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夏堀参考人 私は、青森の八戸で生まれまして、
夏堀洋と申します。
昭和十九年の六月二日に
樺太豊原に着きまして、そして
大東組という
土建組合に私は働くようになって行ったわけです。当時の
仕事は
労務係として
仕事をしておりました。それからずっと
豊原で働いておりまして、一九四九年六月に、私は、百二十一条という条項のもとに、三年間
刑務所に送られたわけです。それで三年間の刑を終えて出所して
豊原に来ました。そのとき私は
豊原市内の
居住を許されなかったわけです。それで、
エストル方面に私の
居住地を指定されましたので、そこに行ったわけです。そこに行ったときに、
向うの
建築事務所で、カルバッサといいますが、ソーセージの工場、そこの
暖房並びに冷蔵庫のコンプレッサーの
技手として働くようになりました。それで
生活は普通の
生活をしていました。からだが弱いものですから、非常に
豊原の方へ出たい出たいということを私は言ったのですが、私が三年間入ったことで、
日本でいうならば
前科者として
転居を許さないわけです。ところが、
向うの
民刑法によりますと、三年間たつとその
罪名が滅消してしまうということを言われたわけです。ところが三年たっても
転居は許してくれない。それが、五三年のスターリンの死によって、私どもの
前科者という
罪名がなくなったわけです。それで自由に
豊原に出てこれるようになった。そのときも、
都市計画によって、今
豊原では一人につき八平方メートルの余裕があれば、そこに
転居できるわけです。なければそれができない。それで、そういう
都市計画のもとに、私
たちはなかなか行けなかったのですが、私は、
胃かいようという病気のために
病院から
証明書をもらって、そして
豊原に来たわけです。そのときはザゴゼルノーという
国家食糧配給倉庫、そこに、
ボイラー並びに
スチーム暖房取りつけの請負といたしまして、そこで働きました。その
仕事を二カ月間で終えたのですが、
日本人を三人使いました。それから、その秋に、私は
胃かいようが悪くなりまして全然立てなくなったわけです。そうして半年ほど休んで、翌五七年の春、
豊原にある
内務省の
建築課、そこの
暖房技手として勤めまして、六カ所の
ボイラーを責任をもってやりました。
ロシア人並びに
朝鮮人の、カチガールといいますが、
ボイラーマンまた職工、そういうものの長として働いてきました。そうして今度の
引き揚げの
白山丸に乗せてもらってきたのです。
私が出所したのは五二年ですが、出所したときは、
学校の
暖房工事を請け負いました。そのとき、ここにいる
山村さんなんかと私は六月十七日に出所したのですが、
ラーゲルの中の人とも
連絡をとりまして、七月四日に出てくる
日本人のために骨折ってくれ、そういうことで私が約束したのです。そうして、四人出てきたが、住むところもないために、
学校に部屋を借りてその
人たちを泊めた。そうして前渡金をもらって私
たちは
仕事を始めていったのですが、三年間、五年間
刑務所におって束縛を受けてきましたから、
映画を見たいとか、食べたいとかいうことはたくさんあるわけで、経済的には非常に苦しんだわけです。それで、私が後に
結婚した
ロシヤ人の女、その人から私はお金を融通してもらった。それから、友人といいますか、
結婚の道へと進んだわけです。その年の十月二日に余儀なく
向うに行かなくてはならないことになって、
エストルに行って、それから六年間余その女と
一緒になったわけです。それで、今度の
引き揚げに、
向うの
内務省の長の
大佐、マロゾフという人が、私
たちに行くことを許してくれたわけです。それから
モスクワの
門脇大使の方からの
名簿にも私と私の妻も載っていた。
向うでは、結局、
日本人の
引き揚げに対して、
結婚届を登録しているものは、
日本人の付属といえば失礼ですが、帰してくれる。だから
朝鮮人も
ロシヤ人も帰すということになったわけです。つまり、
ロシヤ人というのは、
日本人の
国箱に移したそういう
人たちも帰すに至ったわけです。それで私も
内務省の
外人係のところに行って聞いてみた。ところが、お前の妻のマリアは
名簿にも載っているし、
日本でも引き受ける、それで帰れることになった、さっそく
支度をして
引き揚げ準備をした方がいいというので、私からいえば
内務省の
官舎に入っていたわけです。妻は
外人課に働いていました。そういう条件のもとに、私
たちは、皆さんの
引き揚げ命令の一週間前ぐらいから、内定的に、もうお前は帰れるのだ、そういうことを言われて、私
たちは
支度していたわけです。そうして私
たちは一月五日に
豊原を立ったわけです。そして、
収容所に出て、九日の出船、その船に乗ろうとしましたが、乗せなかったわけです。そこでいろいろと
向うと戦ったのですが、それは結局
人種が
ロシヤ人であるということで、私
たちと
一緒に三家族残された。
谷口洋の
妻夏江静枝という人が
ロシヤの
国籍を持っている。もう一人は床屋さんで
齋藤晃さん、この人は夫の方が
国籍を持っていた。その
人たち三人だけ残されたわけです。
それで、私
たち三人が残って、「どうしてナホトカまで私
たちを許してくれたか。あなた
たちの
命令がなかったら、われわれは残っているのだ。今は家財道具を売って何もないところへは帰れない。私は
官舎ですから家はありますが、ほかの人は家もない。夜具もない。」それで交渉しましたら、いやこの次の船で帰してやる。ですから
内務省としても、
内務省長の
大佐が
モスクワの
最高本部に電話をかけて、お前
たちの許可を必ず取ってやる。それで官費でもって食糧を支給されたわけです。毎日食堂へ行って食べるのですが、それほど
待遇は悪くなかったです。そして次の船を待ったわけです。その次の船が十五次引揚船になるわけです。ちょうど十八日まで待ちまして、十八日には谷口と斎藤夫妻は許されたわけです。そして私の妻のマリヤだけが許されないわけです。そこで、また戦かったのですが、
向うのとめたのは税関です。それから、沿岸警備、国境警備の方の係官が、「あなたの妻は
ソ連人として
引き揚げるわけです。そのためには外国
居住旅行手形をもらわなければならない。そしてそこの国から出なくちゃならない。それには、お前が先に帰って、近親者として呼び出すことが一番の早道だ。」こういうわけです。それで、私を帰したくなかったのですが。私は、子供も母親もいますから、こっちへ帰ってきたわけなんですが、
内務省の省長とかたい約束をしてきたわけです。それは今の手形を
向うに送ってやるということが一つ。二つは私の願書です。
日本で
結婚届を許可するという、外国人と
日本人の
結婚を許可するという外務省なり
内務省なりの
証明書がなければならぬ。それで、私は、その願書の中に
日本人としての
結婚届を書いて、それに今度は妻を一生扶養するということを書くわけです。それから三番目は近親者としての呼び出し状を送ってやる。そういうことを私が言われたわけです。そしてこっちへ帰ってきたのですが、まだその方の
手続はとっておりません。
それで、いろいろこまかい登録の仕方とか、それから
向うのやり方ですね。私を帰したときの
向うの係官の顔ですね。やっぱりお前は帰ったのかというのです。
最初は、お前は帰れ帰れというわけで、「お前は
日本人だから帰れるんだ。ただしお前の妻は帰れない。
ロシヤ人であるから、別な道を踏まなければ帰れない。だからお前の妻は
日本人の
国籍に移ればいいのだ」ということを言うわけです。ところが、これは、前のスターリン時代にあった憲法があるわけです。
自分の祖国を売るということで、この憲法の五十八条で売国奴として投獄される。ですから、家内と相談して、あくまで
ソ連人として来る。もし
日本に入国できれば
ソ連の
国籍なんか何でもない。とにかく
向うを出船するまでは
ロシヤ人としているということを、私どもは相談し合っていたわけです。そしてそれを実行したわけです。それでなければ、
向うでは、
日本人の
国籍にすると、入れられることはわかっていたわけです。それから、
向うの
外人係の大尉も、それをそっと私の家内に言ってくれたわけです。それで、私どもは、あくまで妻の
国籍は
ソ連人として、出航だけさしてもらう、そういうことだった。
そして、私がこっちへ来まして、からだもあまり丈夫な方ではないものですから、国立
病院に行きました。舞鶴に着いたときには、舞鶴の国立
病院に入院しろということを言われたわけです。行けばよかったのですが、私はその引揚者の班長というものをしておって、非常に忙しくて手が放せなかったのです。来た連中には、
朝鮮人が非常に多いから、
名前も
書類も書けない人がたくさんいる。そういう
人たちのために私が応援してやって、非常に忙しいために、
病院に行けないでしまったわけです。そうして私は一時の落ちつき先として仙台に行きました。仙台に
自分の実母が大学
病院に入院している。それで、家がないから、一カ月でも半月でも私が
病院に行って家の段取りをしようという相談をいたしまして、私は国立
病院に行きました。
最初は肺浸潤の徴候があったので肺浸潤。それから
胃かいよう。全部診断の結果十二指腸かいようということがはっきりわかった。肥大している。ただれている。
胃かいようもある。結局お医者さんは入院した方がいいと言うわけです。食療でなおす方法もあるし、いろいろあるわけです。もしかすると手術するようになるかもしれないと親切に言ってくれました。ところが、受け入れ側の医療長というか、会計課長ですか、主任ですか、山田さんというのですが、これは全然話が別なわけです。
書類を作るにはおそらく三ヵ月くらいかかるでしょうと頭から言うわけです。私が聞きました。それじゃ三カ月入院できないことになりますか。大ていの重病人は死んでしまいますね。私はそんなに思わなかった。県庁に行ってみろと言うから、県庁にも行きました。県庁の世話係の人も援護係の人も親切に応援してくれました。しかし、それは言葉だけで、現実的ではないが、口だけでもうれしいです。お役人というか、一時の責任をのがれればいいというか、援護会へ電話をかけてくれた。私はありがたいと思っておりました。しかし、
病院の方では受け入れ態勢が全然なっていない。私が東京に行って本部に話してみたいと言ったら、びっくりして援護課で
病院に電話をかけました。
病院では、国立
病院は赤字だ、赤字だということを言われる。私も電話をかけました。そうすると、赤字ということもないけれども、大体ベッドがない。しかし、私が行っている間に、有料の
人たちがどんどん入院しているのを見ました。私は結局無料になるわけです。また、私の妹の嫁入り先が食料品生産業者——麩とかコンニャクを作っております。そこに私は一時厄介になっておった。そこに
向うの会計から電話がかかってきて、今だいぶ金がある、だから今度あなたのところから麩を取りたいから、入れてくれないか、こういう電話もきました。ですから、矛盾している点があったので、私は来たときに参考に話したわけです。
それから、もう一つは
仕事の件です。職業紹介所というか、安定所といいますか、
樺太時代私が使った人間が今私のところへ来ているわけです。それは同胞の皆さんの援助のたまものの一万円という金を舞鶴でもらったわけです。それをお寺参りとかで使い果して、引揚者の寮におります。その人はひとり者ですから、食器も何もない。お金も使い果してしまった。今度
生活に事欠くわけです。働くといっても職業がなかなか見つからないわけです。こういうものをそのままにしておきますと、犯罪
方面からいってもあまりいい結果にならないのではないかと私は思いまして、安定所の方に行ってみました。行ってみますと、ちょうど戦争当時の京浜間の
日本鋼管あたりの前に立っている移動労務者、人夫ですね、その人もおるし、移動労務者も募集しているように見えるのです。町もわからないし、結局その人は毎日そこへ行って、働くこともできないわけです。どこそこへ行けと言われても、全然わからない。そういう
人たちが安定所の中にたくさんおるわけです。また、雨とかそういうものが降れば、そういう人はもちろんだめなわけです。そういうことを援護していただきたい、かように思って、引揚者の声として私がお願いする次第です。