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山本参考人 今次の本
観測におきまして
宗谷のとりました
行動の概要について御説明いたしたいと思います。
十二月の十一日にケープタウンを出航いたしまして、目的地に向けて一路南下を続けたのでありますが、
予備観測と同様に、まず目的地へ直接突っ込む前に、エンダービーの氷を見ることによりまして、今年のリュッッオフ・ホルム湾付近の
氷状がどういう傾向をなしているかということを
調査する必要を感じまして、あちらに向けたのでございますが、
暴風圏は、私
たちの想像以上にしけの期間も短かく、意外に感じたのでありますけれども、その後、昨年の
予備観測の例によりますと、
暴風圏を過ぎると、パックに近づくに従いまして
天候も回復し、海面も静かになって参ったのであります。今度は逆にパックに遭遇したのが二十日でございますけれども、十八、十九日とニ日間にわたって相当なしけに遭遇しております。それから、二十日夕刻パックに遭遇したのでありますけれども、それに先だちパックの線から北方ほぼ八十マイル付近からすでに氷片が現われてきました。氷の小さいかけらでございますが、北に吹き出されまして浮いているわけでございます。それともう
一つ違った点は、
海水温度が非常に早くから下つたということでございます。これを
予備観測のときから比較しますと、水温が零度になったのが、約三百二十マイル北の方から零度になった。それからマイナス一度になったのが、前回よりもおそらく十マイル
程度北方からそういう
状況になっております。この水温が一度違うということは非常に大
へんなことでございまして、極地におきましては、〇・一度が非常に問題になる
温度でございます。そのとき受けた感じといたしましては、今年は昨年とは非常に違っている、氷も相当多かろう、あるいはパックの様相からしますと、昨年は外洋と群氷域の境界線というものが非常にはっきりしておったのでありますが、今度は本格的なパックの境界線がどこにあるかということが非常に判別しにくい境界の外縁線の様相を呈しております。これを具体的に申し上げますと、本格的なパック・ラインから帯状になった群氷帯が北の方に流れ出しておりまして、その帯状の幅でございますが、これは短かいのは十メートルあるいは五十メートル、それからまた帯状の群氷帯の間隔でございますが、これも非常に
距離はまちまちでございます。しかしその様相から判断しますと、群氷域の外縁線、これは北端でございますが、境界線付近が相当しけにあっているということをすでにそのときに判断したわけでございます。そういうことからしまして、楽観できないというような感じを早くもそのときにしたのであります。そうしてなおエンダービーの陸岸からの
距離でございますが、これは一昨年でございますが、松本船長が捕鯨船によりまして
調査をしたとき、一月上句におけるパック・ラインは約十マイルほどでございました。それから
予備観測のときには三百六十マイルで、大体同じ時期になっております。今回は大体十七、八日時期は早かったのでございますけれども、エンダービー沖から九十六マイルというところにパックの線があったわけでございます。これはあとからそういう結論が出たのでございますが、大体エンダービー沖の氷の様相はリュッッオフ・ホルム湾一体の
気象なり氷というものを如実に物語っておったということでございます。そういうような
状況でございますから、あの辺一体の氷については松本船長は非常に心血を注いで
調査、
研究をされておりましたので、その判断に基きまして、ことしは航空偵察をパック外でやることに相当困難があるだろう。
——これはあとからわかったのでありますけれども、先ほど
隊長からの御説明のように極冠
高気圧の勢力が非常に弱かったものでございますから、南大西洋から東進しますところの低
気圧の
中心が非常にパックに近づいておったわけであります。それからまた、これは御
参考まででございますが、よく捕鯨船に乗っている人
たちからの御
意見を聞きますと、これは私
たちも実際そういう点にしばしば会っているのでございますが、あちらの方では低
気圧の
中心よりもむしろ外周の方がしけるというような傾向がございまして、捕鯨船なんかは場合によりますとかえって
中心の方へ逃げていくというようなことがしばしばあるのでございます。
そういうような
関係でパックの外周は低
気圧の
中心とは比較的離れておりますけれども、しけはかなり多いというか、しばしばそういう傾向を示すわけでありまして、さらにまた群氷線の外縁付近に
南極前線がありまして、非常に
天気が悪いということでございまして、そのほかにしけがときどきやってくるものでございますから、ヘリコプターの偵察さえも外洋からやるということは困難がございます。さらにビーバーによる偵察ということになりますと、これはセスナと違いまして、かなり長さが長くなっております。そしてマストと船橋との間に一ぱい一ぱいに納めてございますので、これをつり出して水面におろす作業は、ビーバーをこわさずにやろうということになると非常に困難がございます。そういう点から見まして、これはどうしてもある
程度パックに進入して、パックの中にあります
海水面によってビーバーを飛ばして、全般的な
調査をやるより以外にないということを判断されまして二十三日ごろからパックに入って
海水面を求めながら
調査を続行していったわけでございます。二十六日に至りまして南方約三十八マイルのところに有力な
海水面がありしまて、ビーバーを飛ばすことが十分であったばかりでなく、
基地に進入する有力な手がかりとなるということが判断されまして、一応その
海水面に向けて、二十六日から
基地に向けての突入を開始したわけでございます。
しかし、その後の
気象なり
氷状は非常に悪うございまして、具体的に例をあげてみますと、
宗谷の砕氷能力は再改装によって相当増強されました。この全能力を常に発揮したのでございますが、前進は非常に困難をきわめまして、
予備観測のときとは比較にならないほど困難をしました。それからまた前進するためにはそのつど船長がみずからヘリコプターに乗られまして
氷状を偵察しなければ進めなかったということでございます。さらに船長が偵察されて進路を決定すると同時に、航空士が乗りましてその進路を導くために千メートルおきくらいに赤旗を立ててそれを伝わって進まなければ、いつのまにか泥のようなところに突っ込んでしまって抜き差しならなくなるという、
氷状が常にそういう
状況をいたしておったのであります。そういうような
状況でございましたから、そのころからすでにプロペラなんかも相当氷もかんでおりますし、またプロペラに氷が当るのを気にしておったのでは、一歩も進めなかったという
状況でございます。その
氷状はそういうことでございますが、これは前回の
予備観測よりも時期が早いために、しかもその時期は進入に最もいい時期である、融消の最盛期に当っておるわけでございますから、いずれはよくなるということは、われわれとしては予想しておったのでございますけれども、その最もよくなるべき時期に相当強いしけが二回ほどやって参りまして、ことに一月の九日から十一日にかけての大しけには、
宗谷のまわりの氷ばかりでなくリュッッオフ・ホルム湾一帯の
氷状が
一つの大きな氷原になりまして、水面がほとんどなかったと言われるくらい氷盤が重なり合って二重、三重あるいは四重にもなりまして、そういうものが固まり合って
一つの大氷原をなして、
宗谷はここに身動きもできなくなりまして、長期戦を余儀なく覚悟したわけでございます。
その後は
機会あるごとにヘリコプターを飛ばし、船長みずから
氷状がどう変化しているかということを克明に
調査されたのでございますけれども、その間にも次第に海流に流されまして、クック岬の方へ近づきまして、
基地とはだんだん遠ざかってしまう、このまま
基地に進入することは
氷状からも非常に困難である、ほとんど不可能であるという判断のもとに、一応外洋へ脱出しまして、
基地の北方海面から再び入り直すことが一番可能性がありますし、しかもまた
距離的に短かいということになりまして、外洋脱出をはかることにきめまして、そちらの方の
氷状を終始偵察したのでございますが、時期的に遅延することは、
氷状の条件から飛行機を飛ばす
機会も非常に少くなりますし、あらためて
基地の北方海面から入ることができたとしても、おくれることは再び脱出するときに脱出できなくなるという可能性が出て参りますので、ここに自力で脱出できるという自信はございましたけれども、そういった
関係から本
観測をゼロにすることはできないということになりまして、外国船の依頼ということが東京で決定されたわけでございます。
バートン・アイランド号が救援に来ることが決定されまして、こちらにだんだん近づいておったのでございますけれども、私
たちといたしましては
バートン・アイランド号によって引っぱり出されるということになりますと、非常に時間もおくれますし、次の
行動に制約されるということが判断されまして、
氷状がよくなり次第、自力で脱出するということは、当然私
たちとしてやらなければならないことでございますので、
氷状のよくなる
機会をとらえながら、自力脱出を
努力いたしまして、なるべく早く
バートン・アイランド号と会合して、次の進入地点に入らなければならないという必要を感じて、全力をあげて脱出をはかったのでございますけれども、たまたま二月一日の朝の五時半ごろでございましたか、ついに左舷推進機の一翼を折損してしまったわけでございます。これもいつやったかということははっきり断定ができませんので、先ほど申し上げましたように、ことしは
最初から
氷状が悪くてプロペラが常に氷をかいておったというような
状況でございますので、そういうものが重なってそういった結果が現われてきたということを申し上げたいと思うのでございます。その後はバ一トン・アイランド号の誘導に従いまして氷海へ進入したのでございますけれども、その辺の経過につきましては、先ほど
隊長から御説明がございましたので省略させていただきまして、いよいよ
バートン・アイランド号も氷海にこれ以上長くとどまることはできないということになりまして、十四日の夕刻再び外洋から第二次
越冬隊を
空輸するということに
計画を変更したのでございますが、十七、十八日と
空輸する
計画を
実行中でございましたけれども、十九日正午に至りまして非常にしけて参りました、当時そのパックの外縁付近におったのでございますが、その付近には非常に氷山が多うございまして、傷ついた
宗谷は操縦性が非常に悪くなっておりますし、こういった海面でしけられるということは大きな氷塊にぶつかっても危険でございますし、さらに氷山にぶつかるということは船体を破損して百三十名の生命にかかわる問題になってきますので、一たんその海域を退避せんとして
努力したのでございますが、傷ついた
宗谷をもってそういった退避のための
行動をするということは非常に危険をしばしば感じております。それからややおさまって参りましてから、今度はさらに次の低
気圧の間を縫って二十三日、二十四日ごろ、残されました好天時の最後のいい
機会をねらってパックに再び近づきまして、
空輸の
機会をねらったのでございます。
その当時の
気象並びに海洋の模様でございますが、低
気圧が過ぎましてしけがおさまりかかりますと、また
天気はよくなって参りますけれども、この
天気のよくなる時間というものも非常に時期がおくれればそれに従って晴天の日というものは短くなって参ります。
天気はよくなりますけれども、海面の
状況はまだ波浪が相当残っておりまして、ビーバーを水上におろすというようなことはほとんど不可能な
状態が続くのでございますが、しばらく海面がおさまって参りますと、今度は次の低
気圧によりまして
天気が悪くなって、飛行機が飛ばせないというような悪循環がやって参りまして、チャンスが少くなるような
状況でございます。二十四日には一時よくなりかかったのでございますけれども、しばらくして今度はしけて参りました。
バートン・アイランド号といよいよそこを引き揚げることになりまして、
バートン・アイランド号と別れるときなどは非常にしけておりまして、砕氷
専門に作った
バートン・アイランド号は、本船よりも相当動揺をひどく感じておりました。
電報で、いろいろこれまでの御好意を深謝するというあいさつをかわすと同時に、国際信号旗でもって、旗流で御苦労さま、救援を感謝するという信号を掲げたのでございますが、これが近づいておる
バートン・アイランド号からめがねでつかめないほどしけておりました。これ以上長くおるということはとうてい
——一日や二日、もう少しねばろうという
気持のあった人もあるだろうと思いますが、船の
状況としてはその海面を一時避難しなければならなかったような
状況でございます。
それからもう
一つは、予想以上の長期間にわたった
行動でありますので、真水の確保については、氷に閉ざされている間、長期戦を覚悟してからは節約をはかりまして、ほとんどタンク内の水は使わずに、氷から水を作りまして雑用に供すると同時に、今まで洗濯もやっておったのでございますけれども、その洗濯さえもケープ入港までは取りやめというようなことをやりまして、真水の確保に努めたのでございますが、すでに二月の末、二十四日ころになりまして、ケープまで入港するのを確保するために残しておいた水が、非常に心細くなったというような
状況から、ここで船長と協議のもとに、涙をのんで
南極氷海面を離脱しなければならないような
状況になったわけでございます。
はなはだ説明が要領を得ず、お聞き苦しかったことと思いますが、なお最後に、今
宗谷は松本船長以下最善を尽したということで満足して、たんたんたる
気持でインド洋を
航海しております。
それから氷海に閉されたときに、
皆様方から御激励の
電報をいただきまして、乗組員一同非常に感激しておりますので、一同にかわって御礼を申し上げます。(
拍手)