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1957-04-11 第26回国会 衆議院 法務委員会公聴会 第3号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和三十二年四月十一日(木曜日)    午前十時四十五分開議  出席委員    委員長 三田村武夫君    理事 池田 清志君 理事 長井  源君    理事 福井 盛太君 理事 横井 太郎君    理事 猪俣 浩三君 理事 菊地養之輔君       犬養  健君    小島 徹三君       小林かなえ君    高橋 禎一君       花村 四郎君    林   博君       松永  東君    山口 好一君       横川 重次君    神近 市子君       佐竹 晴記君    田中幾三郎君       古屋 貞雄君    吉田 賢一君  出席政府委員         検     事         (法制局第二部         長)      野木 新一君         検     事         (大臣官房調査         課長)     位野木益雄君  出席公述人         東京大学教授  宮澤 俊義君         法務省特別顧問 小野清一郎君         早稲田大学教授 中村 宗雄君         国立国会図書館         長       金森徳次郎君         東京地方裁判所         長       石田 和外君         東京地方検察庁         検事正     柳川 真文君         評  論  家 臼井 吉見君         文芸評論家   青野 季吉君         作     家 広津 和郎君  委員外出席者         判     事         (最高裁判所事         務総局総務局         長)      関根 小郷君         判     事         (最高裁判所事         務総局総務局総         務課長)    海部 安昌君         専  門  員 小木 貞一君     ――――――――――――― 本日の公聴会意見を聞いた案件  裁判所法等の一部を改正する法律案内閣提出  第八九号)     ―――――――――――――
  2. 三田村武夫

    三田委員長 これより裁判所法等の一部を改正する法律案について法務委員会公聴会を開会いたします。  本日午前御出席公述人は、東大教授宮澤俊義君、全労連法規対策委員長間宮重一郎君、法務省特別顧問小野清一郎君、以上の三名の方々でございます。  この際公述人の皆さんに一言ごあいさつ申し上げます。本日は御多用中にもかかわらず当委員会公述人として御出席下さいましたことにつきましては、委員一同を代表いたしまして厚く御礼を申し上げます。公述人におかれましては、最高裁判所機構改革問題につきまして、それぞれの立場から忌憚のない御意見を御発表下さいますようお願いいたします。ただ、時間の都合上公述の時間は御一人大体十五分から二十分程度といたしますが、公述あと委員諸君から質問があると思いますから、その際も忌憚なくお答えを願いたいと思います。  次に、公述人の皆様が御発言の際は勢頭に職業または所属団体名並びに御氏名をお述べ願いたいと存じます。なお、発言の順位は勝手ながら委員長においてきめさせていただきます。  それでは、まず宮澤公述人より御意見を承わります。  宮澤公述人に対しては、憲法学者として、一、三権分立制をとるわが憲法のもと、司法権最高裁判所及び下級裁判所に帰属するということが司法裁判所の根本的な命題ではないかと思われる、そこで、まず司法権意義範囲についての御意見、二、違憲審査権は、司法権とは無関係な独自なものであるかどうか、あるいは司法権の内容と理解してよいかどらか、旧憲法時代と比較しながらの御意見、三、憲法第八十一条の違憲審査権については、第七十九条に基きワンベンチ論を唱える者もあるが、その当否についてできるだけ詳細に御意見を伺いたい、四、最高裁判所が小合議体に分れて、ある小合議体民事事件、その他の小合議体刑事事件、あるいは違憲審査を取り扱うというふうに、最高裁判所職務を分担するようにすることは憲法違反となるかどらか、五、また、現行の小法廷は場合によっては合憲判決をなすことができるが、この小法廷憲法八十一条の最高裁の一機構であるかどうか、六、本案によれば最高裁判所小法廷は右五の場合に合憲裁判ができることになっているが、これは憲法第八十一条及び七十九条の違反となりはしないか、七、法律についての合憲推定ということの意義効果についての御意見、八、わが法制上、国法上の裁判所訴訟法上の裁判所を是認できるか、また、憲法第七十九条及び第八十一条にいう最高裁判所訴訟法上の裁判所と理解しなければならないものかどうか、九、以上の諸点に関する御見解から、本案に対する御批判、ことに最高裁判所小法廷の名称、性格異議申し立て等に対する御意見、以上の諸点について御意見を伺いたいと思います。
  3. 宮澤俊義

    宮澤公述人 私は東京大学宮澤俊義であります。御質問の点につきまして順次簡単に意見を申し上げます。  第一の、日本憲法における司法権意義範囲ということですが、これは、明治憲法時代司法権という概念と比べてみてどこが違うかということを考えるべきだろうと思うのですが、この明治憲法時代司法権という概念は、御承知の通り、近代の憲法史といいますか、そういうものの上で歴史的に成立した概念で、大体民事刑事裁判をいうというふうに解釈されて参ったのでありますが、当時は行政裁判所というものが別に認められまして、司法裁判所行政裁判所と分けるという制度に立っておりましたから、当然そこの司法権から行政事件に関する裁判というものは除かれていたわけであります。ところが、それに対しまして、日本国憲法司法権という場合には、そこで除かれていたようなものも含めて、結局裁判所法にいうような一切の法律上の争訟の裁判ということが憲法のいう司法権意義だろうと思います。これについては違った見解もありますが、私は、明治憲法のような行政裁判所を分けるという方式を今度の憲法が意識的に否定しているということ、それで、もし今度の憲法司法権行政裁判というものを含まないとすれば、明治憲法よりも人権の保障ということについて非常に熱心に重きを置いている今度の憲法が、その問題については明治憲法ほども関心を持っていないということになるので、そう解するのは適当ではないと思います。そこで、明治憲法との比較において行政裁判所という制度を別に認めない、つまり、そういう行政型といいますかあるいはフランス型という制度をとらないで、司法型あるいはアングロサクソン型を採用しているというところから、司法権意義をそういうふうに解していいのではないかと思います。  それから、第二の、違憲審査権というものが司法権に伴うかどらかということでありますが、この違憲審査権あるいは従来法令審査権と呼ばれていたものは、司法権というものに当然に伴うものとは思いません。現に、司法権というものが法令審査権を伴っている国と伴っていない国とがあり、必ずしも常に伴っているというわけではないということは、それを示していると思います。その司法権違憲審査権というものを伴わせるかどらかということは、私は、結局立法政策の問題で、どちらがいいかということをその国の憲法がきめる、それによってきまることであって、司法権というものの性質から当然に出てくるとは考えません。これについてはむろん違う見解もありまして、明治憲法時代におきましても、当然法令審査権裁判所が持っていたという意見もあり、学説では相当にそれが多かったようですけれども、当時は大審院も行政裁判所判例でその解釈を否定しておりましたし、私も、学説として、その判例が正当だったと考えております。これに反して、今度の憲法では明文でその点はきめておりますが、それが司法権というものに当然に伴うというわけでなく、憲法が特に司法権にそういうものを伴わせたという意味に解すべきではないかと思います。  それから、第三の、八十一条の違憲審査権についてワンベンチ論云々といいますのは、おそらく違憲審査権を行使する場合の最高裁判所は常にワンベンチでなければいけない、部に分れて行動するということは憲法上許されないという意見に関連するものと考えます。最高裁判所ワンベンチである、あるいは少数の裁判官で組織されて一つベンチを構成するということは、おそらく実際上は最も望ましいことと思います。その意味で、最高裁判所ワンベンチでなければならぬという政策的要求は当然のことと思います。たとえば判例統一というようなことから言っても、ワンベンチが最も適当であることは議論余地がないと思いますが、ただ、最高裁判所活動する場合には日本憲法上常にワンベンチでなければならぬかという問題については、私は必ずしも憲法はそこまで要求しているとは思わない。つまりワンベンチ最高裁判所が構成されるということでなく、部に分れて活動するというようなことであったとしても、憲法違反するものとは考えません。憲法がそこまで要求しているものとは思いません。もっとも、ただいま申した通り政策論としてはどこまでもワンベンチが最も適当であるということは議論余地がないと思います。  それに関連しまして、第四の最高裁判所合議体に別れてそれぞれ活動するということは憲法違反となるかどうかということですが、ただいま申し上げたような私の意見から、当然、これは必ずしも憲法違反にはならないという結論になると思います。ただ、どこまでもそれは立法政策の問題で、そういうことがいいか悪いかということになるのではないかと思います。  それから、第五点、現在の小法廷最高裁機構であるかどうかということ。これは、おそらく、最高裁ワンベンチ論というものに関連して、現在の小法廷は従って最高裁判所ではない、憲法にいう最高裁判所ではなくして、憲法の目から見れば下級裁判所であるという意見についてのお尋ねと思います。私の先ほどから申し上げたような解釈によれば、現在の小法廷というものは最高裁判所そのもの活動、小法廷活動最高裁判所活動と見ていいのであって、決して下級裁判所ではないと思います。小法廷というのは最高裁判所裁判官によって組織されているのでありまして、憲法の定める最高裁判所裁判官だけにより組織される下級裁判所ということは、どう考えてもおかしいと思います。憲法国民審査とかそういういろいろな条件を認めている最高裁判所裁判官というもの、それによって組織されるという裁判所でありながら、それを下級裁判所であると言うことは適当ではないと思います。従って、その小法廷からさらに大法廷へ上訴するというようなことは現在も認められておりませんし、またそれが当然と思います。  それから、第六の問題は、最高裁判所の小法廷合憲裁判ができることになっているが違反にならないかということでありますが、これも、前から申しました私の意見によれば、憲法上は差しつかえないということになると思います。すべての裁判所合憲審査権を持っているわけでありますから、最高裁判所の小法廷もそれを持つことは差しつかえないというふうに思います。  それから、第七の点、法律についての合憲推定ということですが、合憲推定ということをよく申しますけれども、それによって何を言おうとしているかということは、場合々々によって違うのではないかと思いますので、この点簡単にお答えできないかもしれませんが、たとえば、裁判その他で法律を適用するに当っては、法律合憲性ということは積極的に証明する必要はない、その法律合憲でないと主張する者がその点に関して挙証責任を負う、こういう意味において法律合憲推定を受けるということは一般に認められていると思います。それからまた、法律を公務員その他の者が適用する、あとでその法律憲法違反であるということになったとしても、その法律の適用は違法性を欠いているというようなことも当然そこから言われるのではないかと思うのであります。それから、あるいは内閣というようなもの、あるいは検察庁というようなものが法律を適用するに当って、その国会で成立した法律合憲推定を受けるというようなこと、その推定に拘束されまして行政機関あるいは検察庁はその法律合憲として適用する責任があるのではないか、その際それは憲法違反であると認めて全然適用しないということは許されないのではないか、そういう点についても法律合憲性推定ということが言えると思いますが、この合憲推定ということは、その場合場合によって、それによって何を言おうとしているか、合憲性推定があるから云々というある結論を出すために言われる場合が多いようでして、その点をまとめて漏れなくお答えすることはあるいはできないのではないか、ちょっと思いついた点をお答えしたにとどめます。  それから、第八点は、国法上の裁判所訴訟法上の裁判所ということをよく申しますが、これは現行法においてもやはりそういう区別をすることはむろん可能なのではないかと思います。そこで、七十九条及び八十一条にいう最高裁判所はどうかという御質問ですが、七十九条で「最高裁判所裁判官は」云々といっているような場合、それは大体においてむしろ国法上の裁判所をいっているのではないかと思います。これに反して、八十一条の違憲判決の問題につきましては、これは裁判をする単位としての機関としての裁判所をいっていると思いますから、ここではむしろ訴訟法上の裁判所を眼中に置いているのではないかと思います。  以上お尋ねの点について大体簡単に私の意見を申し上げましたが、最後に、今度の案についてどういうふうに考えるかというお尋ねでありますが、今度の案の基礎になりまし法制審議会答申の作成には、私も法制審議会委員として、それからまた部会の委員としてずっと関与して参りました。そして最後結論として今回の答申案の成立には賛成した一人でありますから、その意味において私は基礎になっておる答申案には賛成であるということになりますが、私の第一の意見から申しますと、必ずしも今度の答申案は私の第一の意見ではないのでありまして、私が最善の案と考えますものは、大体最高裁判所への上告理由というものを現在よりもずっとしぼりまして、結局主として憲法違反の問題についてのみ最高裁判所に主として上告を許す、最高裁判所はその問題だけ取り扱うという体制にしまして、そうして、それにふさわしいように、十五人の大法廷というのは合議体としてどらも適当でないようでありますから、やはり七、八名くらいの合議体にするというのが私の一番の考えなんですが、法制審議会その他における意見を見ますと、その定員を減らすという点については最高裁の方も賛成意見のようでありましたけれども、その前提としての上告理由をしぼるという点は賛成者がきわめて少いのでありまして、学界ではなかなか多いようですけれども、裁判所あるいは弁護士方面では圧倒的に反対意見が強く、どうしてもある程度法令違反上告理由に加えるということが必要であるという意見が圧倒的に強かったと思います。そこで、そういう前提に立ちまして、法令違反をある程度上告理由に加えるということはやむを得ないということになりますと、それではどうしたらいいかという問題になって、この案になってきたと思います。その際、もう一つ意見として、最高裁プロパー裁判官を増員するという意見、今度のように下級裁判所としての小法廷をくっつけるのではなくて、最高裁判所裁判官を増員するという意見も当然そこへ出て参ったわけであります。結局、法令違反上告理由として認めるということになれば非常に忙しくなりますから、最高裁裁判官を非常にふやすか、さもなければ、われわれが中二階と言っておったものを高等裁判所最高裁判所の間に何かくっつける、それ以外に道はないということになったわけでありまして、結局今回の案はその中二階を作るということになったと思います。そこで、最高裁判所裁判官を端的に増員するというのと、こらいった中二階を作って、最高裁判所はむしろ小さくするというのと、どっちがいいかということに最後になったように思いまして、私どもは、そこで、今日としてどっちがいいか非常に迷ったのでありますが、最高裁裁判官をふやすということになりますと、結局最後に非常に大きな合議体ができ、部に分けて活動するにしても、判例統一といったような点から連合部というようなものが必要になる、こういうものは過去の経験から見ても成績が悪いというようなお話もありまして、そうすれば、やはり頭が小さくまとまっている方がいいのではないかというので、最高裁の人数は減らす、そのかわり下級裁判所としての小法廷をそこにくっつけるという案に私も賛成するようになったわけであります。そうなりますと四審制度のようになって工合が悪くないかということをみんな心配したのでありますけれども、それは運用の結果を待たなければ何とも言えないと思いますが、希望的な観測になるかもしれませんが、四審といいましても、今度の最高裁判所、それからそれの小法廷というのは、一つの全体の上告審というものが職務上二つに分れているというふうに見て見られないことはない、そうすれば、ある意味において四審になることはなるのですが、しかし、それの弊害は必ずしもそれほど大きなものではないのではないか、そうなれば、やはり頭が小さくまとまっている方がいいんじゃないかというようなことで、この案に私も賛成したわけであります。ただ、その際、最高裁裁判官を増員するというもう一つ意見、これは一方においてそもそも憲法違反であるという意見が非常に強力でありましたが、これは、私は、先ほどから申し上げたような意味において、私自身憲法違反とは考えておりませんし、また、そちらの方が非常にすっきりしていい点もあるというように考えますが、何分にも、大きな合議体というようなものになりますと、その点で非常な不便が伴うのではないかと思ったわけであります。そういう意味で、私の本来の考えから申しますと、今度の案はそれに即しているわけでないものですから、次善の案として――私もこれが非常にいいと強く申し上げるだけの自信はないのでありますが、今申し上げたような意味において、まずこの辺以外にないのではないかと思って、私も答申賛成したわけでございます。  その他の点については一々申し上げませんが、もし御質疑でもございましたら、申し上げたいと思います。
  4. 三田村武夫

    三田委員長 ただいまの宮澤公述人の御意見に対して御質疑はございませんか。池田清志君。
  5. 池田清志

    池田(清)委員 二点だけお尋ねを申し上げます。  法令審査権というものを国のいずれの機関で行わしめるかは立法の問題であって司法権に伴うものではない-、従って、今の日本国憲法においては、司法の部に、最高裁判所法令審査権最終審として有する規定があるのでありますが、いずれ憲法改正機会等のあります際において、立法のことから考えて、国の意思国民意思司法の部以外のある機関において法令審査権を行わしめるということになっても、それは当時の国民感情として当然である、司法権を侵すものでない、こういうことにお伺いをしたのでありますが、さようでありますか。  第二点としては、現行憲法のもとにおける最高裁判所ワン・フル・ベンチという主張をなさる方もありますが、先生の御見解では、憲法ワン・フル・ベンチを要求しておるものでない、従って最高裁判所機能活動として部に分れて活動しても憲法に抵触するものではない、こういうお考えの御発表があったのでありますが、そのお考えは、違憲審査についても同様に考えてよろしいか、これをお尋ねいたします。
  6. 宮澤俊義

    宮澤公述人 第一の点は、もし将来憲法を改正して、法令審査権裁判所以外の機関に与えられることになっても、そのときの国民感情によって支持されればそれでいいか、そういうお尋ねですか。
  7. 池田清志

    池田(清)委員 そうです。
  8. 宮澤俊義

    宮澤公述人 憲法が改正されてそういうふうになれば、別に理論的にそういう憲法改正は不能であるということは言えないと思います。それがいいかどらかは別の問題ですけれども、そういうことは憲法論として憲法改正の限界を越えるとか憲法改正としては不能であるということはないと思います。  それから、節二点は、違憲審査につきましても、私はやはり同様に考えていいと思います。
  9. 三田村武夫

    三田委員長 猪俣君。
  10. 猪俣浩三

    猪俣委員 第一点は、上告を非常に制限して、憲法違反の問題だけを最高裁判所に取り扱わせるということが先生の本来の主張であるというお話を承わりましたが、日本最高裁判所性格どらもはっきりしない点があるのでありますが、憲法の八十一条には憲法裁判所としての規定があるのです。ところが、片方、七十六条には、司法権最高裁判所その他の下級裁判所が取り扱うということになっております。そこで、甘木の憲法解釈上、憲法違反事件だけに専念する憲法裁判所としてしまって、一般民事刑事裁判には最高裁判所終審としての働きをしないという建前が司法権解釈から許されるものであるかどうかということについての御意見を承わりたい。  それから、第二点は、国民審査制度につきましてはいろいろの意見があります。実際の効果から見てこれを否定するような意見もありますが、しかし、司法権といえども国民主権主義コントロールに服すべきことを明確にした意味において、非常に意義があると思うのであります。しかも、国民審査を受けたところの最高裁判所判事国民権利義務に関しまする終審としての判決を確定せしめるというところに国民主権主義を貫いた意義があると思うのでありますが、現政府の提案によりますれば、結局、憲法問題を含まざるその他の民事刑事終審は、いわゆる下級裁判所である小法廷でやるということになって、しかもその小法廷判事国民審査対象外だということになりますと、国民主権主義から司法権コントロールとして考えられましたるその意義が失われてくるのではなかろうか、すなわち、国民の審判を受けざる判事がわれわれの権利義務に対しまする最終判断を確定する力を持つのだということは、憲法の大きな一つの特色を失わせるものではないかと考えますが、それについての御意見一つ。  それから、第三点といたしましては、当法務委員会が小委員会を設けまして先年来研さんの結果一つ結論を出しましたのは、最高裁判所判事を三十名にし、小法廷六つに分けまして、最高裁判所判事は、刑事民事事件については六つの小法廷判事として活動するとともに、憲法問題につきましては九人の判事によって審査する、ただしこれは合憲だということの審査であって、もしその意見最高裁判所の前に示された今までの判例と違うような場合においては三十名の大法廷でもって審査するという案であったのでありまして、現実に、最高裁判所の小法廷なるものは、いわゆる前の判例と違わざる限り合憲判断だけはその小法廷でやっているのであります。それと同じような理由によりまして、九人の判事においてそういう判決をしても差しつかえないか、あるいは場合によっては小法廷においてやはり今と同じように合憲判断をする、ただ先例と異なる場合において連合審査をするということは、私は憲法違反にならないと存じますが、それに対する御意見を伺いたい。ただし、三十名の合議体どら運用に差しつかえがあるというのでありますけれども、これは、憲法解釈重要性というものを認識するならば――憲法解釈は、ある程度、解釈のしようによっては憲法それ自体を改正すると同じ効果を発生するものであって、重大な問題であります。憲法を改正するには幾多のむずかしい手続がある。しかるに、最高裁判所判事によって憲法を改正したと同じ効果を発生せしめる。現在、十五人の定員中五分の三の九人があれば法廷を構成できます。これが今度は九人の裁判官、しかもどうしても肉体的に出られない裁判官があるから、定員制を設けるでありましょう。そうすると、まず六人でありましょう。六人の判事の中で四人が賛成すると憲法の新しい解釈が生まれてくる。まるで憲法を改正したようなことが四人の判事によって行われ、しかも、われわれの憂うるところでは、その四人の判事の頭が石頭であるということになると、日本の進運に大へんな障害を来たす。憲法は抽象的な文字を使っておりますがゆえに、解釈のニュアンスが非常にある。各層の立場からいろいろの解釈が出てくるのでありますから、いやしくも憲法解釈は少数でやるべきものではないと私は考えておる。憲法改正には重大な手続を要するくらいでありますから、三十人の裁判官が数カ月かかって新しい解釈を出しても、憲法解釈を重大だと考えるならば、差しつかえないのじゃなかろうかというふうに考えられまするが、それに対する先生の御意見。  それから、いま一点は、現在の憲法の七十八条におきまして、最高裁判所判事の身分は保障せられております。この政府提案が通ったといたしますと、十五人の判事諸君を九人に減員しなければなりませんが、いかようにして減員するか、無理にやめさせたら憲法七十八条の違反だと思いますが、これに対する先生の御意見を伺いたいと思います。
  11. 宮澤俊義

    宮澤公述人 私が上告理由を非常に制限したいということを申したのは、結局、裁判というものが長くなり、審級を重ねて、それによってそれだけ一方において人権の保護が完全になるということも言えますけれども、他方、それだけ裁判が長くなりかつ金がかかるというところから、一般国民としては、それはむしろ上告が何べんもどこまでも広く許されるということがほんとうの権利の保護にはならないのじゃないか、そういう趣旨でありまして、裁判をなるべく早くかつ安く上げてもらいたい、そういう気持からそういうことを申したのであります。  その次に、今の最高裁判所憲法裁判所にするということが憲法上許されるのではないか、こういう問題ですが、これはいろいろ意見の分れるところでありますが、私の今考えておりますところでは、やはり今の憲法司法権といっている場合、最高裁判所はやはり司法裁判所であるというのが憲法の建前ではないか、最高裁判所司法裁判所として憲法にいう司法権を行使するに当って違憲審査権というものを持っているということ、これが憲法の趣旨ではないかと思うのであります。さらにそれを一歩進めて、抽象的に法律合憲性を審判して、その効力を失わしめるという裁判所、それを憲法裁判所と申すならば、それを設けるためにはやはり憲法に根拠が要るのではないか、従って、そのためには憲法改正をしなければ無理なのではないかというのが私の意見でございます。  それから、国民審査というものについてのお尋ねですが、国民審査というものの有効性というものについてはいろいろ議論がありますが、国民主権というものの建前がそこに現われておるという意味において有意義ではないかというお尋ねですが、私もその点はそういうふうに考えます。ただ、今度の案で国民審査を受けない裁判官判断が中心になるというようなことはおかしいじゃないかというようなお尋ねもあったと思いますが、それは、そういう理屈をもし言いますと、あらゆる事件が全部国民審査を受けた裁判官によって裁判されるということにしないとおさまらないということになるのじゃないかと思いまして、そこまで憲法は要求しているわけではないのじゃないかというふうに考えます。  それから、第三の、法務委員会でお作りになった案、それは現行憲法違反しないと思うかということですが、これは、私が先ほどからお答えしましたところkaらもわかります通り、私はそれは憲法違反とは考えておりません。ただ、実際問題として、憲法の問題は重大だから大ぜいで合議してもいいのだということですが、この点は私もはっきり今意見はございませんが、そういうふうに憲法問題は重要だから大ぜいでということも一理はあると思うのですが、ただ、そういうふうに考えますと、それではやはりそういった審査権裁判所に置くということがいいのかどらか、あるいはもっと違った機関に置く方がいいのじゃないかということも考えられるのじゃないか、裁判所司法権の行使に伴って違憲審査をするという建前ですと、やはりあまり大ぜいでは合議の能率が上らないというようなことは相当心配していいことではないかと思うのでありますが、その点は主として運用の面でしょうから、それ以上申し上げませんが、私はその案は別に憲法違反するものとは考えておりません。  それから、今度の案が通って裁判官を減らすとするとどうするかという問題だったと思いますが、それは、現在の最高裁判所裁判官法律が改正されたからといってその意に反して首にするということは、やはり憲法上許されないように思いますので、その点はすぐに減員ということはできないわけで、やはり自然に減っていくのを待つといったような措置を経過規定等で当然やらなければならぬのじゃないか、今度改正になったからすぐということは、やはり法律規定憲法で保障した身分を侵すということになるから、許されないというふうに考えます。
  12. 三田村武夫

    三田委員長 福井君。
  13. 福井盛太

    ○福井(盛)委員 簡単に二点だけお尋ねしたいと思うのです。第一点と申しますのは、先ほど質問書の第五点についていま一度簡単に御説明願いたいのと第二点は 最後の九項の問題に関するのですが、異議申し立ての問題でございます。刑事訴訟法には、異議の申し立てという文句は、五十一条を初めとして三百九条その他数カ所に異議の申し立ての事項が書いてあるのですが、今度の改正案の第十条による異議の申し立ての趣旨とは少し違うように考えられる。むしろ、改正案文における異議の申し立ての意味は、あるいは明らかに上告というか再上告というか、そういう文句を使った方がごく明瞭に私どもにはわかるのです。あるいは、四審制度というのが好ましくない、三審にしたいために、こういうような異議の申し立てというようなあいまいな文句が現在使われておる。刑事訴訟法意味における異議の申し立てと少し意味が違っておるように感ぜられますので、その辺に対する先生の御所見を承わりたい。この二点だけを、簡単でよろしゅうございますから……。
  14. 宮澤俊義

    宮澤公述人 五点と申しますのは、現在の最高裁判所の小法廷下級裁判所であるか、それとも最高裁判所であるかという問題であると思いますが、これは、現在の小法廷憲法にいう最高裁判所でないという理由は、結局、憲法にいう最高裁判所ワンベンチで行動しなければならないのだという考え方からきておるのだろうと思います。私、先ほどから申した通りワンベンチでなければいけないという根拠はどうもないように思うのでして、その方が政策上ベターだということは言えると思いますけれども、憲法がそこまで要求しておるというふうに考えることは無理じゃないか。そういうふうに考えますと、最高裁判所が事務の執行上の便をはかって小法廷をこしらえて活動するということも、当然憲法が許しているところであると思うので、小法廷も現にある範囲においては憲法問題の審査をやっておるわけであって、これは現在の憲法に触れておるわけではない。そういうふうに考えますと、特に小法廷下級裁判所であるというふうに考えることがむしろ間違っているんじゃないかというふうに思うのでありまして、ワンベンチ論を認めないというところから、当然、部に分けてやるということ、あるいは小法廷をこしらえてやるということも全く便宜の問題である、そういう趣旨であります。  それから、異議の申し立て云々の点は、私もよく存じませんが、従来と違うということは、これは今の御指摘の通り。下から上へ行くのではなくて、同じ最高裁判所の中で同格のところへ行くんだという気持を現わしたいというところからこういう字を使ったのだろうと思います。そして、その内容もまた、確定を妨げないとか、その他いろいろな条件がありまして、そういう特殊なものではないかと思うのでして、ですから、あるいは特別な名前を使う方がいいのかもしれませんが、そういった趣旨でありますから、確かに理論的におかしいじゃないかということは言えるかもしれません。しかし、大体意味はこれでもわかるんじゃないかと思います。
  15. 三田村武夫

    三田委員長 小林君。
  16. 小林錡

    ○小林(かなえ)委員 一点お伺いしたいのですが、先ほど先生は、自分の私見としては最高裁は主として憲法違反だけをやるようにしたい、こういうお話でしたが、主としてと言われるのは、まだそのほかにどんなのが入るわけでございますか。
  17. 宮澤俊義

    宮澤公述人 主としてと申しましたのは、重要な判例変更といったようなことも考えられるんじゃないかというふうに考えたものですから、主としてと申し上げたわけです。
  18. 小林錡

    ○小林(かなえ)委員 そうしますと、かりに最高裁憲法違反裁判しかできないというふうにきめることは、憲法違反にはなりませんか。七十六条との関係です。
  19. 宮澤俊義

    宮澤公述人 それは、結局、審級制度をいろいろこしらえまして、その結果、ある事件はここまで、ある事件はここまでというふうに上訴を制限されることは、今の最高裁判所が言っている通り憲法違反にはならないという立場から考えまして、結局憲法の問題だけは、最高裁判所まで終審として裁判させなければいけないという解釈一般に今承認されているようですが、それによりますから、ほかの事件は、立法政策の問題で、ここで終審でもう上訴できないということになっても憲法には触れないんじゃないか、こういう考えであります。
  20. 小林錡

    ○小林(かなえ)委員 そうすると、七十六条の関係においては、七十六条は、「すべて司法権は、最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する。」、こういうのでありますから、この司法権という意味最高裁判所の職権の中にも入っておるわけだと私は思う。ですから、今おっしゃった通りに、たとえば民事刑事行政処分に対する審判を最高裁判所で受ける意味において、判例統一する意味判例を変更するという場合でも入れておけば、民事刑事行政処分の裁判最高裁判所でできますが、そうでない限りは、先生の御意見から言うと、最高裁憲法違反だけをやればいいんで、あと下級裁判所でも司法権の行使は差しつかえない、こういう御意向ですが、そうすると、司法権という意味最高裁憲法審査権とどういう関係になりますか、その点をお伺いしたい。
  21. 宮澤俊義

    宮澤公述人 私が申し上げる意味は、最高裁判所憲法の問題だけやるということを申したのは、あるいは言い方が不正確だったかもしれませんが、それは、先ほど申した通り、決して憲法裁判所という意味ではないので、多分法律憲法違反しているかどうかという問題は裁判所へ来ない、私の解釈によれば、これはすべて具体的な争訟に関連して来るわけです。ですから、最高裁判所憲法の問題だけ来ると申しましても、それは結局司法権一つの作用として来るわけでありまして、具体的な争訟が起って、それが上に行くわけであります。その場合に、この問題について事実の問題は第一審だけ、この次の問題はここまでだけしか行ってはいかぬということをいろいろ法律で制限することは可能である。しかし、その際、憲法違反しているかどうかという問題がやはり司法権の一部として出てくる。それだけは最高裁へ持っていかなければいけないというのが憲法の趣旨であるというので、その問題だけは最高裁判所に留保するという意味であります。ですから、最高裁判所憲法の問題だけといいましても、憲法裁判所ではないので、どこまでも司法裁判所で、具体的な争訟に関する限りにおいて、ある事件のうちの憲法に関する部分だけが最高に行く、ある部分はどこでおしまい、どこでおしまい、そういうことは法律で十分きめられることではないか。そうでないとすると、ある具体的な事件に関する問題は全部必ず最高裁まで上訴を許さなければならぬということになる。ところが、実際はそうでなくて、たとえば、事実問題がどこまでとか、法律問題がどこまでとか、いろいろな制限がある。これは憲法の容認しているところであると私は考えます。ただ憲法違反の問題だけは最高裁判所へ持っていかなければならない、そういうふうに考えるのであります。
  22. 小林錡

    ○小林(かなえ)委員 小法廷最高裁ではない、こういう御意向ですが、下級裁判所はみんな八十一条によって最高裁と同じような憲法審査権を持っておる。最高裁法廷だけがその点を奪われるわけです。簡易裁判所ですらも八十一条によって憲法違反審査はできる。そうすると、簡易裁判所、地方裁判所高等裁判所、その上に小法廷を認める。この小法廷だけが憲法に対する審査権がないということは非常に不合理なように思うのでありますが、この点はどういうように御解釈になるのでありますか。
  23. 宮澤俊義

    宮澤公述人 今度の案の小法廷、これはもちろん下級裁判所になると思います。この小法廷下級裁判所のうちでありながら、ほかの下級裁判所違憲審査権があるのに、それだけないのはおかしいじゃないかというような御意見と伺いましたが、それはそうも考えられますけれども、しかし、最高裁判所がそばにいて、憲法の問題はそちらに行った方が――結局そこへ持っていかなければいかぬというのですから、そこに行った方がいいじゃないかという解釈で、現にほかの下級裁判所の場合でも憲法の問題だけ場合によれば最高に持っていくということも認められているわけですから、それはそれほど不都合ではないのではないかと思います。
  24. 小林錡

    ○小林(かなえ)委員 今の最高裁の行き方では、小法廷最高裁の一部といっては語弊がありますが、別のものではないという先生の御意見でございます。それから、七十九条も必ずしもワンベンチ・アンド・フル・ベンチでなくてよろしい、部を分けてやれば仕事の分担において差しつかえないという御意向であります。そこで、極端に言いますと、今の最高裁判所というものを全然頭に置かずにお考え願えば、たとえば五つの部を分ける、その一つの部を憲法裁判所にする、ほかのものは民事行政をやる、こういうように平等にやっても差しつかえない理論であると思いますが、その点いかがですか。
  25. 宮澤俊義

    宮澤公述人 私の申し上げたのは、かりにこういうふうにするとしても、いいかどらかは別として、別に憲法違反にはならない、そういう意味であります。
  26. 小林錡

    ○小林(かなえ)委員 そうすると、あなたがお加わりになったのですが、九名を憲法違反審査に充てて、今度は小法廷下級裁判所になるとすれば別ですが、何か今の裁判所を生かして妥協的に今の判事さんを九名の中に入れて、そうして新しい小法廷を作る、――私は私の考えとして今仮定して申し上げておるのですが、小法廷下級裁判所にしないで、最高裁判所の一部として、九名を憲法裁判に充てるというようなことは、これは一つの妥協といいますか、今のものを重んずるという意味からその案も出るのですが、先生の御意向では、憲法裁判はどこへ持っていってやらしても差しつかえない-、ただ憲法解釈統一するとかあるいは判例統一するとかという意味から言えば、それは同時にもっと尊敬される組織を作ってもいいのですけれども、理論としては憲法裁判はどこへ持っていってもいいというふうに私は思っておるのです。先生も同じお考えのようでありますが、そう承わってよろしゅうございますか。
  27. 宮澤俊義

    宮澤公述人 今の、裁判官を大ぜい置いて、いろいろ部に分けて、あるいはこれは民事事件、この部は行政事件、これは憲法事件というふうに分けてやっても、それは別に憲法違反にはならないと思う。そのかわり、その際はそこの裁判官は全部最高裁判所裁判官ということになるわけで、今度の案とは違った構成になる。その問題としては、今の最後の全体で連合部を作るといったようなところで実際上非常な支障があるとかいうような問題があるもんですから、さっきの猪俣さんの御意見だとそれがいいのだというような御意見ですけれども、そこは実際上どっちか、私もわかりません。
  28. 三田村武夫

    三田委員長 古屋君。
  29. 古屋貞雄

    ○古屋委員 これはお尋ねする必要もないと思うのですが、先生が同意された法制審議会答申案の第一のところに、最高裁の問題について、最高裁は大法廷で審理及び裁判をすること、こうあるのですが、この点は、ただいま先生の御解釈のような、小法廷も大法廷も同列に置いて審査をさせるという、事務の、裁判の便宜上の区別をするというふうに御解釈になって御賛成になっておるのでございましょうか。ただいま私どもが審議しておりまするこの機構改革の原案には、下級裁判所として小法廷というものははっきりと区分されておるのですが、そうしますと、先生方の御賛成なされた趣旨とは少し違ってくるのじゃないかという感じがするわけでございますが、そういうように解釈してよろしゅうございましょうか。
  30. 宮澤俊義

    宮澤公述人 私が理解しましたのは、今の、最高裁は大法廷及び小法廷云々という表現は、むしろ法律的に言えば正確でないので、私どもが理解しましたのは、その小法廷というのは現在の小法廷とは違って下級裁判所の性質を有するものである、そういうふうに私は理解していたのであります。
  31. 古屋貞雄

    ○古屋委員 そうしますと、大法廷または小法廷というのは、最高裁判所内部の関係でなくして、別の下級裁判所が小法廷だ、こういうふうに御解釈になっているのでございましょうか。
  32. 宮澤俊義

    宮澤公述人 その表現はやや不正確ですけれども、その最高裁判所というのは、裁判機関としての最高裁判所意味ではなくて、結局今度できる小法廷というのは最高裁判所に置かれるということで、事務的に最高裁判所と同じに行政処理がなされるということで、それをただ最高裁と言っただけじゃないかと思いまして、表現は、ですから不正確ですけれども、今度の小法廷というのは、現在の小法廷とは違って、もちろん憲法にいう最高裁判所ではなくて、下級裁判所である、むろん私はそういうふうに了解しておりましたが、その点は今度の案と同じなんじゃないかと思います。
  33. 三田村武夫

    三田委員長 私から宮澤公述人に一点お尋ねいたしたいことがありますが、先ほど来各委員からの御質疑に対する御答弁で大体理解されましたが、最高裁判所違憲審査権を持っていることは憲法八十一条によって明らかであると思いますが、国民の側からすれば、最終審たる最高裁判所に対し違憲審査を求める権利が憲法上保障されておるのではないかと思われるのであります。従って、最高裁に対して違憲審査を求める国民のこの権利は基本的人権の内容と理解することができるのではないかと思われますが、この点に対する御見解と、そうであるとするならば、現に違憲審査を求めており、しかもその裁判がなされない以前に刑罰の執行ができるようにしている本案、すなわち今の最高裁法廷は、案をごらんになって御承知の通り、一応ここで刑が確定するという建前をとっておる、――昨日、一昨日の各関係の御意見を伺いましても、合憲判決は小法廷で従来やっておりましたが、その従来の最高裁判例基礎を置いて、合憲であるならば今度の小法廷でも判決ができる、そういう建前になってくるように思われます。そうすると、ここで判決が確定してしまう。改正案の裁判所法十条、刑訴四百十五条、この規定を見ますと、確定してしまうことになるのでありますが、そうすると、国民の基本的人権として憲法が当然保障しておる違憲訴訟が、この小法廷によってチェックされてしまう。一応制度上そうなるような気がするのであります。そうすると別に憲法違反という問題が起ってきはしないかという懸念が出てくるのでございますが、その点に対する宮澤公述人の御意見はどうでしょうか、お伺いいたしたいと思います。
  34. 宮澤俊義

    宮澤公述人 裁判所裁判を受ける権利というものは、今の憲法でやはり基本的人権に数えられていると言っていいと思います。しかし、それはどこまでも裁判を受ける権利でありまして、つまり、具体的な争訟を提起する権利という意味だと思います。だから、ただ違憲審査を請求する権利は基本的人権かということになりますと、ちょっとそういう表現は適当でないかもしれませんが、裁判を受ける権利というものに当然含まれている限りにおいてはそういうことが言えようかと思います。そういたしますと、今の御質問ですが、その点は、私、この案を拝見しましたときに、その問題は全然気がつかず、考えて参りませんでした。今伺って、なるほどそれは大問題だなと思って、今伺って考えたところなのですが、今の場合に、刑の執行を確定させる趣旨は、言うまでもなく、なるべく早く裁判を行わせるという趣旨でありまして、その点は問題ないと思うのですが、その点、今のお尋ねは、その事件に関連して、そこに適用される法律憲法違反であるということが争われていて、それが大法廷に行って争われているのにかかわらず、異議の申し立てがなされておるのにもかかわらず、その点を除いて判決が確定する、執行され得るというのはおかしいじゃないか、こういうお尋ねでございますね、今の問題は。
  35. 三田村武夫

    三田委員長 その点もあります。が、今度の案によりますと、憲法違反の事案は大法廷に行く、このように事務的に整理されてくると思います。しかしながら、従来の最高裁の扱い方を見ておりますと、御説明にもありましたが、大体合憲であるという最高裁判所判例があるのですね、その合憲であるという判例の線の内部においては小法廷でも合憲判決をしているのです。今度の最高裁法廷で同じことが行われるだろうと思うのです。そうしますと、そこで確定してしまう。一応異議の申し立てをしてみても、これはおそらくはその刑の執行を停止することをせずに確定の効力が発生してしまうと思うのであります。制度上そうなるので、そうすると、憲法七十六条にある、最高裁判所というものは司法権を行うという建前になっておりますが、その最高裁判所に対して、国民の当然の権利である裁判を求める権利が、この小法廷ができたためにそこで停止されてしまう、そういう意味の懸念がないかという点であります。
  36. 宮澤俊義

    宮澤公述人 それはごもっともだと思います。それに対応するために、ここでたとえば死刑の場合は当然に停止されたものとみなすとかいう規定がたしかございますね。それから、そのほか裁判所が何かそういうことを停止することができるという規定がたしかあったように思いますが、それが今のような御心配に対応する趣旨なんじゃないかと思います。私、そこは、先ほど申しました通り、よく考えて参りませんでしたので、なお考えたいと思います。
  37. 三田村武夫

    三田委員長 他に御質疑はありませんか。――なければ、宮澤公述人に対する質疑はこれにて終ることにいたします。  宮澤公述人におかれましては、御多用中熱心に御意見をお述べいただきまして、まことにありがとうございました。今後の委員会審査に十分参考にいたして参りたいと思います。  次に小野公述人より御意見を承わります。  小野公述人に対しましては次の諸点について御意見を伺いたいと思います。第一は、憲法八十一条の違憲審査権については第七十九条に基きワンベンチ論を唱える者もあるが、憲法上の根拠を御理解の程度でお伺いいたしたい、第二は、最高裁判所が小合議体に分れて、ある小合議体民事事件、その他の小合議体刑事事件、あるいは違憲審査を取り扱うというふうに、最高裁判所職務を分担するようにすることは憲法違反になるかどらかという点、第三は、現行の小法廷は場合によっては合憲判決をなすことができるが、この小法廷憲法八十一条の最高裁判所の一機構であるかどうか、四点といたしまして、本案によれば最高裁判所小法廷は右三の場合に合憲裁判ができることになっているが、これは憲法八十一条及び七十九条の違反となりはしないか、五点といたしまして、小法廷性格、すなわち国法上の独自の下級裁判所であるか、対高裁及び対大法廷との関係において審級をどう考えるか、司法行政権は司法裁判権の独立性を保障する手段であるから不可分離であると思われるが、小法廷から司法行政権の重要部分を奪うことの可否、六といたしましては、上告理由は民訴、刑訴と違ってよいか、七、上告理由としての判例違反の存在理由ないし価値いかん、八、異議申し立てが上訴と異なるものだとするならば、その理由を伺いたい、九といたしましては、小法廷判決宣言により確定力を有するものであるか、執行力及び大法廷の破棄判決にも触れながら御意見を承わりたい、大体以上の九点についての御意見を伺います。
  38. 小野清一郎

    ○小野公述人 私は弁護士で、法務省特別顧問であり、かつ法制審議会委員でもございますが、ここに公述人として喚問いたされましたのは、それらのある機関を代弁する意味ではなく、私一個の意見を徴せられるものと思いますので、私一個の意見を申し述べます。ただいま御質疑がありました問題点について逐次お答え申し上げます。  第一問、憲法第八十一条の違憲審査権については、第七十九条に基きワンベンチ論を唱える者もあるが、憲法上の根拠を説明されたい。それに対する私の答え一。  私はワンベンチ論理由がないものと思います。憲法第八十一条は最高裁判所最終違憲審査権を与えておりますが、それがワンベンチでなければならないということは示しておりません。もとより、法律、命令等が違憲であるか合憲であるかの判断は、事柄が重大でありますから、裁判官の全員からなるただ一つ法廷裁判することが望ましいでありましょう。しかし、現在すでに最高裁の内部に大法廷と小法廷とがあります。そして、大法廷判例がある場合には、小法廷でも合憲判決をすることができることになっています。すなわち、現在の制度がすでにワンベンチ論を否定しているのであります。しかも、かような制度違憲であるという主張は、最高裁によってもいまだかつて公式に認められたことはありません。また、憲法のうちにかような制度違憲と断ずべき明文はないのであります。なるほど、憲法第七十九条第一項は、「最高裁判所は、その長たる裁判官及び法律の定める員数のその他の裁判官でこれを構成し、」云々規定しております。しかし、これは最高裁判所という国法上の司法機関にはそれらの職員がなければならないというだけのことであります。それが単一の法廷でなければならないとか、またその単一の法廷が必ず全員で構成されなければならないというようなことにはならないのであります。最高裁に数個の小法廷がなければならないことは、その事件数から見て、とうていこれを否定することはできないと思います。そして、いやしくも小法廷を認める以上、それが裁判官の全員でなく、その一部によって構成されなければならないことは、あまりにも当然のことであります。  第二問、最高裁判所が小合議体に分れて、ある小合議体民事事件、その他の小合議体刑事事件、あるいは違憲審査を取り扱うというふうに、最高裁判所職務を分担するようにすることは憲法違反となるかどらか。これに対する私の答え二。  最高裁判所民事事件を取り扱う小法廷刑事事件を取り扱う小法廷及びもっぱら違憲審査に当る大法廷を置くことはきわめて合理的であります。民事刑事とはそれぞれ性質が違いますから、専門の判事によって審判ざれることが適当であります。それによって実質的に権威ある判例法が展開されていくでありましょう。この点につき、現在の最高裁はかつての大審院と比較して遺憾ながら劣っております。また、もっぱら違憲審査に当る大法廷の存在することも、現行憲法において何らこれを禁ずる規定はありません。憲法解釈はやはり格別達識の士によって行われるのがよいのではないでしょうか。これらの点、アメリカとは事情が違うのであります。現在大法廷と小法廷とあることがすでにアメリカのシュープリーム・コートと違うのである。いたずらにアメリカの制度を援用してワンベンチ論をするのは愚かであります。わが司法制度の歴史的形成と現在の状況とに即応した改革をなすべきであると思います。  第三問、また、現行の小法廷は場合によっては合憲判決をなすことができるが、この小法廷憲法第八十一条の最高裁判所の一機構であるかどうか。これに対する私の答え三。  現在の最高裁判所小法廷憲法第八十一条の最高裁判所の一機構であることは疑いがありません。国法上においては最高裁判所の全体が一つ裁判所であります。しかし、訴訟手続の上では、その大法廷と各小法廷とはそれぞれ独立した一個の裁判所としてその権限を行うものであります。この点、高等裁判所以下の下級裁判所と別段異なるところはない。小法廷判決はやはり最高裁判所判決なのであります。現在、小法廷もまた、大法廷判例がある場合には、最終的な合憲判決をすることができるのであります。これは小法廷憲法第八十一条にいう最高裁判所の一機構であるからでなければなりません。すなわち、現行制度における小法廷は、明らかに最高裁の一機構であり、最高裁の外にあるものではないのであります。  第四問、本案によれば最高裁判所小法廷は右三の場合に合憲裁判ができることになっているが、これは憲法第八十一条及び第七十九条の違反となりはしないか。これに対する私の答え四。  ここに提出された法案において最高裁判所小法廷といわれるものは、最高裁判所そのものの一機構ではなく、明らかにその外にあるものであります。従って、最高裁判所小法廷という名称を付しても、現在の最高裁判所小法廷とは全くその性質を異にするものであります。その限りにおいて、これに最高裁判所小法廷の名を付するのは適当でないという意見を承認せざるを得ないのであります。それは独立の下級裁判所であります。憲法第八十一条にいう最高裁判所とは本質的に関係のないものであります。この裁判所において、現在の最高裁法廷と同じく、ある場合に最終的に合憲判決をすることができるものとすることは、憲法第八十一条及び第七十九条の許さないところであると思います。そこから、法案は、そのいわゆる最高裁法廷判決に対してさらに憲法違反理由とする異議の申し立てをすることを認めているわけでありましょう。しかしながら、最高裁法廷下級裁判所とし、その判決に対してさらに最高裁判所に異議の申し立てをすることができるものとすることは、すなわち四審制度を認めるものであります。それは最高裁機構改革の目的に逆行するものと言わなければならない。四審制度に対して徹頭徹尾反対をしてきた一人として、私はこの点につき法案の修正を希望するものであります。修正の方法はただ一つしかありません。それは、小法廷判事の全員を憲法第七十九条にいわゆる最高裁判所裁判官とすることであります。そうして、最高裁法廷を現在と同じく最高裁判所そのものの一機構とすることであります。最高裁判所裁判官現行憲法によってすべて国民審査に付せらるべきものとしております。けれども、そのすべてをいわゆる認証官とする必要はありません。認証官であるかどうかは行政上の待遇の問題でありまして、憲法上または訴訟法上における裁判官の権限とは無関係であります。  第五問、小法廷性格いかん。(イ)国法上の独自の下級裁判所であるか。(ロ)対高裁及び対大法廷との関係において審級をいかに考えるか。(ハ)司法行政権は司法裁判権の独立性を保障する手段であるから不可分離であると思われるが、小法廷から司法行政権の重要部分を奪うことの可否いかん。これに対する私の答え五。  この法案に規定されたいわゆる最高裁法廷現行法のもとにおける最高裁法廷とは全くその性質を異にするものであることは前段において述べた通りであります。そこで、(イ)それは国法上において独自の下級裁判所であります。(ロ)高裁との関係においてはそれは上級裁判所であり、そして最高裁に対する関係においては下級裁判所であります。そうであるから、これはいわゆる中二階でありまして、第三審としての上告裁判所であるが、最終審ではなく、さらに憲法違反理由として異議の申し立てをすることができる。しかもこの異議の申し立ては最高裁に対して申し立てられるものであります。従いまして、異議の申し立てという名称はともかく、それは下級裁判所判決に対する不服申し立てであり、しかも上級裁判所において審判せらるべき不服申し立てであります。そうといたしますれば、これはまさに四審制度であります。訴訟法学的立場において、そのほかに考えようは絶対にございません。(ハ)小法廷司法行政事務を最高裁判所に行わせるということは、小法廷が独自の裁判所である限り、裁判の独立性を保護する上において若干の疑問があります。小法廷が大法廷の意向をくんで裁判するようなことにでも相なりますと、それはもはや真に独立した裁判所とは言えないでありましょう。  第六問、上告理由は、民訴、刑訴と異なってよいか。これに対する私の答え六。  上告理由が民訴と刑訴とによって異なることは必ずしも妨げないと思います。民訴と刑訴とでは控訴審の構造が違っており、従って控訴理由もまた同一ではありません。上告理由において両者の間に若干の相違がありましても、それは問題でないと思います。  第七問。上告理由として判例違反の存在理由ないし価値いかん。これに対する私の答え七。  成文法を基礎とするわが国においては、判例法を基本とする英米と事情が違っております。しかし、法令の解釈を客観的に決定しまた発展させるものとして判例がいかに重要な機能を持っているかは、わが国においてもすでに過去五十年以上の実績によって明らかであります。判例は少くとも第二次の法源として承認されなければなりません。それはひとり客観的な法そのものの発展のために必要であるばかりでなく、それによって法令の解釈統一し、法的安定を維持することができるのであります。そういう独自の意味を持つものとしての判例違反上告理由とすることには十分の理由があると思います。これを法令違反に還元すべしという論もありますが、法令の二つ以上の解釈を許す場合に、判例上すでにある具体的な意味が与えられているなら、それを尊重するのでなければ、司法統一と法的安定とを維持することはできないと思います。  第八問、異議申し立てが上訴(上告)と異なるものだとするならば、その理由を承わりたい。これに対する私の答え。  この法案で異議の申し立てといっているものは、その性質上、上訴方法と解するほかありません。従来の用語例としては、異議の申し立ては、ある処分に反対しその変更を求める申し立てであるが、それは同一の裁判所によって処理されるものをいうのであります。(刑訴第三百九条、第四百二十八条、民訴第二百六条、第二百九十五条等)法案は、この語を用いることによって、小法廷判決に対する異議の申し立てば上訴でないというような錯覚を起させようとしているわけであります。しかし、その異議の申し立てが判決に対する不服の申し立てであり、しかもそれが上級裁判所である最高裁において裁判されるものである限り、理論上どうしても一の上訴方法であります。それは再上告と称すべきものである。これを異議の申し立てと呼ぶことによってその性質をごまかすことはよくない。  第九問、小法廷判決宣告により確定力を有するものであるか、執行力及び大法廷の破棄判決にも触れながら御意見を承わりたい。これに対する私の答え。  この法案によれば、小法廷判決に対して異議の申し立てをしても、判決の確定を妨げまたは裁判の執行を停止する効力はないとしております。ですから、一応の確定力を生ずるものと考うべきでありましょう。しかし、それはさらに最高裁判決によって破棄されることがあり得るのでありますから、いまだ完全な確定力とは言い得ないと思います。その執行力も決定によって停止することのできるものである。この制度によって、実際上最終的な事件の解決は今日よりもさらに遅延するおそれがあります。この欠点は、上に私が提案したように、小法廷判事の全員を最高裁裁判官とする、同時に小法廷最高裁判所そのものの一機構、一法廷とすることによって完全に避けられるでありましょう。なお、このように修正するならば、増員すべき小法廷判事は二十人くらいで足りると信じます。  以上。
  39. 三田村武夫

    三田委員長 小野公述人に対する質疑はございませんか。福井盛太君。
  40. 福井盛太

    ○福井(盛)委員 ただいまの御説明でよくわかりました。第八項の問題は私も全く同感であります。しからば、この異議申し立てにかわるべき何か方法があるかどうかということを考えてみたのですが、いろいろ差しさわりがあって結論は出ません。小野先生としてはこれに対して御名案はありませんか。御意見を承わりたい。
  41. 小野清一郎

    ○小野公述人 私の修正提案のよuに、最高裁の小法廷判事全員を、憲法八十一条でしたか、あれのいわゆる最高裁裁判官といたしますれば、もはや問題は解消するわけです。御質問のよuなめんどらはさらにないということに相なります。
  42. 三田村武夫

    三田委員長 猪俣君。
  43. 猪俣浩三

    猪俣委員 たとえば、最高裁判所の訴訟促進のために何とかしなければならぬということで、結局最高裁判所判事そのものを増員するといu案と、最高裁判所判事は減員して、いわゆる上告裁判所みたいなものを設ける案、これは二つの大きな問題であったろうと思うのでありますが、今回はその妥協みたいなものになったのではないかと思います。これは、日本最高裁判所憲法裁判所的な色彩を濃厚にするか司法裁判所終審という点に重点を置くかといu性格問題にもかかわっていると思います。  それはさておきまして、たとえば、最高裁判所判事そのものを三十名なら三十名にして訴訟の促進をはかるということにつきまして、一体どういうところがその説は不都合なのであるか、先生の御意見なり、あるいは他の人が言っていることなり、どういうところが憲法違反するというのか、あるいはまた合議制の性格から不都合だというのか、たとえば東北大学のある教授が、最高裁判所判事を増員することが一体どこに差しつかえがあるか、自分にはわからぬということをある座談会で書っておられるのを読んだことがありますが、どういうところに故障があるとお思いになるか、その点を一つ御説明を願いたい。
  44. 小野清一郎

    ○小野公述人 私は全く不都合な点がないと思うのであります。憲法上から申しましても、また司法機構としてもその方がすっきりしてよろしいのです。ただ、なぜそれに反対なさるかというと、これは半ば憶測のようになりますけれども、最高裁裁判官に与えられている待遇、これが案外問題なんです。そう認証官が多くなっては困るではないかということですね。ですから、特に先ほどもその点に触れて、国民審査は必要であるが、全部を認証官にする必要はないのだ、行政上の待遇は認証官である裁判官と認証官でない裁判官とがあって差しつかえないのだということをずっと主張し続けてきているのですが、それはおもしろくないと言われる方が最高裁あたりには多くあるのですけれども、それは、おもしろくないという程度であって、ほんとうにそれを否定する理由にはならないと思っております。予算その他の関係、それから裁判所の現在の待遇をどうするとか、現在の裁判官の部屋――次の間つきの非常にりっぱなものを各裁判官は持っておりますが、ああいうものをこれ以上ふやされないということを言われますけれども、そんなことは末の末であって、そういうことならば、私は今の判事室をよく知っておりますが、あそこを二人で一つの部屋にすればいいのであって、そんなことは何でもないのです。ところが、案外そういうところに最高裁側のこだわりがある。これは私の推測で、あるいは失礼に当るかもしれませんが、実際はそうなんです。
  45. 猪俣浩三

    猪俣委員 小野先生は端的に言われましたが、私どもの耳に入っているのは全部そうなんです。増員論に反対ということは、いろいろ憲法問題とかワンベンチなんか持ち出しますけれども、どうもそうでないところに真因がある。そこで私どもは了解ができない。今の最高裁判所判事諸公は、送り迎えの自動車があるのみならず、公邸を持っている。女中まで全部国費だそうであります。そういう待遇を受けておられるので、多数にすることになるとそれが薄らぐという御心配があるのではないか。これはあまりさもしい根性かもしれませんが、巷間さようなことが伝えられておる。何がゆえに増員することが不都合かということがはっきりわからない、これは先ほど申しましたように学者も言うておる。小野先生のような学者兼実務家もおっしゃる。そこからそういうデマのようなものが飛ぶのであります。そういうことは全く意味のないことだと私どもは考えるのであります。  それから、これは話は違うのでありますが、今第一審強化というようなことが大へん叫ばれております。これはもっともなことであると思います。ところが、実際問題として非常に判事の数が足りない。そのために非常に行き悩んでおるという実情でもあるようであります。ところが、これは前々から私ども考えたことでありますが、先般の公述人発言の中にも、大体最高裁判所の事務当局の中に判事の資格があり、判事の待遇を受けている人が非常に多数ある、ああいう行政事務、司法事務をやる者は普通の事務官でいいので、判事の資格を持っておる者は第一線の法廷へ送り出したらどういうものだろうかというふうな御意見があったのでありまして、これは平生から私も考えていたのでありますが、そういうことに対しての御意見と、それから、最高裁判所の訴訟遅延について最高裁判所側の言い分を聞きますと、事件数が多いことと、規則制定権も持っておる、司法行政もやる、非常に責任が重くかつ仕事が多い。あるいは実にお気の毒な状態かも存じませんが、そこで、司法行政ということも大事でございますけれども、元来判事法廷における判定ということが最大の生命でなければならぬので、司法行政などというものは必ずしも最高裁判所判事に専属させなければならぬ筋合いのものでもないのじゃないか。そこで、この司法行政については、最高裁判所の長官――最高裁判所の長官は相当ひまらしいので、半カ年も外遊なさっているところを見ると、ほとんど大した仕事もないのじゃなかろうかと思われるので、最高裁判所の長官、高等裁判所の長官、あるいはそれに地方裁判所の長官、こういう者を含めたものでもって司法行政運用して、最高裁判所の第一線の法廷に出ている判事さんはなるべくそういう雑務から遠ざける、こういうことに対してどのようにお考えになられますか。これが一つであります。
  46. 小野清一郎

    ○小野公述人 第一審強化には私はもちろん賛成でありまして、判事の数が足りないという点からも第一審強化が行き悩むでありましょうが、それだけでなしに、現在の裁判機構そのものを何とかしなければならぬと思うのであります。すなわち、かつての陪審制度というものをもう一度考え直されてもいいのじゃないか。しかし、これは失敗の歴史がありますから、軽々しく復活することはできないと思います。新しい考案といたしましては、やはり民間要素を裁判に参加させる。すなわち、ドイツのいわゆる参審制度、シェッフェン・ゲリヒトのように、たとえば判事一人のほかに陪席を民間からあげることを一定の方法でやる、こういうことが考えられるのであります。手続だけをいかに当事者主義にしても、それだけで第一審を強化するということは私は絶対にできないと思います。やはり裁判する人間の問題である。そこで、今のような参審制度を採用することが私は唯一の解決方法だと実は思っておるわけであります。それは、陪審制度のように一般から抽せんで陪審員をきめるというのではなくて、やはり相当の学識経験のある者をあげるという方法がよいと思うのであります。現在たとえば調停委員司法委員その他の民間要素を入れておる制度が非常によく運用されて成績を上げておるというようなことを考えて、日本には相当、知識階級というか、もののわかった人たちでさほど忙しい仕事を持っていない人が相当あると思います。それを利用すべきである、こら考えておりますが、それは今日の問題ではない。急速に判事を増員することは必要だと思いますが、今まで控え目にしておった、つまり司法研修を終えた若い判事補をなるべく多くとっていくようにしたらどういうものであるか、これもすぐには間に合わないと思いますけれども、数年の後には相当の数の判事補があげられると思います。あとは、一定の年限のたった判事補を高裁あたりの陪席に出していくというようなこともすでに考えられておりますし、何とか判事の融通がつくと思います。  それから、事務官ですが、これはやはり、司法行政事務については、相当司法に関する豊富な知見を持っていないとできない事務が多いと思いますので、外から事務官を入れるということは、公務員で特別の法律屋として初めから出発して、そうして多少訴訟事務などにも関係したような人はあるいはいいかもしれませんが、そう公務員だれでもできる仕事ではないように思います。  それから、最後に、裁判所司法行政に時間をとられて裁判そのものがおろそかになるというような御意見でありましたが、さればといって、長官行政にはどうも私はにわかに賛成いたしかねる。すなわち、長官というような人でも、人により好ききらいの激しい場合があるのです。そういう人に行政をやられたら、下級の裁判官はたまらぬです。それこそ司法の独立を侵害することはなはだしいものがあると思います。長官に人を得ればよろしい。けれども、そうすべての長官にそれを期待することはできないと思うのであります。好ききらいというものはだれでもありますが、その激しい人があるから、これはよほど警戒しなければならぬ。さればといって、十五人あるいは三十人の合議で人事行政などというものをやるということは初めから愚かな話です。そこで、私は、こういうようなことは行政委員会、すなわち三十人なら三十人から互選によって何人かのアドミニストラティヴ・ボード、行政委員会制度を作って、そこでやるということがよろしいと考えております。  それでお答えになるかどうか、いかがですか。
  47. 猪俣浩三

    猪俣委員 よくわかりました。  もう一点、これは先般の公述人からもいろいろと聞いてまだはっきりしないのでありますが、この政府提案の本法の最高裁判所の小法廷、これは、政府の説明によりましても、また学者の見解によっても、下級審であり独立しておるのだ、こういうのであります。しかるに、これを最高裁判所に置くという言葉を使っておる。付置されておる。そこで、最高裁判所に付置されるというこの付置ということの法律意義はどういうものであるか。下級裁判所であり、かつ独立しておる、しかし最高裁判所に付置されておるということについて、昨日も質問いたしましたけれども、どらもはっきりしないのであります。一体、この最高裁判所に付置するという意味は、実際上、どういう効果となって出るのであるかという点。それから、司法行政事務が一体どうなるのであるか、六つの小法廷が合体して一つ最高裁判所小法廷というものになるのであるか。また、高等裁判所には長官というものがある。地方裁判所にもありますが、今度の最高裁判所の中に付置せられたる小法廷というものは司法行政上どういう活動をするのか。その長官というものもないようであります。あるいは最高裁判所の長官が兼ねるのであろうか。付置するという意味がはっきりわからぬが、小野公述人はどういうふうにお考えになりますか。
  48. 小野清一郎

    ○小野公述人 付置するというのは、昔検事局を裁判所に付置したとか、今日では最高裁判所に付置されたものとしては多分司法研修所とかいうものがございます。しかし、それは、付置といっても、全然別個のものをただそこに同じ建物の中に入れ、行政的にも多少の監督関係があるというだけの意味にしかとれないと思います。  それから、下級裁判所である小法廷は、司法行政権の重要な部分は最高裁の方でやって、つまり、裁判官会議を開いても、たとえば高等裁判所裁判官会議ほどの権限もないことになるわけだろうと思いますから、これはあまりおもしろくない現象であるということは先ほど申し上げた通りであります。
  49. 三田村武夫

    三田委員長 古屋君。
  50. 古屋貞雄

    ○古屋委員 参考にお聞きしておきたいのですが、小野公述人から、先刻、かつての大審院と今の最高裁判所の御比較がございましたが、どうも、私どもから見ましても、今回は最高裁判事さんも数が減らされる、偉くなってしまって待遇がよくなっている、しかし能率は非常に上らないという逆効果があるように思うのです。従って、かつての大審院と今の最高裁判所との御比較の御批判について忌憚のない御返事がいただければけっこうと思います。具体的に御批判願って、特に、能率の点について、裁判が片づかないで、審理する裁判官のところに六カ月もかからなければ書類が回らぬというような今の機構があるらしいのですが、そんな点についての忌憚のない御批判をいただきたいと思います。
  51. 小野清一郎

    ○小野公述人 何といっても、現在の最高裁判所の陣容でございますね。十五人というのでは、仕事の量と対照して陣容があまりにも手薄なんです。ですから、最高裁の中にも多くの友人があるというよりは最高裁裁判官すべて私よく知っている仲間ばかりなんですけれども、実際仕事に圧倒されているのではありませんか。もちろん調査官というものがございますけれども、やはり重要な裁判の仕事である以上は、調査官の書いたものに盲判を押すということはできるわけのものではないのであります。ですから、その点は現在の裁判官の良心を信じていただきたいと思うのですが、そうであればあるだけに、仕事の過重に悩まされている、これはもう明らかな事実であります。ところが、昔の大審院はどうであったか。今よりも事件が少かったのに四十五人の裁判官があった。場合によっては填補によってそれ以上あった場合もあるのじゃないかと思います。第一、その仕事の量がふえて、それを背の三分の一の裁判官でやれということ自体が無理なんです。しかも、現在上告理由として認められているものは憲法違反判例違反なんでありますが、実際は、上告趣意書という上告趣意書がみな法令違反、はなはだしきは事実誤認からしてみなずっと書いている。それをほうっておけばいいかというに、そうもいかないのです。実際またその中に重大な事実の誤認があるという場合もあり得ると思えば、調査官としては一応はそれを上告趣意書に基いて一々記録と照らし合せて検討しなければならない。この仕事が大へんな仕事です。だから、そういう仕事をして調査官が一応の案を作って、それからまた裁判官がさらにそれを見直して良心的に裁判をするということになれば、これはどうしても増員論にいかざるを得ないと私は思うのです。質において劣っていると言えば、コンテンプト・オブ・コートになるので、ちょっと言い過ぎたかもしれませんが、くろうとはみなそう言っております。事実そうなんです。それはなぜかというに、この上告理由はたとえば法令違反上告理由だから刑訴第四百五条の上告適法の理由に当らないと、それではねてしまうわけですが、それから、カッコをして、申しわけにずっと結局法令に関する解釈をつけるわけなんですが、そのカッコ内となれば、あれはあるいは判例と言えるかどうか疑っているくらいであります。書き方もきわめて簡単でありますし、決して親切な説明ではない。これはまた当然なんで、カッコ内は、カッコはなくてもいいのです。そうこういうことになると、たとえば実証的に判例を研究する場合に、実際にはやはり背の大審院の判例ほどの重要性がなくなったと思うのは、これは私一人だけではないと思うのであります。
  52. 古屋貞雄

    ○古屋委員 実は、かつて、小浜事件という、日本法律にない判決で確定した事件がある。小浜の裁判所でやられたのですが、家宅侵入罪の罰金が二千五百円しか最高が言い渡せないものが、一万円の罰金で確定した事件がある。そのときに、最高裁判所判事さんなんかに聞いてみますと、そんな趣意書など見るひまがないのだという話であった。私ども不思議に思ったから、少くとも条文と判決の主文ぐらい比較するのでしょうと言ったら、それも見ないというのです。それで確定裁判ができているわけです。そういうふうな、日本法律にない裁判が確定された事実がたまたまございましたから、最高裁判事さんに聞いてみたのですが、それはもう忙しくて自分たちは条文と主文を比較してみない、陪席の場合にはおまかせだという。そうなると、国民の側から考えますとどうも大問題なんです。最高裁裁判をやっていないのだ、職務を執行していないのだという現実が出た。そのときの検事総長の非常上告でも、控訴と上告裁判は破棄しない、一審の裁判だけ破棄した、それは当然だというお考えを持っておられた。これは私は驚いたのでありますが、本件の機構改革には非常に重大な関係を持っているのですが、最高裁判事さんは、調査官にまかせっきりで、自分たちは主文も条文も比較してみないというような感じを私は受けたのです。実際そうおっしゃったのですから私は驚いたのですが、そういう点からいきますと、やはり調査官という制度をやめられて、御自分が見ていただかなければならないのであります。国民の方から言えば、どらも実際の裁判を受けたという信用が、納得ができなくなるという感じを持つが、調査官制度に対しては先生はどんなお考えを持っておられるのでしょうか。
  53. 小野清一郎

    ○小野公述人 ただいま御指摘の事件は、詳細なことは知りませんが、うわさだけ聞いておりますが、一方から申しますと、人間のする仕事でありますから、どんなに熱心にやっても、ミスのあるということはあるいは免れないことかと思います。であればこそ、非常上告とか再審とかいう制度があるわけですから、私は、もちろんあるべからざることでありますが、しかしあの事件責任をそう追及する気にはなれない。ただ、調査官の問題ですが、現在はあまりにも判事が忙しいために心ならずも調在官の調査を信用して、それをほんとう言うと全部見直すべきところを、ある程度調査官の案に同調するというような場合もあるいは絶無とは言えないんではないかと思います。そこで、私は、増員をしたら、できるだけ直接に判事みずから事件を取り調べ、また判断するように、極端に言えば調査官は無用になるようにしたい。しかしながら、法令やおびただしい判例などのほんとうの意味の調査ですね、法令だってなかなかすぐ見当るものじゃありませんし、判例に至っては、判例カードにありますけれども、それを原本に当ってみないことには、具体的な意味がわからないのです。そういう法令なり判例なりを調査するほんとうの意味の調査官ですね、つまり、判事にこういう点を調べてきてくれと言われて、書庫へ行くとかその他の方法で、こういうことになっていますという、ほんとうの意味の調査官を必要とすると思うのです。アメリカの調査官はそれなんですね。日本の調査官みたいなものはアメリカにはありません。それは若い人でいいんです。そこで、現在の調査官をすべて最高裁から追放するわけじゃ決してないのです。第一線に出てもらうのです。そうすることによって、――下級裁判所判事が不足すると言っているが、非常に優秀な調査官があそこにおりますから、あれを下の方へ回したら、下の方も能率が上るし、上も確実に自分で調査して自分で裁判するという原則に返れる、こう思うのです。
  54. 古屋貞雄

    ○古屋委員 私も同じような意見なんです。あそこには高等裁判所判事さんのような経験を持った方がだいぶんいらっしゃるので、先生の御意見のように、研修を終った若い裁判官たちでも、今のような命令された調査ならできるはずです。そうすれば事務的には非常に有効に使えると思うのですが、その点などは、やはり調査官の制度の中で、調査官とはどういう仕事をするんだということを明確にいたしますとはっきりするのですが、今のように裁判官のようなことをやっているようでは非常に弊害が多いと思って御質問申し上げたのです。私ども先生の御意見同じであります。
  55. 三田村武夫

  56. 池田清志

    池田(清)委員 小野先生からワンベンチに対するお考え並びに修正の御意見をお伺いしたわけでありますが、そこで、私は三つの事柄をお尋ね申し上げます。  先生の修正意見は、小法廷判事を増員する、そうしてその小法廷は現在の最高裁判所の中の小法廷である、こういう御意見であったようです。そこで、お尋ねを申し上げまするのは、現在の最高裁判所の中におきましては、裁判所法第九条によりまして大法廷と小法廷ということに分れております。このことをそのままお認めになるのかということが第一点。第二点といたしましては、現在の大法廷は、裁判所法九条の規定するところによりますと、全員の裁判官合議体とする、こういうことが書いてありますが、これをそのまま是認なさるのかどらかということ。第三点といたしましては、裁判官が多数になりまして、それによる全員の合議体としては感心しないという意見もあるのでありますが、たとえといたしまして、その全員の合議体としないで、立法をする立場にある国会において、もしそれ全員の中の一部分の員数だけをもって大法廷を構成し合議体とするということにいたしました際において、その立法というものは憲法違反するだろうかどうか、この三点について御意見を承わりたいと思います。
  57. 小野清一郎

    ○小野公述人 裁判所法第九条で最高裁判所は大法廷と小法廷に分れて裁判をするという建前を規定しております。私はそれで大体いいんじゃないかと思います。  それから、大法廷を全員で構成すべきかどうかということですが、私は全員であることは必要ではないと思います。もとより全員であればけっこうですが、ワンベンチ論というものは、つまり全員の一法廷ということを主張する、しかも、小法廷というものをそのうちで認めるにしても、憲法問題だけは全員でいかなくちゃならぬというふうに考えられるワンベンチ論のかなり緩和された考え方もあると思いますが、私はそこまでも思いません。主として憲法違反判例違反を取り扱う大法廷の構成は全員であることを必要としない。  そこで、第三に、しからばこの多数の裁判官のうちからいかにして大法廷を構成する九人なら九人の裁判官をあげるか、こういうことになりますが、これは最高裁の内部における問題でありますが、法律規定してもいいだろうが、あるいは内部の規則でもいいのではないか。事務分担の意味において、互選によるなり、その他ルールを定めて――これがあまり毎年かわるというようでは困る、一貫性がないと言われるかもしれませんので、たとえば二年なり三年なりの期間で交代するようなふうにしたら、御懸念になる憲法違反になりはしないかという点は、私は、憲法違反にならないと言ってよい、こう思っております。
  58. 三田村武夫

    三田委員長 神近市子君。
  59. 神近市子

    ○神近委員 今度の修正の目的が、非常に多くの案件が最高裁にたまっているということで、能率的にしなくちゃならぬということが第一の目的だと思うのです。ところが、きょうで三日にわたる公述を伺って、どなたでも、しろうとから考えますと、ワンベンチ論が一番ガンなんです。憲法にそれがワンベンチでなければならないという規定は私どもどこにも書いてないように思うのですけれど、一昨日真野判事がおいでになって、日本憲法では一つ最高裁ということに規定して、あるという根拠をおっしゃっていらっしゃった。それは英語に書いてある、――ちょっときょう英語の憲法見つからなかったのですけれど、たとえば予定されたものがワン・コートである、アメリカから示された憲法においてはワン・コートと書いてあった、日本憲法ができる前にアメリカから示されたものにはア・シュープリーム・コートと書いてある-。それをはずしたということに私は日本憲法を作成なさるときの一条があると思うのです。そこで、必ずしもそれにとらわれる必要はないというのが私どもの考えなんです。ワン・コートでなくてよろしいということになれば、この改正案は非常にすっきりといたします。たとえば、第三審、第四審というような問題、それが非常に苦しい説明で、独立してもいるけれども独立してもいないというような、そういうややこしい、そしてちょっと常識ですっきりしない説明をなさるのです。それで、その点で日本憲法規定してないならば、必ずしもその前提となったものにとらわれる必要はないではないかという私どもの考え方、これに対しての御所見を一つ承わりたい。  それから、時間の都合上一緒にいたしますけれども、第二点は国民審査の件。これは今ちょっとお触れになったのでございますが、ただいままでの審査の方法というものは、私どもから考えればほとんどでたらめなんです。それでバツをつけた者が反対で、あと書かなかった者は賛成というあのやり方が非常におかしい。それで、じゃあ賛成の者だけマルをつけるようにしたらばどうだろうという意見もあるのですけれども、そうするとほとんど全員落選なさるということになる。今度は諮問審議会ができるようですから幾らかその点は救われると思うのですけれども、何かこれに対しての構想をどういうふうにして――近くに行われた衆議院の選挙の場合に審査するそれを、今のように同時的にやらないで、別の形でやる、演説を伺うのもいいことだろうし、また公報で詳しく説明をある一定の期間を置いてしていただくということも必要であろうと思うのですけれども、それについての御構想が何かあるかということが一点。  それから、きょう斉藤悠輔とおっしゃる最高裁判事さんが何かにお書きになったもので、人的構造が非常に大きな役割を果すということ、――さっき、好ききらいのあるような者というようなことをちょっとお出しになっていましたが、私ども、今日、裁判に対する権威について、そのことが非常に大きく最高裁に対する国民の信頼を減殺しているという感じが浮ぶのです。その人的資源というのは非常に少いと言う方と、それから、たくさんあると言う方と、両方あるのでございます。最高裁裁判官くらいなら幾らでもあると言う方と、それから、非常に得られないという考え方、私どもはあまり最高裁裁判官がえらく第一級を気取られては非常に困ると思うのです。というのは、自分で第一級ときめたらば、そのときに何かポーズができて、裁判の一番大きな目的である国民の福祉ということが、あるいは公平な裁判を受けるという権利が阻害されるというふうに考えます。それで、もう少し第一級というものを緩和して考えて、ほんとうによい人というものを私どもは最高裁にほしいと思うのです。必ずしも履歴とかポーズとかいうものにとらわれないので、そういう方々をたくさん、三十人――先生は二十人くらいとおっしゃっていらしたようですけれども、少くも三十人くらい増員するということで、ワンベンチの問題が片づけば、私はその方がかえっていいと思うのです。真野判事は非常にごりっぱな人だということは世間で周知して、始終少数派意見の人でおいでになるので、私は、ワンベンチということが打破されれば、必ず先生の少数派意見というものが最高裁を代表するという場合もできるだろうというふうに考える。  その三つの点についてちょっと御所見を承わりたいと思います。
  60. 小野清一郎

    ○小野公述人 先ほども申し上げましたように、私はワンベンチ論日本国憲法解釈としては成り立たないと思っていますので、もちろん、アメリカ人があの原案を書いたときには、アメリカにおけるシュープリーム・コートを念頭に置いて書いたでありましょうから、その意味でそれに非常に噴きを置くとすれば、ワンベンチなりワン・コートなり、そういうことになるかもしれませんが、われわれは独自の立場で今や物事を考えていいんじゃないか。何もアメリカ人にディクテートされる必要はないので、独自にこれを解釈すれば、日本司法制度というものの歴史的な形成、それから現在の実情がどうあるべきかということに即応してこの憲法の趣旨を考えなければならないので、憲法の明文にはワンベンチなどということは絶対うたっていないし、それを解釈するのに、いたずらにアメリカのワンベンチ論を持ち出すということは間違いである。それが第一点。  それから、第二点の国民審査でありますが、これは、現行憲法のもとでは、最高裁判所裁判官の全員について行われなければならないことは申すまでもありません。まあ憲法改正をするということになればまた議論は別でありますが、どうも、私なども、国民審査というものはちょっとナンセンスじゃないかというような気もいたします。民意がそこに反映されると期待するのでありますけれども、実際は、マル、バツをつける場合に、第一どういう人が裁判官として適当なのかも知らず、それから、この裁判官が今までどういう経歴の人かさえもろくに知らずして、ただ投票所に行ってマル、バツをつけるのでは、ほとんどナンセンスだと思います。これにかわる別の制度とても、私はあまりいい考えも持ってませんけれども、最高裁裁判官を選任するについて特別の諮問委員会というような諮問機関を設けて、そこには朝野の法曹の一流の人を集めて、そういう人たちが最もよく法曹の力量なり人格なりを知っているのでありますから、そういう人たちに諮問した上で任命するようにしたらばよいのではないか、そういう面から改めていくことが考えられます。まあ、そういう方法でもいけないということになれば、アメリカ式な選挙ということも考えられましょうし、いろいろあるのですけれども、これにはまた国情が違いますから、ことごとにアメリカを模倣すべきでもないし、今のところは朝野の法曹からなる諮問委員会――最初それをやったのですけれども、途中からやめてしまった。それがよくないと私は思うのでございます。  それから、もう一つ最高裁裁判官になるような第一級の法曹が、たとえば三十名増員した場合に、直ちに得られるかどうか。さっき二十名と申しましたのは、増員する分が二十名、こういう意味でありました。三十名なり三十五名なりになるわけなのですが、私は やはり 法曹というものについても、日本の現在の、何というか、民度というものがあるので、理想的な人は、かね太鼓をたたいて探してもないといえばないのです。けれども、現在の法曹を眺めて、この人ならばと思う人、あるいはともかく一流の人物をあげて、それから三十人選べと言われれば、そういうリストがあれば、私は即座に点をつけます。これとこれとこれということはわけもないことなのです。ただし、その人が引き受けられるかどらかはまた別問題なのです。引き受けられるような待遇は、私はしなければならないと思います。けれども、人物が絶対にないなどということはない。つまり、これは比較的な問題で、日本であるうちのベスト・サーティを選べばそれでいいわけですから、その程度で満足するほかはないのじゃないかと思うのであります。  以上お答えします。
  61. 三田村武夫

  62. 小林錡

    ○小林(かなえ)委員 もう時間が何ですから、簡単にお伺いしますが、今先生の御意見は、増員して法廷を幾つに分けても同じく最高裁裁判だ、こういうのですが、憲法に関する裁判だけは別に扱う理論じゃないですか。大法廷を作ってやらした方がいいのか、あるいは同じように民事刑事と同等の立場においてのコートを作った方がいいのか、これはいかがでしょう。
  63. 小野清一郎

    ○小野公述人 民事刑事は、確かに、先ほど申し上げましたように、それぞれ専門化しておりますから、これはどうしても民事法廷刑事法廷としなければいかぬと思います。現在たとえば裁判官でも民事に得意な人と刑事に得意な人とがある。民事に得意な人から言わせると、どら刑事は歯が立たないと、実際正直にそう言われる人もある。ただ、憲法の問題になりますと、果してこれを憲法の専門家だけにまかせておいていいかということが問題でありまして、やはり格別達識な士を各方面から物色して、そういう憲法裁判に当ってもらうことが好ましいと思います。
  64. 小林錡

    ○小林(かなえ)委員 そうしますと、最高裁判事の中で、優劣といいますか、差がある、区別がつくようになる。民事民事刑事刑事ばかりやる。憲法裁判なら憲法裁判……。みんな憲法裁判が終局的にできなければ、憲法八十一条に反するわけですが、どういうものでしょう。そういう場合に、各部から選挙か何かで選んで、その人が憲法裁判をやるというふうにでもする方法か何かないと、憲法憲法だけしかやれぬようになると思う。すると、今の八十一条にちょっとそむくことになりますが、その点はむずかしいのですが、御意見を……。
  65. 小野清一郎

    ○小野公述人 先ほどその通り申し上げたつもりでございましたが、内部の互選による方法が一番いいのではないかと思います。それで、お互いに人物を知り、のみ込んでいる人たちの間で、互選によって、二年なり三年なりの期間を定めて、憲法法廷すなわち大法廷を構成するようにしたらどらかと申し上げました。
  66. 小林錡

    ○小林(かなえ)委員 そうすると、やはり大法廷は大法廷として、少し憲法は重んじておいた方がいい、そういうことですね。
  67. 小野清一郎

    ○小野公述人 そういうことでございます。
  68. 小林錡

    ○小林(かなえ)委員 それから、もう一つお伺いしたいのですが、今度の法制審議会では、なかなかまとまらなくて、妥協案みたいなものになったようですが、これは、最高裁に関係のある方々が委員になられたり、あるいはその弟子といいますか、後輩というような人が多くなっているというわけだから、なかなか現状を打破することが困難であろうと思う。そこで、わが国の司法制度はこれからまだ変えていかなければならぬ点が非常にあるので、あまりアメリカ式になってしまって悪い点も残っておると思いますが、たとえば参審制度とか陪審制度とか、こういうようなものを、先生はずっと今法務省の顧問にもなっておられいろいろ携わっておられる御経験上、むしろ、私は、内閣にでも司法制度を研究調査する大きな会を作って、法務省とか裁判所とかいう方面からもむろん人が出てこなければなりませんが、もう少し大所高所に立って、わが国の司法制度をどうすべきかというような制度を作った方がいいのじゃないかというように考えるのですが、今までの御経験上、今のような法制審議会みたいなものでけっこうであるかどうか、この点もちょっと御感想を伺いたいと思います。
  69. 小野清一郎

    ○小野公述人 法制審議会には長い伝統がございまして、これは司法省時代から私どももよく存じておりますが、広い意味司法制度に関する立法というものは相当技術的な面がございまして、そこで、あの審議会の委員としてあげられておる者も、裁判所検察庁、それから学識経験者等、各方面から公平なように選んである。ところが、やはりそれぞれの御意見があるものですから、結局どの意見も完全には通らず、それで今回のようないわば妥協案ができたわけなんです。妥協案を作りましたことについては私自身責任があるのですけれども、先ほども申し上げました通り、きょうは私は法制審議会を代弁ずるのでもなければ、法務省を代弁するわけでもない。さればといって弁護士会を代弁するわけでもないので、私の良心的な意見を申し述べただけでございます。それで、ただいま示唆されましたように、内閣あたりに法制審議会のような、司法立法の根本的な調査機関を設けたらどうかという御意見でありますが、それはよく熟考した上でないと、いずれともお答えいたしかねます。
  70. 三田村武夫

    三田委員長 菊地養之輔君。
  71. 菊地養之輔

    ○菊地委員 だいぶ審査も進んで参りまして、いろいろの意見を聞いたのでありますが、要するに、現行法を改正して増員しようという案と、もう一つは、先ほど来問題になりました中二階式の本法でいいと、こういう二つに分れて参りました。ところが、増員論に対する中二階論の御主張の方々は、大ぜいの人では合議に適さない、合議は不可能だ、こういうことを言われるのであります。われわれは、幾ら大ぜいであろうと、天下一流の人物だけが集まっているので、こんなおかしなことは絶対にないと信じておるのであります。ところが、それに非常にこだわっておられる。今日お話しの宮澤先生も、そのためにいわゆる合議はできないのだ、こういう考え方から、中二階論は不満足であるけれども賛成せざるを得ないというようなお話があったのでございます。そこで、先生にお伺いしたいのは、一体、合議の場合、合議官として三十名とか三十五名とかというものが可能であるか、ほんとうに合議官として不適当であるか、その点に対して隔意のない御意見を承わりたいと思うのであります。
  72. 小野清一郎

    ○小野公述人 現在十五人の裁判官全員で合議をいたしますことは相当困難があるということを承わっておるのであります。私も直接の知識は持ちませんが、最高裁裁判官の方々から伺うところでは、ほとんど異口同音に、十五人の合議というものは、いかにも時間がかかるし、やり切れない、こういうことを言われるのであります。私はそれはそうであるかと思いますが、この全員の合議というようなことはきわめて重要な場合だけに限られているから、大部分は小法廷でやるのですから、相当の増員をいたしましたら十五人でもやっていけぬことはないと思うのであります。いわんや、かりに三十人ということの合議になりますと、裁判としてはますます困難が加わるとも思われますが、これも、昔最高裁の時代に、民事連合部刑事連合部、それから民刑を総合した連合部というものも、場合によってはこれはほとんど実効はなかったと思いますけれども、そういう制度としてはあったのであります。ですから、十五人であろうと三十人であろうと、あるいは皆は大審院は四十五人であったのでございますから、それでもやってやれぬことはない。ただ、それが裁判として適当な結論に達する方法であるかどうかについては私も疑いを持っております。そこで、この大法廷というものも九人なら九人ぐらいの判事でもって構成するのがよろしい、それが合理的に裁判をするに役立つ、こう思っております。
  73. 神近市子

    ○神近委員 ちょっとそれに関連して……。
  74. 三田村武夫

    三田委員長 神近さんにお願いいたしますが、もう午前の時間がずんとおくれておりまして、午後が詰まっておりますから、一つ御遠慮をお願いいたします。  午前の公聴会はこの程度にとどめます。  小野公述人には長時間御熱心に御意見をお述べ下さいまして、ありがとうございます。今後の法案審議の参考にいたして参りたいと思います。厚くお礼を申し上げます。  なお、午前中出席の予定でありました間宮公述人は都合により出席できない旨連絡がありましたので、御了承願います。  それでは、午後二時再開することとし、それまで暫時休憩いたします。     午後一時十二分休憩      ――――◇―――――     午後二時三十二分開議
  75. 三田村武夫

    三田委員長 休憩前に引き続き法務委員会公聴会を開きます。  本日午後御出席公述人は、早大教授中村宗雄酒、国会図書館長金森徳次郎君、東京地方裁判所長石田和外君、東京地方検察庁検事正柳川真文君、評論家臼井吉見君、文芸評論家青野季吉君、作家広津和郎君、以上七名の方々でございます。  この際公述人の皆さんに一言ごあいさつ申し上げます。本日は御多用中にもかかわらず当委員会公述人として御出席下さいましたことにつきましては、委員一同を代表いたしまして厚くお礼を申し上げます。公述人におかれましては、最高裁判所機構改革問題につきまして、それぞれの立場から忌憚のない御意見を御発表下さいますようお願いいたします。ただ、時間の都合上、公述の時間はお一人大体十五分から二十分程度といたしますが、公述あと委員諸君から質問があると思いますから、その際も忌憚なくお答を願いたいと思います。  次に、公述人の皆様が御発言の際は、劈頭に職業または所属団体名並びに御氏名をお述べ願いたいと存じます。なお、発言の順位は勝手ながら委員長においてきめさせていただきます。  まず臼井公述人より御意見を伺います。  臼井公述人は評論家として広くかつ高い御見識をお持ちでありますが、本改正案に対しまして、知識人として、最高裁判所の組織、権限、上告制度のあり方などにつきまして、国民の側に立って御意見なりあるいは御希望なりをお述べ願いたいと思います。
  76. 臼井吉見

    ○臼井公述人 臼井であります。  この委員会の事務局からお話のあったときに、僕は、裁判所の組織とか制度、そういう御質問については全く何も知らないので、上っても何の参考にもならないからと御辞退申したのですけれども、それでもいいから出てこいというので出て参ったので、何を言っていいのか、つまり組織、制度ということについて何も知らないものですから、何を言っていいのか――そういうこと以外に御質問があればと思って出てきたのです。従って、そういう組織、制度の改善というようなことについて何の参考にもならぬと思いますけれども、そういうことを離れて一口だけ感想を申し上げますと、今度、僕などが関心を持っておりましたいわゆるチャタレイ裁判というものが最高裁最後判決を見たわけでありますが、こういうことは、組織、制度に関係があるかないか一向わかりませんけれども、率直に感想を申し上げると、第一審から第二審、それから最高裁判決というふうに上に行くほど、どうも僕らに納得できない判決が出てきたことであります。これの印象は非常に強いわけです。  第一審の場合で申し上げると、多くの証人を呼んで、そうして、その審理の経過を見ますと、非常に納得のいく順序の立ったものとして、あとで調べてみましてもそういう感じがしますし、判決も、一審とか最高裁に比べると非常に合理的で、僕なんかは法律を全然知りませんけれども、一部に大岡裁判式だというような評もありました。そういうこともあるかもしれませんけれども、しかし、僕らの常識から考えると、二審や最高裁判決に比べると、はるかに筋道の通った、納得のできるものだと考えます。特に、一番の争点は、かつての旧憲法時代の出版法がなくなって、わいせつ文書を取り締る行政処分ということがなくなったために、それに刑法百七十五条というものを適用するということがいいか悪いか、つまり、行政処分でやったものを刑事問題としていいか悪いかということが一番の争点だったと思うのですが、そういうことについての一番の根本問題についての判決なんかには納得できない点はありますけれども、少くとも、すぐ行政処分でやれるようなれっきとしたわいせつ文書でないものを、ただ出版の仕方や宣伝の仕方が悪いためにわいせつ的になったという、そういう第一審の判断による判決というものは非常に筋道が通っているように僕は思うのです。率直に申し上げて、あのチャタレイの中に織り込んだ、問題になった調査書というものは、ここに今青野さんもいらっしゃいますけれども、弁護人や当日傍聴しておったいろいろの文学関係の人たちの意見は別としまして、僕としては、あの調査書はどらも穏当でないと思いますし あの宣伝広告というものは 明らかに、売り出す方でわいせつというようなことを頭に入れて、それで読者の注意を引こうとした点が多分にあるので、その点は非常に遺憾だと思っております。ですから、元来わいせつでないものをわいせつ的な売り方をして、結果としてわいせつになった、むしろ裁判に取り上げたために一そうわいせつになったと思いますけれども、そういう点では、二審とかあるいは最高裁判断に比べて非常に筋道が通っていると私は思います。  とにかく、訳者の方としては、むろんこれを一個の文芸作品として訳を完了し、そうしてそれを出版者の方へ渡して、出版者としては、いろいろの状況を考えて、そうして自分の出版の責任を果すわけですから、これはどう考えても訳者が無罪で、出版者の方はある程度ならやむを得ないと僕は思うのです。そういうふうな僕の考えですが、それが二審になるとずいぶん妙なことになり、特に一番最後最高裁などというものは、あれだけの時日をかけて、第一審で多くの証人を呼んで調べたことが全然判決に生きてこない。それであるのに一回も公判を行わない。しかも、最高裁があたかも道徳の守り本尊であるかのごとき言葉を弄しておる。これはずいぶん納得のいかないことです。どう考えても、国民の常識として納得のいかない方にだんだん度が高まっていく。  こういうことは、衝に当った裁判官の個人の問題なのかもしれませんが、あるいはそういうことが今問題になっております組織とか制度とかいうあり方と関係してくるのか、一向そこのところはわかりません。ただそれだけの感想を申し上げます。
  77. 三田村武夫

    三田委員長 次に青野公述人の御意見を伺います。  青野公述人に対しては、臼井公述人と同様に、広い文芸評論家とし、また学識経験ゆたかな社会人として、裁判の機能、制度そのものというよりも、むしろ裁判のあり方という問題について、国民の側からの御所見を伺いたいと思います。
  78. 青野季吉

    ○青野公述人 私、青野季吉であります。仕事は、文芸評論を書いております。  私も、臼井君同様に、この最高裁機構改革とか、あるいは上告制度の改革とかいうようなことはしろうとでありまして、いいとも悪いとも、何ともお答えできませんが、ただ、これを一通り読んで気づきました点で、疑問の点が三点か四点あります。  最高裁というものを二つに分けて、今までは十五名であったのが、今度は憲法問題及び判例違反だけを扱うほんとうの最高裁判所判事が八名、こうなっております。これは、従来の十五名よりも数を少くすれば、審理も比較的スムーズにいくかもしれませんし、また仕事も運ぶかもしれませんが、八名になったために、多数決の原理で言えば、結局四名であれば通るわけですから、仕事は簡便になったが、審理、判決の上に何か一方的な意見通りそうな危険を感じます。まあ従来のような十五名がいいかどうかは別といたしまして、今度八名にされたことによって、今申し上げた疑問や不安を持ってきます。  それから、小法廷最高裁判所下級裁判所的な扱いをしたことが、私にはどうもはっきりわからないのです。これはやはり、一般刑事事件で間口を広げて扱うということは非常にいいことだと私は思いますが、場合によったら人間の生命にかかわる問題でありますから、下級というよりも、そこはもっとほかにいい方法がないものでしょうか。  それから、小法廷の首班の判事さんが六名、一般判事さんが、二十四名となっていますが、その判事さんは国民審査によらないように解釈されると思います。私は、合せて三十名全部とは申しませんが、その首班的な六名の方だけでも国民審査にしてもらいたいように思います。それは、この趣意書を読んでおる間に気づいた二つの点でありまして、それではそれをどうしたらいいんだと言われても、私どもは法律の専門家ではありませんから、どうもはっきりわかりません。  それから、希望を述べよという話でありましたが、チャタレイ事件のことは今臼井君が申しましたから申し上げませんが、私も第一審で被告側の証人として出廷したものであります。あの最高裁の場合には、被告側の証人の言い分というものは一つも通っておらない。あれは正当に判断したかどうか、私は疑っております。それで、新しい最高裁判所も、刑事問題でも、事実のごく明白な問題は別として、大きな疑問があったり、大きな問題があったり、また研究すべき点があるような問題は、事実審理をすることを一つの原則として――これは省略してもいいのですが、そういう場合にやってもらうことができたらいいんじゃないか、これは一つの希望であります。  また、かりにこの原案が通ったとして、八名の裁判官でやった場合に、もしも四名の多数がある一方的の考えでやったらどうするか、これをどうして国民審査するか。そうなると、最高裁判所の上にまた最高裁判所が要るようなことになりますが、そういう不安を持たしてはいけない。やはり、最高裁判所の多数の意見判決になった以上は、国民最後裁判として納得がいくというような工合に一つ改善の根本を置いてほしいと思います。  それから、これは多数決の原理ですが、従来の例でも、三鷹事件の竹内景助君が、八対七というただ一票の相違で、上告が棄却になるか、あるいは死刑になるか――これは手続上の間違いでありましょうけれども、私は非常に割り切れない気持です。一票ということになると少数意見であるが、その少数の意見は相当の理由となり、法的根拠を持ってくるに相違ない。そういう場合に私ども国民は釈然としません。ましてや、その当人になれば、なおさらであります。そういうことも、もし最高裁判所でおやりになるならば、そういうことのないようにしてもらいたい、こう思っております。これは皆様に言うだけやぼでしょうけれども、裁判の一番大事なことは――今そういうことは不可能でしょうけれども、国民の最大多数がまあこれならほんとうの裁判だというように納得のいく手続をなるべくとってほしい。そうなりますと、今渋滞しておる四千件か何件かのものがますます渋滞するかもしれませんが、しかし、裁判というものはそうみながみな蒸し返し裁判ばかりではないと思います。国民が注意をし、疑問を持つようなことは、あくまでもその疑問を解いてもらいたい、こう思います。  もう一つの希望条件といたしましては、私どもは、最高裁判官の国民審査のときに、名前を書いて、その上にマルをつけるのですが、あれは私は実際上無意味に近いのじゃないかと思います。しかし、私は、さっき申し上げたように、国民審査という制度は非常にいいと思います。これからは、国民審査の場合には、あげられておる裁判官の経歴とか、あるいはその人の扱った事件に対する態度とか、あるいは平生の法律上の考え方というようなものをつけ加えていただきたい。すみずみまで徹底するのはむずかしいかもしれませんが、多くの人々が納得のいくような、そういう裁判官であったかというような工合の説明を加えていただきたい。それは今日はマス・コミュニケーションの方法がありますから、幾らも説明する方法があると思います。そういう説明をした上でマルをつけるようにしていただきたいと思います。もう一つ審査には選択ということがあっていいと思います。かりにそのときの欠員は一人でも、三人くらいの候補者を出して審査選択しろと言えば、ほんとうにあの制度が生きていくと思います。  しろうとの法律論でありますけれども、それだけ申し上げておきます。
  79. 三田村武夫

    三田委員長 次に広津公述人から御意見を伺います。  広津公述人は、著名な作家として、あるいは文芸を通じ、あるいはその作品を通じて広く国民の中に思想的な影響力をお持ちであり、また非常に高い芸術的な御経験、知識をお持ちであります。また、作品を通じて拝見いたしましても、最近の裁判機構と申しますか、そのあり方に対しても相当深い御経験をお持ちのようでありますが、広津先生が特に関心をお持ちになっております事件とは別個に、裁判そのものについての御感想なり御意見なり、承わりたいと思います。
  80. 広津和郎

    ○広津公述人 広津でございます。  文学をやる連中がみんな同じことを言うようでおかしいのですが、実は私も法律には全然門外漢なもんですから、その組織としての最高裁判所というようなものについて意見を述べるということは、何の準備もありませんし、知識もありません。それで、きょう公述人に選ばれたことを一ぺん辞退したのでありますけれども、何か裁判のあり方というものでもかまわないからというお話で参りましたような次第でございます。  今のお話のように、私が関心を持ちましたというのは、これは偶然ですが、松川の裁判に関心を持って、それで私納得いかないもんですから、納得のいかないという理由を雑誌に連載しているのですが、しかし、裁判所の組織とかいうものについては、今の松川の問題を離れて裁判について広くという今のお話でしたが、そういう知識は全然持っておりません。偶然に松川裁判を調べてみて、そうしてあれから日本裁判というものを類推するということは危険ですから、あの裁判からほかの裁判一般論というようなものについて申し上げたいという気持は私持っておりません。それですから、私の書いているようなことを離れての裁判問題ということについて申し上げることはないのでございます。  今、青野君は、最高裁判所裁判官の投票のときにマルをつけると言われましたが、私のおります熱海では、何もつけずに白紙で出せば、これが信任投票であるというのです。知らない人たちがこれはどうしたらいいんだと聞いていると、箱に入れればいいんだ、こう言われて、ぽんぽん入れているので、ああいう投票でない投票の方法を何か考えてもらいたいと思うのです。そのとき、みんな知らないで、何もしるしをつけずに入れればいいと言われて、どんどん入れている光景を私見ているのです。ああいうようにして国民の信頼を得たということにするのは大へん危険だと思うのです。私の見たところでは、しるしをつけずに入れろ、そういう話でした。  それから、最高裁の組織というものについては何も言えませんけれども、私たち国民がある裁判に納得がいかないと言ってそれに意見を述べる、そうすると、それは今係属中の裁判であるから、そういうことを言ってはならぬとは言えないけれども、そういうことに対してなるたけやらないでくれという意見は、最高裁から、私が書いておるうちに非常に出ました。ところが、私が書きました松川事件、もう八年たっておりますが、その第一審の判決文と記録を読みまして、国民として納得がいかないと思いまして、第二審の裁判中に私はちょっと意見を述べました。そうすると、係属中の裁判だからものを言うな―、まあ一理あるように思いましたけれども、今度は、第二審の判決を読みましてますます納得がいかないので、それを書いていると、また、係属中だ―、しかし、その間に今や八年。納得のいかないことを、最高裁判決が済んでしまってからではどうもおそ過ぎて、そして全部料理が済んでしまうまで待っていろと言われても、料理の済まない前に、国民が納得いかないということを言って、何らかそれが役に立つようになりたいという意味で書いているのです。しかし、私たちの書くものについて、最高裁判所長官の田中氏が、雑音に耳を傾けるな―、それはどういうわけかといえば、これは予断を持つから、つまり、われわれの世論として述べていることに耳を傾けることは、裁判官が予断を持つ結果になるから、これはいかぬというような意味らしいのです。非常に形式的な論理としてはそういうことも言えるのですが、しかし、われわれの書くものでもって予断を持つというほど日本裁判官が自主性がないとは私は思わない。それで、もし予断を持つということ――、さっきの臼井君のお話でしたが、その中に、書類でもって裁判をやる、上の方でございますね、弁論をやらずに書類でもって裁判をやる、事案審理をやらずに裁判をやる、第一審では事実審理をやる、第二審では事実審理をやらないということになっているけれども、そのときの裁判官意見によっては事実審理をやってもいい、しかし事実審理をやらないで書面だけでいいということになっているのですが、そうすると、私たちのものが予断を与えると同じように、第一審の判決は第二審に予断を与える。第二審の判決上告審の場合にも予断を与える。われわれの言うことが予断を与えるならば、判決文が予断を与えるということも非常に危険だと思う。それですから、われわれの根本的な希望からは、第二審も第三審も事実審理をしてほしい。  それで、今度は、私が書いています松川事件なんかには、最高裁でもある非常にいい処置をとってくれている点はあるのです。というのは、今まで、十年以上の刑になっている者を保釈にしなかった。それを、あの松川事件の――一方から言えばこれが張本人というようなことになる。というのはつまり被告側からですが、赤間君という松川事件に最初に自白をした人、それは十三年の刑を第二審で受けていた。それを保釈にしてくれている。一番最初に自白した赤間君を今までの例を破って保釈にしてくれた。それから、第二審で死刑の宣告を受けている本田君という被告、まあ死刑囚ですね。そのお父さんが脳溢血で倒れたのです。それを、最高裁が、その土地の裁判所のジープでもって、死刑の者を刑務所からジープに乗せて、そうして脳溢血で倒れたお父さんに会いにやった。私は、被告とか、救援している連中に始終会いますが、みんな非常に感謝しております。そういう処置はやはりとってもらって大へんいいことだと思うのです。ただ、私たちが考えるのは、やはり一つの、私たちの言うことには全然耳を傾けないという見識が、非常に形式的な官僚意識みたようなものに考えられると思うのです。私たちでも、長年一つのことを、たとえば文学なら文学をやってきて、そして納得のいかないことについて発言するのには覚悟を持って発言しているのですから、これがただの雑音であるということで、耳を傾けるな―、雑音であるから耳を傾けるなということを最高裁の権威者が言えば、しかもそれをもっと下級の裁判官に対する訓示として述べているのは、やはり一つの予断を与えることだと思うのです。組織のおり方がどうなるにかかわらず、もっと虚心たんかいに国民の言うことを聞いてほしい。国民の言うことも、国民だっていいかげんなことを言っているわけじゃない。というのは、裁判というものは裁判官がやると思っているでしょうけれども、裁判される相手というものは国民なんです。で、国民裁判に非常に関心を持つのは当然なことなんですから、国民裁判について述べるということについては、もっと虚心たんかいに、冷静に公平に耳を傾けてほしい、そういう希望がある。きょうのこの委員会の問題とは大へん離れているのですが、まあそういうことでよければ述べてもいいというような意味の、つまり問題から離れてもいいというお話がちょっと電話であったものですから、それで出てきてこれだけのことを――具体的のことを話しますと大へん長くなる問題で、これは全然問題とは離れてしまいますが、最高裁に対する私の希望として以上のことだけを申し述べます。
  81. 三田村武夫

    三田委員長 ありがとうございました。  臼井、青野、広津三公述人の御意見に対して何か御質疑はございませんか。神近市子君。  御発言の前に申し上げますが、公述人の方々がたくさんおいでになりますから、なるべく御発言は簡潔にお願いをいたします。
  82. 神近市子

    ○神近委員 青野さんにお伺いいたします。この間から、最高裁の改革の問題では、今皆さんお三人でお触れになったようなことがいろいろ論議されまして、いろいろ御杞憂になっていること、あるいは御希望になっていることに対するはっきりした――何というか、三日にわたる公述でやや具体化したようになりつつあるのでございますが、私どもがきょう文士の方々にいろいろ伺いたいと思うことの一番大きな問題は、最近のチャタレイ裁判に対して、文芸家協会なりそのほかの団体なりで非常に御不満の点がたくさんあったと思うのです。先日亀井さんがおいでになったときに、ややこの間の判決文に対する御批判や何かがあったのですけれども、きょうの青野さんの御発言はあまりにも省略なさっていると私は考えます。それで、どういう点が御不満を買った点か、もう少し、二、三点なり、四、五点なり、新聞以上に簡潔でございましたから、伺わせていただきます。
  83. 青野季吉

    ○青野公述人 チャタレイ裁判に対する私ども文芸家協会の抗議と申しますか、それはすでに声明書を出してありまして、それに大部分私の意見が盛られてありますが、ここで最も大きな不満の点を二、三申し上げますれば、第一に、あれだけ文学と道徳、それから文学におけるところのわいせつという非常に議論の多いああいう問題を扱う場合に、被告の伊藤整君やあるいは弁護士の意見を全然聞かないで、文書だけで裁判されたということの、その形式に私は第一番に不満を持ちます。  それから、何と申しましても、あのロレンスの「チャタレイ夫人の恋人」という作品に対する評価の方法であります。つまり、あの中から第一審の検事のように十二カ所の性描写のところを抜き出してきて、それをつづり合せれば、これは明らかにわいせつ文書になります。しかし、その十二カ所というものは、「チャタレイ夫人の恋人」という作品のあるべき位置にあるものであって、それはそこから切り離すべきものではなくて、全体として読むべきものである、そういう作品鑑賞の態度というものに対する抗議を申し述べたいと思います。そらして、あれは、作品全体として読んでみますれば、その十二カ所の問題の個所は、決して、羞恥、嫌悪の情というか、わいせつ的な感情をそそるものではないと思っております。それよりも、あの作品はもっと道徳的な書物です。そういう羞恥、嫌悪の情というような、卑劣な、陋劣な感情を起させぬほど強い性道徳の書物であります。おそらく、それは、私どもの声明書にもありましたが、何か偏見を持ってあの小説を読まないで、ほんとうに味えれば、必ずああいう読み方には私は反対するだろうと思います。あの判決文には、その点で、あの作品がただ読書力の低い人が読めばという一つの例であります。つまり、裁判官自体のあの作品に対するところの評価というものはほとんどありません。しかも、一方においてはこの作品は批判的な要素もあり、あの作品の文学的価値を相当に認めております。そういう作品の中におけるところのわいせつの個所というものについての考えが、あそこに一つも述べてありません。そういう点、扱うものが文学作品でありますから、これはその作品において具体的のことといいましたら文学作品一冊なんですから、私どもは、あれに対してもう一ぺん専門家なりまた有識者の意見を聞いて、もっと地固めをしてから裁判をやってもらいたい。私は第一審からずっと注意しておりますが、最高裁の場合には、少くとももっと明快に、もっと詳細にそういう点が分析されると思ったのであります。ところが、そういう点の分析がほとんどありません。これが第二番。  第三番目は、これはさっき臼井さんも言われましたし、声明書にもありますが、あそこに、裁判官国民の最低道徳を守るというような言葉がありますが、しかし、あれを読みますと、最低道徳を守るというような名前によって、何か一つの道徳上の反感というような印象を与えます。あの判決書を読みますと、道徳的説法という感じを強く与えます。私は、そういう印象を与えるということは、最高裁のあの冷静なるべき判決においては、はなはだ遺憾なることであると思います。  それから、もう一つは、あれによりますと、あの判決が生んでくるところの副作用というものを裁判官がお考えになったかどらか、副作用というものに対して私ども文芸家は非常に心配しております。あのロレンスのあの書物、ああいうりっぱな作品でさえ、あの十二カ所の性行為の描写さえなければいいんだ、そういう判決だった。そういたしますと、今度はそれを悪く利用して、性行為さえ書かなければ、その紙一重のところまで書いてもいいんだという、ただそれだけの目的で、ほんとうにわいせつ文書を作るような目的でもって書かれるものが将来生まれやしないか、こういう点を心配しております。でありますから、「チャタレイ夫人の恋人」というものをああいう判決を下すことに上って、実際にわいせつ文書を頒布しようという者に一つの方法を与えたような、そういう副作用を生んできやしないかということを心配します。また、最高裁判所はそういう点まで考えたかどうかということに対して非常に疑問を持ったのであります。  大体それらであります。
  84. 神近市子

    ○神近委員 この裁判に初めから御関係になっていたので、第一審から第二審、第三審で、そのやり方について、第一審が被告側の感情として割合に納得がいったということ、それから、第二審に行ってそれが後退して、第三審に行ってさらに後退したということ、これは今しきりにこの委員会で問題になっているこのメンバーをふやすかふやきないかということに大へん関係してくるのです。二審、三審と上るにつれて、国民考え方から、一般考え方から遊離していくというところはどこに一体原因があるのか、これは裁判官の質の問題だと私どもは考えます。そうして、さらに、それを減員して非常に少数にしぼるということは、ごく少数の独裁というようなことになりはしないかという御懸念も伺ったように思うのですけれど、その点で、第一審から第三審と違いを生む過程にどういう意味があるかということを伺わしていただきたい。
  85. 青野季吉

    ○青野公述人 私は、今の神近さんの質問に対して、第一審から二審、三審と行くに従って私どもの不満が大きくなった原因というものを決定的に考えることはできません。ただ、第一審の裁判で私どもが満足できましたのは、第一審では、とにかく、相当大ぜいの参考人といいますか、あるいは証人といいますか、そういう人たちの、被告側の証人も、また検事側の証人も、その証人の証言をなるべく生かそうとする裁判官の苦心が判決に見えておりました。そうしますと、今度第二審へ来ますと、もうほとんど被告側の証人、参考人の意見は殺されてしまう。第三審ではそれは全く消えてしまうということになっておるのですが、これは、一つには、私は、ここで問題になるのは最高裁判所ですが、最高裁判所裁判官の質にもよると思います。というのは、さっき私が数を八名にすれば非常に簡略かもしれないですが非常に不安だと言ったのはその点であります。数の上にも問題があると思います。質の上の問題というのは、大体、現在の最高裁判官を批判するわけではありませんけれども、裁判上に多年の年功が現われて、そうして最高裁裁判官とするに適当なもの、こういうことでいくのでしょうが、やはり年令上しからくるところの問題があると思います。それからまた、裁判を扱われても、今日の裁判というものは、チャタレイ事件なんか見てもそうですが、専門的な知識がある程度必要な裁判があります。将来ますますそういう専門的な知識が必要な裁判が出てくると思いますが、そういうことに対して、あらゆる面で勉強するということはなかなか容易じゃありませんが、しかし、そういう専門知識が必要な場合でも、簡単な常識で割り切ってしまうというような習慣を持っている人がありはしないか。もし質ということが問題になれば、そういう点が私は問題であると思うのであります。  それから、数の問題でありますが、やはり、先ほど申しましたが、従来の十五名、私は数が多いか少いかということは決して言いませんが、少くとも今度八名にするといいますと、繰り返すことになりますが、四名が多数意見で、私どもは、ある一方的の意見があるどこかの作用でもって裁決されやしないかということに対して非常な不安を持ちます。むしろ、それならば、めんどうになっても、やはり数はある程度多かった方がいいのじゃないか、こう思っております。
  86. 神近市子

    ○神近委員 広津さんにお伺いしたいことがございます。  さっき、最高裁国民から遊離しているのじゃないか、遊離するのじゃないかということがしばしば論議されました。私どもも、その危険が大きにあるということ、それから、先生の御著書だの、それから八海事件に関する例の「裁判官」という本だとか、あるいは映画だとかいうものが問題になったときに、田中長官が雑音に耳を傾けるなという告示をされたということは、あれは一般から相当批判を受けて、結局最高裁というものは孤高独立して、そうして自分たちの主観だけでものをやるのじゃないかという危険が非常に感じられたから、非難を受けたと思うのですけれども、先生の方に、あまり書かないでくれ、まだ係属中のものだからあまり書かないでくれというような何か依頼なりあるいはそういう要請なりがあったのでございますかということが一点。  それから、国民から遊離しないためには、一体最高裁のあり方についてはそういうふうな独断的な告示を出すことが、先生もそれは予断の一種じゃないかということをおっしゃったのですけれど、予断を許さないつもりで予断をさせているという結果になっているのですけれども、国民最高裁との関係をもっと密接につなぎ合せるには、どういうことが必要だとお考えになるか、これが一点でございます。
  87. 広津和郎

    ○広津公述人 今最後におっしゃった国民最高裁を近づけるということは、それは最高裁裁判官国民に近づこうという気持がなければどうもしようがない。私たちの方は、私たちの言うことも耳を傾けて、何も私たちの言うことをそのまま承認しろという意味じゃないのですから、もっと耳を傾けろという気持を言ったのです。耳を傾けるようにしてくれるというのはどういうことかといえば、傾けるようにしてくれる以外にないのです。今、つまりわれわれから見れば、非常に不必要だと思われる権威意識というものがやはりあり過ぎるのじゃないかと思います。もう権威意識では別段敬意をだれも払わない時代になってきているのですね。もっとものを理解できることに何か人が尊敬する時代になってきたと思うのです。これは最高裁のなにじゃないですけれども、ある裁判官が私の書きましたものについてちょっと書かれた中に、――その人は大へん穏やかなものの言い方をして、そうして書かれたものも大へんまじめに私に向って書いてくれたんですが、しかし、その中に、司法精神というものがあるという言葉が出てくるわけです。われわれの司法精神というものは、他から何か言われればそれを反発する司法精神というものがある、そういうものは、しかしそれを守るのが大へんいいように思われているのが少しおかしいじゃないかと思う。そういう権威意職というもの、昔サーベルにさわって無礼者と軍人に国民が言われた、そういうような感じを持つ。つまり、司法官にそういう意識があって、国民が何か言えば、とにかく身構えて、すなおに聞こうとしないというような意識が非常にあるのじゃないか。これは最高裁で民間出の人たちにはそういうところがない。最高裁裁判官にもそういうところがない人がいると私は思う。それから、そうでない多くの裁判官にも、今やそういう意識から少しずつ放たれてきている人がいるというように私には考えられます。というのは、そういうようなふうに感じられる点があるのです。しかし、その意識というものは裁判所ばかりじゃないと思うのです。思うのですけれども、司法官にはことにそういう意識が残り過ぎているのじゃないか。そういうものがもっと捨てられてくれば、とにかくもっと当りまえに国民と接せられるのじゃないかと思うのです。それにはやはり相当に時がかかるのじゃないかと思います。そういうふうな態度がとられるというのはだいぶ時がかかると思いますし、それに、今までのところは、国民も何か別ものの、ように裁判官考えているのですが、国民の方も、そうでなく、同じ国民だと思って、もうちょっとものを言うべきだと思うのです。
  88. 神近市子

    ○神近委員 今の、やめてくれという要請をお受けになったかどうかという点……。
  89. 広津和郎

    ○広津公述人 要請はありません。ただ、雑誌社に向っては、なぜ載せたかということは言ったという例はあります。――私が書きましたものをなぜ載せたか。それで、その雑誌社では、そういうことを言っておるのだからお書きなさいと言いました。むしろどんどん書かれた方がいいでしょう―、だから、それはちっともなには受けていなかったのです。それから、法廷侮辱罪というようなものができるぞというようなことを、私の近しい者のところに来て話をして、その人が心配して私のところに来たというようなことはあります。当然私にそれが伝わるんです。そういうことはありますけれども、しかし、法廷侮辱罪ということは私には納得のいかないことなんです。それで、そういう話を聞いても、書くことをやめようという気は全然ありませんでしたから、書き続けました。けれども、別段それ以上のことはないです。最近はもうそういうことは何もありません。書き出した初めのうちです。最近は別段裁判官諸子も何も言ってきません。
  90. 三田村武夫

    三田委員長 臼井公述人に私から一点お尋ねいたしたいと思いますが、御承知の、この現存の裁判制度というものは、申し上げるまでもなく民主制度の最も重要な柱の一本であるのであります。ことに、人民主権の立場をとりますと、裁判国民のものでなければならないということは、お述べになった通りであります。しかも、裁判司法というものに対して、国民のものでなければならないにかかわらず、一般国民の例解がはなはだ薄いということは、私は非常に残念だと思うのであります。御意見通り裁判司法というものは、公正で国民の権利を守らなければなりませんが、公正にして真実なる裁判というものは、やはりりっぱな制度機構の中から止まれてこなければなりませんので、この裁判制度機構というものを、今のように国民から遊離したといいますか、冷淡な無関心な立場に置くことは非常に残念だと思う。先生は非常に広い言論活動、評論活動をなさっておられますが、どういうわけでしょうか、裁判機構というものに対しで、国民の関心がこれほど薄いということ、これはどこに欠点があるのかということが一点と、どうしたら裁判司法というものを真実に国民の中に持ち込むことが可能か、つまり、国民の理解と納得の中に置くことができるかという点について、一つ意見を伺いたいと思います。
  91. 臼井吉見

    ○臼井公述人 御質問に対して適切な答えになるかどうか知りませんが、大体、今までの日本裁判なり司法のやり方というものは、なるべく国民から隔離して、隔離することによって権威を持たせるというやり方だったと思います。一切の点においてそういうものだったと思います。そして、そういうものが現在でも最高裁あたりには相当濃厚に残っておる、こういう感じなのです。それで、繰り返しになりますけれども、チャタレイ裁判だけに関して申しますと、第一審で三十何人の証人を呼びましたが、特にその中で波多野完治さんの証言というものが非常に有力な証言で、僕なんかもあれを聞いてほんとうにはっとしましたが、あそこまではっきりと、つまりわいせつかわいせつでないかということが非常に主観的なことになって何ともけじめのつかないときに、非常に客観的に、もう絶対に普通のわいせつ文書とあれは違うのだということを、検察当局の指摘した十二カ所について綿密な客観的な証言をしたわけです。これはだれだってこれには耳を傾けざるを得ないものなので、それを第一審の裁判では非常に重く取り上げて、そうして判決の中に十分に生かしてあることがわれわれに感じられる。そういうふうに、たとえば証人に呼ばれて出ていきましても、ちゃんとまともなことはそのまま裁判判決にまで生かされるということになると、その一つのことでも国民裁判との間が非常に近しいものになってくるのですけれども、そういう第一審なんかに見られた態度というものがだんだん薄くなってきて、そうして、最高裁に至ると、まるで逆になる。三十何人をあれだけの日数をかけて呼んでいろいろ調べたことを全然そっちのけにして、実に独断的な、独善的な権威主義の上に立った判決を下す。しかも、国民に説教者として臨んでおる。われわれは適正に法に照らしての判断判決を望んでいるのに、それをそっちのけにして、何か道徳の守り本尊のごとき、――だれも国民最高裁に道徳の守りをまかせておるわけではありませんけれども、そういう口吻を判決の中に漏らしておる。特に、個人的になってまずいのですけれども、最高裁責任者というような者に特定の宗教に関係のあるような人を置くということは、僕は非常に不安であります。特に、チャタレイというような、わいせつか――非常に高い程度の道徳問題と取り組んだ文字でありますけれども、それを逆にわいせつというふうに決定するというふうな、ずいぶん……。それの基準になるものは社会通念ということになると、社会通念がどういうところにあるかということを見きわめる裁判官としては、やはり問題が微妙であるために一そうはっきりしたことでありますが、そういうものを判定するには最高裁裁判官は少し年をとり過ぎておる。社会通念というものを判定する上においてずいぶん見当違いじゃないだろうか。あの人たちの考えよりは、もっともっと社会通念そのものが違っている。変化してきていることがわからないくらいに神経が硬化している人たちじゃないかという感じもいたします。どうも、そういうことになると、一番権威のあるところが一番国民と相いれない、納得のいかないことになる。しかも、今広津さんの言われたように、大きな面から国民裁判に対して意見を言うことに対して、神聖なものを侵すがごとき口吻を漏らすところにはっきり出てくるわけで、その点が制度の改革というようなものでカバーできるかどうかということは僕にはわかりませんけれども、ともかく、少くとも今のチャタレイ裁判に現われた最高裁の態度というものは、国民との間をいよいよ遠ざけるという、そういう感じは強いようでございます。
  92. 神近市子

    ○神近委員 臼井さんにさっきからお伺いしたいと思っていたのですけれども、時間を急げという御命令だったので省略しようとしたのですが、ちょうど同じような問題が出ましたから、あと憲法学者の金森先生がお見えになっておりますので、これは伺って見ようと思うのですけれども、裁判官の良心の問題が一項だけ規定してあるのです。これは別に御関係のないことだからお気づきしないと思うのですけれども、憲法の七十六条の三項に、「すべて裁判官は、その良心に従ひ獨立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される。」、こう書いてあるのです。それで、裁判官の良心というものは、憲法及び法律にのみ拘束されるんで、あとの宗教とかあるいは政治とかの良心に拘束されるべきでない。この点で、この間からの判決文なんかはちょっと逸脱しているのじゃないかという疑問を私はひそかに持っていたのです。それで、由井先生は良心の問題その他については始終お書きになっているので、私は伺いたいと思っていたのですが、良心が二つあるというわけはないと思うのです。人間としての広い意味の良心とここに規定されている良心とは限界があると私は感じているのですけれども、その司法的な良心というものと社会的な一般通念としての良心というものとの区別あるいは限界というものをどこに置いたらいいかということを、ちょっとお伺いさせていただきたいと思います。私の質問が御理解できないようでしたら――私は、司法官の良心というもりは、これに規定されているところに拘束されると規定されていますから、そこだけでいいと思うのです。それで、法令や条文によく適合しているかどうかということを非常に綿密に調査して、そうしてそれによって判決すべきであって、ほかの雑音とかあるいはさっき言う意味とは違ったそのほかの考慮、たとえば政治的考慮とかあるいは宗教的考慮とかあるいは道義的考慮とかは、私はこの際入れるべきでないという考え方なんですけれども、その点ちょっとむずかしいでしょうか。良心の問題について、裁判官としての良心と生活人としての良心とをどういうふうに限界を設けたらいいかということをちょっと伺わしていただきたいと思います。
  93. 臼井吉見

    ○臼井公述人 神近さんのおっしゃる通りに僕も考えます。一般的な良心というような問題に一般化しますと、議論は抽象的になると思いますけれども、要するに、できるだけ具体的に申しますると、今度のチャタレイ裁判最高裁判決文というもので、一番納得のいかないことは、今神近さんのおっしゃった、法律規定を逸脱して、そして自分が国民に対する道徳の守り本尊のような、あれは実に不見識といいますか、国民に対する侮辱のようにも僕は思いますけれども、ああいうところまで逸脱してきたという点、これは非常にけしからぬことだと私は思います。ですから、一般論としての良心ということでなしに、当然法律できめられた規定を最も厳正に適用してもらう以外に良心というものは考えられない。ですから、特殊な個人的な道徳観とか、個人的な人生観あるいは個人的な宗教観を持って裁判に臨むなんということは、とんでもないことだというふうに考えます。私は最高裁判決文でほんとうに衝撃を与えられました。
  94. 広津和郎

    ○広津公述人 今言われた問題で、私は松川だけしか調べてないのですが、公正に法律に終始して、裁判をやってもらいたいと思います。私の調べているのでもそうです。そうしてくれれば、ああいう判決じゃなかったと思うのです。法律に終始するがごとく、法律のある捏造みたいなものの論理的なからくりがありますけれども、それは終始したことにならない。それで、やはり法律に終始してくれるということが裁判官に対する私たちの一番の希望です。
  95. 三田村武夫

    三田委員長 他に御質疑はございませんか。――他に御質疑がなければ、三公述人に対する質疑はこれにて終了いたしました。  三公述人には、長時間にわたり熱心に貴重な御意見を述べていただきまして、まことにありがとうございました。今後の本案審議の参考に供したいと思います。厚くお礼を申し上げます。  それでは、次に中村公述人に御意見を伺います。  中村公述人に対しては、お手元に差し上げておきましたが、訴訟法学者として、第一に、小法廷性格いかんという問題であります。(イ)国法上の独自の下級裁判所であるか、(ロ)対高裁及び対大法廷との関係において審級をいかに考えるか、(ハ)司法行政権は司法裁判権の独立性を保障する一つの手段であるから不可分離であると思われるが、小法廷から司法行政権の重要部分を奪うことの可否いかん、二、上告理由は民訴、刑訴と異なってよいか、三、上告理由としての判例違反の存在理由ないし価値いかん、法令違反上告理由となるならば、判例違反は不要となるかどうか、四、異議申し立てが上訴と異なるものだとするならば、その理由を承わりたい、五、小法廷判決宣言により確定力を有するものであるか、執行力及び大法廷の破棄判決の結果にも触れながらその御意見を承わりたい、六、上告のあて名人は最高裁判所であるか、最高裁判所小法廷であるか、政府原案によれば、最高裁判所の表門は開かれておらず、上告は横門の最高裁判所小法廷から入ることになっているように思われるが、いずれの門であるかを法文上明定すべきではないか、七、憲法違反主張とその他の法令違反主張を含む上告事件は、この改正案においては、大法廷と小法廷のいずれで審判されることになるのか、八、一つ上告事件を分けて、憲法違反の、主張については大法廷が、一般法令違反主張については小法廷がそれぞれ審判するという方式は可能であるか、この場合、事件自体に対する終局的な裁判は本法案においては大法廷と小法廷のいずれがすることになるのか、九、現在、名を憲法違反にかり云々として上告却下が行われているが、このような場合に、本案によれば実質が憲法違反であるとの主張に基いてさらに大法廷に異議を申し立てることが保障されているかどうか、以上の諸点について御所見を伺います。
  96. 中村宗雄

    ○中村公述人 私、中村宗雄でございます。早稲田大学で民事法学、訴訟法学を専攻いたしております。  本日この裁判所法の一部改正法案の御審議、――これは大体において最高裁判所機構改革が内容になっております。これにつきまして訴訟法学の立場からの同答をせよという御質問でございます。今まで各公述人が申し上げ、また各位が十分御案内と思うのでございまするが、この改正法案は妥協の案であります。御案内のように、最高裁判所、法務省、弁護士連合会、それにわれわれ学者の意見がいろいろ交錯いたしております。最高裁判所の方でも御意見が多数説、少数説と分れ、われわれ学究の者にもいわゆる官学と私学とが分れる。それで、相交錯した意見が最大公約数としてここに出されたのでありますか、不徹底なことは当然のことと私は思います。しかしながら、現在においては、私、結論から申し上げれば、大体においてこれは賛成せざるを得ない案、こう考えております。と申しまするのは、現在最高裁判所のあり方というものはまことに不安定なもので、いずれ憲法改正につながる根本的な改革が必要だと、私はこう考えております。この根本的改心をしない改革案というものは、いずれも暫定的なものであり、妥協的なものであります。この御質問の事項も、これはどちらにも解釈できる問題のように思うのでありまして、結局は、この国会の各位の御決定、今後における最高裁判所がいかにあるべきかというその根本方針からして、これらの条文を解釈し、また御決定相なるべきであるかと思うのであります。各位においてはもはやこの最高裁判所の地位またはこの改革案についてのデータは十二分に御存じのことでございまして、今さら私ここで申し上げる必要もないのでありまするが、ただ私多少時間をかしていただきまして、本日のこれらの御質問にお答えする必要最小限度において、従来のこの改革案の経過と、それから最高裁判所のあり方についてのきわめて簡単なる分析をさしていただきまして、それに基いて一つ一つのお答えを申し上げさしていただきたいと思うのであります。  御案内のように、最高裁判所は英米法の構造である。ことにアメリカの連邦大審院の構造をとっておりまして、裁判所系統が一本立てになっております。従来の終戦前の憲法のごとく行政裁判所のごときものもこれの中に吸収しておる、しかも法令審査権も持っておる、それから規則制定権も持っておる、また判事さんには国民審査が行われる、判決文には少数意見を書けというごとく、一から十まで英米法的な構造を持っております。が、しかし、日本の法体系というものが決して英米法化しておらない、大陸法的である。そこにそぐわざるものがある。それが、根本をさかのぼれば今回のごとき妥協案になるのであります。何もこれは法曹の教養だけを言うのではありません。御案内のように、日本においては、三権の分割、この国家機構は英米法のそれと根本的に違っておる。終戦前においては天皇の大権とつながる行政権がむしろ強大であった。終戦後においては国会すなわち立法権が国権の最高機関になっておる。司法権というものは、決して英米のごとき司法国家、司法権優越性の国でない。それをば、日本最高裁判所の形だけを持ってきた。そこに大へんなギャップがあるのでありまして、せっかくの憲法八十一条による法令審査権も、言葉はあまりよくないのですが、結局現在の最高裁判所には振り回し切れないというのが実相であります。この構造だけでは憲法裁判所になっておりますが、憲法裁判所として実をあげさせるがためには、民事刑事上告事件というものがもっと下級審で片がついて、もっと裁判官諸子が憲法問題に沈潜して判断し得る余裕を与えなければならぬ。ところが、日本最高裁判所はどうでありますか。ちょうだいいたしました資料によると、昭和三十年度における最高裁判所の処理事件は、民事刑事合せて七千四百九十件であります。一人当り四百件ないし五百件。これは重労働であります。このような重労働で国の重大事件たる憲法問題を扱うことが果してできるかできないか。できっこないのであります。そこに問題がある。また、民事刑事上告事件を扱おうとしたって扱えない。結局調査官を使わざるを得ない。これが実相なのであります。このような組織の最高裁判所ではとうてい車が回り切れないということは、はなはだ口はばったいのでありますが、昭和二十二年最高裁判所実施以前からわれわれはこれを予言いたしておるのであります。でありまするから、この最高裁判所機構改革というものは、この法律案の提案趣意説明書によると、昭和二十六年からとありますが、実は昭和二十四年から、最高裁判所が設けられた翌々年からもらすでにこの機構改革案に関連する問題が取り上げられておるのであります。  そういうようなこまかいことは今ここでは申し上げませんが、本日お答えするに必要なる程度で申し上げますと、昭和二十四年に法制審議会において一つ答申をいたしたのでございます。それは、要するに、最高裁判所事件の処理範囲は、これは限定しなければならぬ。とうてい車が回りっこない。だが、最高裁判所で取り扱わない法令違反について上訴を取り扱う特別の法律審を設ける。いわゆる下級上告裁判所を設けたらよろしいということをすでに昭和二十四年に法制審議会から答申をいたしておるのであります。ところが、これはいろいろないきさつがありまして、最高裁判所の方の上告審範囲をば限定するという方だけは御採用になって、下級法律審という方は削られちゃったのです。これが御案内のように昭和二十五年の上告制限特例法であります。最初は民事訴訟法の三戸九十四条で上告制限をしようとした。これは、当時私もこの公聴会に参上いたしまして、その不可なるゆえんをるる御説明を申し上げました。当時の国会ではこれをば恒久立法にすべからずというので、上告制限の方は当分やむを得ないというので、二年間の限時立法にしたというのがこのいきさつであります。そらして、御当局としては、この上告事件特例法の有効である期間に、何とかして民訴制度――刑事訴訟制度はすでに昭和二十三年の改正でおそろしく上告を制限されております。それに右へならえをして民事事件上告を制限するような行き方に持っていきたいので、いろいろ御苦労になったようでありますが、われわれとしては、これは絶対反対をいたしました。中には、刑事訴訟が上告制限をしておるのだから、民事訴訟も制限するのは当りまえじゃないかというような御議論もあったのですが、これはわれわれどこまでも反対の意見を通しました。国会の方でも、この上告制限特例法は四年をもって失効せられた。そこで、民事訴訟におきましては、もはやこれ以上上告制限ができないということになった。刑事訴訟の方も上告制限を緩和せよという勢いがある。そこで、昭和二十九年九月に、最高裁判所みずから自己の機構改革の案を御発表になった。私に言わせるならば、昭和二十四年からすでに五年を経過しております。五年間というものは、最高裁判所機構もしくはそれに関連する機構の改革よりは、上告制限、これによって最高裁判所の負担を軽減させようという御努力で費しておる。万やむを得ずして最高裁判所機構改革ということになりましても、これはどれという証拠を申し上げるのではありませんが、法制審議会において、あるいはその他の各会議、その他の経過から見て、最高裁判所の現状をなるべく動かさないでいかにしてこれが改革できるかということが、どうも御中心のように見える。だからこれが三年ももめたと私は考えております。決して法曹が理屈倒れで三年間経過しておったのではない。なるべく最高裁判所の現在の形を動かさないで何とか新しい改革案を見つけよう。そこで、各種の妥協に妥協を重ねてこれが三年間経過してきたと思う。  そういうような経過でできたのでありまするから、この案は至るところに矛盾がある。これは当りまえの話であります。ことに、最高裁判所のあり方、機構を決定するには、下級裁判所の構造と密接な関係を持っておるのでありまするが、今回の御案は、下級裁判所の方にはちっとも手をお触れになっておらない。それですから、その意味においても、まことに至るところ不徹底である。結局、最高裁判所を何とかしなければならない。そこで、御案内の上らに拡大案と縮小案とあるのでありまして、今回ここに現われております案は、いわゆる縮小案であることは各位が十分御案内のことであります。後ほど御質問がございましたならば、拡大案――先ほど小野博士は拡大案の方を御推薦のように、はたから承おりました。私は、この拡大案は採用しがたいのである、こう考えております。これは後ほど御質問がございましたら私の所見を申し上げますが、結局この縮小案にいかざるを得ない。  縮小案のねらうところは何かというと、結局、憲法裁判所的機能を悩む裁判機関と、民事刑事上告裁判所と、これを二つに分けるということがねらいになるのである。そうすると、現在までの最高裁判所がいわゆる大法廷という名前でもっぱら憲法裁判所的機能を営む、小法廷民事刑事終審上告裁判所たるの機能を覚ましめる、こういう御案になるのであります。そうしますと、一体小法廷というものは最高裁判所の一部であるのか、一部でないのかという疑問が当然ここに起ってくるのであります。ついに国会に現われませんでしたが、昨年の要綱は、確かに小法廷をば最高裁判所の一部にするということが歴々として現われております。この一年間の経過で、今回のこの法案を拝見いたしますると、一応小法廷下級裁判所であるということが現われておるように思いまするが、しかしながら、それまた不徹底であります。この不徹底なところに今回の法案の妥協案たる性格が入っておるのでありまして、結局、拡大案と縮小案、これのねらうところは同じであります。要するに、上告裁判所の機能をばどうして充実するかということであります。この拡張案と縮小案とが合体したのが今度の改正法案とも言える。こういうことをまず頭に置いてこの法案を見る必要があるのではないか。結局、妥協案でありまするから、至るところ論理的な矛盾があります。その矛盾をば一体どう解釈するか。これは、結局、民事刑事上告裁判所最高裁判所の一部と見るか見ないか、こういうことにとどのつまりは切り詰められるの、であります。この案は一応小法廷をば憲法上の最高裁判所から除外しておる。除外しておるということは、結局下級裁判所ということになるわけであります。そういう御案のように考えます。  さて、そう考えますると、一番の、小法廷性格いかん、(イ)国法上の独自の下級裁判所であるか、こうありまするが、これは国法――憲法上まさに最高裁判所の一部ではない。最高裁判所であるがためには、憲法八十一条によって終審としての憲法審査権を持たなければなりません。今回の改正案によれば、そういう点がすべて省略されて、大法廷の権限とされております。でありまするから、これは憲法上の最高裁判所ではないことは明らかであります。ただ、民事刑事については上告終審裁判所に対する御案のように見ます。実は、この件は法制審議会民事訴訟部会でも出ましたが、私は、小法廷憲法上の下級裁判所であり、裁判所法上の終審裁判所、言葉をかえて言えば最高裁判所というふうにでも理解すべきでありましょうかということを発言したことがあります。と同時に、昨年読売新聞にこの件を問われて書きまして、これはこちらの参考資料の七百二十一ページ以下にございまするが、この小法廷は、結局、私の見るところでは、憲法上の下級裁判所裁判所法上の上告終審裁判所、言葉をかえて言えば最高裁判所ということになると私は思います。これははなはだもってあいまいじゃないか、けしからぬじゃないかと言いまするが、そこが妥協案でありまして、こうでもしなければ今回の改正案はできなかったろうと思います。ただ、それをば、一部は最高裁判所の一部を見ようとする案、一部はそうでないとする案でありまして、いわば、よく学生に言うのでありまするが、水一升と酒一升であった場合に、酒っぽい水と見るか、水っぽい酒と見るか、同じでありまして、これは、私の立場から言うと、今申したように私は割り切って考えておるのであります。また、この改正法律案をば国会で御承認なり御可決になる場合には、どうもその辺の解釈で御満足願うほかないんじゃないか、こう思うのであります。  でありまするから、小法廷民事刑事事件については終審上告裁判所ということになるわけであります。でありまするから、この法案を拝見いたしましても、第十条の四項に、小法廷裁判に対しては憲法問題に関連することを理由とする場合大法廷に異議の申し立てができるということになっている。すなわち、あえて何度の上告とは言っておらぬ。この辺に終審裁判所とするお考えが現われていることと私は考え、またそれでよろしいのではないかというのが私の考えであります。この点を、(ロ)の、審級をいかに考えるか、ということに対するお答えといたします。  次に、(ハ)の、小法廷から司法行政権の重要部分を奪うことの可否いかん。これは、私は、悪いことだ、こう思っております。小法廷下級裁判所である限りにおいては、当然司法行政権を持たせなければならぬ。裁判権と司法行政権とは切っても切れない縁があるのであります。現在の最高裁、将来大法廷となるそのものについての現存情勢温存の考え方がこういうところにもあるんじゃないか。私は、これは、小法廷をば国会において下級裁判所なりとお考えのしは、当然小法廷に独自な司法行政権を与えるべきであろうと思うのであります。  第二の、上告理由は民訴と刑訴と異なってよいか。これは異なるべきではないと私は確信いたしております。ただ、刑訴は、昭和二十三年の改正のときにいろいろな事情もあったのでありますが、上告がおそろしく制限されて参りました。憲法抵触と判例違反、この二つがある。上告を制限するなら当然控訴審も制限しなければならぬ。そこで、控訴審というものが、いわゆる事後審、法律審なるがごとく、事実審なるがごとき、あいまいなものになっております。この控訴審を制限したということが、どうも私は日本裁判をば国民から遊離さした根本の問題ではないか。先ほど神近委員からいろいろ御質問があった。これはいろいろの面から見られるでしょうが、制度論から言いますると、上告を制限した、従って控訴を制限した、控訴審でもって、被告人を呼び出さないで、一審の刑を直す、これは法律論としては一向おかしくないでしょうが、国民感情が納得いたしません。私、法学者としてもそう考えております。弁護士会方面で上告を拡大せよという御決議が出ております。上告理由刑事においては判決に影響を及ぼすことが明らかな法令違反あること、これを上告理由にせよ、こら出ております。これはいわゆる民事訴訟と同じようにせよということであります。上告を拡大するなら当然控訴審も拡大しなければならぬ。民事訴訟は、御案内のように、控訴審では続審主義というものをとっております。控訴審ではさらに事実の点も取り調べ、法律問題もとより取り調べる、そうして一審判決について再度の公判をする。これはもとより口頭弁論を開き、刑事ならもとより被告人を呼び出すでしょう。そうして二度事実問題を扱ったから、最後は第三審は法律問題を扱う、こういう建前であります。刑事においては控訴審を制限し、上告審を制限しておる。これで国民が納得しておると思われるのは、これは、私の著書にあちこちに書いておりますが、いわゆる権威思想の過剰というのであります。オートリテート・ゲダンケの過剰であります。この辺に先ほど公述人の御不満をお述べになった根本の原因がある。しかし、これに対して最高裁判所側の出す意見として、附帯要望事項として、第二に、刑事控訴審の構造を続審または覆審としないこと、こう書いてある。従来の制度がいいとしてある。こういうお考えをお持ちになることそれ自身が、先ほど公述人各位がお述べになった御不満の根本原因です。旧旧刑訴は、いわゆる覆審主義をとっておる。一審で裁判し、控訴しますと、もう一ぺん全部審理し直したものである。しかしながら、それは、予審などというものがありまして、額面通りには行われおりませんが、少くとも制度としては、一審で裁判して控訴すれば新規まき直しというのが建前であり、そうして、上告法令違反、なお間に合わなければ大審院において事実審理ができた、こういう制度であった。これが一朝にして昭和二十三年の改正でおそろしく上告を制限した。控訴を制限した。これも、一審の審理が充足しておるなら、これはよろしい。その一審の審理が国民の納得のいくところまでいっておるなら、これはよろしい。ところが、必ずしも納得しておらないでしょう。と同時に、訴訟制度というものは常にその国の民度に従わなければならぬ。学者の理論で作り上げるべきではない。裁判所のお立場のみで御解決きるべきではない。だが、日本では、裁判所訴訟法学などが多くありまして、われわれのような当事者訴訟法学というものはきわめて少い。この辺、刑事上告は今回の御案によると若干御拡大のようであります。これは私の専門でありませんから、そういうことを公述いたすことはいいか悪いか存じませんが、一国の訴訟制度という建前から、刑事上告範囲はさらにさらに拡大する必要がある、私はこう思います。  それから、第三、上告理由としての判例違反の存在理由ないし価値いかんであります。これは、刑事訴訟法上告を縛る、制限する、その場合、憲法違反、もう一つ判例抵触、こういうことであります。憲法違反のほかはこの判例抵触が唯一の上告理由であります。結局過去の判例に永久に縛られるということになる。実は、この制限をば民事訴訟法の中にお持ち込みになろうという御案もしばしばわれわれは耳にしたのですが、これはわれわれ絶対反対をいたしました。刑訴では判例違反のみを上告理由としておる。判例に従っておる限りは、みな上告ができない。過去の裁判というものにくぎづけにされてしまう。幸いにして民事訴訟法においてはこういうものが上告理由になりませんでした。判例違反上告理由とするなら、判例に抵触しないとの意見もまた上告理由としてしかるべきだと思う。そうなれば、結局、弁護士会の言うごとく、判決に影響を及ぼすことが明らかな法令違反主張はすべて上告理由としていいではないか、こういう結論に到達するわけです。そのように上告理由を広めれば、判例違反というものは上告理由に特にあげる必要はない。なくても、当然、判例違反しておれば、判例の本質論からしても、また法令違反の法理的分析からしても、当然これは上告理由に入ると思います。  第四審、異議の申し立てが上訴(上告)と違うものだとするならば、その理由いかんということですが、これは先ほど申し上げましたように妥協案であります。異議の申し立て、これは実質的において上告であります。ただ、小法廷判決に再度の上告としたのでは、弁護士会方面の御反対が強い。と同時に、小法廷をば最高裁判所の一部なるがごとくに見せるには、上告としては工合が悪い。すなわち、先ほど申し上げました第十条第四項であります。これは実質的において上告であります。しかし、なぜしからば上告なら上告とはっきり書かないか。この点は私はあえて責める必要はないので、何も不服申し立ての方法は上訴だけではありません。再審の訴えがある。刑訴においては非常上告がある。現在刑訴の四百五十四条にある非常上告は検事総長だけしか持っておりませんが、これは当事者のための非常上告考えればいいわけであります。これは異議の申し立てというような新しい実質的な上告制度を設ける。これもあながち非難すべき理由もない。むしろこの辺にこの法案の起草者の御苦心があった、こういうふうに私は考えるのです。  それから、六番目の、上告のあて名人は最高裁判所であるか最高裁判所小法廷であるか。これはまことにあいまいきわまっております。だが、私は、この国会において小法廷をば下級裁判所なりというふう性格を御規定になるならば、上告のあて名人は当然最高裁判所小法廷とすべきでありましょう。この改正法案の八条の二に、最高裁判所小法廷はこれを最高裁判所に置くとありますが、これはまことにあいまいな言葉であって、最高裁判所に撒くのだから、最高裁判所の一部なんだ、こういうようににおわせるかもしれませんが、小法廷最高裁判所の一部にあるのだということになれば、これは単に置く場所をきめただけのことになる。だから、あるいは、この見出しが単に「(最高裁判所小法廷)」とありますが、最高裁判所の小法廷の所存とでも特にお入れになれば、この点ははっきりするのじゃないか、こういうふうに思います。  それから、第七番、憲法違反主張とその他の法令違反主張を含む上告事件はどこで扱うかという問題であります。この案を見ますと、八条の三の三項によって、当然小法廷の権限には属しない、こう思います。やはり事件は全体として見るべきである。事件の一部に憲法違反上告理由があれば全部大法廷に回すべきであろう、私はそういうふうに考えます。そうすると、どんな事件でも、いろいろ理屈をくっつければ必ず憲法違反に持っていけます。これも当分の間であって、同じようなカテゴリーの憲法違反、大体理由なしということで棄却される判例ができれば、そう大法廷にも回らないでしょうが、当座の間は、いろいろ憲法違反理由を探して持ち込むと、全部がこの八条の三の三項によって大法廷の方に行くということになる。そうなると、あるいは藤田最高裁判所判事が言われたように、今度の改正法を実施したって、最高裁判所法廷になりますが、この方の事件は一向減らないだろう、こういうふうに仰せられます。これは、ものの考えようで、現在のごとく最高裁判所の審理が遅延しておるならば、当然訴訟を引っぱる方が上告人としては有利です。これは何でもかんでもみんな憲法違反に持っていって、最高裁判所に持っていくでしょう。しかし、最高裁判所がもう少し能率を上げててきぱき片をつけるなら、そんなにこの憲法違反に名をかりて大法廷の方に回してもらおうとする者はないでありましょう。ことに、十条の第五項で、異議の申し立ては裁判の確定を妨げない、執行を停止しないというのでありますから、これは、最高裁判所法廷がしっかり御勉強になれば、藤田氏の言われたような弊害も起らないことと私は思うのであります。しかしながら、これはあるいは望むべくして行われがたいのかもしれない。そこで、私は、昨年同じく読売新聞に中間移送制を設けよという案を公表したことがございます。というのは、小法廷上告いたします。そのうちに憲法違反上告論者が現われたら、その点だけを切り離して最高裁判所法廷の方に移す。どうせその点の憲法違反なりやいなやということは抽象的にも多くの場合は解決できるから、そういう中間移送制を設けて、最高裁判所意見を決定すれば、それに基いてさらに民事刑事裁判をば小法廷が続行して判決を言い渡す方法はどうかという意見を公表したことがございます。これまた、先ほど申し上げました資料の七百二十一ページにございますが、私がこのヒントを得ましたのは一昨々年であります。ドイツに参りました際、同じくこちらの法務委員会からの御委嘱がございまして、ドイツの憲法裁判所制度をいろいろ調べて参りました。向うでそういう中間移送制をとっております。ただ、少し事情が違いますが、それが日本に行われたならば、大法廷の方にあまり事件が輻湊するということもないで済むだろうという記事でありますが、今の中間移送につきましては、同じくこの資料の四百二十九ページ以下に掲げてございます。以上が八番のお答えになったかと思います。  それから、最後、九番でございますが、これは結局異議の申し立てが実効性を持つか、最高裁判所がこの提議の申し立てについて十分審理するかどらか。これは結局において最高裁判所の心がまえの問題でありますが、私は、日本最高裁判所があまりに憲法違反の問題をば憲法違反なりという判決はすべきでないと思っております。統計によると二百三十一件の憲法違反判決があるようでありますが、あれは中を洗ってみれば、たしか政令第三百二十五号、それからももう一つ勅令第三百十一号、あの占領下における政令、勅令は講和条約成立後百八十日間効力を持っておったということの事件であります。より分けてみればわずか二つの問題にすぎない。私は、日本憲法裁判所の現在の機構と権限として、そうむやみに憲法違反裁判をされては困る。またできない、この点は最高裁判所が十分御自分の能力の限界を御存じで、予備隊違憲事件についても、あのような、われわれ訴訟学者が見ればおかしな理屈でありますが、とにかく本案審理に入っておられない。この辺から見れば、結局最高裁判所憲法裁判所じゃない。しからば憲法裁判所の機能を営むか、これもまたなるべく営まないでおるし、またあまり憎まれても困ると私は思うのであります。そういうことになりますと、この縮小案というものは一体どういうことになるか。とどのつまり、最高裁判所は、実質的にはあまり多く起らないであろうところの憲法事件だけを取り扱う裁判所、あまり重大な働きは――仕事は重大であるが、事件は少い。いわば盲腸的な存在になるのじゃないか。この案をおとりになる限り、将来最高裁判所は漸次縮小せられ、最後においてはオーストリアにおけるがごとく非常置の憲法裁判所でいいのじゃないか。これは将来当然憲法改正のときに生ずる問題でありましょう。この縮小案の方向は、当然憲法改正につながる、最高裁判所上告裁判所の根本的改革ということにつながる案である、こら考えます。憲法改正は現在なかなか困難であります。ですから、暫定的な案としてはこの案をとるほかはない。そうしますと、今のここの御質問にありますような小法廷性格というものはまことに明白でございませんが、これは、ただいま申し上げましたように、私としては小法廷下級裁判所なりと考えております。この辺は国会の御良識でこの最高裁判所性格を明確にせられ、それから、希望といたしましては、将来ほんとうに機能を営むのは小法廷でありますので、この方をいよいよ拡大されて、十二分に民事刑事上告事件を扱う。上告を制限して裁判所の能力にマッチさせようというのは、私は根本的に違っておると考える。日本裁判官が九千万の人口に対してわずか二千人。西ドイツは人口五千万弱で裁判官の数が約九千人あると私は見ております。これもこの前法務委員会で申し上げたのでありますが、上告制限だ、上訴が多ければ乱上訴だということを言う前に、もっとそういう控訴、上告の道を広げるように、すなわち下級裁判所の充実に向う必要があるのではないか。この辺も一つどうか国会の御良識ある御処置によって、下級審をもっと拡大していく、上告は制限しない、そして小法廷をさらに拡大する方向におもむいていただきたい。これは御質問の要項の範囲外でありまするが、ちょっとつけ加えさしていただきました。  しからば、そういう疑問の多いものならば、拡大案をとっていったらいいではないかというお考えもございましょうが、私は、この拡大案についてはいろいろな差しさわりがあり、この拡大案がうまくいくならば憲法改正につながらざる現状をば肯定した案になりますが、これは、今ここで拡大しても、いずれ早晩また問題が起る。私は、その意味において拡大案をとらないということを申し上げまして、一応御質問に対するお答えにさしていただきます。
  97. 三田村武夫

    三田委員長 次に金森公述人の御意見を承わります。  金森公述人に対しましては、一つ憲法学者として、憲法八十一条の解釈に触れながら本案に対する忌憚のない御意見、第二点といたしましては、憲法八十一条の違憲審査権については七十九条に基きワンベンチ論を唱える者もあるが、その当否についての御意見、第三点といたしまして、最高裁判所が小合議体に分れて、ある小合議体民事事件、その他の合議体刑事事件、あるいは違憲審査を取り扱うというふうに、最高裁判所の職分を分担するようにすることは憲法違反となるかどらか、以上の三点についての御意見を伺いたいと思います。
  98. 金森徳次郎

    ○金森公述人 金森でございます。ただいまは国立国会図書館長をいたしております。  私は、この問題につきましては、あまり消息を知っていなかったのでありまして、ただ、今日現われました論点だけに注目いたしまして、あまり前後の知識なくして申し上げるのでございます。  そこで、問題の第一といたしまして、憲法八十一条の解釈ということに触れるのでありますが、これはもちろん国法のことでございまするから、言葉の示すところだけをもとにいたしまして、あとは自由にそのときどきの立法手段によって中身を作っていくということができようかと思います。ただ、私どもがこの憲法のできまするときに考えておった着想は、最高裁判所は何も憲法違反の疑いある法律、政令等を審査するということに落胆をしておったわけではございません。三権分立ということを日本の新しい制度の中に織り入れて、どこも無理をしないで、しかもよき司法生活ができるようにする、こういう着想でございましたので、平たく申しますれば、いわゆる憲法裁判所ということは、ある一つの特性を言っただけでございまして、全体の性質ではない、こういうつもりでございました。根本の着想は、立法司法行政と三つに分ける、分けるが、その間には相当の抵触が起るに相違ないというときに、どうしてその抵触を最小限度に縮めることができるか、こういうところが根本の問題でございました。従って、どうしても憲法審査権というものはどこかに何らかの形で必要があるけれども、しかし、それはむしろ例外的現象で、憲法はとうとき規定であることはもちろんでありますけれども憲法ばかりがとうといわけではない。われわれの実際生活におきましては普通の法律問題の方がかなり重要なことがあろうかと思いますので、ごく広い意味をもって、何でもかでもの裁判所であり、しこうしてその裁判所では終審として憲法違反に関する諸問題を取り扱う、こういうふうにきめたつもりでございました。従って、下級裁判所とても、何も憲法違反の問題を扱い得ないというわけではないので、裁判所というものは憲法違反の問題を扱い得るものであるということ。つまり、法律等が出てきますると、裁判所法律のもとにのみ立つのであって、法律の越憲性を批判してはならぬという学説が古くからあり、また日本なんかも大体その系統にのっとっておりましたので、新しき制度は、そうではない、法律といえども憲法と抵触する場合には審査し得るということを眼目に立てまして、そうしてそこに最後の締めくくりをするものは最高裁判所であるというふうにしたわけでございます。ところが、どういうものか、この時代の変化に伴いまして、憲法違反法律審査するのが最高裁判所のほとんど唯一の権能であるがごとくに扱われてきましたが、それが悪いというわけでもないでございましょう。憲法はそんなにはっきり書いておりません。しかし、日本の三権分立の原理の上から言えば、多少無理があるようである。大体、法律憲法というものを、社会的影響において特に区別して、憲法憲法だと言って騒ぎ立てまするのは、ことによると憲法ができたその瞬間的な時代的意識の流れに影響されておるのではないかと、こういうような気持を持っております。そこで、ここではっきり言えますることは、今回の改正案が、もし最高裁判所は実際的に憲法違反事件審査することに重点を置いて、そのほかのことは非常に例外的現象にする、こういう考えであるならば、私は多少いろいろの欠点がある、それからまたいろいろな弊害も起ってくるのではないかと予想をしております。ただしこの場合はそのくらいにとどめます。  そこで、与えられました第二の問題に触れます。最高裁判所についてはワンベンチ論を唱える者もあるがということが言われております。このワンベンチ論ということは、私あまり正確に存じておりませんけれども、最高裁判所は一体となって裁判をするものであるということであろうかと思います。十五人の裁判官がおるといたしますれば、それがまず一つの総合体となって一つ裁判をするのでございます。その一部分だけで勝手に裁判をするのではない、こういうふうな論であろうと思います。私は、原理としてまきにかくあるべきものと思っておるのであります。先の三権分立と申しますることにさかのぼりまして、行政内閣にある、立法は国会にある、そうして司法裁判所の職責であると言えば、そのおのおのの三つのものが一体となって働いておる、おのおの一体として働いておるということを意識しなければ説明のできない規定であります。内閣意思一つになって流れておる。国会の意思も、構造から来る一種の複雑性はございまするけれども、とにかくちゃんと一つのものとして活動しておる。同じように、最高裁判所一つのものとして活動しておるのである。最高裁判所の手だけ動いて、これが最高裁判所である、足だけ動いて最高裁判所であるとかいうことは、憲法のできた精神に顧みて、私どもには賛成できないわけでございます。ところが、現在の最高裁判所制度におきましては多少それと異なるきらいがございまして、小法廷というものは、ひとりである程度まで動けるようになっておるように思います。こういうことが果して正しいことであるかどうか、ここへ行きますといろんな疑問が起ってきまして、私どもにわかにこれが憲法違反であるという結論は出しにくいのでありますが、しかし、大体ごらんになってもわかりまするように、内閣は一体である。時あっては変態を起します。たとえば若干の人が死んでしまった。けれども内閣は動くのであります。そういう変態に応ずる処置はしておりますけれども、それが二つにも三つにも分れて活動するということはあり得ません。国会はまた憲法の定むるところに従って二つの院からできております。これは当りまえのことであります。しかし、それ以外におきましては、おのおの時の情勢に応じて多少の運用はあるにしても、一つの国会の意思あるいは一つの議院の意思というものが現われるような仕組みになっておるのであります。しかるに、最高裁判所だけは、いわゆる小法廷が独立して行動し、これに対して国家の司法権の働き、国家の司法権そのものを表わすものとして小法廷が動くということは、私どもの普通の考え方では了解しにくいのであります。ただ、しかし、法というものは作りつけのものじゃございませんので、いろいろほかの事情をも考え解釈し、それによって弊害なく動いていくという何か原理がございまするならば、ある程度考え直す余地はあろうと思いますけれども、今までは幸いにして多くの問題はなかったと思いまするが、今後この形でいけばおかしいであろう、どうしても過去の小法廷、新しくできまする小法廷というものも、その性質をはっきり見きわめてかからなければならない、こう思うのであります。よく、裁判所について、自分の組織を決定する権能がある、小法廷を作って小法廷だけでものが言える、こういうふうにきめてもいいじゃないか、こんな論も聞きます。あるいはまた、憲法の施行法、法律か何かでもってこの小法廷に完全なる活動の力を与えまして、これは最高裁判所できめたからと言っていいのじゃなかろうかという意見も成り立つ姿ではございまするけれども、しかし、すなおに考えてみますると、今日憲法の認むる最高裁判所というものは、いろいろな用心がしてあります。たとえば、裁判官国民審査を受けるとか、あるいは任命するときにもかくのごとき手段によるとか、退職の年令はどうであるとかいうふうになっておるところを考えましても、やはりこれがばらばらに動いて機能的に各機能は独立するということは、それは最高裁判所の本質をこわすものであるという気がいたします。砕いて申しますれば、内閣だってそういうものであって、農林大臣が動くというときに、まず主として農林大臣が動いて、それが内閣の行動としていくのでございましょう。法律に署名するときでも、内閣の関与して作った法律でも、ある主任大臣が署名するということもございまして、一種の部分活動というものは認めておりますけれども、しかし、こんなに裁判所ほど露骨に認めておるのじゃございませんで、やはりいろいろの秩序に従って、まず部分法とでも申しますか、一般法の秩序によってできる範囲においてのみ活動しておるように思います。そういたしますると、最高裁判所のみが大法廷、小法廷と二つに分れておのおの独自の立場をとることは、理屈において適法性の疑いがあると同時に、また、実際におきましても種々なる権限の混淆が起っておもしろくないという気がするのであります。  そこで、これをどうするかということになりましょうが、今までもいろいろの場合に議論が起っておりますように、私ども、小法廷というものは憲法上の最高裁判所ではないということをはっきり頭の中に置いて、それにふさわしき活動を認めるということが唯一の解決の道であろうと思います。しかし、それなら小法廷をやめてしまって全部大法廷でいくということは、これは理論的にはまことにさっぱりしておりまして気持がいいのでありますが、これも実行的にいろいろの故障があるのであります。だんだん最高裁判所が発展をいたしますれば、数十人の最高裁判所裁判官を置かなければならぬ。これに対して諸種の待遇その他をいたしますると、他の二権、内閣や国会とのつり合いもこわれることでありましょうし、いろいろ実行的にやりにくいと思います。従って小法廷というものを否認する意味ではございませんけれども、一つのうまい知恵ではあるけれども、最高裁判所そのものではないということをはっきりいろいろな形で表わしておきませんと、錯覚を起すようなふうに思われるのであります。出ておりまする案を拝見いたしますと、小法廷の性質が多少私どもには不明瞭なところがございます。たとえば、小法廷憲法に関する問題を自分で裁判をする場合がある。それは従来認められておる判例に従っていく場合である、こういうふうな規定がございます。従来のものに従らか従わないか、これは本来裁判所の自由でありまして、たまたま前に大法廷判例があるから、その線に沿ってやっていけば小法廷憲法の問題をさばいてもいいじゃないかということは、ことによると、憲法八十一条の「憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である。」という原理と衝突するのではなかろうか。なぜかと言えば、憲法問題の最後の決定は最高裁判所でやる、こういうことになっておりますから、最後まで行く機会がなくなってしまいまして、途中で憲法の問題を事実上確定せられてしまうということは、何か気になると思います。  次に第三の問題に移りまして、最高裁判所が幾つもの合議体に分れて、ある小合議体民事事件、その他の小合議体刑事事件、こういうふうに手足がばらばらになりまして、その手足そのものが自分で動く、こういうことが憲法上正しいか、こういうふうな問題でございますが、これはすでに先ほどその点については申しておきました。何かうまい工夫があって、全体が一つになる、つまり最後には一つの機能によって調節せられるというふうな工夫でもつけば、それは、ばらばらになりましても、やはり最高裁判所意思である、こういうふうに言えましょうけれども、普通の考えでいきますと、各独立体の意見をそのまま最高裁判所意見とすることは、裁判制度の性質に反するようであり、つまり、憲法と抵触することのようにしか考えられません。  そこで、次に、ほかに派生する問題でございますが、与えられましたこの法案によりますと、最高裁判所の大きいものは、これはもとより問題ございませんけれども、数人の人をもってできておるものは、何か最高裁判所という肩書きのついた官庁のようなものになっておるのであります。大体、いろいろな法律を見ましても、名前ということを尊重いたしまして、いろいろの組織体ができますと、その名前とまぎらわしいものを使ってはならぬというような法律があるのが普通でございます。この場合に性質が違うとすれば、小法廷と大法廷と全く根本的性質が違うというときに、類似の名前をもって――理屈は通りましょう。論理的には説明ができましょうが、社会的に見て、類似な名前をもってして、その背後にある一つの気持は、これでもって人々が一種の自発的錯覚に陥るのではなかろうか、こういうような気持を利用せんとすることは、一国の法律として、何も否認する意味ではございませんけれども、あまりかんばしくはないような感じがいたします。  以上、私の公述を終ります。
  99. 三田村武夫

    三田委員長 ありがとうございました。  次に石田公述人の御意見を伺います。  石田公述人には、下級裁判所すなわち第一審から見た本案上告機構制度に対する御意見、あわせて一審のあり方などにも触れて御所見を伺いたいと思います。
  100. 石田和外

    ○石田公述人 公述人としての私に与えられました課題は、下級裁判所、ことに第一審から見た本案上告機構制度に対する意見、あわせて一審のあり方についても述べよということでございます。  先ほど中村教授もちょっと触れられましたように、上告機構制度を論ずるに当りましては、まず第一に、その基盤であるところの下級裁判所との関連をゆるがせにすべからざるものと考えるのでございます。いわゆる審級制度全体の問題を切り離して、単に上告機構のみを考察するのは、あたかも、山頂のみを望見して、山ろく、山腹の状況を調査せずして登山計画を立てるにひとしいものと言わねばならないと思うのであります。今回当委員会における上告機構の御審議に際しまして、特に第一審裁判所側の意見を徴せられることに対しまして、まずもって深甚なる敬意と感謝の念を表明いたす次第であります。  さて、ただいまも申し述べましたように、いわゆる審級の制度を活用するためには、まずもって一審、二審、三審の各審級にはそれぞれ異なった任務を持たせ、第一審には第一審としての機能を十分に尽させ、控訴審には控訴審、さらに上告審には上告審としての機能を十分に尽させて、全体として適当な調和が保たれるようにしてこそ、初めてその効用を発揮し、国家の経済も保たれ、関係人の権利擁護の実も達成せられるのだと確信をいたします。もし第一審、二審、三審がいたずらに同様の手続を繰り返すようなことは、意味のないことと言わざるを得ないのであります。  さて、そこで、まず第一審裁判所のあり方でございますが、一審は言うまでもなくいわゆる事実審として、まず最初に事件の解決をするところであります。それには、まず第一に、民事にしろ刑事にしろ、事実の認定ががっちりとなさるべきでありまして、これが最も重要な先決問題で、これを基盤として初めて法律の適用が可能となり、刑事においてはさらに刑の量定がなされる次第であります。しかも、最前線にあって最も広い面において国民大衆と直接のつながりを持ちまして、もし第一審の裁判にして真に裁判官にその人を得、審理のよろしきを得、事実の認定、法律判断、刑の量定、みな肯繁に当り、当事者の満足、信頼をつなぐことができましたならば、控訴審も上告審もその存在の要がないのであります。民、刑事とも、第一審の重視せらるべきこと多言を要しないところでございますが、ことに刑事裁判におきましては、新憲法のもとでは、その構造と手続におきまして、基本的人権の擁護という新憲法の理想と直結することになりましたので、第一審が重要視されねばならぬということが特別の意味を持つことになったということに御留意を願いたいのでございます。  憲法に直結する新刑事訴訟法の指導理念の一つは、弁論主義の強化ということでございます。当事者主義、弁論主義という点からは、旧刑事訴訟法の手続も確かにさようでございました。判決は口頭弁論によらなければならないという大原則は、新旧刑事訴訟法ともほぼ同一の表現によって、旧刑事訴訟法の中にも規定がせられておったのであります。しかしながら、職権主義的色彩が強かったところの旧刑事訴訟法におきましては、それらの主義、原則は理論上のものにすぎなかった感があるのでございます。訴訟の実際は遠くこれから離れておると言ってもよいのでありまして、その手続のもとでは、被告人に当事者の一方たる地位を認めながらも、被告人尋問という一連の手続によりまして、自分の罪を負うということに奉仕する、自己の負罪に奉仕する役割を負わされておったのであります。検察官も、公判審理中はむしろ背後にひそんでしまって、論告の段階によって初めてその立場を顕現するにすぎなかったという感じがいたすのであります。捜査記録や証拠物は公訴提起と同時に裁判所に引き継がれて、公判の審理はあたかも捜査記録の再現であるかの観を呈しました。それでは裁判に対する公平感が減殺されると言わなければならないのでございます。新刑事訴訟法は、当事者主義を強調して、弁論主義を徹底させようとしたわけでございます。ここに弁論主義の徹底というのは、公判手続を捜査手続から全く切り離して解放することでございます。そうして、訴訟進行の原動力となるものは、両当事者の法廷における積極的な訴訟活動であり、判決基礎となるものは、法廷で相手方の反対尋問の吟味を受けた証人の証言が主でありまして、捜査書類が証拠となるのは、法が特に認める例外の場合に限られるのでございます。すなわち、当事者主義、弁論主義を強調した新法の手続では、裁判所は、旧法時代のように検察官の捜査の結果を引き継ぐものではなく、全く白紙の第三者の立場に立つのでございます。それでこそ公判中心の裁判であり、新しい刑事裁判法廷は捜査手続から解放された自立性のあるものとなるのであります。かくして、法廷の弁論は活発なものとなり、両当事者は裁判官の耳を通してその主張を尽し、如実にその心証に訴え、裁判官は、法廷での新鮮な印象に基き、かつ被告人の弁解を十分聞いて判断を下すことができ、従って、その裁判は公平なものとして国民の信頼をかち得ることができるものと信ずるものであります。ところが、かような当事者主義、弁論主義の強調は、勢い第一審の手続を複雑丁重なるものといたします。そらして、この一定量の手続は裁判の慎重さと公平さとを担保するために必要なものであります。この手続が十分に運用されれば、すなわち第一審の事実審理が充実されれば、往々にして問題となるような二重犯人や誤判の懸念もなくなるものと確信をいたします。過去八カ年の新刑事訴訟法運用の実績を虚心たんかいに反省いたしますときは、わが国の刑事法廷に概して右のような空気が不足していたと認めざるを得ないのであります。そらして、それは裁判ばかりでなく、検察官、弁護士をも含めての法曹実務家が、当事者主義、弁論主義の真の意味に徹底していなかったためだと考えます。最近全国的に展開されております第一審の充実強化の運動は、従来の運用の欠陥を自認して、これを打開して裁判を正しい軌道に乗せるためのものであります。以上一審のあり方を終ります。  次に、上告機構制度の問題でありますが、まず、上告審といえば、いろいろ論議されますように、観念の上では、憲法上に規定のある厳密な意味での最高裁判所と、そのほかに、憲法の制約のない、法律のみで規制できる裁判所法上の上告審とを区別して考察することが可能でございますが、厳密な意味最高裁判所については、私は憲法が付与したその高き使命、性格から見まして、当然、その任務すなわち審判の範囲は、憲法違反判例抵触、重要な法令解釈、この三点に限るべきだと思うのであります。この点は、私は、昭和二十九年九月最高裁判所が表明いたしました意見と同様の意見でございます。従って、法令違反一般最高裁判所に処理せしめる裁判官を増員せよという要望には絶対反対でございまして、現状が維持できないとすれば、むしろいわゆる最高裁判所裁判官減員論に賛成いたすものでございます。また、上告理由も、現状維持か、かりにその範囲を広げなければならぬとしても、最小限度にとどむべきであるという考え方でございます。一般法令違反を審理するために、厳密な意味最高裁判所のほかに、別に上告を取り扱う裁判機関を設けることという構想が最高裁判所小法廷という形で具現されたことはきわめて巧妙な立案であり、もし上告理由を相当程度拡張することがやむを得ないものといたしますならば、このほかに名案はなかろうと考えるものでございます。しかしながら、最高裁判所小法廷は、もちろん性質上下級裁判所でございまして、その構成員には下級裁判所裁判官の資格ある者、ことにその中で最上級の者何十名かを割当予定せねばならぬということになりますと、現在の実情、すなわち、現実には下級裁判所は人員不足で、ことに第一審裁判所判事は新しい制度出発以来いまだに欠員の完全な補充さえ満足にされぬこと、質的にも一そうの向上を期待せねばならぬこと、法曹一元の理想は唱えられるけれども、検察官、弁護士側ともに必ずしも補給源として頼むに足りないこと等に思い至りますならば、最高裁判所小法廷の創設はたちまちにして下級裁判所をいたく圧迫して、その人員配置に影響を及ぼし、端的に申しますならば、一審は現在以上の弱体化を招くことは必至であり、先刻来るる申し述べました第一審強化急務の要請には逆行もはなはだしいのであります。この点最も各位の深い御理解と御洞察を願いたいのであります。  改正案の機構改革は、実質的には控訴審の上に上告審として重複して法律審を設けようとするものであります。かつ、そのような機構のもとでは、将来控訴審が覆審に改められる危険がございます。すなわち、古い制度の復活のおそれがあるのであります。それは大陸法的な上訴制度への復活でございます。ところが、大陸的な上訴制度は、裁判官の林相的な法律技術をたんのうならしめることがあっても、決して裁判そのものの質を向上させるものではないのであります。そのような制度のもとでは、当然に第一審の事実審理を軽視する風潮を生み、第一審の裁判というものを訴訟の帰趨をトするための手段視する傾向を生ずるのであります。いわゆる古い時代から言われておりますところの第一審素通り主義でございます。そして、かような審級の積み重ねは乱上訴を誘発いたしまして裁判の遅延を来たすばかりでなく、果して当事者の実質的利益を保護するゆえんであるかも大いに疑わしいのであります。いたずらに審級の制度を積み重ねるより、第一審の裁判を名実ともに充実きせることが急務であり、第一審の裁判官の負担過重、庁舎その他法廷等の設備の不十分、人材を第一審に当てることの現状の困難等、急速に解決しなければならない問題がたくさんございます。今こそ、機構改革、審級制度の改正に投じようとする費用とエネルギーを第一審の充実に向けて、わが国裁判制度基礎を固めるべきだと考えるのであります。  現在旧制度に比べましていかに負担が過重しているかということを申し上げますと、第一審の受理件数は戦前の約二倍半、法廷における証人尋問は戦前の約三倍、それに対しまして、裁判官は戦前の約一・五倍という事情でございます。なるほど、国民は大審院時代の運営になれて、一審、二審、三審と審級を重ねるのは、もはや国民感情として抜きがたいところであるという議論があり、法律制度は現実から遊離したものであってはならないことはもちろんでございますが、ここで考えなければならないことは、何でも最高裁判所まで持ち込まねば承知できないという気持の中には、もとより真剣なものも少しとはいたしませんが、多くは単なる気休め的気分のものか、中には審級制度を逆用して訴訟の引き延ばしに利用しようという悪質なものも存することは顕著なところでございまして、これによって利益を害される側は、むしろかかる事態を怨嗟してはいないでしょうか。いわば、盲目的な現実や国民感情に引きずられてよいでありましょうか。むしろ真に裁判制度のあるべき姿を頭に描いて事を論ずべきでありまして、何でもかんでも最高裁刊所に持ち込まねは承知できないという感情からすれば、いかように機構を改めても、結局最高裁判所の大法廷にまで事件が殺到することになりはしないかと思うのであります。  いききか冗漫になりましたが、要するに、私の申し上げたいことは、法令違反に対してある程度上告の道を開くことも、ある観点からすれば確かに必要かもしれませんけれども、国民に広い幅において直接接触し、最も大切な第一審の審理を犠牲にしてまでも、さようなことをなすべきかどうかということでございます。この案の上告機構に対する私の意見は、以上述べましたことによってほぼ御賢察賜わったと存じますが、その重点を要約して申し上げますと、まず第一に、憲法のいわゆる最高裁判所は、憲法の所期するその高い使命、性格から見て、多人数にわたらぬことが望ましい。増員論には反対、現状維持もしくは減員に賛成でございます。次に、法令違反に対する上告理由の大幅拡張は反対、拡張するとしても、できるだけ差し控え、できれば現状維持。最高裁判所小法廷設置には反対、設置するとしても、できるだけ小規模にして、その人員はむしろ第一審増強へ振り向けるべきである。私の意見は、何よりもまず第一審の強化ということを先決に考えていただきたいのでございます。  上告機構の問題といたしましては、むしろ現状維持的な傾向の者でございまして、昭和三十一年一月三十日に法務省幹事案として出ました甲乙二案中、甲案に近い考え方でございます。しかしながら、実際論として、最高裁判所の当面の事件処理渋滞、裁判官の負担軽減の必要性という現実の問題として、現実の情勢から現状維持論が可能であるかという問題が残るのでございますが、私は必ずしも不可能とは考えないのでございます。その理由を個条的に申しますと、ともかく、最高裁判所は、出発以来今日まで約十年間、相当の実績をあげてきたこと。第二点は、昭和二十六年に最高裁判所事件が七千数百件を突破いたしましたけれども、自来漸減の傾向をたどって、現在は本年の三月末現在で四千四百六十五件という状態でございます。三、昭和二十六年に事件が激増いたしましたのは、特殊の事情が存在するもので、一時的な現象とも見られるのであります。四といたしまして、現在は四千四百件程度のものでありますが、このらち約三千件くらいは、これは、事件を受け付けましてから審決に至りますまでに、いずれもいかに短距離をとりましても四、五カ月はやむを得ない、結局常時存在するのはやむを得ないと考えるわけでございますから、今の情勢では約一千件足らずオーバーと認めます。五、民、刑とも、全国的に見て、戦後すでに十年を経過しております今日、ようやく事件の落ちつきを見せてきたこと。六、最高裁判所の人的構成が昨年末相当一新いたしましたこと。七、別途に裁判官の負担軽減の方法を考慮する余地があること。八、これは理論的ではございますが、一審強化充実の徹底に従いまして、漸次上訴事件の減少を期待すべきこと。九、一審強化の方途、必要によっては陪審制あるいは参審制の採用、あるいは裁判官の増強策、これは待遇問題等でございますが、むしろこれを検討すべきではないかというふうに考えます。  以上、私の一応の意見を終ります。
  101. 三田村武夫

    三田委員長 次に柳川公述人の御意見を伺います。  柳川公述人東京地方検察庁の検事正として第一線の検察活動の重要な地位にあられますので、地方検察庁の立場から見た本案に対する御意見、なお第一審のあり方等にも触れて御所見を伺いたいと思います。
  102. 柳川真文

    ○柳川公述人 東京地検の柳川でございます。  私は、第一線の検察官といたしまして、毎日生起する刑事事件の処理に文字通り追われておりますので、率直に申し上げて、今度の裁判所法等の改正問題については十分な研究をいたしておりません。いな、ほとんど研究をしていないと申してさしつかえないのであります。従って、私の申し上げる意見はきわめて粗雑、未熟でございますことを御了承願いたいと思います。  裁判所機構とか制度考えます場合に、その前提となるものは、その機構改正あるいは制度改正によって適正な裁判が得られるかどらかということと、裁判の迅速が得られるかどらか、この二点の調和ということを考えて立案をしなくてはならないと思うのであります。しかし、今度の裁判所法改正の原因は、現在の最高裁の負担過重、裁判遅延、これらを緩和することが主たるものとなっていると考えますし、また、われわれ第一線の検察官といたしましても、上告審裁判が迅速にくだり、これが迅速に確定するということを最も希望しておるのであります。判例の問題につきましても、また法令解釈の問題につきましても、それに対する裁判がすみやかに確定されなければ、われわれ第一線の検察官としては仕事をすることに非常に困るのであります。そういう裁判の迅速化ということが、われわれ第一線としては最も要望する点でありますので、その観点から申しますと、私は、今度の政府提出の改正案というものは大体においてよいのじゃないか、こう考える次第でございます。最高裁判所が、長官と八人の裁判官で構成して、憲法違反判例変更等の重要な事件のみを迅速に審理、裁判するということ、これはけっこうではないかと思います。三十人とか四十人の多数の裁判官の合議ということは、合議として非常に困る、十分な審理ができないばかりでなく、結論が非常におくれるというようなことは、最高裁判所裁判官各位が長い間の経験によって強く主張されておるのでありまして、私もさように考えるのであります。ただ、長官及び八人の裁判官という比較的少数の裁判では、何か片寄るような心配がありはせぬかということも一応考えられますが、これは今度の法案に盛られている最高裁判官の選考委員会というようなところで慎重にねられて、最高裁判所裁判官にふさわしい人を選んでいただければいいのではないかと思うのであります。  それから、三十人の最高裁判所附属と申しますか最高裁判所に置かれる小法廷判事一般上告事件を審判させるということも、今よりもより迅速に結論が得られるでありましょうし、また、この小法廷なるものは司法行政事務にほとんどわずらわされないような建前になっておることも、上告審の遅延を防ぐことに効果があると思うのであります。もちろん、今度の政府案を拝見いたしますると、一見すっきりしないものがございます。それは、何か小法廷というものが中二階的な存在でありまして、憲法上は下級裁判所としながら、外見上は最高裁判所小法廷と呼んでおりまするし、それから、司法行政も原則として最高裁判所の方に行わしめるというような複雑な建前になっておるので、すっきりしないのでありまするけれども、これもいわば感じの問題でありまして、大なる欠点とは言えないであろうと思うのであります。ただ、この政府案で、われわれ第一線の者が懸念いたしますのは、異議の申し立てに対する刑の執行停止の点でございます。この制度運用がうまく参りませんと、結局、改正された機構によっても、事実上の四審制ということになりまして、裁判の遅延を来たすことがあるのではないかと思うのでございます。もとより政府案も執行停止を特に必要な場合に限るような考え方で立てておられるのだろうと思いまするけれども、この点は裁判所の裁量行為でありますので、これがルールで適当に規制をされても裁判所考えで相当執行停止をひんぱんに行うということがあるかもしれない。この点がいささか不安を感ずるのでありまするけれども、この点につきましても、その前提になる異議というものが憲法問題に限られているので、その危険は案外少いのではないか、運用上十分に考慮されればよいのではないかと思う次第でございます。  なお、改正案には上告理由の拡張、つまり判決に影響を及ぼすことが明らかな法令違背があって原判決を破棄しなければ著しく正義に反するということを上告理由としておられるのでありますが、これを加えるということは若干審判の迅速の阻害を来たすということは言えるかもしれませんけれども、実際上は現在でも上告審が法令違背を相当審理の対象にしておりまするので、この拡張は大きな審理遅延を来たさないのではないか。また多少そういうことがありましても、それ以上にこの点の上告理由の拡張は従来から国民から叫ばれておる非常に要望の強い点でありますので、私はこの程度の上告理由の拡張は賛成いたしたいと思うのであります。  それから、問題に出ております検察庁から見た第一審のあり方ということでありますが、これを考えますときも、先ほど申し上げました通り、基本的の前提として、裁判の適正と裁判の迅速というものをいかに調和せしめるかといろ点を考えなければならないと思うのであります。現行の刑訴は、御承知の通り、第二審をもって事後審としておりまするので、事実審理は原則として第一審に限るということになっておりますので、第一審の比重が非常に重くなってきております。いわゆる第一審中心主義ということが叫ばれておるわけであります。そこで、従来から第一審の充実強化、先ほど石田所長が言われた通り、第一審の充実強化がだいぶ問題にされまして、昨年七月でしたか、最高裁の第一審強化対策要綱というものができまして、東京地裁におきましても、本年の二月からそれが実施に移されているのでありますが、その考え方の基礎は、現行の刑訴、つまり公判中心主義、直接審理主義、口頭弁論主義というような、現行刑訴の基本的な方針の忠実な実践ということになっているのであります。これはまことにけっこうなことでありまして、われわれもちろん異議はないのでありますけれども、他面、これが裁判の迅速化ということに障害になるおそれがなしとしないのであります。現に、この強化対策を採用した後、若干一審の処理能率が違っているように聞いております。しかし、これもやむを得ないことだと思いますが、第一審において審理遅延があっては非常に困りますので、これを補う、あるいはそれ以上、現在よりももっと迅速化させるにはどうしたらいいかということが問題になると思うのであります。われわれといたしましては、結局のところ、現在の第一審の判事の数を増して、合議部なり単独部をふやしていくということに帰着するのではないかと思うのであります。そこでまた、ただふやすにしても量だけをふやすのでなくして、有能にして老練な裁判官を一審に回すということが必要ではないかと思うのであります。有能老練な裁判官が一審に多数集まりますれば、事案の判断も早くできますし、また訴訟指揮も適切に行える、審理の迅速に非常に役立つと思うのでありますし、同時に、適正な裁判が下されるということは、当事者も満足して、従って上訴の数も減るという事態を招来すると思うのであります。しからば、この老練有能な裁判官を多数一審に集める方法はあるかということになりますと、これは非常に困難な問題にぶつかるわけであります。この点につきましては、前から言われております通り、有能な弁護士に来ていただくとか、あるいは高等裁判所とか最高裁判所調査官というようなところからりっぱな人を一審に出てもらうということくらいしか適当の方法が今のところないと思うのでありますが、この点は、裁判所に強くこの方法で推進していただくより仕方がないと思うのであります。  なお、一審の充実をはかるためには、あわせて検察官の負担が一審主義では非常に増してきますので、検察官の増員充実ということも決して忘れてはならない問題であるということをつけ加えまして、私の意見の陳述を終らしていただきます。
  103. 三田村武夫

    三田委員長 四公述人に対する質疑に移ります。御質疑はありませんか。池田清志君。
  104. 池田清志

    池田(清)委員 金森公述人お尋ねを申し上げます。  先生は、日本国憲法制定当時の担当大臣といたしまして御苦労をいただいたのでありまして、日本国憲法の趣旨とするところについてお詳しい方でございますが、私がお尋ねを申し上げたいと思いますのは、憲法八十一条によりまして、国の違憲審査権というものを実行するについていずれの機関でやらせるかということを解決し、すなわち裁判機関によってこの機能を発揮させようということを規定いたしておるわけであります。しこうして、最高裁判所がその中心の機関である、こういうことを言うておるわけであります。これを実行いたしますやり方といたしましては、今日まで憲法違反する法律等によって基本的人権が侵害せられたと思う個々の国民が、具体的事件として裁判所に提起するという手続をとっておるわけであります。もとより、憲法におきましては、憲法違反する法律等は無効であるということが明らかに規定をされておるのでありまして、憲法上当然に無効である法律によって基本的人権を侵害せられた者が、具体的事件として提訴する、こういうことに相なっておるわけであります。されば、裁判所判決におきましても、具体的事件の解決にとどまりまして、違法であるところの法律等の効力そのものの無効を確認して、これを広く天下に宣言するということにまで及んでいないように思うのでありますが、憲法八十一条といたしましては、いわゆる具体的の争いの事件としてこれを処理するのであるということになっていたのか、それともまた、法律等の抽象的な無効宣言についても、この最高裁判所最終的な裁判機関であるということを考えておったのか、どちらであるかを一つ明らかにしていただきたいと思います。
  105. 金森徳次郎

    ○金森公述人 ただいまお尋ねの点は、当時の考えといたしましては、私どもは、裁判所司法権を扱うものである、こういう前提をとりまして、司法権という言葉の意味はいろいろ狭くも広くもとれましょうが、やはり、当時の考えといたしまして、立法権にあらず、行政権にあらず、個々の事案について法律上の判断を加える、こういうふうに心得ておりましたので、そこで、今のお尋ねの点は、ただその訴えとなっておりますある特定の場合にその法律の適用を拒むというだけのことであります。いわば司法範囲においてのみその結果が出るのでありまして、それが一般の分野に及んでいって、法律そのものが無効になるというようなことは、当然には起らないという考えを持ちまして、そしてまた、当然に起らないのみならず、それをみだりにやらない方が妥当であるという考えを持っておったのであります。なぜかと申しますと、結局、立法司法行政の争いをきめるということは非常に困難なのでありまして、ある程度は根気よく常識的に動くというのがいいと思います。そこで、もしも裁判所法律の効力を否定するような絶対的な権能を認めますならば、裁判官が国の主権者になってしまう。国会があってもなきがごとく、裁判権のみが国の全部を解決するということになりますと、やはりそれは一つの弊害を伴うに相違ございませんので、そこまでは及ばないものと解釈して進行して参りました。
  106. 三田村武夫

    三田委員長 他に御質疑はございませんか。吉田賢一君。
  107. 吉田賢一

    ○吉田(賢)委員 私は、今後お尋ねする資料として、ちょっと気づきましたことを尋ねてみたいのですが、石田さんにお伺いいたしたい。  最高裁における事件の堆積の解決あるいは裁判官の負担の過重の問題を解決することは、あなたのお述べになりましたように、一つはやはり一審裁判所の充実ということが重点と思われます。あらゆる角度からあらゆる方法を講じて解決をするという考え方が一面必要でないかと思われます。その一つの現われとして、この改正案になって現われたものでないかと思うのであります。それならば、一審の充実問題につきましてどうすればいいかという対策の最後にお述べになりました裁判官の待遇の問題であります。私は、やはり、これは給与改善の問題としてすでに具体的な問題にはなっておりまするけれども、いずれにしましても、裁判官という特殊の知識と経験と技能及び最も高度な専門的な訓練を経た人を必要とするものでありますので、どんなに待遇をよくしても直ちに得られるものでない。しかし、いずれにしましても、ただ足りないから求める、弁護士の有能な者から連れてくるというような抽象的なことだけでは、これはぐるぐる回りして結局解決するときがないのではないかと思われます。また、裁判官の生活の実情、つまり私生活の面に入ってみましても、なかなかそのような仕事に進んでつくという人は少いのではないかという感じもいたします。そこで、もっと具体的に、しからばどうすればいいのであるか。待遇問題論ということになるかもしれませんが、具体的に一体どういう案をもって臨むならば、今日直ちに補充はできなくても、漸次そういう方面に志望する人がふえていくであろうか、あるいはまた、できるだけ早い機会にたんのうな人が訓練されていくであろうか、こういうような見通しを立てるためには、相当具体性のある案をいろいろの視野から立てて、そうして具体案を持っていわゆる待遇問題なるものを解決していかなければ、ただ待遇問題と言っておるだけでは、いつまでたちましても私は解決しないのじゃないかと思われます。それにつきまして、もう少しあなたのお考えになっております点をこの際御披露しておいていただきましたら、非常に私ども参考になると思います。
  108. 石田和外

    ○石田公述人 非常にありがたいお尋ねでございますが、実は、具体案になりますと、これといっていい名案がないのでございますが、とにかく、裁判官は資格が非常に厳密でございますから、給源と申しますか、ほかに求めますならば、検察官あるいは弁護士の方でございますが、ことに在野の弁護士側を給源として予定するほかに、さしあたりは道がないのでございます。それには、やはり給与の額を上げていただくこと、あるいは在野の弁護士から裁判官になられる方に恩給等の問題を特に御考慮願う、そういったことのほかに、要するに在野のお方が喜んで裁判官におなり下さるように、在野の優秀な方が喜んで裁判官になられるような方向でなければ、さしあたり名案とてないであろうと思います。
  109. 吉田賢一

    ○吉田(賢)委員 やはりそこへくると思いますが、在野の弁護士の優秀な者を今裁判官に迎えると言いましても、それは迎えると言うだけなんで、ほとんど来やしないと思う。優秀な人ということになるなら、おそらくは二十年も経験を経た人であり、また二十年以上も経験を経た弁護士で優秀であるということになれば、門前市をなすほど事件がくるのではないか。事件もなし、門前雀羅で優秀な人ということは、まあまああまりないのであります。そういうような人が裁判官になってほしいと言ったところが、それはなってほしいと言うだけで、実現性のないことであります。しかし、問題は現実の問題であります。現実の問題について解決をはかろうというのでありますから そこに相当思い切った――私は、待遇なら待遇でもいいと思います。待遇なら待遇をどうするのか、それはやはり相当具体的なものを裁判所側が持って臨むということでなければ、一審充実の問題も解決しないだろうと思います。あるいは今日優秀、たんのう、老練でなくても、漸次そういうふうに向ら人を迎えるというのであるならばどうすればいいのか、あるいはまた、ただ単に恩給だとか俸給だけじゃなしに、その他にも道がないか、こらいった面をいろいろと考えるのでなければ、ただ在野法曹で経験を積んでおる弁護士から求めると言ったところが、今のようなお考え方だけでは、おそらくは、東京にしましても大阪にしましても、その他地方の弁護士会におきましても、人は得られぬだろうと思います。もし得られたその人は、極端に言えば、もう老廃現象を呈して役に立たぬ、まあ裁判所にでも行って恩給にでもありついて、あまり世間のつき合いももらしなくてもいい、裁判官でもうじっとしておって尊敬でもされてというようなことがせめてもの望みの人がちらほら候補者として現われる。そういうものを求めておるのではない。一線におりまして激しく弁護の仕事に携わって、そうしてはつらつとした将来のあるような人がほしいのでしょうから、それを抜いていくというのなら、もっと大胆な案を持って臨まなければいかぬです。それから、もう一つは、そうでない方面の、在野法曹でない方面におきまして人を求める道はないのかどらか。あるいは学生等におきまして、現在学校におきまして研究課程にある人の将来をそういった方へ強く誘引する道はないのであるかどうか、こらいった点につきましても、裁判官的な立場から視野狭く象牙の塔の中におりまして世間を見るようなそういう格好でなしに、やはり複雑な世の中で活躍し、また将来も活躍せんとしていろいろと研さんしておるようなあらゆる面に向って人を求める、また受け入れの態勢を整える、こらいったことをやはり雄大に計画していくというのでなければ、一審充実なんて絵にかいたもちに終ってしまうと思うのです。それならば、私は、この命題にこたえるべき、あなたの念願なさっておるようなそういう趣旨は達成されないのじゃないか、こういうふうに思います。せっかくこれはある一つの解決案でありますから、この問題の処理案のある一面を主張しておられるのでありますし、そしてまた、これは柳川検事正におきましても大体同趣旨のようでありますし、この法律案の提案されるよって来たるところが、あなたのようなそういうお考え方もこれの解決案の一つに違いないのでありますから、そういう意味におきまして、何かもっと現異性のある、ある内容を持った案をお出しにならぬと、それをだれか人にしてもらうというのでは、私はいかぬと思います。これは全国の裁判官が一本になって案をお立てになったらいいと思う。それだけの案が立たぬというのでは世間知らずということであります。世間知らずというのでは、魚がほしいほしいと言っておるけれども、魚はあるのだろうが、しかし、それはほしいほしいと丘で言っておるだけで、ちゃんと食いついてこない。これでは情ないと思います。これは実際問題で討論会ではないのですから、私は切に現実案を提示されんことを御希望申し上げます。別に何もえらい責任を持ったわけではありません。試案でもいいと思いますから、できますならば当委員会に、われわれの審議の参考に、もっと具体性を持った内容のものを何とか御提示下さいましたら、非常に仕合せと思います。御希望申し上げておきます。
  110. 石田和外

    ○石田公述人 御説ごもっともでございますが、これは裁判所側だけに課せられた問題ではないので、在野側も、国会側も、皆さんがそれをお考え下さらなければ達成できない問題でございます。われわれも十分考えることにいたします。
  111. 三田村武夫

    三田委員長 他に御質疑はございませんか。――なければ、本日の公聴会はこの程度にとどめます。  この際一言委員長より公述人各位にお礼を申し上げます。長時間にわたり熱心に御意見をお述べいただきまして、ありがとうございました。今後の委員会審査に十分参考にいたして参りたいと存じます。  それでは、本日はこれをもって散会いたします。次会は公報をもってお知らせいたします。    午後五時三十六分散会