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1957-04-10 第26回国会 衆議院 法務委員会公聴会 第2号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和三十二年四月十日(水曜日)    午前十時三十九分開議  出席委員    委員長 三田村武夫君    理事 池田 清志君 理事 椎名  隆君    理事 長井  源君 理事 横井 太郎君    理事 猪俣 浩三君 理事 菊地養之輔君       犬養  健君    小島 徹三君       高橋 禎一君    花村 四郎君       古島 義英君    松永  東君       山口 好一君    横川 重次君       神近 市子君    佐竹 晴記君       田中幾三郎君    古屋 貞雄君       吉田 賢一君  出席国務大臣         法 務 大 臣 中村 梅吉君  出席政府委員         検     事         (法制局第二部         長)      野木 新一君         検     事         (大臣官房調査         課長)     位野木益雄君  出席公述人         法務省特別顧問 岩松 三郎君         検 事 総 長 佐藤 藤佐君         朝日新聞論説委         員       野村 正男君         日本曹達社長  大和田悌二君         慶応義塾大学教         授       峯村 光郎君         東京都立大学教         授       戒能 通孝君         弁  護  士 岡  辨良君         日本労働組合総         評議会議長   原口 幸隆君         東京新聞論説委         員       及川六三四君  委員外出席者         判     事         (最高裁判所事         務総局総務局         長)      關根 小郷君         専  門  員 小木 貞一君     ――――――――――――― 本日の公聴会で聞いた案件  裁判所法等の一部を改正する法律案内閣提出  第八九号)     ―――――――――――――
  2. 三田村武夫

    ○三田村委員長 これより裁判所法等の一部を改正する法律案につき法務委員会公聴会を開きます。  本日午前御出席公述人は、岩松三郎君、佐藤藤佐君、野村正男君、大和田悌二君の四名の方々でございます。  この際公述人の皆さんに一言ごあいさつを申し上げます、本日は御多忙中にもかかわらず当委員会公述人として御出店下さいましたことにつきましては、委員一同を代表いたしまして厚く御礼を申し上げます。公述人におかれましては、最高裁判所の機構改革問題につきまして、それぞれの立場から忌憚のない御意見を御発表下さいますようお願いいたします。ただ、時間の都合上公述の時間は御一人大体十五分から二十分程度といたしますが、公述あと委員諸君から質問があると思いますから、その際も忌憚なくお答えを願いたいと思います。  次に、公述の皆様が御発言の際は、劈頭に職業または所属団体名並びに御氏名をお述べ願いたいと存じます。なお、発言の順位は勝手ながら委員長においてきめさしていただきます。  まず岩松公述人にお伺いいたしたいと思いますが、訴訟法学者として、一、イ、小法廷性格、すなわち国法上の独自の下級裁判所であるか、ロ、対高裁及び対大法廷との関係において審級をいかに考えるか、ハ、司法行政権司法裁判権独立性を保障する一つ手段であるから不可分離であると思われるが、小法廷から司法行政権重要部分を奪うことの可否いかん、二、上告理由民訴、刑訴と異なってよいか、三、上告理由としての判例違反存在理由及び価値いかん法令違反上告理由となるならば、判例違反は不要となるかどうか、四、異議申し立て上訴と異なるものだとするならば、その理由、五、小法廷判決立言により確定力を有するものであるか、執行力及び大法廷破棄判決の結果にも触れながら御意見を伺いたい、六、上告あて名人最高裁判所であるか最高裁判所小法廷であるか、政府原案によれば、帳面裁判所の表門は開かれておらず、上告は横町の雄町裁判所小法廷から入ることになっているように思われるが、いずれの門であるかを法文上名定すべきではないかと思われるが、御意見はどうか、七、憲法違反主張とその他の法令違反主張を含む上告事件は、この改正案においては大法廷と小法廷のいずれで審判されることになるのか、八、一つ上告事件を分けて、憲法違反主張については大法廷が、一般法令違反主張については小法廷がそれぞれ審判するという方式は可能であるか、この場合、事件自体に対する終局的な裁判は本法案においては大法廷と小法廷のいずれがすることになるのか、九、現在名を憲法違反にかり云々として上告棄却が行われておるが、このような場合に、本案によれば、実質が憲法違反であるとの主張に基いてさらに大法廷異議申し立てることができることが保障されているかどうか、以上の諸点について御意見を伺いたいと思います。
  3. 岩松三郎

    岩松公述人 岩松でございます。  第一の、小法廷性格いかんということであります。この改正案によりますと、私の考えでは、やはり独立下級裁判所であると考えられるのであります。憲法の七十六条に、いわゆる下級裁判所という言葉を使ってありますが、普通は、下級裁判所という言葉訴訟法上の上訴関係で、上級審下級審ということで使われておると思うのでありますが、憲法の七十六条の下級裁判所という意味は、そういう訴訟法上の上訴審級に関することばかり言っておるのでなくて、司法行政権行使する機関である、いわゆる司法行政機関としての裁判所というような意味でも下級ということを言っておるんだろうと思うのです。つまり、あの条文の下級裁判所という意味は、容赦制度上級下級という意味でなくて、最高裁判所最高の地位にある裁判所で、そのほかの以下の裁判所というような意味に使われておるんだろうと思うのです、そういう意味においても、今度の小法廷はやはり下級裁判所である、こういうように考えられます。  それから、ロの、対高裁、対大法廷との関係でありますが、これも、訴訟法上の意味上訴審としての関係では、高裁に対しては小法廷はやはり上級裁判所という意味になると思うのです。それから、大法廷との関係では、やはり違憲審査関係では、小法廷は大法廷下級裁判所、これもイ、ロとの関係でそうはっきり下級と言っていいか、ちょっと問題ですが、普通下級と言っても差しつかえないと訴訟法上も、言えると思うのです。そうして、普通の裁判権の点では同列に立つように思えるのであります。これもあとの四の問題とそういう意味で関連することになると思うのであります。それから、司法行政権の庁としての裁判所としては、大法廷との関係ではもちろん下位に立つ下級裁判所であるというように考えられます。  それから、ハの問題では、つまり司法行政権というものの大部分を小法廷からとってしまっていいかどうか、いいかどうかということは適当であるかどうか、とることができるのかできないのか、そういうものをとったら裁判所としての存在がなくなるという意味か、可否いかんということがよくわかりませんが、元来、司法行政権というものは、ここに書いてあります司法裁判権独立性を保障する一つ手段であるというのですが、これは必ずしもそうではないのではないかと私は思います。そういう部面もあり得るのですが、司法行政権というものは、司法裁判権行使を容易ならしめるように準備したり、それを助長したりする行政活動をする権限であって、必ずしも司法権独立のことばかりを目的とした権利ではないと思います。もっとも、この司法行政権行使いかんによって裁判権行使独立がうまく保たれるかどうかということにはもちろん関係はあるのでありますが、訴訟法上の意味で、いわゆる司法裁判権行使する機関としては、司法行政権というものを全然持たなくても存在し得る、こう思います。現に、たとえば地方裁判所の部というものが相当範囲において司法行政権というものを持っておりません。それはむしろ、東京地方裁判所の例で言えば、地方裁判所という司法行政権を持っておる司法行政官庁としての裁判所が大部分を持っておりまして、各部という訴訟法上の意味裁判所はむしろ持っておらぬのであります。ただ、部の事務を処理するという点でやはり一極の行政権を持っておりますが、大部分は持っておらぬのであります。それでも訴訟法上の意味裁判所というものはりっぱに存在し得るのであります。そういう点で、こういうものを大部分持っておらぬでも多少持っておるはずでありますから、そういう意味でやはり独立下級裁判所としてこの改正業の小法廷存在し得ると思うのであります。ただ、やはり、この設問にありますように、この小法廷という裁判所司法権独立を確保するためには、旧裁判所構成法で認められていたように旧裁判所構成法時代にはむしろ司法行政権というものの実体は司法省が持っておったのであります。実権司法省が持っておったのであります。行政官庁としての裁判所というものは行政権を持っておりましたが、実権はむしろ司法省が持っておったのであります。そうして、裁判所事務分配だとか判事の代理だとかいう点は分科会議できめるということになっておったのでありまして、これは、司法権独立関係で、みだりに他から司法行政権行使を――ほかの行政庁影響から事件が任意の裁判所へ移されるということのないようにあらかじめ分科会議できめておりました、そういう権限はこの小法廷にも持たせないと工合が悪いと思うのであります。工合が悪いというよりも、その方が適当であろうと思うのであります。そういうものがなくても、小法廷というものが独立裁判所訴訟法上の裁判所であるということは害さないとは思いますが、適当でない。司法裁判権行使に密接な関係を持つ司法行政権はやはりこれは持たせた方が適当である、こういうように考え得られます。そういう意味で、改正案の小法廷というものは私はやはり独立した広い意味下級裁判所である、こういうように考えます。  それから、上告理由民事刑事で違っていいのかということですが、上告というのは、大体法律審として下級審判決法令違反を是正する、そうしてしかも判例の統一をするという目的のために上告というものが認められておる関係で、できればこれは同一である方がいいのではないか、こう思います。ですが、いろいろ国情、特に経済的な実力のない国、日本の国はそうだそうですが、無制限上告を許して、それを完全に処理するほどの完全な裁判所というものの設備が経済上できない、あるいは人的資源関係でできないというようなこともあれば、この両者の間に上告制限というものが行われざるを得なくなると思うのであります。そうして、上告制限をする段になりますれば、民事刑事ではその性質の上から言って違いを設けた方がむしろ妥当なのではないか、こういうように考えます。民事の方は、訴訟外のある成立した法律関係訴訟で明らかにするということ、従来はそういうように考えられておったのですが、実はそうじゃなくて、訴訟の中でも、訴訟自体実態関係を動かして変動していくのだというように考えなければいけないというように私どもは最近思っております。ところが、刑事の方は、実は過去に発生した犯罪によって成立した国家の刑罰権があるかないかということを確定することがおもで、そのほかは、情状の点だとか、あるいは恩赦の点だとか、あるいは時効にかかるとかということで、その後の事情はあまり民事ほどは多くない関係があると思うのであります。そういう点で、上告理由にも民事刑事とで違いがあるということは、上告制限をすることがやむを得ない限りはやはり区別する方が妥当ではないか、上告制限をしないでもやっていけるほど国が訴訟設備ができるというのだったら、むしろこれは区別しない方がいいのじゃないか、こういうふうに思うのでありますが、現状の国力でやむを得ないというように考えられますので、この両者が区別されるということはむしろ望ましいのじゃないかというように私は思うのであります。異なった方がよい、こういう考えであります。  それから、上告理由としての判例違反存在理由価値があるかどうかという問題でありますが、これは、判例違反というものを特に法令違反上告理由のほかに認める必要はそうないのじゃないかと思うのであります。たとえば、判例存在しておりましても、それが法令を正当に解釈した判例であるなら、それに違背すれば法令違反になるはずなのであります。だから、判例違背を特に上告理由にしないでもよかろうと思うのです。また、法律解釈適用を誤まった判例があるなら、それに違ったことをやりましても、むしろそれは法令違反にならぬ。そういうときにはむしろ上告理由にならぬ方がいいのじゃないか、こういうように考えられるからであります。ただそういうことですから、判例違反を特に上告理由一つに、法令違反のほかにあげないでも、実は人権の保護にはあまり影響がない、関係がないのではないか、こういうふうに考えられるのであります。しかし、判例違反というのを法令違反のほかにあげておきすまと、判例に違ったということだけで明らかで、すぐに上告理由にはあげられやすいのです。そういう便宜は確かにある、こう思います。果してそれが法令違反になるかならぬかは当事者の方で審査しないで、考えないで、とにかく判例とは違っているというだけで上告理由として認められるということになるからであります。そして、特にこまかいことを申し上げると、そういう上告理由になっておりますと、その点では、判例違反がなくても、職権調査事項等法令違反があるということで原判決を破棄するようなきっかけは開ける、こういう利益はあるので、全然無意義ではないとは思うのです。ですが、それくらいの意味しかこれを分けてもないんじゃないか。人権の実質的な擁護から言えば、むしろ法令違反だけで足りるのではないか、こういうように考えております。  それから、異議上訴と異なるかどうか。異なるものだとするならその理由をということでありますが。これは、大体異議というのは、訴訟法言葉では、同じ審級に再考を求めるというような場合、そういう不服の申し立てを審議と言っております。上訴というのは、下級審裁判確定してないのに、上級審にその審査をしてもらって、自己に不利益を受けたものが自己に有利に変更を求めるという、未確定裁判に対する不服申し立て上訴という意味に普通使っております。従って、改正案の小法廷裁判に対する違憲問題について異議申し立てるというこの異議は、先ほど言ったように小法廷下級裁判所ですから、だから別の上級裁判所に対する審査を求めるという点で、従来普通使われておる異議という言葉とは少しはみ出しておると思うのであります。そうかといって、これも五と関連する問題でありますが、小法廷裁判が言い渡しによって確定する。これは異議があっても確定力を遮断しないということになっておりますから、確定すると思うのです。そうすると、その確定した裁判に対する一種不服申し立てでありますから、実は上訴性質にもぴったりは合っていないと思うのであります。むしろ、そういう点では、従来の観念から言うと再審に近い制度だ、こういうように考えられるのであります。そういう点で、従来の観念から言うと、異議でもなければ上訴でもなく、むしろ再審に近い一種不服申し立てである、こう考えるのがいいんじゃないのか。つまり、憲法違反の点を審査して、その審査いかん解除条件として小法廷判決確定している。解除条件付確定判決ということになるんじゃないか。ちょうどずっと前の為替訴訟やなんかの判決と同じように、確定判決事後手続判決裁判解除条件とした確定判決なのであります。そういうような関係になるんじゃないか、こういうように思うのであります。上訴とは異なるとは思うのであります。その理由は今申し上げた通りであります。  五の点は、小法廷裁判判決宣告によって確定力は持つことになる。そして解除条件付なのですから、これが大法廷違憲だということで破棄される。これも再審とよく似ておる関係で、再審の事由がありますと、一応現行民訴規定ではほかの理由があると破棄しないことになっておりますが、再審理由があれば破棄します。破棄したときに、一体これはさかのぼって元の判決効力がなくなるのか、あるいは破棄したときからなくなるのかという問題がありますし訴訟法の学説では、大体において、それはいずれも、取り消したときから効力がなくなるんだということでもなければ、遡及するという原則もないんだ、それはその裁判性質によってきまるし、また、その裁判自体が遡及するように取り消しておるかどうか、あるいは遡及しないで将来に向ってやられるかということは、その各場合で違うんだ、そういうことが法律上明記されてなければ、性質できめるしか仕方がない、こういうように言われております。大体現行民訴は四百二十条の再審理由で一まとめにしてしまいましたが、従来は原状回復訴え取り消し訴えに分けておりまして、大体、原状回復訴え再審では、再審理由があれば原状回復するための判決は遡及する、それから、取り消し訴えの方じゃ大体将来に向っていくというような考え方であったようであります。現行法では、それを区別をしないで一列に規定してしまいました。だがら、やはり事の性質からいくのじゃないか。従って、この改正案の場合も、この解除条件付のものに対して常時遡及するかしないか、こういう問題になるわけでありますが、私どもとしては、将来に向ってのみやっていいのじゃないか、それまで遡及させるということはいろいろ困難な繁雑な問題になって参りますので、遡及効を認めない方がいいのじゃないかというふうに考えております。もっとも、不当な判決など初めからなかったことにした方がいいのだ、当事者利益を保護する方が大事か、あとの繁雑な問題を避けることが大事か、そういう観念の、立場の置き方で結論が違ってくる、こう思います。  それから、六の問題ですが、これは名あて最高裁判所でいい、私はこう思っております。一体、今まででも、民事の方で考えておりましたのは、訴えを提起するときに裁判所訴状を提出しろということになっておりますが、その名あて司法行政官庁としての裁判所というものを名あてにしておるので、実際事件が係属しておる受訴裁判所に部がどっさりあった場合に、その部あて訴状というものは考えておりません。これは、当事者に、一体そういう部があるかないかということ、何部へ行くのかということはわからないので、いわゆる司法行政庁である官庁としての裁判所あてに書いておけばよろしいわけであります。そうして、そういうのは、事務分配や何かの関係で、部がどっさり設けてある裁判所であれば、実はその裁判所の部が、窓口で事務分配規定に従って順々に出ているわけで、それを受けておるわけです。名あて司法行政官庁である裁判所名あてでありますが、そこで一時事件が係属して、それから受訴裁判所になる部へ事件が行くという意味ではないのであります。そうでないと、実際の受訴裁判所事件が係属する間に訴訟係属の間隔が起って、ちょっとおかしいことになるからであります。これは下級裁判所であって独立している小法廷でありますが、最高裁判所に置かれておるということから、最高裁判所名あてでもいいのではないか。独立した下級裁判所ですから、その名あてに書いても一向差しつかえない.これはあまり実際は実益もないと思うのであります。何か法文上明定すべきではないかということですが、明足しないでも当然わかるのじゃないか、また、そういうことになるのじゃないか、こういうように考えております。そうして、法律にも、同じ権限は持っておって、同じように原則としてはなっておりますので、どちらの名あてにいたしましても、それでよかろう、こういうように考えております。正確に言えば、大体は小法廷事件は行って、それから憲法問題は大法廷に移すということになっているのですが、一番理論的に言えば、小法廷名あてにする。上告は一応そこへやって、あと裁判灰内部関係で移送してもらうということでよろしいと思うのであります。今私が申しましたように、最高裁判所名あてにしたからといって不適法になるということはないじゃないか、こういうように考えます。  七の、憲法違反主張とその他の法令違反主張を含む上告事件というのはこの改正案ではどちらで審理しなければならぬかということにつきましては、理論的には、いやしくも憲法問題になればそれは大法廷でやるということになっているのですから、そのほかの部分に小法廷でやれる部分がありましても、一事件のうちの一部はすでに大法廷でやらなければいけないものを包含する限りは、何らかの手当をしなければ大法廷が全部審理する、せざるを得ないと思うのであります。つまり、八の問題と関連することでありますが、憲法問題だけは大法廷でやってもらう、そのほかは小法廷でやる、こういうことを法律規定すればいい。できないことはないと思いますが、そういう規定がなければ、そしてそういうものの一部を分離してやるという方法を規定しなければ、まだ大法廷でみんなやらなければいけない、こういうことになると思うのであります。ただ、一つ事件を、最高裁判所の大法廷と小法廷という別の裁判所に同時に一部分ずつ二元係属しているという状態を作ることは立法としてもあまり適当でない、こういうように考えられます。ですから、一応は大法廷へ全部事件を移して、それから憲法違反の点だけを大法廷裁判して、そしてまた全部裁判することはもちろんできるのですが、大法廷が、普通のいわゆる法律違反の問題だけが非常に多くて、憲法問題はたった一つだというときに、全部やるのは大へんだというので、あとは小法廷でやってもらった方がいいというので、それからまた小法廷の方へ戻してやるというようにした方がいいじゃないか。同時に大法廷にも係属し小法廷にも係属する、憲法問題だけを大法廷に係属させて、片一方の問題を小法廷だけに係属する、同一事件が両方に、ある問題点を異にして係属しておるという関係を作ることはあまりよくないじゃないか。そうすれば、どちらかが済むまでは片一方は待っておるというような関係になりますし、また、小法廷憲法問題にからんでその部分を大法廷に回しましても、あとで小法廷がほかの点で憲法問題に触れないで裁判ができるというような場合にも、ちょっと小法廷ではどうやりようもない。待っていなければならないということになるので、そういう点はあまり好ましくないと思うのです。今の最高裁判所裁判事務処理規則の――これは正確に覚えておりませんが、九条くらいにやはりそういう規定を設けております。たしかこういうようなことであったと思うのですが、大法廷の方で憲法の問題をやって、あとの問題は、それだけしか裁判しないときには当然事件が小法廷に戻って、小法廷あと裁判をする、大法廷憲法判断に基いて小法廷あとの残りの事件はやる、やはり事件が小法廷に当然戻るように規定されておるようであります、ああいうようなことがいいのじゃないか、こういうように考えるのであります。  それから、九の問題ですが、これはやはり私は保障されていると思うのであります。小法廷違憲審査をする権限を与えられていないと言うと語弊があるのですが、司法裁判所としては権限は持っておるのでありますが、裁判所法の十条とかああいう規定はみな職能管轄規定なんで、あれで裁判権が付与されるという意味ではございませんで、いわゆる裁判権行使について広い意味の事物の管轄をきめているもので、司法裁判所としてはみな裁判権を持っておるはずなのでありますが、小法廷はそう職能管轄関係違憲審査権を持っていない。その違憲審査権を持っていない小法廷が、憲法違反に名をかりているのだ、実質は憲法違反ではないのだといって、だから自分のところで裁判をするといって裁判をいたします。現にそれを非常に多くと言うと語弊がありますが大へんやっておるのであります。相当の数やっておりますが、それがもし、実質は憲法違反の問題が包含されているのをそういうような誤解をしまして、実質的にあるのを、憲法違反に名をかりているのだ、実質的には憲法違反の問題ではないのだといって間違った裁判をしたら、やはり憲法違反になる、こう思うのであります。憲法の適用、解釈を誤まったことになると思うのであります。従って、それはやはり異議でやらせなければいけない、こういうように思うのであります、だから、現行の小法廷の現にやっている場合に、ただいま申し上げたような場合、及び小法廷自身の裁判手続に憲法違反があったような場合、たとえば公開の規定に違反した、そういうような場合には、現行法上でも何か不服を申し立てる道が開かれていないと憲法違反になるおそれがあるのじゃないか、こういうように私は考えております。それを救済する意味に今度の改正案はなったのじゃないか、こういうように考えております。  一応問題に対する結論めいたことだけ申し上げます。
  4. 三田村武夫

    ○三田村委員長 ありがとうございました。  次に佐藤公述人に御所見を伺います。  佐藤公述人は長年検事総長として深い御経験をお持ちでございますが、まず第一点といたしまして、本案に対する検察側から見た御意見、第二点といたしまして、刑事上告の門は狭きに失するきらいがありはしないかどうか、あわせて控訴及び第一審の構造に触れながらの御意見、第三点といたしましては、本案による上背審の構造はすこぶる複雑化しているように思われるが、訴訟促進の面を考慮しながらの御所見、第四点、いわゆる増員論に対する御所見、以上四点について御意見を伺いたいと思います。
  5. 佐藤藤佐

    佐藤公述人 委員長から申されました第一点、第三点、第四点は関連いたしておりまするので、この三つの問題について一通り私の意見を結論的に申し上げたいと思います。検察側から見た御意見とありますが、私がこれから申し述べますことは、検察官の経験の上から私個人の意見を申し上げるのでありまして、検察側を代表した意見ではございませんので、その点御了承を願いたいと思います。  この議題になっておりまする裁判所法等の一部を改正する法律案の中で、最高裁判所の機構改革についての問題でございますが、この法律案が提出されるまでの経過につきましては委員会の方で十分御調査もなされましたし御存じのことと思いますから略しまして、法制審議会において長年の間検討した結果、いわゆる妥協案として、法制審議会から法務大臣に対して、最高裁判所の機構改革についての要綱案が答申されておるのであります。その要綱案に基いて本案のような法律案が作成されたのであります。要綱案の作成までの間にいろいろな案が出まして、その案がいずれも一長一短あってなかなか容易に議論が帰一することができなかったのであります。最初は現状維持論が相当強く主張されましたけれども、その現状維持論が唱えられてから数年たってもなお最高裁判所の未済事件がなかなか容易に減らない、一時七千件以上にたまっておったのが五千件台にはなりましたけれども、その五千件を割るということが容易でないという見通しがつきましたし、また、世論においても、最高裁判所の機構がなんとか早く解決して、堆積しておる最高裁判所の未済事件を一日も早く審理してもらって迅速なる裁判を望むという声が強くなりましたので、ついに現状維持論は自然に消えまして改革案一本になったのでありますが、その改革案が帰するところは増員論なのでありまして、現在の最高裁判所の判事の人員をもってしては、このたくさんの未済事件を処理し、また次から次と来る新しい事件を迅速に処理するには足りないということは明らかなのであります。裁判官をふやさなければ事件を迅速に処理するという目的は達せられないのでありますから、最高裁判所の機構改革は結局は増員論ということになるのであります。その増員が、どこに裁判官を増員するか、高等裁判所上告部というようなものを設けて、そこで上告事件審査して、ふるいをかけて、重要な事件だけを最高裁判所に送って、最高裁判所の負担を今よりも軽くするという方法も考えらたれのであります。また、独立した上告裁判所を高等裁判所最高裁判所の中間に設けて、そこで一般の上告事件を担当する、そうして重要な事件だけを最高裁判所に移送して審理する、これも最高裁判所の負担を軽くするいう目的は達せられますが、結局増員ということに帰着するのであります。また、本案のように最高裁判所の中に一つの小法廷というような下級裁判所を設けて、そこで上告事件を取り扱って、憲法違反の問題については大法廷たる最高裁判所で取り扱うという案になったのでありますが、この法律案の基本になる法制審議会の答申案が、いろいろな増員案について各議論が対立して、そうしてなかなか解決できませんので、結局こういうような妥協的なヌエ的な法律案となったことと私は考えておるのでありますが、このでき上った法律案を見ますると、法制審議会において決議した当時の要綱案よりは非常に明確になった。要綱案におきましては、この小法廷なるものが最高裁判所であるのか下級裁判所であるのかということは、これは実はあいまいのうちに決議したのであります。一部の人は、それは最高裁判所だ、こう解釈する方もおりませしょう、また、一部では、いやそれは最高裁判所と別な下級裁判所だ、こういう見方もあったのでありますが、そういう点はあまり深く結論をつけないで、どっちにも見られるがというようなところで妥協案の要綱案ができたのであります。それがいよいよ法律案になってみますると、その点が明瞭になっておる、ただいま岩松公述人からも述べましたように、この法律案自体は、下級裁判所という文字をなるべく避けるようなふうな法律案になっておりますけれども憲法のいわゆる下級裁判所、あるいは裁判所法に残っておる下級裁判所という概念にぴったりこの最高裁判所小法廷というものが当てはまるのでありまして、この法律案においては、最高裁判所小法廷というのは、最高裁判所の中にはあるけれども下級裁判所であるという解釈を下さざるを得ないと思うのであります、そういたしますると、下級裁所判である小法廷最高裁判所小法廷というような名前をつけ、また、下級裁判所判事である最高裁判所小法廷判事、こういうような名前をつけてでき上っておりますので、でき上った法律案を見ますると、いかにもわかりにくい複雑な機構になったように見えるのでありまして、この点改正案についてはもっと国民にわかりやすい制度に、あるいはわかりやすい名前をつけることができなかったものだろうかという点に不満を持っておるのであります。  それから、なおこの法案について批判いたしまするならば、小法廷判決に対しては一応確定力は認めるけれども裁判所考えによって執行力を停止することができるということになっております。いかなる場合にこれが停止できるか、どういう手続で停止するかというようなことはすべて裁判所の規則に譲っておるように思えるのでありますが、もしこの執行停止がひんぱんに行われるというようなことになれば、当事者としては、裁判の執行ということを延したいという一存から、異議申し立てが乱用されることがありはしないかというおそれがあるのであります。そうなりますると、異議申し立てを認めたために、実質上四審級になって、そして場合によっては訴訟促進の目的が達せられないような事態が起きはしないかという一まつの不安が感ぜられるのであります。しかし、異議申し立てということはめったにないことであるし、その一部分が四審級になっても、大部分上告事件が小法廷において迅速に審理することができるから、全体的に見れば審理促進の目的が達せられるだろうという見通しも立つのであります。  それから、増員論のうちで、この法律案のように、小法廷裁判官を増員するという案のほかに、最高裁判所裁判官すなわち最高裁判所判事を増員するという純粋な増員論と申しますか、そういう案もあったのでありまして、現にそういう意見を強く唱えられている方もあるのであります。それは、現在の最高裁判所が十五人の裁判官で構成されておりまするが、この十五人の裁判官で構成しておる最高裁判所において未済事件がたまるし、また新たなる事件を迅速に取り扱うというには不適当だというところから、現在のままの最高裁判所裁判官の数を増したらどうか、たとえば倍にして三十人の最高裁判所裁判官にしたらどうかということも考えられるのであります。そういたしますると、三十人の裁判官で大法廷を構成して裁判をするということは、これは三十人の裁判官の合議ということを考えるとなかなかむずかしい。現在でも十五名の裁判官の合議が大ぜいのために非常に時間がかかるということを言われておるのでありますが、三十名の合議ということになれば、これはとうてい不可能に近いほど合議に適しない数ではないかということも一応考えられるのであります。そうならば、三十名全部をもって構成しなくても、三十名の裁判官のうち代表的な人数を選んで、たとえば一小法廷が五名ずつにすれば六法廷になるのであります。この六法廷からたとえば二名ずつ代表者を選んで、そうして長官を加えて十三名の裁判官で大法廷を構成するということで、この大法廷では全裁判官で、事務分配により憲法違反あるいは判例抵触、そういう重要な事項だけを分担するようにしたらどうか、こういう論が成り立つのであります。ところが、これに対しましては、最高裁判所が三十名の裁判官で構成するのであるならば、三十名の裁判官で大法廷を構成するということでないと、それは憲法違反になるおそれがある、それは憲法違反だ、こう言い切る意見もあるのでありまするが、私は、これは、その三十名の裁判官が全体の会議において、憲法違反判例抵触の問題についてはこれだけの、十二名なりあるいは十三名の裁判官に本年度はまかせて与件を取り扱わせることを委任するということになれば、決して憲法違反にはならないのではないかということを考えております。従って、現在の最高裁判所の小法廷というものは、これは何ら憲法違反の問題は出ないように考えておるのでありまするが、ただ、最高裁判所の判事をふやすことによって問題を解決しよういとう純粋な増員論に対しまして、私は非常に疑問に思いますことは、三十名という大ぜいの最高裁判所の判事、すなわち、法律においてきめておりまするように、識見の高い、法律の素養ある第一級の候補者を一体三十名も選ぶことができるだろうか、これは実際問題として非常にむずかしいことではないかという疑問を持っております。なお、現在は十五名の裁判官をもって構成されておりまするが、これが倍の三十名ということになりますると、最高裁判所裁判官の地位、待遇において一そう高いものを期待することが、これもむずかしいのではないかということを考え接すると、この純粋な増員論に対しても、どうしてもにわかに賛成することができないのであります。  そのほかいろいろこまかい論に分れて法制審議会においては討議されたのでありますが、どの改革案につきましても一長一短ありまして、これが最善の改革案だということを自信を持って申し上げる案の持ち合せはないのであります。しからば、この本案の改革案についてどうかということになりますると、先ほど申し上げましたように、まだ不満な点はありまするけれども、現在これ以上の適当な案を考え出すことができない、私としましては本案に賛成せざるを得ないのであります。  それから、次に第二の、刑事上告の門は狭きに失するきらいがありはしないかどうか、あわせて控訴及び第一審の構造に触れながら御意見を承わりたいという点であります。御承知のように、現在の刑事訴訟法におきましては、刑事上告の門は非常に狭く制限されておるのでありまして、憲法違反あるいは判例抵触、この二つの門しか開かれておらないのであります。旧刑訴時代においては、非常に上告の門は広く開かれて、人権を擁護されておったのでありますが、新刑訴になってから上告の門が非常に制限されております。ところが、非常に署しく制限はいたしましたけれども上告がなかなか少くならない。そうして、一般の要望としては、旧刑訴時代ほどではなくともよろしいが、もっと刑事上告の門を広げてもらえないかという要望がしきりに唱えられておるのであります。私も新刑訴実施以来実務に携わっておりまするが、当事者として考えますると、刑事上告の門があまりに制限されておりまするために、いろいろ不便を感じておるのであります。これでは国民の人権を十分に尊重することができないのではないかということを考えておりますために、従来、刑事上告理由としては、憲法違反判例違反にとどまらず、判決影響を及ぼす明らかな法令違反であるならば広く上告理由を認むべきではないかということを主張して参ったのでありますが、法制審議会の答申において、またこの改正案においては、判決影響を及ぼすこと明らかな法令違反の中で原判決を破棄しなければ著しく正義に反するという場合に刑事上告の門を広げたのであります。かように、判決を破棄しなければ著しく正義に反すると思われるかどうかということは、これは上告裁判所において裁判をするときに考える問題でありまして、当事者としては、判決影響を及ぼすこと明らかな法令違反についてはおそらく全部上告することになるのではないかと思います。すなわち、原判決を破棄しなければ著しく正義に反するかどうかというようなことまであまり考えないで、一に原判決影響を及ぼすこと明らかな法令違反があるかどうかということによって上告することになりましょうから、かような制限は、明文上つけても、当事者については実際上そう不便はなかろうと思いますので、この点の本案の刑事訴訟法の改正については賛成いたしておるのであります。なお、現在の刑事訴訟法において、刑事の控訴審は全く事後審の構造でありまして、第一審の裁判法律上どういう欠点、瑕疵があったかどうかということを審査する控訴審となっておりまして、この点、旧刑訴時代において控訴審は一審の審理をやり直して事実及び法律について判断するという構造と全く違っておるのであります。ところが、申すまでもなく、刑事におきましては、事実を確定する、その確定した事実に基いて適当な刑を量定するということが刑事裁判の本体なのでありまして、当事者も、法律上どうであるか、あるいは憲法上どうであるかというようなことしかあまり問題にしない。一に、事実があるかないか、また、事実があるとすれば、それに対して妥当な刑を量定してもらいたいということが当事者の一番念願しておるところなのであります。それを、現行法のように、事実調べは一審限りである、控訴審は法律の判断をすればよろしい、上告審では憲法の問題だけを判断すればよろしいというようなことを貫きますると、裁判を受ける当事者の方といたしましては、どうもそれでは納得がいかない。いかに法律において控訴審は事後審であるから事実調べは一審限りだぞといっても、その本体である事実の調べにおいて、あるいは刑の量定において不満がありますと、名を法律問題にかりて控訴する、上訴するというのが実際の例であります。従って、控訴裁判所においても、御承知のように、現在では、事後審とはなっておりますけれども、いろいろな事情のもとに事実の調べをしておるという例が非常に多いのであります。かような裁判のやり方から見ましても、また国民一般の要望から言いましても、私は、事実を調べることは一審限りではなく、二審においても事実を調べる方が国民感情を満足せしむるゆえんではないかと考えておりますので、将来刑訴改正の場合には、ぜひ、刑事の控許審は事後審ではなく継続審に直してもらいたいと考えておるのであります。  以上、はなはだ結論的なことだけを申し上げて、簡単でありますが、御質問に対する私の一通りの意見を終ります。
  6. 三田村武夫

    ○三田村委員長 次に野村公述人の御意見を伺います。野村公述人は長年言論報道のお仕事をしておられまして、その方面の御造詣も御経験も深いと思われますので、世論を代表する意味において、本案に対する御意見、あわせてこの機会に裁判のあり方、ことに最高裁判所のあり万、上告制度の問題等、御所見を伺いたいと思います。なお、本案は裁判の遅延防止に役立つかどうか、御承知のように、本改正案が出て参りましたそり経緯は、裁判の迅速化というところに大きな目標がありますので、そういり点についての御見解もあわせて伺いたいと思います。
  7. 野村正男

    野村公述人 だいぶ時間がたってきましたので、ごく簡単に考えておるここを申し上げます。これは私一個人の意見でございますから、さよう御承知を願います。  実は、私、昨年夏ごろでございますけれども、この問題につきまして少し自分の意見をできればこしらえておこうと思いまして、法制審議会の速記録その他手に入る限りの資料を一通り検討したのでございます。ところで、検討いたしますればいたしますほど、これは非常にむずかしい問題でございまして、果してどの案が今日の日本の国情に一番適しているか、なかなか一がいに割り切ることはむずかしいというふうな感想を持ったのであります。しかし、こういうことがまず言えるのじゃないかと思います。それは、戦後できました新しい日本の司法制度、これは社会各方面でも戦後の制度にいろいろ修正運動が起っておりますけれども、今度の問題も結局戦後の新司法制度に対する一つの修正運動じゃないか、こういうふうに考えます。戦後の制度は、憲法上の司法の独立の完成という要請によりまして、最高裁判所が非常に大きな権限行使するようになっております。このため、当然非常に強い上訴制限の方法をとっております。これは、司法行政権や規則制定権、そして新しく違憲審査権を行使いたしますために、上告事件が殺到しては、やはりどうしても昔の大審院のようにはそういう仕事がなかなかできない。そういうような考え方か、民事刑事の両面におきまして、上告理由には強いしぼりがかけられたのでございます。ところが、十年を経まして、予想に反して、その強い上告制限がありますにもかかわらず、実際上はいろいろな名目の上告事件が殺到いたしまして、最高裁判所は今や破産一歩手前に追い込まれておるというのが客観的な情勢だろうと思います。そして、まず、民事裁判の面におきましては、民事訴訟特例法というものが廃止されるに至りまして、上告理由の拡大を見ております。さらに、刑事訴訟法の面におきましても、上告理由を拡張せよという議論がほうはいとして起っておるのでございます。このように問題の経過を考えてきますと、結局これは新しい日本の司法制度に対する一つの修正運動が起っておるのだ、つまり、最高裁判所について見ますと、これまでのように国民審査を経た十五人の裁判官が大法廷と小法廷に分れて、いわゆる二足のわらじをはいて裁判を進めていくというような方式では、もはや間に合わなくなっている、この方式を進めていきますと、国民の要求に応ずることはできませんし、裁判の実用性というものを確保することができない、こういうことになっておるのであります。こういう潮流の中にはもちろん一種の復古論もございます。いろいろの考え方が入りまじっておりますけれども、要するに、最初理想と考えられたような最高裁判所の運営ではどうにもならなくなった、それで、憲法で許されました範囲内で何らかの修正をしなければならぬというふうになってきているのだと思います。  以上のように考えてきますと、結局、この改革問題の根本は、刑事裁判における当面のこの上告理由の拡張を一体どうするかということに問題の出発点があると思います。しかしながら、とにかく現実に、例外的にしか認められていないはずの法令違反主張が現に殺到しておるのでございまして、そして、この中からはまたかなりの破棄判決も出ておるのであります。それで、好むと好まざるとにかかわらず、この種の上告の要求というものが国民性の要求である、こういうふうに各方面で一様に言われているのでございます。あれこれ考えますと、要するに、この国民性の要求というものを無視するわけにはいかないと思います。つまり、例外を原則に返す、私生児を認知して嫡出子とするということは、もう今や必至の形勢ではないかというふうに考えられます。ほんとうから申しますと、ただ単に時間をかせぐにすぎないような上告は、民事事件におきましても刑事事件におきましても、決して好ましいことではないと思います。それは真に正しい救済を求める者の道をふさぐということになります。しかし、このような乱上訴を防ぐという道は、現在のところ当事者のモラル以外にはないのであります。それで、これが乱上訴であるかどうかということを識別することもなかなかできないのでございます。こういう状態が現に恒常的に継続しておるといたしますと、どうしてもこれをやはり正規に返すよりしょうがないのじゃないか、つまり、政府案程度の上告の門戸拡張ということは、今や避けることのできない段階に来ておるのじゃないかと思います。こういうふうに考えて参りますと、この上告の門戸拡張に見合います処理機関の方をどうしても考えなければならないということになります。先ほども申しましたように、現在二足のわらじをはいて審理しておりますが、これで処理し切れないことは過去の実績が証明しております。多いときには最高裁は年間約一万件という事件を消化しておりますが、その限りにおきまして必ずしも個々の裁判官が怠慢であったということは言えないと思いますけれども、総体として見ますと、とにかく人間として処理し得る能力の限界というものが過去の経験ではっきりしてきたということが言えると思います。それからなお上告理由を拡張するわけでありますから、やはり上告がふえてくることは当然考えられることでございまして、この入れものの方をどうしても考えていかなければならない。そうして、現在五千件近い事件が停滞しておりますが、これを何とかせめて千件くらいまでに減らしていくことをやはり考えなければならぬ、こういうふうに考えます。  この処理機関につきましては、先ほども検事総長が述べられましたように、法制審議会の速記録の中には非常にたくさんの案が出ております。その得失につきましていろいろ考えてみたのでございますけれども、結局、審議会でもみにもんでやっとできた案以上のものは、現実問題としてはなかなかむずかしいのではないかという実感を得たわけであります。最高裁判所は司法の最高機関でありまして、憲法上どうしても失ってはならぬという機能を持っております。これはむろん盛り育てていかなければならないものだと思います。それから、もう一つは、最高裁判所自体の機構の改革の問題でありますから、現に存在する最高裁判所が実際に経験してきた十年間の経験というものは、やはりこれを尊重しないわけにはいかないと思います。これが行政官庁の機構改革などと多少違う点でございまして、裁判というような司法の独立に関する機構を改革する場合は、実際問題として最高裁判所自体が経験してきた見解というものをやはり無視するわけにはいかないと思います。この最高裁判所の経験上の意見として出されておりますのが、御承知の通りの、十五人では多過ぎる、七人から九人くらいが大法廷の合議としては適当な人数であるといういわゆる減員案でございます。この意見は、ここにおいでになります岩松さんも、そのほかほとんどの裁判官の方が、法制審議会で口角あわを飛ばして論じておられますし、その他の場所でもまっ正面切って主張しておられる点でありまして、最高裁側の経験に基く見解としては一番特徴のある意見でございます。  実は、私も最初、この減員説なるものは、弁護士会から出ました倍増案というものに対抗するために、この倍増案というものを小法廷という土俵の中に封じ込めるために、相撲の手ではありませんけれども、そういう手でそういう議論が出たのじゃないかというふうにやや政略的にこれを考えてもみたのでございますが、いろいろ調べ、考えてみました結果、これは大法廷を運営してきたここ十年間の最高裁のやはり偽わらぬ感想であろうというふうにとった方がすなおじゃないかというふうに考え画したのでございます。それで、もしこの最高裁自体の十年間の経験ということが無視できないものであるというふうに考えてみますと、大法廷判事の増員ということは好ましくないということになります。それで、結局は、法制審議会案のように、別個の上告処理機関最高裁内へ置くという構想にならざるを得ないのではないかと思うのでございます。むろん、これは、最初からの増員改革論者から見ますれば非常に不本意でありましょうし、また、運営のいかんによりましては、藤田判事などもかつては非常に猛烈に反対して指摘しておられましたように、四番制になる危険はありますけれども、とにかく、現在の大法廷判事というものを二足のわらじから解放しまして、そして練達の小法廷判事によっててきぱきと上告事件を処理していく、そうすれば、玉石混淆で現在最高裁へ殺倒しております上告事件が非常にスムーズに処理されていくのではないか、そういう構想も現状ではやむを得ないのではないかと思うのであります。  理論的にいろいろこれを議論いたしますと、法制審議会の記録を見ましても、おそらく一つの案さえ企まれなかったろうというふうに思われます。今日も依然としてその理論上の問題はあるのでありますが、しかし、問題の中心は、結局しぼるとただ二つであろうと思います。その一つは、いかにすればよい最高裁判所を作ることができるか、そしてその裁判官たちが憲法に与えられました任務を十分に健康に遂行できるかということでございます。最高裁の判事というものは、そのメンバーは逐次交代していっておりまして、来年、再来年にもまた交代するようでありますが、そういうふうに構成は少しずつ変っていきましても、少くとも、最高裁判所というものは、基本的人権を守る最後のよりどころといたしまして、また、内閣、国会に対抗して立つ司法の最高機関といたしまして、その任務を十分果し得るような姿にやはり置いておかなければならないということでございます。その二つは、今度の改革の目標は、その中心が訴訟の促進ということにあるわけでございますから、現状を打開するにはどの方法が果して最もいいかということを、この訴訟促進の見地から見失わないようにしていかなければならぬのじゃないか、こういうふうに考えます。  いずれにいたしましても、最高裁判所の改革問題は、どの案にいたしましても、結果として頭でっかちの上告審を作るということになります。このことは全体の裁判構造から申し上げますと決して好ましいことだとは思いません。やはり、ピラミッドのように土台がしっかりしておりまして、上に行くほど簡素な姿にいくことが上訴構造としては理想的な型だろうと思います。しかしながら、日本の場合は、第一審裁判所の強化といいましても、現になかなか実現の歩度がおそいわけでありまして、それに、現に統計で示されておりますように、控訴から上背へ移る上告率というものは格段に高いのでありますから、現在の様相としては、やはり三審が頭でっかちになるのもやむを得ないのではないか、好ましいことではないけれども仕方がないのじゃないか、裁判というものが国民の必要ということによってある以上、それに対応した形を作っていくのはやむを得ないのではないかというふうに考えます。  目の前に出ております政府案というものは、現在は国民審査を経た同じ十五人の判事が大法廷と小法廷に分れて裁判しておりますから小法廷というのは意味があるわけでありますけれども、今度の政府案によりますと大法廷という言葉は消えてなくなりますから、小法廷という言葉だけが残るのは実際上は非常におかしな話であります。そのほかいろいろな問題点はあると思いますけれども、現実問題としては、一応この政府案を実施に移して、今後十年ぐらいの実績を見る以外に方法はいのではないかと思います。  最後に一点だけ申し上げておきたいと思いますが、今度の法案の中に、新しく最高裁判官の任命に当りまして裁判官任命諮問審議会というものを設けるという一条項がございます。私は、これまでの裁判官の任命がきわめていいかげんになされたということをここで言うわけでは決してございませんが、過去十年ぐらいのいろいろの裁判官の人選を見ておりまして、政府も忙いのでありましょうが、どうも政府は最高裁判所裁判官というものを、あまりよく考えないで、はなはだイージーに任命しておるような形勢はないか、確かにそういうふうな印象を受ける事実があったのではないかという気持を持っておるのであります。それで、そういうふうなことを是正いたしますために、この任命諮問制度というものを裁判所法にやはり復活しなければならぬということをかねてから言いもし書きもしていたのでございまして、今度この制度が新しくできましたことは、こう法案の中でわれわれとしては非常に注目すべき点だろうと思います。人選をもっと慎重にして、そうして、視野の広い、真に憲法の番人たるにふさわしい人物を最高裁判所へ持ってきたい。それで、この改正条項にぜひ通していただきたい、こういうふうに考えておる次第でございます。  時間がございませんので、まことに簡単でございますが、私の意見を申し上げます。
  8. 三田村武夫

    ○三田村委員長 次に大和田公述人の御意見を伺います。  大和田公述人からは、財界から見た本案に対する御所見、現行裁判組織、機能等に対する御意見上告制度についての御意見、これらとの関係最高裁判所はいかにあるべきか、その組織、機能等について御意見がありましたならばお伺いいたしたいと思います。
  9. 大和田悌二

    ○大和田公述人 私は経済界代表ということでありますが、経済界で特に審議をしてこういうことをといって出てきたわけではありませんので、たまたま経済界におります一人としての私の意見を申し上げたいと思います。  この改正案の全体を通観いたしまして、りっぱな裁判を早くする、こういうことは国民全体の希望であり、経済界といえどもその例外であり得ないと思います。その意味において、裁判をりっぱにしてほしいということ、ことに、経済界から考えて、生きた経済活動を目まぐるしく変動してやっておる者に対しては、やはり商法全体、あるいは労働法、あるいは特許の関係とか、いろいろな産業関係に通暁した知識の多い判事の配属ということが非常に要望される次第であります。そういう人たちが敏速にしかもりっぱに判決をなさるなら、上訴ということも減るのではないだろうかというふうに今考えておるわけでありますが、現状におきましては、とにかく最高裁が非常に繁忙であるが、下部組織の頂点に立って一切の事件を集中されたのでは、もうやり切れないのは当然であります。そこで、現行法においては上告理由制限されておりますが、この制限するということは実際にいいことではなかろうと思います。やむを得ずやっておられるのでしょう。しかし、上告したいという希望は非常に強いものですから、憲法違反ということに名をかりて同じように全部の訴訟がほとんど上告に持っていかれるという形になれば、せっかく制限をされたことが事実において有名無実でありますから、それに着目して、改正案は、上告理由も拡張し、しかも、裁判をおくらせないようにしようという配慮のもとに立案されておるものと思いますので、大体においてこれは賛成であります。ただ、しろうととして考えるのは、この最高裁判所小法廷というのは、改正案の二条か何かによると下級裁判所であるということは明瞭でございますが、八条か何かを見ると最高裁判所に置くと書いてありますが、この最高裁判所というのは場所ではありませんで官庁でありますから、官庁に置くと書かれると、官庁の一部のような感じがしろうとにはするのであります。二条がほんとうなのか、八条がほんとうなのか、ここのところは、立法技術ではっきりと下級裁判所であるということを明瞭にしておいていただいた方がいいだろうと思います。そうして、小法廷が一般の上告事件を取り上げて最終判決をする、それがたまたま憲法違反の問題等に実際において触れる場合は、解除条件付判決をされて、その分の憲法問題だけについて最高裁が判決をする、それが小法廷判決影響を及ぼすならば、条件成就ということで、同時に遡及するか、そのときから無効にするかどうするか、その点は存じませんが、第四審的な形になりましょうが、それはあっても別に差しつかえはなかろうと思うのであります。  それから、第二審に移りますが、裁判組織、審級、単独、合議、違憲裁判といろいろ書いてありますが、こういうことはよく存じませんが、われわれ経済活動を敏速にやる者から言えば、いろいろな有能な練達な裁判官を得られるならば、第一御あたりはもう単独裁判でやったらどうであろうか、これはむろん訴訟物の内容にもよりましょうけれども、合議制は二審ぐらいから始めたらどうであろうかという感じを持つのであります。そうして、今度は小法廷で最終判決をいたしますから、今度はもう最高裁というものは――ついでに三の方にも一緒に移って申し上げますが、上告理由制限などしないで、そうしてそれは広げるけれども、小法廷で取り上げて、その多数の肝実増員になる三十人くらいの人間で部を分けて、そこでしっかりした判決をいたしますから、最高裁というすのは、違憲裁判と、それから司法行政事務を扱う、こういう大きな仕手を担当する。従って人数はずっと減していいと思う。これは、職業的な裁判官でなくても、国民審判に値するような人を得られるように、その仕事の範囲が大きくはなるが縮小されるというふうになっていいのではなかろうか。従来司法省でやっておった行政事務最高裁がやるということになると、ここに三権分立の問題もありますから、これはあくまでも司法権独立のためにやむを得ずやる行政であるということをはっきりして、その司法権独立を守るための最高裁の裁判官、こういう人は職業的なんでなくてもよろしかろう、かようにも考えるのであります。とにかく各方面の知識を得たりっぱな判事を充足していただく。そうして、できることなら、訴訟内審によっては単独な第一審というものの範囲を広げられたらどうかというような黙想を抱くのであります。  それから、最高裁の地位がどうあるべきかというような問題につきましても一言触れたのでありますが、これは憲法裁判所というふうな見方もあるようで、また各国の憲法にもそういう例があるようですが、これはやはり、憲法をここであまり審判するということは立法権との問題もありましょうし、やはり特定の訴訟関係しての分に限って、そして、今の行政権の問題も、司法権独立を守るにやむを得ざる程度の司法行政ということ。  それから、原則としては、最高裁判所の人間を増員して、そこで上告理由も拡張し、遅延しないようにやるべきだと私は思うけれども、これは実際の運営において非常に困難であるということは実際家の力説されておるところであり、私どもも賛成でありますが、政府の提出した案は、上告理由は広げて、しかも裁判はおくらせないように、しかもりっぱな人を増員して、国民の輿望にこたえる、こういうような趣旨でできておるようですから、なおやってみて悪いところがあれば御改正になるのがいいと思いますが、大体において賛成であります。
  10. 三田村武夫

    ○三田村委員長 以上で四公述人公述は終りました。  公述人各位にはまことに御迷惑でございますが、引き続いて委員からの質疑に移りたいと思います。  御質疑はありませんか。池田清志君。
  11. 池田清志

    ○池田(清)委員 岩松公述人にちょっとお尋ねを申し上げますが、現行裁判所法の九条の大法廷、小法廷、その大法廷は全員の裁判官でもって審理、裁判する、こういう規定があるが、全員の裁判官でやらなければならないということはどこから出てきておるのか、裁判所法の立法上の便宜からきておるのか、それともまたよるところがあって全員でなければならないのかということについてお答えを願いたい。
  12. 岩松三郎

    岩松公述人 あの裁判所法規定は、裁判所法でああいう規定をしたからそうなったのではなくて、憲法の趣旨をくんで、趣旨をくんでというより、趣旨に従ってああいう規定にせざるを得なかったんだろう、こういうように私は考えております。なるほど、憲法それ自体には、最高裁判所がワン・ジャスティス、つまり一つの全裁判官の構成した裁判所裁判する、裁判しなければいけないということをはっきり明文上では規定しておらぬようです。でありますが、憲法の七十六条とか第六章司法というところでのいろいろの規定から考えますと、どうも最高裁判所というのは七十九条の一望できめた全員の裁判官で構成された裁判所裁判しなければいけないという趣旨で規定ができておる、こういうように解釈せざるを得ないと私どもは解釈しております。というのは、七十六条で「司法権は、最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する。」と言っておる。ここに言われる司法権というのは、司法裁判権司法行政権を含めたそういうものを言っている意味だと思うのですが、そういう点で、そういう権限最高裁判所とこれから法律できめる下級裁判所――先ほど申し上げた点で、これはそれよりも以下の裁判所という意味が入るわけです。司法庁行政官としての下級裁判所という意味も入っている。これに司法権が属しているのだということを規定しております。この規定で分けて書いてあるところから見て、最高裁判所というのは法律で設ける裁判所じゃないので、最高裁判所というのは憲法で設置される、そういうことが半面からわかると思うのであります。そこで、裁判所というものを設けるのにいろいろな機構も考えられるのでありますが、裁判所というものは、今言ったように、司法裁判権司法行政権行使する権限司法裁判権という権限をまずきめる。そしてそれからそれを行使する裁判所の構成というものをきめる。この二つがきまれば、少くとも訴訟法上の意味裁判所というものはもうそれできまるわけであります。書記はどうするとか、場所をどうするとかいうことは、あと司法行政権権限行使のところで法律でどうにでもきめられることでありますが、観念上は、権限とその構成がきまるということで裁判所は設置されるものということは学者も言っておるようで、一般にそういうように言うのであります。そのほかのことは、付随的にどうきめるかということは、あとでどうでもきまる。権限と構成できまるのだ。憲法七十六条では、法律下級裁判所はきめるが、最高裁判所を自分できめたというのも、権限と構成を特定することによってきめたと考えていると思うのであります。そういう点で、七十九条でその構成をきめておるのであります。それが、「最高裁判所は、その長たる裁判官及び法律の定める員数のその他の裁判官でこれを構成し」、この「構成」しという言葉は、いわゆるべゼッツンクという意味だと私は考えるのでありますが、これで裁判所の構成というものをきめて、いわゆる観念上は、訴訟法上の最高裁判所というものはこれできまっているのだ、こういうふうに考えるのであります。そうして、第六章の司法という中で、あるいは七十七条で、裁判権でない権限最高裁判所は規則制定権があるとか、あるいは判事の名簿を指名でこしらえて任命の準備をする、下ごしらえをするというようなことをやる行政権も与えられております。これらの規定を見ますと、どれもが最高裁判所ということを言っておるのであります。この規則制定権というのは立法なんでありますが、広い意味では司法行政権の一部として認められたものであると思うのでありますが、そういう判事の任命の名簿をこしらえるとかいうような司法行政権行使最高裁判所はやるのだというふうに書いてあるのであります。これらの権利の性質考えてみましても、憲法考えているところによると、これらの権利は最高裁判所という一つ官庁行使すべきなんだ、この権限行使が二つの機関として作用していいのだということは、事の性質から言っても、考えてはいなかったのだと思うのであります。つまり、規則制定権を、たとえば現在小法廷が三つありますが、その小法廷が規則制定権を別々に行使するというようなことは考えていないじゃないか、また、そういうことをされたら非常に困るのじゃないか、第一小法廷がこういう規則を制定する、第二小法廷もこういう規則を制定するというような権限がみんなあったのでは困る、また、名節をこしらえるにしても、第一小法廷の名簿とか第二小法廷の名簿とかいうものが考えられるはずのものではないと思うのであります。こういうようにして、七十六条で司法行政権司法裁判権一つ最高裁判所に与えて、そうしてそれらの規定を総合して考えてみますと、裁判権それ自身は別々な構成で、七十九条による全員の構成ではなくて行使して、ほかの行政権の点はこれを別々に行使するのならしてもいいのだということを考え憲法規定しているのじゃなくて、司法行政権司法裁判権というものを持っておる最高裁判所というものは、この七十九条の二項の構成で、全員構成による裁判所行使するということを予期して憲法はここに書いたのだ、こういうように考えるので、ワン・フル・ベンチで裁判し、ワン・フル・ベンチで行政権行使するのだ、こういうふうに考えざるを得ないのだ、こういうふうに考えたらどうかと思います。
  13. 池田清志

    ○池田(清)委員 今のお説で御高見のほどはわかったのでありますが、さらに端的にお尋ねを申し上げますと、もしそれ裁判所法の第九条の大法廷の審理、裁判をする員数を、全員ということをはずして、最高裁判所判、の中の何名かをもってそれができるように立法するということにいたしましたならば、この法律なるものはいわゆる憲法に違反する、こういうお考えに相なるわけでありますか。
  14. 岩松三郎

    岩松公述人 私はそういうふうに考えます。憲法はそういうことを許すことはないのだと考えるのであります。ただなるべく全員でやってもらいたいという希望的な規定ではなくて、先ほど申し上げたように、権限と構成をきめますと裁判所はそこできまっちゃうので、その裁判所を変更することは、憲法で変更するなら別だが、法律では変更はできない、まあ憲法改正の手続によるようにして改正をすべきだ、こう思うのであります。
  15. 池田清志

    ○池田(清)委員 佐藤公述人にお尋ねをいたしますが、この同じ問題に触れてお尋ねをするわけであります、佐藤公述人の先刻の御公述の中におきましては、いわゆる現在の大法廷、これは全員でやっておることになっておるけれども、必ずしもそれはいわゆるワン・ベンチでなくても憲法には違反はしないのだと思うという御趣旨の御発言があったのでありますが、そういう御意見の生まれて参りまする根拠につきまして、もう少しお話しを願います。
  16. 佐藤藤佐

    佐藤公述人 ただいまのお尋ねの点でありますが、憲法では、最高裁判所を設けまして、その最高裁判所で司法裁判をすること、また司法行政、規則制定等の権限をきめておりますが、その最高裁判所が司法事務を行うに当りまして、全員をもってワン・ベンチを構成して司法事務を行うということが望ましいことでありまして、実際問題として全員ではどうも不便だ。たとえば、全員に何らかの故障が起きて全員がすわれないというような場合もありましょうし、また、事務の量が多くてとうていワン・フル・ベンチでは処理できないというほど事務が多いという場合には、その全員を代表する何名なら何名――その数も、あまりに少く、それは最高裁判所というものに値しないような数では困りますけれども、大体において最高裁判所の全員を代表しておる何人かで大法廷を構成するということを法律できめれば、それで憲法の精神には何ら抵触するものでもなかろう、こういうふうに考えております。従って、現在の最高裁判所の小法廷というものも、これは事務で分配によって各部に分けて処理しておるのでありまして、これも極端に言えば、あるいは憲法の精神に沿わない、憲法違反だという論も立つかもしれませんが、私は、現在の最高裁判所の小法廷もそれは憲法の趣旨には沿うておるものだ、何ら憲法違反ではないという考えを持っております。
  17. 三田村武夫

    ○三田村委員長 猪俣浩三君。
  18. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 岩松さんにお願いしたいと思います。今度の政府提案の法案には最高裁判所小法廷最高裁判所に置くというようになっておりますが、この置くということの法的意味ですね、これは一体どういう意味であるか。政府の説明を聞きましても、下級裁判所である、そうして独立のものである、こういう説明になっております。この置くというのは、ただ構内に置くという意味なのか、法的に最高裁判所と何らかの関連を表わす意味なんですか。あなたはさっき付置と言ったが、まあ付置という意味だろうと思います。しからば、その付置というのはどういう意味を持つのか、それをお聞かせ願いたい。
  19. 岩松三郎

    岩松公述人 私の考えでは、この最高裁判所に置くと言っても、付置と言いましても、同じ意味だと思うのですが、これは司法行政権司法裁判権を持っておる、両方の権限を持つ。これを、訴訟上の裁判所判決裁判所とか司法裁判所としてではなく、司法行政庁としての最高裁判所というものの内部に下級裁判所である小法廷を包括して存在させる、つまり、片方の裁判権の点では独立関係で、これは関係はし得ないわけでありますが、司法行政権の作用としての官庁内に一つ独立した別の官庁をあわせて置いておく、こういう意味だと思うのであります。つまり、一部であって、最高裁判所そのものではないんだが、行政官庁としては併存的に最高裁判所として置かれている、こういう意味だと思うのであります。
  20. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 どうもよく意味がわからぬのですが、実は、昨日も公述がありましたが、ある公述人は、まるでこれはたくさんの兄弟のうちに白子ができたようなもので、異様なものが生まれたという表現をされた。あなたの説明を聞いても、何だか異様なんです。そうしますと、御説明申し上げるまでもなく、裁判所という意味には、判決をする部署という意味と、行政官庁としての意味と、二通りあると思う。どうもワン・ベンチ論を相当巧みに説明されているようだが、実は私はワン・ベンチ論そのものに納得いかぬのですけれども、これはあとでお尋ねすることといたしますが、たとえば、地方裁判所と申しましても、たくさんの部がある。その部がやはり裁判所であります。しかし、総合体が官庁としての東京地方裁判所、そしてそこに長官があるわけです。そこで、一体、最高裁判所小法廷なるものは、どういう関係に立ちますか。地方裁判所の各部と官庁としての地方裁判所というような関係に立つのですか。各部といえども独立して裁判権があると思う、しかし、全体として、行政機構として東京地方裁判所の部なんです。あるいは地方にあります新潟地方裁判所高田支部というように、支部というものがある。そういうことと、これはどういうふうに考えればいいのか。今までの官庁の機構と申しますか、そういうものとどうもなじまない感があるのですが、どういうふうに説明すればいいのか。
  21. 岩松三郎

    岩松公述人 これは、いわゆる裁判権行使する主体としての部と地方裁判所というものとは、法律ではこの部に独立した行政官庁としての資格は与えられていないので、東京地方裁判所という司法行政権行使する行政官庁としての裁判所のほかに行政官庁としての裁判所としては独立して存在していないと思うのです。それで、司法裁判権行使する部というものが設けられております。これは、司法裁判権行使する裁判所としては独立した存在になると思うのです。ただ、この政府案を私が考えるところによりますと、そういう独立した裁判権行使する部というようなものを、東京地方裁判所という行政官庁である裁判所の一部々々として独立した司法裁判権行使する裁判所とするほかに、そういう小法廷というものがやはり裁判権としても独立していますが、同時に司法行政権をある程度持たせて、独立した官庁として設ける、こういうことを付置と言ったんだろうと思います。そうして、そういうことは今までの観念ではなじまないかもしれません。だが、法律でそういうことをきめればできるんじゃないか、不能なことではないと考えております。
  22. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 そうしますれば、下級裁判所であり、宮守として独立したものならば、何ゆえに付置というような言葉を使うのであるか、その意味がわからない。付置ということがどういう意議を持つのか。最高裁判所といかなる関係があるのか。今あなたが言ったように、小法廷司法行政権独立者であり、裁判権独立しておる、しかるに、最高裁判所に付置するというのは、どういう意味になるのか。
  23. 岩松三郎

    岩松公述人 司法行政権の大部分を負わせる関係において必要があるからだと思うのです。つまり、あの案によりますと、背の分科会議のような、司法裁判権に最も緊密した権利だけしか行政権を持たせませんので、そのほかは最高裁判所行政権行使に直接服せしめたいという考えであったために、最高裁判所につけた、こういう言葉を使ったんだろうと思います。
  24. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 そうすると、完全な独立官庁にあらずして、司法行政権の大きなものは最高裁判所に握られておる官庁である、こういう意味で置くという言葉になったというわけですか。
  25. 岩松三郎

    岩松公述人 それは、何も置く置かないにかかわらず、今の高等裁判所でも最高裁判所司法行政権に大部分実際には服しておるのでありますが、ただそれを併存的に独立した官庁として法律上認めるようにしたのは、このほかの点では、実は農高裁判所の持っておる裁判権と同じ裁判権職能管轄としてこの政府案では持たせております。そういう関係で、それが事件の移送とかそういう関係があるので、そういう事件の行政事務の処理の関係から、一緒にまとめておいた方が便利だという考えでやったんじゃないか、こういうように私は考えております。
  26. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 どうもあまりはっきりいたしませんが、それはその程度でやめておきます。あなたの御説明のように、高等裁判所においても最高の行政機関最高裁の裁判官会議である、そういうことになれば、ますます置くという意味が全く私どもにはわからぬことになるので、何ゆえに最高裁判所小法廷だけについて付置するような意味を言うたか。裁判管轄が同じだというのでありますが、それも私どもはどうも納得がいかぬのでありますが、それはその程度にしておきまして、実は、昨日からの公述人の話を一聞きましても、今回の改正案はややこしいです。どうしてかようにややこしくなったかといえば、法制審議会における審議の経過において私ども納得しました、御苦労のほどは察するのでありますが、どうも船頭多くして山に上って、それをあっちもこっちもこきまぜて、それででき上った。非常に苦労の存するところとは存じますけれども、それだけ筋のはっきりしないところがある。御存じのように、当衆議院の法務委員会におきましては、数年前に上訴制度に関する小委員会なるものを作りまして、相当研さんをいたしまして結論が出ておる。それは、佐藤さんのおっしゃった純粋増員論であります。これは憲法規定とも調和し、なおかつ国民感情にも沿い、そうして審級制度にもこたえ、非常に素朴でありますが、端的な訴訟促進の道であると私どもは確信したから、この結論を出した。三十人の最高裁の増員というのが法務委員会の結論でありました。これに対しまして反対をいたしますのが、最高裁判所の諸君が中心となって、それは憲法離反である、最高裁判所はワン・ベンチでなければならぬ、しかし三十人だの四十人だのが大法廷に来るのはとても不可能であるというのが、非常に有力な反対意見であった。法制審議会もこれに相当押しまくられたとわれわれは考えております。ところが、このワン・ベンチなるものが、昨日も実は真野判事、藤田判事の説明を聞きましても、実にわからない、筋が通らぬと私ども考える。憲法の解釈として、あるいは現実に行われております現行法における最高裁判所の小法廷のあり方から考えましても、ワン・ベンチなるものは筋が通らない。現在最高裁判所なる小法廷存在しておる。しかも、ある件が憲法に適合するか適合しないか、憲法八十一条は違憲だけじゃないのです。適憲の判断も最高裁判所が終審としてやる、これは明らかなことです。憲法に適合するかしないかを最高裁判所が終審としてやる。しかるに、今の最高裁判所の小法廷なるものは、憲法に適合するものはみなどんどん最終判決をやっておる。ワン・ベンチでも何でもない、五人の判事がやっておる。そうして、それは裁判所が勝手に作った最高裁判所事務処理規則ですか、それにそういうことを書いてあるのです。私どもの法務委員会の案は、小法廷でもってやって、ただ従来の判例に違反するような場合においてはいわゆる大法廷で審理する。昔で言えば大審院の連合判決です。こんなものは数年に一回あるかなしだろうと思う。そうすると、それが三十人や四十人なんてとてもかなわぬというのが反対論でありますが、それならば私はお聞きしたい。憲法の解釈ということは重大問題であります。憲法規定は、御承知のように、相当抽象的な、どちらの角度からも見られ得るような条文になっておりますがゆえに、憲法を守るということにおいて重大な意味はこの解釈にあります、憲法九条、戦争放棄の規定を解釈して、あれは侵略に備える国防軍は持ってもいいのだという解釈、これはとんでもない解釈だと思いますが、そういうことも解釈としてやり得る。そうすると、戦争放棄の再軍備禁止の条項なんてふっ飛んでしまう。そこで、解釈という問題は重大問題でありますがゆえに、憲法改正問題と同じように重大事件なんです。憲法改正は、御存じのように、三分の二の国会議員が提案をし、国民の投票によって決定をする慎重な態度をとっておる。しかるに、解釈によってまるで憲法を改正したような効力を発する解釈権を最高裁判所が持っておる。だから、これを少数の判事の方が事務的に便利だということでやるべきものではないと思う。しかも、それが、月に一回、一週間に一回ずつあるはずがありません。われわれの小委員会の案のように、とにかく今までと違った判断をする場合においては大法廷でやる。私は三十人、でも四十人でもいいと思う一カ月、二カ月、三カ月かかってもいいし憲法を改正しようとする場合それだけ重大な手続を踏んでいる以上は、最高裁判所が解釈するという際に三十人、四十人の判事が一カ月、二カ月、三カ月かかって新しい解釈を見出すということは、これは憲法改正にも匹敵する重大問題なんですから、それだけ多数の判事が議を練り心魂を傾けるなら、数カ月かかってもいいと思う。それを事務的に煩雑だということで避けるということは、憲法の解釈を軽視していることだと私は考える。  そこで、なおそういう意味におきまして、ワン・ベンチ論を唱えている最高裁判所においては現在やっておらない。今の小法廷憲法に適合する判決をやっておる。しかし、憲法の八十一条に、適合するかしないかを終審としてやるのだという明確な規定があるにかかわらず、最高裁判所の規則においてそれを勝手に歪曲してやっておる。私はそれはそれでいいと思う。ワン・ベンチにはわれわれはあまり賛成しておらぬ。そんな法的根拠はありません。憲法のどこにそんな規定がありますか。ワン・ベンチでなければならぬなんということは私はないと思う。きのうの真野判事及び藤田判事の説明を聞きますと、藤田判事は、憲法規定にはないとおっしゃっておる。ただ、判決をするときはワン・ベンチでなければならぬと、こういうふうな議論を展開されておるのであります。そこで、三十人、四十人の判事で連合審査するということは不適当だという議論は、私は憲法の解釈というものは重大問題であるということを忘れた議論だと考えているのですが、それはそれといたしましても、具体的の問題といたしまして、たとえば今度は九人の最高裁判所の判事です。そうすると、現在十五人の場合におきまして、最高裁判所の処理規則を見ますと、九人が出れば法廷が構成できる。十五人に対して九人は五分の三であります。そうすると、九人の判事が定員で、その五分の三というと五なんぼになりますから六人、六人が出席すれば法廷が構成できる。そこで、四人の判事によって憲法の新しい解釈が生まれてくる。先ほど申しましたように、憲法は非常に抽象的規定でありますがゆえに、いろいろの立場において解釈が違ってくるのでありますが、この四人の判事によって憲法改正にひとしい解釈が生まれてくる、これは私は非常に危険だと思う。ことに、その四人の判事が非常に保守反動的な思想の持ち主――まあ岩松さんは違いますけれども、どうもわれわれから見ると相当保守反動的な判事がある。そういう者が四人そろうと、とんでもない解釈が生まれてくる。これは私は非常に危険だと思う。これを防ぐ意味においても、私どもは、大法廷というものを存置して、そして、そういう今までの判例と違った新しい判決をする場合にはその大法廷でやる、ふだんの場合においては小法廷でやる、これは今の最高裁判所がやっていることと何も違いはないのです。どういうわけで、それは大へんだ大へんだとおっしゃるのであるか、私どもはわからぬのであります。そこで、あなたに承わりたいことは、今の最高裁判所小法廷なるものは憲法に適合するという判断を勝手にやっておるが、ワン・ベンチ論を主張するならば、これは憲法八十一条に違反しているじゃないか、それについての御意見を承わりたい。
  27. 岩松三郎

    岩松公述人 いろいろ猪俣さんのお考えを伺ったのですが、ワン・ベンチ論は、先ほど私池田さんのお問いにお答えしたように、憲法の明文にははっきりは書いてありませんが、憲法の趣旨からそう解釈せざるを得ないということは先ほど申し上げた通りです。それから、現に小法廷憲法に適合するという裁判をやっておるとおっしゃいますが、それは私はやっていないと思うのです。ただ、大法廷判例があるときにはいいということを規則でこしらえまして、そのためにまた裁判所法がその規則に合せてできました。この法律は私は少しいけなかったと思うのであります。実はそういう規則をこしらえたことも私はいけないと思うのです。というのは、現在の小法廷というのは、裁判所法では実際は職能管轄として十条の一、二、三号に当るものはできないのだということが書かれておって、抽象的には持っていたのですが、職能管轄の上から言って実はそういう裁判権を持っておりませんでした。そこで、これは議論が分れる点でありますが、最高裁判所というものが、法律、命令以下のものが憲法に適するかどうか、それは普通違憲審査権とか言いますが、違憲のことばかりという意味じゃなくて、あれは適否に関する審査権という意味に使っていることで、正確に言えば憲法適否審査権、こう言うべきだと思うのですが、そういうことで、違憲審査権と言っている人が必ずしも憲法に適する審査権はないなどということは決して言ってはいないと思います。小法廷はそういう点で実は持っておらぬのです。しかし、憲法の言っているのは、最高裁判所というものは終審としてそういう審査権を持つのだということを言っているので、もし現在の小法廷が終審として持っておるということになれば、ワン・ベンチでなければ最高裁判所というものは裁判活動ができないのだという、憲法規定をそう解釈すれば、今の小法廷憲法違反になる。憲法違反にすぐなるかどうか、これはまた問題だと思うのでありますが、今の大法廷にその点の審査権をさらに与えたここの改正案のように、異議があるとか、あるいは上訴でもいいのですが、あるいは再審でもいいのですが、再審ではあるいはちょっと問題になるかと思うのですが、通常の不服申し立ての方法でとにかく道を開いておくということでないと、憲法違反になるおそれがあるのじゃないか、こういうように考えます。だから、現在の小法廷というものが、名は憲法違反にかりているけれども、実際は憲法違反でないといってはねておりますが、もし実質的に憲法違反の問題をはねたとして、しかも大法廷にそれを是正する道を開いてないと、憲法違反になるのじゃないか、こう私は考えております。ところが、今の訴訟法では、小法廷裁判に対して大法廷不服申し立ての道が開かれておりません。規定されておりません。訴訟法というものは、積極的にかくかくの手続で訴訟手続というものはやるのだ、この手続でやらなくてはいけないのだという積極的な意味のほかに、むしろ消極的に、この以外の手続ではやらないのだという意味が非常に強いのであります。一体、普通の実体法でも、ある法律要件をきめ、ある法律効果の発生を規定しますと、その要件が備わらなければ法律効果は発生しないという意味ももちろんある。こういう要件でこういう法律効果を発生するという積極的に規定すると同時に、法律要件が備わらなければ法律効果は発生しないのだという意味ももちろんあるのでありますが、手続法は、特に現実な、積極的にこういうかくかくの手続で手続はするものだということを規定すると同時に、それ以外では手続はやらないのだといって、これは普通の法律効果は個々の場合を規定するのでありますが、手続法の力は、どの法律効果の訴訟でも一般にそれを適用させるという意味から、消極的な意味が非常に強いのであります。従って、訴訟法上そういう不服の申し立てが書いてないと、訴訟法上の理論から言いますと、不服申し立てを認めたのだと、それをあまり類推をして解釈すると危険があると思うのであります。そういう意味で、不服申し立ての明示の規定がない限りは、小法廷意見に対して大法廷不服申し立ての道が開かれてないと理論的には言わざるを得ないのじゃないか。従って、憲法違反のおそれがずいぶんあるのじゃないか。ところが、実際になりますと、憲法違反というものは非常に重大なものですから、あるいは現行法の解釈としても、訴訟法のいわゆる消極的な意味の強さというものを多少無視しても、非常あるいは民事で言えば特別上告のような規定を類推して、現在でもあるいはそういうことを解釈する余地があるかもしれません。そうすれば、必ずしも今の小法廷でも憲法違反だとは言えなくなるかもしれないと思うのでありますが、とにかく、そういう点で小法廷存在というものは非常に問題がある事実だと思うのであります。
  28. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 なお一点お尋ねしますことは、私ども現在の最高裁判所の小法廷憲法違反だとは実は思わぬのでありますが、その意味におきまして、最高裁判所の判事を純粋に増員をして、小法廷をたくさん作って、そこでどんどん事件をやる、そこで、今小法廷がやっておられるように、その意見が前の大法廷のやった意見と違ったようなものを大法廷でやるというふうにすれば、そうたびたび大法廷を開く必要もないし、また、憲法解釈は重大問題だから、各層の意見を備えた多数の判事が慎重審蔵した方がいいのじゃないかし三人や四人の判事が、固まった頭の判事ばかりが四人そろわれてしまうと、それで大へんな解釈が生まれてくるという危険性があるのじゃないか、それについて岩松さんはどうお考えになりますか。今のように小法廷をたくさん作って、前に大法廷憲法に適合したものはどんどん小法廷でやらせる、そうじゃない場合だけ大法廷でやるというふうにして、何か差しつかえがあるのか、そこが私どもよくわからない。それに対してあなたどうごらんになりますか。これは憲法違反でも何でもない。今最高裁判所のやっていることをそのままやるだけの話なんです。それをワン・ベンチ論を振りかざして憲法違反だということを言われることはどうもふに落ちないのです。
  29. 岩松三郎

    岩松公述人 ワン・ベンチ論を振り回すとおっしゃいますが、それは結局見解の相違かもしれませんが、ワン・ベンチでやらなければいけないのだという憲法の要請があるということを考えますと、小法廷をどっさりふやすということそれ自体が違憲のおそれがある、違憲そのものになる、こういうことになると思うのです。それから、前の大法廷判決と同じ趣旨で判決にやれば、小法廷がやったっていいじゃないかというようでしたが、実は、今の法律はそうなっておりますが、これが少し悪い法律であったんじゃないかと私ども考えるのです。というのは、大法廷自身が、あの判例は悪かったといってやめようと思って、今度来たら改正したい、直したいというような考えがあるのに、小法廷が前の判例があるからそれでいいのだといって、大法廷へ回さないで自分で裁判するというような可能性もあるのでありまして、どうもあの規定はまずかったんじゃないかというように私は考えております。今の通りやっていってちっとも違憲じゃないと言いますが、小法廷はそういう点で非常に違憲になるおそれのあることなので、非常に警戒して処理しておったので、私は今最高裁におりませんが、私のおった当時には、そういう点で非常に薄氷を踏む思いで、そういう点を考えながら実は裁判しておったわけです。なるべく不服のないように考えてやっておったわけであります。今のままで違憲であるかないかは、それはワン・ベンチでやらなければいけないかどうかの点の解釈で違ってくることだと思います。
  30. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 なお、もう一つ質問したいのですが、今度の新しい立法のように、最高裁判所は九人で構成するという場合に、やはり定足数というものができると思います。そうすると、今までの例から言えば、まず六人だから、四人の判事で新しい判例ができてくる。こういうことに対する危険性があるかないか、それについて御意見を承わりたいと思います。
  31. 岩松三郎

    岩松公述人 今の九人ということになるとしても、定足数の問題は、ワン・ベンチでやらなければいけないという考え方からいきますと、定足数をきめるということが非常に危険なことになると私は思うのであります。(猪俣委員「それは矛盾だと思うのです」と呼ぶ)いや、矛盾とおっしゃいますが、法律というものは不能はしいないのであります。たとえば、突然人が一人死んだという場合には、死人を引っぱってくるわけにいきませんし、また重病であるという人間を引っぱってくるわけにもいきません。そういう意味で、法律は不能はしいないということから、やむを得ない人間の故障でベンチが構成できなかったときは、これはやむを得ないのだと思うのであります。だから、そう言うと語弊がありますが、最高裁判所の大法廷を構成する場合、判事が病気で休む、少しくらいの熱でも、むしろワン・フル・ベンチの精神から言って、定足数があるから安心して休むというようなことは、今の最高裁判所の判事はしていないと私は思うのです。今のといっても、私のいた当時は決してそういうことはやっておらなかったのです。いわんや、出張とかなんとかいうことで欠席することはないのです。いわゆる不能はしいないという精神だけでこれは救われる問題だと思うものですから、実際は、そういう工合にして、定足数があるからといって安心していいかげんなことで欠席するということは、ワン・フル・ベンチ論をとる限りは慎重にやっておったと思うのであります。また現にやっているはずだと思うのであります。ところが、九人になってもやはり不能はしいられないということになると思うのであります。それだから、ワン・フル・ベンチであればこそ、定足数というものが設けられているのであります。矛盾とおっしゃるが、これはワン・フル・ベンチでやるからこそ定足数が要るのであって、むしろワン・フル・ベンチでなかったら定足数というものは要らないものだと思います。それで、九人になってもやはり定足数は認めざるを得ないと思うのでありますが、そういう点で、定足数の制度を乱用したら非常な危険なことになるということはおっしゃる通りだと思います。最高裁の判事になるくらいの人間――まあ私みたいな者は別ですが、そういう無責任な考えは持たずに、結局定足数というものの悪用はないようにきっといたすだろうと確信するのです。  それに、先ほど佐藤公述人がおっしゃったように、最高裁の判事のような地位に適当な人を求めることは割合に困難じゃないかという点も、単純な人員増加ということになってはいけないから、やはり考えないといけないじゃないか。法制審議会などでも、今の人くらいは幾らでもあるよとおっしゃっている委員さんもおりますが、人材というものは、残念ながら、今の日本にはあまりいないんじゃないかと考えておるのです。むしろ七人くらいが一番いいんじゃないか、少ければ少いほどいいのですが、ほかの裁判などに五人構成があるので、それと同じくらいでも工合が悪いから、まあ七人くらいは集められるんじゃないかというふうに考えて、私個人としてはもともと七人がいいんだという考えを持っていたくらいで、あまりにも多く人材を集めることは困難になると思うのです。
  32. 三田村武夫

    ○三田村委員長 古屋貞雄君。――古屋君に申し上げますが、時間がたくさんありませんから、なるべく簡潔にお願いいたします。
  33. 古屋貞雄

    ○古屋委員 岩松公述人に、政府との関係がありますから、原案の提案理由関係などから勘案しましてお尋ねしたいのですが、今回の改正法案の提案理由によりますと、法制審議会の答申に基いて立案したのだ、こういうことを書いておるのですが、今出されておる原案は法制審議会の答申と異なった案が出されておると私は思うのです。その点についてお尋ねしたいのですが、答申の第一には、最高裁判所の機構に関する点については、最高裁判所は大法廷または小法廷で審理、裁判すること、こういうような答申が行われておるわけです。ところが、今の御説明によると、最高裁判所下級裁判所として小法廷を置く、こういうことに相なります。今回の裁判所法等一部改正法案の第二条には、特に最高裁判所の外に最高裁判所小法廷と、こうある。第八条の二にも、最高裁判所小法廷はこれを最高裁判所に置くということで別に外に出ておる。そういうことになりますと、答申と今度の原案というものとは非常に相違しておるわけであります。ですから、理由説明のように、法制審議会の答申に基いて原案は作成せられ、提案せられておるという説明と食い違うわけです、それに対して岩松公述人の御所見を承わりたいと思います。全然食い違って別のものであるかどうか、同じものであるかどうか、答申とかけ離れた別個の原案になっておるものであるかどうか、こういう点について伺いたい。
  34. 岩松三郎

    岩松公述人 お答えいたします。先ほども佐藤さんが言われたように、法制審議会の席上では、現在の小法廷が一体下級裁判所なのか最高裁判所そのものなのかということで非常にもんだのでありますが、その点は、含みといいますか、はっきり答申案に書くことは避けて、おのおの自分の考えに従って、腹の中ではどう考えるか、自由な立場でああいう答申をしたわけなんです。今私どもは、この改正案を見ますと、だいぶ自分たちの言っておったことに近くなったと思っておるくらいで、多少変ったようには思いますが、そうかけ離れてはいないので、答申案の趣旨に沿う、ああ書いたからといって、その中に入っていないものを書いたというようにはなっていないのじゃないかというように私考えております。ただ、私どもは、自分たちも言っておったのだが、はっきりしてきたなという感じは持っております。
  35. 古屋貞雄

    ○古屋委員 私の申し上げることは、答申案は、現行裁判所法第九条をそのままにして、それに対する答申だ。答申の字句を拝見しますと、最高裁判所は大法廷または小法廷で審理、裁判することと、こうありますから、これは明確に現行の第九条そのものを踏襲する、こういう答申の趣旨のように私どもは信じられるわけです。そうしますと、小法廷を別に外からつけ加えることになると、根本的に違ってくるのでありまして、どうも政府原案の提案理由というものはうそのものだということで、政府の責任問題を私どもは追及しなければならぬことに相なるわけなんですが、その答申の御趣旨がそういうように弾力性のあるようなものであったとは私ども考えられないと思うのです。最高裁は大法廷または小法廷で審理、裁判すること、こうありますから、そうすると、今の最高裁の小法廷と同じような、最高裁判所以外の下級裁判所を別に作れという、そういう趣旨ではないように思いますのでお尋ねしておるわけなんです。答申と原案というものは別のものになっておる、私はこういう確信を持っているわけなんですが、その点を承わっておるわけです。
  36. 岩松三郎

    岩松公述人 先ほど申し上げたように、法制審議会ではああいう工合に大法廷、小法廷裁判するというように書いてあるのですが、それは現行制度のままということですが、すでに小法廷というものが憲法の七十六条のいわゆる下級裁判所なんだ、同じものじゃないんだという議論をしておったのでございますから、その点をはっきりさせろということを私どもはいろいろ主張したのでありますが、そういうことはきめないで、それは含みにしておいて、そうしてこういう工合に書いておけば、それは解釈でどうにでもなるんじゃないか、解釈に譲ろうじゃないかということで、結局妥協してああいうことができたのでありまして、やっちゃいけないんだということは、別に答申のときの決議にはなかったと思うのです。従って、私どもは、今になれば、少し自分らの言っていたことと同じように、だいぶ近くなってはっきりさしてくれたな、こうは思いますが、おっしゃるように、かけ離れたとか答申の趣旨を無視してやったとは私ども考えておりません。自分に都合がよくなったからというせいかもしれませんが、そういう感じはいたしておりません。そういう含みであったので、あなたのおっしゃるように、そういうことをしないんだということで決はとられていないのです。
  37. 古屋貞雄

    ○古屋委員 実は、私どもりくつを言うのではないのですけれども、答申案の趣旨というものは、最高裁の一機構であって、内部的なものであってそういう審理をさせるんだというような趣旨に、字句を見ると考えられるわけです。でありますから、従って、今度は別に外から付置する、つけ加えるということになると、別のものをつけ加えるということになるように考えられる。だから、小法廷は別個の下級裁判所だ、こう明確に割り切ってしまうと、何だか答申の趣旨と大きく食い違って参りまして、答申の趣旨が非常に曲げられてくるというように非常な疑問を持つわけであります。従って、私どもは政府の責任を追及ぜざるを得なくなるということに相なるわけでありますが、やはり、そういうような含みはこの字句の中にはないわけなんです。私どもの方から申し上げるのは厳格に字句そのものを解釈申し上げる。そうして、答申の趣旨は、内部的な最高裁の一部の機構であったので、そういうものに裁判させるのだ、こういう答申なんだけれども、今度の原案は、下級裁判所という全然別個の裁判所がここにつけ加えられておるということが条文に載っておるので、そういう解釈になってくるから非常に食い違うように思うのですが、やはり、その答申のときの趣旨が、ここに書いてある字句はそういうような弾力性のある解釈ができるような趣旨の御答申であったということに相なるのでしょうか。
  38. 岩松三郎

    岩松公述人 先ほどから申し上げた趣旨はそういう意味なんで、そういうふうな点からも、先ほど猪俣さんが非常に力んでおられたのですが、付置ということがこの改正案では書かれておるのも、そういう意味がだいぶあるのではないかと思うのであります。法律でいけば猪俣さんの考えるようにできないことではない。ただ、今までにはないような形だけなので、不可能なことではないというように考えておるのであります。そうして、ああいうことと相待つと、全体として法制審議会の答申に抵触したり矛盾したりすることはもちろんなく、解釈で、まかせようじゃないか、そういうことをここではっきり書くことだけやめようじゃないかといっただけなのでありまして、趣旨はあまり反していないというように考えます。
  39. 古屋貞雄

    ○古屋委員 その点は、私が審議会の委員でもございませんから、それ以上は追及いたさないで、私どもはそういうように食い違っておると考えておるので質問を申し上げたのです。  以上でけっこうです。
  40. 三田村武夫

    ○三田村委員長 他に御質疑がなければ、午前中の公聴会はこの程度にとどめます。  この際一言委員長より公述人各位にお礼を申し上げます。長時間にわたり熱心に御意見をお述べいただきまして、まことにありがとうございました。今後の委員会審査に十分参考にいたして参りたいと存じます。  午後二時再開することとし、暫時休憩いたします。    午後一時二十七分休憩      ――――◇―――――    午後二時四十三分開議
  41. 三田村武夫

    ○三田村委員長 休憩前に引き続き法務委員会公聴会を開きます。  本日午後の出席公述人は、慶応義塾大学教授峯村光郎君、東京都立大学教授戒能通孝君、弁護士岡辨良君、総評議長原口幸隆君及び東京新聞論説委員及川六三四君の五名の方々でございます。  この際公述人の皆さんに一言ごあいさつ申し上げます。本日は御多忙中にもかかわらず当委員会公述人として御出店下さいましたことにつきまして、委員一同を代表いたしまして厚くお礼を申し上げます。公述人におかれましては、最高裁判所の機構改革問題につきまして、それぞれの立場から忌憚のない御意見を御発表下さいますようお願い申し上げます。ただ、時間の都合上、公述の時間は御一人大体十五分から二十分程度といたしますが、公述あと委員諸君から質問があると思いますから、その際も忌憚なく御意見の御発表を願います。  次に、公述人の皆様が御発言の際は、冒頭に職業または所属団体名並びに御氏名をお述べ願いたいと存じます。なお、発言の順位は勝手ながら委員長においてきめさせていただきます。  それでは、まず峯村公述人より御意見を承わります。  峯村公述人に対しては、法哲学者の立場から、一、法とか司法、裁判というものの本質、性格、相互の関連という根本的な問題に触れながら、本案における最高裁判所の機構、権限上告制度の点についての御意見、なお、あわせて最高裁の違憲宣言判決当事者を越え一般的効力を持つものであるかどうかについての御意見、二、わが国においても法律の合憲推定ということが認められるかその忠義と効果について、三、成文法主義をとっているわが法制のもとで判例を法源と認めるべきか、法令違反のほかに判例違反上告理由とすることの可否について、以上の諸点について御意見をお述べ願いたいと思います。
  42. 峯村光郎

    ○峯村公述人 慶応義塾大学の峯村光郎でございます。  ただいま御指摘のように、私には大きく三つの問題が課されておりますので、一つずつ問題について意見を述べさしていただきます。  最初に、法、司法、裁判というものの本質、性格、相互の関連という根本的な問題に触れながら、本案における最高裁判所の機構、権限上告制度の点について意見を述べよということでございまして、この一問には、なおあわせて最高裁の違憲宣言判決は当筆者を越えて一般的効力を持つものであるかどうかということをもお問い合せなので、まず第一問の一点から申し上げます。  問題の性質上説明は多少抽象的になるかと思いますが、法が法である根本的な理由は、その法が現実の社会生活に対して働きかけ、その中に事実として行われているという点にあるわけであります。法が現実の法として社会生活に働きかけ、現実の社会生活の中に事実として行われることが法の本質なわけであります。そこで、実定法は、一つの制約された法の可能性として、法可能性一般ではありませんが、法可能性一般の中に含まれていなければならないわけであります。従って、実定法は、実定化された一つの可能な法であり、法理性ないし法論理そのものではありませんが、それらの中に含まれていなければなりませんから、法の実定性は法理性または法の論理によって基礎つけられているわけであります。また、法の正当性も、すべての実定法が現実の法として一般に可能であるために満たさなければならない条件であります。言葉をかえて申しますと、法の正当性は、法の可能性であり、法の理念である限りにおいて、法そのものではありませんが、法の規範性の根源であります。従って、法が現実の社会生活に対して働きかけ、その中に実現されることを要請する一つ価値であるといわなければなりません。いわば、すべての実定法がそれに従い、また従わなければならないところのものであります。このような特定の正当性に基く規範性を持つ法がすなわち実定法なのであります。従って、実定法は法として妥当するような客観的形態を与えられた正当性であると申すことができましょう。言葉をかえて言えば、実定法は一つの制約された法の理念として、法理念一般ではありませんが、法理念一般の中に含まれているものであります。従って、実定法は実定化された法理念、すなわち作間的、空間的に固定化された正当性であると言うことができるわけであります。  このように、実定性と正当性の相互的制約関係からでき上る法は、一方においては存在的当為であると同時に、他方においては当為的存在であります。しかも、法の実定性は制約された法の論理であり、法の正当性は限定された法理、念でありますから、いずれも、法論理そのものでもなければ、法理念そのものでもないわけであります。従って、絶対的ではなく相対的であり、従ってまた歴史的である、これが法の根本問題であります。  これとの関係において司法、裁判を申し上げますと、法の適用を一義的にするための国家的判断が裁判であり、その作用が司法であります。裁判は、関係人の間に紛争や利害の対立による争訟があってこれを解決調整する必要がある場合に、国家機関である裁判所が法を適用して行われる法的判断であります。裁判を公正に行うためには、対立する利害関係人を関与させ、その主張を聞く手続を経るのが普通であって、これが訴訟であります。それゆえ、司法作用は裁判という国家の行為によって守られ、これを行うために訴訟という形式がとられるのであります。従って、司法制度裁判制度訴訟制度というものは、それぞれ同一現象についての観察の相違によって生ずるものであります。  次に、法と裁判との関係でございますが、法と裁判とは、相互に協力して、法の実現による国家目的の達成をはかるところにあります。立法は国家理念の固定化の過程としてあまたの政策を内容とする法を定立いたします。しかし、法内容の実現のためには司法の協力を欠くことはできません。また、裁判はあくまでも具体的妥当性の確保を目的とするものでありますが、さりとて、統一的基準に準拠しない紛争の臨機応変の解決調整であるべきではありません。裁判がそのようなものであるならば、われわれは裁判に公正な判断を期待し得ないからであります。そこで、法を前提として、法の適用を目的とする裁判によってその社会的機能と規範性の実現が保障され、裁判はまた法によることによって初めて統一性と公正を確保することができるわけであります。この点こそまさに法と裁判、すなわち立法と司法の本質的同一性と機能的異質性の根拠があるわけであります。これが第一問の第一点であります。  次に、最高裁の違憲宣言判決当事者を越えて一般的効力を持つかという問題についてごく簡単に申し上げますが、最高裁は一切の法令または処分が憲法に適合するかどうかを決定する権限を持った終審裁判所であることは憲法八十一条の明定するところであります。このように、最高裁判所法令または処分についてもこれを憲法違反としてその無効を宣言することができます。これが違憲法審査権であり、民主法治国家における司法権の優位の根本をなすものであります。  では、この法令審査権は最高裁判所に限られるものであるかどうか、この点については、下級裁判所にもその権限があるとする見解もありますが、終審裁判所である最高裁の特別権限と認める見解が妥当だろうと思うのでありますしと申しましても、下級裁判所が個々の事件の解決に当って法令審査ができないというのではありません。なぜならば、最高法規である憲法に違背する法令が無効であることはもちろんであるからであります。これも憲法九十八条に明定しております。そこで、独立の国家機関としての下級裁判所は、自己の職権を行使する前提として、順守適用すべき法令の有効無効を認定できなければならないはずであります。一般的に他を拘束しないそれぞれの国次機関の見解が対立して収拾できない場合の最後の判断を最高裁判所権限として国家的判断の統一をはかったのが憲法第八十一条と見るべきでありましょう。これが、最高裁判所憲法の解釈権を持ち、いわゆる憲法の番人と言われるゆえんであります。最高裁判所がこの権限を行う場合には、大法廷すなわち全員の裁判官の合議体で裁判するのであります。これは裁判所法十条にも規定してございます。また、法令審査権を行使するのは具体的訴訟事件について問題を生じた場合に限られ、法令に疑義があるからといって、具体的な訴訟事件関係なく、法令自体について抽象的に法令の無効を決定することはできません、従って、特定の法令違憲であるかないかをためそうとするときには、その法令の適用が問題となるような具体的事件を作って出訴するよりほかないわけであります。いわゆるテスト・ケースと言われるものがこれであります。  最高裁判所によって憲法違反であると判断された法令は、それによって直ちに効力を失うのではなく、その裁判目的となった具体的事件に対して適用が排除されるにすぎないとする見解もありますが、最高裁判所だからといって必ずしも下級裁判所を拘束しないわが法制のもとにおいては、右のような解釈では憲法第八十一条が有名無実になるわけであります。そこで、最高裁判所違憲の判断は、普通の裁判と異なり、一般的に他の国家機関を拘束し、この点についての国家の最終的判断としてその法令の無効を確定的なものとするわけであります。従って、一たん違憲判決をした以上、最高裁判所自身といえども、これを変更して、無効とした法令効力を復活することができないと解すべきであると考えるわけであります。  以上が第一問についてのごく簡単な意見でございます。  第二問についてでございますが、わが国において法律の合憲推定ということが認められるかということですが、司法権の優位が法制上認められており、最高裁判所に違憲法審査権がある以上、一応法律の合憲推定をすることが妥当だろうと思うのであります。これは考え方によっては逆の考え方も理論的には成り立つわけでありますが、個個独立の国家機関法律の合憲推定について疑義を持ち、それぞれ異なった判断をすることが、法的安定性という見地から考えても、むしろ法律の合憲推定ということを認め、最後に法令審査権の決定に待つということが制度としては妥当だろうと思うのです。ただ、わが国においては、諸外国と違い、具体的なケースについて違憲法審査を求めるという実例が少いので、その点、たとえば学界において十中八、九違憲立法であるというような法律が堂堂と法律として存続しているようなわが国の状態から言うならば、この点は、制度としては法律の合憲推定ということは認めるとしても、実際に法律の合憲推定をした後にさらに違憲法審査権を具体的に個々の国民が実施するという心がまえを持たなければ、この点はかえって混乱を、あるいは結果においてはその制度と違った結果に到達するおそれがあろうかと思います。  第三は、成文法主義をとっているわが法制のもとで判例を法源と認めるべきか。これもすでに学界でいろいろ論議された問題でございますが、上級裁判所判決は同質の事件について下級裁判所を拘束するイギリスと違い、わが国の最高裁判所はアメリカ合衆国の高等法院と同じように法律違憲審査権を持ってはいますが、ヨーロッパ大陸諸国と同様に純然たる法典主義に立脚して、裁判所は同級及び上級裁判所判決に拘束されないことを原則としております。このような法律制度のもとにおいて、一定の法律問題に関して同趣旨の判決が反復され、判例の方向が大体確定された場合においては、その判例は成文法並びに慣習法に対する特別の法源として認めらるべきであろうか、言いかえれば、判例法の存立を容認すべきであろうかという問題になるわけであります。裁判所が一般に法律の定立に関して影響を及ぼし得る何らの形式的権限をも認められない法制のもとにおいては、形式的立場からすれば、判例は単に法律の適用であるにとどまり、法律の定立たるものではないとされ、従って、独立の法源としての判例法の存在を認めることは無意味であるとされるわけであります。しかしながら、判例と社会生活との実質的関連について見ますと、裁判所は、法的安定性のために重大な理由及び確実な根拠がある場合でなければ従来の判例の変更をあえてするものではなく、また、下級裁判所も特別な理由のない限り訴訟経済上よりして上級裁判所判例を踏襲するのでありますから、判例法律上の拘束力がないにもかかわらず、事実上の拘束力を持ち、従って、法律の適用は裁判所を通じて法律の定立と同様の結果を生ずるのであります。もちろん、判例の拘束力は成文法の拘束力のように一般的ではありませんが、成文法の拘束力よりも具体的事実関係に関するものであるから、広い幅はないが深さにおいてはまさっているのであります。また、判例は成文法のように抽象化された形式において現われるものではなく、それ自身一つの具体的事実関係と結合して現われるものであります。その生成の過秘において一種の立法的機能を営むことが理解されます。裁判所の立法行為という言葉は一見不思議に考えられるわけでありますが、司法の国家的機能を分析することによって、以上申し上げたことは理解できることと考えられますので、成文法主義をとっているわが法制のもとにおいても判例を法源と認めるべきであるというふうに考えるわけであります。  次に、法令違反のほかに判例上告理由とすることの可否。これも、先ほど申し上げたように、法律は無限の社会的合理性を含みならが具体的には実定法という限定されたワクの中で表現されておりますので、常に、ある立場で正当と判断したことは、あくまでもその正当性は相対的正当性であり、その限りにおいて相対的不出性を含んでいるわけであります。そうした点からいきましても、判例上告理由とすることによって、いわば裁判を通じて法の自己実現過程を期するという裁判目的に合致する。従って、判例上告理由とすることが妥当だろうと思うわけであります。  最後に、法哲学的立場における裁判という意味は普通実定法上の裁判と異なる点を一言付言したいと思うわけであります。法哲学的意味における裁判は、単に制度裁判所の行う裁判だけに限らず、みずからただす自己裁判及びみずからたださざるがゆえに他人によってただされなければならない他人による裁判をもあわせ意味するのであります。従って、法の効力裁判への可能性であると言われるわけであります。法の正当性は裁判において実現さるべき一つの可能性であり、裁判は法の自己実現のための過程である、こういうふうに考えるわけであります。  以上の諸理由から、今回問題になっている最高裁判所の機構、権限上告制度の点について意見を述べよということでございますが、以上抽象的な法理の立場から具体的政策の問題に触れて参りますと、かなり問題は決定が困難になります。ただ、しいて申し上げますと、今回の改正点をしぼって、第一に、最高裁判所の判事を八人で構成するものとして、その全員の裁判官の合議体で審理、裁判する、この憲法違反判例変更等の重要事件を扱う裁判所の人数を何人にしたらいいかということは、きわめてむずかしい問題であります。もし合議体の意見をまとめる上に便宜であるという立場から見ましても、これが八人でいいか十五人でいいかは問題であります。要は合議体をどのようにまとめるかという技術の問題で、すなわち、本質的に言うならば、判事の数が少くなればなるほど憲法違反判例変更等の重要な問題について判事一人の役割が大きいということにもなり、一人の負担する役割が大きければ大きいほど、その人を得ることに困難になる。人を御ないと重要な問題があるべき姿において表現されない結果になるという危険をはらむことを見のがすわけには参りません。従って、合議体であるがゆえに当然に少くていいという必然的議論は出てこないわけであります。要は、何人の合議体が最もこれら重要な問題について目的に沿った決定ができるかという技術問題になる。その点を考慮するならば、減員がいいとか増員がいいとかいうことは相対的な問題で、要は具体問題に即して決定さるべき問題だと思うわけであります。  次に、小法廷最高裁判所に付置して、この小法廷を三人以上の員数の裁判官の合議体で審理、裁判をするということでございますが、これも、人が得られるかどうか、その人の待遇がどうかというような政策問題は非常に重要な問題でありますが、上告裁判所をこのような形でふやして、そして上告事件の処理を進めるということは、最も今日当面の火急の問題であって、その目的のためには、これも一方法かと思うわけであります。  第二点は、上告理由を拡張して、特に刑事事件については裁判影響を及ぼすことが明らかな法令違反があって原判決を破棄しなければ著しく正義に反することを上告理由とすることは、むしろ当然過ぎるくらい当然である。常に裁判は無限の社会的合理性を求めてやまないものでありながら、法自身が常に実定的に限定された合理性しか表現しないものであるならば、社会的、歴史的な事象の進展とともに無限の合理性を求めるためには、このような上告理由を拡張することは最も妥当だと思うわけであります。ただし、憲法違反事件については、先ほど申し上げたように、憲法七十九条、八十一条との必然的関連から、これはワン・ベンチで違憲法審査権は扱かわなければならないということは当然だろうと思うわけであります。  次に、第三点は、小法廷には憲法違反事件は扱わせないで、そういう問題は最高裁判所に移させることにする、小法廷裁判に対しては、憲法違反理由とするときに限り特に最高裁判所異議申し立てをするという第三点でございますが、これも、いわば小法廷憲法違反審査権を持たないということになるわけでありまして、その点においては、他の下級裁判所よりも権限が縮小されるかと思うのでありますが、この点も、こういう小法廷事件を扱わせて、それが憲法に違反を理由とするものであるならば最高裁に持っていく、これが四審制度になるというような非難もありますが、別な上告裁判所を認めても、受理は当然のことであります。ただ、一部に、小法廷においても憲法違反事件を扱うのだ、それが最高裁の違憲法審査権だという議論もありますが、これは七十九条、八十一条の解釈としては多少率強附会のそしりを免れないだろうと思うわけであります。  最後に、第四点は、裁判官任命諮問審議会の諮問に付して選任をするというのですが、この手続には別に異存はござまいせん。私は、法哲学の立場から、一般抽象的なことを申し上げて、法律の正当性というものは限定された正当性である、ところが裁判は社会的合理性という無限の合理性を求めているのだから、でき得る限り審査の段階を広く認めていくという趣旨には賛成であります。ただ、最高裁の判事の数を何人にしたらいいか、直ちに減したらいいかということになると、これは論断し得ない問題でありますから、全般的に申しますと、問題の運用を最も合理的にしようという見地から、善意によって具体的、政策的な問題を決定すべきである、趣旨としては今回の改正案はまあまあどの点もさして悪い点はない、無難と言えば無難と言えるし、非常に言葉がどうかと思いますが、全体的に言って、私は必ずしも積極的に賛成ではないけれども、さりとて積極的に反対もしない、消極的賛成論の結論になるわけであります。  以上が私の要旨の大体でございます。
  43. 三田村武夫

    ○三田村委員長 峯村公述人に対し御質疑はございませんか。池田清志君。
  44. 池田清志

    ○池田(清)委員 一点だけお尋ねをいたします。ただいま大へん深遠なお話を伺ったのでありますが、現在の憲法におきまして、九十九条は、天皇、摂政、国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員、こういう者はこの憲法を尊重し擁護する義務がある、こう規定しております。ここに掲げてあるこれらの者は、三権分立になっておりますそのいずれかの一つに入っておる者であります。従いまして、国会議員でありますならば、立法府に属しております立場からいたしまして、この憲法を尊重、擁護する。従いまして、それが具体的立法においても実現をいたすべきです。さように考えますと、立法府といたしましては、憲法に違反する法律を作る危険はないのだ、そこまで国会議員おのおのが職務に透徹していくならば、そのことが期せられるわけだと思うのです。行政府についても同様であり、司法府についても同様であるわけです。さすれば、九十九条がりっぱに守られる限りにおいては、憲法に違反する法律、命令、処分というものはあり得ない。しかしながら、経過的なこともありまして、憲法九十八条は憲法に違反する法律等は無効であるということを宣言いたしておるわけであります。このことは、事実憲法に違反する法律などがありますならばそれは無効であるということをりっぱに憲法規定しているにかかわらず、神様ならばそれがわかるでありましょうけれども、残念ながら人間はそれがわからない。従って、憲法に違反しないかどうかということを調べる必要があるということが当然に生まれてくるだろうと思います。このことを解決するために、憲法八十一条は違憲法令の審査権というものを司法権の中に書き加えておるわけであります。つまり、このことは、三権分立の建前から申しまして、違憲法審査権というものを司法権の範疇の中に書き加えるということは、便宜で書いたものであるか、それともまた、司法権の当然の合理性と申しますか、正当性と申しますか、それから発足いたしまして、憲法八十一条というものが書き加えられておるものであるかどうかを、一つお示しをお願いします。
  45. 峯村光郎

    ○峯村公述人 私の考えでは、お説の通りに、法本来の建前においては何人といえども憲法違反の行動をとることは許されない立場にございますが、現実具体的に、神ならぬ身の知るよしもなしで、そうしたものがあるやもしれないから、できる限りそうしたものを制度的に防ごうという三権分立の本質的な要請から、八十一条というような司法権の優越と違憲立法審査権というふうなものを認める結論が出てきたのではないかというふうに考える次第です。
  46. 池田清志

    ○池田(清)委員 さて、そういう審査権の必要を国として認めることはわかりますが、それをどこの機関でやらせるかということ、すなわち、三権が分立しておるという建前をとっております日本憲法において、現在は司法権の中にこれが書き加えられておるのでありますが、それは、ここに書き加えられるのが、当然法の正当性と申しますか、それから来たのであるか、それとも、たまたまこの審査権なるものは訴訟、争いの形をもって進んでおります現在の制度として、司法権の中に書き加えられるのがよろしいという便宜上のことから生まれたのか、そこのところを一つ御判定願いたいと思います。
  47. 峯村光郎

    ○峯村公述人 それは、おそらく司法の本質から見て、司法権の範囲に属せしめるのが事の本質上妥当であるという点から要請されたので、単なる便宜主義と認めらるべきではないと思います。
  48. 三田村武夫

    ○三田村委員長 高橋禎一君。
  49. 高橋禎一

    ○高橋(禎)委員 上告理由の範囲を広げるということについては強く御賛成の御意見があったのですが、ある程度広げるのではまだ不十分で、民事訴訟法なんかともちょっと差があるようでありますし、なお古い刑事訴訟法なんかと今の訴訟法を比べますと範囲が狭まっているわけですが、もっと範囲を広げた方がいいのだというような御意見はありませんでしょうか、そこを伺いたい。
  50. 峯村光郎

    ○峯村公述人 民事におきましてもすでに判決影響を及ぼすことが明かなる法令違反上告理由にしているというのと、おそらく歩調を合せて、今回、判決影響を及ぼすことが明らかな法令の違反があって原判決を破棄しなければ著しく正義に反する場合を刑事の場合についても上告理由としょうというのでございましょうが、事の性質から言うならば、裁判の本来の趣旨から言って、私はできる限り広げるべきだと思うのです。ところが、問題は、一方においてはそれを技術的にどう迅速に処理するかということにかかっております。ちょうど、法律の根底には正当性の無限の要求があるけれども、実は現われてくるのは実定法の形で時間的に空間的に限定されて出てくる。そのかね合いをどうしようかというふうな点で政策問題を決定するとすれば、お説のように、本来上告理由はでき縛る限り広く認めるべきであるけれども、今度は裁判の迅速決定を可能にするという技術的な問題とのかね合いで、どの程度に締めたらいいかという制度論と関連してきめらるべきであろうと思います。これは、私も、一がいに、今度は広げたまま、今もって何千件という問題が山積している最高裁にこれ以上の問題が山積するということは、理屈にとらわれて実際の問題を無視するきらいがありますので、一方ではできる限り審査の範囲を広くする、ただし、それはできる限り急速かつ合理的に処理するという問題とのかね合いで決定するのが必要ではないかというふうなことしか申し上げられません。
  51. 高橋禎一

    ○高橋(禎)委員 次にお尋ねしたいと思いますが、この案の最高裁判所小法廷裁判がありますと、それが一応確定するわけです。ところが、その裁判憲法解釈の誤まりがあることその他憲法違反があることを理由とするときに限って大法廷異議申し立てをすることができる、こういうのでありますから、憲法問題はあと回しにしておいて裁判確定させるというふうな結果になるわけです。そういうように、憲法問題を除いて裁判確定させていくということは、いかにも憲法の問題を何か軽く取り扱うような感じがするわけです。裁判憲法違反があるかどうかという疑問を除いておいてそれを確定さすということはむしろ逆で、国民の基本的人権を測定しておる憲章とでも言いますか、そういった大きな根本的な問題をあと回しにして裁判確定するということが、どうも私ども国民の気持にぴったりこないのじゃないか、また、裁判というものの性質考えますときに、そういうことであってはいかぬのじゃないかという野川がわれわれにも起るわけですが、そこのところはどういうようにお考えになりましょうか。
  52. 峯村光郎

    ○峯村公述人 お説のごとくであるとすれば、私も全く同じ結論でございます。ただ、提案理由説明書第三点の説明を読みますと、憲法問題について判断をする場合及び従来の判例を変更する場合等においては最高裁において裁判をさせることが適当と考えられるので事件最高裁に移すというのですが、こういう段階で、今度は憲法問題並びに従来の判例を変更する場合でない問題が小法廷で扱われていって、結果から見ればそれが憲法違反理由で問題になり得る限りにおいてはれを最高裁に異議申し立てができるというふうにした場合は、やはりこれは段階が違いやしないかと思います。もしお説のように憲法関係する問題でも小法廷で最初から扱うというなら、これは言語道断であり、言いかえれば、憲法七十九条、八十一条の趣旨から絶対に認められない。しかしながら、そういう問題は最高裁に移管するということにしておいて、直接に憲法違反の問題でもなければ従来の判例を変える問題でもない、法適用、解釈上の問題で小法廷にかけていった結果、その小法廷判決が結果において憲法違反と見られる場合、それを理由にして最高裁に異議申し立てるというふうにするならば、これはやむを得ないのじゃないか。一応その趣旨は、上告裁判所としての小法廷の役割を、そこでは憲法問題をさせない、しかし結果においてそれが憲法違反理由とするというならば、四審と非難をされようとも当然最高裁に異議申し立てをしていいのじゃないか、こういうように理解しております。
  53. 高橋禎一

    ○高橋(禎)委員 大体私も今おっしゃったようなふうに考えておるのです。従って、最高裁判所小法廷で行なった裁判憲法の解釈を誤まりあるいは憲法違反があるといったような理由異議申し立てをするというような場合は、これは数においてはあるいは少いかもしれません。けれども最高裁判所小法廷判決を経ない、町等裁判所判決そのものに憲法の解釈の誤まりがあるとかあるいは憲法違反があるということを理由にして上告したとしても、実際問題としては、すなわち憲法の解釈を誤まったとか憲法に違反するとかいう例は少いと思うのです。ですから、数の点だけをもってここの理屈を左右することはできないように私は思うのです。かりに数は少くても最高裁判所小法廷で行なった裁判憲法上疑義があるというようなものを、これを確定させてしまって、憲法問題はあと回しだというのが、どうも憲法がやはり根本ではないか、憲法の解釈を誤まったりあるいは違憲裁判だ、こう思えるようなものを確定さして、しかも刑事事件でしたら刑の執行をするわけです。そういうふうなことがどうも納得いかない制度ではないか、こういうふうに考えたものですからお尋ねをいたしたわけなんでして、やはり先生の心配されるようなことに私はなるのじゃないか、こう思うのです。
  54. 峯村光郎

    ○峯村公述人 もしそういう運用の方法だとすれば、私も全く同感でございまして、高等裁判所判決について憲法違反異議申し立てられているのに、これを小法廷であえて憲法違反にあらずといって実体的な判断をするというふうな運用の仕方をすれば、これは今回の改正の趣旨を非常に大きく乱用するものではないかと思いまして、その点は、かりに十年に一件あっても、それは数の問題ではない、本質の問題であると考えまして、そういうおそれがあるとすれば、これは重々警戒しなければいけない問題だと私も同感する次第でございます。
  55. 高橋禎一

    ○高橋(禎)委員 いま一点、先年はワン・ベンチ論者というふうに伺ったのですが、前に詳しい理由の御説明があったかどうか存じませんが、今の憲法規定上あるいは解釈上ワン・ベンチでなければならないということをいま少し明確にお述べいただければと思うのです。
  56. 峯村光郎

    ○峯村公述人 これは憲法七十九条と八十一条との関係で私はそう見たいのでございます。まず八十一条の方からでございますが、最高裁判所法令審査権があるということを規定している。その最高裁判所というのは、七十九条で「その長たる裁判官及び法律の定める員数のその他の裁判官でこれを構成し」とありますので、これがまさに最高裁判所裁判官全員の合議体という、八十一条の違憲審査権が長官及び最高裁判所判事全員をもって構成する最高裁判所権限であるというふうな、法律上の解釈から実はそういう意見を申し上げたわけでございます。
  57. 三田村武夫

    ○三田村委員長 猪俣浩三君。
  58. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 峯村先生は法哲学の権威者でありますし、私も統制経済法の木を読んだことがありますので、抽象的な問題でありますが、御意見を承わりたいと思うのです。  最高裁判所の機構改革の重点は、最高裁判所の判事を増員するか減員するか、実質においては増員なのでありますが、その増員の形を最高裁判所の判事たる地位において増員するか、今政府が出しましたような、形を変えた増員にするかということであります。そこで、最高裁判所の判事を九人にする、これもしかるべき理由があることは万万承知いたします。そこで、この実質上の純粋の増員論と、今回の政府の提案というものとの差異は、この最高裁判所性格に響いてくるのじゃなかろうか。九人の判事で憲法裁判だけをやるということになると、憲法第八十一条の憲法裁判所としての性格が非常に強化される、憲法七十六条の一般司法裁判所としてはいわゆる最高裁判所小法廷という下級裁判所がやる、今の政府の原案はそういうふうに見えるのですが、そこで、わが憲法の解釈上、あるいはまた法哲学の立場から、最高裁判所をして憲法裁判所に専念せしめ、そうして一般の民事刑事の、憲法問題を含まざる法令違反その他は下級裁判所が終審裁判所になるということが許されるかどうかということと、最高裁判所は、国民主権主義の貫きとしまして、国民の審判を受ける者によって構成されておるが、この国民の審判を受けざる下級裁判所に、国民の基本的権利に関係のありまするところのそういう権利関係を最終的に確定せしめるような力を持たせるということが、わが憲法の予定しておりまする国民主権主義とどう調和することに相なるか、さようなことについて御意見を承わりたいと思います。
  59. 峯村光郎

    ○峯村公述人 第一点は、最高裁判所の判事数の実質的な減員、形式的増員という問題ですが、これについては、先ほど一言申し上げたように、私は必ずしも実質的減員には理由がないと思います。と申しますのは、合議体であるがゆえに少い方がいいという考え方は、むしろ時代錯誤であって、合議体であればあるほど、重要な問題については多数の意見を聴取し得る、多数の人が参加し縛る制度をとるべきである、その点において、八人がまとまりやすくて、三十人がまとまりやすくないという形式論は、全く本質的な理由を欠いているものである、要は、その運用いかんによって可能であるし、しかも、問題の決定が重要であればあるほど、一人の判事の営む、ウエートを軽くするためにも多くすることが望ましいことだということは、先ほど申し上げた通りでございます。  ただ、国民主権主義のもとにおいて国民審査を受けない小法廷判事がこの基本問題を最終審としてやることがいいかいけないかという問題は、むしろ私は憲法学者の御意見を承わっていただいた方が――私がかりに意見をどう申し上げたとしても、何らオーソライズするところのないしろうと論になってしまうわけでございますが、御指摘の点も十分勘案する重要な一つ理由になろうかと思います。そうすると、別に上告裁判所を設けた場合に、さらにその上告裁判所の判事も全部国民審査を受けるという制度にしていかなければいけないという問題と比較して、それならば、小法廷裁判官をも、また単なる裁判官任命諮問審議会だけではなくて国民の審査にかけるというふうな制度的な改変も一つ考え方として考えられるのではないかと思うのでありますが、第一点については、率直に申し上げまして、私は、必ずしも減員に賛成する理由を欠く、それから、第二点については、率直に申しまして、むしろ憲法学者の御意見を承わってみないとはっきりした答えは申し上げられせまんが、私の意見としては、小法廷も最終的に国民の権利義務について審判を下すというならば、それに対して国民審査制度を設けるなり、その御指摘の点は全く御意見通りだろうと思います。
  60. 三田村武夫

    ○三田村委員長 猪俣君に申し上げます。峯村先生はきょう三時から所用があるそうでありますので、なるべく簡潔にお願いします。発言制限する意味ではございません。お含みの上簡潔にお願いいたします。
  61. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 私、第一点としてお尋ねいたしました点をもうちょっと敷衍させていただきますが、それは、わが国の憲法の建前上、最高裁判所憲法問題だけを審判して、一般の刑事民事の審判から遠ざかるということは、ややともすれば最高裁判所が国民の日常生活、国民の前から高いところへ上ってしまって、国民との連絡を失うということに相なるという議論もあるのでありますが、今の政府の原案は相当さような色彩が濃厚になっております。これに対する御意見を承わりたい。
  62. 峯村光郎

    ○峯村公述人 従来の私どもの法感覚あるいは法意識から言いますと、最高裁判所の判事が憲法問題だけに専念して、国民の日常生活に最も関連の深い民事刑事裁判から遠ざかるということは、いかにも裁判官としての本来の職能を軽んずると申しますか、本来の職能から言って妥当でないような感じもしないわけではございませんが、憲法違反法令審査というものは、むしろわれわれの日常生活の根底にあるものであって、これこそまさに民事刑事の根底にこそあれ、その上にうわつくものではないから、これは最高裁判所の主体的態度によって、一がいに国民生活から遊離するというふうに判断することは、あまりに形式主義的ではないかというふうに考える次第でございます。
  63. 三田村武夫

    ○三田村委員長 他に御質疑はありませんか。――なければ、峯村公述人公述はこれにて終ることにいたします。  峯村公述人には多御忙中まことにありがとうございました。御意見は本案審査の重要な参考にいたしたいと思います。  次に原口公述人の御意見を伺います。  原口公述人には、勤労者の側と申しますか、長い組合活動の御経験をお打ちのようでございますから、労働組合側の止揚から、司法のあり方について、特に国民主権下における最高裁判所のあり方及び上告の範囲、その他本案に関連した事項全般にわたっての御意見を伺いたいと思います。
  64. 原口幸隆

    ○原口公述人 総評の原口幸隆でございます。専門家でありませんので、私たちの立場から見た二、三の問題点を指摘するにとどめたいと思います。  まず第一に、今回の最高裁の機構改革については、単なる事務処理という立場からの機構いじりではなくて、国民の基本的権利をどのようにして守るかという立場で行なっていただきたい。現在最高裁はたくさんの案件を持っているようですが、そういうところに重要な理由があるのであれば、下級審の充実をもっと根本的に考えてもらったらどうだろうかというふうに思うわけです。警察官の点数主義あるいは検察官の起訴独占主義というものは、私たちの労働運動の中でもいたずらに事件を多くしている事実があります。およそ刑事犯罪と考えられないようなものまで、労働組合の組織破壊のために逮捕をし、それを起訴しているという事実があるからです。たとえば、この法務委員会で調査をされておられる菅生事件等はその好例だというふうに思うわけです。下級審でだれもが納得できる裁判判決がなされたならば、現在のように最高裁に案件がたまっていくということはないであろう。国民も第一審以来最高裁判決まで十一年間も被告の汚名を受けることはなくなるというふうに考えるわけです。従って、警察や検察庁に対しても、もっときぜんと、見識のある態度をもって事実を明確に判断し、納得できる裁判官が下級審に多くなるように望むわけであります。  次に、現在行われておりまする国民審査の方法についても、今の捜索方式では、裁判官の適否を公正に判断することはできないというふうに考えています。私たちは、策一回の国民審査が行われたときから、現在の投票方式には反対を続けております。やはり、裁判官に対する罷免の意思というものを明確にするためには、積極的な意見を表わすことのできるような記号をつける方式をとるべきであろうというふうに考えるわけです。さらに、八海事件、松川事件、三鷹事件等、裁判に対する国民の批判が強まっていると思います。このうよな国民の批判に対して、裁判官は世論に耳をかすなというような印象を受ける田中長官の言葉等は、非常に問題があるものであって、国民の信頼を得るようにするのが裁判所として重要な課題であろうと考える次第です。  次に、裁判官の任命諮問審議会についてでありますが、今回の改正案によりますと、内閣は、最高裁長官の指名または最高裁判事の任命を行うのには、裁判官、検察官、弁護士及び学識経験者の中から任命される委員で組織をする裁判官任命諮問審議会に諮問しなければならないことになっておりますが、もし最高裁が国民審査を要し、国民と直接に結びつく民主的な制度であるとするならば、国民はその任命についても直接にタッチすることが必要であろうと考える次第です。われわれとしては、その諮問審議会の構成に、さらに国民各階層の代表を参加させることを要望したいと思います。たとえば、婦人代表とか、経済界代表とか、労働代表とか、そういう参加を得て、国民の直接の意見を聞くことが必要であろうと思うわけです。  次に、裁判官についての若干の問題古川について触れてみたいと思いますが、最高裁においてもたくさんの裁判官がおられ、また下級審の充実も国民からの切実な要望として叫ばれている際に、つまり一人でも有能な判事が必要であるときに、裁判官の待遇を受けながら行政事務を扱っている多数の裁判官のあることは、大きな矛盾ではなかろうかと思う次第です。最高裁では事務総長、事務次長、各局長、各課長、各課長補佐、各高等裁判所事務局長、裁判所調査官等、百四十名に達する裁判官が行政事務をとっています。裁判官として、特別の俸給を受け、身分の保障をされている人たちが、行政事務官としての仕事をしていること自体に重要な問題がありますが、裁判官が不足を来たしている今日、非常に矛盾をしているのではなかろうかというふうに感ぜられます。このために、全司法事務官は部課長になれないという大きな問題が出てきております。各官庁においては事務次官まで一般職の公務員がなることができるのでありますが、最高裁においてはこの道が閉ざされております。われわれはこのような制度に対して反対をしたいと思います、総評傘下の全司法労働組合にとつては最も重要な問題でございます。従って、これらの裁判官は当然法廷に出て裁判を行うべきであると思います。行政事務に関しては司法職員にまかせるようにすることを強く要望したいと思うわけです。  次に、最高裁における公平審査委員会の問題ですが、国家公務員にはスト権、団体交渉権を奪って人事院が、地方公務員には同様に人事委員会がそれぞれあって、独立した機能のもとに人事問題、給与、苦情処理、公平審査が行われておりますが、しかし、最高裁では、別個に公平審査委員会を設けて、司法職員の公平審査を行なっています。しかし、その委員は最高裁判所が任命し、現在三名のようですが、いずれも司法行政の最高統轄機関の構成員であります。諸分庁あるいは諸本庁を督監しておる最高裁判所が、その処分の事案を審査する委員をみずからの手で任命し審査をさせるということは、公平の精神に反するものと言わなくてはならない。最高裁の機構改革に当って、このような不合理な点は是正さるべきであると考えます。現在、大阪同等裁判所で判事が給与、待遇の引き上げを要求しているようですが、裁判官が公然とこのような要求を行っていることは、おそらくいまだかつてないことと思いますが、判事の待遇を改善し、若手の有能な判事をどんどん起用することが当然重要なことではなかろうかというふうに考えるわけでございます。また、判事の定員を増加して、有能な判事を養成し、新しい時代感覚を持った人たちのりっぱな判例をより多く今後生み出していただくために、質量ともに大いに裁判官を充実させていただきたい。最高裁も、老年の判事ばかりでなく、若い有能な判事をも起用させる道を講じてもらえたらと思うわけです。  最後に、最高裁の口頭弁論及び保釈の問題について若干触れたいと思います、三鷹事件等においては、七対八の少数差で竹内君の死刑の判決が下ったのは、国民の忘れ得ない重大な事件でありました。人間の生命をたった一票の差で殺すこと自体に、最高裁の制度上重要な問題があるような気がいたします。口頭弁論を要求する全弁護人の要請を無視して死刑の判決を下すことは、許し得ない暴挙であるように感ぜられるわけです。今後の最高裁の大法廷においても小法廷においても、決してこのようなことがないように強く要望したいと思います。ことに、本年の秋には松川事件上告審が始まるようですが、必ず口頭弁論を行い、公正な態度をとられるように希望する次第です。前に述べましたように、第一審から最高裁まで約十年を要する現在の制度でありますが、松川事件の被告たちを見てもわかるように、すでに八年間を獄中に過しております、被告たちはからだをそこない、年配者は判決なき死刑ともなりかねない状態にあるわけですが、こういうように考えていきますと、十分に補償は求めるにしても、保釈の問題はもっと考慮する必要があるのではなかろうかと考える次第です。  以上をもって私の公述を終らせていただきたいと思います。
  65. 三田村武夫

    ○三田村委員長 ただいまの原口公述人公述に対し御質疑はありませんか。猪俣浩三君。
  66. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 今回政府の提案にかかりまする原案によりますると、最高裁の判事は九人であります。ただし、肉身を持っておる判事でありますがゆえに、出廷不能な者が出ることが予想されますから、法廷構成の最小限という定数はきめなければならぬと思います。現在十五人の判事のときに九人出れば法廷が組織できるように相なっておる。五分の三になっております。そこで、今度は九人の定員となりますから、その五分の三というと五・何人になりますか、六人になる。六人出れば最高裁判所が開けるわけであります。そうすると、ある憲法解釈について四人がある点を主張しますと、それによって判例の変更でも何でもできる。御存じのように、憲法規定というものは、実に抽象的でありまして、その立場々々によってニュアンスが非常に違った解釈ができるように相なっておるのであります。この四人の少数の判事が、かりに反動保守の色彩的な思想の持ち主だとしますると、憲法の解釈が非常に反動的な解釈になる。御存じのように、憲法を改正するには、国会の三分の二以上の提案を得て、国民投票によって決定するという市大な手続を踏んでおりますが、この憲法の解釈はある憲法規定を改正すると同じような効力を発生することは、現にわれわれの経験しているごとく、憲法九条を再軍備ができるような解釈のもとに連営せられておるごとくであります。そこで、憲法の解釈というものは憲法の改正と異ならざる重大な意義を持っておるものと思いますが、その有権的な最終の解釈権を持っておる最高裁判所が、四人をもってもでき得るということに対して、あなたはそれが妥当であると思われますか、それに何らかの危険性を感じられるか、御意見を承わりたい。
  67. 原口幸隆

    ○原口公述人 もし今のような状態で憲法の解釈が行われるとすれば、われわれにとっては非常に重大な問題だと思います、つまり、そういうような場合において解釈をされるということについては、われわれとしてはその解釈について信頼もできませんし、非常な疑問も打ちますし、危険性を感じます。私たちも、現在の憲法を守っていきたい。特に、再軍備に連関する条項については、われわれは現在の憲法の精神を守っていきたいという強い希望を持っているものですが、かりに少数の、また古い考え方を持った裁判官によって解釈されるような制度であるとすれば、私たちとしては、そういう制度改正については反対をしなければならないと思います。
  68. 三田村武夫

    ○三田村委員長 池田清志君。
  69. 池田清志

    ○池田(清)委員 裁判につきましては、真実を真実の通り究明をいたしまして、これに適用すべき法令をあやまちなく適用して、しかも法律の定める範囲内における刑の量定について、これまた神様が見て妥当であるというところの判決でありまするならば、これは何人も満足をされ納得されることだと思うのであります。裁判官といたしましてはそういうことに努力をしていると思いますが、ときたまといたしまして、それにあらざるものがあります。それを救済する方法といたしまして、上訴の方法やあるいは再審、非常上告等のいろいろのことがあります。そこで、先ほどあなたの御発言の中に、裁判官において世論に耳を傾けるべきであるという御趣旨のお言葉を拝聴したのでありますが、どういうふうにしてそれを実現させるかということについて、何か御意見がございましたら一つ…。
  70. 原口幸隆

    ○原口公述人 世論に耳を傾けるべきであるというふうには申し上げていないのでありまして、世論に耳をかすというようなことはすべきではないというような印象を受ける田中長官のお言葉がありましたので、そういう立場では国民の信頼を失っていくのではなかろうか、裁判の権威というもりが失墜していくのではなかろうか、国民から離れていくという点を私は心配して申し上げたわけです。それと、私たちの経験によりますと、労働争議等を中心としたいろいろの係争事件について、裁判所がどういう態度をもって判決をしているかというと、非常に失礼な言い方かもしれませんけれども、労働関係法の内容を詳しく十分に知悉しておられない裁判官もときには見受けられる、また、その判決が非常に客観的にも不当な場合が事例としてあるわけです。そういう点で、私たちは、世論といいますか常識というか、周囲の国民的な世論、そういうものの中で裁判官が国民の信頼を得ながら正当な判決をしていただきたいというふうに申し上げているわけでございます。
  71. 三田村武夫

    ○三田村委員長 他に御質疑はございませんか。――なければ、原口公述人公述に対する質疑はこれにて終了いたしました。  次に戒能公述人の御意見を伺います。  戒能公述人に対しては、実体法及び法社会学者の立場から、本案に対する御意見を承わりたいと思います。
  72. 戒能通孝

    ○戒能公述人 今度の改正案が提出されました前提に、法制審議会の司法部会において相当詳細な討論をしていらっしゃるのであります。これによりますと、まず第一に、現在の刑事上告事件が非常に多い、そうして、刑事上告事件が多い結果といたしまして、現任の十五人の裁判官では何ともさばき切れないというようなところから問題が出てきたように思います。もしそれならば、十五人をもっとふやしてはどうであろうか、十五人をふやしてなぜ悪いであろうかということが、素直に申し上げまして私にははっきりわからないわけであります。事件の推移をたどって参りますと、ともかく現在の十五人の裁判官たちで現有上告されている事件はほぼさばかれているのであります。さばき切れない事件が相当ございまして、多少追っかけてくるようでございます。しかし、これはほぼさばかれているのではないだろうか、そうなれば、もうあと二つあるいは三つの小法廷をふやす程度の人員増加があれば、これができるんではなかろうかという感じがするわけであります。もしそれならば、小法廷という特別の裁判所を作らなくともいいんじゃなかろうかと思うのです。  なるほど、法案によりますと、小法廷という制度最高裁判所の一部になるような形にはなっておりますが、しかし、裁判官自身の資格は全く違うのでありますから、そしてまた、小法廷判決に対しまして、もし憲法上の問題について異議があるということになりますと、大法廷に対して異議申し立てをなし得る、最高裁判所異議申し立て得るというふうにしているくらいであります。小法廷というのは独立裁判所じゃないだろうか、すなわち、日本の従来の伝統でありましたところの三級審制度は四級審制度に実質上は変るんではないだろうかという感じがいたします。四級審にしたからといって特別に悪いという理由法律的にはないと思うのであります。しかし、なぜ四級制にしなければならなかったのだろうかということについて、私としてはむしろ疑問を持つわけでございます。  もちろん、現在の刑事訴訟法上告理由を拡大するということは、これは賛成していいことではないかと思います。不幸にいたしまして、現在の日本裁判制度のもとにおきまして、すべての下級審裁判官が完全な裁判官とは申せません。また、完全な裁判官でありましても、すべての事件に関して完全な判決をすることはできかねると思うのであります。従って、それに対しまして異議があるという場合が十分出ていると思います。この上告理由を拡大するということに対して、反対すべき理由はなかったと思うのであります。ただ、上告理由を拡大することの結果といたしまして、最高裁判所の小法廷裁判官というものを別に作るということにつきましては、私として非常におかしい点が感じられるわけでございます。なぜ一体こうした制度を作らなければならないか、なぜ最高裁判所裁判官の人員を増加してはいけないのであろうかという点が、私にはどうしても疑問として残っているわけでございます。  それから、その次に、小法廷裁判官というものは、これは全くおかしな裁判官になるんじゃないかということが感じられるわけでございます。この裁判官は、憲法違反事件につきましては裁判権がない。ただ最高裁判所に送付するということになります。判例の問題につきましても、従来ある判例と異なる意見を打つような場合におきましては、大法廷に送付するというようなことにしなってしまうのでございます。法律解釈の権限のないような、何か非常におかしな裁判所ができるんじゃないだろうかという感じがするわけであります。自分の事務所を持つこともなく、法律解釈の権限においては簡易裁判所裁判官よりももっと下級権限しか持たない裁判官というものが作られるということに対しまして、ちょっと私としても何か納得できないような感じがするわけでございます。せめて、それらの裁判官は、第十一条中「裁判書」を「大法廷裁判書」に改めることを抜きにしまして、自分の少数意見をも書くことができるという権限を持っているということになりますと、判例の変化に対しましても、外からも予想がつき得るという感じがするわけでございます。この程度の権限を与えれば多少の理由があると思いますけれども、そうでないといたしますと、全く何か非常に小さな権限しか持たない裁判官というものが突如として現われるという結果になるんじゃないかと思います。  法制審議会の記録などを拝見してみますと、独立裁判所であるのか、半独立裁判所であるのか、この小法廷性格がどうもはなはだあいまいでございます。裁判の問題につきましては、あまりあいまいなもの、何とたく裏くぐりをしているようなものは、あくまでも排除して、裁判に関する制度というのは、どこまでも明瞭で、かつまた、ごまかしのないようにしていただきたいという感じがするわけであります。従って、私といたしましては、この案ができましたにつきましても、各種の方々の非常な御苦心というものは十分わかるわけでございますが、なぜ一体最高裁判所裁判官の増員をしていけないのかという点が、どうもまだ釈然としない点があるのでございます。
  73. 三田村武夫

    ○三田村委員長 ただいまの戎能公述人公述に対して御質疑はございませんか。神近市子君。
  74. 神近市子

    ○神近委員 私、きのう真野判事がおいでになったときお尋ねしようと思って、時間が制限されてお尋ねすることができなかったのですが、きょう午前中の公述人の方々や、ことに岩松先生でしたか、やはり憲法の七十九条によってワン・ベンチということが始終主張されている。これが公述の方々の御意見としては非常に多いのでございます。それは峯村先生もその御意見だったし、それから、きょうの午前中の先生方の御意見にもそれが出たんで、七十九条と八十一条、この条文で、大体ワン・コート――きのうの真野先生の御意見なんかはちょっと極端でございまして、アメリカの英文に書いてあるものには限定化してある、一つの、ワンあるいはアという言葉がついているという御意見だったけれど、私はその点では別に拘束されることはないと思うんです。日本憲法になったときに一つということが書いてないので、私は、前提になったアメリカの原文がどうであろうと、日本憲法日本憲法として理解すればいいと思うんです。その点では別に意見の違いはないと思うのですけれど、「最高裁判所は、その長たる裁判官及び法律の定める員数のその他の裁判官でこれを構成し」とあって、非常にごたごたしていますけれど、「その長たる裁判官以外の裁判官は」というのが、その前で「構成し」という言葉で切ってありますので、これが一つ裁判所でなければならない、最高裁というものがワン・ベンチでなければならないという根拠が非常に稀薄じゃないかということ、そうして、何度も議論になります三審制度か四審制度か、四審制度ではこの法律改正の目的に反するんじゃないかということが、始終何度も繰り返される問題でありまして、私どもは、どうしてワン・ベンチでなければならないかということがまだ納得できないのでございますけれども、ワン・ベンチでなくてもいいということになれば、私はこの改正案は非常にすっきりしたものになると思うんです。そこで何度も何度もつまずいておると思うわけなんですけれど、この七十九条の解釈についての御意見があったら、ちょっと承わりたいと思います。
  75. 戒能通孝

    ○戒能公述人 これは一つの歴史的な理由があると思うのでございます。憲法裁判権を持っておる裁判所というものは、これはやはり全員が裁判するという慣習的なものがすでにアメリカ憲法の歴史の中で発展してるんじゃないかと思われるのです、従って、およそ最高裁判所たる裁判官の資格を持つ人が、憲法の問題、法律違憲性の問題につきましては、すべて相談され得るという前提に立ってるんじゃないだろうかという感じがいたします。この意味で、おそらく歴史的にはそうしてまた日本裁判所法によりましても十五人というように区切ったところは、やはり基本的にはすべての裁判官たちが最終的判決をする、特に憲法の解釈についてはワン・ベンチで裁判するという、そういう考え方からきてるんじゃないだろうかと思われるわけでございます。もう一つは、実際上の問題でございまして、特に憲法の解釈につきまして最高裁判所裁判官を小法廷に分けまして小法廷裁判するということは妥当を欠くということにあるんじゃないだろうかと思われるわけであります。こんなわけで、もし増員すれば、増員された人たちというものは最高裁判所裁判官として増員された人であるというように、これは憲法裁判権違憲立法審査権の行使につきましてはやはり一つ法廷を構成するという了解みたいなものがあるんじゃないだろうか、少くとも歴史的なそういう了解があるんじゃないだろうかという感じがいたすわけでございます。しかし、それが現行法上のどこからくるかということにつきましては、何ら規定がございませんから、法規上の問題について議論するということになりますと、どうも、どっちがいいか、水かけ論になる可能性があると思います。
  76. 神近市子

    ○神近委員 私がきのうの真野先生のお説を出しましたのもその点でございます。歴史的にこの制度が非常にうまくいっている、成功しているという見解のもとに、そういうことを学んだということで、何十年とかおっしゃったんですけれども、私は、日本でアメリカの裁判の伝統がたっとばれることには異議はないのです。しかし、民主主義的な理解の仕方とか経済的理由とかが大きにあると思うのです。そういう意味でもし日本の国情に合わないとするならば、必ずしもその伝統なり慣習なりにとらわれる必要はないと思うのですけれども、いろいろ公述その他の御論議を聞いていまして、どなたも腹から賛成ではないけれどもとおっしゃるので、お尋ねしたいと思ったのです。そういう場合に、実利をとって、日本国民の利益のためこれを改正されると私は理解しているので、理論的あるいは伝統的にはどうあろうと、日本憲法の範囲内で改正していくことがとがめられるべきことかどうかということなんです。
  77. 戒能通孝

    ○戒能公述人 今までの例といたしまして、比較法的な例になりますと、アメリカの連邦裁判所が唯一の違憲立法審査権を行使した事例でございます。これはずっと昔から九人の裁判官が一つ法廷を構成して、それぞれ意見を述べているわけでございます。一人当りの件数につきましては、私正確な計算をしたことはありませんけれども判例集をとってみますと、まず五七、八十件から二百件くらいになっているんじゃないかと思っております。その判例の書き方は、概して日本判例の書き方より非常に詳しいのでございます。ときによりますと、一つ事件で、非常にこまかい六法全書みたいな字で組みましてなおかつ三十ページというふうなものもございます。だから、スタンダード・オイル会社がアンチ・トラスト法にひっかかったような事件になりますと、百ページを越す非常な大論文になっているわけでございます。その理由は、各種の意見、特に先例をこまかく引用するからでございます。ある先例を落して引用しますと、大体これは判例を変えるんだということを暗示するのではないか、こういう点で、非常にこまかく、大きな判例を書くことがあるわけでございます。こういうわけで、九人でやっておりますけれども、九人の仕事は日本に比べまして特別に少いとは言えないようでございます。日本判決の書き方に比べますと、かなり、かなりでなく非常に重労働になっているということが言えると思います。従って、アメリカの裁判官がかりに年に石数十件暫く場合を考えましても、日本裁判官が書くのに比べましてはるかに長いものを努力して響いているという傾向が多いと思うのであります。無理はございませんので、英米法で一人前の法律家になるには、どうしても十万件程度の判例を知らなければならないと言われております。相当厳格に訓練されているようです。日本では、条文がございますので、条文を探し出す能力があれば何とか法律家として勤まるという結果になっておりますから、この点の差が非常に大きいのではないかと思うわけでございます。  結局、アメリカではワン・ベンチ制度をずっととっておりますけれども、その結果といたしまして、各自の仕事の量が日本裁判所に比べて特に軽いという傾向はなさそうな気がいたすわけでございます。そしてまた、それをずっと今まで継続しているという点は、やはりワン・ベンチでやっていけるということを前提としてしるんじゃないだろうかと思われるわけです。  それから、もう一つは、ちょっと比喩になって申しわけありませんが、物事の判断というものはある程度まで誤差が出て参ります。人の誤差が出て参る。水泳の飛び込みの判定みたいなことになりますと、一番高い点の人と一番低い点の人を抜きまして、まん中の点数を平均して判定をするというやり方があると思います。つまり、あまり少い人数で、ある法律問題について論議をするということになりますと、誤差が出る可能性が非常に強く出てくるのではないかと思えるわけでございます。従って、三人とか五人という小さな人数の判定よりも、九人あるいは二十人というふうに、少くともある程度まで会議として論議できる程度の数において判定する方が正しいということになるのではないだろうか。特に、憲法の問題にでもなれば、ますます人数をしぼるというふうなことのみに集中すべきではなくて、もっと人数をふやしてもいいのではないだろうか、そんなふうに感じるわけでございます。ただ、しかし、おっしゃる通り、ワン・ベンチということは別に憲法規定もないように思われるのでございます。もしそれを言い出しますと、下級審裁判所で部を設けること自身がおかしくなるわけでございまして、部を設けてもかまわないのだと思いますから、形式論としては別に問題はないのではないか。ただ、しかし、最高裁判所違憲立法審査をするときにつきましては、やはり全員が参加してもらいたいということは、これは常識として望んでいかがなものでございましょうか。少くとも、誤差が出過ぎるということを避ける点から申しましても、望んでいいことではないかと思うわけでございます。特に、各自に自分の少数意見を吐く権利をできるだけ多く与え、できるだけ相談してもらいたいというふうに感じているのでございます。
  78. 三田村武夫

    ○三田村委員長 猪俣浩三君。
  79. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 アメリカの最高裁判所のジャクソン判事がハーバード大学で講演した「アメリカの最高裁判所」という本が出ておりまして、実は今目次を見ただけでまだ内容を読んでおりませんが、目次を見ただけでも、政府組織の一単位としての最高裁判所司法裁判所としての最高裁判所、政治的機関としての最高裁判所、こういうふうに表題が出ているのでございます。これは表題だけですが、日本最高裁判所と相当性格が違うのではないかと思われるのです。そこで、アメリカの最高裁判所のことが即ち日本最高裁判所の前例にはならぬような気もいたしますが、それはそれといたしまして、今度の政府の原案を見ますと、相当憲法裁判所としての色彩が濃厚で、司法裁判所としての色彩が非常に薄くなってくる。そこに一つ問題があると思います。それはそれといたしまして、憲法裁判所としての機能を十分発揮してもらいたい。それならば、具体的違憲事実のみの争訟に限らず、一般的抽象的法令違憲審査もすべきじゃなかろうか。そうすれば、今回の政府提案の最高裁判所の改革案が非常に性格が一貫してくると思うのですが、どうも、そうじゃなく、あいまいなところで存在しているので、何か白子みたいな存在だと今度は上告審の方を言われることになるわけであります。  そこで、戒能公述人は、わが国の最高裁判所憲法裁判所として、一般の法令違憲審査もさせるということにつきまして、どういう御意見をお持ちでありますか、承わりたい。
  80. 戒能通孝

    ○戒能公述人 非常にむずかしい問題でございまして、ほんとうを申し上げますと、まだ私にわからないのであります。憲法の抽象的判定をするのがいいんだという感じもございますけれども、判定をする者は、あくまでも一人の役人なんで、官僚なんでございます。官僚に法令の抽象的な判定権を初めから与えてしまうことがいいのか悪いのか、かなり問題があるように思うのでございます。ただ、ヨーロッパの学説から申しましても、たとえばフランスのレオン・ジュギーとか、ドイツのハンス・ケルゼン、これらの人々は、法規のほか何らかの法があるんだと言っております。その法規のほかにある法に適合しているかどうかということを判定する裁判所ということを頭に描いているということだけは申し上げることができると思います。しかし、これはケルゼンやジュギーのような大家の考え方でございまして、日本に現実に憲法裁判所をすぐ作ったときに、果してうまくいくかどうかということにつきましては、私ちょっと申し上げ切れない点がございますので、ごかんべん願いたいと思います。
  81. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 いま一点だけちょっと。これは大体戒能公述人言葉でわかりますが、なおお確かめいたしたいことは、さっき峯村公述人もおっしゃいましたが、政府の提案理由の説明にも、あるいは現在の最高裁の判事諸公の考え方でも、何か最高裁の機能を十分に発揮させるには小人数がいいという根本的な態度をとっておるようであります。そこで、私は、先ほど原口公述人にただしましたように、非常な危険性のある場合が起るのじゃなかろうか。憲法のような、抽象的な規定で、各立場からいろいろなニュアンスの違う解釈のできるようなものは、なるべく各層の代表である多人数によって十分討議すべきことは、憲法解釈の重要性からかんがみて必要なのではなかろうかと考えるのでありますが、そこで、憲法裁判所性格を濃厚にするとともに減員してきたというような政府の提案でありますが、これについての御意見を承わりたい。
  82. 戒能通孝

    ○戒能公述人 九人という制度がどこからきたのか、私にもわからないわけでございます。おそらくアメリカの最高裁判所が九人ということだから九人ということを言っておるのかもしれませんが、これは、アメリカの憲法ができる当時におきまして、裁判所憲法の解釈権があるかどうかということがなお明確でなかったわけだと思うのであります。マサチューセッツ州の憲法や何かにつきましては、裁判所憲法解釈権を与えるという判決がございましたけれども、しかし、裁判所自身に果してアメリカ憲法の解釈権があるかどうかということにつきましては疑問があったと思うのであります。ところが、例のマーベリー対マジソン事件以後、憲法解釈権が裁判所にあるということになりまして、それを九人で運営してきたわけでございます。それで今日に及んでおる、こういう歴史があるわけであります。ところが、日本の場合におきましては、憲法の解釈権が裁判所にあるという前提で憲法ができておるわけでございます。スタートがまるで違っておるのではないかという感じがするわけでございます。もし憲法の解釈権が裁判所にあるという立場でこの憲法を作ったということになりますと、九人の意見というふうなことではあまりにも少い意見になるのではないだろうか。もう少し人数を多くしてもいいのじゃないだろうか。この点はやはり現在の裁判所法最高裁判所裁判官の人数を十五人にするときには考えたのじゃないだろうかという気がするわけでございます。もちろん、裁判官の人数が数百人になってしまうということになりますと、これまた問題が別になって参りますでしょう。しかし、現在の法律案の程度の人員がかりに増加されたといたしましても、つまり三十人くらい増加されたといたしましても、まさか合議ができないということはないのじゃないだろうかという感じがするのであります。これは私どもの大学の教授会なんかに行って感じるわけでございますけれども、まじめにやれば合議ができるというふうに感じております。ただ、しょっちゅう休んでおる人がやってきて議論なんかするもんですから、めちゃくちゃになるというようなことは起りますけれども、まじめにやれば合議ができるだろうという感じだけはいたしております。
  83. 三田村武夫

    ○三田村委員長 高橋禎一君。
  84. 高橋禎一

    ○高橋(禎)委員 今の最高裁判所は大法廷、小法廷というのを設けてやっております。そうして、小法廷では、これは改正案にも同じような趣旨が出ておりますが、「意見が前に最高裁判所のした、その法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するとの裁判と同じである」場合には小法廷で最終的にやってもいい、こういうふうな建前、これは先ほど先生のおっしゃった意見からすれば差しつかえないのだというふうに私は思うのですが、そこのところを伺っておきたいと思います。
  85. 戒能通孝

    ○戒能公述人 少くともこの規定を認める以上は、小法廷裁判官にも少数意見を書く権限を認めないと困るのじゃないだろうかと思います。そうしませんというと、一体小法廷はどういう感じで事件をみずから裁判したのか、なぜ一体これを大法廷に移さなかったかという点が明確を欠くのではないだろうか。小法廷も、この案から申しますと、最高裁判所から独立した裁判所であるようでもあるし、独立しない裁判所であるようでもあり、かなり性質あいまいなものであります。しかも、法規解釈権は非常に狭いことになって参ります。これは非常にヌエ的なものではないか。ほんとうに最高裁判所の下請みたいなものになるのじゃないか。もし何らかの意味裁判所としての機能を持たせるとしたならば、第十一条の改正条項は除いてもいいのじゃないか。これによりまして、少くとも小法廷を構成する各判事はどう考えるだろうかということは、これは公然とできるのじゃないだろうかと感じているわけでございます。
  86. 高橋禎一

    ○高橋(禎)委員 これは先生にお尋ねするのは適当かどうかちょっと私も質問をちゅうちょしたわけですが、実際の問題としまして、第一審裁判あるいは第二審裁判に対して違憲という理由が見出される場合に、やはり同じような程度において最高裁判所小法廷判決に対しても違憲ということを主張する、すなわち異議申し立てをする場合が同じように起ってくるのじゃないか、こういう感じがするんです。と申しますのは、実際最高裁判所判決の結果から見ますと、憲法違反というようなことはほとんどないわけなんです。ないというのは、結果から見ますと、あまり理由にならないものをことさらに理由をつけて憲法違反ということを主張しておるのだというふうに思えるわけなんです。そうしますと、一審、二審の裁判に対して違憲だということを主張し縛ると同じように、最高裁判所小法廷判決をすれば、これはまた違憲だということを言おうと思えば言えるわけなんですね。そうなったときに、一体事件の処理ということが全体から見て非常に促進されるかどうかといいますと、私は促進されないような気がしてならないのです。と申しますのは、初めから最高裁判所に回る事件もある。それから、小法廷が小法廷権限内の問題について裁判をすれば、それをまた違憲だといって異議申し立てをする。そうすると、最高裁判所はたくさんの事件を背負い込んで、そうして、しかも、今度の改正案によりますと、異議申し立てがあったときには刑の執行を停止するとかその他必要な処分を命ずることができるという規定を設けておりますから、それをやるためには、最高裁判所は書類を見ないとできないはずだと思うのです。そうすると、一つ一つ書類を見て、刑の執行を停止すべきであるかどうか、他の処分を命ずべきであるかどうかということを検討する。余分な仕事がそこへたくさん出てきて、後にまたあらためていわゆる本然の裁判とでもいいますか最終的な裁判を下すということになると、えらい手数がかかる。事件もたくさん来て、最高裁判所九人の判事で一体さばき切れるかどうか、非常な疑問がある。しかも、そこでやっておる仕事がほとんど憲法違反ということの結論が出ないで合憲々々という判決を下しておったのでは、最高裁判所というのは、ほんとうに、粗末な言葉になりますけれども価値のない仕事をやっているように国民に印象づけるのではないか。それでは最両裁判所の威信といいますか国民の信頼が非常になくなってしまって、それがひいて司法そのものに非常な悪い影響を及ぼすのではないだろうか、こういったようなことを考えるのですが、何か御意見がございましたら……。
  87. 戒能通孝

    ○戒能公述人 確かにおっしゃる通りになるのではないかと思うのでございます。現在の判例集を見ておりましても、違憲処分ということを理由にした実例が非常に多いのでありまして、私ども見ますと、ここまで違憲と言う必要はないのじゃないかというのも、ずいぶん違憲々々と言ってきているわけです。従って、小法廷判決に対して異議を認めるということになりますと、おそらくやはり同じように違憲判決だという形で異議が出るだろうという感じがするわけです。そうして、しかも今度は九人はワン・ベンチだということで、九人が一体として裁判をするということになると、事件の処理というものは果してうまくいくかどうか、ちょっと疑問があるだろうと思うのであります。ただ、しかし、法制審議会の方で討論されたところによりますと、大体これでどうにかなるだろうという御意見だったようでございます。それならば、どうして一体最高裁判所裁判官の人員をもう少しふやすことを考えないのだろうかという点でございます。今までのところ、十五人でなくちゃならぬという理由もないので、かりに六人ふやして二十一人にしたところで、特に悪いという理屈もなさそうでございますし、まあ二十五人くらいまでふやしても特に悪いことはなさそうですけれども、それがどうしてできないのだろうかということを、私としては少し疑問があるのでございます。それがどうしてできないのか。法制審議会の記録なんかを見ましても、どうもよくわからないのです。二十五人も三十人もそんなにりっぱな人がいるかとおっしゃいますけれども、これは失礼ですけれどもおります。(笑声)十五人だからといって、非常にすぐれた方のみとは申せませんし、なお三十人くらいは確かにおられると思います。
  88. 高橋禎一

    ○高橋(禎)委員 私は大体意見が同じような感じがするのですが、今の権限等について、大法廷と小法廷で今のままでやらして、そうして、憲法に違反をするのだという疑いのある問題については、これは大法廷裁判するということにして、原案通りの上告の道を若干広げて、あるいはもっと広げるべきかもしれませんが、上告の道を少し広げていくことによって、ほんとうに国民の気持にもぴったり合った、そうしてどこにも無理のない制度ができるように思えてならないわけです。今の制度から申しますと、ここはお尋ねしたいところですが、たとえば最高裁判所小法廷民事にしても刑事にしても確定します。民事の方は確定したということになると執行をやることになり、刑事事件は刑の執行をやる。ところが問題は、私の予想では、事件を長引かせようとする者、それから執行を受ける立場にある人というのは、それを延ばすためにでも、今までもやはりそれは一つの弊害でしょうけれども、実際問題としては、先生もおっしゃったように、憲法違反ということを理由にして異議申し立てをする。そうすると、憲法に違反しておるのだということで、制度の上から最高裁判所が取り上げて、そうして最高裁判所裁判官全員でここで結末をつけるのだということになっておりながら、それをやらないうちに確定さして執行さす。そこに非常な大きな問題があるように思えてならないのです。特に、刑の執行の場合でありましたら、行刑の面から言って非常にやりにくいと思う。自分はまだ確定していないのだ、最高裁判所裁判を見ないとわからないのだといった形において刑の執行をするのですから。それは刑の執行を停止することもあるとはいいますけれども、それを全部停止しておったのでは、これまたいよいよ動きのとれないようなことになるし、それから原案もそういうことをねらってはいないと思うのです。原則としては、どしどしできるだけ執行するのだという建前をとると思うのですが、この制度において、民事にしても刑事にしても、憲法問題を残して未解決のままで執行するということが、国民一般、特に執行を受ける者に対しての心理的な影響等についてどういうふうにお考えになりますか、お尋ねしたい。
  89. 戒能通孝

    ○戒能公述人 おっしゃったようなことになるのじゃないかと思うのでございます。この案も、決して悪気があって作ったものではなく、できるだけ早く事件を処理したいという立場で検討されたのだろうと思いますけれども、やはり何といっても、刑、それから強制執行ということは、確定判決によらないと、あとの始末が非常にむずかしくなってくるのじゃないか。かりに刑が一ヵ月執行されたけれどもあとで無罪になったということを考えますと、事件としては非常に少いと思いますけれどもあとで非常にやっかいなことになってくるのじゃないかと思います。それから、もう一つは、現に刑が執行されているということになりますと、それはどうしても裁判官に対してある一種の心理的な圧力になる。刑が執行されるなり強制執行がされておりますと、やはり心理的な圧力になるのじゃないだろうか。従って、原判決を肯定する方にちょっと傾くのじゃないだろうかという感じがするわけでございます。そういうことはないとおっしゃればないと思いますけれども、これは無意識的に傾くのじゃないだろうか。これは非常に困ることだと思います。憲法事件なんていうのは、無意識的にこっちに傾いて、原判決は正しい、正当であるという立場でごらんになられたのでは、ほんとうの意味憲法裁判所にはならないという感じがするのです。
  90. 高橋禎一

    ○高橋(禎)委員 やはり今のと同じような関係の問題ですが、ちょうど、刑事事件でしたら刑の期間が非常に短かいものがあります。長期一ヵ月とか半年とかいうような事件で、そうして異議申し立てをした、刑の執行をしたということで、まだ最高裁判所憲法問題について最後の結論を出さないうちに刑期が終ってしまった、こういう事件が相当出てくると思うのですが、そういうときはどういうふうな収拾をする道があるか。私は提案者にもまだその点を尋ねていないのですが、あまり名案はないのじゃないか、えらい混乱が起るのじゃないか、そういう感じがしてならないのですが……。
  91. 戒能通孝

    ○戒能公述人 おそらく、刑事補償だけではなくて、ほんとうの名誉回復の方法が考えられなくちゃならないと思いますけれども、その点はまだこの案には出ていないような気がするのであります。
  92. 三田村武夫

    ○三田村委員長 他に御質疑はありませんか。――なければ、戒能公述人に対する質疑は以上で終ります。  この際御了承を得たいと存じますが、先ほどの岩松公述人より発言の訂正の申し出があります。すなわち、次のごときものであります。   謹啓、設問事項五に対する供述に  おいて、小法廷判決解除条件付  に確定するものであり、異議の結果  大法廷破棄判決があった場合、そ  の解除条件成就の効力遡及効を有  するかいなかとの点に関して消極的  に解する旨陳述いたしたと思います  が、むしろ反対の見解が正当と存じ  ますので、さよう訂正いたしたくお  願い申し上げます。その理由は、先ほ  ど申し上げました通り、異議性質  は再審に近いものと考えられますの  で、破棄判決遡及効を認めません  と、小法廷判決が項実上無条件に  確定したのと同一結果を招来するこ  ととなりまして、憲法八十一条所定  の終審として最高裁判所の有する照  法適否審査権を害するきらいがある  こととなります。ここにいわゆる終  審というのは、通常の不服申し立て  における終審を意味するものであっ  て、一たん判決確定によって事件  の終了した以後における再審のよう  な非常手段による救済では、いわゆ  る終審としての審判を受けたことに  ならぬところがあるからでありま  す。どうぞよろしくお取り計らい下  さいますようお願いいたします。  岩松三郎  こういう法務委員長あての申し出であります。これを了承するに御異議ありませんか。   〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  93. 三田村武夫

    ○三田村委員長 御異議なしと認めまして、了承することに決します。  次に岡公述人の御意見を伺います。  岡公述人に対しては、一、本案に対する在野法曹側から見た御意見、二、刑事上告の門は狭きに失するしきらいがありはしないかどうか、あわせて控訴及び第一審の構造に触れながらの御意見、三、本案による上告審の構造はすこぶる複雑化しているように思われるが、訴訟促進の面を考慮しながらの御意見、四、いわゆる増員論に対する御所見、以上の点についての御意見を伺います。
  94. 岡辨良

    ○岡公述人 東京弁護士会の岡辨良であります。  私は、今回本案が政府案として提案されたことにつきましては多大の感銘と感謝をいたす次第であります。長い間本問題が法制審議会で論議せられ、また日本弁護士連合会が委員会を設けましてすでに五年間その研究をしてきた問題でありまして、たびたび本法務委員会にも参りまして各位の御意見も伺ったのでありますが、ここに裁判所法の一部改正法律案刑事訴訟法の一部改正案が提案されまして、国権の最高機関において論議されることに相なったわけでありまして、いわゆる日の目を見た次第であります。私どもの再びはこれに越すものがないのであります。しかしながら、本案を詳細に拝見いたしましたところ、多少の修正をぜひお願い申し上げたいと思う点がございますので、それを少し述べきしていただきたいと思うのであります。  第一の御諮問事項でございますが、この問題は、昭和二十七年当時、最高裁判所に七千件以上の事件が停滞して、事件の審理が遅延して、世論がやかましくなったので、日本弁護士連合会ではその実態調査をするとともにその解決案を研究したのでございます。その当時の解決案といたしまして五つの案があったことは御承知の通りであります。一つは、現状の機構で調査官を増長して一件の審理を促進する案、次は、初等裁判所上告部を設置して審理を促進する案、それから、高等裁判所審査機関を設けて、上告が適法かいなかを審査し、憲法違反判例違反理由とするもののみを最高裁判所に移送する案、それから、最高裁判所に代行裁判官を置いたらどうかという案、最後は、最高裁判所裁判官を増員する案というのであったのであります。  右のうち在野法曹は裁判官の増員案を主張して参ったのでありますが、この増員案は朝野大方の御同意を得るに至ったものであると私どもは信じておったのであります。その一つのきっかけといたしまして、たまたま昭和二十九年の六月一日に最高裁判所における民事上告事件の審判の特例に関する法律が失効することになっていたので、同年の国会において民事訴訟法上告に関する規定の改正が行われ、上告理由法令違反を加えることになったので、上告裁判所である最高裁判所が、十五人の裁判官ではとうてい民事訴訟法上告理由拡大後の審判をすることは不可能であるとの世論が圧倒的となって、増員案が支持せられるに至ったのでございます。民事訴訟法上告理由の拡大は法令違反であって、刑事訴訟法においても、このときから、その均衡上当然法令違反上告理由に加うべきものであるとの議論が一そう強くなった次第であります。それで、刑事訴訟法上告に関する規定の改正と最高裁判所の機構の改革案とは同時に不可分のものとして研究されるに至ったのでございます。たしか、法制審議会におきましても、この両委員会は合同して進行するように相なったことに心得ておるのであります。  まず刑事訴訟法上告規定の改正では、在野法曹といたしましては、民事訴訟法上告規定と同様に、判決憲法の解釈の誤まりあること、その他憲法の違背あること、または判決影響を及ぼすこと明らかなる法令の違背あることを理由とするときに限るとなすべきであると主張して参ったのでございます。しかし、当時、本案のように、憲法違反判例違反とのほかに、法令違反を左記のように制限して加うべきであるとの意見があったのであります。それは、判決影響を及ぼすこと明らかな法令違反があって原判決を破棄しなければ著しく正義に反することを理由とするときというのであったのでありますが、私どもは、判決影響を及ぼすことが明らかな法令違反というしぼりをかけただけでその制限は十分であると考えておったのであります。本案によりますと、原判決を破棄しなければ著しく正義に反することという制限がさらに加重しておる次第であります。  次に、最高裁判所判事の増員案につきましては、在野法曹といたしましては、判事の数を十五名増員いたしまして三十名とし、民事法廷を三つ、刑事法廷を三つ、各法廷裁判官は五人ずつの合議体とする、別に民事連合法廷刑事連合法廷、民刑連合法廷を設けて、判例の抵触を防ぐことにいたしたいと考えておったのでありますが、この点は最近に至りまして在野法曹といたしましてはかような結論に達したのでありまして、二十八年ごろ在野法曹として世上に発表いたしました案は必ずしもこれとは違うのでありますが、本案が御提出になりました後に、かような機構にすることが適当であるのではないかということに私どもは修正意見をまとめたのであります。  それからまた、裁判官の任命に当っては裁判官任命諮問審議会に諮問しなければならないものとするという意見で、あったのでありますが、当時、私ども最高裁判所の判事の数を増員する意見に対しまして、反対に、最高裁判所の判事を九人に減資して、別に上告裁判所を設置して、法令違反をもっぱらにこの裁判所で審理、裁判するという意見があったのであります。これに対しましては、在野法曹は、最高裁判所のはかに設置する上告裁判所性格がはなはだしく不明であるのと、もしその裁判所下級裁判所であるならば、四審制度が実現して、明治以来の三審制度がくつがえり、訴訟事件はその一審だけさらに遅延するものと相なりますので、訴訟促進に逆行するものという理由で、強くこれに反対して参ったのであります、このたび御提案になりました本案は、最高裁判所裁判官を減員する案を採用されたものであるようであります。従って、法令違反を審理、裁判する上告裁判所性格がきわめてあいまいであると思われるのであります。名前から最高裁判所小法廷といい、最高裁判所かと思うと、下級裁判所であるといい、下級裁判所かと思うと、法令違反上告裁判所で終審裁判所であるといい、終審裁判所かというと、憲法違反があればさらに大法廷異議申し立てができるというのでありまして、学者はこれを中二階言っておるのでありますが、それほど不可解な裁判所であります。大体、最高裁判所の受理事件が増加して少数の判事では審判しきれないという場合に、判事の数を減員するということくらい矛盾した話はないと思うのであります。少数の判事で審理、裁判しきれないとすれば、判事の数を増加することが常識であろうと考えるのであります。中二階的な小法廷なる裁判所を設置しても、三十人の判事を任命するといたしますれば相当の予算を組まなければならぬと思われるのであります、むしろ最高裁判所に適当な判事を増員する方が予算的にも経済であると考えられるのであります。  次の諮問は、刑事上告の門は狭きに失するきらいがありやしないか、あわせて控訴及び第一審の構造に触れながら意見を述べよということでございます。  刑事上告については、刑事訴法四百五条二項として、本案では、「判決影響を及ぼすことが、明らかな法令の違反があって原判決を破棄しなければ著しく正義に反することを理由とする」ときに上告申し立てをすることができるということに拡大されたのでありますが、民事上告では、「原判決を破棄しなければ著しく正義に反する」などという制限はないのであります。本案の逐条説明を拝見いたしますると、当事者の権利関係に実質的な影響を及ぼすような場合であると言っておられますが、必ずしもそれは明確でないし、「判決影響を及ぼすことが明らかな法令違反」としぼることによって十分その制限はついているのではないかと思うのでありまして、かように制限をもう一つ加盟する必要はないと考えるのであります。もっとも、従来のように、四百六条の事件受理の制度、また四百十一条の職権破棄の制度、かような上告裁判所という制度から見ますると、上告裁判所の義務として審査することになった点におきましては、訴訟当事者の救済に一歩前進したものと言えると思うのであります。ただ、ここで一言付加いたしたいと存じますのは、民事上告には判例違反というものはないのであります。刑事にのみ判例違反が存続したということは、ずいぶんこれは論議されたのでありまするが、本日もこの点に触れた公述人がございましたけれども、これは私は民事上告刑事上告ともに統一せらるべきではないかと考えるものでございます。  それから、控訴審、第一審に触れて申し上げてみたいと思うのであります。訴訟手続に法令の違反があって、その違反が判決影響を及ぼすことが明らかであることを理由として控訴の申し立てをすることが三百七十九条で認められておりますし、また、三百八十条では、法令の適用に誤まりがあってその誤まりが判決影響を及ぼすことが明らかである場合というのがあるのでありますが、その均衡上から、上告法令違反判決影響を及ぼすことが明らかであるとだけでは適当でないと申されるのでございますが、元来、控訴審は、刑事でも民事と同様に締審主義にすべきであると私ども考えておるのでございます。訴訟においては事実の認定が一番大事であることは申しすまでもないと信ずるのでございます。今日の実際においても、東京、大阪あたりの大都市の控訴裁判所におきましては、大部分が証人調べや実地検証をやって事実の審理をしているのでございます。その結果原判決を破棄しておる例が多いのであります。第一審判決を顧みますると、今日のように単独判事で裁判している時代に、事実調べを一審限りとして、控訴審では法令違反理由不備、事実誤認、量刑不当等がある場合に限って控訴を許すということは、訴訟当事者にすこぶる不満の念を与えるものであると考えるのであります。第一審の充実ということは、今日の予算の範囲内では、建物の面から申しましても、判事の数の面から申しましても、とうていこれを補充することは困難であるように思われるのでございます。従って、控訴審を続審として事実審を丁重に裁判するはかはないと考えておるのでございます。  それからまた、上告審が、最高裁判所小法廷という下級裁判所違憲訴訟以外の事件を扱うという本案の建前は、控訴審が二つできたというような感じになるのでありまして、小法廷は終審裁判所ではないのでありますから、法令違反等の可法裁判をする裁判所を二つ設置したような感じがいたします点において、このたびの四審制度がはなはだしく不適当だということに帰着するのではないかと考えるのでございます。  刑事でも民事と同様に控訴審は続審とすべきであると考える次第であります。最高裁判所として、上告審は、憲法違反法令違反を審理裁判して、憲法八十一条の違憲審査並びに司法裁判所としての法令の解釈の統一の面と、二つを兼ね備えて審理、裁判すべきではないかと思うのであります。この御提案の本案は、結局国民が司法上の裁判を受ける機会を制限し制奪しようとしているように感ぜられますので、にわかに賛成できないと考えるのであります。  それから、次に第三の点でありますが、本案による上告審の構造はすこぶる複雑化しているように思われるが、訴訟促進の面を考慮しながら意見を述べよということであります。本案による上告審は第八条の三で最高裁判所最高裁判所小法廷とが同一の裁判権を有するということをまず第一の建前といたしまして、「当事者主張に基いて、法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを判断するとき」、それから「懸法に適合しないと認めるとき」及び前の判例に反するときには小法廷には裁判権がないということでありまして、その他の場合には全く同一の裁判権があるということになっておるようであります。また、第十条の一項では、「小法廷は、第八条の三第三項の場合においては、事事を大法廷に移さなければならない。」としておりまするし、それから、第十条の三項では、「大法廷は、小法廷から事件が移された場合において、小法廷において裁判をすることができる場合に該当すると認めるときは、事件もをさらに小法廷に移すことができる。」ということになっているようでございます。かように事件を二度もやりとりする期間というものは、これは実に相当の日子を要すると考えるのであります。この期間をいつか最高裁判所で伺ったことがありますが、受付から担当判事のところまで参ります期間だけでもなかなか相当の期間を要するという御説明を承わったことがございますが、二度事件の移送をしておるというような場合には著しく期間を要すると思うのでありまして、訴訟遅延がはなはだしくなる一つの原因であると考えられるのであります。  また、第十条の四項を拝見いたしますと、「小法廷裁判に対しては、その裁判憲法の解釈の誤があることその他憲法の違反があることを理由とするときに限り、大法廷異議の申立をすることができる。」ということになっておりますが、この点で、小法廷下級裁判所でありますから、四番制度となったものでありまして、小法廷の上に大法廷の審理、裁判があるので、一審だけ訴訟が延長することに相なるのでありまして、この点だけでも一年ないし二年の延長を来たすおそれがあるのでございます。あるいは、大法廷違憲審査のみを審理、裁判するので四審にはならないと言うのでありましょうが、真に違憲審査だけをいたしますならば、いつか違憲事件だけの御報告を承わったことがありますが、それによりますと、年間に民事事件においては三件、刑事事件においては六十件のみであると聞いておるのでありますが、もしさような少い事件を九人の判事が最高裁判所として大きな予算と機構とを持って審理、裁判をしておるということは、常識的に考えて、はなはだむだなことであるのではないかと考えるのでありますが、しかし、実際は、憲法の解釈に誤まりがあるといい、また憲法に反すると申しましても、法令違反はことごとく憲法違反になるのであります。それは、憲法第三十一条を見ますると、「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。」とありまして、法律の定める手続ということが刑罰の前提要件であるのでありますから、その法律の手続に違背し、その法律の解釈を誤まった裁判は、法律の定める手続によらないのであるから、憲法第三十一条違反になることは明白であります。およそ、法律に違反した手続による裁判はみな憲法違反であって、最高裁判所異議申し立てができることになっているのであります。本案によってかように二、三年運営いたして参ります場合には、小法廷はなるほど多数の判事によって事件は処理し得るのでありましょうが、最高裁判所はとうてい事件を審理、裁判し切れなくなり、事件はまた五千件、六千件と累積して、国民の非難の声が起るものと思われるのでございます。もし事件が山積した場合に印刷物などで却下決定などをなさることに相なりますと、最高裁判所の威信はそれこそ地に落ちるに至るということをおそれるのであります。  また、本案によりますと、農商裁判所は終審裁判所として違憲審査をすることによって、憲法八十一条の要件を満たしたのでございますが、憲法第七十六条の司法権については下級裁判所である小法廷にその権限を譲ったと見られるのでありまするが、何ゆえに国民が希望する法律の解釈の統一という重大な使命を最高裁判所自身がやらないのであるか、この点は本案の重大なる欠点の一つであると信ずるのであります。刑事ではともかく、民事では、本案で言うように最高裁判所違憲審査のみをすることになれば、ほとんど最高裁判所とは絶縁することになるのではないかと考えられるのであります。民事事件では国民は最高裁判所の判断を受ける機会はほとんどなくなると言っても過言ではないと思うのでございます。小法廷という下級裁判所を作ることは、この点からも適当でないと言えると思うのでございます。  それから、四番目の御諮問でありますが、いわゆる増員論に対する所見を述べろということでございます。  いわゆる増員論というものは、先ほど申し上げましたように、昭和二十六、七年当時、最高裁判所に七千件の事件が累積して、新件などはいつ手がつけられるかわからないという国民の不安がやかましくなりまして、最高裁判所裁判官十五人を増員して事件の審理を迅速にしてもらいたいという要望が朝野に起ってきたのが増員論であると思うのでありますが、これに対する反対論は、最高裁判所は終審として憲法審査をする裁判所であるから、全員が合議体となって審理裁判をしなければならない、いわゆるワン・ベンチ論であります。十五人以上に裁判官を増員すると合議ができない、また適当の人が得られない、また憲法の解釈が区々になるというようなことで、増員に反対された方は減員論を主張されたのであります。  しかし、私ども考えるところによりますると、全員が合議体として審理、裁判をしなければならないと命じた憲法規定はないと考えるのであります。八十一条並びに七十九条が問題の条文でありまするが、七十九条は最高裁判所の全裁判官の数をきめたのでありまして、最高裁判所を構成する裁判官をきめたのでありまして、決して合議体の裁判官を何人にしろということを命じた条文ではないのであります。八十一条にはさようなことの見らるべき点は一つも見られないのであります。ただ、八十一条によって最高裁判所裁判官は憲法違反にはみな関与する権利があるのだということが最高裁判所裁判官諸公の御見解のようでありまするが、私どもは、最高裁判所裁判官の憲法に関与する権利を剥奪しようなどとは夢にも思わないのであります。全員がいかなる機会にか憲法判断に関与する機会を常に持ってもらうということは心配をいたしておるのでありまして、剥奪するというようなことは考えていないのでございます。  それから、十五人になると合議ができないと申しまするが、これは、先ほどの公述人の方のお話にもありましたように、運営の巧拙の問題であると考えるのであります。合議の話もずいぶん伺いましたが、ただいまの合議の運営は、失礼ながらあまりお上手にはできていないように考えられるのであります。これは運営の巧拙の問題であって、合議ができないという不可能の問題ではないと考えるのであります。  それから、最高裁判所裁判官が幾つかの部に分れて合議をし裁判をするということは、先ほど来申し上げますように一つも支障のないことと考えるのであります。それから、戒能公述人も申されましたように、適当な人がないという御議論に対しましては、私どもは従来からたくさんあるということを申して参っておるのであります。  もう一つ一番大事なのは、憲法の解釈が区々になるおそれがあるという御議論でありますが、この点に対しましては、私どもは、連合部を設けることによって憲法の解釈が区々にわたらないようにすることが十分にできると思うのであります。そこで、在野法曹といたしましては、最高裁判所裁判官は三十人とし、五人ずつの合議体を六つ作り、民事刑事各三つずつの法廷とし、憲法違反もこの各法廷でそれぞれ審理、裁判をする、別に連合部を作って、民事連合法廷刑事連合法廷、民刑事連合法廷を設けて、判例の抵触を防ぐことにいたし、それから、長官を除く裁判官はみな同様の資格のものといたしまして、国民審査を受けるものとすることに異議はないのであります。つけ加えて申し上げたいと思いますのは、大法廷、小法廷というような区別はむしろない方がよいのではないかと考えるのであります。  それから、裁判の最も遅延を来たす原因でありまする少数意見というものは、国民審査のときに必要だということでありまするが、国民審査に少数意見を見て投票する人はほとんどまれでありまするから、かような制度は廃止することがよいのではないかと考えるのでございます。  それから、任命制度につきましては、いわゆる審査会に諮問することは、在野法曹の年来の意見でありまして、これは本案に御採用になっておるのであります。  最後に一言申し上げたいと思いますのは、本案は国民の権利の伸張と人権の擁護とに直接重大なる関係のある法案でございますから、きわめて慎重なる御審議を賜わり、八千万国民の不幸とならないよう立法せられんことをお願いするのでありますが、本案における最大の欠点は、四審制度となることであります。すなわち、最高裁判所小法廷という裁判所を設置することそれ自身が非常な欠点であると考えるのであります。もう一つは、最高裁判所法令の解釈の統一という重大なる職責を尽さない点であります。これは最高裁判所が終審としてぜひやっていただきたいと思うのであります。いずれにいたしましても、本案は訴訟の促進ということが前提で問題になってきておるのでありまするから、訴訟促進を妨げるごとき案にならないように、何とぞ十分なる御審議をお願い申し上げたいということを付加いたしまして、私の公述を終りたいと思います。
  95. 三田村武夫

    ○三田村委員長 及川公述人に大変長くお待たせいたしましてまことに御迷惑をかけましたので、続いて及川公述人の御意見を伺うことにいたします。  及川公述人に対しましては、言論報道のお仕事に長い御経験をお持ちになっております関係上、世論を代表する意味において、本案に対する御意見、あわせてこの機会に裁判のあり方、最高裁判所のあり方、上告制度の問題等、なお本案は裁判の遅延防止に役立つかどうかという点などについて御意見を伺いたいと思います。
  96. 及川六三四

    ○及川公述人 私は、専門外のことであります関係上、きわめて素朴な意見しか述べられないことを、あらかじめ御了承をお願いしたいと思います。ただいま委員長からも報道、言論の立場からという御注文でございましたけれども、報道あるいは言論という立場から特に申し上げてみたいと思うこともありませんので、私の感じましたところを簡単にお話しようと思います。  私に対するお尋ねは二項目にわたっておりまして、第二項は、第一は本案に対する意見、第二は裁判のあり方、第三は最高裁のあり方、第四は上告制度の問題の四点でございます。第二項は、本案は裁判の遅延防止に役立つかどうかについての意見ということであります。以下順を追って簡単に所見を申します。  第一の本案に対する意見でありますが、本案は、上告件数の増加によりますところの最高裁の裁判遅延を防がなければならない、また刑事上の上告理由の範囲を広げるべきだという二つのおもな要請にこたえるためのものと了解いたしております。この要請にこたえるための最も簡単でしかもすっきりといたしました方法としては、現行制度のまま最高裁判所裁判官を増員いたしまして、同町に小法廷の数をふやすことであるように思います。しかしながら、そういたしますと、一応裁判の遅延防止とか上告理由の範囲拡張の要請にこたえることはできるといたしましても、裁判官の人員増加は当然大法廷裁判官の増員をもたらします関係上、現在の十五名でさえ人数が多過ぎるために裁判の進行がおくれるというたような議論があります際、果してその通りであるといたしますならば、大法廷の審理というものはますます遅延いたしまして、最高裁の審理や裁判を促進するための措置が逆にそれを遅延させる面の出てくるおそれが免れないという理屈になると存じます。従って、本案のように最高裁判所最高裁判所小法廷という下級裁判所を設けますことが最善の方法であるか、あるいは東京同等裁判所上告部とか審査部というたようなものを設けるなど他の方法がよろしいのであるか、それらにつきましてはにわかに決定的な意見を申し上げかねますが、とにかく、刑事上の上告理由の範囲を広げた一般上告を扱うところの裁判所を別に設け、最高裁判所につきましては、これを減員することの方がよろしいという確証がありますならば減員いたしまして、もっぱら憲法違反とか判例変更などの重要事件だけを取り扱うようにするという本案の構想は、構想そのものとしてはさほど非難に値するものとは思わないのであります。ただし、先ほどもちょっと申し上げましたけれども最高裁判所裁判官を増員いたしますことが決して裁判を遅延させるゆえんではないということがはっきりいたしますものでありますならば、最高裁判所の審理、裁判等を緻密にいたしますためにも、また衆知を集めるという点におきましても、むしろこれは増員した方がよろしい、そのためには、最初に申しましたように、現行制度のままで最高裁判所の判事を増員し、かつ小法廷をふやすということに戻ってしまった方がよろしいだろうと思います。しかしながら、実際問題といたしまして、現実の経験もありません私が、十五名を九名に減らした方がよろしいのか、あるいは三十名なり四十名なりにふやした方が事実裁判をおくらせないし諸般の利益があるか、どちらが正しいかということについては、遺憾ながら私ここで決定的な見解を述べるだけの知識を持ち合せておりません。  第一項の第二は、裁判のあり方についてでございます。このお尋ねも、私しろうとでございますので、しっかりした意見を述べかねるのでございますが、裁判一般についてのお尋ねだと存じますので、若干思いついた点を申し上げてみたいと思います。  この点につきまして私が特に希望いたしたいと存じますことの第一点は、第一審の重点主義をより充実させる、先ほどの公述人からも御意見がございましたが、これはけっこうなことだと思うのであります。その一つの方法として、聞くところによりますと、司法裁判所におきますところの合議裁判の道をなるべく広げることが望ましいのではないかということが一部専門家の間に主張されているようでありますが、この点なども研究に値することのように私感ずるのであります。  その第二点は、先ほども意見が出ましたけれども、控訴審において、事によってはもう少し事実審理の道を広げるということはいかがなものであろうか。これは、報道の立場から見ましても、どうも裁判を傍聴いたしましてもぴんとこないような点もありますし、いかに第一審重点主義とは申しますけれども、事によってはもう少し事実審理の道を広げていただいた方がよろしいのではなかろうかという感じがいたすのであります。その具体的理由は時間の都合上省きます。  その第三点は、上告審理も事によってはやはり口頭弁論の道をもう少し広げるべきではなかろうかというしろうと考えであります。これらはいずれも判事の増員と密接な関係もありますし、また裁判の促進ということとも関連するのでありますが、調査官とか書記官などの充実とか、あるいは関係法規の整備とかということによってある程度はその欠点をカバーすることができるのではなかろうかといった気もいたすのでございます。皆様の御一考をお願いできますれば非常に仕合せと存ずる次第でございます。  第二項の第三は最高裁判所のあり方、第四は上告制度の問題でありますが、これらにつきましては、ただいま一応触れたように思いますので、この際省かしていただきます。  最後の第二項は、本案が裁判の遷延防止に役立つかどうかというお尋ねでございました。本案によりますと、小法廷の数がふえますし、また、小法廷裁判官は、大法廷のかけ持ちというたようなこともなく、小法廷のことに専念できますなど、裁判の遅延防止に役立つことを期待することのできる要素はもちろんあると存じます。しかしながら、一方におきましては、刑事における上告理由の範囲を法令違反にまで拡張すること、それから、小法廷から大法廷へ移された事件を、また大法廷からさらに小法廷へ移すことの道を設けること、それから、小法廷裁判に対して大法廷異議申し立てをすることができる道を開くなど、反対の要素も少くないように思うのでございます。従って、本案の目的を遺憾なく発揮するためには、最高裁の規則制定権の行使とか、あるいは先ほど申しました調査官の充実とか、これはしろうとの考えでありますけれども、その他いろいろの補助的手段を講ずることが必要ではなかろうかと存じます。果して本案のままでいきました場合に著しく裁判の遅延という問題がカバーされるかどうかということにつきましては、私少からざる疑問を持っております。  以上をもって私の公述を終ります。
  97. 三田村武夫

    ○三田村委員長 及川公述人に対し御質疑がございませんか。――なければ、本日の公聴会はこの程度にとどめます。  公述人各位には御多忙中にもかかわらず長時間にわたり御熱心に種々御意見をお述べ下さいまして、ありがとうございました。今後の法案審議の参考にいたしたいと存じます。  それでは本日はこれにて散会いたします。次会は明十一日午前十時から開会いたします。     午後五時二十七分散会