○
八木(
一男)
委員 そこで
予算を
一つほんとうに本腰になってやっていただきたいと思いますのは、貧乏の問題であります。この問題については、
ほんとうに貧乏ということは
経済状態が悪いとか
政治が悪いとか、いろいろなことがあります。これは今の
内閣に言っているわけじゃなくて貧乏の根源は歴代の
内閣が悪いのです。その貧乏の中でもこの未
解放部落の
人たちの貧乏は、
本人なりその
関係者には
一つも
責任がない。非常な抑圧のもとに起った貧乏という点で特に重視して
考えていただく必要があると思います。
部落問題が何からゆえんしているか、いろいろの
学説がございますけれ
ども、そういう昔の問題は時間もありませんから差しおきまして、ごく近代的な問題としましては、
戦国時代に一応
実力時代でこういう問題の
現象が少くなりました。ところが
徳川時代に
徳川政府が政権を握ったときに百姓の収奪政策をやろうとしまして、百姓をして食わしむべからず飢えしむべからずという方法をとりました。そのときに百姓を収奪する代償として、また百姓にほかの階級がくっついて百姓一揆が強くなることをおそれて、分裂政策と両方を兼ねまして、百雄には士農工商というふうに、そのときの支配階級である武士階級の次の階級を与えました。そして商人とかいろいろ工業関係の人というような百姓と同じような実力のある人もさらに下にして、百姓に上を与えた。それでもまだ足りないでその下に穢多非人という階級を置いて、百姓の名誉心を盛り立てて、それからお前たちは国の宝だぞという名目のもとに無理やりに百姓が食えるぎりぎりの線まで収奪をされた。そのことのために逆にほかの人を人間扱りいしないでむちゃくちゃに押えつけたというような封建
時代の政策が今の
状態の
原因なんです。ところがそのときには代償がございました。というのは斃獣処理権とか、その皮革とか、さむらいの乗った馬や百雄の使った牛が死ぬと、それの処理の独占権は近所の
部落民に特権があったわけです。百姓自体さむらい自体がこれを処理できなかった。皮革は馬具になったりして事業として成り立ちますから、そういう点で食える方は十分な
状態ではないけれ
どもかすかに維持されていたわけです。ところが明治
時代に太政解放がございました。これで万民
一緒になった。一応非常にいいことでございましたが、このことが
部落民にとってかえって逆にマイナスになった。というのは階級制度が一応なくなったようではあるけれ
ども残っておりました。華族制度があり、それから位階制度が残っておりました。そしてまだ士族という名前が残っております。あくまでも前にさむらいであった人はとうといとされていたために、その余波を受けて前にいやしい階級とされていた人はあくまでもいやしいものだということが、明治
時代から大正
時代を通じてずっと残っていたわけです。身分制度は表面上消えた格好だが、実質上は残っていた。ところが太政官布告で万民全部平等になりましたから、職業の制限は消えたわけです。そうすると皮革に対する独占権が取られたのです。片一方おさむらいの方は俸禄はなくなりましたが、なくなったかわりに秩禄公債というものが明治年代に二億一千万円発行されました。今の金ですと少くとも四千億円ぐらいになります。ですから武士階級は俸禄はなくなったけれ
ども、中には農地を買って大百姓になりあるいは実業家になる、そういうような金の面の裏づけをされて、おまけに前のたっとい階級であるので、おさむらいさんが商売をするならということで
条件もよかったし、土地開墾の
条件もよい
条件を与えた。武士階級はよかった。身分的にとうとばれる
状態が残っておった。ところが
部落民は身分的に
差別条件が残っていて、産業的な独占権は奪われた。ですから前より経済的に非常に
状態が悪くなった。明治の解放のときには、全然土地はとれなかった。持っていた入会権なんかもいろいろな土地の改革で入会権がはずされて、村有になったりいろいろなことで、入れるようでも入れなくなったというようなことで貧乏の
原因を作った。そうして今度は都会に出ていろいろな商売をしようと思っても、
差別観念があるから、商売をさせないとか、そういう店からは買わないとか、象を貸してくれないとか、都会に住めないとか、同じ
条件で同じ家賃を払うといっても家を貸してくれなかったり、そういう
状態でずっときたわけであります。
それから資本主義が発達しても、結局半永久失業者がおることが労働者を低賃金にしておくためにはいい
条件ですから、積極的にそういう
状態を改善しようというようなことはいたしておりません。明治末期から大正の初めにかけて思想はますます悪くなり、大正から昭和にかけてちょっと
部落改善事業はやられましたけれ
ども、問題が非常に大きくなったのは米騒動のときで、それから水平社の運動が起って、全国的なほうはいたる運動になった。それでびっくりしてこの
環境改善費を出した。毎年五百万円で十カ年五千万円の事業が始まったが、戦争で一時中断されてなくなってしまったという
状態であります。戦後農地改革のときに農地の解放がありました。ところが農地解放は三反歩以上の自作農を創設するという方針で、小作権を持っている人に分けるという方針でやられたが、
部落農民の大半は小作権を持っておらなかった。農業労働者で手伝いという
状態だった。持っていた人もおる。苦心惨たんして手に入れた人もおりますけれ
ども、そういう人はほとんど農地解放の恩恵に浴していない。農村を中心とした農林関係の
部落民の持っている農地は、全国平均の半分以下です。
部落農民の持っておるものは関西あたりで二反歩だ。私のおります奈良県では二反歩以下くらいしか持っておらぬ。持っている農地はあとから手に入れたので、災害があれば流れてしまうような土地とか、山ぎわで日が当らないところ、作物が育たないような土地で、一里も二里も歩かなければならぬ、そういう土地しか持っておらない。農民としてそれでも持っている方はいいのです。全然持ってなくて、農業労働者として季節労働者として働くだけしかできない人がおる。ですから農民として立ちません。今度は零細企業者として立っていこうとすると、皮革の方は、
日本皮革とか明治製革とかいうものに全部とられてしまって、くつの方も大きな業者にとられてだめになる。特殊産業であるはきもの工業、げた、鼻緒、これは生活様式が変ったから売れ行きが悪くなってだめになった。今度は就職しようとすれば、貧乏だから上級
学校に行く
機会は少い、それから義務
教育でも、さっき申し上げましたように、長欠、未
就学というような
状態です。それを乗り越えてがんばってやった人が、今度は就職のときには実質上
差別をされる。ですから労働者としても成り立たない。漁民の問題も同じです。漁具の問題、漁船の問題、そういうようなことで生活の根拠がないわけです。そういう
状態です。
ほんとうに気の毒だ。気の毒というより申しわけないと思う。
徳川時代以来の歴代の
政府のやり方が悪いために、その間何百年人間外の暮しをしてまだその
条件が残っておる。いつ完全に直るかわからないという
状態ですから、これを直すのは全
国民の
責任だと思う、各
政府の
責任で、各政党の
責任だと思う。私は政党の利己心で、
社会党でやるとか、そういうことは言いたくありません。
自民党にもぜひやっていただきさたい、
社会党もぜひやりたい、共産党もぜひやっていただきたい、緑風会もぜひやっていただきたいと思う。そういう意味で、この問題を根本的に解決していくことは
政府の
責任であって、各政党の
責任であって、その
人たちが早く直してほしいと要望することは権利であると私は
考えるのです。その点についての
総理大臣の御
決意を
一つ聞かしていただきたいと思うのです。