数日来のこの
委員会の議論の中にも、資本を犠牲にして労働者の労賃の高さを上げていこうというような一つの
考え方も聞かれたのでありますけれども、これは問題だと思います。国において労賃が一定の高さにあり、地代が一定の高さにあり、あるいは利子が一定の高さにあるということは、偶然にそうなっておるのではなくて、経済の万般の条件の結果としてそうなっておる。ですから、その経済の諸条件というものを変えていく
方法でなければ——それをそのままにしておいて、法律を作って力でもって労働者の労賃の高さを上げていこうということになりますと、必ず経済の過程に波動が生じて、その結果は、もし資本を犠牲にしてやるということになりますと、資本の供給力が減ってくる、あるいは投資意欲が減ってくる、結局労働のチャンスが減ってくる。かえってそのはね返りは労働者の不利益になる。ここにそういう危険があると思うのです。
世界のどこの国を見ましても、資本量の多いところほど労働者の労賃が高い。そうして金利が安い。ですから、地代とか金利とかあるいは労賃という一つのカテゴリーでの所得分配を
考えた場合に、一定の資本に対する金利の高さ、あるいは一人当りの労賃の高さ、あるいは一定の面積に対する地代の高さというものの相対
関係においてできる限り労賃の高さを金利や地代に対して高くするためには、——高いところはどこかというと、できるだけたくさんの土地とたくさんの資本がある国ほど、金利は安く地代は安い、そして労賃は高いということになるから、結局、弊害のない、労働者にはね返りのこない労働者の労賃を上げていく
方法、あるいは失業者を少くする
方法というのは、資本量をふやすということが私は第一じゃないかと思う。土地は簡単にふやせませんけれども、少くとも資本量をふやしていく。資本量が労働に対して相対的に多ければ多いほど、金利は安くて労賃は高い。逆に言うと、資本量の割に労働者が多ければ多いほど、労賃は安くて金利は高い、こういうことになるんだと私は思う。ですから、
アメリカのような資本の多いところほど労賃は高い。資本が少くて労働者が多いところほど金利が高くて労賃は低い。
こういう点で私の
考えをちょっと申し上げて御
意見を聞きますが、そういう直接的権力、力でもって資本を犠牲にして労賃を上げるというふうな
方法でなしに、ほんとうに労働者の賃金を上げていく
方法は、一言で言えば労働の生産性を上げていくということに尽きると思うのです。一言にもし言うなら、労働の生産性を上げていく以外に
方法はないと思う。そうして資本の量あるいは土地の量が労働量よりも比較的に多いほど労働の生産性が上ってくる。ですから、
日本のような場合に、土地を広げることができなければ、まず資本量をふやすような
考え方が必要であり、そうすれば金利も下ってくる。それから、資本量を減らすという政策をとれば、必ず労賃が下ってきて、金利が上ってくる、こういうことになると思う。それから、賢明な分業をうまく利用して
国際分業に参加していくということも、私は労働生産性を上げる理由だと思います。ですから、国産奨励も時に必要ですけれども、しかし、ほんとうに労働者の分け前、所得を多くするためには、
国際分業に聡明に参加していくということが必要だと思う。それから、技術の
進歩を十分に利用することはもちろんであるが、もう一つ、労働人口の適度の増加ということを
考えないといけない。労働の増加というものは購買力の増加にもなり、生産性増加の原因でありますけれども、そのかわり一方で労賃引き下げの原因にもなる。結局、多過ぎても少な過ぎてもいかぬが、適度の増加ということが
考えられないと、どんなに資本の量をふやしていっても、労働量がそれ以上にふえていくということになれば、やはり労働の生産性は下ってくる。人口問題も
考えなければならない。それから、平和とか安全とかあるいは秩序とかいうようなものが保たれていけばいくほど、あるいは信用が確実になるとかいうことが、要するに労働の生産性を高めていく
方法だ。こういったようなことをやっていくことが、ほんとうに労働の生産性を上げていく道だと思う。
それから、個人間の所得の分配をできるだけひどい不平等のないようにしていくためには、私は競争というものを失ってはいかぬと思う。逆に言うと、独占とか、あるいは不公正な競争を排除し、公正競争を確保することはやはり個人間の所得の不平等をできるだけ少くしていく
方法である。労働の
世界においても、特定の労働階級というものが一つの独占的地位を占めて高い労働収入を持っておる、ほかの者はそこに入り込む余地はないということが、すでに労働者の中においても所得の不平等を激しくするし、また企業者の中でも独占というものが進んでくればくるほど、やはり不平等が激しくなる。こういった
意味で、
日本の今の政治の傾向全体として
考えて、あくまでも公正な競争を事業界においても労働界においてもできるだけ保持していくようにしないと、それをだんだん失わせるような
方法は結局個人間の所得の不平等をますますひどくしていく、こういうふうに思うのであります。
それから、もう一つ私の
考えを申しますが、不完全労働者が多いということが
日本の非常な欠点のように言われますが、これは欠点であると同時に
日本の経済の一つの強味を示すものでもあると
考えられる。というのは、今日のような非常に高度に発達した分業の
世界というものが
世界的規模で行われておる場合に、一つの波動は必ず全面的に及んでくる。そうして経済条件の変化のたびごとに動揺は免れないのですけれども、その動揺を食いとめる一つの大きなクッションは、やはり国としては包括的な広い
立場でいかねばならぬ。そういう分業
世界における波動を国全体のクッションで食いとめるところを絶えず用意しておく必要がある。そのクッションとして一番大きなものは、やはり
日本の自作農だと思う。ああいった自作農の
世界ではあまり時間も厳重に守らない。しかし、よその人が来ても昼になれば飯を出して米代は
考えないといったような、非常に不合理のようですけれども、そういうふうなものはやはり全体から言うと一つの大きなクッションである。中小企業は非常に不安定である。不安定でありますけれども、不安定ということは何を
意味するかというと、絶えず新しい者が腕一本で入っていける余地のある
世界。よそへはなかなか入っていけない。農業をしようったってできない。資本家になろうとしてもできないが、中小企業だけはからだ一つで入っていける。そのために、中小企業の
世界は確かに不安定でありますが、しかし運がよくて少し腕がよければ小金もたまる。しかしまたすぐ没落もする。こういった
世界というものは非常に不安定な
世界ですけれども、その不安定であるということが
日本経済全体の大きな安定帯たる役割を果していないだろうか。たとえば、
戦争が済んだという変化で何百万という人が
外国から引き揚げてきたような場合に、もしきちんと合理的な分業組織でどの組織も固まっておって歯車を合せたようになっておれば、とうてい何百万の人間をとにかく糊口をつなぐ吸収力はなかっただろうと思う。それが、
日本のようなああいうばく然とした農村あるいは未組織の中小企業の
世界、そういったものがあって、これを吸収したというか、波動を比較的平和裡に受けとめた。とにかく全体の秩序が破壊しないようにそこに食いとめる大きな作用をしておる。そういう
意味で、私は、いろいろな労働の生産性を上げる政策とか、その他の政策のほかに、高い
意味における経済全体の変動に対するクッションの
世界を
考えるということが、やはり雇用政策の上、あるいは労働者の賃金向上、
日本の経済安定の政策全般として必要ではないか、こう言うのであって、こまかいことを言えば、たとえば、つけものを買うてきた方が得であっても、まあできるだけは自分のうちでつけものをつけるというふうなことも、その
意味で小さいながらクッションの働きをする。経済的なこまかいそろばんだけから言えば近所でつけものを買うてきた方が合理的と言えましょうけれども、しかし、とにかく自分でつけものをつけておくという習慣が残っておるということが、経済のいろいろな思わざる波動、変化の場合には大きなクッションの役割をする。
日本の自作農はそういう
意味において国策として保護していかねばならぬ。そういう全体の経済の安定帯、クッションの役割についてどういうふうにお
考えになるか。これは農林大臣にも一つ御
所見を伺いたい。