○邵
証人 実は私は現場に着いてからすぐ周さんが死んでおる部屋に入りました。周さんは口から血が少し出ております。そのアパートヘは僕は初めて行きましたから、部屋の中の様子を見ますと、六畳もないくらいの小さい部屋でした。ベッドがありまして、周さんはそのベッドに寝たまま死んでおりました。すぐ隣に台所兼トイレットの小さな部屋がありまして、そのトイレットのところに小さい窓があいております。周さんはガス中毒で死んだ、どうして口の方から血が出ているか。私はガス中毒で死ぬ場合は
常識的に考えると、血が出ないはずだと思った。それで事故死ではなく他殺ではないかと私は実は疑念を持ったのであります。それでそのアパートの管理人、
名前は今覚えていませんけど、聞いたところが、ガス中毒で死んだと思う、だれかが八時ごろよそから電話をかけてきて、それで周さんを呼びに行ったところ、周さんはガス中毒で死んだと言いましたけれども、ガスのにおいはどのくらいの強さをしておりましたかと言うと、おばあさんは
自分は鼻が悪いから、あまりガスのにおいはわからなかった。それで私はよけいに疑念が深くなりまして、いろいろなことを聞いて、あなたはどういうふうに入りましたか、ドアをたたいて、ドアはカギがかけてなかったからすぐ部屋に入りました。それで私が聞いたところは、ガスはどこのガスのせんから出てきたか。
——私は台所へ入って見ましたが、ガスのせんは二つあります。左の方のガスのせんにはゴムはついていない。右の方はゴムが通っております。それでガス火の出る道具が置いてあり、その上になべがかけてある。聞いたところが、このガスは左の方、ゴムのついていないところから出てきております。それで
自分が入って、少しひゅうひゅう音がしておりますから、ガスは出ておるではないか、そのせんを締めた。だから周さんがガス中毒で死んだと思った。私はその点についてもちょっとおかしいなと思った。周さんは、ガス中毒で死んだ
中国人の友だちもその前におりまして、ガス中毒はいつも心配しております。だからそのうしろの台所の小さい窓は常にあいております。そんな細心の人で、ゴム管のついておるガスのせんを締めようと思って間違ってゴム管の通っていないガス管のせんをあけたということは
常識上は私はあり得ないと思います。たとえばゴム管の通っておる方に火がついておるときに、この元のせんを締めようと思ってもし間違っていつも使っていないせんをあけましたら、第一ひゅうひゅう音がします。時間的には大体十二時以後になっておりますからガスが一番強いときです。それでもし間違ってこれをあけまして、締めなければ火はそのままついておるはずです。それで気がつかないはずはない。たとえばこのガスの火を先に消してから、ガスが危いから、わざわざ元のせんを締めに行くときには、締めようと思って間違って片方をあけたという、そんな非
常識なことはよけいないだろう。だから私はたとえばガス中毒で死んだとしても、周さんが
自分の過失で間違ってあけて死んだか、あるいはだれか部屋の中へ入ってあけたのではないか、そう思いました。私はその疑念を持っておるから、なるべく解剖してほんとうの事実を究明したらどうでしょうかと思ったのです。それで私は個人的に、三十日の午後でした、東大の法医学教室に電話をかけまして解剖のことについて依頼しようと思ったけれども、女の事務員が電話口に出て、たしかその日は日曜日でした。きょうは日曜日ですからだれもいない、あしたなら返事できます、きょうは何も返事できない。それで周さんの奥さんは、京橋に事務所を周さんと一緒にやっておる
日本の友だちの
杉本喜三郎という人から、周さんの奥さんに報告して、それで周さんの奥さんの方から、どうしても
自分の方から
日本に来るまで火葬しないでくれ、最後に一目したいから頼む
——それは私はもちろん、普通の
中国人もみな一般にそう考えますから、死んだ場合は最後に一度会って火葬するのは普通だけれども、それなら、もし奥さんが香港から
日本に来るまでは、いろんな入国の手続上きょう、あしたは
日本に来るわけにもいかぬから、多分四、五日か一週間のひまがかかる。もし周さんの奥さんを待つなら、死体をどういうふうに保存するか、それも私は青山斎場に電話かけまして、その死体保存のことを頼んでおったのです。それで青山斎場の
責任者は、
名前は今覚えていますけれども、冬だから死体はすぐ腐らんすることもない、たとい十日でも一週間でも、保存しようと思ったらわけはない、ただ割合にいい棺おけを使って、それを毎日一度ドライ・アイスを入れかえすれば、十日か一週間くらいはもつだろう。それで私は、たしか六万円だったかで割合にいい棺おけを頼んで、毎日ドライ・アイスを入れかえて、青山斎場の紹介で、青山斎場の近所の寺に預けることになったのです。ところが、あとでまた
杉本氏の方から、周さんの奥さんも、もう死んでしまったから、
自分はもう一度も会わなくてもいいから、
日本の習慣
通り火葬にしてくれ……。それで私も、いろんな手配はしましたけれども、奥さんの意思がそうだったら、私が一人強く主張してもむだだから、それで死体の保存のこと、解剖のこと、すべて私個人としてはその意見を放棄しました。
それで、私は現場に十一時半過ぎに行きまして、約一時間ちょっと現場におりました。この周さんの事務所というのは、京橋にあることは私は聞いたことがありますが、行ったことはありません。それで、周さんの事務所にだれがおるか。死んだから、その遺産がもし紛失したら困るから、われわれ友人としては早く事務所へ行って、一度整理して、みんなで保管しようじゃないか。それで、京橋事務所で一緒に
仕事しておる
杉本氏はここに、現場に見えてないかと聞いたところが、
杉本氏は一番早く現場に来まして、約三十分くらい部屋の中へ入ってすぐ帰りました。その後は電話一本の
連絡もなかっだ。それで私は、どうもこれはおかしいじゃないか、
仕事も一緒にしておる周さんの一番の友だちで、現場に三十分くらい来て、すぐ事務所に帰って、その後何も、電話一本もかけないのは、とにかくおかしい。それで私は現場におった
中国人の周さんの友だちに、事務所に一度行ってみようではないか、みな行く必要ありますというので、私を入れて四人で行きました。みな周さんの友だちであって、一人は朱文虎といいます。一人は女の人で張掌珠、もう一人はこの張掌珠のおじさんに当る張鳳挙という人です。この四人で、大体十二時半前後に京橋の周さんの事務所に行きました。事務所といわれたけれども、入ってみたらマージャン屋です。それで地下室がありまして、割合広いマージャン屋でした。それで入って、
杉本氏に私も初めて会いました。それで
杉本氏に聞いたところ、昔上海の工部局の警察官であって、上海の言葉はとても達者だった。私と一緒に行った三人は
日本語はあまり話せないから、それで
杉本氏とときどき会ったこともあるが、いつも上海の言葉で話しておった。私はそのとき初めて会ったのです。私は
名刺も何も出さなかった。ただ一緒に四人で入って、それで
杉本氏に会って、周さんの奥さんと今国際電話を頼んでいるから、間もなく奥さんから電話で
連絡して、葬式のことについて打ち合せよう、それではそうしなければならないことだから、それでみんなで話したところ、ここは周さんの事務所である、周さんの事務所の部屋はどこにあるかというふうに聞くと、その
杉本氏の返事は案外に私の予想外だった。ここは周さんの事務所ではない。店でもない、ただ周さんがときどき私の事務所を利用して、
手紙をここに送ってきて、私が周さんに
連絡して
手紙を届けるか、周さんを呼んで、
手紙をとりに来るか、このくらいの
連絡場所にしか使っていない。それでは、私の知っている
範囲はそうではありません、確かに周さんはあなたのところを事務所として使っている。約三十分間もめてもなかなかはっきりしたことを言わない。それで私は
杉本氏に、あなたがほんとうのことを言わなければ困ります、ほんとうのことを言ってほしいということを私から言うと、
杉本氏は上海の言葉で「ノンズ・サーモズ」、
日本語で言うと「君は何者ですか」、それで私はいよいよけんかしなければならないなと思ったのです。それであなたは何者だと聞かれたから、私は
名刺を差し上げます、私は
名刺を出して初めて、私はこんな者だ、周さんの友人であって
弁護士である、周さんがあなたと一番いい友だちだと私は聞いております。それで周さんの事務所がここにあると聞いたから、みんな参りまして、あなたと話しにきたじゃないか。私の
名刺を見てから、初めて
杉本氏の態度が変ってきた。それなら話しますけれども、実は周さんは奥に部屋が
一つありまして、この部屋は倉庫として使っておる。鉄の門がありまして、この鍵は周さんと
自分二人しか持っていない。その中に周さんがときどきものを入れたり出したりしておりましたけれども、どんな物が入っていて、どんな物を出しているか、
自分は知らない。それなら皆で立ち会ってあけようじゃないか。それじゃあけましょう。三十分間けんかして、初めてこのドアをあけてみたのです。このドアをあけると、
中国式のトランクが小さいの、大きいの五つくらいありました。一番下のトランクは、このくらいの大きさのトランクでありまして、鍵はかかっていない。それで
杉本氏が一番初めに入って、すぐトランクをあけて、周さんはいつもこのトランクを利用している。このトランクは私のものであるけれども、周さんはいつもこのトランクを利用して、物を入れたり出したりしていた。あけてすぐ、
書類なんかのカバンを
一つ出したのです。それからもう
一つ、紙の袋が
一つありまして、これも周さんのものだ。それで私はこれだけですかと言った。これだけです。それじゃよくわかりました。部屋で皆で立ち会ってあけてみようじゃないか。それでまず紙の袋をあけてみたのです。あけてみたところが、現金が百七十万円出てきたのです。それでカバンの中には、いろいろな
書類が入っていましたけれども、みな
一つ一つ見るのも相当時間もかかりますし、それじゃカバンはあとにしよう。とにかくカバン
一つと現金百七十万円が出てきたのです。それなら僕は、
杉本氏としてますます周さんに対して申しわけないことが別にまだあるのではないかと思ったのです。ほんとうにこれだけですか、と私は聞いた。そうすると
杉本氏は、そのすみのところにもう
一つ物を置く場所があるから、あるいはその中にまだ何か入っているかもしれません。それなら、もう全部周さんのものなら、全部出してみようじゃないか。それでまた紙で包んだ袋が
一つ出てきました。これも周さんのものだ。二度も私追及して出たものです。それじゃみんなであけましょう。あけてみたら、その中にスイス製の高級の時計五、六十個入っております。その時計も周さんのものだ。もう一度念のために聞いたのです。ほんとうにこのほかに何もないのですか。今度ほんとうに何もない。それで今度出てきた
品物と現金をどうしたらいいか。それで私は、みんなで保管しまして、周さんの奥さんが
日本へ見えましたら、周さんの奥さんに渡すべきだ。それで私は
杉本氏に、あなたのところから出てきたものだから、皆の前であなたが保管したらどうですか。そのかわりに預かり証を僕ら四人に対して出してくれ。それで
杉本氏は応じなかった。私が保管すると工合が悪い。私は
自分で考えたけれども、たとえば初め私たち四人が行って、すぐこうこうこうだと話したら、私は何も疑わないのです。もめてから、けんかをして、今度こんなものが出てきた。それから
自分が保管するのも何か工合が悪い。それなら、もしあなたが保管しなければどうしたらいいかと私が聞いたら、
杉本さんは、それじゃあなたは
弁護士だから、あなた保管したらどうですか。それも私はちょっと考えて、もちろん私が保管しても差しつかえないけれども、たとえば私がこの
品物を保管して、あとからこの
品物が
杉本氏の事務所から出たことを、
杉本氏が否認すればどうするか。私はまだ別に何か周さんの財産がほかにあると思って、否認すれば何も方法はないから、それじゃ、私はよろしいです。とにかく私が保管しますから、そのかわり預かり証を私からあなたに書いてあげますから。それでカバンはそのままにして紙に包んで、それから厳重に封をして、その上に紙をはって、
杉本氏を入れてわれわれ五人がこの上にサインして、とにかく周さんの奥さんが見えましたら、皆の前であけまして、そのまま周さんの奥さんに渡す。内容は当分調べないことにしよう、そういう経過がありました。だから、もし私がそのとき京橋のマージャン屋に行かなければ、今私が話した現金は百七十万だけれども、あとで周さんの奥さんが来て、カバンの中の
書類をいろいろ調べたところが、約二百四、五十万の
権利書類が入っております。私が行かなければ、
権利書類と現金は
杉本氏はどうするつもりか。私はこれはとにかく横領されるおそれがないかと思ったのです。それであとでそのカバンの
書類は、周さんの奥さんが五日ごろ見えまして、奥さんに渡しました。現金もそのまま渡しまして、カバンの中のいろいろな
書類を調べると、約束手形もあるし、抵当権を設定している
権利書類もあるし、外人の自動車の
売買の
書類も入っているし……。それで、そのとき周さんの奥さんは相当感激しまして
——私そのときは実際のことをみな話したのです。あるいは
杉本氏は、周さんの奥さんが来たらおとなしく直接周さんの奥さんに渡す気持があるのかもしれません。しかし私は、当時私たちにすぐ話せばそういう気持があると認めますけれども、こんなにけんかしてからあとで出たものは、私はどうもすぐ周さんの奥さんに渡す気持があるかないか、ちょっと疑問だと思います。大体三十日の私が
関係しておったことはこのくらいであります。