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松岡松平君 本日この
委員会で私に
発言をお許し願ったことを深く感謝いたします。すでにお手元に「神通川
ダムに関連する
片掛部落紛争の真相」という一文を差し上げてございますので、その
内容はこれをお読みいただけばおわかりになると思いまするが、一通り私からいきさつについてお話を申し上げてみたいと思います。
片掛部落というのは富山県の岐阜県寄りの山間の一小
部落であります。鉄道線から申しますると、高山線の猪谷駅と楡原駅の中間にありますので、家数が約五十五、六軒でございます。昔は平家の落ち武者が住みついたと、われる
部落でありまして、まことに原始的な場所であります。猪谷駅に約一里、楡原駅に約一里半、それを徒歩で行かなければ外部との
連絡がつかないところであります。この
部落に、神通川の
ダムといいまして、
北陸電力が神通川に
ダムを四カ所こしらえてございますが、その第一
ダムの沿岸に起った問題でございます。ちょうど昭和三十年の五月、地方選挙の終りましたときに、私ども
自分の派の県会議員ではございません佐伯君の派の県会議員の大場という者が病院から私に
電話をかけて参りまして、ぜひお目にかかって申し上げたい件があるから来てくれというので、私、
自分の派の県会議員でもございませんので、行くべき筋合いはないのですが、病中
電話をかけて参りましたので、一応行ってやるのが礼儀かと心得て、嵐山の不二越病院を尋ねました。ところが、その際に参りました
片掛部落の代表である
林唯義、佐藤、その他二、三の者がおりまして、実は
ダムが湛水いたしましてから、がけくずれが起り、陥没が起って参りまして、
部落の者がその日その日不安に襲われておる
状態でございますので、どうか
護岸をしてくれるように北電に交渉してもらいたい、こういう話でありました。今までだれが交渉したのかと聞きましたら、県会議員その他にお願いしたけれども、てんで
北陸電力会社は相手にしてくれない、どうかあなたは
弁護士でもありかつ
地元の有力な
代議士でもあられるのだから、これを
一つ談判してもらって救ってもらいたいという懇願でありました。私は、それから北電側にも当ってみ、かつ現場にもおもむいて、しさいに
調査した上で
自分の考えをまとめてみよう、こう話しまして別れました。それから私、
会社にも行き、さらに、六月の末であったか七月の上旬であったか、今はっきりいたしませんが、現地に参りまして、親しくがけくずれ、陥没の場所を調べてみました。ところが、なるほど二丈からにわたるがけでありまして、六カ所にわたって大きながけくずれができておる。それから、陥没地点というのは低地でありまして、低地で広範に陥没が起っております。これでは、このままほうっておいたならば、――その地質は大体岩盤が非常にもろうございます。その上に全部砂礫層でありまして、砂と砂利で二丈から盛り上った地層であります。でありまするから、一たん水はけが悪くなりますると、これが崩壊する危険もあります。また陥没が崩壊を誘引する場合もあるということを私は
自分の常識で判断するのみならず、地質学者斎藤某の
意見も徴しますると、やがてはこれは崩壊を生じてこの地域は消えてなくなる時代が来るかもしれない、それが十年後に来るか二十年後に来るかということは
自分では判定できないが、今にして完全なる
護岸を施しておかなければ危険だという
意見でございました。この人は地質学者として京都大学の学歴も有し、すでに役人もいたした人でございまして、権威のある人と私考えております。私から
会社に向って、
社長、副
社長、建設部長あるいは建設の次長等々に十数回会いまして、
護岸に対する
会社側の意向をただしましたところが、
会社では、
護岸しないとは言わない、
護岸をするには一億数千万の費用を要するのみならず、その間湛水を放流してしまわなければならぬ、そのために発電を中止しなければならぬ、その損害は実に莫大だということを申しておるだけで、一向に話は進展をいたしません。そこで私は、
部落の代表に申したのは、この上は民事の起訴を起して争ったらどうか、必ずこれは勝てる問題であると私は思うが、もし訴訟を起すなら私は非常に多忙であるが、せっかく頼まれたことだから
自分が訴訟代理人になって争ってもいい、こう言っておりました。それはちょうど三十年十月ごろの
状態であったと思います。
ところが、十一月過ぎごろになりまして、村の者が
決算委員会にこの事情を陳情したいというようなことを言って参りましたから、それでは陳情してみたらいいだろう、果して取り上げられるかどうか、それは
自分にはわからない。ところが、十二月の上旬になりまして――この問題を各
委員にお話ししておきましたところが、それじゃ
一つ一応質問してみろというので、私は第一回は十二月九日の
委員会で質問したと思います。それが事の始まりになりまして、
理事会で取り上げられて、本件は大体四回くらい
委員会で
調査されております。現地に派遣いたしましたのが、私と
三鍋議員と臼井議員と、それから
委員長が現場をごらん下さいましたが、一月の雪の中であります。私どもはみなゴムぐつを買ってもらいまして身支度をして約一里にわたる区域を踏破いたしまして現場を親しく
調査いたしました。そのときの状況でも、これは直ちにやらなくても、護母はやらなければ将来危険であるということはだれでもこれは判断のつくことでございます。そこで、
会社側の
山田社長並びに建設担当者である鵜飼君の説明によりますと、これは完全に
護岸をする必要があると鵜飼が承認しておるし、
山田氏は再
調査をして必要があるならばやりますということを言明しておるのであります。これは
委員会においても述べておるし、
委員会外においても述べておるのでありまして、それについて、現在の
状態では湛水を放流しなければならぬが、周辺の
土地を売ってもらえば
自分の方は
工事の仕方があるということを言いました。それは結局、北電の地所になりますれば、パイプ・コンクリートの方法にもよることができますし、必ずしも湛水を放流しなくても解決がつく問題であります。そこで私は
部落側に、こういう争いを長く続けておるということもあまり芳ばしくないし、今電力をとめるということは――電力は公益である、その公益をとめて私益を守るというには、どうも公益の方が多過ぎるから、この周辺の
土地を奮発して売ったらどうか、農地はわずかなんだから、その辺を売って、
会社に適切な
工事を徐々にやらした方が
部落のためによくはないか、こう申しましたところが、
部落側では――初めから金をとるという意思は
部落は持っておらぬのであります。最初に私依頼されたときに寺で
部落の全員に会っております。そのとき私は言質をいただいたのであります。この問題で金をとるなら私はごめんこうむりたい、この周辺では電力
会社から金をとってりっぱな
うちを建てている、山間の労働者が、山に働き野に働いている勤労者がりっぱな殿堂を建てるということは私は決して好まないから、金をとるためならお断わりしたいということを言ったら、そうではないという一札をとっております。その際に、どうすれば村は納得するかと私が申しましたところが、大体昭和三十一年の六月ごろから神岡線の問題が俎上に上っておりますが、その接着駅を片掛駅につけてもらいたいということが彼ら
部落全体の願望であります。そうすれば
自分たちは汽車の飛び乗りや飛びおりをしなくても済む。現在
部落の達者な連中は飛びおりをやるのです。一里歩くよりも飛びおりた方が早いというので、勾配ののろいところでみな飛びおりをやりますが、そうすればわれわれは文明の恩恵に浴するのだ、どうか接着駅を片掛にしてもらいたい、現在の猪谷では非常にカーブがきついし、地積が足りないが、片掛なら六万坪の台地がある、そこでわれわれは台地を寄付して、そうして接着駅をつけてもらいたいという陳情をしておったのであります。ちょうどこの話が昨年の六月から七月、八月にかけて十数回にわたって私は交渉いたしました。ところが
会社側も私の
事務所へ参りますし、
部落側も私の
事務所へ参りまして、
双方の
意見を徴してみますると、ようやく
会社側では、それでは駅の設置に協力する、今まで使った金は何とか出そうというところまでこぎつけたのですが、
部落側では、駅がつくについて十地の買い入れをしなければならぬから、四、五千万の寄付を要求するということが出てきた。それは額が少し多い。そこでいろいろ
会社側と協議しましたところが、額をきめてくれということを
山田社長からきつい要求であります。無制限の協力をいたしますと、何ぼかかるかわからない、一億もとられるかもしれぬ、そういうことでは困るから、どうか額を一定してもらいたいということで、大体七月ごろから金額の点に入りまして、
会社側では寄付金が一千万円、
闘争費二百万円ということでございました。ところが、私ちょうど九月初めに生産性視察の団長でアメリカへ行ってこなければならぬから、その前にきまりがつくならつけたらどうかと言ったところが、つきません。そこで私アメリカへ参りました。帰ってきましたら、留守中に
田中先生や
上林委員長のところへも
部落の者が訪れたり、あるいは
会社の者も行ったというように聞いておりますが、
会社では、こういうことで長く争っておってもしようがないから、多少の譲歩はしたいということを言い出しまして、そこで結局三百万円の
闘争実費というのはそれまで
部落から代表者が借りている金が約三百万と私は聞いております。それは
会社でもそれだけ使ったことには議論がないのです。ただそこで林、佐藤らの言い分はこうなんです。私どももすでに三カ年間この
闘争をして仕事を捨てております。そのためにずいぶん
自分らの雑費も使っております。どうか私どもの費用を見てもらわなければ困るというのが彼らの要求であります。これかこの
横領事件に非常に関連いたしてくるのであります。それならは君らの費用として一体
幾ら認めろというのか。大体百万円ほど認めてもらいたい、それからこれに
関係協力右がある、地質学者なりあるいは事務協力者なりがあるから、これらの人々に謝礼するのに約百万円認めてもらいたい、それだから二百万円を増額してくれということであります。そのほかに、産業開発資金は、大体台地を二万坪買いますと、坪五百円にして一千万円、
あと誘致運動をするのに、九カ
部落が団結して参りますには、いろいろ上京するたびに費用も要る、従って約五百万円くらい見ておいてもらわぬとその他の費用としては困るというで、千五百万円を強力に主張いたしました。そこで、十月の末に
会社の副
社長と私との間に、それでは五百万円出しましょう、さらに千五百万円ということで応諾するということになりました。それで、
向う側が水利権を放棄してくれと言うから、水利権は、君の方が寄付すればこちらの方は一方的に放棄してもよろしいということに話がまとまりまして、これは相関
関係にはならないのであります。これが十三名が理屈を言い出した根本の原因にもなっておりますので、
あとで説明いたしますが……。そこで十一月二十日に私の
事務所で妥結の調印をいたしました。そのときに、
山田社長、
山本副
社長、それから
秘書課長が
会社側で参りました。
部落側として
林唯義、佐藤利次、この両名が参りました。もちろん金谷という事務補助者もついてきておりました。これで
調査いたしましてちょうど調印する直前であったか、
田中先生が約十五分ほど顔をお出しになって、
山田社長に話がついてけっこうだと言って帰られました。
上林委員長にも来てもらいたいと私は言っておりましたが、
委員長は用があって来られない。そこで、調印を終りましてから、
山本副
社長が千五百万円の
小切手と五百万円の
小切手、これはいずれも
北陸銀行の横線引き
小切手でございますが、これを私に渡されたので、私は代表者の林に直ちにその場で渡しました。それで、話は少し戻りますが、妥結をしたならば五百万円は
地元へ持って帰る、千五百万円は
山田社長と林の両名で保管をしてもらいたいということを私は強硬に主張しておった。そうせぬと、せっかく駅をつけても金が雲散霧消してしまったのでは非常に困る問題が起るということを言っておりましたところが、ちょうど調印の際にも
山田さんは、
自分はその共同保管者になることは困るから、あなたがついておられるのだから監督せられたらどうか、こういうことも言うし、また、村の方でも、あなたが監督していって下されば私らは決してこの金は不正なことをいたしません、こう言うものだから、それじゃ私の
関係しておる
会社の経理部長の下坂順吾という者に傾けておかれれば、彼は
金庫を保管しているから、その
金庫に置いておいたらいいだろう、私はこれを監督する。そこで、さらに五百万円は株を買いたいということを言い出した。それはなぜかと申しますと、この運動が一年続くか二年続くかわからないけれども、相当費用がかかりますから、そうすると元金を使うということは非常に困るから、株でも買って利殖しておいたならば
幾らかでも運動費が捻出されるのではないか、こう申しますから、それでは五百万円の範囲ならばいいだろう、それ以上使うことは私はどうも好まない、三分の一株に投資するということで、それではそうしておいたらどうだ、こういうことでございます。それから、どこへ
預金するかという打ち合せもあまりしたことはないと思いますが、
北陸銀行かどこかへ置いたらどうだということを私書っておったと思います。
それから、
取引が終りましてから、さてどこへ
預金するかということになって、結局、
田中さんからの言葉があったし、私の方からもお願いして、
住友銀行の
成城支店というものを紹介していただいたので、私が林を連れましてこの
住友銀行へ参りました。そこで
定期預金の手続をいたしまして、あらためて五百万円を借りたいということを申し出ましたところが、
住友の
支店長は非常に常識的な人で、何になさるのでしょうかと言った。そのときに、
部落の
名前を
預金帳に書いてくれということを私は言ったのです。
片掛部落総代
林唯義と書いてくれと言ったら、そんなめんどうなことをせぬでも、
先生がついておられるならば村の金であるということは間違いないから、林さんだけでけっこうではないかとおっしゃるから、それならそうしておころということで、
林唯義の名義にしたのであります。その借り入れの申し込みに対して、何に使うのかというお話がありましたので、それは私も言い、また林からも申しまして、株の買い入れをするのだ、そうですか、それならばけっこうですと言った。ところが、そのときに
田中さんがお見えになったか、あるいは
電話でお見えになったか、その辺は私は
記憶がさだかではございません。しかし
田中さんも間もなくそこへ顔を現わしまして、
現金は今ないということであります。百万円だけ
都合する、四百万円は明日付の
小切手だと言ったと
記憶いたします。そこで、本人は、もうすぐ帰りたいのでこれを託していきたい。私は内心では
小切手を託されるのは困るという考えを持っていた。というのは、そういう金について私どもが
銀行へ
取り立てて
名前を書くことはあまり好みません。これは
現金にして整理しておいてくれた方がいいと私も考えておりましたので、
田中さんに、
銀行がないと言うなら、あなたもしあったられこを交換してくれないかと言ったら、
田中さんは、それでは家に金があるなら、
一つ家へ帰ってみて、あれば取りかえてやってもいいということで、私は
田中さんと
一緒に車に乗って帰りました。私の中で林が帰った。結局林が
田中事務所に宿りましてこれを交換してもらった。私は
田中さんにあいさつして私の
事務所に一足先に帰っておるのであります。そこへ林が参りまして、金谷と三人の間に謝札金のことで非常に険悪な空気がございました。そして林も佐藤も、金谷に対する謝札をきめていただぬとおそろしくて帰れない、殺されるかもしれないと言うのです。ばかなことを言うな、あの男が君らを殺すなんて。いやそうではありません、あの男は大へん欲が深くて私どもを殺すかもしれないから、ここで話をつけてくれと言うので、そういう話を前々に私にしておりましたものですから、五百万円の送金を四百五十万円の送金
小切手に直して、
住友銀行の
成城支店から五十万円をもらってそれできておるわけです。そのときに林君が帰ってきましたから、あの五十万円をここへ出せと言ったところが、新聞紙住みのまま私にくれましたから、金谷に、君は不足だろうがこれをとってくれ、君はこの三倍もこれを要求するのだろうけれども、私は
地元の
代議士でもあるし、初めから村のためにやったので一銭一厘も謝礼をとる意思はないのだから、君はしんぼうしたまえと言ったところが、非常に不愉快な、むしろ憎悪を持った目つきで僕を見ましたが、私の態度が相当きつく言ったものと見えまして、そのときいやいや金を受け取りました。後に宿屋へ行ってからまた紛争が起こったそうでありますが、それで私はその金のことは
あとで聞いたのであります。林が四百九十万円のふろしき
包みを持って下へ行きました。つまり百万円の
現金から五百万円の三カ月分の金利を引いております。そうすると九十一万円何がしになるのですが、その金と
小切手四百五十万円と、
定期預金証書の百預かり証がビニールのサックに入っている。これは私が封印しております。現在差し押えられて富山の
警察にありますから、ごらん下さればわかります。この封印を私がやって、林が押しております。それは持って下坂に託して行っておるのであります。
私はそれから外に出ましてほかの用を足しておりまして、
田中さんのところに何のために寄ったかと言いますと、先ほど
田中さんがお話しになったように、私は
上林、
委員長、
田中さん、その他
関係委員に一献差しあげたい、大へんごめんどうをかけたから、
地元代議士として私が
ごちそう申し上げたいということを申し上げた。
田中さんは、おれはそういうことはきらいだからというお話がありましたが、私はぜひ出てもらいたいというので、私が富司林という家へ席を設けてちょうど五時過ぎに参りました。一番先に来られたのは、ここにもおられますが、
上林当時の
委員長であります。
田中さんはなかなか来ない。それではというので、お酌も来ておりましたし、みな始めめたわけです。そこへ
上林委長長に金谷という事務補助者が
電話をかけてきました。
自分らもそこへ寄せてくれということを要求したらしい。それでし林
委員長は私にどうかと言うから、彼らはここへ呼ばぬ方がいいのじゃないか、われわれ議員だけでこの席を設けたのだから困ると言ったところが、
自分も二年先に会えるかわからないし、せっかく
農民のためにやった
農民の代表者が来たいというのだから呼んでやってくれと育ってせがまれたわけです。今考えれば、こんな者は呼ばなかった方がよかったのですが、
上林君は人がもろいから、ついほだされて、呼んだらどうだろうということになって、金谷が鞠躬如として入って来ました。そこへ
田中さんが人って来られて大へんなけんまくなんです。何だ、こんな席へおれが来れるかと言って、いつもの調子でしかられた。それで、村の者がおろうとだれがおろうと、君はそんなことは問題ではないではないかと言ったら、そうかと言って三十分くらいおってお帰りになった。それで、私どもは
食事したかしないかわかりません。おなかがすいておってお酒を飲んだので、だいぶメートルが上った。
上林さんは今度は
自分が
ごちそうするからと言うので、どんなところで
ごちそうするのかと行きましたら、すわれない
おでん屋です。立っていてお酒を一ぱいもらいまして、それではしょうがないからというので、私は、ウルワシというきわめて雑なキャバレーがありますが、そこへ行きました。今考えま…すと勘定を七千円払ったと思います。そういうわけで、私が家に帰りましたのが十一時半過ぎだと思います。問題は、富山では大へんなうわさです。これが事実の真相なんです。
そうして下坂は十二月に志村化工を一万株、日鉄汽船を一万株買っております。これは山一証券や
取引所でお調べになっても、
現金決済になっておることであるから動かすべから、ざる事実であります。それからさらに翌年の二月二十日に志村化工の株を二万株買っておりまして、これで四百九十九万円であります。これで一切預かった金は整理がつけてられており、むしろ足りない。それで、林の方から百六十万という
小切手を決済前に届け出てきておるのは、新株割当に対する払い込みのために頂けたと言っておるのであります。それでちょうど残るのが約三万円くらいです。その
現金も下坂は
金庫の中に保管しております。
私の
事務所にはほかにもたくさん五、六人の者がおりますが、
会社の者もおるし、法律
事務所の
金庫というものは、その中にあるかないかということは全部の者が知っております。それを富山県
警察の大沢野署長がどう勘違いしたのか私はわかりませんが、問題は、この五百万円は初めから分配されてないのだという断定であります。これは被告発人の代理である高井
弁護士がたきつけたのか、あるいはその背後にあるところの
政治的な指導者がたきつけたのかわかりません。おそらく
警察署長は何も初めから私にその断定をもって臨んだとも思いません。たきつけた者があったことは間違いないと私は思います。しかし私は会談の場所とかあるいは会合の場所をつかんではおりませんから、明確には申し上げにくい。けれども、署長は、この捜査の初めの段階において、隧道の除幕式の際に来て一ぱい飲みながら、この問題は必ずやっつける、そのかわり
自分の首はとられるのを覚悟でやるということを豪語してかかっておるのです。いやしくも
警察署長がこういう豪語をしてかかるということは、容易ならざることであります。それから、はっきり申し上げます。内藤派の運動員が私の選挙区全体に言っていることは、
松岡は千五百万円
横領を企てた、ばれたために株の工作をしたのだ、彼のことき卑怯な者だと一大宣伝をやっております。これは争うべからざる事実であります。果して内藤隆君がこういう運動をしておるかどうかは知りません。けれども、彼を支持する派の連中は、私の選挙区一帯にこの運動を展開しております。はなはだしきにおいては、私と同姓の
松岡重三という県会議員が、富山市の市会議員である朝日という人に対して――この
松岡という人は私に恩義のある男であります。私が初めて県会議員に推してやった男なんでありますが、これは私の派ではありません。それが上市駅頭において、
松岡は千五百万円
横領を企てた、しかし彼は法律家だものだから、株式工作をしておいて、様子を見てとろうとした、こういうことを言っておるのであります。この諸般の事実を勘案いたしまして、私が思うには、彼らは大べんな陰謀を企てておるということを私は今から三カ月前に気がついたのであります。しかしながら、やみの力でありまして、私はどうにも手の下しようがございません。その
うちに、二十六
国会の会期末に、益谷衆議院議長にあてて、十三名の諸君がこの問題の陳情をしてきたのであります。この
陳情書を見ますと、驚くなかれ、この解決金は行方不明なりという理由をくっつけておる。彼らは知らないことは断じてありません。五百万円は村へ持ち帰られて処理されたことも知っておる。手五百万円の金については、私の
事務所において管理、監督しておることを百も二百も承知の上でこのものを出した。私ははなはだ遺憾です。いやしくも衆議院の議長たるものが、一議員の
疑惑に対して陳情を受けたならば、かりに私が議長なりとするならば――私は益谷議長と三十年来の友人であります私を呼んで、こういう陳情が出ておるが、この
内容はどうなのかと一言ただしてしかるべきものであります。また彼は自民党の党員であります。わが幹事長に対しても、あるいは総務会長に対しても、党員
松岡に対してこういう問題が出ておるがどうかという問い合せをしてしかるべきものであります。議長も人間であります。彼はこれをなさぬ。反対党の
社会党の
委員長にこれを直ちに回した。いかにも
松岡に
疑惑があるがごとく、不正があるがごとく、そして
決算委員会がこれをお取り上げになりました。私は立ってこれを説明いたしました。幸いにして
委員の方々に私の説明に対して御了解を得たつもりであります。これも
一つの陰謀の流れであります。
この
決算委員会の問題になるや、これを契機として、大沢野の署長が鬼のごとく、
決算委員会に問題になった以上はこれを徹底的に洗うのだと言って、過去三カ月間
片掛部落に刑事を派遣して、一人々々にこの金は分配すべきものだ、林は必ずたたき込む、お前らは林を支持しておったらともに大へんなことになると言って村人をどうかつしております。たくさんの村人がきょうもたすねてきております。先ほど出中
委員から、林の夫人が気違いになったと言われましたが、私はおそきに過ぎると思います。普通人ならもっと先に気違いになる。林の夫人が戦っておったから、まだ病気になるのがおくれたくらいだと思います。毎日々々刑事をあんな小さな
部落に入れて、はしの上げおろしまで監視されては、人間は安穏な生活ができるものではありません。私に対する家宅捜査を私は受けましたが、
林唯義の贈賄容疑について、私の自宅、私の
関係会社、私の
事務所をやりました。何が出てきましたか。何も出てきません。しかも、
令状の中にある保管している物件というものは、五月の十日に近藤航一郎
弁護士に引き渡したということは、近藤航一郎の
内容証明によって村人全体に通告しておるのであります。これを知らないはずはありません。元吉署長がこれをほおかむりして、判事中田忠雄をだまして
令状をとったのであります。私のところにもそんな物件はありません。私の
事務所にはありません。いわんや
田中議員の
うちにあるわけはありません。しかも中田忠雄君は三十年来の私の友人であります。本来はこんな
令状に判を押すべきものではありません。忌避の理由になる。友人であるがゆえに断わるべきものである。それを進んで判こを押す。この一連の
関係を私勘案してみましても驚いております。ところが、間もなく近藤
弁護士に対して富山県
警察が、何回かこの写しを
警察に提出しておるにかかわらず、差し押えいたしました。その
令状の
内容によって初めて私に対する
疑惑の真相というものがわかりました。つまり、四百九十万円を私が収賄してとったというのであります。驚くべき
疑惑であります。しかも私を三カ月間にわたって一ぺんも調べてはおりません。呼び出し状も来ません。警官もたずねてきません。第一、
林唯義、佐藤利次を
横領で起訴する場合に、何がゆえに私を一応参考人に
警察が呼ばないのでありますか。なぜ
検事局が呼ばないのでありますか。こんな片手落ちな捜査で人を弾劾するということ自体が、私は全く
人権じゅうりんだと思います。私は仲介者です。この金はどういうために渡されたものか、どういうためにやったものか、範囲を決定する重大なる因子を私は持っておるのであります。そこで私は大久保長官にお願いして――富山県の
警察では、二十名も東京のまん中に来て、私の
うちを取り囲み、一軒々々聞き込み捜査をやっております。私の
うちの
家宅捜索の際、
事務所でとった領収書を片端から調べ上げておる。
銀行は調べる、
取引先は調べる。私は
疑惑を受けたから仕方がないとはいいながら、これでは一体
政治家としての名誉はどうして保たれるのでありますか。先ほど
田中さんがおっしゃったように、一銭でも手をつけておったら、私は議員をやめます。何のために私は
国会議員としての職責を全うできますか。しかるに、私に対する一回の尋問も行わず
林唯義、佐藤利次を起訴しました。しかも、これが東京に相談に来ましたときに、そんなに争いになっているなら百十三万円を村へ返せ、あらためて総会を開いてやがて協議するにしても、この争いはやめなければいかぬといって、百十三万円を積ましたのであります。こんな小さな
部落で百出三万円の金というものは大金であります。みんな親戚相寄ってこれは積んだのであります。しかるにかかわらず、林の
預金帳、佐藤の
預金帳みなとって、生活にも今困っているのです。その十三名というのは内藤隆派であります。署長が内藤隆に加担して、そして四十二名をみな殺しにするやり方であります。だれがこれを守っていただけるのでありますか。私は、議員の皆さんがこの実情を現地についてつぶさに御
調査賜わりたい。おそらく
片掛部落の四十二名の
人たちは半歳を出ずしてあるいは自殺あるいは破産、その
部落を去っていかなければならぬ事態が来るのではなかろうかと思います。刑事が来れば、十三名の
うちへ行って茶わん酒を飲み、茶わんをたたいて凱歌をあげている始末であります。これでは四十二名の者は生きていけないのであります。林、佐藤というものは全く
部落のために二カ年間
自分の利益を捨てて戦ってきた。その二人が百万円や二百万円をとることは当りまえですよ。これを領収書の内訳がないといって起訴した。富山地検の検事は涙もなければ血もない
人たちです。こんなことで犯罪が作られるなら、全部の人々が犯罪にならざるを得ない。おそらく
委員の方々はみな御存じのように、多くのところから鉄道をつけてくれあるいは河川をつけてくれと陳情がありますが、みな二百万円、三百万円、四百万円といって費用を使っておりますが、一件といえどもこんな
事件が
横領として起訴されたことがございますか。あまりといえば元吉署長というものは鬼です。そういう
政治的な黒幕に利用されて、そして鬼になって、しかも今また私を討たんとする。それのみではない。
田中議員、
上林議員までも討たんとするに至っては、これは鬼であります。もはや
警察官ではございません。しかも、私はできるだけ検察官というものには信頼を持っておりますが、この
事件の捜査に当っても、富山の地検の次席がみずから、林が
自分の供述は署長にだまされて作ったんだ、風呂に入れたり散歩に出したりして
自分をだましたんだ、預けたと言えば
松岡さんが
横領になるといってだまして作った供述だから訂正さしてくれ訂正さしてくれと泣いて嘆願しているものを、大坪次席検事が林をどうかつして、大言して、妻が病床にあって半狂乱だということを巡査が通告したのでありますよ。ひどい人間どもです。本来は通告すべきじゃございません。
弁護士はみな口を緘して語ってないのに、巡査にわざわざ通告さして、そうして混迷に陥れて、次席みずからどうかつ、取調べをするなどということは、ゆゆしき問題であります。だから、この間も最高の次席の清原さんにも、花井検事長にも私は申し上げた。管轄は東京にあるのです。もし私が収賄しておったなら、東京でお調べ願いたい、私は富山の検察当局を信用しない、もし私にこのことに疑問があるなら、公平無私にお調べ下さい、時、所を問いませんということを私は申し上げているのであります。しかもこの間から下坂順吾を二回にわたって講話を取っておる。しかも、菅原検事が調べておるのに、その後もまた富山の
警察の本部から出頭せよということであります。何のために富山まで出ていかなければならぬのですか。富山の検察官が二回調書を取って、なお菅原検事がきのう調べておって、その上はがきで本人に富山に出てこい、これではもはや法律もなければ正義もございません。ただ人間の憎悪の力が大きくこの
世の中を支配しているというだけだと私は思うのです。
私は一命を賭してこの問題に戦うつもりであります。人間がはずかしめられて、何のかんばせがあって私は
国会議員として勤まりましょう。私が一銭でもこれに手をつけておったら、切腹してお目にかけます。私がお願いしたいのは、大臣もおられます。
刑事局長もおられます。国警長官もおられます。元吉署長を呼んで下さい。これは鬼です。こういう者を署長にしておかれることは、人民がひれ伏していかなる恐怖を起すかわからないのです。もうこれ以上は私の気持がたかぶって申し上げられません。以後は賢明なる皆さんにおいて一切御了解願いたいと思います。どうもいろいろありがとうございました。