○稻葉委員 第十三次ソ連地区(樺太地区としては第二次)
引揚者の引揚状況及び受け入れ状況実地
調査のため、前
国会閉会中に、私及び戸叶委員の両委員が舞鶴に、派遣されましたが、その大略をこの際
参考のために申し上げることといたします。
引揚船白山丸は、去る十月十五日午後一時、予定
通り真岡港に入港、十六日乗船させる予定のところ、
引揚者たちが岸壁に立って待ち続けている
状態なので、予定を繰り上げて、十五日午後四時四十分から、ソ連側の
了解を得て、八時十分までの間に乗船を完了し、出港も一日予定を繰り上げまして、翌十六日午後四時真岡を出発し、十月二十日午前七時五十五分舞鶴に入港いたしました。
われわれ派遣委員は、白山丸入港後、十時ごろ上陸開始とともに桟橋において上陸を迎え、十時過ぎ港内艇に便乗して白山丸におもむき、舌次兄長と会見し、
引き揚げ輸送に尽力された御労苦を謝し、輸送の大安について説明を聞いた後、船内で上陸を待つ
引揚者の皆さん労をねぎらい、
最後の上陸者とともに桟橋に帰って参り、引き続き、地方援護局において、局長、外務省担当官、
厚生省相当官、日赤関係者から、それぞれ今次
引き揚げについて説明を聴取いたしましたので、以下それ取りまとめまして御報告いたします。
今回、
帰国のため白山丸に乗船した人数は三百十七人であります。去る九月二十日のソ連
政府の発表では三百十二人を
帰国させるということでありましたが、この三百十二人のうち、今回乗船しなかった者が二十人、そのうちすでに前回
帰国していた者七人、他の十三人は種々の理由で残留いたしました。こういうふうに名簿の人数と実際に帰ってきておる人数とが食い違っておりますが、この点はきわめてずさんであります。その他ソ名簿にない者が二十五人、すなわち前川乗船しなかった者、発表後
帰国を許された者、抑留漁夫、それらが加わっておりますので、差引五人ふえまして三百十七人となったのであります。このうち、不幸にも、松橋瑞枝という婦人が、十月十九日、
帰国一日前に船中で死亡されましたので、実際に
帰国された方は三百十六人であります。
帰国者三百十六人の内訳は、性別では、男七十三人、女六十四人、子供が多くて百七十九人であります。国特別では、
日本人七十九人――軍人軍属三人、
一般人七十四人、抑留漁夫二人、合せて七十九人であります。他の二百三十七人は朝鮮人であります。世帯数は七十世帯で、うち、純
日本家族は十世帯、そのうち単独世帯は九、複数世帯は一、人数は十二人。日鮮混合世帯は五十九世帯、これが三百三人。他に不法入国容疑者で、昭和二十三年北鮮清津から樺太に渡り、二十九年
日本婦人と内縁関係に入った者が一人おります。ソ連本土から
帰国した者はわずか五名でありまして他は全部樺太在住者でありますが、依然として樺太西海岸が多く、名好、珍内、塔路、蘭泊、本斗、泊居等に残留していた者で、東海岸は知取だけしか
帰国しておりません。東海岸の豊原、敷杏、大泊あるいは西海岸の真岡等には相当多くの残留者があると思われ、今回の情報によりますと、いまだ樺太地区に残留している者一千十六人、うち氏名確認している者四百九十人とのことであります。
また今回は、前回の
帰国地点以外に六カ所ほど新たな地点から
帰国しているそうでありますから、
政府としましても、これら新たな地点の情報をできるだけ今回の
帰国者より集め、また東海岸地方残留者の
帰国を促進すべく
努力すべきものと存じます。この点につきましては、白山丸に乗船していた外務省、
厚生省、日赤関係者等と真岡地区のソ連代表者と会談した際に、樺太執行
委員会代表クニヤーゼ副議長が、
あとの
引き揚げ予定はモスクワのきめることで不明であるが、準備が進められている。東海岸豊原方面の人を帰さないわけではなく、
帰国希望者は極力帰すべく
努力をしていると言明したそうであり、また
帰国者の話によりますと、珍内、泊居等では、この次の十二月に
帰国せよと言われて残った者もあるそうでありますから、近いうちにもう一度
帰国の機会があるものと思われます。しかし、冬期は
帰国者の集結、
帰国船の人港等が困難となり、これを逸すると、来年の五月ごろまで待たなければなりませんので、
政府としては年内の早い機会に、もう一度引揚船を差し向けることができるよう、なお一そうの
努力を続けてもらいたいと存ずるのであります。
今回の
引揚者の特徴は、ほぼ第十二次
引き揚げと同じでありまして、終戦前から樺太に移住していた者が大部分であり、
日本人の大部分は婦人であり、その婦人の大部分は朝鮮人と結婚しており、ソ連参戦の際、樺太の邦人が内地に緊急疎開をしたとき、朝鮮人と結婚していたがために疎開できなかった者とか、夫が応召し、そのまま残って終戦となり、生活困窮のため朝鮮人と結婚したという婦人が多いのであります。しかし、朝鮮人の人々も戦前から移住し、開拓に従事していた者とか、戦時中徴用で樺太に移った者が大部分であります。
持ち帰った金は、全部で、米ドルで八千九百六十二ドルでありまして、一世帯平均百二十ドルになりますが、前回の一世帯平均百九十八ドルに比べると、若干下回っております。千ルーブルを百ドルに交換したそうでございます。なお全然持ち帰りのないのが三世帯あります。また手荷物は三百九十二個でございます。
今回においてもそうでありますが、ソ連地区からの
引き揚げは、常にソ連側の発表した人数と同数が
帰国したことはないのでありしまして、その原因は、事務上の誤まりもあるとは思われますが、根本的な問題として、ソ連側が在留
日本人の実態を完全に把握していないのではないか、また
日本人ほど切実感がなくて、割におろそかになっているのではないか。従って、ソ連側で徹底的に
調査を進めるべく
日本側から勧告をしてやることももちろん必要でありますが、
日本側としても、残留
日本人の数はもちろんのこと、具体的な氏名、住所、生活状況等を極力
調査して、ソ連側に知らせてやることが必要なのでございまして、今後の
引き揚げ促進のためにも、ぜひ
政府側で実施してもらいたいと存ずるのであります。
受け入れ援護関係につきましては、従来の方針に従って、関係当局が
誠意をもって尽力されたようでございます。入港前に一応定着先は十五都道府県にわたり
決定されたそうでありますが、全然内地に縁故のない者が三十四世帯、百六十八人もあるそうでございます。これらの者に対しては、一日も早く職と住とを提供することが必要と思われます。
なお、前に述べました船内で死亡されました松橋瑞枝さんの葬儀が援護局内において行われましたので、われわれが
委員会代表といたしまして参列をし、焼香をいたして参りました。
次に
引揚者の代表から座談的に樺太の生活状況等を聴取いたしましたので、取りまとめて御報告申し上げますと、極太においては、森林の伐採や農場、炭鉱等で働いていた者が大部分で、身体が丈夫であれば生活にはさほど困らないそうでございます。賃金は月収最低五百ルーブルから七百ルーブルでありまして、手に職を持っている者は三千ルーブルの収入があるそうでございます。ソ連人との町に基本給の差はないようでございますが、ソ連人は三年すると五〇%の加給がある。それに比べて、
日本人の収入は従ってその半分となるようでございます。千ルーブルあれば一カ月一家六人が生活できるそうでございます。公租公課は千ルーブルにつき税金が約一三%、国債購入は強制的で、一年で約一カ月分収入相当額を購入させるそうでございます。共済関係は、正規の労働者のみ月収の約一%を納入して、病気にかかると、傷病手当として月収の三五%から五〇%支給されるそうでございます。医療機関は、共済の有無にかかわらず無料でございますが、通院者は薬代を支払い、また薬局で薬を購入するよう指示されれば、自費で買わなければならないそうでございます。
孤児は公営の保養所で無料で十六才まで預かるそうでございます。
教育は朝鮮人専用の学校があり、
日本人はソ連の学校へ行っても朝鮮人の学校へ行ってもよいようで、別に共産主義の教育を強制されるようなこともないようでございます。授業料は無料でありますが、教科書は自費で購入いたします。専門学校は人手試験によって入校でき、授業料は無料、寄宿舎に入れば費用は自弁だそうです。専門学校事業者は、二年間指定された勤務につく義務があるそうでございます。
死亡者は土葬をするそうでありますが、従来あった墓地とは違った位置に葬っているそうであります。昨年の十一月に
日本人の人口
調査がありまして、
帰国希望者は嘆願書を出すよう指示されたそうでございまして、嘆願書を出してさきの第一次
帰国に漏れ、今次
帰国した者が大部でありますが、なお嘆願書を提出することを知らない者もいるのではないかとも言っており、またソ連のパスポートを取得した者がいて、これは嘆願書を出しても、大陸間の井同は自由だが、
帰国してはならないとモスクワから指令されているそうでありますから、これらの者のために手続をとれば
帰国できるのだということを知らせてやったり、ソ連籍にある者には、
日本の国籍証明書を送ってやったりすることが必要なのではないかと思われます。
食料品等の日用品は大部分が
中共品であり、物資も割合豊富のようで、せびろも千三百五十ルーブル程度で手に入るそうでありますが、何分貴重なものは数が少いため、制限販売をやって、ほしいものを買うのに行列を作っておりましても、
あとから来たソ連人に追い払われたり、また北鮮から戦後移住してきた者と争いを起しましても、ソ連側が北鮮に味方をしますので、常に不平等な地位に破れ去るということ等で、あらゆる場合に差別待遇を受け、また言論は圧迫されるそうでございます。従って、身体が丈夫ならば、先ほ
ども申し上げましたように、食うには困らないとはいえ、その苦痛は並み大ていのものではなく、ラジオにより、
日本の自由な
状態等を聞いておる者たちにとっては、
日本では必ずしも生活が楽ではないとは知りつつも、縁故のないのも
承知して、あえて自由を求めて
帰国をしたという者が非常に多いのでありますから、われわれといたしましても、これらの気の毒な
人たちにあたたかい手を差しのべまして、一日でも早く
日本における安楽な生活をさしてあげるよう
努力いたさなければならないことを痛感いたす次第でございます。
以上、簡単でございますが御報告をいたします。御質問があるなら承わりまして、なお私からも
政府当局に質疑をいたしたいと思います。