○
小野公述人 私は
日本の
思想というようなものを
研究しておりますので、この問題についてできるだけ広い
考え方で申し上げてみたいと思います。問題が
歴史に関係いたしますので、
歴史の論に傾きやすいのでありまして、またそういうところから
考えていく傾向を持っておりますが、私は、この問題は国の初めの
記念日を設けるという問題であって、
日本の紀元を定めるという問題ではない、そこのところに
一つはっきりしたポイントを置いて
考えていきたい、こういうふうに思っております。
第一番に、そういう観点から非常に大事な問題として
世論の問題でございますが、これは御提案にもありますように、数度の
世論調査におきまして、
国民の大多数がこの
記念日を設けることを非常に望んでおるという事実がございます。民主主義の政治の建前からいたしまして、これだけ
国民が熱心に望んでおるものを議会が尊重して下さるということは、これは常道であって、これだけの
理由でもこの日をお取り上げになっていただくというのに十分に近い
根拠であると思うのでありますが、
建国の
記念日を設けたいということについては、今までの
委員会の御討議の
議事録を拝見いたしましても、与党も野党も御賛成の御様子でございますので、その点については大へんけっこうなことに存じておるのでありますが、残ります問題は結局日の問題であります。私は、これはできるだけ
世論を尊重して実現していただきたいということにつきましては、この
世論の背景にあるものがどういうものかというようなことが一応問題になっておりますが、結論的に
考えておりまするのは、非常に
国民の健全な気持がここに反映しておるというふうに思っております。と申しますのは、たとえば福沢諭吉翁が独立自尊ということを申されましたが、人間が一個の人間として社会的にりっぱな人間として生きていくためには、自分の人格を大事にするという気持が
根本になる。同じように一国の
国民が自分たちの国をりっぱにしていこうという
考えを持つときには、やはり同じように国を大切にするものであるという気持がなければならない。その気持がここにあるのであって、私は
日本のすべての人々が今度の
戦争において自分たちの国の顔に泥を塗ったということをひとしく情ないことに思っておると思うのであります。従って、何とかしてもう一度
日本の顔の立つようなりっぱな国になりたい、こういう気持からして、独立ということと結びついて、どうか
日本を
日本としてもう一度認識して、そうしてりっぱな国に作り上げたい、こういう気持が現われておるというふうに思うのでありまして、これは決して一部の者の一方へ引っぱっていこうというようなことでもって、とても八割以上の
世論を盛り上げるなどということはできないと思います。ことに占領期間中及び今日において新聞に現われております論説は、多くはこの
記念日のようなものについては
反対をする
立場、または
日本の
歴史には
うそがあったというようなことの宣伝にほとんど力が用いられているような状況でありまして、一部の者の力などではとてもいかない。何度
世論調査をやってみましても、こうして
国民が支持しているということは、そこに非常に奥深い
国民の心の中から浮び上ってきているものが反映しておる、こういうふうに私は思っておるのであります。従って御提案の中に「真の祖国復興」「
国民精神の覚醒」あるいは「
伝統の恢弘」というような言葉が見えておりますが、私はそういったような気持が
国民の大部分の者の心であるというふうに
考えますので、ぜひその気持を尊重する線においてこの問題を
考えていただきたいと思うのであります。そういうものは愛国心につながるもので、そんなものを持つと愛国心が起ってきて困るだろうというようなことがもし言われるとしたら、これは大へんに間違ったことだろうと思うのであります。このことについてちょうちょうと申し上げる必要はないと思いますが、この
記念日を置くことを命令をもって禁止したバンス自身が言っております。アメリカ人にはアメリカ人の愛国心というものがあり、それは非常に大事なものだ。
日本人にも
日本人の愛国心がなければならぬ。われわれが問題にしているのはそれが誤まった愛国心になることであって、正しい愛国心が伸びなければ
日本は立っていけないのじゃないか。
日本をりっぱにしようったって土台になるものがないんだから、われわれは決してそれを弾圧しようとする気持はない、ということを言っておるのであります。これは当然のことだと思うのであります。そういう
意味において、せっかく
国民の中にめばえておる、新しい
日本を作り上げていく土台としてもう一度
日本を見直そうという気持を尊重していくことが、必常に大事な問題だと私は
考えます。
次に、
建国の
記念日としての日を選ぶ問題でございます。日の問題はいろいろ出ますけれ
ども、それを
考える際に
一つはっきり
考えなければならないことは、自然人のわれわれでございますと、
誕生日というものははっきり認めることのできるものであります。従って、
歴史上の日付というものをはっきりきめることができるのであります。また
一つでなければならないということにしぼられて参ります。ところが、国そのものが観念的な
一つの存在でございますので、
建国というものも観念的なものである。国も学校も会社もその他の団体も同じような性質を持っているものでありますから、いつを創立のときにしよう、いつを
建国のときにしようということは、観念によって、意識によっていろいろなものがきまってくるので、
一つのものが出てこなのいは当然である。そうして必ずしも
歴史的なものに拘泥しないで
考えることもできる。そういう性質を持っているものでありますから、その性質に従って広い
立場で問題を
考えていくことが必要だと思います。もし、五月三日がよろしい、
国民全体の気持がそこへ寄って、これが一番
意義のある日だと言えばそれを尊重していくのがいいと思う。決して悪いことではないと思う。また八月十五日の敗戦の日が一番いいんだという
世論であれば、私はそれも
意義があると思います。そのほかの日でも、選び方によっていろいろきまるのでありますが、今日は
国民の
世論が二月十一日というところにしぼられて、絶対的な
世論が出てきておるのでありまして、この点に立って
考えるのが
考え方の常道であると思われるのであります。そこに
国民の気持が寄って、この日ならばみんなが気持よく祝えるという方向になってきたならば、それを尊重していいんじゃないか。
歴史的に何か非常にはっきりしたものがなければいけないのだという制約はない。この問題をきめるのには外国にもいろいろ似たようなものがあります。ある国もない国もあります。しかしながら、これはわれわれの問題であります。
日本人みんなが自主的に相談して
考えてみて、この日ならばわれわれが求めているような気持の盛り上る日だというところで決着のついたものを、政治的に大きな目で見て
考えていただくのがいいと思います。もちろんそれをきめるのには
歴史の問題も
考えないわけにはいかない。そういう問題についてももちろん十分に
検討されることが必要であります。
まず第一番に
考えたいことは学問と政治との関係でございますが、
日本の紀元について不確かだという学問上の説がいろいろある。一体
明治五年に
紀元節を制定したときそれをどうしたか、学問を全く封じてしまったか、あるいは何にも知らないでもってきめてしまった乱暴なものであったかということを顧みてみますと、決して学問を知らなかったわけでもなく、乱暴なことをやったわけでもない。またその後に学問を封じてしまおうというようなことをやったわけでもない。学問上の疑点があることは重々
承知の上でこの問題を割り切り、必ずしも学問で割り切らないでよい性質のものであるということをのみ込んで、そうして現在の
段階においてどう取り扱うかということを政治家が頭でもって政治的に判断して処理された、こういうふうに私は
考えます。従って、あとから那珂博士の説も出れば、その他の学者の説も出て、
日本の紀元について誤まりがあるようだというようなことについての論議が十分戦さわれ、その論文は幾らでも発表されている。この点は別に何ら制限はなかったのであります。私
どもの学校などこういう問題はかなり慎重に取り扱う学校でありますけれ
ども、戦時中でもこういう説が紹介され、そういうものに基いて
研究していくという態度をとっておったが、何ら弾圧もされなければ、何にもございません。そういうような
立場でもって
考えられていくのでありまして、二千六百十七年という年が
歴史上のはっきりした年でないとして、なければないような取扱いがある。たとえ話で申し上げますれば、ここに正宗の刀を持ってこられて、これが正宗の刀か鑑定してくれと言われたときに、鑑定家も、専門的に鑑定がつかない場合は「伝正宗作」ということでもって、捨ててしまわないで、尊重していくということでもって、そういう問題はあとで明らかにするように取り扱っていく方法があるのであります。この二千六百十七年というのは
日本書紀が表わしておったものであります。従って、伝二千六百十七年でありまして、伝という一字がつくことによってはっきりすることであります。そういうような頭さえ持てばこの問題は政治の上でもって取り扱う別の道がついてくる、私はそういうような性質のものだと思っております。大体
日本書紀の紀元に問題がある。
日本書紀の記載が学問上問題になる。ということは、決して
明治の
時代になって明らかになったことでもなければ、戦後になって急にはっきりしたものでない。
日本書紀ができたときからはっきりしていることであります。それはお手元に差し上げましたような表によってわかる。古事記と
日本書紀の
天皇のお年を比較してみるだけで違っているのであります。千三百年前この書物ができたときにはっきりしていることであります。議論すれば幾らでも議論の余地があり、
研究の余地があることは本来早くからわかっておった。
明治の
時代にこのことを知らずしてきめたわけではない。政治的な常識において取り扱ったので、そういうようなことを頭に置いてこの問題を処理することが一番大事ではないかと思います。先ほど
井上先生が言われましたように、学問の圧迫になるようなことは困るというような御心配があって、その学者の説を尊重されることは教育上も大事なことでございますが、そういうようなことを考慮してあとで問題が起ったりなんかしないようにということを
考えるのであります。私はこれは必要のないことであると思う。今日
憲法において学問も
思想も完全に保障せられている
時代に、何でそんなことを圧迫することができるものかと思うのであります。もし御心配であるならば議会において
一つ附帯決議をつけていただきたい。この決定は
日本書紀の紀元による時期の決定であって、将来にわたって学問の自由及び教育上異設を教えることを拘束するものでないとおきめになったら、もうこれはだれも文句はないと思うのであります。それほど神経衰弱的に
考えなければならないならばそこまでいったらよろしい、こう思います。
なお、それでは学問の上でははっきりしないのにやっていく、それでもよろしいといっても、あまり常識はずれ、けたはずれのことでは困るということは、議会でもってお
考えになるのには大事な考慮の一点であろうと思いますけれ
ども、大体文献学というものには私は限界があると思います。人間がもとは口で伝えてきた。そして文献がぼつぼつできるようになってきた。どれだけ完全な文献が残るか、どれだけ完全な口伝えが残るか。それだけでもってすべての問題が解決するということを
考えるのは無理だと思う。非常に短かい形のものが現われてくることもあるだろうし、長い形のものが現われてくることもある、全然何といっていいかわからないような場面になってしまうこともあるだろうと思います。だから文献学がすべての
発言権を持っているものではない。
日本の古さというものを
考える場合には、もっとほかの学問を使えるならばそれを
考えていかなければならないと思うのですが、考古学者の今日の多くの方々は、決して二千六百年が短かいとは言っておられないようであります。大和朝廷の
歴史はもっと長いというふうに言っておられる方が
相当にある。考古学は現にものが残っておる。そしてそれを証拠にしていくのですから、文献学よりはもっと年代などを
考えるときには参考になる性質のものだ。そういうふうな性質を持っている学問が、今日もう少し長くてもいいんだということをいっている
段階において、文献学だけでもって短かいというふうに切ってしまうということはできないのであります。その非常な長さの範囲を中で
考えてみれば、二千六百十七年はそんな非常識なものではない、常識的に許される範囲において政治の常識に基いて取り扱っていかれる、こういうようなことが
一つの
考え方の点にならなければならないのではないかというふうに
考えております。
いろいろそういうようなことを
考えていく問題もあると思うのでありますが、
日本書紀というものによるという場合に、
日本書紀がもし
ほんとうにでたらめないいかげんな本であるとするならば、たとい
一つの儀礼的な
立場でもって尊重するにしても、これも問題でありましょうがこれは
天皇から御命令があって国の官吏が一生懸命で
研究をして責任をもって御報告したものでありまして、その点はきわめて明瞭になっているものであります。できた年代も千三百年前にできております。
日本としてはきわめて古い、第一級の古典である。その古典をそのまま信憑するというのじゃない、学問は幾らでもほじくっていく余地があるのですから、そのまま信ずるのじゃない。古典を古典として尊重するという
立場でもって尊重に値するか値しないかという問題になれば、私は無条件で尊重しなければならないものだと思う。だからこれを使ったからおかしいということはないと思う。
日本ではこれはどうしたって大事にしていかなければならない文献の
一つである。それを尊重するという建前でもって、先ほどのようにこれによってこの
時代の問題を政治的に取り扱うところの
一つのよりどころにしたということで、一向常識に反しないというふうに
考えます。
日本書紀がいかに良心的であるかという問題について一々申し上げる時間もありませんので、表の中にちょっと出しておいたのであります。古事記と
日本書紀とを比較してみても、
日本書紀の年ばかりが長いのじゃない。古事記よりも
日本書紀の方が
天皇のお年を短かくしているようなものもあるのであります。
日本書紀がただ引き伸ばすということだけ
考えておったならば、みんな引き伸ばしたらいい。小説や何かじゃないので、勝手なものは作れない。少くともその
時代において存した資料に基いて、いろいろな
考え方に基いてこれが責任の持てるというものを書いたんだということは、私は、きわめて一端ですけれ
ども、そういうことからうかがえると思う。その他のことについて一々申し上げる必要はないと思います。
日本書紀がまじめな
編さんをしたものであって、そして古典としては尊重しなければならない性質のものであるから、それに従って
考えていくというだけの権威は少くとも持っておる、こういうふうに確信しております。
なおいろいろ
天皇の問題などにつきまして、
神武天皇の御
即位の日を
日本書紀の伝承に従って
建国記念日にしたというようなことになると、
天皇制というもうに対してまた火がついて専制政治の方へ戻っていきはしないか、逆コースになりはしないか、そういうようなことでありますが、これは私はふに落ちないのであります。
日本人の今度の
戦争の痛ましい敗戦の体験というものを通して
ほんとうに
天皇を尊敬し、愛するという気持の人間がどう
考えるかということは、人の心を正しく理解をしてもらえば明瞭にわかることだと思う。マッカーサーの前に立たれて、朕の身はどうなってもいいが、
国民を何とか無事にしていただきたいということを申された。ドイツのカイザーのように廃帝になられるか、あるいは配所の月をながめられるようなことになりはしないかというような、そういう差し迫った体験を経た
人たちが、再び
天皇に非常な責任のある地位に立ってもらって、またあんなことが起るようなことを望んでいるような人が出てきたら、私はどうかしていると思う。私は、皇室を大事にする人の方が慎重であって、皇室を大事にしない人の方が慎重でない
考えを持つということ、
天皇制を批評してどうこうということは逆なことではないか、
歴史がそこまで動いてきている、この動いている
歴史を見なくてはならない、こういうふうに思います。
神武天皇の御東征の問題もそうでございます。確かにあのときに
戦争をしたのであります。弓と刀でもって
戦争をした。あの
戦争が今日の
戦争のお手本になる。原子爆弾が頭の上からいつ落ちてくるかわからないようなこの
時代に、アメリカでもソビエトでも一国では防衛ができないことは歴然たる
時代に、このちっぽけな
日本が一体どうするつもりか。この
世界を征服する
思想を起してくるやつは気違いである、私はそう思います。従ってそんな方へ行くという心配を
考えることは私は神経衰弱だと思う。そういうような
考えを乗り越えて新しい
日本の建設という方面に進んでいきたい、こう私は思うのであります。
大体八紘為宇の詔勅というものについて非常な読み違いをなされておるようでありまして、あれが
世界征服主義に利用されるというのでありますが、利用された人はあの本をよく読まなかったのであります。それはお手元に差し上げてありますが、読んでみればはっきりわかる。六年の
戦争が終ってこれから都を建てて、そうして
国民の利益になるような政治をやっていこう、そうして自分たちの御祖先の徳とお心に沿うて正義の国を立てたなら、おのずから四方の者が四海兄弟の平和な
世界になってくるのだから、もう
戦争はやめだという平和な
世界を作るための平和大宣言である。それをどう読み違えたのか、それはどうも古典をあまり教えなかったことの罪だと思う。通に今から教えなければならない。読んでみればそんな心配はないと私は
考えております。だからこれがもう一度持ち出されたときには、徹底的に教えて間違いないようにする。しかしそれも新しい
日本というものを
考える場合にはそれだけではないので、もっと
日本人は
日本人の目でものを見ていく、だからそれだけですべてでないというふうに
考えていってもいいと思います。
それからもう
一つ、先ほど
和歌森先生から
お話があったのですが、私はちょうど逆の見方をしている。
明治政府が
紀元節を作ったということは、なるほどあの
時代のことでありますから、
政府が中心となって作った。だから
国民がそれに親しみを持つまでの間に時間がかかったということは事実であります。しかしながら徳川
時代以前に一体
日本がどういう国際的地位にあったかということを
考える必要がある。
日本が
建国の日を祝うという気持がなかったとは決して思いません。その中に旧事紀を引いてございます。旧事紀の方がわかりやすいから引きましたが、六日の拝賀と
神武天皇の
即位とは結びついた気持を持っておりますので、おのずから年の始めの
お祝いをしますれば、国の始めの
お祝いということも含まれますので、そういうような気持で特に日を設ける必要がなかったということもあるのでありますが、
日本というものを特に意識して
お祝いをしなければならないという必要はきわめて少いのであります。
なぜかといえば、
明治以後には、開国が行われて、国際社会の一員となって、他と自分とを区別するという意識、
日本というものを
一つの独立的なものと
考える意識が強まって、国際社会の一員となって、そうしてそれから先の
生活が続けば続くほど、この日は
意味を持ってくるのでありまして、だからして、初めはそれほどでもなかったものが、だんだん
国民の愛着を持つ日になって、理解を持つ日になってくるというのが、これが
歴史の進んでいく方向である。逆になっていくとすれば、これは
歴史がさかさまに歩いていくということになる。その
意味では、きわめて自然な
現象を踏んできておると思います。同じく
国民が
誕生日を祝うということをやっておらなかったのに、このごろ国の
誕生日という言葉がばかにはやるけれ
ども、これは当然なことでありまして、
国民が自分の
考えていることとぴったりしたことをいわれれば、それに共鳴を感じていくので、あの言葉は、確かに今の
国民は非常に共鳴を感じております。なぜ感じるか。これも同じことであります。近代社会、近代
思想というものは、
個人の自覚ということが大事な問題であります。民主主義をやっていくのに、こいつをやらなければだめだ。それがだんだん進んでいくからして、それで、それに従って自己というものの自覚が出てきて、われわれの
誕生日というものが問題になってきた。それがだんだん
国民に取り入れられてきて、その言葉がきわめて自然に入り込んできているのが、現在の国の
誕生日という言葉であります。だからして、近代的な
考え方が進むに従って、この意識というものは強まり、
国民がますます自分のものとしての気持になる性格を持ったものであります。そういう方向に進んでいる。過去にあったそのときだけで動いているのじゃないということが、かえってこのことでわかるのでありまして、これは
和歌森先生は昭和二十九年の放送討論会のときに、同じくこのことを言われて、戦後二十三年の
世論調査に現われたところでは、それはまだ
明治の
時代の頭の人間がたくさんあって、その頭の抜け切らない連中だからして、あれだけの
世論が出た。民主主義の教育ができたのだから、今やれば
世論は減るとおっしゃったけれ
ども、しかしその放送討論会をやった直後にNHKでやった
世論調査というものは、ここに御提案の中に出ているように、八一%という成績を示して、さらに一進展をしておるのであります。わずかな期間に民主主義が進んで、かえってふえる方向を示したということは、私は雄弁に、
国民がいよいよ自己というものを自覚する方向にいって、その
意味では非常に民主的方向が開けてきている、こう見ることができると思うのであります。そういうような点から、いよいよ
国民に親しまれるべき性質を持った
記念日として、ぜひこれを実現していただきたい。そうして多くの人々が二月十一日という希望をしている。
国民の気持を
一ついれて、二月十一日にしていただく。無理な日ではない。大ざっぱにして、別に紀元をきめるのではなくて、
一つの
歴史的な古典を尊重して、その中に現われているものによって、ほぼ大した見当違いでも一ないところを頭の中に描きながら、古い国というものを自分の祖国と
考える、この気持を
一つ買ってやっていただきたい。そうして、
建国の
記念日というふうな御提案になっておりますが、
建国とか肇国とかいうことはいろいろ問題になりまして、
日本の国の成り立ちというものはどういうものかというような議論もあります。むしろ
紀元節という
名前が親しまれて七十年もみんなが使ってきたのでありますから、そしてその
名前を使うことにも多くの人が心を寄せているのですから、私はこれも、紀元でもなければ何でもない、そうして国の初めという言葉に連なる言葉ですから、これを尊重していただくのが、
国民の気持に一番沿うていると思います。できるならばそういうふうな線でやっていただきたいと思う。もしいけないとすれば、やわらかく、国の初めの日とか、国の初めの
記念日とかいうような親しみやすい言葉にしていただけば、かえってその方が学問上の議論な
ども起らずに、いいのじゃないか。
名前の点な
どもその辺の穏やかなところで、日のことも穏やかに、
国民の気持を受け入れてきめていただけたならば、新しい
日本という気持がかえってここに非常にわき上ってきて、
日本の
国民がこれから
日本を再建していく、その方向に向っていく、
一つの足がかりにもなる。これは
日本の国にとっても大きな
意義を持つことになるのではないかというふうに
考えております。
大へん失礼いたしました。