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野原委員 これはますます私は了承できません。去年の秋に、ここにおる
並木委員、それから前文教
委員長の
佐藤委員、私がわざわざ国の金を使って出張をして、忙しいのに
奈良まで視察に行ったのです。それは去年の秋のことで、史跡地内に五カ所ほど無断で肥鉄土を掘っておる。若草山の山肌が五カ所赤土で荒らされておる。これは史跡地内に無断でやっておる。無断で現状変更をやることは相ならぬと
文化財保護法は書いておるわけです。こういうことをやったものには罰則まで実は今規定しておる。私はそれをなぜやらぬのかと言ったら、どういうものか、やれないと言うのです。何か弱みがあるらしいんですよ。あなたは
あとから
文化財委員長になったから知らぬのだ。私ははっきり言いますよ。どうもあるのじゃないか、私
どもに言わせれば、そう見ざるを得ない。
文化財委員会というのは、
文化財保護法を忠実に実は実践するところなんですよ。そのために法律を国会は作ったはずです。その法律を忠実にやらないで、しかも去年の秋に私
ども国会
議員が行ったときに清水次長も一緒に来て、現地で実は注意をしたのです。直ちにやりますと言って、今日に至るもなおやらない。しかも本年の三月三十日には文書でもって
文化財保護委員長の名前で会社に通知を出してもなおやらない。あなたは最善を尽しておるのです。最善を尽しておるか知らないけれ
ども、相手の会社というものはせせら笑っておりますよ。せせら笑われて、そして私は最善を尽しておるから御了解願いたいと言われても、私
どもは法律をじゅうりんして
文化財を
保護しない、こういうような会社のやり方というものを黙認するわけにはいかぬのです。
文化財保護委員会は、それはいろいろないきさつがあって、せざるを得ないかわかりません。しかし文教
委員会はそのようなことはできません。私はこれは好きこのんでこの問題を何回となくやっているわけではない。これは氷山の一角だと思う。この
奈良の史跡地の無断現状変更に対してすら、このような優柔不断な
文化財保護委員会だから、今日の
日本の
文化財のこの荒廃の体たらくになったんですよ。今私
どもはこうして決議を上げましたけれ
ども、この
国立劇場の問題だって、
昭和三十一年からやるという報告だったんです。この問題でもことしに至るもできない。スズメの涙のような千何百万円かをもらって、そうして
昭和三十五
年度までに努力しますとあなたが力んでみてもこれはできやしません。私ははっきり予言しておきます。これはできないです。今日の
文化財保護委員会では
保護委員の
諸君を総入れかえをするほかはない。今のような優柔不断な、そういう弱腰では、これは何もできない。私の言うことが過激であり、むちゃであるというならむちゃである点を指摘してもらいたい。
奈良の若草山のことは、何と言われても答弁できませんよ。問題はこれだけじゃないのです。これはほんの一例なんです。すべての今日の
日本の
文化財行政というものは、これか如実に示しておるのです。そこで私はこういうようなことばかり申しても何でございますが、これは植樹の問題散水の問題です。五つ条件かあったんでございますけれ
ども、何
一つやられていない。しかも、第五の条件には、「以上諸条件実施に関しては、すべて
奈良県教育
委員会の指示に狂うこと。」会社はその他史跡の保存に関する事項については
奈良県教育
委員会の指示に従うこと、現地の
奈良県教育
委員会の指示に従わねばならぬと言っておりますけれ
ども、私の
調査したところによれば、
奈良県教育
委員会の指示に従うどころか、
奈良県教育
委員会が御影石をもって旧東大寺の境界のその
あとに八十本立てようといったら、持っていった労働者を追っ払っちゃったんです。私は法律を無視した暴力にもひとしいようなこういうやり方が、これは認められていいのかというのです。こういうことを認めるか、認めぬかは文教
委員会じゃないんです。
文化財保護委員会なんです。だから私
どもは去年の秋に参ったときに、実は私
ども現地を視察した
並木、
佐藤両氏とも相談をして私
どもの
意見を出そうじゃないかと言いましたけれ
ども、しかしこれは決議機関でありますから、
文化財保護委員会に要請勧告だけを出して、
保護委員会が行政上の主体であるから、
保護委員会にこれはやってもらわなければならぬというので、私
どもはあなた方のやることを見ておった。そうしたら本年の三月三十日にそれを出しますというのでそれもがまんしてきたのです。五月三十一日というから五月三十一日まで見て、これでやってくれれば、いろいろ問題はあるけれ
ども、とにかくこの辺でほこをおさめようじゃないか。
文化財保護委員会は
委員長がかわったことだから、相当魂を入れかえてやってもらえるだろうと期待をしておりましたが、何ぞあにはからんや、魂の入れかえどころか、魂はどこに行ってしまったのかわからぬような
状態になっておるのです。そういうわけです。
そこで
お尋ねをしたいことは、
昭和二十九年の六月二十六日に有料道路を許可するときに、あなたの答弁にも、高橋院長の答弁にも、速記録に出てきておるのでございますが、一体これを許可してよいか悪いかということが、やっぱり相当論議をされたのです。
文化財保護委員会の事務局でも
委員会でも、そのときにこれを許可することに傾いたのは、
奈良の奥田知事から副申書が来ておった。だからその副申書というものが、相当
文化財保護委員会に、県知事までがこういって責任を持つと言っておるんだからというので、あなた方にそういう心証を与えて許可をしたということであります。四月十一日にあなたもこれはおっしゃっておるのです。高橋院長も何回となく申しておりますし、
岡田事務局長の答弁にもあるわけです。だから私は
奈良県知事の
昭和二十九年六月二十一日付
——今から三年前の許可をするときに現
奈良県知事奥田氏は、どういう副申書をあなた方に出してきておるのか、会社側の申請書に添えて知事の判こを押して出してきた副申書なるものを一ぺん読み上げてもらいたいと思います。