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1958-02-19 第28回国会 衆議院 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第3号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和三十三年二月十九日(水曜日)     午後一時二十九分開議  出席委員    委員長 中川 俊思君    理事 中山 マサ君 理事 廣瀬 正雄君    理事 眞崎 勝次君 理事 山下 春江君    理事 戸叶 里子君       大橋 忠一君    中馬 辰猪君       辻  政信君    原 健三郎君       保科善四郎君   茜ケ久保重光君       高津 正道君    山口シヅエ君  出席政府委員         法務事務官         (入国管理局         長)      伊關佑二郎君         厚生事務官         (引揚援護局         長)      河野 鎭雄君  委員外出席者         法務事務官         (入国管理局入         国審査課長)  田村 坂雄君         外務事務官   竹中 祐一君         厚生事務官         (引揚援護局庶         務課長)    石塚 冨雄君         厚生事務官         (引揚援護局未         帰還調査部長) 吉田 元久君         参  考  人         (ソ連地区引揚         者)      山村 康弘君         参  考  人         (ソ連地区引揚         者)      柴田 敏子君         参  考  人         (ソ連地区引揚         者)      夏堀  洋君     ————————————— 本日の会議に付した案件  海外同胞引揚に関する件(ソ連地区残留同胞引  揚に関する問題)      ————◇—————
  2. 中川俊思

    中川委員長 これより会議を開きます。  海外同胞引揚に関する件について調査を進めます。  本日はソ連地区残留胞引揚に関する問題について参考人より意見を聴取することといたします。  御出席参考人は、山村康弘君、柴田敏子君、夏堀洋君でございます。  なお、参考人として出席を求めておきました十川庄五郎君は都合により御出席できないとの連絡がありましたので、ここに御報告申し上げておきます。  この際委員長より参考人各位に対し一言申し上げます。各位には御多忙中のところ遠路御出席をわずらわしまして、委員長として厚く御礼を申し上げます。  本委員会海外同胞引き揚げに関する問題解決のため諸般の調査を実施いたしておりますが、本日はソ連地区第十四次及び第十五次引揚者の皆様の御出席を願い、残留地における実情引き揚げに至る経緯、残留同胞消息等について御承知の点をお話し願い、もって本委員会調査に資することといたした次第でございます。つきましては、右の趣旨を御了承の上、忌憚なく実情をお述べ下さるようお願いいたしておきます。  なお、御発言は、最初山村康弘君、次に柴田敏子君、最後夏堀洋君の順序で、お一人大体二十分程度以内におとどめ願うこととし、それぞれのお立場から、重複を避けて、広く実情をお聞かせ願いたいと存じます。また、参考人全部からの事情聴取のあとで、委員各位より参考人に対し質疑を行うこととなりますから、あらかじめお含みおきを願っておきます。  では、初めに山村参考人より御発言を願います。山村康弘君。
  3. 山村康弘

    山村参考人 僕は、終戦当時、昭和二十年の八月十五日、豊原の車掌区の鉄道員として働いておりました。昭和二十年の八月十七日に自分の母親は兄弟を連れて先に日本へ帰ってきたわけです。自分は役所の都合引き揚げができなかったのです。ところが、昭和二十二年の七月の十日の日です。ちょっとした列車事故によって、自分ソ連刑務所に五年の刑をもって入ることになって、豊原ソ連強制収容所というようなところで五年間刑を勤めてきたのです。そして昭和二十七年の七月四日に釈放されたのです。そして、豊原に刑を受けた人は住むことができないというので、自分は敷本日の方に回されたのです。そして、敷本日の鉄道の検車区というところに働いて、約三年くらいそこで過ごしたのです。ところが、そのうちに、自分豊原へ出てもいいというような状態がわかったので、自分は再び豊原に出てきたのです。  それで、昭和三十一年の十二月十八日ごろ、警察当局の方から呼び出しがきて、日本へ帰りたかったならば引き揚げ手続をせよ、そう言われたのです。それで自分はさっそく手続をしたのです。ところが、翌年の三月ごろに、日本からいろいろな名簿が発表された。結局われわれが三十二年の五月ごろに引き揚げをするというような様子がたくさんあった。ところが、このときソ連当局の方でどういうふうに報告をしたのかわからないのですけれども、朝鮮人引き揚げしたかったならば引き揚げさせる、それで希望者はみんな申し出をせよ、こういうような問題が起きたのです。それでもって朝鮮人はわれもわれもと警察署に出頭したのです。ところが大陸から来た朝鮮人がおるのです。この人たちは、みんな共産党本部とかいろいろな方面で働いた機関のえらい人たちなんです。この人たちが来てから、お前たちは何のために日本へ行くか、そういうようないろいろな問題でもって、五月、六月には大した騒動があったのです。朝鮮人は、自分日本のために樺太に来た、そして今まで樺太に住んで、自分たち国籍日本にあるのだから、帰してくれ、そういうようなことから、そこでもって大した騒動が起きた。それが約二ヵ月ぐらい続いた。そのためにわれわれの引き揚げが一時中止されたような現状になったわけです。それで、一時は西海岸方面を先として引き揚げを開始されたのですけれども、今申したようなことがあったので、自分たちも、これはてっきり引き揚げはないと断念したのです。ところが、三十二年十二月二十九日に、突然警察の方から出頭せよという命令がきたのです。それで、急いで行ったところが、お前たちは一月の五日に豊原を立って真岡向う、そう言われて、僕たちはびっくりしてしまって、取るものも取りあえず用意をしたのです。それで結局一月五日に豊原を出発して真岡に着いたのです。真岡収容所は人が多かったので、三カ所に分れて、鉄道のクラブと機関区の娯楽室、それからどこかの映画館という三カ所に分れて収容されたわけです。それで、九日の日に白山丸が入って、十日の日に白山丸に乗って舞鶴に着いたのです。大体自分の経歴というものは、そんなものです。  それで、今まで残っている残留者、結局、この人たちは、本人意思の弱い人、または来たくても来れない人なのです。それはなぜかというと、本人意思の弱いというのは、結局僕たちのような若い者は、いつも責められる。お前はロシヤ国籍を持てといつも責められるのです。それでも、意思の強い者は、自分日本に帰らなければならぬ、自分の親があるし、日本は生まれ故郷であるといって、そういうものを断固として断わった。そういうものは受けつけなかった。中には、いや考えてみますとか、どうかなと言った人は、いつもしつこく聞かれるのです。それで最後には身分証明書をもらってしまう。そういう状態樺太に残っている。また、日本人でありながら、朝鮮人身分証明書を持っている。これは絶対にたてつく手がないのです。結局、日本の国から戸籍謄本とかそういうようないろいろな証明をもらってくれたならば、日本に帰してやるというように、ソ連当局では話しておるのです。だけれども、結局これも全然らちがあかないのです。なぜかというと、初めから身分証明をもらうときに朝鮮人という名簿でもらっておるものですから、その戸籍謄本がきたところで、本人だということが全然わからないのです。だからそれをたてつくことができないのです。結局、そういうふうにして残っておる日本人で、朝鮮人身分証明を持っている人は困っているのです。それで、一日も早く日本に帰りたいと思って、あれしているのだけれども、ロシヤの国では受け付けてくれないのです。それで、ロシヤ国籍を持つときに、こういって持たしたのです。もしお前たち日本に帰りたいときには、国籍があろうとなかろうと、日本に帰してやる、国籍を持てばお前たちのために有利だ、あなたたちに自由も与えるし、仕事のことに対しても有利であるからもらえといって、もらわしたところが、引き揚げのときには、その手には全然いかなかった。中には、日本から国籍謄本とかいろいろそういうものをとって、身分証明書を返還して帰るという人もおった。僕がいたときには一人おった。そういう人がそういうものを出してから約六カ月後でなかったら、返答がこないのです。返答がきたって、僕たちが帰ってきてしまったら、帰ってくる船もなく、彼は、身分証明書を返還しても、これ以上帰ってくることができないということなんです。まさか単独で船に乗って帰ってくることもできないのです。そういう人たちが二、三あるのです。僕が来るときに一人あった。もう一人の人が手続をしていました。  僕がロシヤにいたときに、結局、待遇といえば、働けば食べていけるのです。それで、一カ月に夫婦二人でもって七百ルーブルから一千ルーブルぐらいあったら、まあ普通の生活をしていけるのです。それで、待遇としては別にこれという待遇はないのです。自分の努力でもって生活していく。自分の頭次第です。それで、日本人あたりは、日本に帰りたいという意思がありますから、物を貯えようとか、そういうようなことは全然ないのです。ただ一心に帰りたいものですから、その日その日を暮らしております。それで大したみじめな生活はあまりないのですけれども、ただし、人種差別がないというものの、やはり日本人朝鮮人といえば、ある程度差別があるのです。ロシヤのパスポートなんか持っている人は、病院あたりには優先的に入れるのです。  僕たちは、ラジオあたりで、ハバロフスクの方へ慰問品を送ったとかなんとかという話を聞いたけれども、結局樺太にはそういうことは一切なかったのです。こういう例が一例あったのです。ある人がハバロフスク刑務所から樺太に帰ってきて、その人のところへほかの人から回って小包がきたことが一回あった。それ以外には小包というものがきたこともないし、僕たちがもらったこともない。だけれども、文通はその人によって違う。はっきりこちらの住所がわかった人ならば、手紙は自由に交換できるのです。ところが、住所がわからないで、役場あてとかそういうところに出した人のは、出しても一向返事がこない。着いているものか着いていないものか全然わからない。結局、そういう人たちは、何とかおれたち文通をして、一日も早く帰してもらうようにしたい、そういうふうに考えているのですが、そういうものがうまい人は一カ月に二本くらいきているけれども、手紙のこない人は、それが全然こないのです。結局、こっちの方の人に聞けば、そういう手紙はきていないと言うし、向うでは出していると言う。僕も、こっちへ帰ってきて、そういう話を聞いたことがあるのです。そこで、それは結局こういうわけだということを話したのですが、向うでは一日も早く手紙がほしい。そうして内地の状態を聞いて、自分が生きているか死んでいるかというようなことをいろいろ話したい。それが第一の先決問題です。すぐ帰ってこれなくとも、文通があれば幾らか心が気楽だ。そういうふうにみんなお願いしているのです。自分たちが帰ってきてから、極力そういうふうにあちこち知っている人には手紙を出しているのですが、うまくいけば、手紙をすぐ出してくれた人があった。結局、樺太にいて、文通のある人は一番幸福です。向うでは食べることは食べていけるのですから、そういうふうな精神的苦労ですね、それが一番大きな問題です。  それで、一日も早く帰してもらわなければならないと僕たちも願っているのですが、これは結局向うではこう言っているのです。日本大使館あたりは全然だめですな。大使館手紙を出して大使館書類を持っていっても、こんなものは問題にならないと、いって受け付けてくれない。ただ自分の国の市町村または道庁あたり証拠書類があったならば、お前は日本人であるからというので、日本に帰してやるといって、そういう手続をとらせるのです。しかし、その手続をとっても、六カ月も七カ月もたってしまって、全然らちがあかないのです。  僕としては大体こんなようなものですな。
  4. 中川俊思

    中川委員長 次に、柴田参考人にお願いいたします。
  5. 柴田敏子

    柴田参考人 私は、昭和二十年八月十五日終戦当時、交換手として働いておりました。それから、昭和二十二年、ロシヤ人と口争いのために刑務所に入れられて、三年の刑をもらって、豊原ラーゲルというところにおりました。それからそこを九ヵ月目に釈放されたのです。そうして、ずっと掃除婦として、ある事務所やいろいろなところで働いておりました。それから、女性一人では生活ができないので、ある朝鮮人結婚したのです。結婚して三年くらいおりましたが、結婚してもお互いにうまくなかったから、別れたのです。それから、私は、ずっと一人で、建築方面とか炭鉱の方面雑婦として働いておりました。そして今までずっといたのですけれども、日本に帰国できるかできないかということを考えていたのです。だけれども、帰国するということも全然問題も出ておりませんでしたし、これは帰れないのじゃないかなと一応思っていたのです。  その後、昭和三十一年の、ちょうど門脇大使モスクワに来たとき、日本人が帰れるというようなことをラジオで放送したのです。そのとき初めて日本へ帰れるのじゃないかしらと思って、すぐ大使館あてにお手紙を書いたのです。そうすると、大使館から、今樺太にいる日本人は取り調べておりますから、一時あなたをお預かりいたしますという返事がきたのです。それから、すぐ十一月に、警察の方から、帰国を希望する人はすぐ住所を書いて出せと言ってきたのです。そこで、私たちはすぐ手続をしたのですが、三十一年の十一月に帰してあげるというのです。私も職を一時やめて、荷作りをしたり、いろいろな支度をしたのです。でも、警察の方から何とも音さたがなくて、樺太にはないかもしれない、来年の春になるかもしれないというのです。また荷物をほどいたり何かして、また職についたのです。それから三月二十八日にラジオを聞きましたら、日本人二百五十名の名簿が入ったのです。そのときに私の名前も入っておりましたから、もうすぐ帰れるのだということは確実だと思ったのです。それから、もうすぐ四月か五月に船が入る、ロシヤ人はいつもそう言うのです。私も、四月に入るのだったら、職をやめて支度でもしましょうと思って、すぐまた職をやめたのです。  そうしたら、朝鮮人の人が来て、こう言うのです。あなたは一人で帰国するのだし、朝鮮人でも夫だったら帰れるのだから、僕を連れていってくれと言って、頼んできた。それは申且述という人です。僕は、ロシヤの国に圧迫されているのがいやだから、日本に帰りたい、どうかお願いしますと言って、私は頼まれた。最初私は断わったのです。私は、朝鮮人を連れていったら、結婚したと思われては困るので、いけませんと言ったら、では、乗船するまででいいから、連れていってくれと言うのです。あまりしつこく言うものですから、私もその気になって、それでは連れていってあげましょうと言って、民政署の方に行ったのです。行ったのですけれども、結婚届という登録をしなかったら夫と認められない。そこで、私は、民政署に行って、仮の結婚届を出したのです。同棲はしておりませんでした。そうして登録してもらった。それから、警察の方に行きましたら、警察の方ですぐ受け付けてくれました。  ところが、四月になっても五月になっても全然音さたがなかった。五月二十六日に船が入るというので、さっそく豊原の方に出たのです。出たら、あなたたちはこのたびは引き揚げがないと言って断わられた。私は、また帰れないのかと思って、名簿には載っているのですかと聞きましたら、名簿は見せてくれました。それからまた職について働いていたのです。五月二十六日に船が入るから、職をやめなさい、もうすぐ帰れますから、手続をしなさい、こう言うものですから、職をやめて待っていたのです。それでもまだ来ないのです。三度ぐらいロシヤ人にだまされたのです。いよいよこれは引き揚げられないのじゃないかと思って、仕方がなくて、八月にまた門脇さんの方にお手紙を出したのです。そうしたら、門脇さんが、今すぐ書類を書いて、何年に樺太に渡って、父母の名前から全部書いて渡してくれと言うのです。それから、私も、私一人書いてもいけないと思って、落合の方にいる帰りたいという日本人の人にも見せてあげて、なるたけならばこういうふうに書いて出したら、一日も早く帰れるのじゃないかと、教えてあげたのです。それで、その書いたものを出しましたら、門脇さんの方から受け取ったという返事がきました。これは今度は確実に帰れるのじゃないかと思っているときに、ロシヤ人の方から、帰れます——ロシヤ語ではセチャースと言うのですが、もうすぐ帰れます、帰れますと言うのですが、全然帰すような見込みがなかった。ロシヤ人はずいぶん日本人に対してうそを言うといって、ロシヤ人と口争いしたことがあった。ロシヤ人が言うには、うそは言わない。日本の方で引き取らないと言うのです。それで、ほんとうにこれは日本の方で引き取らないのかと思って、一時がっかりしました。そして、いろいろな手続をしたり、民政署の方に手続して、なるたけなら帰して下さいと言った。ロシヤの国に一日もいるのはいやだ。なぜロシヤの国にいるのがいやかと言うので、自分日本兄弟もいるし、早く帰りたい。そうしたら、兄弟なんていうのは一時的のつき合いだけだと言うのです。ロシヤ人がそう言いますから、あなたたちはそう言いますけれども、私は兄弟というものは二人とないと思っている。だから私は日本兄弟のところに帰らなければならぬ。それじゃすぐ帰してあげますからと言う。そうしているうちに、西海岸の方で引き揚げがあった。そのときに、名簿が入りますから、夜二時まで名簿を聞いたのですが、どうしても私の名前が書いてないから、確実に私は帰れないと思ったのです。そうしているうちに、三十二年の十一月に、警察の方から、ちょっと日本人に用事があるから来なさいというので行ったら、日本に帰すという命令がきたから、すぐ支度しなさい。それで、私は、朝鮮人の申という方と一緒に帰国したのです。  私の話はこれだけです。
  6. 中川俊思

    中川委員長 最後に、夏堀参考人にお願いいたします。
  7. 夏堀洋

    夏堀参考人 私は、青森の八戸で生まれまして、夏堀洋と申します。昭和十九年の六月二日に樺太豊原に着きまして、そして大東組という土建組合に私は働くようになって行ったわけです。当時の仕事労務係として仕事をしておりました。それからずっと豊原で働いておりまして、一九四九年六月に、私は、百二十一条という条項のもとに、三年間刑務所に送られたわけです。それで三年間の刑を終えて出所して豊原に来ました。そのとき私は豊原市内居住を許されなかったわけです。それで、エストル方面に私の居住地を指定されましたので、そこに行ったわけです。そこに行ったときに、向う建築事務所で、カルバッサといいますが、ソーセージの工場、そこの暖房並びに冷蔵庫のコンプレッサーの技手として働くようになりました。それで生活は普通の生活をしていました。からだが弱いものですから、非常に豊原の方へ出たい出たいということを私は言ったのですが、私が三年間入ったことで、日本でいうならば前科者として転居を許さないわけです。ところが、向う民刑法によりますと、三年間たつとその罪名が滅消してしまうということを言われたわけです。ところが三年たっても転居は許してくれない。それが、五三年のスターリンの死によって、私どもの前科者という罪名がなくなったわけです。それで自由に豊原に出てこれるようになった。そのときも、都市計画によって、今豊原では一人につき八平方メートルの余裕があれば、そこに転居できるわけです。なければそれができない。それで、そういう都市計画のもとに、私たちはなかなか行けなかったのですが、私は、胃かいようという病気のために病院から証明書をもらって、そして豊原に来たわけです。そのときはザゴゼルノーという国家食糧配給倉庫、そこに、ボイラー並びにスチーム暖房取りつけの請負といたしまして、そこで働きました。その仕事を二カ月間で終えたのですが、日本人を三人使いました。それから、その秋に、私は胃かいようが悪くなりまして全然立てなくなったわけです。そうして半年ほど休んで、翌五七年の春、豊原にある内務省建築課、そこの暖房技手として勤めまして、六カ所のボイラーを責任をもってやりました。ロシア人並びに朝鮮人の、カチガールといいますが、ボイラーマンまた職工、そういうものの長として働いてきました。そうして今度の引き揚げ白山丸に乗せてもらってきたのです。  私が出所したのは五二年ですが、出所したときは、学校暖房工事を請け負いました。そのとき、ここにいる山村さんなんかと私は六月十七日に出所したのですが、ラーゲルの中の人とも連絡をとりまして、七月四日に出てくる日本人のために骨折ってくれ、そういうことで私が約束したのです。そうして、四人出てきたが、住むところもないために、学校に部屋を借りてその人たちを泊めた。そうして前渡金をもらって私たち仕事を始めていったのですが、三年間、五年間刑務所におって束縛を受けてきましたから、映画を見たいとか、食べたいとかいうことはたくさんあるわけで、経済的には非常に苦しんだわけです。それで、私が後に結婚したロシヤ人の女、その人から私はお金を融通してもらった。それから、友人といいますか、結婚の道へと進んだわけです。その年の十月二日に余儀なく向うに行かなくてはならないことになって、エストルに行って、それから六年間余その女と一緒になったわけです。それで、今度の引き揚げに、向う内務省の長の大佐、マロゾフという人が、私たちに行くことを許してくれたわけです。それからモスクワ門脇大使の方からの名簿にも私と私の妻も載っていた。向うでは、結局、日本人引き揚げに対して、結婚届を登録しているものは、日本人の付属といえば失礼ですが、帰してくれる。だから朝鮮人ロシヤ人も帰すということになったわけです。つまり、ロシヤ人というのは、日本人国箱に移したそういう人たちも帰すに至ったわけです。それで私も内務省外人係のところに行って聞いてみた。ところが、お前の妻のマリアは名簿にも載っているし、日本でも引き受ける、それで帰れることになった、さっそく支度をして引き揚げ準備をした方がいいというので、私からいえば内務省官舎に入っていたわけです。妻は外人課に働いていました。そういう条件のもとに、私たちは、皆さんの引き揚げ命令の一週間前ぐらいから、内定的に、もうお前は帰れるのだ、そういうことを言われて、私たち支度していたわけです。そうして私たちは一月五日に豊原を立ったわけです。そして、収容所に出て、九日の出船、その船に乗ろうとしましたが、乗せなかったわけです。そこでいろいろと向うと戦ったのですが、それは結局人種ロシヤ人であるということで、私たち一緒に三家族残された。谷口洋妻夏江静枝という人がロシヤ国籍を持っている。もう一人は床屋さんで齋藤晃さん、この人は夫の方が国籍を持っていた。その人たち三人だけ残されたわけです。  それで、私たち三人が残って、「どうしてナホトカまで私たちを許してくれたか。あなたたち命令がなかったら、われわれは残っているのだ。今は家財道具を売って何もないところへは帰れない。私は官舎ですから家はありますが、ほかの人は家もない。夜具もない。」それで交渉しましたら、いやこの次の船で帰してやる。ですから内務省としても、内務省長大佐モスクワ最高本部に電話をかけて、お前たちの許可を必ず取ってやる。それで官費でもって食糧を支給されたわけです。毎日食堂へ行って食べるのですが、それほど待遇は悪くなかったです。そして次の船を待ったわけです。その次の船が十五次引揚船になるわけです。ちょうど十八日まで待ちまして、十八日には谷口と斎藤夫妻は許されたわけです。そして私の妻のマリヤだけが許されないわけです。そこで、また戦かったのですが、向うのとめたのは税関です。それから、沿岸警備、国境警備の方の係官が、「あなたの妻はソ連人として引き揚げるわけです。そのためには外国居住旅行手形をもらわなければならない。そしてそこの国から出なくちゃならない。それには、お前が先に帰って、近親者として呼び出すことが一番の早道だ。」こういうわけです。それで、私を帰したくなかったのですが。私は、子供も母親もいますから、こっちへ帰ってきたわけなんですが、内務省の省長とかたい約束をしてきたわけです。それは今の手形を向うに送ってやるということが一つ。二つは私の願書です。日本結婚届を許可するという、外国人と日本人結婚を許可するという外務省なり内務省なりの証明書がなければならぬ。それで、私は、その願書の中に日本人としての結婚届を書いて、それに今度は妻を一生扶養するということを書くわけです。それから三番目は近親者としての呼び出し状を送ってやる。そういうことを私が言われたわけです。そしてこっちへ帰ってきたのですが、まだその方の手続はとっておりません。  それで、いろいろこまかい登録の仕方とか、それから向うのやり方ですね。私を帰したときの向うの係官の顔ですね。やっぱりお前は帰ったのかというのです。最初は、お前は帰れ帰れというわけで、「お前は日本人だから帰れるんだ。ただしお前の妻は帰れない。ロシヤ人であるから、別な道を踏まなければ帰れない。だからお前の妻は日本人国籍に移ればいいのだ」ということを言うわけです。ところが、これは、前のスターリン時代にあった憲法があるわけです。自分の祖国を売るということで、この憲法の五十八条で売国奴として投獄される。ですから、家内と相談して、あくまでソ連人として来る。もし日本に入国できればソ連国籍なんか何でもない。とにかく向うを出船するまではロシヤ人としているということを、私どもは相談し合っていたわけです。そしてそれを実行したわけです。それでなければ、向うでは、日本人国籍にすると、入れられることはわかっていたわけです。それから、向う外人係の大尉も、それをそっと私の家内に言ってくれたわけです。それで、私どもは、あくまで妻の国籍ソ連人として、出航だけさしてもらう、そういうことだった。  そして、私がこっちへ来まして、からだもあまり丈夫な方ではないものですから、国立病院に行きました。舞鶴に着いたときには、舞鶴の国立病院に入院しろということを言われたわけです。行けばよかったのですが、私はその引揚者の班長というものをしておって、非常に忙しくて手が放せなかったのです。来た連中には、朝鮮人が非常に多いから、名前書類も書けない人がたくさんいる。そういう人たちのために私が応援してやって、非常に忙しいために、病院に行けないでしまったわけです。そうして私は一時の落ちつき先として仙台に行きました。仙台に自分の実母が大学病院に入院している。それで、家がないから、一カ月でも半月でも私が病院に行って家の段取りをしようという相談をいたしまして、私は国立病院に行きました。最初は肺浸潤の徴候があったので肺浸潤。それから胃かいよう。全部診断の結果十二指腸かいようということがはっきりわかった。肥大している。ただれている。胃かいようもある。結局お医者さんは入院した方がいいと言うわけです。食療でなおす方法もあるし、いろいろあるわけです。もしかすると手術するようになるかもしれないと親切に言ってくれました。ところが、受け入れ側の医療長というか、会計課長ですか、主任ですか、山田さんというのですが、これは全然話が別なわけです。書類を作るにはおそらく三ヵ月くらいかかるでしょうと頭から言うわけです。私が聞きました。それじゃ三カ月入院できないことになりますか。大ていの重病人は死んでしまいますね。私はそんなに思わなかった。県庁に行ってみろと言うから、県庁にも行きました。県庁の世話係の人も援護係の人も親切に応援してくれました。しかし、それは言葉だけで、現実的ではないが、口だけでもうれしいです。お役人というか、一時の責任をのがれればいいというか、援護会へ電話をかけてくれた。私はありがたいと思っておりました。しかし、病院の方では受け入れ態勢が全然なっていない。私が東京に行って本部に話してみたいと言ったら、びっくりして援護課で病院に電話をかけました。病院では、国立病院は赤字だ、赤字だということを言われる。私も電話をかけました。そうすると、赤字ということもないけれども、大体ベッドがない。しかし、私が行っている間に、有料の人たちがどんどん入院しているのを見ました。私は結局無料になるわけです。また、私の妹の嫁入り先が食料品生産業者——麩とかコンニャクを作っております。そこに私は一時厄介になっておった。そこに向うの会計から電話がかかってきて、今だいぶ金がある、だから今度あなたのところから麩を取りたいから、入れてくれないか、こういう電話もきました。ですから、矛盾している点があったので、私は来たときに参考に話したわけです。  それから、もう一つは仕事の件です。職業紹介所というか、安定所といいますか、樺太時代私が使った人間が今私のところへ来ているわけです。それは同胞の皆さんの援助のたまものの一万円という金を舞鶴でもらったわけです。それをお寺参りとかで使い果して、引揚者の寮におります。その人はひとり者ですから、食器も何もない。お金も使い果してしまった。今度生活に事欠くわけです。働くといっても職業がなかなか見つからないわけです。こういうものをそのままにしておきますと、犯罪方面からいってもあまりいい結果にならないのではないかと私は思いまして、安定所の方に行ってみました。行ってみますと、ちょうど戦争当時の京浜間の日本鋼管あたりの前に立っている移動労務者、人夫ですね、その人もおるし、移動労務者も募集しているように見えるのです。町もわからないし、結局その人は毎日そこへ行って、働くこともできないわけです。どこそこへ行けと言われても、全然わからない。そういう人たちが安定所の中にたくさんおるわけです。また、雨とかそういうものが降れば、そういう人はもちろんだめなわけです。そういうことを援護していただきたい、かように思って、引揚者の声として私がお願いする次第です。
  8. 中川俊思

    中川委員長 御苦労様でございました。  この際委員長から一、二質問をしたいと思います。向うで比較的自由な生活をしておられた夏堀さんが一番適切じゃないかと思いますから、お尋ねしたいのです。  今まで三君の陳述を承わったのですが、残留地における実情残留同胞消息等があまり詳しく述べられていないように思ったのです。この点、一つ夏堀さんから、簡単に、残留地における実情残留同胞消息等について、あなたの知っている範囲内でちょっと御陳述願えませんか。
  9. 夏堀洋

    夏堀参考人 残留邦人のことについては、最初引き揚げ意思があるかないかということをお話ししたいと思います。それはみな帰りたいのです。今山村さんのおっしゃったように、みな帰りたいわけですが、一つは経済的に帰れない。二つは朝鮮人のパスポートを持っている。三つは自分で来れないのです。来たくても向うで悪いことをした、向う機関に使われた、そういう人たちは来たくても来れない。日本人でありますから、みな帰りたいわけですが、そういう事情のもとに来れない。朝鮮人のパスポートを持っているので来れないというのは、つまり、日本の女が、その子供の女の子を連れ子にして朝鮮人結婚した。それがパスポートをもらう年令は十六才ですから、十六才になると、その子供の扶養者である朝鮮人の父親が、その子供を朝鮮人名前にしてしまう。ですから、向うには戸籍謄本も抄本もない。そのために、朝鮮人になってしまう。それが大きくなって朝鮮人結婚する。もう純然たる朝鮮人であるわけです。そうして向う外人係のところに行って、私は日本人だと言っても、それを調べる大陸生まれのロシヤ人——民族は、ほんとうは朝鮮人ですね。こういう人たちが朝鮮語で話すのです。私は見ていましたが、その場合朝鮮語を使わなければいい。ところが、小さいときから朝鮮人の父親を持ち、夫を持てば、私は日本人だと言ってがんばっても、朝鮮語の方が上手なわけです。結局係官の朝鮮人はその人を日本人に認めないわけです。そういうことがあります。  また、脱走兵で、名前を吉江という人がおりますが、その人は田中というのが本名です。出身地は大阪です。その人が逃げて、つかまると大へんなので、吉江という名前に変えた。ですから、こちらでその真実を知らない人は、あすこに吉江がいた、吉江がいたというふうに援護会の人に話す。それを話しますと、吉江という人が日本国箱に載っておらない。架空の人物です。  また、ロシヤ人と後に一緒になって、子供も生まれて、それで愛に引かれて帰れない。本人は帰りたいわけです。たいていのロシヤ人は、日本という国はおそろしいと思っておるわけです。そういうわけで帰れない。  それから、もう一つあります。ロシヤの民政がしかれてすぐ、民政署といって、市役所みたいなところですが、そこでもってみな日本人を呼んで臨時身分証明書というものを与えたわけです。そのときにその臨時身分証明書を全然もらわなかったわけです。もらえば名簿に載っておる。そういうルーズというか、無学というか、そういう労働者が二人私のところに使われていました。ですから、私の知っておる範囲では、向うに二人残っておるわけです。昔、北海道や樺太にあった監獄部屋またはタコ部屋、ああいうところにいた労働者なんですが、そういう人が現在パスポートが全然ないわけです。それを私はとってやろうとしましたが、根本になるものがないのです。日本人だという証明書がない。米屋治助という、青森県三戸郡の出身、私の近くですが、その人が帰りたいというので、私がモスクワ門脇大使のところに手紙を書いたのです。そこを通じて本籍地の戸籍謄本をとってもらいたいと言ったところ、それが届いた。そうしたら、外人係の方では、その手紙を見て、それを押えた。そうしてその米屋なる者を探したのですが、移動労務者ですから、今山に行ったとか造材に行ったとかで、住所が不定なわけです。パスポートがないから、結局登録ができない。当然住所不定になるわけです。朝鮮人の金持ちの家に行って家の手伝いをする、また造材に行くとかということで、食べられないときは、あっちこっち作業をして歩いておるわけです。ところが、外人係はそれを私に話しにきた。外人係の言うのには、「お前はどうして手紙を書いたか。お前は、ああいう罪人、つまりブラジャガーと一緒になると、お前も共犯者である。そう認めて、お前を私のところに入れる。」こう言うわけです。「何のために共犯者か」と言ったら、「全然戸籍がない。これは日本からスパイとして送られた人間かどうかわからない。お前はそれを証明できるか。」そこで私は言いました。「私は反対に考えておる。私はあなた方の機関に協力しておるつもりだ。」こう弁明したわけです。「それはどういう意味か。」「つまり、米屋治助というのは、結局日本人朝鮮人かあなた方もわからないだろう。それであるから、あなた方の全然知らない人のために、私が日本まで手紙を出して。戸籍謄本がきておるではないか。あなたは私にありがとうを言わなければならない。」そういうことを言って、私はのがれて今度無事に帰ることができました。そういうこともあります。  それで、豊原地区には二十人くらいの日本人がおります。全部で南樺太地区に二百五十人くらいおると思います。それで、ロシヤで私たち引き揚げに関係しておる人、この人が言った話ですが、それは、全島で約五百人。それは、朝鮮人を含めて、家族を含めますから……。私はそこで二百五十人という数字を出したわけなんであります。朝鮮人名義になっている日本人、あるいはまたパスポートを持っていない人、あるいはまたソ連の籍に入っている人、そういう人をこまかく探すと、やはり二百五十人くらいの数字に上るのじゃないかと私は思います。ぜひそういう人たち引き揚げができるように、私も少からず協力をいたしますから、また皆さんの御協力を願いたいと思います。  これで終ります。
  10. 中川俊思

    中川委員長 以上で陳述を終りました。  きょう陳述願いたいことは、残留地における実情であるとか、あるいは引き揚げるに至る経路、残留同胞消息等でございますが、今の陳述は必ずしも適切ではなかったかと思いますけれども、これは皆さん方の御質問によって一つただしていただきたいと思います。  それでは、これから質疑に入ります。質疑の通告がありますので、順次これを許します。  中山マサ君。
  11. 中山マサ

    ○中山(マ)委員 今夏堀さんのお話を聞いておりまして、いわゆる犯罪というものも。私どもの犯罪という通念からは大よそ遠いものがあると思うのでございます。ただ、そういうふうに自分の国家機関を通じて人の戸籍面のことを確実にすることすらも、ある場合には犯罪になるように見られますが、実際の生活におきましてもそういうふうに軽く住民が犯罪人にきめられておるのかどうかという点を、向うは、その犯罪の個条書きというとおかしいでございましょうけれども、あらかたのそういうものを国民に徹底させておるかどうかということを、まず伺いたいと思います。
  12. 夏堀洋

    夏堀参考人 それは一般にザコンそのものはあまり興味を持たないわけです。それはどうしてかというと、ザコンというのはうすうすわかってはおりますが、市民の九〇%は前科者なわけです。ですから、興味を持ってあらためて法律を勉強するとかという市民は少いわけです。私たちの近くにいたロシヤ人、そういう人は非常に少いわけです。自分の体験です。結局自分の国家の法律をわからないでやって、そして裁判になるわけです。その場合「おれはわからなかった。」しかし、官憲は「行けばわかる」と言う。それですから、行って初めてわかるわけです。私も三年間おりましてロシヤのザコンが少しわかってきました。そういう状態です。当時、日本人の年寄り連中、そういう人たちは、店、マガジインといいますが、その店の夜警番になるわけです。そうすると、マガジインの長、売り子の長ザウェードッシェ・マガジインが毎晩夕方店を締めていく。店を締めて封印をしていくわけです。封印の前に大きい南京錠をかけていく。その錠前は合かぎであけられますから、その錠前にまたかんじんよりで封印をするのです。そうすると、それを受け取った夜警番は、完全に封印をした、帳面に受け取ったというサインをするのです。そうすると、マガジインの長、売り子の女はそこで責任がなくなるわけです。そして自分は休むわけです。そういうことを一年も二年も続けています。何カ月も続けています。そうすると、たまには夜警番がその封印を見ない場合もあります。それをあの人たちは常習犯的にやったわけです。結局その人は三百五十ルーブルぐらいの給料では合わないわけです。ですから生活が非常に困るわけです。さっきも柴田さんが言ったように、そういう苦しい生活をしておるのです。ですから、その売り子が、お米をくれたり、毎日ストールヒ、夜警番の人にくれるわけです。お前はこれを子供に持っていけ、あれ持っていけというから、自然に日本人は信用するわけです。つまり経済的にも信用してくるわけです。あの人は私をこれだけ見てくれる、世話してくれる、私のマガジインの長はいい人だというふうに安心性が出てくる。それで、それをねらって自分が大きいものを横流しして隠してしまう。そして封印をしてしまう。しかし、いつも自分が恩を着て、いつもいい人と思っていますから、その封印を見なかった。ああいいですと言って、自分はサインをしてしまう。次の日までその封印を見ないで、朝になって売り子が来て、あっ、封印が切れている。お前知らないか。知らない。だれも来なかった。変だなということになります。そうすると、その人がすぐ警察に電話をかけて、警官が来る。その男の人は容疑者として引っぱられるわけです。全然帰ってこられないわけです。それで、国家のものを取った、マッチ一つでも足りなければ、検査をした結果マッチ一つでも取った、そういう刑を受けるわけです。その人が盗まない場合でも、全部その人にかずけられてしまうわけです。つまり売り子が大きいものをよそへ横流しした、また少からずやったのですが、それは幾ら弁明してもだめなわけです。すでに確かに自分が受け取ったというサインがありますから、その証拠書類のために全然だめなわけです。そういうわけで無実の罪で入っている人も少くないわけです。そういうことであります。
  13. 中山マサ

    ○中山(マ)委員 そうすると、裁判というものはどういうふうになっておりますか。そういうことで裁判にかけないでずっとほうり込まれるわけなんでしょうか。裁判の形式はどんなものでしょうか。
  14. 中川俊思

    中川委員長 夏堀君にちょっとお願いしますが、簡明直截に御答弁願います。
  15. 夏堀洋

    夏堀参考人 裁判所は豊原におきましては三カ所あります。地区々々に分れておりまして、ぺアロイ・チャストク、フタロイ・チャストク、トリーチ・チャストク、一、二、三と分れております。そして裁判まで警察に置かれます。警察には警察判事というものがおりまして、その人によって調べられます。そのときは、前は通訳がつきました。通訳も上手な通訳がつけば調べられる人もいいわけですが、ところが下手な通訳がついて調べられると、うやむやのうちに悪い方にされてしまう。  その前に一言言っておきたいのですが、向うで調べる場合、すでに私は外国人ですから、一つ誓約書をとられるわけです。この調べに対してあなたはうそをつきましたら、この尋問に対してうそをつきましたら、ソ連の憲法によって二十五年以下の刑に処せられます。これは賛成ですか、賛成です、そういってサインするわけです。サインさせられるわけです。そういう誓約書をとられるわけです。それから調べが始まります。ところが、もう無実の罪が多いですから、その無実ということを、つまりないことを白状させようと思って責めるわけです。その場合その本人はもう苦しくて何日も寝られない。体刑的なものでたたくとかそういうことはありませんが、何日も寝せないんですね。寝られなければ、苦しくてどうでもいいということで、ないことを、無実の罪を白状してしまうことになるわけです。そうなると、最後に、向うでも、判事たちはみなばかでもないですから、結局それが全然ないことであったということはわかります。ないことを苦しいから言ったということはわかるんです。ところが前に誓約書があります。うそを言ったら二十五年間の刑です。結局そこで入らなければならないわけです。引っぱられたら最後入らなくちゃならないことになります。そうすると、スターチャというもの、条項をつけられまして、そしてそれを裁判所に持ち込まれます。そうして裁判は三人、中央にすわるのが裁判長、左にすわるのが判事、これは別な判事です。それから裁判に立ち会う人、この裁判が正しいか正しくないかを見る人、共産党本部、そういう方面から来ているようです。あるいはエム・ゲー・べーというところから軍服を着てくる人もあります。そうしてその裁判を終るわけです。そして裁判中そこに検事がいます。検事が日本と同じように上告します。その上告したあれによって、裁判長が何年の刑と判決を出すわけです。そのとき、日本人でしたら、通訳がいまして、七十三時間以内にカサツ、不服ということを七十三時間以内だけ認める。それで閉廷になるわけです。それで裁判が終るわけです。そこで送られるわけです。
  16. 眞崎勝次

    眞崎委員 関連して。  あなたが抽象的に話されたその裁判の実例を、こういう場合があった、日本人に対して、朝鮮人に対して、ソビエト人に対して、こういう無実の罪の実例があったということを御存じならば、それを話していただきたい。
  17. 夏堀洋

    夏堀参考人 私は実際にあったことを裁判の場合二、三回見ました。通訳をしている人が、エミグラントといって、日本時代からいたロシヤ人です。その人がわれわれの通訳をしておりました。その合間に、私の暖房仕事に職人として私が使っておりました。そのために、きょうはおもしろい裁判があるから行ってみないか。——そのときはっきりとロシヤ語はわからなかったわけです。しかし、その通訳のために、その人はあとで言って聞かせてくれました。名前ははっきりと申し上げられません。忘れました。朝鮮人の人が多かったのですが、その年寄りの人が無実の罪で入った。また日本人の人もおりました。それは名前は今忘れました。
  18. 眞崎勝次

    眞崎委員 どういう無実の罪か、そこがわかっておったら……。罪状ですね。それがわからぬと、無実か無実でないかわからぬでしょう。
  19. 夏堀洋

    夏堀参考人 無実の罪といって、結局さっき話したように、実際本人は盗まないわけです。全然盗まない。ところが盗んだことになってしまった。それでさっき話したように詐欺になってしまった。全然盗まなかった。それは封印が切れておった。それは私の話し方が悪かったかもしれませんが、封印を見ないでそれを信用しているために見のがしてしまった。それで無実の罪ということになったわけです。
  20. 茜ケ久保重光

    ○茜ケ久保委員 関連して。  お聞きしていますと、何か全部無実の罪で投獄されたように聞くんですが、そういう例があるといっても、どういう理由で日本人を全部そんなに無実の罪、無実の罪で、ソ連が投獄しなければならなかったか。そういう点はどうあなたは考えますか。今お聞きしていますと、ほとんど全部無実の罪で無理やりに投獄せられたように受け取れるのですが、そういうことはおそらくあり得ないと思うのです。そういう例もあったというならば、それはまた別ですが、あなたのお話を聞くと、ほとんど全部無実の罪で投獄させられたように聞くし、また、裁判の仕方も、一方的に、無実の罪をそのまま投獄するためにやったようにとれるのですが、その点について、何か特別な例であるか、あるいは全部そうであったか、もし全部そうであったとすれば、どういう理由でソ連がそういうことをしたとあなたは思われるか、その点についてちょっと御説明願いたい。
  21. 夏堀洋

    夏堀参考人 それは全部ではないわけです。私の言ったのは一つを言ったんであって、私も入ってきましたが、私は自分で無実の罪ということがわかっておりました。私はりっぱに罪を犯してきました。ですから私は年をとった人の一つの例をあげたのですが、日本人あるいは朝鮮人の店屋のストールヒ、夜警番をやっている人たちの犯罪、事実また盗んでいる人もあります。日本人の中で、子供たちが屋根を破って入って、そこにネコを忘れてきた。つまり売り子の飼っているネコがその中に入った。そのネコから足がついてつかまった。帰ってきてからネコというあだ名をもらった日本人もおります。あながちそれは全部ではありません。ただ私の言ったのはそういう例をあげて言ったのです。それは全部ではありません。しかし裁判は一方的だということは事実です。たとい私が幾ら弁明しても、あの国におって弁明は通らないのです。つまり、国会でいいますと、向うにはただ共産党という党が一つしかない。この中でまた二派に分れています。それが一つが気に入らなければ、その反対党というのは、一言も言われませんから、言えば、その人たちは、ジューコフとか、マレンコフとかというようになってしまう。ですから、すべてが一方的です。それは事実です。
  22. 山口シヅエ

    ○山口(シ)委員 関連して。  ただいまのお話は、ソ連人に対してもそういう傾向なんでしょうか。日本人朝鮮人ソ連人の差別待遇によって、そういうような現象が出ておるのですか、おわかりになりましたら……。
  23. 夏堀洋

    夏堀参考人 それは大ていは同じです。民族のいかん、そういうところは非常にえこひいきがないですね。ロシヤ人であっても、日本人であっても、日本人に対して、ロシア人に対して差別があるということはないのです。全部同じです。
  24. 山口シヅエ

    ○山口(シ)委員 そうすると、日本人に対して特にそういうことをするわけではありませんですね。
  25. 夏堀洋

    夏堀参考人 そうです。
  26. 山口シヅエ

    ○山口(シ)委員 先日私は舞鶴の援護局でお二人にいろいろ詳しく伺ったので、重複することもあると思うのですけれども、その際に、やはりお三人かお四人だったと思いますが、非常に日本人朝鮮人ソ連人に対する待遇差別的であるという御発言の方と、それから、いやそうではないという御意見の方があったように思いますが、そのときに、ソ連人ではないのだから、日本人であり、朝鮮人であるのだから、ソ連人のようにはしてもらえないけれども、共済組合のような形のものがあって、それに入っていさえすれば、日本人でも、朝鮮人でも、いざというときには保障されるのだというように承わっております。それらのことを何か半信半疑で聞いておったものですから、少々関連もございますから、その差別待遇に対して、差別待遇があるならば、こういうことに差別待遇がある、なければないということを、私はぜひお二人のお口から聞きたいと思います。夏堀さんはもちろん、山村さんから一つ簡単にお願いします。
  27. 夏堀洋

    夏堀参考人 私は金額の程度ははっきり言うことはできません。何となれば、私は共済組合なりそういうところには入らなかった。私事実からだが悪いが、これは半年支払わなければ効果がないわけです。ですから六〇%ということを聞きましたが、今それが改正されまして変っているらしいです。去年の十月か十一月ごろから変っているらしい。そこに入っている人は、日本でいうならば共済組合なんですが、そういうのがあるのです。また、簡易保険法、ああいうものがありますから、それがもらわれます。また、スレージニ、中をとってペンスといって、裁判によってその人の給与——一年の一番まん中をとって給料を与えております。そういうことでもらった日本人もあります。その待遇方法は、ソ連の民法にあることは、日本人であっても、朝鮮人であっても、国籍がなくとも、一たんソ連のチリトーリ、ソ連の地区に住居する者は、ソ連のザコン、憲法と規則は守らなければならぬ。ですから、同じくそれは扱う。ただ、あとでお話しいたします居住の点、パスポートによって、ロシヤ人でない朝鮮人日本人国籍のない者は、つまり転居するのに非常にむずかしいのです。それは結局警察に行って、そして自分はそこへ行きたいという自分の理由書を書く。そういう方法がまた別にたくさんあります。それも、ちょっと変るところは、三カ月に一ぺんずつ登録しに行かなければ、千ルーブルか二年以下の刑に処せられるわけです。外国人というのは三カ月ごとに行ってしるしをつけてもらうわけです。そういうこともあります。
  28. 山村康弘

    山村参考人 自分も目前に見たことがあるんです。それは、たとえば急病人ができますね。そうすると、ロシア人であったならば、夜の夜中でも来て、入院したいと思ったら、どうぞと入れてくれる。けれども、われわれ東洋人が行った場合には、きょうは時間が過ぎたからあした来い。今死ぬというときでも見てくれないんです。しかし、中には、スコーラポームシというのがあって、急病人があった場合にはすぐ来てくれる。それが一時来てくれるだけであって、全然そういうような受付がないわけです。だから、結局、ロシアの国籍を持っておる日本人、そういう人があるときお産をするときだったのです。僕たちが、同じうちにいたものですから、ついて行ったら、きょうはだめだ。今生まれると言うのですが、あっさり断わる。そこで、お前はロシアのパスポートを持っているから出して見せろ。出して見せると、どうぞ入ってくれ、こうなんです。それだけ結局差別があるわけです。それで、映画とかそういう店の方へ物を買いに行って、順に並ぶときがあるんです。そうすると、ヤポンスキー、サムライはあっちへ行けということで、先に出ようとしても引っぱられてしまう。こうなってしまう。それで、ロシアの国では上中下三階級に分れている。上流階級の人間は概して日本人に対しては好感を持っている。そして規則通りにやってくれるわけです。下流階級という一番レベルの低い者も、これは日本人に親しみがある。それで中間の人が一番悪い。さっぱりものがわからない。中等学校を出たとか、高等学校を出たやつは、日本にこんなものはあるかと言って、日本人をばかにする。結局僕たちは何を言っていやがるんだというようなわけで、現在は食ってかかっているのですが、そういう点はほんとうにあるのです。だから、人種差別がないというのはとんでもない話で、僕は一部の例を話したのですけれども、そういう例はたくさんあります。
  29. 中山マサ

    ○中山(マ)委員 先ほど夏堀さんは人種差別はあまりないというお話でございましたのに、御結婚になりましたときは、やはり奥様は相も変らずソ連人という籍は抜けなかったのですか。私どもの感覚からすると、結婚をすれば、相手がどこの国の人であろうとも、その国の国籍に移るというのは私どもの常識なんです。たとえば、日本人でアメリカの軍人さんと結婚すれば、結局やはりその人の妻という立場になってしまうんでございますが、ソ連ではそういうことはないんでございますか。
  30. 夏堀洋

    夏堀参考人 それは私もそこでおかしいと思ったことが何べんもあります。それは五三年のスターリンが死んでからです。ウォカーズ、新刑法ですね、それが新聞に出ました。私たちはその前に結婚生活をやっていたわけです。ソ連で許さない結婚生活ですね。五三年の四月二十六日、今でもわかっておりますが、サハリンスク、樺太の新聞社の新聞にウォカーズというのが出ました。そのウォカーズのそのとき出たのは、外国人との結婚届を許す。ですから、結婚して、今度結婚届を出して、私は日本の籍でもって夏堀洋なら夏堀洋でいるし、相手はそのままでいるわけです。しかし、民法的に、私は一家の戸主として——女が犬を買ってきて、その犬がほかの人をかんだということになりますと、やはり責任は一番先に戸主としての私にくるわけです。ただ、パスポートに書かれていることは、一緒になってもならなくても、私のような日本人ソ連国籍を持っても、ヤポンスキーという民族はどこへ行っても絶対に抜けないわけです。ですから、ウクライナ人はウクライナ人で分れる。みんな願書を出せば自分のところに帰れるわけです。どこまでも抜けないわけです。別な方面から聞いた話ですが、レーニンは、民族は民族でまたもとのところに帰るものだ、だから人種は明らかにしておかなければいけないと言った。そういうふうに聞いていました。ですから、結婚届は許されていますが、入籍とかそういうことは関係しないのです。結婚届をしておれば、それで認めるわけです。
  31. 中山マサ

    ○中山(マ)委員 じゃ、そういうふうに民族は別々になる。お子様がおありになるというお話でしたね。——ないのですか。もしそういう場合には、ほかの例といたしますれば、お子様がおできになった方はどっちにつけるのですか。
  32. 夏堀洋

    夏堀参考人 それはお互いの相談ずくです。結局向うでは母系ですね。ですから女の方におもに多くつけます。たとえば、私が結婚届をしていない場合、私の場合ばかりでなく、一般のロシヤ人の場合も女の方に全部つけます。ですから、日本でいえば、私生児ですね。向うでは私生児も庶子もないですから、母系ですね。女の方につけます。結婚届をしてあっても、離婚します。その離婚した場合、その妻はその子供の養育費、扶養料を裁判によってとることができるわけです。そのとき、その女がまじめであると、裁判ですぐそれを認めて、一人は二五%、二人ならば五〇%、三人になっても五〇%、それ以上、夫からとれば夫が生活ができない。だから何人あっても五〇%です。夫婦分れをして、夫にも一理あり、妻にも一理ある。二人の子供がある。そのときは一人ずつ分けてやる。そういうこともあります。ですが、女の方、母系の方が多いわけです。
  33. 中山マサ

    ○中山(マ)委員 さっきの御発言の中に、自分は百二十一条によって投獄されたということがありましたが、その百二十一条というのはどういう罪ですか。
  34. 夏堀洋

    夏堀参考人 百二十一条というのは、ソ連の秘密を漏らしたという罪であります。そのために私は三年の刑を受けた。これは詳しく私も話したいですが、秘密的な仕事でないということは私は言えたわけです。私は秘密でないと思っていたわけです。それは翻訳の手伝いをしていたわけです。暖房仕事のかたわら翻訳の手伝いをしていた。その翻訳は日本の本でありました。それをロシア人の通訳がロシア語に翻訳する。その中にだいぶ英語とか漢文の部分があってわからぬ。それで私がわかりやすく内容を話すと、一日に十枚でも二十枚でもできる。また日本の古い新聞なんかの手助けをしたりする。それのつまり内容を話したということ——最初のうちは何でもなかったのですが、だんだん働いているうちに、私がこの翻訳を終ったらたくさん金をもらう、お金をもらえば分けてやるという好意的な通訳の話で、私は事務所から金をもらう。それに対してあなたはやはりこういう内容をしゃべってはいけないと言われたわけです。そこで誓約書をとられた。もしも親兄弟に通訳を援助しておるということをしゃべったら、あなたは二十五年以下の刑に処せられるという誓約書を書いて、それに私はサインしました。そのときはすでにおそかったわけです。私は、始まってから終るまで、自分のうちには二十五人から少いときには八人くらい労働者がおりました。そのころは二十五人おりましたから、毎晩その話をして聞かしたわけです。ですから、私は当然その刑を受けるべき運命にあったわけです。
  35. 中山マサ

    ○中山(マ)委員 向うでは日本ラジオとかそういうものもお聞きになるでございましょうが、あなたは別といたしまして、向うでは結局共産主義ですから一応の職業も与えられるでしょうし、また職業のない人には生活保障もあるであろうと私は理解をいたしております。共産主義まで至らないで、まだ社会主義だというような話も聞くのでございますが、日本にお帰りになりますと、いわゆる自由思想を持っている政府が政権をとっておりますから、いろいろ不自由なこともあるであろうとお考えになったこともございましょうに、やはり帰りたいとお思いになったのは、自分が生まれた国であるからという、それだけでありましょうか。それとも、何かほかに、どうしてもここにいるのはいやだということで、柴田さんは親兄弟に会いたいとおっしゃったのでございますが、山村さんはこの点はどういうようにお考えになりましたか。
  36. 山村康弘

    山村参考人 自分は、結局ソ連刑務所に入ってきて、出てきたわけです。それでも結局言論の自由というのは全然許されないのです。下手にしゃべったら、またすぐ思想犯だとかなんとかいってぶち込まれるのです。とにかく一日何としても戦々きょうきょうとして生活しているのです。そうして、うっかり暗いところを夜出て歩いたりしたら、後からごつんとやられてしまうかもしれない。結局そういうような行為がロシヤにはたくさんあるのです。それで、自分も、親が日本に来ているのだし、親にも会いたいという考えがたくさんあったし、ロシヤの国にいるのは、そういうようなことで一日としておることがいやになってしまったのです。そうして一九四七年六月四日にロシヤの国に新憲法が発布になったのですが、そのときにロシヤの国の約八〇%は刑に服せられたのです。なぜかといえば、もうそのころには、新しい刑法によって、ネコもしゃくしもみなそこに入ってしまったのです。それは結局ベリヤという人が作った政策で、二人以上の証人があれば人を罪に落すことができるのです。それで、自分は全然そういうことを知らないと言っても、いやあなたとあなたはこういうことをしゃべった、ソ連の国に対して反抗心を持っているということをしゃべったと言われたら、僕はそれを全然否定することはできないのです。そういうことは全然ないと言ってもだめなのです。そういうことがたくさんある。それで自分は一日としてそこにいるのはいやになってしまったが、ロシヤの国では返してくれないし、日本の国ではお前たちを必要としないから返さないのだと言われて、僕たちはどうすることもできなくて、ほんとうにいやになってしまったのです。ようようこのたび帰ることができて、ほんとうにうれしいと思っております。
  37. 中山マサ

    ○中山(マ)委員 柴田さんにお尋ねいたしますが、三回返す返すと言われて返されなかった。そういうふうないわゆるデマはどういう理由で——そういうふうに返すと向うが言うているのは、何かそこに返されるのだという理由を向うの官憲は言うておったはずなのに、三度もそうしてお支度をなすってまた違って、また職業を見つけてということが三回繰り返されたとおっしゃいましたが、それは何かそこに返さなくなったという理由があるのですか、御存じならおっしゃっていただきたいと存じます。
  38. 柴田敏子

    柴田参考人 ロシヤ人から今月の二十五日に引き揚げがあると言われたので、私たちその気になって支度をすると、ほかの方にそれが回ってしまう。まだお前たちには回らないと言うのです。そこで、もとの職場に行って、また自分を使ってくれというと、もうあんたのかわりに別の人が入っておるから、あんたは必要はないのだと言われるのです。そこでまたあっちこっち歩いて仕事を探すのです。そうしてやっと職を見つけて安心したというときに、またロシア人が来て、引き揚げがあるから全部品物を売って段取りをしなさいと言う。ほんとうにあるのですかと言うと、あると言う。そこで私たちはほんとうにあるのだと思って支度をする。そうしたら、船が入るというその日になっても、何も連絡がないのです。名簿を見ても私らの名簿がない。そういうことが二度も三度もありました。どういうわけでそのようにうそを言うのか、私たちにははっきりわからないのです。私たちは、五月に一度、七月に一度、十月に一度、全部で三度だまされたのです。
  39. 中山マサ

    ○中山(マ)委員 理由はわからないというのですね。  それでは、法務省にお尋ねをして、私の質問を終ります。こういうふうにして朝鮮の国籍を持った人が大勢帰って見えるのですが、いわゆる日本人でないということは、日本に来るまで法務省の入管としてはおわかりにならなかったかどうか、お聞かせ願いたい。
  40. 伊關佑二郎

    ○伊關政府委員 日本人結婚しておる朝鮮人という建前で受け取っておるわけであります。
  41. 中山マサ

    ○中山(マ)委員 そうしますと、擬装結婚の人で、先ほど柴田さんのお話もございましたように、個人では帰れないから、一つ結婚という形の上で帰ろうということで帰ってみえておるのでございますが、上陸されて別れ別れになった人、そういう他国人に対し、入管はどういう態度をお取りになっておられますか。
  42. 伊關佑二郎

    ○伊關政府委員 そういうのが最近の一年間で十名出ておりますが、それは不法入国として扱っております。
  43. 中山マサ

    ○中山(マ)委員 不法入国者に対しては、どういう態度を今おとりですか。
  44. 伊關佑二郎

    ○伊關政府委員 不法入国は原則として本国に送還するのであります。
  45. 中山マサ

    ○中山(マ)委員 それでは、いつそういう人は送還されるのでしょうか。
  46. 伊關佑二郎

    ○伊關政府委員 一番新しいのが昨年の十月二十日の引き揚げでありまして、その次に出ました八名が最近の一月二十七日であります。まだ十月二十日の分も調査中であります。いろいろと本人の申し立て、その他がございますので、調査中でございます。調査の結果が出ました上で、われわれの方で決定をいたします。
  47. 中山マサ

    ○中山(マ)委員 このたびのケースはそうでございましょうけれども、私が、かつて、一年前でございましたか、忘れましたけれども、満州の方でございましたか、帰って来た人たちを舞鶴にお迎えに参りましたところが、東京のある大学の教授の奥様がいわゆる白系露人でございましたが、その人が帰って来ました。そのときに、その奥様のお母さんが帰って来たのです。それは奥様のお母さんというのですから、これは呼び寄せるということはあるいは可能かと思いますが、その女の兄弟衆も二人か帰って見えたのでございますが、その人たちは今どうなっておるのでしょうか。
  48. 田村坂雄

    ○田村説明員 氏名その他につきましては、はっきり今記憶しておりませんが、そういう事例があったように記憶いたしております。これにつきましては、一度事前にそういう連絡がございまして、いろんな関係を調査いたしました結果、一応人道主義的な見地に立って入国を許可いたした次第でございます。現在どういう生活をしておるか、私の方では存じておりません。  なお、その大陸からの引揚げでございますが、これは、御承知の通り、日本人の夫と結婚している中国人並びにソ連人、ソ連人につきましては無国籍者もございますが、日本人の夫と結婚しておる者は日本人引き揚げに準じて入国を認める、そういうように、当時引き揚げが始まる最初におきましても、閣議了解がございました。それにのっとって、中共その他の地区の引き揚げを処理して参ってきております。従いまして、その妻につきましては、そういう閣議了解事項のカテゴリーに入るわけであります。
  49. 中山マサ

    ○中山(マ)委員 ここで私お伺いしたいのでございますが、大阪にこういうケースがございます。中国人、いわゆる台湾系の人でございますね。その人が日本に来ておりまして、日本の婦人を妻にして子供ができておる。不幸にもその子供が小児麻痺です。そういたしましたところが、入管の方からぜひその夫に本国に帰れということを言って参っております。その奥さんはむろん何の技術もないのでございますから、その夫がもし日本から退去命令を受けて帰らなければならないようなことになりますると、奥さんはその病人の子供をかかえて路頭に迷うようになっておりますのでございます。そういうふうに、大陸から引き揚げてきた人たちは、閣議の了解でそのようになっておりまするが、こういうふうな気の毒な善良なる——その男は大きな中華料理店のコックなんですが、こういう者に対しては退去命令を出す。しかも、そういう気の毒な家庭でも、しきりにそういうことを督促なさるということの法務省としての考えの立て方、人道的見地からのお考えを一ぺん承わっておきたいと思います。
  50. 伊關佑二郎

    ○伊關政府委員 ただいまの抽象的なお話では、そのケースが、われわれが判断いたします場合に、人道的な建前から特別に在留を認めるケースであるかどうかは、この際それだけの材料ではいかんとも御返事申し上げかねます。ただ、不法入国者というものは、原則として退去させるということにいたしておりますが、必ずしも全部ではございませんでして、やはり、最近の事例で見ますと、そのときによって違いますが、二割とか、ある場合には三割とか、事情を考慮いたしまして、特別に日本に在留を認めておりましたケースもたくさんございます。ですから、個々のケースに当りまして、その人が、いかなる理由、経路でもって日本に入ったか、現在どういう生活をしておるか、過去において犯罪のあれがあるかどうか、それからまた戦前に日本におったかどうか、その他いろいろなことを考えましてきめますので、個々のケースについて、ただいまのようなお話でもって、これが人道的観点から許すケースになるかならぬかということは御返事いたしかねますけれども、われわれの方では、あらゆる考慮をいたしまして、どうしてもかわいそうだというものは許しております。
  51. 中山マサ

    ○中山(マ)委員 それでは、この一問で終りますが、個々のケースに当って判断するというのはごもっともな御発言でございまするが、私もこのケースを見ておりますると、ほんとうに気の毒な家庭だ。外国から、そういうような、あるいはかつては犯罪者であったかもしれないような人も入ってくることを一時なりとも認めていただく立場におきまして、せめて妻が何かの職業にありつくとか、あるいは子供の健康の見通しがつくとかというようなものがはっきりいたしまするまでのところでも、一つ事情をお調べいただきまして、あとでそのケースは私直接お話を申し上げたいと思いまするので、穏当なる御処置をお願いいたしまして、私の質問は終ります。
  52. 中馬辰猪

    ○中馬委員 関連して。  山村さんにお伺いいたします。先ほど、ソ連には三つの階級がある、こういうお話だったのですが、具体的に、たとえば職業によって、お医者さんはどの程度とか学校の先生はどの階級とかというような一つの区分けがございますか。それともまた、それらの職業によって収入の点でどの程度上中下というものがあるか。具体的に、たとえば、一カ月に上の人はどのくらい、下の方はどのくらいというお話を願いたいと思います。それと、ソ連の人々もそういうことを当然のこととして認めておるのか。あるいは、一般のソ連の方々は、どうも階級があってよろしくない、おれなんか下積みでけしからぬというようなことを言われるものかどうか。なるべく具体的に一つお願いします。
  53. 山村康弘

    山村参考人 階級的のそういうあれはやはりあるのですね。結局病院の医者とか学校の先生はだいぶいいのです。だけれども、それを取り次ぐわれわれ日本人の頭の毛の黒い者に対しては、そういいあいさつがないのですね。一たん病院の中に入ってしまいますと、ほんとうに丁重に扱ってくれます。学校もその通りです。頭のある者は国家の方でかえってお金を支給して勉強さしてくれる。やはり上級階級となると金をよけい取る人。樺太にいる人は北方手当というものをもらっておる。五年過ぎると本俸の一〇〇%が加算される。お金をよけいもらっている人は、いつでもハイヤーか何かに乗っている。いつも貧乏している人間は、いつも下にいるのですね。そして、かげにいては言うのです。自分はこうやっていて、なんぼロシヤの国が共産主義で平等だといっても、自分たちは貧乏でその日の食うのにも困っておる。
  54. 中馬辰猪

    ○中馬委員 上と下とではどれくらい違いますか。
  55. 山村康弘

    山村参考人 相当違いますね。北方手当のつかない人は、一カ月にわれわれと同じように七百ルーブルから八百ルーブル程度。北方手当のついておる人は、本俸が千二、三百ルーブルの人は二千四、五百ルーブルもらえるから大したものですね。そういうような程度です。
  56. 中馬辰猪

    ○中馬委員 北方手当というものはどういうものですか。
  57. 山村康弘

    山村参考人 早く言えば契約ですね。樺太は、何といいますか、植民地の中に入っておるのですね。ゾーノ、垣根の中の島というような意味、樺太またはマガダン、カムチャッカ、あっちの方面はゾーノといってあまり行きたがらない。それで一年に本俸の二〇%ずつ昇給する。五年間そこに勤めれば一〇〇%になる。現在はそれが廃止になって、一年間に一〇%にするようになった。なぜかというと、大陸からどんどんその方面に入って、北方手当をもらって仕事も満足にしないでおる人がふえていく。それでそういうことが改正になったらしいのです。
  58. 中馬辰猪

    ○中馬委員 今のお話は、たとえば北国の方から樺太に勤めに来られた役人の方々のお話だと思うのですが、現地の樺太におる人なんかは、全部が全部お勤め人だけではないと思うのです。そういう方々の暮し向きはどんなふうになっておりますか。
  59. 山村康弘

    山村参考人 普通一般労働者は期間をきめて樺太に渡って来る。これは、大陸のコルホーズとかいろいろな方面から、指名されて樺太へ行けと言われて来るのです。そうして一九四六年あたりはほんとうにひどい格好で入ってきた。吹雪のぶうぶう吹く中をはだしで入ってきた。それが五年、十年同じところに生活しているうちには生活も楽になってきて、今ではりっぱなうちを建てて、そのうちを売って本国へ帰る。そういうような計画を彼らはとっているのです。古くから樺太にいる労働者たちは、一カ月働いて千ルーブルとしたら、北方手当がついて二千ルーブルもらうことになっております。それで国家が二万ルーブルの建築保証金を出している。それは十年において払えばいいのです。一万ルーブルだけ払って、あと一万ルーブルは十年たてば消滅するわけです。そうして、彼らは、そういううちを建てて、三万五千なり四万ぐらいに売って本国に引き揚げる。みんなそういうような段取りですね。
  60. 山下春江

    ○山下(春)委員 私は柴田さんにお尋ねいたしたいと思うのでありますが、あなたは樺太へ行って電話の交換手をしたとおっしゃったのですが、そのいらしたときは、御家族はどなたとどなたで樺太へお渡りになったのでしょうか。
  61. 柴田敏子

    柴田参考人 樺太へ渡ったのは私が五才のときです。お母さんもお父さんも家族全部で渡ったのです。
  62. 山下春江

    ○山下(春)委員 そうすると、終戦のときは、今あなたは二十八才でいらっしゃいますから、十七、八才でいらっしゃったわけですね。そのときには、お父さん、お母さん、御兄弟衆はみな内地へお引き揚げになったのでございますね。
  63. 柴田敏子

    柴田参考人 そうです。
  64. 山下春江

    ○山下(春)委員 そこで、あなたにお尋ねいたしたいのですが、十七、八才の若い娘さんで、親に別れ、兄弟に別れて、なぜお一人で、そのときに一緒引き揚げないでお残りになったのか。それから、あなたが一人で残ろうというお気持も、何というのでしょうかね、なかなか私は立ち入ったお尋ねをするので恐縮なんですけれども、皆さんと一緒に帰らなかった。うら若い娘が、あの敗戦のあと、私ども内地でそういう若い娘たちがどうしておるかと実際胸を閉ざされるような思いで心配しておったときに、住みなれた樺太とはいえ、親御さんたちと離れて、うら若い娘さんが一人で樺太へ残ったその心境を、大へん立ち入った質問で恐縮ですが、ざっくばらんに聞かしてもらいたい。
  65. 柴田敏子

    柴田参考人 私の場合は、私は、ロシヤ人と口争いのために、七十四条で刑務所に入れられたのです。そのときに、お父さんが一緒に帰りましょうと言って一時待っていたのですけれども、ロシヤの方から、どうせ娘さんは刑務所に入ったのだし、出るのを待っていても三年も待たなくちゃならない、そうすると引き揚げがなくなる、だからお父さんたちは先に帰って下さいと言われたのです。お父さんは、私のところに手紙をくれて、先に引き揚げているから、必ずあとで帰ってきなさい。そうして引き揚げたのです。あと十六才か十七才、二十才前後の女の人たちがたくさん残ったのですが、それは朝鮮人と恋愛をしていて、帰国をするため真岡まで兄弟とか親たち一緒に来たのですが、朝鮮人が好きなために、そこから朝鮮人と逃げた方もたくさんおるのです。そういう方もおりましたし、朝鮮人に責められて、おどかされて、どうしても結婚してくれと金で買われたような女性もたくさんいたのです。私の場合は刑務所に入ったために残ったのです。
  66. 山下春江

    ○山下(春)委員 七十四条というのはどういう罪ですか。
  67. 柴田敏子

    柴田参考人 フリュガンストというのですか。——乱暴者ですね。
  68. 山下春江

    ○山下(春)委員 そういう若いお嬢さんがどういう乱暴をしたのですか。 ちょっと聞かして下さい。
  69. 柴田敏子

    柴田参考人 ある日ロシヤ人一緒交換手をしていました。そのときに、ロシヤ人が十人、日本人は三人しかおらなかったのです。それをロシヤ人を指導しながら交換手をしていたのです。あるとき、ロシヤ人に、私が、ちょっと外出するから、私のかわりに交換台についてくれないかと言ったら、ロシヤ人はうるさいと言うのです。そこで、私も、敗戦して間もなくで、そういばっていたのが結局悪かったけれども、敗戦国の人間でありながら、ロシヤ人に対して交換台についてくれとは何ごとだといって、ロシヤ人が私にロシヤ語で言うのです。そのとき私はきかなかったのでしょうね。そうして、ああだ、こうだと言っていろいろな口争いをしたのです。そこでその女が私を見て一つなぐろうとしたのです。私は、腹立ちまぎれに、ちょうど窓の上に四合びんがあったのですが、それに塩酸の入っているのがわからないで、お水だと思ってその女に投げたのです。そうしたらその着物を焼いて、足を焼いたのです。そこで、その人は、すぐ病院へ行って、警察の方へ手続をした。そうして警察の方からすぐ来て連れられていったのです。それで三年です。
  70. 山下春江

    ○山下(春)委員 柴田さんは私どもが考えていたよりは非常に元気な顔をして、そうして朗らかで、そういうお嬢さんだから私は思い切ってお尋ねができるのでございますが、そこで、先ほど、あなたのお話では、あなたは七十四条の乱暴者で監獄へ行った。親御さんがあなたの刑の明けるのを待てなかったその事情はよくわかりました。ところが、あなたの言葉の中に、朝鮮人と恋愛をしている若い娘さんたちがたくさんあった。そのために、親御さんたち引き揚げるときに帰れなかったということですね。これはちょっとそれだけの問題のようですが、今私ども日本国がかかえておる非常な大きな問題の一つに、里帰りという問題があるのです。それで、里帰りという——今ではあなたと同じように二十七、八才から三十才、三十二、三才になっておられる方であって、終戦時はやはりいずれも二十才かそこらであったろう、こう思うのです。その方々で一人だけで行っていたというものは、看護婦の方たちを除くのほかは、ごくまれなんです。そうして、みんな親御さんたちはお帰りになったのだが、娘さんたちは恋愛して残ったというケースの方が相当あるようです。そこで、恋愛はいいですよ。それはちっともかまいませんが、今、私ども日本としましては、里帰り問題についていろいろな問題が派生いたしまして、非常に困っております。しかし、祖国が全くの壊滅状態になってから十数年、祖国もこういうふうに相当復興いたしましたから、このいわゆる中国人もしくは朝鮮人の奥さんになっておるその人たちを一度日本へ呼んで、日本を見せてあげようじゃないかという気持にやぶさかではないのですが、その問題にいろいろな派生した問題が出てきて、政府としても非常に困惑しておる問題なんです。そこで、まああなたがざっくばらんに言えることは、お母さん、お父さんに別れて、敗戦後の日本ヘ帰ってもどうせろくなことはないだろうから、戦勝国といわれる朝鮮人と恋愛して、ここへ残っておる方がきっと幸福だろう、こうその当時のお嬢さんたちは思ったのではないでしょうか。あなたのことではないから、これはなかなか言いにくいと思うのですが、あなたのお心から推察してどうだったのでしょうか。
  71. 柴田敏子

    柴田参考人 まあそういう結婚した女性に聞いてみますと、なぜ樺太へ残ったのですかと、お友だち同士で私が聞くのですね。そうすると、私が朝鮮人結婚したのは、母さんたちが、家庭が苦しくて私を朝鮮人結婚をさせた。そうして私の夫のために母さんたち生活が少しよくなった。それで引き揚げていった。そのときに私も帰りたかったのですけれども、朝鮮人の夫と子供がいたために自分帰れなかった。そういう人もおりました。
  72. 山下春江

    ○山下(春)委員 今度第四次、第五次で樺太地区からお引き揚げになりました方には、先ほどから参考人の皆様や質問等によって明らかにされましたごとく、朝鮮人の方と結婚もしくは柴田さんのケースのような擬装結婚等もまじえて、非常に朝鮮の方がたくさん日本引き揚げてこられたのでありますが、皆様方のお顔色を見ても、精神的な苦痛がおありになったことは、先ほどからの御陳述でよくわかるのでございますが、どうにか生活にはお困りになっていなかったのだな、ああよかったと私は思っているのでございます。その生活が安定しているにもかかわらず、日本引き揚げる。——日本人ですから、日本引き揚げることは、皆さんの場合はこれはもっとものことで、何にも議論はありませんが、朝鮮の方が日本へ帰りたい、たとえば擬装結婚してでも帰りたい、こういう心境におなりになるのは、どういうところから出るのでしょうか。これは、必ずしも柴田さんでなくても、山村さんでもけっこうです。
  73. 山村康弘

    山村参考人 こういうことがあるんです。朝鮮人日本に渡ったならば朝鮮へ帰れるという考え方が一つ、それが大きい問題です。それにまた朝鮮人の大半は自分の家を持っています。彼らは商売が上手ですから、家を持って生活しています。けれども、彼らが言うには、このままでいつまで生活していかれるかわからないというのです。いつ、自分がこの家を売りさばいて、またただで没収されて、いつどういう目にあうかわからない。そういうことでございます。そのために日本へ帰りたいということを言っております。
  74. 山下春江

    ○山下(春)委員 朝鮮の方のことは、今山村さんがおっしゃったように、日本へ帰って、そしてその次は祖国である朝鮮へ帰りたい、もしくは、中には善良な朝鮮人がいて、戦争前までは朝鮮も日本であったのですから、日本に住みなれた人もありましょう。それから日本語のできる方もありましょう。そういうことで、全く擬装とかあるいは日本を経由して祖国朝鮮へ帰るということでなくて、ほんとうに日本へ帰って日本で暮したい、こういう人もありましようか、どうでしょうか。
  75. 山村康弘

    山村参考人 そういう人もたくさんあります。それで、結局、彼らは、自分日本生まれで日本で育った。そして日本から親と一緒にこっちに出てきた。自分日本のことはよくわかる。日本の教育も受けてきた。自分は朝鮮へ帰っても、朝鮮へ行けば自分は食うに困って死ぬだけだというのです。自分日本へ帰ったら絶対動かないという人が、十人集まれば五人くらいはおります。
  76. 山下春江

    ○山下(春)委員 最近私どもちょくちょく耳にするのですが、朝鮮人の家族の日本へ帰るという考え方に対して、何か妨害工作が講じられているといううわさを聞くのですけれども、そういうことがございましたか。夏堀さん、山村さんから、御存じでしたら教えていただきたい。
  77. 山村康弘

    山村参考人 三十二年の五月、六月ごろに、朝鮮人が帰ろうとして一時暴動のようなものを起しました。これは、特に金をよけい持っている人たちはそういう方面へ入ったんです。自分はどうしても日本に帰してくれ。結局これはソ連当局も悪かった面があります。朝鮮へ引き揚げをしたかったならば受けつけをするから、願書を持ってこい、そういうことを張り紙に出したのですから、結局ロシヤ当局の方も悪かったのです。結局、ロシヤ人としては、朝鮮人日本時代に日本人に圧迫されていたから、だれも帰るやつはないだろう、自分の家を持って生活しているんだから、だれもいないだろうと思っていたのが、逆転したのです。それでそういう騒動が起りました。約二カ月続きました。
  78. 夏堀洋

    夏堀参考人 今のお話で同感ですが、さっき生活の安定ということをおっしゃいましたね。生活の水準が違うんです。こっちと向うでは、たとえて話しますと、イワシを食べて御飯のお菜にする。こっちは、同じ魚を食べても、タイを食べてお菜にする。そのくらいレベルが違います。ですから、さっきの、向うではどのくらい月給をとっているかと言いますと、内務省大佐、これは事務所の長ですが、その人が約九千ルーブルです。もっとも、この人は、さっき言った北の手当というようなものが入っている。それからチェフニック——普通のエンジニア、こういう人は大陸から契約で来た人は三千ルーブルか四千ルーブルです。一番下の下層階級といいますか、運転手——これは、五六年の四月に、新憲法で、ストラエーナヤ・ガゼータという建築新聞に出たんですが、一般労働者の賃金が上ったわけです。それと同時にノルマが上ったわけです。ですから結局同じことになる。しかし運転手は今は六百ルーブルです。そうすると、サハリン——樺太地区にもとからいた労働者は、またチョロマへ入って出てきたりした人は、こういう人たちは、さっきのダバーフカといいますか、それがつかないわけです。つかない人は六百ルーブルで生活しなければならない。非常に苦しい生活です。それ以外に技術もないから、結局建築工場などの人夫になったりして働けば、百ルーブルになったり、少いときは五十ルーブル、標準は五、六十ルーブルくらいになっている。日本人たちは一つのブリガードを組んでやりますから、百五十ルーブル、百六十ルーブル働くには楽です。ですが、生活様式が違いますから、日本人はお金をとっても、経済方面ロシヤ人に比べて下手なんです。ロシヤ人は、スープを吸い、主食にはイモ、黒パンを食つて、それでがまんできるわけです。私たち日本時代からの生活標準というものから見ますと、私ではできないわけです。おそらく日本の一般の人もできないと思います。ただ、そこに、さっきも話した日本人労働者のうちで、日本時代のタコ部屋、そういうところから浮き上ったような人は、少しピンぼけしている人がいるわけです。そういう人たちは、六百ルーブルをもらって、ほうきなんか持たせられて、三時、四時ごろから起きて、私たち内務省の庭はきをやっている人があります。日本人で、その人は、おれはソ連人だ。——ソ連人のパスポートをもらったわけですね。庭掃除をして、そのほかに一般合宿所の掃除夫までやるわけです。そこから二百ルーブルか三百ルーブルもらって、九百ルーブルくらいになるわけです。そういうふうにして働いて、その人はパンをかじって塩ニシンを食べている。そういう人たちは当然標準にできないわけです。これくらいです。
  79. 山下春江

    ○山下(春)委員 そういう生活のレベルが違うということの内情をよく聞いてみますと、私は、その生活が安定しているということは、これは樺太においては通用いたさない、レベルを下げなければ当てはまらないお言葉であったようで、その事情はよくわかりました。そういうことでは、なおさら、朝鮮人の方が、日本に帰りたいという希望を、あなた方とほとんど同じくらいにお持ちになる方が非常に多いと思うのです。そこで、契約結婚というか、擬装結婚というか、そういったようなケースがふえるのじゃないか。柴田さんは、この間引き揚げるときに一緒にお帰りになった朝鮮人の方は契約結婚、いわゆる形式結婚で、ほんとうの結婚生活はしていなかったのですね。いかがですか。
  80. 柴田敏子

    柴田参考人 私は申旦述という人とほんとうの結婚はしておりません。ただ結婚登録はしていたのです。
  81. 山下春江

    ○山下(春)委員 そうすると、あなたが結婚を登録された方は、北鮮の方ですか、南鮮の方ですか。
  82. 柴田敏子

    柴田参考人 それは南鮮の方です。
  83. 山下春江

    ○山下(春)委員 だんだんこういうケースがふえてくる。それでないと、先ほど山村さんの御説明の通りに、朝鮮人日本へ帰るということがなかなか困難だ、そういうことで日本の婦人と結婚契約をして日本へ帰ってくる、こういうケースがだんだんふえると思うのですが、これは、柴田さんでなく、山村さん、夏堀さんから、もしそういう事情がわかれば、ちょっと簡単にお知らせ下さい。
  84. 山村康弘

    山村参考人 僕の見るところによると、そういうことが警察当局の方へわかると、結局処罰されるのです。だから大っぴらにそういうことはできないですね。だから、このたび僕が帰国するときに、僕に妻があったんです。二人きりで引き揚げてくるつもりだったけれども、僕が家を借りて厄介になっているうちの人が朝鮮人で、その人が、お前は自分の妻と結婚届をしろ、僕はお前の妻と一緒結婚届をしよう、そうして帰ろうじゃないか、こういう話を持ち出されたのです。けれども、僕は、その朝鮮人はほんとうにいやだったし、そんなことはできないし、そういうことを暴露されたら僕は再び日本に帰ってこられないのです。あっさり僕は断わったのです。そういう人がたくさんあるのです。
  85. 山下春江

    ○山下(春)委員 それは、私は次のいろいろなことを聞きたいので、今いろいろと立ち入った御質問をしたわけでございますが、そこで、夏堀さん、山村さんにこの未帰還状態について具体的にお聞きをしたいと思うのでございます。樺太に二百五十となると、皆さん覚えておられないでしょうが、一体皆さんの周辺には何という人と何という人が生存していたということがおわかりになれば、知らしていただきたい。日本におきましては、当時委員会を初め、政府、与党、特に政府は、長い間この留守家族の調査に非常に苦労を重ねてきたのでございますが、どうも実態が的確にわからないのであります。先ほど手紙のことについてちょっと御説明がありましたが、もし残留している皆さんからそれぞれのお留守宅に手紙がどんどんいくとか、あるいはこっちからも返事が出せる。山村さんの先ほどの御発言に、手紙をもらうことが一番楽しい。一番うれしいことだ。一番元気づけられることだ。そうであろうと思います。従って、私どもも、通信の自由ということを、政府を鞭撻してもう長く言ってきたのでございますが、どうも手紙をこちらから出しても届かない、皆さんから来ることも非常に少いということが実際の問題でございます。この引き揚げ問題ももはや十三年もたっているものですから、実際の実態を知りたいということが、われわれ、特に政府の非常な深い関心事なんですが、通信が自由でないのかどうか。こちらから行った通信があなた方に必ず到着していたか。あなた方の出した手紙がきっと家族に到達していたかどうか。その通信問題についての具体的なことを、簡単に一つお知らせを願いたいのです。
  86. 山村康弘

    山村参考人 僕あたり自分の兄さんに二度手紙を出したのです。なぜかというと、ちょうど三十二年の三月ごろに樺太からの引揚者の名簿ラジオで発表になったのです。それで初めて兄の住所がわかったのです。それで僕が二度手紙を出したのですけれども、兄の方からは一度も返事が来ないのです。それで、僕が帰ってから、何たることだ、手紙をもらったのかもらわぬのかと、僕は頭から怒ったのです。そうしたら、お前聞いてみろ、日本の国ではこういっているぞと言うのです。お前がもう帰ってくるような話をするから、お前のいない間に手紙を出してもうまくない、そう言って手紙を出さなかった、こう言うのです。それは理由もあるのです。それでも、僕たちとしては、僕がいない間に着いても、返事ぐらいは出してもらいたい、そういう考えでいるのです。僕と一緒に住んでいた木明石松さん、この人はロシヤのパスポートを持っていた。奥さんと子供が一人おります。彼の実家の野辺地へ僕が行って、いろいろお話しして帰ってきたのですが、彼の家は手紙はどんどん行ったり来たりですね。そしてロシヤから日本に来るのには大体三十日ぐらいかかります。日本からロシヤに行くのには大体二週間ぐらいで着いておるのです。結局こういうことがあったのじゃないかと思うのです。ロシヤの国では、手紙を出すのも一ルーブルあると日本に出すことができます。ただ、日本の方では、結局航空郵便で出すとなれば、やはり何グラムで何円、そういう高い値段で取扱いされるので、結局家庭の事情で金銭に関係のある人は出せないのじゃないかと思うのです。ちょっと重く写真なんか入れたりしたら、すぐ四百円、五百円ぐらいかかっているのです。だから、そういう点から見て、手紙返事もくれないのかなと思ったこともあるのです。
  87. 山下春江

    ○山下(春)委員 今の問題についての御返事があると思いますが、     〔委員長退席、中山(マ)委員長代理着席〕 お三方それぞれの知っていらっしゃる方の名前を、三人でも四人でもお知らせ願いたいと思います。
  88. 山村康弘

    山村参考人 日本人で僕の知っている人はたくさんおります。僕と同居していた木明石松、その妻の本名は工藤富美枝というのです。しかし現在は入籍して木明富美枝になっております。それと子供、それは豊原におります。敷香にはたくさんおります。敷香にはまず千里昭一、これは実家は北海道の留萌市元町にあるのです。この人は手紙の行き来でわかっているのです。それにひとり者で残っているというのは寺島新一という人、この人は秋田県の人です。この人は手紙のやりとりはわからないです。それに円子賢治、この人は終戦当時現地で除隊された者かもしれないですけれども、軍隊から監獄に入って、そうして現在敷香でロシヤ人一緒になっておる。そういう人もあります。
  89. 山下春江

    ○山下(春)委員 ありがとうございました。そんなにたくさん知っているなら、それは援護局の方できっとよく皆様から伺ったと思いますから、ここでは時間をとりますから……。ありがとうございました。  先ほどの通信の問題で、日本から送る場合には非常に金がかかりますから、そういうこともあっただろう。私ども長い間引き揚げ問題を扱ってきたのですが、確かに留守家族の方々は必ずしも裕福ではございません。従って、皆様に思うように手紙が出せなかったということも多少なりともあったかもしれませんが、しかし、お母さん方は、あなた方がどうぞ無事であるようにというので、陰ぜん据えて十三年間待ったのですから、手紙代が二百円かかろうが三百円かかろうが、必ず所期の目的のところに配達されるということが確実にわかっていれば、二百円でも三百円でも、自分が食べないでも、せがれに消息を知らせたい、写真も入れて送ってやりたい、こういうことは、私は留守家族の親御さんたちあるいは御兄弟衆のみなが念願してきたことだと思うのです。あなたの御説明によると、通信は何も阻害されることなく、出せば必ず行くんだということのようでしたから、この点はあとに残っている方々に対しても私は非常に安心いたしております。  そこで、さっき参考人から伺いました朝鮮人の問題でありますが、これはどこでお扱いになるか。さしあたりは引揚援護局であろうと思いますが、私どもは、かつて、戦争裁判によって巣鴨プリズンにいました朝鮮人あるいは台湾人等に対しましても、日本人と同等の処遇をもってこの方々をお慰めしたのであります。従いまして、今回樺太から帰ってきます朝鮮人でも、あるいは思想的に、あるいは他のいろいろな目的があって擬装し、あるいは何か日本の婦人を利用してというような方は、これはまた別でございますけれども、そうでなく、樺太生活に耐えられなくて、日本に永住したいということで引き揚げてきたほんとうに善良な朝鮮人は、第三国人だからというので、これを第三国人のケースで扱うということよりも、やはりこれは世界大戦争の結果起った人類の悲劇でございますから、何かあたたかく扱う方法が考えられてしかるべきではないかと思うのであります。入管の方は、これはむろん法律だけでお考えになるところでございますから、ここであまりふんわりとしたお扱いを伺いますことは、かえってまた問題を混乱さすと思いますから、さしあたり援護局の方のお答えを願いたいと思います。
  90. 河野鎭雄

    ○河野政府委員 実は、法律問題としてはいろいろ考えようがあるわけでございますが、実情も考えて、理屈のつき得る限りの援護をするというふうな建前で進めておるわけであります。引き揚げて参りましたときの応急援護措置としての手当一万五千円、その点につきましては、ちょっと引揚者というふうに言いにくいものでございますから、これは一つがまんをしてもらう。ただ実際問題としては、お子さんを連れておる。まあ大家族といいますか、四、五人は大体お連れになっておる。奥さんとお子さんを合せれば、世帯全体としては相当のことができるのではないかというふうなことで、お子さんそれ自身についても、法律的なやかましいことをいえばいろいろ考え方があるわけでありますが、これは日本人と同じに扱っておりますから、世帯全体としてはまあまあというところが出ているということになるんじゃないかと思います。  帰ってきてからの援護につきましては、たとえば無縁故者が非常に多うございます。無縁故者に対しましては、各県でお世話願って、それぞれの施設にお入り願う。実際そういった無縁故者を収容する施設にお入りになる方は、むしろ朝鮮人家族の方が圧倒的に多いと申し上げていいんじゃないかと思います。そういうふうにお世話をいたしておるわけであります。  その他、就職の問題でございますが、これは、まあかねてから労働省にお願いをいたしましてお世話を願うことにいたしておりますが、引き揚げのありますつど、重ねて労働省にもお願いをして、お世話をいただくようにお頼みしておるわけであります。現地では、舞鶴にやはり相談所を設けてもらって、そこでとりあえずの相談に乗って、さらに定着地に着いてからそれぞれの機関でお世話をする、こういうふうな段取りでやっておるわけであります。実際日本人の方のお世話の方は、縁故のある方の方が多うございますので、まだ十分行き届かない点があろうと思いますけれども、まだお世話しやすいかと思っております、朝鮮人の方は、ただいま申し上げましたように、縁故のない方が多いのでございまして、なかなかお世話がし切れないというのが実際の姿であろうと思います。この点につきましては、さらに労働省にもお願いして、あたたかいお世話ができるようにいたしたいと思います。  それから、生活保護にいたしましても、一般の日本人と何ら差別なくお世話ができるように考えております。あるいは十分行き届かない点があろうかと思いますが、こういった点は御指摘を受けて是正をしていくように努めたいと思います。  全般的な考え方といたしましてはただいま申し上げたようなことでございます。
  91. 山下春江

    ○山下(春)委員 西ドイツと東ドイツのあの境界を越境される方が毎週三百人、四百人とあるという報告であります。これは同じドイツ人でございますけれども、それでもなおかつ思想とかいろいろな問題につきましては相当厳重な調査をいたしてはおられるようでございますが、その調査をパスした方々に対しては、きわめてあたたかい援護の手が差し伸べられておると聞いております。参考人の方々から承われば、樺太にありまして、やはり日本人朝鮮人は、十三年の長きにわたる間、相当差別待遇を受けて、あるいは一緒に助け合ってこられた——山村さんの話のように憎たらしいのも中にはいますが、おおむね助け合って、今日まで健康を保持し、ほんとうに御健康で祖国にお帰りになったという中には、やはりこれらの善意の人々のお互いの助け合いがあったであろうと私どもは推測いたします。そういうことでございますから、こういう善意の朝鮮の方々に対しましては、どうか一つ、援護局におかれましても、御説明を聞けば細部にわたる心づかいがあるようでありますが、なお十分にそれらの点を御勘案願って、人道上の立場から遺憾なきを期していただきたいということをお願いいたして、私の質問を終ります。
  92. 山口シヅエ

    ○山口(シ)委員 実は、御質問申し上げたいと思います要点は、ほとんど山下委員によって十二分に質問されたようでございまして、これを再び繰り返すことは、重複することになりますので、御遠慮いたしまして、一つ、これは入国管理局長さんにお答えいただけばいいのではないかと思うのです。夏堀さんの先ほどの御発言で、夏堀さん自身のことでございます。ソ連の婦人を奥様にお持ちになって、御当人もぜひ日本へ連れて帰りたかった、またソ連の婦人もぜひ日本へ行きたい、連れてきたい、行きたいというこのお二人の気持を、でき得るならば私は一日も早く実現させてあげたい。それにつきまして、ソ連側としては、先ほど夏堀さんのおっしゃるように、いろいろと整った書類が必要である。これらのことが、果して日本側としてすみやかに用意をし、この問題を解決つけてあげることができるものでしょうか、どういうものでしょうか。この点について御答弁願いたいと思います。
  93. 伊關佑二郎

    ○伊關政府委員 ソ連国内の手続がどうなっておりますか、その点は私どもよく存じませんが、われわれの方の関係になりますと、奥さんから大使館の方に申請をする。大使館から外務省に言ってきます。外務省の方からわれわれの事務所に相談がある。こういうふうな順序になる。それから、奥さんから大使館まで申請されるまでの間にどういうふうなことがあるか。これはむしろ夏堀さんの方がよく御存じじゃないか、こう思っております。それで、そういう申請がありました場合に、われわれの方はそれを認めるかどうかという問題になるわけでございます。これは大使館の方でも事情を調べます。現在ですと、もう夏堀さんにお話を伺えば十二分にわかるわけでありますし、できるだけ好意的に扱いたい、こう考えます。
  94. 山口シヅエ

    ○山口(シ)委員 では、局長さんに対しての質問はこれ一つなんでございます。ありがとうございました。  それから、政府側の今の局長さん側の言い分に対して、何か夏堀さんこの際発言しておきたいことはございませんか。
  95. 夏堀洋

    夏堀参考人 私が仙台の入国管理事務所に行って手続方法などを聞いたわけです。そうしましたら、ソ連に対してこういう経験が一度もないので、わからないわけです。そうしていろいろお話は聞きました。ですが、私が向う内務省の人から教えられてきたことは、私の方からさっき言った書類をまとめて出さなければだめなわけです。妻の方から嘆願書とかそういうものを出しますと、さっき話したように危険性が多いわけです。ソ連国籍を持って外地に行きたいという一事、それが危険を要するわけです。ですから、向うでは知っていますが、当然これは、私からモスクワ日本大使館を通じて、そうして向うの呼び出し方、それは樺太豊原市の外人係にやってもらいたいわけです。そうすると、外人係で私の妻を呼んで、近親者の呼び出しということで、その書類内務省に行くわけです。内務省としては結局日本の外務省に連絡をとるようになるのじゃないかと私は思います。ですから、それは、最初の三つの書類はまとめなくちゃいけないのです。
  96. 山口シヅエ

    ○山口(シ)委員 そういうことですね。わかりました。  それでは、これは柴田さんに対して大へん何か折り入って聞くようになるのですけれども、あなたは、入獄なさって刑がお済みになって、それから職におつきになったのですね。その職におつきになったときに、結局御自分で働いて生活していけなくなって、朝鮮の方と御一緒になったとおっしゃいましたね。そういたしますと、独身の婦人が樺太で自立していくことはむずかしいような状態ですか。いわゆる働いてその収入で一人食べていくということは、むずかしい事情にございますか。そのときの事情でけっこうでございます。
  97. 柴田敏子

    柴田参考人 私が出て一時働いていたとき、一月で四百ルーブルもらっていたのです。そうして働いておりましたが、一人で四百ルーブルではちょっと足りないのです。やはり五百ルーブルか六百ルーブルは要る。そのときに、朝鮮の人たちが、女性が一人でいるとあたりがうるさいのです。結婚してくれないかとか、あの人にお世話してあげますとか、毎日二人、三人はかわるがわる来るのです。それでこれは一人でいてはうまくないのじゃないかと思って、下手にされては困るというふうに思って、朝鮮の人と結婚したのです。
  98. 山口シヅエ

    ○山口(シ)委員 ありがとうございまました。そういたしますと、むしろ経済的な問題よりそういううるさいということの方が大きな理由でございますね。  もう一つ伺いたいことは、日本人同士結婚する相手がないわけではないのでございましょうね。やはり日本人同上結婚しないということには何か理由がございますか。朝鮮人の方が生活力があるとか……。
  99. 柴田敏子

    柴田参考人 それは、日本人の男と結婚できますけれども、日本人の男の人は一般に少かったのです。
  100. 山口シヅエ

    ○山口(シ)委員 それで、私は、これも舞鶴の援護局で伺ったのですが、非常に婦人が足りない。数が婦人の割合は男より少い。そのために、独身はもちろんのこと、子供さんがあっても未亡人というのは全くないような状態である。それから婦人が三度や四度結婚していることは決して珍しくない。こういうようなことを聞きましたけれども、事実でしょうか。  それと、もう一つ、先ほど朝鮮の方が日本の国に入りたいために擬装結婚までして入ってくるというのが一つ。  それから、朝鮮へ帰る最も手近な道であるという考え方で、日本に入ってくる例が幾つか話の中にございましたが、実際問題として、このたび引き揚げてきた方の大半は朝鮮の方と結婚しておる方々で、その中には、樺太で生まれた婦人がしかも全然日本というものを知らない樺太で育った朝鮮の方と結婚して、二人とも全然日本というものを知らずに、しかも日本に落ちつく場所もないというような、そういうケースもたくさんあるのじゃないかと思うのですが、そういう人たちの気持ですね。この人たちはいずれ朝鮮にわが子と妻を連れていってしまいたいという気持で日本に来ておるのか。それも一つお聞きしたい。  これらは別に柴田さんにだけ御回答いただかなくてもけっこうです。お二人の男性から御返事いただいてもけっこうですから、今申し上げた三点についてお答え下さい。
  101. 山村康弘

    山村参考人 僕が見るところによると、結局、樺太に残っておる日本の女というのは、一般に、今の世の中は朝鮮人の世の中だ。日本人なんか頭にないのですね。ここに柴田さんがいるから言うわけじゃないが、僕はそういうことを体験したことがある。敷香にいたときに、こういうことがある。ある一人の日本人の女が朝鮮人と別れて僕たちの合宿に来たことがある。その日一人の日本の女性がたずねてきて、現在は朝鮮人の世の中だ、日本人はそうはいかぬと、せっかく日本人の適当者があるにかかわらず、そういう方面に引っぱっていく。そういう例が他にあるのです。     〔中山(マ)委員長代理退席、委員長着席〕
  102. 山口シヅエ

    ○山口(シ)委員 よくわかりました。そういたしますと、御婦人が二回から三回、子供さんがあっても結婚しておる方が多いということ、それから非常に婦人が足りないからそういう状態になるんだということ、これはどなたか……。
  103. 夏堀洋

    夏堀参考人 日本人の女の人が朝鮮人一緒になるのは、多くは経済的な面もあります。確かにそれはあります。また日本人の男の方から言わしても女の方から言わしても、お互いに日本人同士だ。お互いの事情を知り過ぎるくらい知っておる。女の方々も前からの経歴を知られておりますから、知らない朝鮮人のところにいくということもあります。それから、もう一つ、私の知っておる範囲で、日本の女がレベルが下りましたから、結局ロシヤ人一緒にならないで、朝鮮人の方に迎えてくれる人は朝鮮人に、こういうことになるわけです。
  104. 山口シヅエ

    ○山口(シ)委員 それから未亡人はいないということは……。
  105. 夏堀洋

    夏堀参考人 未亡人はいないですね。結局未亡人がいれば朝鮮人が救ってくれるわけです。
  106. 山口シヅエ

    ○山口(シ)委員 それで、何回も結婚するということも事実ですか。
  107. 夏堀洋

    夏堀参考人 そうです。
  108. 山口シヅエ

    ○山口(シ)委員 それでは、婦人は独身者がほとんどいないということですね。
  109. 夏堀洋

    夏堀参考人 婦人にはいないですね。いるとしてもほんとうに少いです。
  110. 山口シヅエ

    ○山口(シ)委員 先日引き揚げて見えた中に、兄弟で、結婚している名目でもって帰ってきた方があるというのですけれども、そんなケースがあったのでしょうか。なぜそうしなければならなかったのでしょう。兄弟が、御夫婦であるような形で、そういう届をして帰ってきたというのが、船長さんのお話でしたか。これは何でございましょうね。
  111. 夏堀洋

    夏堀参考人 それはありました。姉の方は日本人の洋服屋と一緒になっていました。その日本人の洋服屋さんの妻の妹が朝鮮人の亭主を持っていたのです。職業は写真屋でした。その人たちも、ちょうど一緒最初たちと乗船をとめられたわけです。日本名前で木村といいます。ところが、税関を通るとき、その人が、子供もいますし、兄夫婦の荷物を手伝ったわけです。そうして自分の荷物も——私たちは当然乗船できるものと見ていましたから、その人は、自分の家内を残して、自分の家内の弟と全部荷物を一緒に船に積んでしまったわけです。そうして、そこでその人たちがあとから呼ばれまして、今度は乗船できないということになったわけです。で、私たちと残ったわけですが、その人は呼ばれまして乗船したわけです。ですから、私はソ連の官憲に言ったのですが、「ザコンがあって乗せられない。」「しかしあなたたちは一人通したじゃありませんか。ソ連のザコンからいって、一人通して私たちを通さないことはできないだろう。ぜひ通してくれ」と言ったら、「そんなことはない」と言って逃げるのです。「あの人は国籍はなかった。ソ連国籍はなかった。」こう言うのです。その人はソ連国籍を持っていたわけですが、その人は逃れて、漏れて乗ってきたわけです。そこで、船艙の一番下に荷物が入ったために、それを探すことができなかった。それで、そのとき、今度は私のトランクも入ってしまったのです。私は、前のケースから、ぜひ乗船さしてくれとがんばったのですが、私の場合もだめでした。
  112. 山口シヅエ

    ○山口(シ)委員 わかりました。長時間ありがとうございました。
  113. 戸叶里子

    戸叶委員 私中座いたしておりまして、お話を伺えないで大へんに残念だったのですが、先ほど山村さんがお話しになりました最後のところで、多くの人たちが非常に向うへの入籍を勧められて、そうして強い者は入籍しないけれども、弱い者は入籍したという話がある。そういうふうな人でも、帰るのに、戸籍抄本なり何なりを送って、六カ月くらいかかって帰ってきた人があった、こういうふうなことをおっしゃいまして、そのあと、一番最後に、日本大使館書類を出してもだめで、何か市町村の証拠書類があればそれでいいのだ、というようなことをおっしゃったのですけれども、その辺のところちょっとわかりませんので、日本大使館手続をしても、どういうふうでだめなのか、参考までに伺いたいと思うのです。
  114. 山村康弘

    山村参考人 これは僕と一緒に同居していた人がそういう手続をしたのです。そして、日本門脇大使から、この人は日本人であるという証明書ロシヤ文と日本文で送ってきたのです。それを持って、彼もロシヤ語がはっきりわからないので、僕が通訳かたがたついて行ったのです。行ってしゃべったところが、結局、この人間はロシヤ人である、われわれと同じ権利を持った人間である、それで日本大使館によって何も云々できない、それだから、それよりも自分の親元から結局嘆願書を——向うで言うと呼び出し証というものを書いてもらって、それに町長なり村長なりの判を押した、結局この人間は入国してもさしつかえないという証明書があればいい、そういうようなことです。
  115. 戸叶里子

    戸叶委員 そうすると、関係の官庁はどちらですか。外務省ですか。厚生省ですか。そういうふうな申請をしてきている人たちがたくさんおありでしょうか、どうでしょうか。それから、ついでですからもう一つ伺いますけれども、山村さん、そういうふうな手続のことを知っていて、そうして日本の官庁の方にどうかそういうことをやってくれというふうな手続をしておられる方がたくさんおいでですか。
  116. 山村康弘

    山村参考人 たくさんおりますね。たとえば、国から一度も手紙のない人は、したくてもできない。結局国から一本でも手紙があって住所がはっきりされておるとなると、大ていはそういう処置をとりたがるわけで、その書類を作るのがおもに豊原で行われているのです。だから、敷香方面にいる方は、汽車賃をかけて二度も三度も六カ月ぐらい通わなければならないのですから、結局僕が来るとき言ってやったのですが、そういうことをするよりも、豊原の方に出てきて、そういう手続をした方がいいのじゃないか、僕も日本に帰ってから極力そういう面についてあれするからと言って帰ってきたのです。
  117. 竹中祐一

    ○竹中説明員 ただいまのお尋ねでありますが、御承知の通り、テヴォシャンが昨年の三月十六日に通告して参りましたのは、ソ連で無国籍待遇を受けておる者が七百九十三名あって、そのうち二百二十五名が帰国を希望している、配船してくれということだったのであります。で、その二百二十五名の名前が発表されましてから、この名簿に載っていない人で帰国を希望する人が相当大使館の方に嘆願書を出しまして、その数は昨年末で三百二十九名となっております。その大使館の嘆願書を受け付けましてから、嘆願書自身は非常に不備な点が多いのでありますので、大使館からさらに本人調査票を送りまして、そして、家族の状況であるとか、内地における親類その他知人の状況であるとかのできるだけ詳しい資料をとっております。もちろん、嘆願書を出した人につきましてはリストを作りまして、ソ連側にこの人たちも帰国を希望しておるということを申し入れたのであります。その点もあったのか、昨年の十二月二十五日に、さらに朝鮮人の家族を含めました千百二十二名の名簿を送ってきまして、そうしてこれらの人の大部分の方が第十四次と第十五次でお帰りになったわけであります。結局三百二十九名の嘆願書をお出しになりました中から、まだお帰りにならないのは百四十八名となっております。これらにつきまして、調査票の記載条項を調べてみますと、大ていこれは朝鮮またはソ連国籍に帰化しておられる方でありまして、その帰化しておろうとおるまいと、日本大使館としましては、居留民の保護という立場から、当然日本人としてこれを扱っておるのでありまして、ソ連の外務省も、しばしばその点帰国を希望する日本人を全部帰すということを言っておりますし、また千百二十二名の名簿をよこしましたときに、この名簿以外に若干の者については一月中旬ごろにお帰しするということを言っておりますので、私たちとしましては、第十五次配船までに、相当、この千百二十二名の名簿以外に、国籍はどうであろうと、大使館の方からもちろん証明書も出しておるわけでございますし、またしばしば申し入れておるわけでありますので、当然お帰りになるものと期待しておったわけであります。それが結局現在のところ百四十八名お残りになっておる、こういうわけであります。
  118. 戸叶里子

    戸叶委員 それではっきりいたしますけれども、そういたしますと、ただいまの参考人の方からお聞きになりましたように、やはり市町村の証明書がなければ帰れないということがはっきりしたので、大使館の方で調査票をお出しになって、その身元の方をお調べになると同時に、やはりその市町村でその方の戸籍証明をなるべくよく調べて、そして向う手続しなければ帰れないということなんじゃないでしょうか。ですから、そういうふうなところまで親切になさらなければいけないと思うのですけれども、これはいかがでございますか。
  119. 竹中祐一

    ○竹中説明員 お説の通りでありますが、この第十五次の配船までにお帰りになりました方で、市町村から戸籍の書類あるいは近親者の呼び寄せ状を送ったから帰られたという方は、全部やはり無国籍者の取扱いを受けておった人のようであります。例外としまして、はっきりソ連に帰化しておりました人から三人帰っておられますが、それはほとんど例外に考えられるのであります。と申しますのは、配遇者が日本人であるというわけで、人数から申しますとたった三人でありますので、これは例外と考えておりますが、結局戸籍の書類と申しましても、北海道であるとかあるいは内地に戸籍がある場合は、簡単にとれるのでありますけれども、樺太に戸籍のあった方々ですと、お帰りになってから復籍されるという手はずになっておりますので、戸籍の書類がないのであります。従って、大使館としましては、大使館で出しております証明書を認めるように、そういう方向に今向ってやっているわけでございます。
  120. 戸叶里子

    戸叶委員 もう一つだけ。今のお話でわかりましたけれども、大体今おっしゃいましたように、なかなかその戸籍を調べても調べれらないような場合等が、樺太のように、樺太に戸籍がある場合はむずかしいわけなんですね。そこで、こちらの方の証明なさる方は、大使館証明じゃまずい、こういうことで、なかなかお帰りになれない方がそこにあるわけなんですね。ですから、やはり出先の大使館でもう少し強く、大使館証明書で帰れるようにしてほしいということを言っておあげにならなければ、この問題はなかなか解決しないのじゃないかと思うのです。ですから、もう一度そういうふうな点で御努力していただきたいと思うのですけれども、いかがでございましょうか。
  121. 竹中祐一

    ○竹中説明員 その点は、この第十五次の引き揚げが一段落つきました一月二十七日に、門脇大使からフェドレンコ次官に対しまして申し入れております。もちろん、本人の親族ないし近親者が内地におりまして、近親者と連絡がつきまして、そうしてそういう嘆願書ないし戸籍謄本を送る場合には、直接にも送っておられますし、また外務省あるいは大使館を通じても送っております。
  122. 山下春江

    ○山下(春)委員 ちょっと関連。  今、竹中さんは、その市町村の証明でなければ、大使館証明ではだめだ、だから、外務省や厚生省援護局は、市町村の証明をとって、早く帰れるようにしてやらなければいけないじゃないかという御質問に対して、お説ごもっともです。——そのお説ごもっともということは、どういうことか私にはわからないのでございますが、要するに、ソ連との国交の回復ということは、大使館のそういうことが非常にソ連との間で重大な案件でございましたから、そのために非常に長い間引き揚げ問題を御苦労なさった高橋書記官が特に在住しておられるわけでございますから、お説ごもっともということを外務省から聞くので、私ちょっとよくわからないのですが、そこのところをもう一度一つ御説明を願います。
  123. 竹中祐一

    ○竹中説明員 非常に言葉が足らなかった次第でございますが、御承知の通りに、ソ連の中央政府と非常に僻地にあります地方とは、かなり隔たっておるわけであります。その点、ソ連のお国流と申しますか、われわれ日本人が考えておるように、非常に敏捷な、しかも円滑な事務の処理が行き渡らない面もあるようであります。大使館としましては、全部厚生省より出しました未帰還者の表、厚生省の表になくても、現地から嘆願によって掌握した未帰還者の表というものを出して、帰国希望者には必ずその機会を与えるようにということを申し出ておるわけでありますが、現地の方で、いろいろそういう官憲が戸籍謄本が要るとか、あるいは近親の呼び寄せ状が要るとかいうことを言っておるわけであります。それで、現地でそう言っている限りは、それを無視するわけにもいきませんので、できるだけ送れる人は送れるように慫慂もし、あっせんもしております。今までのところ戸籍謄本ないし近親の嘆願書があってお帰りになった方は、無国籍者の取扱いを受けておられた方々だけでありまして、すでに帰化をしておりました方は、大使館証明書があろうと、それから戸籍書類があろうと、まだ解決がついてないような現状でございます。
  124. 山下春江

    ○山下(春)委員 よくわかりました。そこで、先ほど竹中さんがおっしゃった通りに、日本国内の者は戸籍謄本が要れば作成して送ってやることもできますが、もともと樺太に生まれて、樺太国籍の原簿があったという方は、なかなかそれもできませんので、先ほど重ねて戸叶委員からの、将来、大使館のこうした証明によって、この問題が解決するように努力しているかどうかという御質問に対して、あなたの方では大いに努力しているということでありましたから、それをぜひ進めていただきたいのでございますが、今多少そういうことでこの問題の解決の曙光が見えつつあるのでございましょうか、どうでしょうか。その大使館証明によっても、ソ連はその証明を相手にしてこの問題を進めていくという態度が現われてきておりましょうか、どうでしょうか。
  125. 竹中祐一

    ○竹中説明員 先ほどお話しいたしました通り、この十五次の引き揚げが終りまして、一月二十七日にすでに申し入れております。昨年の三月十六日のテヴォシャンの通報から始まりまして、この樺太からの引き揚げというものは一応一段落つきまして、その一段落によって明らかになりました資料をもとといたしまして、さらに第二段の交渉に入るものと考えております。
  126. 山下春江

    ○山下(春)委員 日ソ国交回復の共同声明の中でも、このことは国交回復と同時に一番先に解決するということが、われわれの日ソ国交回復にかけました一番大きな期待でございます。従いまして、外務省が大使館を設置されまして、その大使館がこういう問題を処理するということで、非常な引き揚げ問題に対する急速な解決がつくものと期待いたしましたし、それであるがゆえに、高橋書記官等を本委員会等においても強力に御推挙いたしまして、赴任をしていただいておるようなことでございますから、やはり正式なお互いのその申し合せの線を親切に強力にお申し出願って、この解決に当っていただくように、特に要望をいたしておきます。
  127. 中山マサ

    ○中山(マ)委員 先ほど夏堀参考人からのお話で、からだが非常に工合が悪い、いろいろ手続をするのに三月もかかるというようなお話は、これは国内でございますね。お帰えりになって……。
  128. 夏堀洋

    夏堀参考人 はあ、そうでございます。
  129. 中山マサ

    ○中山(マ)委員 それで、御病気のような御発言でございます。そういう点はどういうふうに厚生省は処理していただいておりますか。いわゆる舞鶴でからだの悪い人はすぐ国立に入ってもらう以外に、ほかに簡易な方法でもってこれを処理する方法はないのでございましょうか。
  130. 河野鎭雄

    ○河野政府委員 応急援護につきましては二十五日間、すぐに入院を要するというふうな場合は応急援護として二十五日間取り扱うことになっております。その後の問題につきましては、例の療養給付の規定がございます。その活用につきましては、成規の手続に若干日時を要すること御質問の通りでございますが、特に急ぎます場合には、さしあたり生活保護法でやっておいて、そのあとまた追っかけて留守援の適用をはかるというふうなやり方をいたしております。個々のケースになりますので、あるいは十分行き届かない点があるかもしれませんが、その点はまた個々の問題といたしまして善処いたしたいと思います。
  131. 中山マサ

    ○中山(マ)委員 幸い参考人としてここに御出席いただきまして、いろいろその行き届かない点がここではっきりして参ったのでございますから、一つ御本人ととくと御相談下さいまして、何とか、簡易な方法でもって、夏堀氏の御病状を早く好転させていただくような方法をおとり下さることを要望いたしまして、私の質問を終ります。
  132. 中川俊思

    中川委員長 他に御質疑はございませんか。御質疑がなければ、これにて本日の参考人に関する議事は終了いたしました。  参考人各位には、御多用中のところ、長時間にわたり詳細に事情をお述べ下さいまして、本委員会として、調査上非常に参考となりました。ここに委員長より厚く御礼申し上げます。これにてお引き取りを願います。  次会は公報をもってお知らせすることとし、本日はこれにて散会いたします。     午後四時二十一分散会