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唐澤国務大臣 お答えをいたす前に、ちょっと志賀
委員に御了解を得たいと思うのでございますが、先ほど私が、「アカハタ」の記事につきまして、新聞紙にも事実に違ったことが出ることがあると、これは御了承下さることと思います。これは「アカハタ」だからという意味ではございません。われわれ全知全能の神でない限りは、われわれの言動や心持、また作るものについて、時にあやまちがあることは当りまえなんですから、そういう意味で、私は、新聞に出ておる記事にも誤まりがあるから、こちらの方でもまた十分
調査をしたということを申したのであります。それを、志賀
委員は、
唐澤は新聞社はうそをつくと言うたじゃないか、これは二度までおっしゃられたものですから、そのまま過ごしましても、たった十五分、二十分の間においてもそういうふうに行き違いがあるものですから、事実というものはよく調べていかなければならない、そういう意味で、いろいろ今まで御提示になりました事実につきましても、公平にそして冷静に事実を見きわめていきたいと考えております。
それから、今御質疑になりましたことは、これはきわめて重大なことでございまして、御質疑があります以前から、非常に心を痛めておるところでございます。これが軽微な
犯罪でありまするならば、それでいいというわけではございませんけれども、まあそれほどでありませんけれども、死刑にも値いするというような、そんな大きな
事件について、いろいろ
検察当局と裁判官との考えが全然違うというようなことになりますると、まず国民の
検察当局に対する信頼または裁判に対する疑惑というようなものが起きて参っては、これは重大な問題だと思うて、私は御
承知のようにしろうとでございまするけれども、この方面のエキスパートにも、どういうことであるだろうかということを承わっておるわけでございます。
検察当局が、有罪なり、その容疑十分なりと
認定して、そうして訴訟手続を始めますその当時と、それからまた、だんだんと裁判が進行するにつれて新しい事実なんかが出てくることがございまするから、多少、時間の
関係において、新しい事実等によって裁判官が判定したその当時の資料の方が十分であるというような時の
関係はあろうと思いますが、しかし、同じ事実を基礎にして、一方は疑いありといい、一方は
無罪であるというような、
意見が食い違うということでありますと、ほんとうに司法権の動き方についてあるいは国民に疑惑を持たせるというようなことも生じ得るのでございます。でありますから、理想といたしましては、
検察当局が疑いありと認めたものが、裁判に行ってやはり裁判官も同様な
意見で、そうして両方の
意見が一致していくということになれば、これは理想的でございますけれども、これは立場が違いますから、
検察当局としては疑い十分なりと
認定したこともいかにももっともではあるし、しかし、さればというて、これを
無罪にするかというと、これは
無罪にできないというような場合もあるのでございまして、それで、
検察当局が
起訴したものが最終判決において
無罪になれば、常にそれは
検察当局の失敗である、こういうふうにも言えないのでございます。最近の重大な
犯罪につきましても、裁判そのものが、この
事件は最終においては
無罪の判決はするけれども、しかし、これだけの容疑があれば
検察当局としてはやはり訴追手続をとって法廷において争うという態度に出たのはこれは当りまえである、こういうようなことを裁判官の方の判決にすら書かれておるわけでございます。私は実はしろうとで存じませんけれども、
日本においては
起訴ということが非常に社会的に大きなことに扱われておる。であるから、
起訴されればそれは悪いことをしたとすぐにみんな思いやすい。それが
最後に
無罪になれば、非常にぬれぎぬを着せたのではないかというようなことになるのですから、これが重大問題です。私の承わるところによりますと、泰西諸国におきましては、
起訴ということは、とにかくこれは裁判官のところで研究して、有罪
無罪を決定すべき問題だということで手続が出てくる、それで、社会の人は、それが有罪になるか
無罪になるかという
最後の判決を待って、そうして
事件に対する心持をきめる、こういうような
考え方であるということで、その点などが自本とは違うようでございまして、ただいま御指摘になりましたいろいろな
事件につきましては、御
質問があるまでもなく非常に私も心配いたしておるところでございます。