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1957-05-15 第26回国会 衆議院 内閣委員会 第41号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和三十二年五月十五日(水曜日)     午前十時二十六分開議  出席委員    委員長 相川 勝六君    理事 大平 正芳君 理事 床次 徳二君    理事 福井 順一君 理事 保科善四郎君    理事 山本 正一君 理事 石橋 政嗣君    理事 受田 新吉君       江崎 真澄君    大坪 保雄君       大村 清一君    北 れい吉君       纐纈 彌三君    薄田 美朝君       田村  元君    辻  政信君       船田  中君    眞崎 勝次君       町村 金五君    粟山  博君      茜ケ久保重光君    飛鳥田一雄君       稻村 隆一君    木原津與志君       小牧 次生君    下川儀太郎君       高津 正道君    辻原 弘市君       西村 力弥君    野原  覺君  出席政府委員         内閣官房長官  石田 博英君  委員外出席者         議     員 小川 半次君         総理府事務官         (内閣総理大臣         官房審議室参事         官)      瀧本 邦彦君         専  門  員 安倍 三郎君     ————————————— 五月十五日  委員野原覺君、高津正道君及び中村高一君辞任  につき、その補欠として茜ケ久保重光君、木原  津與志君及び下川儀太郎君が議長の指名で委員  に選任された。     ————————————— 五月十四日  寒冷地手当等の増額に関する請願外九件(平田  ヒデ君紹介)(第三一四六号)  恩給額調整に関する請願外三件(田中龍夫君紹  介)(第三一五一号)  同(八木一郎紹介)(第三一五二号)  同(神田大作紹介)(第三二一一号)金鵄勲  章年金復活に関する請願保利茂紹介)(第  三一五三号)  神町キヤンプ内民有地買収に関する請願(松澤  雄藏君紹介)(第三一五四号)  旧日本医療団職員恩給法適用等に関する請願  (三宅正一君外三名紹介)(第三一五五号)  国旗記念日制定に関する請願今井耕紹介)  (第三二一二号) の審査を本委員会に付託された。     ————————————— 本日の会議に付した案件  国民祝日に関する法律の一部を改正する法律  案(纐纈彌三君外三十七名提出、衆法第一号)     —————————————
  2. 相川勝六

    相川委員長 これより会議を開きます。  国民祝日に関する法律の一部を改正する法律案を議題とし、質疑を続行いたします。辻原弘市君。
  3. 辻原弘市

    辻原委員 今回提出されております、新しく国民祝日に追加して二月十一日を建国記念日とするというこの法案に対する反対賛成の論議はすでに相当かわされてきたわけでありますが、私どもこの際この問題が世論といいますか、今後の国民思想という点にきわめて重大な影響を持っておるものと考えまして、提案者並びに、これは委員長にお願いしたいのでありますが、文部大臣にも質問をいたしたいと思っております。  最初に提案者にお伺いいたしたいのでありますが、小川さん、纐纈さんお二人から、きのう私もかなりの時間、該博な古代史についての御認識の所論を伺ったのでありますが、そういうような史的考証部面を若干除きまして、ここで特に私が伺っておかなければならぬという重要な点は、これが提案趣旨の中にも入れられておりますが、ともかく民族生成発展をしてきた過程を振り返り、そして民族国家を作ったその創造の日を記念をしてむつみ合う、こういったようないわゆるおめでたいお祝いをするということにとどまらず、いま一つのねらい、目的としては、それによって愛国心をつちかうのだ、こういうようなことが言われておるのでありますが、しかりといたしますると、この建国祭をきめるということが直接に及ぼすものはやはりわが国における歴史教育についてでありましょう。それからいま一つは、その教育から広く義務教育を含めた全般の国民教育にこれまた影響をもたらしてくるということが考えられます。同時にそれらの面から広く国民思想の上にもこれは重要なる関連を持ってくるものと私は考えるのであります。そういう意味合いにおいて、これに賛成をする向きもまた反対をする向きもただ単なる祝いごとの日をきめるという意味合いではなくして、広くそういう国民思想の上において何がしかの影響を持つというその点からそれぞれの所論というものが生まれておる、かように私は考えておるのでありますが、提案者もそういうふうにお考えになって提案をせられたものでありますかどうか。この点すでに御答弁があったかもしれませんが、お伺いをしておきたいと思います。
  4. 小川半次

    小川半次君 建国記念日を定めたからといって、これは思想的に大きな影響を及ぼすものではないと私たちは確信しているのでございます。それはたとえば現在行われております新しい祝日を制定いたしました際にも、国民の一部の中には、天皇誕生日を設けるということを、これは旧来の天皇中心思想国民に植えつけるものであってけしからぬというような意見もあって、非常に思想的なことを御心配された一部の方もございましたけれども辻原先生も御承知のように、今日はあの天皇誕生日国民思想をそう左右しているとはわれわれは思わないのでございます。いわばもう問答無用というような状態に置かれているのではないかと思いますので、こうした点などから考えてみましても、建国記念日を設けましても、そう極端に思想を左右するというようなことはないのではないかと思うのであります。  それから愛国心という点でございますが、これは国を愛するということはけっこうなことでございまして、ただその愛国心軍国主義とが結びつくようなことはあってはならぬと思のでございます。国民自分国土を愛し、文化を愛し、祖先を敬う、従って自分の国の源をやはり祝福する、こういう点に趣旨があるのでございます。また教育歴史の上に非常に複雑性が起つくるのではないかというような御懸念でございますが、これは辻原先生御専門であられるように、学校教育法とか教育基本法とかいうものがございまして、それに基いて、極端に思想教育とか政治教育を行なってはならぬのでございますから、こういう点なども私は心配ないと確信しているのでございます。
  5. 辻原弘市

    辻原委員 小川さんは愛国心を培うということを思想範疇外のようにお話しがあったのですが、私がここで申し上げていることは、いわゆるイデオロギーと称されて、俗にいわれる近代社会における資本主義とかあるいは社会主義とかいうふうのイデオロギーではなしに、広く人間の思考、思惟、視野、こういう意味合いにおいて今お伺いしたのでありますが、そういう点から考えますならば、愛国心を養うとか養わぬとかいうことは広く思想の上での問題であります。そういうふうに一つお取りを願いたいのであります。それといま一つ、あなたが天皇誕生日の日をきめたことも、すでに今日これがそのまま実行されて特段の問題がないし、思想の上に特別な問題がないということを例証としてお引きになったのでありますが、私はこれは考えれば非常にいろいろな意味合いを持ってくると思うので、あなたにもそれからできれば纐纈さんにも、天皇誕生の日とこれを祝う一つ意味合いというもの、それからこの建国祭建国記念日を設定して祝うということの意味合において相違がないか。それについて天皇誕生日というものをどういうふうに考えるか、建国記念日というものをどういうふうに考えるか。非常に抽象的な問い方でありますが、そういう点に全然相違のないものかどうかお考えを一ぺん承わりたいと思います。
  6. 小川半次

    小川半次君 天皇誕生日国民が祝いますのは、これは憲法にもありますように天皇わが国象徴でございますので、いわば国民の父であるというような国民的感情から、その象徴である天皇の生まれた日を祝うのであって、それはそこでおのずからそうした祝うという気持が湧いておると思うのであります。また建国記念日を祝福するということは、人はだれしも自分祖先を懐しみ、その源を祝福したいと同時に、また自分たちの住む国土、愛する国の源であるのが建国記念日であるという考え方から祝福する、その祝福するという気持そのものは相通ずるものがあると思いまするが、考え方と申しまするか、思想的には必ずしも一本であるとは私は考えないのでございます。
  7. 纐纈彌三

    纐纈委員 私も小川先生の御意見と全然同感でございます。
  8. 辻原弘市

    辻原委員 私も同然に考えるのです。今お二人が言われたように、祝うというその現象の上においては共通な気持があるでしょう。それはお正月を祝う気持の上においても、誕生日を祝う気持の上においても、祝う、ことほぐという意味合いにおいて、人間感情においては共通の部面もありましょう。しかしその背景となる一つ考え方思想というものは必ずしも同一のものではないというお考え、私も同じように考えるわけです。なぜかなれば、天皇誕生日というのは、これは少くとも象徴天皇としてのわれわれが尊敬をする天皇生誕を、国民自分生誕と同じような気持に立ってお祝いをするという、まことにこれは大らかなことであろうと思います。各国にそれぞれいろいろな形において行事が行われる、各国の元首であれ、あるいは皇帝であれ、そういう人々お祝いと同じであるが、さらにいろいろな意味合いを持って今日まで祝われてきておると思う。ところが一方、二月の十一日を前提にした建国記念日を祝う、このことは、今あなたも申されたように、人間にはそれぞれ生きている限りにおいてその祖先があり、また生きている家を持ち、生きている土地がある以上、その土地には過去の歴史というものがある、そういう、現在だけではなくして遠く過去に連なっているものであるという前提において、この記念日というものが意味合いがある。そういたしますれば、その過去にさかのぼって人間があるいは国民がそれぞれの自分の先祖あるいは自分の生きている土地の源、国の源を考える場合に、そのきめ方によっておのずから想起する、おのずから郷愁を感ずる感じ方が非常に異なってくるということは、これは私は何人もうなずかなければならぬと思う。そういう点において建国記念日を遠くさかのぼってきめる場合に、非常に慎重を期さなければならぬという論が生れると思います。われわれの祖先の過去というものは、史実の伝うるところいろいろあります。一体日本民族というものは古来どういう思想を伝承されてきたのか、またその過程においてやはり幾多戦乱の歴史もある、また侵略歴史も持っておる、その場合の国民郷愁、過去に対する思いというものが一体どういうように起るであろうかということを重要な素材として判断をしていかなければ、いい郷愁が伝えられない、これは私は何人も否定するところじゃないと思います。今日祖先の遺物をわれわれが実に至大な注意をして継承し、国家的に文化財として保護して後世に伝えんとしている趣旨のものは、よい民族生々発展過程を長くわれわれの子孫にも伝えようという試みのもとに、そういう国の方針というものもとられてきておる。ところが一面われわれが子孫に継承してはならない文化財は、われわれが伝うる文化財の中から除外していかなければならない。そういう意味合いから、ここにわれわれが二月十一日から発する民族発展過程というものはどういうふうに把握しなければならないかということなんであります。その点について小川さんに一つ伺いたいのは、一体日本民族というものは、たびたび引例されておる古事記日本書紀、さらに最も庶民的な日本民族一つあり方というものを述べておるのは万葉であろうと思いますけれども、その中にうたわれておる日本民族あり方というもの、日本民族固有一つのものの考え方、そういうものは那辺にあったとあなた方は考えておるのですか。
  9. 小川半次

    小川半次君 辻原先生の御意見を拝聴しておりますと、過去の日本歴史のうち、悪いものはこれを子孫に伝えてはならぬという御意見のようでございますが、御指摘のように、長い日本歴史上には、よいこともあったでしょうし、また悪いこともあったと思いますが、しかしそのうちのよいことのみを子孫に伝えるべきであって、悪いことは取り除かなければならぬというその考え方には、私は同調できないのでございます。歴史というものは、よいことも悪いことも、そのまま史実として子孫に伝えるところに、私は歴史の使命があると思うのでございます。ですから、たとえば二月十一日の場合でも、これをある人は、神武東征ということは東を討つことであるといって、侵略的にことさら解釈する人もございまするし、また東征ということは東に行くということであって、決して侵略的意図のものではないという平和的な解釈をする人もあるのでございまして、そういうことはおのずからその時代々々の人々が私はやはり解釈していくだろうと思うのでございますが、われわれはあくまでも、神武東征ということは平和な日本を築いていこうということの大理想主義から出発しているものだ、このように解釈しておるのでございます。
  10. 辻原弘市

    辻原委員 私の問いから三段くらい小川さんのお答えは飛躍しております。私は今史実の問題を申し上げているのではなしに、われわれ今日の世代に生きる者が、文化財というものをいかに考え、いかにこれを子孫に伝えるかということのあり方と、それからいま一つは、こういうことは申し上げるまでもなく、日本民族というものが何らかの形によってこの島に誕生したわけです。それが長い歴史の間にはいろいろな民族との融和統合も行われて、今日われわれがある、こういう考えであります。その中には本来の日本人としてのものの考え方思想というものもあれば、また外来文化あるいは民族の融合、結合によって生まれた新しい一つ思想というもの、さらにそれの前提になるところの文化財というもの、いろいろなものが生まれてきている。それを古く源ということをあなたが言われるので、一体それでは源における日本民族というものの考え、また日本民族というものは本来どういうものであったかということについて、あなたの御所論はどうかと私はお伺いしている。あなたは二月十一日が頭にこびりついておりますから、神武東征橿原のことだけで話をしているが、私はその点はもう少し広く考えて、一体日本民族というものは本来どういうものであったか。あなたが言われるように神武東征はいろいろ議論があるでしょう。学者の中には、説をなす者は、東征は逆であって征東ほんとうであるとか、いろいろな説があると思うのです。そういう説は議論でありますから、私はいたすのではありません。私がある角度をもって歴史をながめれば、これは単なる民族の移動ではなくて、やはり東征という名のごとく、その原住民族に対してある種の武力を行使してこれは私の郷里ではそういう史実が非常に伝わっておりますから、そういうようななにから考えてみても、やはりこれを平定したということが当てはまるのではないか。これは私の一個の考え方ですが、そういう考え方もあります。それを今度は近代的の言葉に置きかえてくると、原住民族、異民族に対する一つ侵略であった。だから日本歴史侵略から始まったというものの考え方も成り立つ。しかしそのことを今申し上げているのではありません。そうじゃなしに、万葉あるいは古事記——日本書記は、これはそういう史実歴史でありますから、そういうようなものはあまり入っていないと思うのでありますけれども、さらにこれは奈良朝時代のものであるから、必ずしも日本民族古代そのものを表現しているものとも解釈されないのであります。しかし少くともわれわれがそういう古い文献等によって見られる日本民族というもののものの考え方日本民族というものの生活というようなものは一体どういうものであったかということを、やはりわれわれはこういう機会に探究する必要がある。その点について一体提案者であられる小川さんはどういうふうに考え、おとりになっておるかということを、やや曲りくどいので、どうも非常に答弁がしにくいかもわかりませんが、あなたの一つの御所見を私は拝聴しておるのであります。
  11. 纐纈彌三

    纐纈委員 小川先生に御質問でしたが、私からお答えさせていただきます。記紀万葉等に出ております考え方は、私はそういうものを十分に研究いたしておりませんから、詳しいことを申し上げることもできないのでありまするが、感じといたしましては、あの当時の日本民族というものは非常なおおらかな気持でものを考えておった。今から見ると、今のような非常にこせこせしたことでなくて、ほんとうにおおらかな気持であったということを私は見ておるのでございます。さらにまた、紀元節にこだわるとおっしゃるかもしれませんが、神武天皇橿原の宮に都をお定めになりましたときのみこのりを見ましても、これも今から見れば、私どもほんとうに寒心にたえないというような記事が出ておるわけであります。   〔委員長退席保科委員長代理着   席〕 すなわち、政事というものはことわりに従って、その時の流れに従ってこれを行う。すなわち時勢の進運に従って、それぞれ政事というものはそれに順応した行き方を考えなければならぬ。またもう一つは、いやしくも民にくぼさあらばということが出ておりまして、民の利益のためにこれを行わなければならないということが出ておるのであります。こうした思想は仁徳天皇の当時でも——聖徳太子には大体仏教の臭味がありますけれども、少くとも皇室においてはそうした考え方まつりごとを行なっておられたように、私は見ておるわけであります。そこで、先ほどからの御質問にもあったわけでありますが、過去のしのび方については、人によりいろいろ異なるわけでありまするが、辻原先生の前で釈迦に説法でありまするが、歴史は悠遠の過去から永劫の未来へ一貫して不断に続きますところの人類生命の発現の蓄積でありまして、従いまして、歴史というものはほんとうに滅びた無用物ではなくして、これはやはり将来の国の行き方にも非常な大きな力をなす、そこに歴史というものの大きな価値があるだろうと思うわけです。そこで今そうしたおおらかな気持が欠けておりまするし、また神武天皇の御即位の御詔勅で、国を治めるために、ほんとう平和主義でしかも民主主義をモットーとしてやっておられまするそうした神武天皇以来皇室がやってきました——時にはそれは違った場合もあったかもしれませんが、そうした気持思い起させて、愛国心を養い、国民思想を涵養していくということが、私は非常に意義があると思います。ただしばしば今までも質問に出てをりましたのですが、紀元節がいわゆる建国祭とかいうようなことで、軍国主義中心になったというような御意見があり、そういった、まことに二月十一日の紀元節が非常にいやな思いをするということが、二月十一日を祝日にするということの一つの大きな問題の中心となっているように伺っておるわけでありますが、私は今こそ平和主義民主主義政治を行なっていこうということになって、いわゆる「ことわり必ず時に従う、」この神武天皇みこのりに従って、時世が変ってきた今日、平和民主主義国家として進んでいくべきだ、こういう意味合いにおいて、日本紀元思い出して、そしてお互いが過去を思いつつ今後日本の行き方について、国民のいわゆる思想を涵養していくということに非常な意義がある、こういうふうに私は考えておるようなわけでございます。
  12. 辻原弘市

    辻原委員 今の纐纈さんのお言葉にありましたが、日本民族は本来非常におおらかな国民である、これは今の纐纈さんのお言葉だけではなしに、戦時中においてすら、そういうことが、特に万葉研究、あるいは記紀研究が盛んになったときに、やはり異口同音に、情操というものを求めるには万葉を探究すればよろしいということすらいわれたほど、日本民族というものが非常におおらかな、言いかえてみると本来非常に和衷協力というか、そういう意味合いにおける平和主義というものが本来日本の伝承的なものであったのだ、こういうふうにいわれておるわけです。このことはわれわれもわれわれの祖先をそう考えたい。ただしかし、日本歴史発展というものは——これは伝えられる歴史でありますが、今も纐纈さんのお話にありましたように、やはり日本天皇というものと民というもの、この二つの形態から生まれてきていることは否定できない。一つ道徳、それからものの考え方というものも、いわゆる君に対する考え方から発します。それから為政者はともかく天皇という立場において民に臨む、そのあり方から、為政者としての一つ考え方が生まれてくる。そういうふうに日本歴史を読みとっていくと、そこに過去における日本歴史は、少くとも君臣関係によって生まれた歴史であるということが言い得ると思う。しかし後世の史家は、では君臣だけの関係、いわゆるそういう道徳律だけのものしか日本歴史の中にはなかったのか、一体大衆というものはどういうあり方をしておったかということを探るがために、万葉にその民族あり方を求めて、そういう中に日本民族は非常におおらかな気持で、いわゆる君臣というような、そういう固いワクの中で苦しんだ歴史ではないのだ、こういうことを強調しているわけです。確かにわれわれもそれぞれの文献の中に現われた民衆の読んだ歌等の中には、そういう感懐が現われてくるのを認めるのであります。しかしそれとても、当時における国というか民族というものが常にその二つ関係から織りなされているということを否定できる要素ではない。従ってわれわれが根本的に考うる点は、過去にわれわれの紀元を求めるという場合に、どういうような素材を求めていくかということを考えれば、それは君臣関係におけるそういう一つあり方から過去のものを求めるということは、それは日本民族が本来持っておったそういう大らかな気持というものをできるだけ伝承し、継承し発展させていくという考え方に立つならば、それは民族固有の精神に合致しないのではないか。だからよりよくそういうことを時代に合せて発展させていくのがほんとう民族伝承立場ではなかろうか。そういう点を考えた場合に、今問題となる、この二月十一日の即位の大礼というところに紀元を置くという考え方が、これがほんとう民族固有あり方生々として発展さしていき後世に至るというあり方にそぐうものかどうかということが一つ疑問なんであります。そういう物の考え方について、一体纐纈先生はどういうふうにお考えになりますか。   〔保科委員長代理退席委員長着席
  13. 纐纈彌三

    纐纈委員 これは日本ばかりでなく、世界歴史をひもといてみましても、国の発展していく場合には、いろいろの段階がありまして、ある国は、その民族をほかの民族が来て滅ぼして、そうして別の民族が支配したというようなことがございます。また同じ国でいわゆる革命というものを起して、そうしてそれによって全然国柄の性質が違ってきたというようなところもあるのでありますが、わが国はそうしたやはり世界と同じような形においての過程は通ってきておると思います。しかしほかの国と違いましていわゆる大和民族というものの中においての一つの闘争であり、しかも私は寡聞にして、わが国歴史で、皇室と人民とが直接争ったということの実例は知りません。この前も申しておることでありますが、皇室の間におきまするいわゆる皇位継承という問題からいろいろのいさかいがあって、それが両派に分れて、国民二つに分れたということはございます。また国民の中で勢力争いのために争いをしたこともございます。また百姓一揆なんかというものがいわゆる地方にしばしば行われたわけでありまするが、こうしたものにしましても、絶対に皇室との争いではなくして、やはり小さい支配者に対する一つの不平というようなことがあったわけでありまして、こうした歴史をひもといてみますると、ほかの国と違って、日本は特殊な関係からずっと続いて発展してきたことでございますので、それが戦国時代から徳川時代というものができておりましたが、やはり徳川の治政がつぶれてついに王政復古、こういうことができまして、ほんとう皇室というものが確立されたのは明治維新からであると思いますが、この明治維新によって日本が非常な発展をしてきたことも事実であります。しかしそれは昭和時代になってついにいわゆる侵略戦争というものに持っていって敗戦のうき目を見るに至りましたが、敗戦後は、御承知のように、天皇の神格化というものがやめられまして、いわゆる人間天皇として、国の象徴ということで憲法が定められて、そして主権在民のはっきりした線が出されて、天皇は国の象徴ということになってきておるわけであります。そういうことで、時代が違い、だんだん変って参っておるわけでありますから、日本歴史を振り返ってみるならば、そうした神武天皇即位されたという日を選ぶことは、辻原先生皇室中心にしたものではないかとおっしゃいましたが、どこの歴史でもその時代々々によってそうした形態がとられておるわけでありまして、日本では、先ほど申しますように、ほかの国と相当違った国柄として、大和民族中心として今日まで続いてきておるわけであります。そしてしかも、神武天皇が、先ほど申しましたような、いわゆる平和主義と民主正義のもとに即位をされて、一つ国家的形態というものを作り、その前にはもちろん日本におきましてもいろいろの部落が各方にあったのでありますが、そうしたものをいわゆることむけ合して、話し合いをしてやる。またどうしても聞かない場合は、いわゆる撃ちてしやまんというような最後の手段もとられたこともありますが、大体においてことむけ合してやっておる。しかも激しい戦いをやって降伏してきた場合には、これを味方に入れて重要な役目を与え、そして融和してきた。こういう気持がやはり記紀万葉等に現われておるような日本民族の非常におおらかな気持と、また皇室がいわゆる専制政治を行うというような気持が全然なくてきている、そういうことの歴史というものが、結局日本を明治時代に非常に発展させてきた大きな原因になっており、やはり日本歴史を尊重しつつ国民思想の涵養に努めてきた結果でありますが、ついに少し思い上ったと申しまするか、大東亜戦争というものによって日本が敗れた。初めて敗れたのでありますから、ここで今国民は過去を顧みつつ反省をして、そして終戦後今日相当な発展を続けてきたこと自体が、やはり私は日本のそうした国民精神というものがずっと伝わってきておる結果だと思うわけであります。そういうような意味合いからいたしまして、たまたま日本書紀に一応その日にちというものが出ておりますのを根拠として定められた二月十一日の建国の日というものをお祝いすることは、私は必ずしもでたらめでもなく、無理でもないと考えるばかりでなく、また今国民感情といたしましても、しばしば行われた世論調査においてそういう線が出ているわけでありますから、われわれといたしましては、歴史については、もちろんこれは二千五百年以上の古いことでありますから、学者の中にいろいろな疑問がありますが、これはどちらがよいかということをはっきり結論を出すまでには、まだ何十年かかるか、これは私どもは余断することができないわけであります。そこで私どもは、平和主義民主主義にのっとっていわゆる国の初めを開かれ、そうして日本発展のために非常な意義のあります二月十一日というものをお祭りすることは、やはり今後の日本発展のためにいいんじゃないかということで、今日の国民感情、いわゆる世論の趨向を勘案して、私どもはこの際祝日にこの日を加えたい、こういう趣旨で私どもはこの二月十一日の祝日というものを扱っているわけでございます。
  14. 辻原弘市

    辻原委員 纐纈さんの今のお話によりますと、国民というものと皇室というものとの間には、史実の上において何ら確執をしたり争いがあったり、そういうような歴史がなくして、ともに今日まで発展してきたのだから、また各国歴史を見ても、そういう古代における歴史というものは、主として支配者にかかる歴史中心であるように思われる、従ってそういう支配者中心としたと申しますか、日本の場合であれば皇室中心としたそういう歴史の上に民族の源を求めるという考え方は誤まりではない、こう言われているのであります。一面日本民族は、古来の固有の性質というものは平和主義であった、こう言われる。私もその後者の点については先刻あなたのお説のごとく考えているということを申しました。そこで先ほど私が小川さんにお尋ねした点と関連があるのでありますが、われわれはよく考えてもらいたいのは、常にその民族固有のものの上に立ってそれを伝承し、それを発展させていくということが、これが現在に生きる者の任務であるということが前提なんです。そのために、過去におけるよりよき文化財を尊重し——そのよりよいということは、過去において悪い一つの標本である文化財といえども、それは価値なしという意見じゃない、それにはそれとしての少くとも民族生々として発展させるために役立つような一つの批判、定義というものをおいて後世に伝えるということが肝心なんであります。無批判にそれを取り上げるということは、これは単なる骨董品の陳列にすぎないのである。そういうことが文化財を取り扱う一つのものの考え方ではないと思う。そういう点に立って考えてみれば、私は今お互いがやらんとしていることは、これは歴史という大きな遺産を後世に継承するのにどういう取扱い方をするかという点にも触れてくる重大な問題であると私は考える。そういう意味合いに立って申しているわけでありますから、そこで私の考え方を端的に申し上げてみますと、古代に源を求めるという場合には、勢い今日の史実をもってすれば、皇室中心主義といいますか、二月十一日も、これは橿原宮において即位大礼を行わしめられた日をわれわれはトすという考え方に立っているわけです。そういうような考え方に立って、これを後世に伝えていった場合に、国民がこの建国祭考え考え方というものは、勢いこの皇室というものに対する一つの見方というものがそこに限定されてくるというそういうことが重大な要素になってくると思う。従ってもっとわれわれは広く民族が持っておる平和主義というものに立脚した、しかも新しい時代に即応した意味合いにおいてこれを喜び、そうしてそれを後世に生々発展させるというような、そういう立場に立つ建国記念日というものが設定されないものかどうかということに、私どもとしては深く思いをいたしておるわけなんです。伝えられる歴史であろうが、伝承される歴史であろうが、史実にかかる歴史であろうが、それはすべて遠い過去のものでありますから、これを否定することもあるいは肯定することも、これは考古学あるいは歴史学の部類に属すると思います。そのことをあえて論議しても私は結論がつかないと思う。いかにして後世に民族固有のものをわれわれが伝承し発展させるかというような点について、これを考えることが今日の大きな尺度であろうと私は考えております。  そこでさらに歴史発展考えてみれば、今纐纈先生もお話しになりましたように、ともかくいかなる形においてか、古代における日本民族の古代国家というものが誕生した。それが時代を追って、あるいは貴族政治時代になりあるいは武家政治の世と発展をする。さらにはそれが明治維新と及んだ。それらの歴史変遷の過程を見ますと、これはある学者も言っておるようでありますが、結局はそういう天皇による直接の政治ではなくて、それにかわる一つの権力政治の連続が日本政治形態といいますか、国家形態といいますか、そういうものの特徴をなしておる。そこにわれわれがまた今日の国民が、またその時代における民衆が天皇というものを考え考え方に、纐纈さんの言われるような争いを起さなかった一つの大きな要素にもなっておるのではないか、こういうふうにも考えるわけであります。そうして明治維新になって、それらの権力政治を打倒するということが大きな一つのスローガンとなり、王政復古思想というものによって明治維新が断行せられた。こういうような過程をたどってきているわけです。  そこまでに至る歴史の中には、もちろんこれは日本のみではありませんけれども、いわめる民衆が直接に政治に参与するという形態は当然とられていなかった。ですから民衆は平和を好んで、これは鎌倉の歴史を見ても、あれだけ仏教が興隆したということは、その要因は一体何であったかということは、やはり民衆が打ち続く戦乱というものあるいは武家による権力の圧迫というものからみずからも守らんがための一つの手段として、そこにあれだけの仏教の興隆を来たしておる。あるいは江戸時代における文学の爛熟期というものは、これまた民衆がともかく武家の権力に反抗する一つの現われとして、そういった一つ文化の面に大きな手を伸ばした。あるいは町人が非常な財を重ねたということも、これはやはり金によって民衆の、自分立場というものを守るための、そういう一つの傾向というものが町人というものの一つの大きな財宝を作り上げた。常にその時代その時代によって民衆はやはりおおらかな平和というものを私は求めていったと思う。そういう意味合いからすれば、明治維新はこれは近代的な意味における革命ではなかったのでありましょう。これはやはり権力から権力への一つの移行にすぎない。しかしその場合には指向するものは王政に帰る、天皇政治の復活、天皇親政という名によってそれを断行しようという一つの形、そういう革命というものが明治維新であったと考えられる。だからそこにはまだ民衆の意思というものが表面に現われてきていない。従ってこの明治の初年において行われた、もろもろの政治というものの基底は、やはり一種の権力政治国家機構というものを固めるための諸政策が行われ、その中心に、従来政治の表面に実力をもって立ち得なかった天皇制というものを確立した、こういうふうに考えられるわけであります。そういう世代において、明治五年にはいわゆる皇紀紀元というものを確定された。その場合には、紀元というものは単なる紀元でなく、皇紀という言葉をもって呼びならされておる。この一事をもっていたしましても、すなわち紀元二千六百十七年という呼び方は、少くともその源は、いわゆる天皇歴史というものに求めようとしておる意図というものが明瞭であります。  翌六年において決定をされた、今問題になる二月十一日紀元節会というものも、これも皇紀の観念に立って、この二月十一日が設定されたという歴史を持っておる。  そういたしてみますと、これら歴史発展過程から生れた二月十一日という紀元節は、その源は少くともこれは皇室歴史である。ところが戦後初めて行われたこの根本的な国家形態の変革、主権在民の変革というものは、少くともこういう一連の長い日本の伝承歴史というものの、一つ国家形態というものを根本的に改め、そして初めてここに民衆というものがその表面に現われた。民衆自身が政治を行うという形において、民衆自身がつかみ取らんとする平和、この国家形態によってつかみ取ろうとする、そういう新しい仕組みというものが戦後における一大革命である、こういうふうにわれわれは把握するわけです。しかしその革命が自主的に行われたのではなくて、占領軍というそういう一つの力によって、そのモーメントを起されたということも否定できませんので、事は非常にややこしいのでありますけれども、しかしながら民衆みずからが政治を行い、また民衆がこいねがっておる民族固有の平和精神というものを、この中に生かすということは、私は本来そうなければならぬものであるし、当然近代国家としてはそのことがより正しいということを信じて疑わないわけであります。  そういたしますと、そこに根本的に変革をした、新しい国家形態の中において、再び皇室中心歴史による源を求め、設定をするということは、今後の民族発展にどういうような影響を与えるか、果してそれが今のこのあり方生々として伸ばす行き方に、寄与をするものであるかどうかということには、非常に疑問をはさまざるを得ないのであります。そういう点については一体小川さん、纐纈さんはどういうような御見解をお持ちになりますか、お伺いをいたしておきたいと思います。
  15. 小川半次

    小川半次君 非常に広範囲にわたるお尋ねでございましたので、あるいは答弁が的をはずれるところもあるかとも思いますが、その際はさらに御指摘していただきますればお答えいたしたいと思います。お説のように、日本民族固有の性格は平和なおおらかな性格の持主であるということは私どもも同感でございます。そこでその日本民族の源をたどってみると、これはピラミッドの頂点にいくように、だんだんその源は小範囲になってくるのでございますが、その源はやはり歴史上は天皇一家が中心になっておるようでございますね、これはお説の通りでございまして、そこから天皇系が動脈となって日本民族というものは大体広がってきているという、これは大体史実の伝うるところでございまして、一応このことには異論がないと思うのですが、そこでその天皇はやはりお説のように、みずから政治を行なったということはごくまれであって、ほとんど支配者政治を行なってきたということも御指摘の通りでございます。そこで天皇がいわば利用されてきたような過去の日本であったのが、明治維新になって今度はその天皇みずからの権力を高めようとするところに明治維新の革命があったというお説でございますが、この明治維新の革命そのものは軍国主義を意図してやったとか、あるいは将来外国を侵略しようというような意図で明治維新が行われたものとは私は考えないのでございます。あの当時の非常に弱小国であった日本が、維新の大革新をやったからといって、強力な外国を相手に戦争をやるなどというような、そういう意図は明治維新の先覚者たちは持っていなかっただろうと思うのです。しかしそれは後年に至って別の不測の事態からあるいは日清戦争、日露戦争というものが勃発されたのでございますが、明治維新そのものの考え方は私は侵略思想でもなければ、また軍国主義思想でもなかっただろうと思うのであります。いわんや二月十一日を紀元節と定めたという、そのことはやはり今申し上げたように、軍国主義思想につながるとか、そういう意図で行われたものではなくして、明治初年において、わが国の先覚者たちは外国を学ぶために海外に派遣されたのでございます。そうして先進国を見て帰ったのでございますが、その先進国にはあるいは独立記念日とか、あるいは言葉は違いますけれども建国記念日にひとしいようなものあるいは革命記念日とか、そういう記念日のあることを学びとって帰りまして、日本一つここで維新によって大改革をして国を建て直すのであるから、諸外国に見習って日本も祝祭日というものを設けようということになって、その際に日本史実に基いて、日本書紀に基いて、そうして旧歴を新歴に換算して二月十一日が日本紀元の日になるということを定めたものであって、そうした意図で定めたものでございますから、御心配になるような、初めから何か侵略的なあるいは軍国主義的な意図で二月十一日は当時定められたものとは思わないのでございます。そこで二月十一日は皇室とは全然縁がないというものではないのでございまして、神武天皇即位の日を定めたのでございますから、これは縁があるといえば当然縁があるわけでございますが、だから二月十一日を建国の日と定めたからといって、日本国民がまた皇室中心主義の思想に返るとか、天皇中心日本ができ上ると考えることは、これは私たちは飛躍した御意見ではないかと考えるのでございます。なぜかと申しますと、御承知のように、戦後昭和二十二年から二十三年にわたって、日本の現在行われております新しい祝日の審議が行われたのでございます。当時は天皇は戦犯になるかもわからないといって、非常に天皇をのろっている国民もあったし、皇室はどうなるかわからぬという大動乱期にあったのでございますが、その時代の世論調査においてすら、国民は二月十一日を建国記念日にしてほしい、こういう意図があったということは、これはやはり日本国民自分たちの住むこの愛する国土日本というものの、その源の日を定めておきたい、そして年々それを祝福したいというその国民の素朴にして純粋な気持が世論調査の上にも圧倒的に二月十一日を建国記念日としてほしいということに現われたのであろうと思うのでございます。ですからわれわれはそうした国民の意図をもくんで、二月十一日を新しい祝日として建国記念日としてつけ加えたい、こういう意図でございます。
  16. 辻原弘市

    辻原委員 今の後段の点から少し意見を申し上げることにします。戦後、二十三年に祝日の制定を考えられた際に、これが八〇%程度で三位であったと提案理由に書かれておりますが、当時の国民というものは、お互いに考えてみればわかると思いますが、二十年の終戦からわずか三年たった当時の国民感情というものは、それは占領下という特殊事情にありましたけれども国民の潜在的な感情というのは私はまだやはり過去に連なる方が強かったと思うのです。それは、これは正確ではありませんけれども、共産党の運動の中にも天皇制共産党などというものがあり、あるいは労働組合運動の中においてもそのスローガンの第一に何が上っておったか。これは全部ではありませんが、そういうような運動の形態もあったということを御参考までに申し上げますと、国体護持、あるいは天皇制護持、そういうような労働運動の形態すらあった時代なのです。だから国民の潜在的な意識、皇室に対する考え方というものは、それは今日ほどいわゆる民主主義といいますか、近代デモクラシーといいますか、そういうものに対する一つの訓練がまだできておりませんから、当然国民感情としてみれば三年前、四年前には紀元節、高千穂のひじりというものに対する郷愁が強かったと思う。それは私は今日においても国民の潜在意識として持っていると思う。そういうことをわれわれは否定するものではないのです。そうじゃなしに歴史というものは発展をさせなければならない。民族というものは発展させなければならない。それをどういう形に発展させるかということは、日本日本だけで動いているわけでないのでありまして、世界一つの大勢また歴史の必然的な発達、発展、そういうものから考えてすでに時代は近代国家としての段階に入ってきているのですが、そういうようなものの形態をよりよく発展するための阻害とはならないが、その点から考えているのでありまして、従ってかりにわれわれが過去に対する郷愁があっても、その郷愁が過去にさかのぼるということの単純なものであるならば、それはわれわれの心を押し詰めて、その気持を新しい時代のテンポに合わし、近代的なものに合せて発展させなければいかぬという意味合いでありますから、必ずしもそのことだけをもって、それだから二月十一日の紀元節はいいのだ、こういうふうには考えられないのであります。さらに先ほどは明治維新のことを申し上げましたが、私は昭和の時代に入ってもやはり同様な一つの動きが時代歴史になっていると思うのであります。これは皆さんよく御存じの昭和の初期における、いわゆる昭和維新などという言葉で言われておる一連の動きであります。こういう動きも、その当時昭和の初代においては明治維新を一つのモデルにした、明治維新がいわゆる神武の創業に返るというようなスローガン、方向であったと同じように、昭和の初期におけるいわゆる維新運動というものは、明治維新の創業の精神に立ち返るという意味は何かといえば天皇親政である。天皇みずからが直接政治をとられることであるという意味合いにおける一つの動きではなかったか、私はこう判断するのであります。いずれもが皇室中心とするいわゆる君主国家の形態の中における運動であった。これは当時の歴史から見て、そういう動きが起ってくることもその時代におけるあるいは革新の立場であったかもわかりません。しかしそれと戦後におけるわれわれの民主革命というものとは、これは本質的に異なるということを考えなくちゃならぬということなんです。だからその場合に、今日近代デモクラシーの中においてわれわれが国家形態というものを国の基本として定めている以上、憲法がそれを定めている以上、これが今後国を発展させていく方向なんでありまするから、その方向を発展させるためのものが建国意味合いでなければならぬ。そういう場合に、いかに過去の歴史がほとんどそういう皇室中心歴史であっても、そこに記念日を設定し、みなもとを求めるということは、これは時代としては適当ではないのじゃないか、こういった議論であります。決して軍国主義とかあるいは侵略主義に結びつくとかいう議論前提にして今申し上げておるのじゃなくして、歴史発展というものとそれから定められた国家形態というものの上に即して今後の発展をどう持っていくかという場合に、国民感情が——国民感情というよりも人間一つ気持というものが常に過去に対しては郷愁を発する、未来に対しては非常に臆病な気持になる、これは自然でありますから、過去に対する郷愁が激しければ激しいほど、なおさらそういうことをおもんぱかって、それを否定するのではないけれども、その郷愁が誤まった方向に結びついていかないような配慮のもとに国の政治というものが行われなければならない。建国日を定めるということは、私は大きな国の政治に属すると思うのです。特にただお祝いをするということでなくして愛国心を涵養するということがその目的の一つになっておる以上、国民の感情が皇室中心主義に結びついていき、——その皇室発展歴史というものも、纐纈さんがおっしゃられるように、必ずしも美しい面ばかりではないでありましょう。もちろんそれは正史ではありませんけれども、いろいろの裏面史、歴史学者のいろいろ記述するところによれば、必ずしも美しい面ばかりではないはずであります。そういうところに将来国民思いを発していくということになりますれば、一つ思想動向というものはやはりその時代への郷愁ということになりかねない、このことを深くおもんばかるのであります。  いま一つは、昭和二十年を境にして歴史家の歴史研究する態度も国民政治考え考え方も非常に大きな変転を来たしておると思う。特に過去の歴史研究するについては、民族発展歴史というものを主体にするよりも、むしろ皇室の業績でありあるいは皇室の御遺徳である。そういうものを宣揚することが歴史上の大きな役割であるというような一つの見方が支配をしておったようにわれわれには考えられるのであります。ところが今日は、少くとも歴史については、もちろん皇室を含めてでありますけれども日本民族一つの歩みというものを正確に伝えるということが歴史家の大きな役割であるということが表面に押し出されてきておるわけであります。そういうような違いまでが今日生まれておるのであります。過去における日本歴史の中で最も強調されたことは何かといえば、それは祭政一致の思想ということであります。祭政一致の思想国民皇室は一体であるという思想、この思想がすべての歴史考える場合の根底としてわれわれ国民にそのことを強調してきた。皇室祖先が神であり、その時代における天皇がやがて神になられる。そうして日本のいわゆる神社宗教というものが発展をし、やがてそれが国家としての宗教にまで発展をする。こういうような過程をたどって、その渕源が、橿原の宮であるというふうに考えて、さらに橿原の宮以前のものは皇太神宮という形において国家宗教の中心をなしてきておる。そういたしますると、二月十一日は、橿原の宮に結びつき、さらに皇太神宮に結びつき、さらにそれが国家神道、神社宗教というものに深く結びついてくることは、これは何人もいなめない。そういたしますると、そこにおのずから言う言わぬは別問題といたしまして、やはり祭政一致の思想がそこに根ざしておるということは私は否定できないと思う。そのことがどれほどの影響を与える与えないは別問題といたしましても、そういったところに一つの渕源があるというところに、新しい近代デモクラシーの国家として育たんとしているこの日本の国の建国日というものを定められるということについて、一体どうなのか、こうわれわれは申し上げるわけなんです。それについてどういうふうにお考えになりますか。
  17. 小川半次

    小川半次君 後段の点は纐纈先生からお答えになると思いまするから、私は主として前段についてお答え申し上げます。  まず最初に先ほどの昭和二十三年の世論調査のことについて御反駁の御意見がございましたが、昭和二十三年はあなたの御意見ではまだ国民皇室中心思想が消え去っておらないし、特に紀元節についても郷愁の念が強かったからああいう世論調査の結果が表われたのであろうという御意見でございまするが、しかしその後国民が非常に冷静になり、また日本が完全に独立した後の昭和二十七年並びに二十九年に世論調査を行なっておりまするが、この際もやはり七四・五%あるいは七六%という国民の二月十一日を建国記念日にしてほしいという意思表示が表われておるのでございます。  それから日本は戦争に破れて新しく民主主義国家として再出発したのであるから、そのことを根本にして新しい建国の日を定めることが妥当ではないかという御意見のようでございまするが、しかし国が民主主義になろうが、あるいはまた別であろうが、あるいは戦争に敗れようが勝とうが、国のできた日というものはそれとは別でございます。日本の国ができたというその建国の日と、その後日本政治的にいろいろ変化が起ったということとは別でございまして、日本は戦争に勝ったから別の建国の日を定めるのだ、負けたからまた建国の日を別に定めるのだ、民主主義時代になったからまた別に民主主義建国の日を定めるのだというようなことでは、これはほんとうの意味の日本建国記念日にならないと思うのです。日本の国柄がどんなに変更されても、どう変っても、日本のこの国土日本民族が初めて国を打ち立てたというその日を私たちはやはり永久に子孫に伝えていかなければならぬと思うのです。そういう意味において、私たちはやはり根拠のあるこの日を建国の日と定めることが妥当ではないか、こういう意図でございます。
  18. 纐纈彌三

    纐纈委員 大へんけっこうな御意見を伺って、私も同感の点が多いのでありますが、日本の古来からの政府というものがいわゆる祭政一致の考え方で参ったことは、その御意見の通りと私も考えております。ただ、今日はいわゆる神社行政というものが国教の扱いでなくして、ほかの仏教あるいはキリスト教と同じような宗教法人の扱いをされて、今立て直しをして進んできておるということであります。ただ、きのうも高津先生から、神主は非常にどうもけしからぬというようなお話がありましたが、この問題につきましても、神社庁が中心になってやっておることは事実でありますが、やはり日本建国当時の趣旨というものが、先ほども言っておりまするように、ほんとう平和主義民主主義の大きな方針のもとにまつりごとが行われてきておった、そういうことで、この紀元節というものが大東亜戦争の突入当時において非常に曲げられたことを深く遺憾としまして、こうしたりっぱな国柄であり、国の初めからすでに平和主義民主主義をとってきておるのであるから、この点を一つ国民にも十分知らしめて、日本建国というものが、こうした今日の時勢と同じ大きな方針のもとに持ってきたのだから、そこでそうした大きな意義のある二月十一日というものを祭日として、ほんとう平和主義民主主義——改められた紀元節というものでなく、そうした意味を盛り立てた祝日としてこれをお祝いしていきたい、こういうことを神社庁の方々も言っておられるわけでございまして、何か特別の意図があってそうしたことを言っておる、こういうことではないのでございます。むしろ国民の間においても紀元節復活の問題が世論として強く現われておりまするから、そうした国民感情にも沿うようにしていきたい、こういうほんとうにまじめな考え方のもとに、この問題と取り組んでおられるように私は見ておるのであります。でありまするから、ことに今日神社というものが一般の宗教法人と同じ扱いにされて、お互いにそれによって神社を守っていこうという気持を持っておるわけでありまするから、その神社行政というものをまたもとの国家神道というようなものに返らそうというような考え方は、今日は持っておらないと思っております。
  19. 相川勝六

    相川委員長 委員長からもちょっと質問したいと思うのです。だんだん社会党の委員の方々の御質問を聞いておりますると、われわれも非常に傾聴すべき御意見であるようであります。そこで私も社会党の方々が心配される点は、提案者としても十分お考えをお持ちになっておるものと思うのであります。そこで今纐纈さんの御答弁のうちに、日本建国というのはあくまで平和主義民主主義を本質としておる国の成り立ちであるというような御意見がありました。われわれも、皇室はあるけれども、やはり日本の本質は平和主義民主主義が本質だと思うのであります。そういう意味におきまして、せっかく戦争の大きな悲惨な経過を受けて今日本民主主義国家となっておることは、もとに返ったような気がいたしまして、われわれはこの事態をますます生々発展させていかなくてはならぬと思うのです。そういう点から新憲法は天皇国民結合の象徴あるいは国民象徴というような言葉で表わしておりまするが、これはしごく適切なる表現と私は考えております。そういう意味における日本の姿というものは、昔から現在までそれが本質だったと思うのであります。そこで社会党の委員の方々の御質問は、結局そこまで来たのをまた妙な状態に直してはいかぬぞという御心配で、これはしごくごもっともであります。提案者の方々はそういうことにならない、こういう御意見であります。われわれもそうなくちゃいかぬと思う。問題は、この建国記念日を設定されんとする提案者は、従来の、明治以来の紀元節お祝いのやり方そのままでいいかどうか、ここに社会党の方々の心配しておられる、またわれわれの同感する心配点を心配ないようにして、ますます民主主義日本として生々発展せしめるような建国記念日の行事をするということについて、深い一つのお考えがなくてはならないと思うのであります。従来でも紀元節というものは、本来そうでないのが、一部の軍国主義者のために利用された節もあるのでございます。そういうことにならぬようにするにはどうするかということについて、これは深甚なる御対策があろうかと思うのでありますが、これを私は重ねて質問したいと思います。纐纈さんでも小川さんでも、これはほんとうに真剣に考えてもらいたいと思います。
  20. 纐纈彌三

    纐纈委員 ただいま委員長の御質問でありますが、私どもはこの二月十一日を国祭日にしようということは先ほど来しばしば申し上げた通りで、ほんとう平和主義民主主義の大方針のもとに国を始められたのでありまするから、そういう意味で国を始めた、これはたまたま神武天皇即位された日に相なっておるわけでありますが、その国を始められた、その当時の気持というものが今日わが国が置かれておりますところの平和主義政策であり、民主主義政治であったことを思い起させて、誤まったようなふうに悪用された事実もあったと思われますが、そういうことのないようにこれを運んでいかなければならぬということを、提案者といたしましては強く考えておるわけであります。従いまして、これが法律として成立いたしますれば、この問題はどの省で扱いまするか、これは内閣によってきめることと思うのでありますが、少くとも実施されるという場合におきましては、私どもはぜひとも各方面の方々のお知恵を拝借いたしまして、そうしてこの扱い方について、皆様方が御心配になるようなことのないような方向に、建国記念日ほんとうあり方を徹底するような方法を講じさせていただきます。何らかの機関を設けて、そしてその趣旨国民に徹底さすような方向に政府において取り扱っていただきたいということを、今考えておるわけであります。そういう点は十分に政府の方に進言いたしまして、この建国記念の日というものを、ほんとうのもとの姿、正しい姿で国民お祝いするような正しい方法をとるように、政府に十分考慮を進めていただくような方法を講じてみたい、こういうふうに考えておるわけであります。
  21. 受田新吉

    ○受田委員 関連質問。今纐纈先生の御発言の中に、この建国記念の日はどの省が実施を担当するかまだきまらいがということを言われておりますが、瀧本内閣参事官は、この建国記念の日は、従来の行きがかりから考えて、ほとんど大半を文部省が担当しているいきさつにかんがみ、しかもこの建国記念の日の性格そのものを考えたときに、純粋な文部省の所管となる祝日であると考えられると私は思うのでございますが、瀧本参事官も実際はそのようにお取り扱いになるとお考えでございますか。
  22. 瀧本邦彦

    瀧本説明員 この建国記念の日が、法律として新たに制定されるようになった暁に、この祝日国民的にほんとにお祝いする、そういう行事の実施につきまして、主として責任を負う省をどの省に定めるかということは、これは今にわかに断定することができないと思うのでございます。従来はこれは慣例的に審議室が連絡調整の意味で、国民祝日につきましては元日、成人の日、天皇誕生日、憲法記念の日、秋分の日、文化の日、この行事実施についての責任は、主として文部省に負うていただこうということを決定しておりまするし、春分の日につきましては主として文部省、協力省として農林省、子供の日につきましては厚生省、協力省として文部省、こういうふうに一応各省の御協力を願っておるわけでございます。また勤労感謝の日については農林省、労働省、一般的に国民祝日についての啓蒙宣伝は主として文部省にやっていただこう、こういう決定をしているのでございまして、今度新たに建国記念の日が制定されるといたしました場合に、これをあらかじめどこの省にやっていただこうということは、ここでにわかに断定することができないのでありまして、それぞれ関係の各省にお集まりいただいて、十分各省の御意見を聞いて、その上で連絡調整をはかって定めたい、こういう考えでいるわけでございます。現在は何らわれわれの予備的な考え方は持っていないということをお答え申し上げます。
  23. 受田新吉

    ○受田委員 瀧本さん、その一般的総括的な立場で、国民祝日の行事実施官庁としては文部省を考えておるというように最後に発言があったと思うのですが……。
  24. 瀧本邦彦

    瀧本説明員 従来の八つの国民祝日につきましての一般的な啓蒙宣伝は、主として文部省にやっていただく、こういう一応の取りきめを従来していたのでございます。
  25. 受田新吉

    ○受田委員 そうしますと、当然新しい祝日が制定された場合に、文部省が一般的には担当するということになることは自明の理ですよ。それからもう一つ瀧本さん、今あなたが行事実施官庁としておあげになられた中で、文部省がほとんど大半を引き受けてるわけです。勤労感謝だけがちょとはずれてるようになってるわけでありますが、それすらも一般的概括的な実施官庁は文部省だということになるならば、建国記念の日を祝福するところの行事実施官庁は、文部省になることは常識として考えられるじゃないですか。各省に集まってもらって相談するというような、そういう手続などをわずらわすまでもなく、大局的に見て文部省ということは常識的に考えられやしませんか。
  26. 瀧本邦彦

    瀧本説明員 常識的な判断と行政事務の遂行ということは、また別途の多少のニュアンスということがあるのでございまして、この種の祝日につきましてはほんとは私どもは、政府の責任といたしまして全官庁が関与して、有効適切な国民に対する行事計画の実施等をやっていただくことが本体でなければならないと思うわけでございます。ただ主としてそれに関係する省というものを、一応内規的に定めているわけでございまして、やはりこれにつきましては、各省の言い分を十分聞いて、その上で調整をはかって、どこの省に主としてこの行事実施等の責任を負うてもらうかということをきめるのが、われわれの従来の行政慣習といいますか、そういうことになっておることを御了解いただきたいと思うわけでございます。
  27. 受田新吉

    ○受田委員 あなたが想定しておられる実施官庁というものは、文部省のほかにどういう省があるとお考えでございますか。つまり私のところで引き受けようという見通しのつく省、これは一応立案者としてはちゃんと計画しておられなければならない。大体どういうとこへおっつけていくかということは用意されなけばならぬ問題です。一応皆さんに御相談されるけれども、大体どの省とどの省が中心建国記念日の実施を取り扱うかというくらいの想定はして、御相談にかからなけばならないわけです。どことどことが適当であると想定されますか。
  28. 瀧本邦彦

    瀧本説明員 まだこの法律案が国会を通過するかどうかということにつきましては、私どもは全く白紙の立場にあるのでございまして、かりに通った場合、あるいは通るということを既定的な想定のもとに、どこの省にあらかじめやっていただこう、そういうような立案構想というものは現在全く持っていないということを重ねて申し上げておきます。
  29. 辻原弘市

    辻原委員 今の点は少しおかしいのじゃないでしょうか。法律が議員提出の形で出ているからというのがお答えらしいのですが、法律が成立するといなとにかかわらずこの種の祝日を扱うについては、その所管がなければいかぬ。内閣で所管するなら所管する、文部省がやるものならやるというふうに、ともかく祝日に関しての扱いはその内容からおのずから出てくるのじゃないでしょうか。その点をもう一ぺん伺いたい。
  30. 小川半次

    小川半次君 「法律及び政令には、すべて主任の国務大臣が署名し、内閣総理大臣が連署することを必要とする。」とあるものですが、新しい祝日に関する法律では、この点だけは内閣総理大臣の権限によって所管をきめることになっているのです。ですから内閣総理大臣が厚生省と言えば厚生省なんです。文部省と言えば文部省なんです。内閣総理大臣の権限によってこれを決定されることになっておりますから、直接私へのお尋ねではないけれどもお答えした次第です。
  31. 辻原弘市

    辻原委員 常識的には内閣の審議室があっせんをして、実際の行事その他については文部省がやるんだと僕らは考えていたのですが、それではそういうことは全然きまらずに、内閣総理大臣の判断に待つんだということになれば、総理大臣にその点をどういうふうに判断されておるのか、一ぺん聞かなければならぬと思うのです。というのは所管だけでなしに、あと一体どういう行事をおやりになるかという次の問題について聞きたい、それは宗教法人法その他とも重大な関係を持っております。従ってその点を明確にしておきたいと思うから、総理の出席を要求します。
  32. 相川勝六

    相川委員長 連絡してみます。官房長官は……。
  33. 受田新吉

    ○受田委員 官房長官にはきのう出てくれという要求をして、お約束があったんですがね。   〔「総理を一つ……」「休憩々々」と   呼び、その他発言する者あり〕
  34. 相川勝六

    相川委員長 休憩はしないで、それまで質問を続けて下さい。
  35. 辻原弘市

    辻原委員 それでは総理がお見えになるまで提案者質問を続行いたします。  先ほど私の質問に対して、小川さんから、国にいかなる変革があっても建国記念日を二月十一月と定めることについては何ら顧慮する必要がないというお話がありました。私はその点については小川さんと若干考え方相違いたします。というのは民族一つ記念すべき日をわれわれがここで設定をするというふうに限定して考えるのならば、あなたの所論に私は賛意を表すると思います。しかしわれわれがここで言っていることは、国としての建国の日をどう定めるかということです。国という抽象的なものは、その国の中にある国民すなわち民族を包括してもちろん国というのではありますけれども、この民族がいかなる国家形態のもとにおいて、それをことほぐかという場合には、少くともその国家がどういう形態において民族とともにあるかということが重要な素材にならなければならぬと思う。そういう意味においては私は必ずしも民族と国というものをすぐさまそれを一本にして考えるという考え方には立ち得ないのであります。先刻から申し上げておりますように、民族がよりよい発展を期するためには、国の形態をその時代に合せ民族の要請に従っていろいろ変えていっているわけです。今の日本の状態からいえば、戦前と戦後においてははっきり国の性格というものは——それ以前の歴史にはありませんけれども、その後における歴史はそれ以前の長い歴史に比べて期間こそ短かけれ、変革としては一大変革なんです。そういうような一つ国家観に立てば、その変革の様相は非常に大きな意味合いを持っている。又国の基本というものも根本的に書き改められる。そして民族はその方針によって生々発展していくものだということが憲法の名によって示されている。そういたしますと、どのような変革が起ろうとも差しつかえないという議論はわれわれに肯定しがたいのです。しかしこれは議論の分れるところでありますからこれ以上いたしませんけれども、その点については大いに違うということだけを明らかにしておきたいと思います。  それから纐纈さんが先ほど言われた紀元節は一部の支配者あるいは軍閥等によって曲げられてきたということであります。私は、利用されたという向きもあろうと思いますけれども、それだから本来の紀元節という形にもう一。へん定め直すのだという議論には承服いたしかねる。というのは、先刻申したように、明治の六年に定めた紀元節というものも、そのときの背景をなした考え方は神武の創業に返るという思想によって打ち立てられた。いわゆる君主国家としての明治維新のいき方をさらに大きく発展させんがためにそこへ源を求めた、そういういきさつによって定められたのでありますから、今日民主国家としての発展をこいねがう立場にあるわれわれが定めなければならぬ場合における建国紀念日の一つの方向とは、大いに意味合いが異なってくると考えるのです。だから曲げられておろうが曲げられておるまいが、要するにわれわれは建国記念日というものと、一つの君主国家の形態の中におけるその源である天皇制あるいは君臣関係に基く歴史の淵源にもとるべきじゃない、こういうことを私は端的に申し上げておるのでありますから、その点は誤解のないようにしていただきたいと思います。  話は少し余談になりますけれども、あなたも私もそう申したのでありますが、古来日本民族はおおらかな平和主義国民である。それらのことが万葉その他に非常によく現われておるということはそうでありますけれども、しかし一面あの撃ちてしやまんの歌にもあるように「ミツシミツシ久米の子等」こういうふうに述べられておることはやはり国民というものを皇室の藩屏として久米の子というふうに表現をしている。そこに国民自身としてはおおらかな平和主義であっても、皇室はやはりその藩屏として国民にそれを強制しようとする思想がそこに出ている。そういう立場をわれわれは今後の国家形体の中に、また今後の民族あり方の中に求めようとしているのではないのであります。ですから私どもとしてはそういった一つ歴史の淵源というものだけに求めるということは、民族の伝統を尊重するのだ、われわれの源を尊敬するのだというその気持は是でありますけれども、それだけでは民族発展は来たさないのであります。そういう点を提案者としては十分考慮されておるかどうかということを先ほどから申し上げてきたのでありますが、時間もございませんので、問題を一つ変えまして、最初に申しました歴史教育の上に非常にこれは影響があるということにおいて、小川さんはそれを否定をされておりますが、私はそうは考えないのであります。今日の歴史教育が先ほど申しましたように、民族の歩みという、きわめて客観的な史実の探究にその教育あり方を求めております。そうしてすなおな形におけるその民族の歩みが、今日国民に正当に、教育の力でもって批判できる、いわゆる批評眼、批判眼というものを与えるということが、これが歴史教育における主眼です。その点から考えてみて、あらためて、史実の上においても、それぞれ賛成反対意見がある、その日をトして国家的な記念日として設定をするということは、これは歴史教育の上においては影響なしとは言いません。私はただ単に二月十一日が那珂博士の説をとってきたものであって、それに対する反論も非常にあるというような、史実考証の上に立っての歴史の不確かということを問題にしているのではないのです。そうではなしに、いわゆる今日の歴史が少くとも皇室中心にした従来の歴史から書き改められて、できるだけそれを含んで民族の歩み、いわゆる民衆の歩みというものを客観的に述べている。その歴史の一こまの中に、二月十一日が橿原における神武天皇即位の日をトしたというふうに規定づけること、そのことの私は歴史教育に与える影響というものをおもんばかるのであります。さらに具体的に言えばこういうことです。一体歴史の時間に、この二月十一日というのはいかなる日なんでしょう、歴史上は一体それはどういうことなんでしょう、こういうような一つ質問が出た場合に、それに対してどういうような回答を与えるかということです。小川さん、纐纈さん、その点はどういうふうにお考えですか。
  36. 小川半次

    小川半次君 教育上は歴史というものは史実をありのままに教え、また伝えることであって、それをこじつけて一方的な思想を吹き込んで偏向教育をしようということは、これはあなたも御承知のように、学校教育法また教育基本法によって禁じられておるのでございますから、そういう心配はないと思うのでございます。ですから私はありのままに、日本建国記念日はこういう意図からでき上ったものであるということをすなおに教えれば、それで十分ではないかと見ておるのでございます。
  37. 辻原弘市

    辻原委員 これは纐纈さんも述べられているように、今の歴史は、少くとも古代史においては非常に史実が不確かであるということについては、古代史においてはその史実の列挙をいたしておりません。しかしながらこれを記念日として定めることによって、一つ歴史上の史実というものを確定づけるわけです。小川さんがそれをすなおにということで表現されましたが、それをかりにどういうようなすなおさをもって述べるにしても、こういういきさつからこれは日本書紀に基く橿原神宮における神武天皇即位の日だということは、これは表現せざるを得ないでしょう。問題は、そこだけにとどまればいいのですけれども、しかしながらそのこと自体に何がゆえに日本建国の日を求めたかという疑問が次々と発展していった場合に、それはその人の主観によっていろいろの話し方があると思うが、ともかくこれは取扱い上非常にむずかしい問題になると思う。そういうことを御想像になりませんか。
  38. 小川半次

    小川半次君 しいて複雑に考えようとすればまたそういう考え方も起ってくるのではないかと思いますが、やはり日本の正史といわれているところの日本書紀に、日本建国の日は辛酉春正月ということが文献として残っているのでございますから、われわれは日本の先覚者、日本の先輩の学者たちが苦心して作ったものを、そう根本から否定するとか故意に反対するとかということはできないのであります。やはり日本の正史として国民は長年にわたってこれを貴重な文献として尊重してきたのであり、これに基いて旧暦を新暦に直したのが二月十一日ということになるのです。日本史実にはこの以外に建国の日として根拠ある日がないのです。それ以外の日があればいいのですけれども、それ以外の日は全然ないのですから、やはり根拠のあるこの日を建国記念日とする以外に方法がないのでございます。教育上、もし子供たちがそのことを質問した場合は、今私が申し上げたようにありのままを説明する以外に方法はないのではないかと思うのです。
  39. 辻原弘市

    辻原委員 小川さんのように、民族の源というものとそれから国家記念すべき日というものを一本にしてお考えになり、そういう立場で子供が考える場合は、あなたのような意味におけるすなおな話をすれば了解することもあるだろうと思います。しかしこれは受ける側から言えば、その考え考え方というものは必ずしも限定されない。あなたはともかく今二月十一日以外にない、これが絶対無二なんだということで説明をされ、その立場提案されているからそうなんでありますが、しかし人間考え方というのはいろいろあります。何もそういう不確かな古い時代に求めなくてもいいじゃないか。これは現に婦人の人でも——別に思想的な立場を持っているようなそういう婦人じゃない、ごく一般の家庭の主婦においてでも、やはりこの問題についてはいろいろな議論があるわけです。そういうところからすれば、国の記念日ならばもっと別に定めたっていいじゃないか、なぜそれじゃそういうところに置いたんだという不審が教育上生まれる。しかしこれは議論でありまして、あなたはすなおにやればそういう心配はないという、そういうことも一つ意見ですから、意見のやりとりをしても始まりませんが、これは今日の歴史教育あり方から見て、いずれにしてもこれはこのことを国家的に正当づけるということになるのですから、この及ぼす一つ影響というものは必ずしも少いとは考えられない。決して私はそのことを大げさに言うわけではありませんけれども、やはりこれは今日の歴史教育の中に一つの波紋を投ずることになる、かように思います。  そこで、官房長官が見えられましたので一つ承わりたいのでありますが、先ほど小川さんの方から、この法律が通って記念日が設定された場合の所管は、これは普通の場合とは違って、内閣総理大臣がきめることになっているんだ、だから常識ではいかぬ、あげて総理大臣の判定によって、防衛庁に持っていく場合もありますし、厚生省に持っていく場合もありますし、というようにおっしゃられましたが、この法律はすでに相当長期間にわたって論議されているのですから、もう総理大臣の決心がおできになっておると思いますので、成立後施行に当ってはどこに所管をさせる心組みであるか、この点を一つ官房長官からかわって伺っておきたいと思います。
  40. 石田博英

    ○石田(博)政府委員 お答えを申し上げます。今御質問の点でありますが、この法案が、御審議願いまして成立いたしました際に、所管をどこにするかというお話でございますけれども、御審議、御議論過程というものも十分考えてきめなければなりませんので、まだどこにいたすということをきめておるわけではございません。御審議や皆さんの御議論趣旨等を勘案をいたしまして適当な省にきめたいと思っておりますけれども、まだいずれにするときめておるわけではございません。
  41. 辻原弘市

    辻原委員 官房長官はきょう初めて所管の問題等について提案者等から話を聞いて、ちょっととまどいされてそうお答えになるのですか。それともこの話については、この所管が総理大臣のあれによってきまるということを前から御存じで、総理大臣からもそういう話があって、今あなたが述べられたように審議の過程等も十分勘案をしなければならぬから、きまってから一つきめようじゃないか、こういうふうに言われているのですか、どっちですか。
  42. 石田博英

    ○石田(博)政府委員 議員提案法律案が出されますと、それについて政府の意見をきめなければなりませんので、この法案が提出されましたときに、閣議において法案の内容、それに対する政府の見解等は議題に相なりました。その際当然所管省のことについても話題になりましたが、総理大臣がきめるということになっておりますが、その所管省等についてはこの法案の審議の過程を見なければならぬから、法案成立後に審議の過程を勘案してきめようじゃないかという話し合いになっておるわけでございます。決してとまどいしてやっておるわけではございません。
  43. 辻原弘市

    辻原委員 まあそれならばあなたの方でも慎重に考えられているということで、善意に受け取りたいと思います。しかし常識的に考えますと、審議の経過ももちろんありますけれども、審議は要するにその日が適当であるか適当でないかということの論議なんです。従ってこれはにわかにワクをはみ出て百八十度変るような、そういう審議の展開も予想されない。そういたしますと、少くともこれについての事後の取扱いというようなことについて、非常に正反対意見がある内容を持っておる建国記念日設定の問題でありますから、あとの施行を十分配慮して、これは先ほど委員長からも念を入れての質問があったのでありますが、そういう立場から見ても相当慎重な態度で準備をしておかなければならぬ。きめないことも慎重だと言われるのでありますけれども、それよりもやはりはっきりきめて、そうしてもしこの法律が定まって日が設定されたならば、あとをどういう工合に運営をするのかという点についての統一された見解をお持ちになることがさらに適切であり、慎重であるのではなかろうかと思うのであります。ところがあとはこれからやるのだということでは、これは慎重にあらずして、むしろいささか怠慢なようにも受け取れる。というのは、先般私も申し上げたのですが、やはり行事のやり方いかんによっては今日の憲法、あるいは宗教法人法の建前等とも関連を持って参りますね。何といってもこれは辛酉の日に即位をしたということで、橿原神宮がやはり大きなウエートとして、好むと好まざるとにかかわらず浮んでくるわけであります。そういたしますれば、橿原神宮のみならず、さらにその渕源である皇大神宮もクローズ・アップされましょうし、その他神社の問題がやはりこれに関連して出て参るわけであります。その行事はどういう形において国で行うのか、その国の方針いかんによっては神社における行事というものとも非常に関連が出て参ります。そういう点については相当慎重な考慮が必要とされると私は思うのです。そうでなければ、その他の宗教法人もたくさんあります。それはわれわれの常識的な考えによれば、日本古来からのいわゆる神社神道というものとその他の宗教というものは同一視できませんけれども、しかし建前は同じであります。いかなる宗教といえども宗教法人法によって認められているならば、その建前は同じであるということになりますれば、取扱いいかんによってはその他の宗教法人から異論も出て参ると思う。そういう点についての配慮というものは、早く所管省によって明らかに国民にこたえられるようにしておかなければならぬと思うのでありますが、そういうことについての考慮はいかがなさっているか、この点も一つお伺いいたします。
  44. 石田博英

    ○石田(博)政府委員 この法律案の提出された側の御意見、あるいは賛成される側の御意見というものは、提案理由その他を承わっておりますので、政府としてはよくわかります。しかし反対をされる側の御意見もやはり国民の祭日といたします上においては、十分さんしゃくして、そういう御心配のないようにいたさなければなりませんから、従って反対をされる側の、あるいは御心配になっていらっしゃる側の御意見を、やはり最後まで十分お聞きした上で取扱いをきめなければならないと考えておる次第でございます。そういう観点でございますから、所管省をきめるという問題にいたしましても、あるいはこの法案成立後におきます行事運営等につきましても、反対をされた側の方々の御意見を十分さんしゃくして、そういう御心配のないように慎重な態度と適切なる機関を設けて民主的な平和な祝日にして参りたいと考えておる次第であります。
  45. 辻原弘市

    辻原委員 先ほど内閣の担当者の話では、従来の祝日等の大部分の総括所管省は文部省であるというふうにお答えになっているのでありますが、われわれも常識的に考えますと、これもひとしく国民祝日で、そう特別労働省に関係がありそうにも思いませんし、また農林省に直接関係がありそうにも思いません、部分的には関係があるかもしれませんが、大体は文部省あたりではないかと思います。大よその心当りはそういうところではないかと拝察しているわれわれの考えに誤まりはありませんか。
  46. 石田博英

    ○石田(博)政府委員 そういう御議論も決定の際には十分考慮に入れましてきめたいと思っておるわけでございまして、確かにお説のような考えが強く出てくることもあり得ると思いますが、それが決定的なものだとは、今日はお答えできる段階ではございません。
  47. 辻原弘市

    辻原委員 今お答えになりました民主的に適切な審議会を設けるということは、それはどこに設けられるお考えでありますか。
  48. 石田博英

    ○石田(博)政府委員 決定をいたしておるわけではございませんが、まず一応の筋道としては内閣に設けるのが適当ではなかろうかと考えております。
  49. 辻原弘市

    辻原委員 この審議会はいわゆる祝日の祝いについてどうするか、その運営をきめるというのでしょうか。
  50. 石田博英

    ○石田(博)政府委員 この法律ができ上ったあとの問題でありますが、従ってこの法律のでき上った、あるいは経過において御心配になっておる傾向が将来出てこないように注意をしてやっていくということも、今おっしゃった以外の目的になろうかと存じております。
  51. 受田新吉

    ○受田委員 関連して。そういうような審議会を内閣に設けられるということは、これは長官の個人の御見解でございましょうか。
  52. 石田博英

    ○石田(博)政府委員 審議会を設けるということを別にきめて言ったわけではございません。つまりこれを法律が通りました後におきましてこれの祝日ほんとう国民の長い祝日にしていくために、御心配の点をなくするためには、やはり適切な機関で相談でもして、協議してやっていくというような方法の方がよくはないかと考えておるわけでありまして、政府として正式なあるいは正確な決定をしたものではございません。私がそう考えておるだけでありますから、個人の意見であります。
  53. 受田新吉

    ○受田委員 長官個人の御意見は、内閣の付属機関あるいは総理府の付属機関として、従来総理府の設置法の法律に基く機関としての審議会でございますか。
  54. 石田博英

    ○石田(博)政府委員 実質的に効果を上げればよろしいのでありますから、法律に基くものにするかあるいは閣議了解、あるいは閣議決定で作るものにするか、いずれにしても現実的に早く役立つものの方法をとりたいと考えております。
  55. 受田新吉

    ○受田委員 今度できる紀元の日のための審議会ということになるならば、これは従来の祝日の行事実施に関する審議会も、当然必要な問題になるわけでありますが、国民祝日の総括的行事実施についての審議会か、あるいは今度できるとした場合の建国記念の日の行事実施の審議会か、どちらでございますか。
  56. 石田博英

    ○石田(博)政府委員 ほかの祝日につきましては制定にそう大して大きな議論がございませんでした。ただ建国記念日は古い歴史的な実証上の議論思想上の対立、あるいは将来にわたっての御心配等についていろいろ議論が出ておりますので、やはり取扱いとしてはこの建国記念日というものがその中心になると思っておりますけれども、先ほどから申しております通り、一省あるいは二省を指定してそこで運営させるというよりは、やはり広く多くの人々の御意見をお伺いして、そうしてその御心配の点のないようにするのがよかろうと考えているわけでありまして、それを審議会とするか、どういう形にするか、そういうようなことはこれから将来の問題になろうと思います。ですから審議会を作るんだということを前提に置かれて御質問をされましても、これはどうも今の段階ではお答えを申しかねるわけであります。   〔相川委員長退席、床次委員長代   理着席〕
  57. 受田新吉

    ○受田委員 私先般来長官にぜひ御苦労を願ってお尋ねをしたかったことがあるのでこの機会に正式にお尋ねしますが、国民祝日の中にすでに十年間にわたって国民の間に広く浸透されつつある憲法記念日があるわけです。この憲法記念日は、これは実施官庁としては文部省であるということに瀧本参事官から声明された。昨日文部大臣にそのことをお尋ねしましたところが、文部大臣としては、憲法記念の行事を実施する必要は認めない。政府としてはそういうことをする必要を認めないということになっておるということでございました。しかし私はここで長官にぜひ御確認を願いたいことは、内閣審議室がごく最近において世論調査をされた結果が、憲法普及度がどの程度になっているかということを長官御管轄でございまするので、お答え願えたらと思います。
  58. 石田博英

    ○石田(博)政府委員 憲法の内容について全然見たことも聞いたこともないというようなのが総数の三分の一を数えておりまするし、さらにその改正手続その他の問題に入って若干専門的な問題に入って参りますると、三分の二以上が知らないと答えておる状態でございます。
  59. 受田新吉

    ○受田委員 改正手続を知らないものが三分の二以上、憲法の大まかな輪郭もわからないというのが三分の一というような状況では、日本国憲法の普及度がはなはだ幼稚であると長官はお考えじゃございませんでしょうか。
  60. 石田博英

    ○石田(博)政府委員 決して喜ばしい状態であるとは思っておりませんが、この世論調査をいたしますると、大体三分の一程度、あるいはそれ以上、問題によりましては半年分くらいがわからないという答えを出して参ります。これは憲法の問題だけでございませんが、大体そういう傾向にございます。しかしことが憲法でありますから、やはり理想的には国民の全部の諸君が完全に知っていただくことがこれは理想だと思っております。
  61. 受田新吉

    ○受田委員 その理想を実現するために政府が十分努力をしなければならない。その努力をするために国民祝日を浸透させる機関として行事実施機関に文部省をおきめになっておられる。その文部省の責任大臣そのものがこれを普及徹底させるための式典、その他の行事を政府がみずからやる必要はないということに結論はなったのだときのう御答弁があったわけであります。私は非常にさびしい感じを持ったわけであります。冷たい感じです。灘尾さんの発言を聞いたときに、これが憲法普及の実施機関の長官かと思うほどまことに私自身、またここにおられる自民党の議員諸君を含めて寂蓼を感じたわけなんです。私は憲法の番人としてこれを国民に浸透せしめて、この憲法のもとに祖国の再建をはかっていこうという強い意欲を持った日本国といたしましては、その政府の衝にある人はできるだけあらゆる機会を通じて、この憲法を普及徹底せしめる努力をしなければならぬ。特にことしの五月三日は、これは憲法記念日国民祝日制定以来の十回目の記念日である。しかも満十周年記念にも相当しておる。この歴史的な記念日、従来一紀元を画することの記念日、たとえば五周年、十周年、二十周年というこの記念行事というものは、過去においてもしばしばほとんど例外なく行われてきておる。現在の憲法が施行された当時及び一周年、二周年、三周年、五周年と政府はそれぞれ総理府において予算まで出されて、最終の五周年式典には総理府から百十万という予算を出されて、この憲法普及のための記念式典をあげておられる。よし憲法改正を意図されておられようとも、現在の憲法がある以上は、この憲法を尊重する意味において式典を挙行されて、国民に憲法の精神を理解せしめ、これを普及徹底せしめる必要があると思っておる。岸総理にもいつかお会いした機会に、総理大臣もできるだけ努力したいと答弁せられておった。ところが五月三日になりまして、われわれはその期待を裏切られた結果が起ったのでございまするが、憲法の普及徹底をはかるべき政府といたしましては、この一紀元を画する十周年という歴史的な憲法も生れて十年、民主憲法生れて十年の、この歴史的な日を国民に十分認識してもらう式典を挙行されることをどうお考えになり、それが今日結果がこういうふうに行わないことになったについてどういういきさつがあったのか、内閣の官房長官としてあっせんの労をとられたであろう石田さん、あなたの個人的な御努力のあったことは、私よく知っておりますが。あなたの苦衷もこれにつけ加えて一つ答弁願ったらどうです。
  62. 石田博英

    ○石田(博)政府委員 いろいろな議論がございましたことは、御想像の通りであります。しかし閣議等で行われました議論の内容は、外に申さない建前でありますから、これは私からここで申し上げるわけにも参りません。ただ結論としては、前年あるいは前々年と同様の取り計らいをいたすことになった次第であります。政府といたしましては、やはり憲法の精神の普及ということには努力をしなければならぬのは当然でございまして、お説の通り擁護、改正の両論がありましても、その主体の認識の徹底をはかっていくということは当然であります。政府は今この国の基本法である憲法の問題について、国内に両論がありまする状態をできるだけ早く解決をさせなければならないという趣旨から、先般法律によりまして憲法調査会を設けて、そこにおいて憲法問題についての国論の統一をできるだけ早く求めるとともに、憲法の精神の普及徹底にも資したいと思っておるのでありますが、ただいまのところ社会党の諸君がお入りになりませんので、なかなか初志貫徹に戸惑いをしておりますから、やはり同じような趣旨におきまして、政府も憲法の普及徹底あるいは憲法についての国民認識の統一というようなものに努力をいたすつもりでありますが、一つ社会党の方におかれても御協力願いまして、憲法調査会等にも御参加願えるようにお願いを申し上げる次第であります。   〔床次委員長代理退席、委員長着   席〕
  63. 受田新吉

    ○受田委員 長官、私は閣議の秘密は漏洩できないということはよく承知しておるのでございますが、すでに新聞紙等の報ずるところでは、政府は十周年記念式典を挙行することを決定して一応与党に相談した、ところが与党の方としては憲法改正を用意しているわれわれが、古い憲法を守ろうなどということは変ではないかというので、ついに与党側から拒否されて、この十周年念記式典はおじゃんになったという新聞の書きぶりを幾つかの新聞で拝見しておるが、この実情はどうでしょう。
  64. 石田博英

    ○石田(博)政府委員 閣議において決定をした事実はございません。いろいろ御意見を承わりまして党と連絡をいたしました。どこで反対があったために行わなかったとかいうことではないのでありまして、総合的な議論を取りまとめました最終段階におきまして、政府の意向としてはこの問題については前年あるいはその前の年と同様の取り計らいをするということになった次第であります。  それからもう一つ御承知願わなければならないことは、今度憲法式典の主催団体が内閣だけではございませんので、参衆両院、それから東京都、最高裁判所というようなところで共催になっております。もし、あるいはその共催団体であるところの参衆両院とか、その他の団体からのお申し出でもあれば、またそれが一つ議論立場になると思うのでありますが、どうしたわけかどこの団体からもそういうお申し出がございませんでしたので、あわせて政府は前年通りの取り計らいをいたすことにきめたわけでございます。
  65. 受田新吉

    ○受田委員 政府は憲法の精神普及徹底の責任官庁であるわけです。これを政府みずから提唱せず、よそからどこからも言ってこなかったからやらなかったということは、これでは憲法の普及徹底はできないと思います。
  66. 石田博英

    ○石田(博)政府委員 それはよそからどこからも言ってこなかったからやらないというわけではございません。いろいろ議論がございましたが、その結論としては前年通りという取り計らいをしました、そのいろいろの御議論のうち、事情参酌の何分の一かの一つとして例をあげたわけであります。
  67. 受田新吉

    ○受田委員 国民祝日ができ上って、今日これを国民の間で奉祝しようという空気ができているときに、政府自身がその祝日趣旨徹底をはからないし、奉祝の意思も表わさないということでどうしてこの国の祝日意義が徹底しましょうか、私はそれを非常に悲しむ。しかもまたここに新たに建国記念日をつけ加えようということになりますと、この建国記念日を何かここに改正して御提出になったような印象を受けて仕方がないのでありますが、現在の国民祝日趣旨徹底を十分はかって、そして政府自身その陣頭に立ってこれを奉祝するという気持をお持ちにならずして新しい祝日を追加するということは、はなはだ意義が薄弱であると私は考えますが、長官いかがお考えですか。
  68. 石田博英

    ○石田(博)政府委員 御議論はまことにごもっともだと存じます。あらゆる祝日はやはりそれぞれ政府においてでき得る限り国民にその趣旨徹底をはかっていく必要があると存じております。
  69. 受田新吉

    ○受田委員 最後に一言。長官、あなたは今憲法普及をさせるための一つの方法としても、ここで憲法に関係した問題として憲法調査会を作ってこれを大いに進めたい。社会党が参加しないので停頓しておるということでございました。この調査会の会長をいろいろの人に委嘱されてもなかなか承知してくれる人がないというようなことのようでございますが、この憲法調査会は早急に店開きをされるのですか。あるいは当分——きょうの新聞かきのうの新聞かに、来年くらいになるかもしれぬといって長官が非常に嘆かれたということでございますが、開店の見通しは当分立たぬわけですね。
  70. 石田博英

    ○石田(博)政府委員 私はどんな人でも会長にして早く店開きをするという意味で、早くきめるという方針でやっておるのではないのでありまして、やはりこの問題の主目的は、憲法についての国論が二つに分れておる実情の上に立ってその認識の統一を行うために必要な調査を行う、よしんばこれに改正をしなければならないという結論が出るにいたしましても、その具体的な改正案の作成に当りましてはでき得る限り進歩的かつ現実的な方向へ持っていきたい、そういう観点から人選を進めておりまして、従ってその人選を進めるに当りましてなかなか社会党が今参加されないということは、進歩的かつ現実的な取り計らいをしようとすることには支障を来たしておることは事実であります。それだからというて急いで人選をして、急いで店開きをすることに重点を置いて、国家の将来を決するような憲法問題を取り計らいたくないと思っておりますから、必要ならばゆっくり腰を落ちつけてわれわれの意図する人を得たいと考えておる次第であります。
  71. 相川勝六

    相川委員長 官房長官は時間の関係でお急ぎのようでありますから、官房長官に関する分だけを簡潔に一つ……。高津正道君。
  72. 高津正道

    高津委員 昨日提案者に、たとえば十周年記念の式典は政府としてはやらない、核兵器の問題については岸総理がああいうような発言をされる、そして新たに紀元節を復活する、この調子の逆コースで日本が進むならば、過去の軍国主義日本に悩んだ諸外国は非常に疑って、日本は国際信用上も損をするであろうし、貿易にも、国際外交の上にも大きい影響があるだろう、このように質問をしたのに対し、小川提案者は、外国が何と思おうとも、日本法律を決定するのに何のはばかるところがあるか、自主的になるのだ、また外国はそのように日本に対して反感を持つようなことにはならない、こういう答弁をされるのでありますが、そのような見解の議員提出の法案が通れば、内閣としては与党の声であるから、そんな要領を得ない、説明つきの、そういうような内容のものであっても、みんなこれをのむわけですか。
  73. 石田博英

    ○石田(博)政府委員 提案された方が与党であろうと野党であろうと、この法案が成立をいたしますると、それはやはり国会において議決を見たことでありまして、国会の意思と私どもは受け取るわけでございます。それから小川さんの御答弁は私は承わっておりませんので、それについて私はどうこうということは申しませんが、諸外国の反響というようなものは、政府といたしまして施政の上においては十分かつ詳細にこれを聴取いたし、参考にいたしておる次第でございます。
  74. 辻原弘市

    辻原委員 先刻から提案者御両人にいろいろ質疑をいたしまして、観点が多少違いますから、議論はお互いに分れて参りましたけれども、しかし問題は、私が冒頭に申し上げましたように、国の祝日をきめるということは、これは今の国民だけではなしに、今後の国民に対して、やはりその日を祝えということを国家的にきめるわけですから、国民教育はもとより、思想の上にも今後いろいろな影響が出てくることは、これは私はいなめないと思うのです。そういう立場から私もいろいろと質疑を申し上げたわけですが、今官房長官から聞きますと、あといろいろなそういう反対者の意見をも十分考慮して、実施の上においては注意してその行事の施行に当るのだというお話がありましたが、私はそれはむしろ逆じゃないかと思う。これを御提案なさいましたその労は非常に多といたしておりますけれども、これが議員提出というような形でなくして、ほんとうに国が責任を持ってやるということになれば、私は政府が相当長い期間をかけて、やはり慎重に——ということもいろいろ取扱いがありましょうけれども、やはり一つ史実の上においても疑問とする点もありますから、学者等も含めて各階層の意見を聴取して、練りに練って反対者のない姿にして、全部がこれを祝うという形の祝日にすべきではないか、そういう意味合いからするならば、法律提案の事前に、そういった民間にその調査をゆだねるというような形式を踏まれてそうしておやりになることが、むしろ至当ではなかったかと私は思うのです。しかしこのことについては、おそらく答弁を求めましても賛意を表されますまい。従ってお答えは必要といたしませんけれども、ともかくこの段階におかれてもなおかっこの取扱いは十分時間をかけて慎重にお願いをいたしたい。提案者は早急にこれを通したいという考えがあるかもしれませんけれども、審議するわれわれといたしましては、なおこの点について審議の状況にもまだ時間をかける必要があると思いますし、また各層の意見を徴するやり方にいたしましても、一回二回の公聴会その他ではこれは相済まない問題であると思いますので、何らかの方法をとって慎重にお取り扱いを願いたいということを希望、期待いたしまして、一応私の午前中の質問はこの程度にいたします。
  75. 相川勝六

    相川委員長 午後一時三十分より再開することとし、これにて休憩いたします。    午後零時五十五分休憩      ————◇—————    午後一時四十七分開議
  76. 相川勝六

    相川委員長 休憩前に引き続き会議を開きます。  国民祝日に関する法律の一部を改正する法律案を議題として、質疑を続行いたします。小牧次生君。
  77. 小牧次生

    ○小牧委員 提案者小川さんにお伺いいたしますが、今回あなた方の方から国民祝日としての建国記念日を設けたいということで法案を提案されたわけでございますが、これはいろいろ分けて考えますと、祝日としての建国記念日をぜひ設けたいということが一つ。もう一つはその期日を二月十一日にしたい、大体この二つに分けて考えることができると思うのであります。この点についてわが党の同僚委員からその根拠について今日まで提案者に対していろいろ御質問があったわけであります。それによって御承知と思いますが、私どもの党としては二月十一日に期日をきめるということについて反対であるという立場からいろいろ御意見もお聞きいたしたわけであります。これは提案者としてぜひそういうふうに持っていきたいというお気持であろうと考えておりますが、これは非常に重大な問題でございまして、こういう問題を法律でもってきめていく場合には、お互いに十分話し合いをして、そうして話し合いがついて、その結果これがきめられるという方向に行くことが一番私は望ましいことである、こういうふうに考えておるわけであります。しかし本日委員長のお話によりますと、二時半までに質問を終って採決をしたい、こういうお話のようでありますが、そうなりますと、これは勢い多数を持っておられる提案者の側の主張が通るという結果になるわけであります。しかし今申し上げた通り、これははなはだ好ましくないやり方であって、何とかこの際十分話し合いをするために、提格者の側におかれて撤回をされる御意思はないかどうか、まずお伺いをいたしたいと思います。
  78. 小川半次

    小川半次君 まず結論から最初に申し上げておきまするが、撤回する意思はございません。  それからただいま小牧さんは、社会党は全然反対だと申されたのでございまするが、現在の社会党の立場反対の御方針をとっておられるかも存じませんが、昭和二十三年に現在行われておりまする新しい祝日を制定いたしまする際に、当時社会党の委員の方々は、もちろん建国記念日を制定することには賛成であるし、その日を二月十一日にするということについても、他に適当な日がないから二月十一日にする以外に方法がなかろう。しかし現在は日本は占領下にあるから、占領軍の方で認めてもらうことができれば二月十一日を建国記念日にしようではないかというので大体話がまとまっておったのであります。そこで私は数回司令部に参りまして折衝いたしましたが、残念ながら最後には命令であるから認めることができぬというので、私も委員会の空気を実現することができなかったのでございます。そのときに社会党の委員の諸君からも小川委員長、君は数回司令部と交渉して努力してくれたのに二月十一日を認めてもらうことができずして残念であったなと言って、かえって私は社会党の委員諸君から慰められたというような、そういう過去もあるのでございます。私はそういう過去をよく存じておりまするから、私は社会党の皆様方も心の底から反対しておられるとはどうしても考えられないのでございます。ですから、私は過日来皆様の御質問に私の乏しき経験や知識の範囲内におきましてぜひとも御理解、御賛同をしていただきたいと思いまして御答弁申し上げておる次第でございます。そういうことでございまするから、撤回する意思もございませんし、私の方からこそ社会党の皆様方に御賛同をしていただきたいと頭を下げる次第でございます。
  79. 小牧次生

    ○小牧委員 残念ながら私今お話の数年前のころに国会におりませんで、当時の事情をよく存じておりませんので、果して今おっしゃる通りであったかどうかはよくわかりませんが、撤回する意思がないというお話でございますので、それでは続いて、もう一つ根拠について簡単にお伺いをしてみたいと思います。  先般来のいろいろな議員の質問に対してお答えの中に、小川議員は歴史上の根拠とかあるいはまたいろいろな方法による世論調査の結果七割以上の人人が建国記念日祝日を希望しておる、こういうような御答弁があったように聞いておるわけでございます。そこでまず第一点の二月十一日についてでありますが、歴史上の根拠なりあるいは事実に基いて提案者の方では提案をいたしたのであるというお話でございますが、この点についてもいろいろ御質問が過去にありまして纐纈先生もうんちくを傾けて御説明があったように私は聞いておるわけでありますが、しかし日本に暦というものが入りましたのは、御承知の通り聖徳太子の時代でありますから、それから数えて千年以上も前の事柄について月日まで確定をされるということは、学問上私は不可能である、こう考えております。これは前に文部大臣も大体同じようなことを答弁されたように記憶いたしております。しかし大よそ推定をされたのである、大よその推定であるといたしましても何月何日という月日まで確定するということは、重ねて申し上げるようでありますが、これは不可能である、こう私は考えております。先般纐纈先生からの御答弁の中にありましたが、辛酉革命の支那の思想を用いまして、逆算してその年の正月一日を想定いたしましたのを、太陽暦に逆算をいたしたものでありますから、これを小川先生の言われる歴史上の事実とかあるいは歴史的な根拠ということは——日本書紀云々という言葉を使って歴史上の事実という言葉を用いておられますが、厳密な意味における歴史上の事実という立場から申し上げますと、これは正しくない、こういうふうに私は考えるわけであります。従いましてたとえば国民の伝統とかあるいは神話こういうことならばわかるのでございますが、今申し上げたようなことを歴史上の事実ということになりますと、これははなはだ私は正しくないと思う。逆算したものを歴史上の事実ということは不当である、こういう立場から、先ほども申し上げた通り、二月十一日というものはきわめてあやふやなものでございまして、こういったものを法律国民祝日建国記念日ときめるということになりますと、一般国民なり青少年はあたかもそれが小川さんが言われるような意味において、これが歴史的な事実であるというふうに誤解をし、錯覚をし、国民教育上はなはだ私は好ましくない結果が生まれてくるのではないか、こういうことを考えるわけでありますが、この点についてどういうふうにお考えでございますか、重ねてお伺いをいたしたいと思います。
  80. 小川半次

    小川半次君 教育の上において二月十一日に対していろいろ疑問が生じ、あるいは学校教育の上におきましてこれに対する質問等があった場合は、私は率直にその事実を申し上げておくことがよいのではないかと思うのでございます。すなわちこれは日本人が長きにわたってわが国の正史として認めてきたところの日本書紀に基いて、その申酉春正月というところから、明治五年にこれを旧暦から新暦に逆算して出た日が二月十一日であって、この日をわが国建国の日として定めたのであるということを、事実をそのままに私は教育上においても伝えていけばよいのではないかと思うのでございます。これをしいてこじつけて教育することは、これは小牧さんも御承知のように、教育基本法あるいは学校教育法によって、そこに極端に政治的なものを加味したり思想的なものを加味して教育することができないことになっておりますから、私はさほど御心配は要らないのではないか、かように思うのでございます。
  81. 小牧次生

    ○小牧委員 今の御答辞の中に、長きにわたってというお話があったわけでありますが、これは日本書紀の場合を言われたのであろうと思います。しかしながら二月十一日と日をきめて、その日を紀元節とする、この歴史は近々七十年くらいの歴史でございます。その前はなかったことは、先刻御承知であろうと考えております。七十年と申しますと、これは確かに一応長い歴史でございますが、しかし七十年間そういうふうにやってきたから、やはり二月十一日が一番好ましいということは、私は必ずしも当らない、こう考えております。と申しますのは、その間には今申し上げたようないろいろな研究なりあるいは御意見等もあったかもわかりませんが、強く表面に出ないで、そうしてほとんど大多数が頭から建国の日は二月十一日であるというふうに思うようにしむけられてきた傾向が、非常に強いわけでございますから、この際しいて建国記念日を設けようとするならば、今申し上げたような国民教育上支障のない、誤解を招くおそれのない新しい立場に立って、お互いに十分話し合いをして各方面の方々の御意見も十分取り入れて、国民全体が心から進んでお祝いし喜ぶことができる、そういった一つの雰囲気なりあるいは客観的な条件というものを作って、そうして法律でもってこれを定めるということでなければ、私はほんとう祝日という価値が薄らいでくるのではないか、こういうふうに考えるわけでございますが、この点についてどういうふうにお考えでございますか。
  82. 小川半次

    小川半次君 祝日に対して国民がそれを祝福するという、その気持が盛り上らなければならないことば当然であって、それに基いて祝日というものを取り扱っていかなければならないことは当然でございます。ですから御指摘のように今後の政治あり方あるいはその祝日を取り扱っていくところの方法さえよければ、要するに、民主的といいますか、平和的と申しますか、そういう方向にこれを持っていけば小牧さんの御心配されるようなこともない、このように私は思うのでございます。  この二月十一日以外に確実でありました正確な日が日本建国の日として明らかであれば、これは何ら心配する必要がないのでございますが、それでは建国の日をいつにするかということになりますと、これは多年にわたっていろいろ議論が出まして、また新聞社あるいはNHRにおきましても広く国民に問うことが必要であるという御意図のもとに世論調査等を行ったのであろうと思いますが、その世論調査の結果は、建国記念日をほしいという国民の意思表示が八六%、その八六%の中からさらに分析いたしまして、それではその建国記念日をいつにするかという問いに対して、七六%の国民の声が二月十一日を建国記念日にしてほしいという、強く意思表示が現われておるのでございますから、この国民の意思表示というものはごく自然的なものであって、政府が二月十一日を意思表示せよといって号令をかけたものでもございませんし、これは自然的に素朴な国民の意思表示がここに世論調査の結果現われておるのでございますから、われわれはこの国民の声、国民の素朴な気持をとらえて、そして二月十一日を祝日として制定することが国民の要望にこたえることになるのではないか、このように考えておるのでございます。
  83. 小牧次生

    ○小牧委員 今の点はきのうもたびたび質問がありまして、世論調査の結果の今のようなお話があったわけでありますが、大体年輩の方々は前に二月十一日に紀元節をやっておったからこれは通りもいいし、また歴史上も二月十一日は神武天皇即位の日であるというようなことで、ただこれはばく然と素朴に、今おっしゃる通りそうであろうと考えておるがゆえに、NHKなりあるいは新聞社の世論調査があった場合は、そういう答えにはその方がよかろうということで回答する人が多いのではないか、私は率直にこう考えるわけであります。しかし先ほどから御質問申し上げる通り歴史上の根拠ということは、これはもうどなたがお考えになっても不確実である、これはとうていきめることはできない不確定な問題であるということは、私は間違いのないところであろうと思うのでございます。だからそういった世論調査の場合は、今申し上げるような気持から国民の年輩の人々は二月十一日がよかろう、こう考える、しかしこれは私、そう広く聞いたわけでもありませんが、ちょいちょいいろいろな雑談の際に聞いてみましても、今の若い諸君はそういう事実をあまり知らないし、従って二月十一日にこだわるというようなこともない、また極端に申し上げますと、ぜひ建国記念日という祝日が必要だ、どうしてもこういうものがなければならぬということを強く言うような人にも、私は残念ながらいき当らないのであります。しかし、ないよりはあった方がよろしい、そういうことで、ぜひ設けなければならないということで提案されたわけでありますが、これに関連してちょっと別なことでありますが私の意見を申し上げますと、先般内閣調査室かの方から、再軍備等についての世論調査を行なったその結果を発表になったことがございますが、再軍備には反対であるという回答をされた方のパーセンテージが一番多かったと私は記憶いたしております。これは私の数字に間違いがあるかもしれませんが、過半数まではいかなくても、再軍備反対は四二%、これは政府が行いました世論調査でございます。そうなりますと、やはりこれは一応国民の声として、政府においても、また与党におかれましてもこれは尊重し、またその期待にこたえるような方向に進んでもらわなければならないということは当然であろうと思うのでありますが、これと話は違いますけれども、今おっしゃるような建国記念日の期日についての世論調査、これも年輩者の方が素朴な気持で、前からの慣習ということからいっておられるのが大部分であろうと私は思っております。反面、若い人々は必ずしもそういうことを考えていないということにかりになるといたしますと、もう少し世論調査の上に現われた内容についても立ち入って検討なさる必要が提案者におかれましてもあるのではないか。このことだけは、世論調査に現われたから、やはり世論に基いて進むべきであるというふうにあくまでもお考えでございますか、お伺いをいたしたいのであります。
  84. 小川半次

    小川半次君 小牧さんは、日本歴史は不確実であると、いわば断定的におっしゃったのでございますが、私は必ずしも不確実であると断定すべきものではないと思うのでございます。やはりわれわれは日本国民として日本歴史というものをたっとばなければならぬと思うのでございます。その歴史をあるいは文献の上にあるいはその他の書籍の上に著わしたところの日本の先覚者、日本の古い学者たちも、私はただこじつけで事実を歪曲して作り上げたものであるとも思われないのであります。われわれはそうしたわが民族の大先輩、大先覚者の書き上げたところのそれらの文献というものを一応尊重しなければならぬのでございまして、何もかも日本歴史は不確実であるといって否定するということは、日本歴史を否定するものであって、そういうことになってくると、根本から国民考え方というものが変ってくるのでございまして、私はこれは不確実であるといって断定すべきものではないと思うのでございます。それから世論調査の結果、それは近代感覚を持っているところの青年たちの意思表示はそれには表われておらぬのではないかというような御意見のように承わりまするが、世論調査の結果は、これは年令的にもみな出ております。二十一才から三十才までの若人の答えは八六・四%、三十一才から四十才までの人たちの答えは八九・一%、さらにそれを分析いたしまして、労働者あるいは官公吏、教員、学生、こういう工合に非常に科学的に分析したものの結果が世論調査として現われておるのでございまして、必ずしもその結果が、あなたのおっしゃるような、世論調査の結論は青年たちの意思が現われていないのだろうというものではないのでございます。
  85. 小牧次生

    ○小牧委員 ただいまの御答弁の中に、日本歴史が不確実であるといって私が否定することはこれはいけない、こういう御答弁があったように思いますが、私が申し上げるのは、何も日本歴史全般にわたる問題を不確実といって、いけないと申し上げているのでは決してないのであります。今申し上げているのは、二月十一日を建国の日とするという一点に限って、この点はなかなか確定的なことを論証することのできない問題であるという意味において、不確実である、こう申し上げたのでありますから、その点は誤解のないようにお願いをいたしたいのであります。と申しますのは、先ほども始まる前に雑談の中に出ましたが、私は鹿児島県の出身であるが、ちょうど鹿児島県と宮崎県の境に高千穂峰というところがございます。私の生まれましたところには可愛山陵というのがございます。この二つはいずれもいわゆる昔の天孫降臨、瓊瓊杵尊をお祭りしてある、こういうことに相なっております。同一の人を二カ所に分けて、一方にもお祭りしてあるというし、私の土地の可愛山陵にもお祭りしておる、こういうふうになっており、いまだにこの問題はそのままに相なっておるようなわけでありまして、従いましてこういう点から考えてみましても、これは確定的にどうということはできない一例であろうと私は考えるわけでありますが、そういう意味におきましても、先ほど申し上げる通り二月十一日は、今となってはとうてい歴史的な事実としてこれは確定的にきめることができない問題であるということは、すでにたくさんの方から言われておる通りでございますので、私はそういう意味において先ほどは、その日にとらわれてあくまでも二月十一日を法律上きめるというような強い態度で出られることは、教育上も、その他国民の心がまえにおきましても、将来長きにわたる問題でございますから、これは非常に重大な問題である、従って何か適当なほかの日を十分お互い話し合いをしてきめていった方がいいのではないか、こういう意味で私は申し上げたのでありますから、その点は誤解のないようにどうぞお願い申し上げておきます。  そこでさらに進んで御意見をお伺いしたいのでありますが、法律でもって国民祝日としてきめる以上は、国民全部が喜んできょうは祝日であるという気持になってお祝いできる、そういう日をわれわれは考えるべきであるというような立場から、かりに五月三日が平和憲法の記念日である、国民はその日を新しい憲法の発足の日として非常に喜んでお祝いをいたしておるわけでありますが、そういった前後に、五月三日の前の二日なり、あるいはあくる日の五月四日なり、そういうころに期日をきめて、新しい日本の発足はこういう日であったというような意味におきまして、新しい心がまえで期日を定めていくというようなお考えは全然ないものでありますか、いかがでございますか。
  86. 小川半次

    小川半次君 五月三日は、これは憲法記念日でございますから、その日を憲法記念の日として定めることは当然のことでございまするが、だからといってその二、三日前に建国記念日を定めたらどうかということは、これは全然根拠のないことでございます。根拠のない日を建国記念日と定めるということは、それこそこじつけであって、日本歴史の上に間違った記録を作ることでございまするから、私は、そのことよりも、やはり一応日本の正史といわれている日本書紀に現われているところの辛酉の春正月のこの日を定めたところの明治の先覚者の二月十一日説という方が、より根拠があるのですから、やはり根拠のある日を建国記念日としなければならぬと思うのでございます。小牧さんは、日本歴史を全面的に否定するものではないけれども、しかし二月十一日を自分は否定するという御意見でございまするが、しかしそれを否定するという確実な根拠もまた私は失礼ながらあなたにもないだろうと思うのでございます。そういうことになりますると、世界歴史というものは、これはいずれも文字のなかった時代はやはり言い伝えによってきたものでありまして、その言い伝えられてきたものを、文字のある時代になって文字の上に表わしたのでございますから、私はやはり世界各国の歩んだ、また日本の歩んだ常道の道をわれわれは信頼しなければならぬのではないか、このように思うのでございます。
  87. 小牧次生

    ○小牧委員 大体提案者の御意見はわかりましたが、もう一つお伺いしたいのは、前からたびたび御質問のあった問題でありますが、二月十一日という日は確かに七十年くらいの歴史を持っておりますけれども、終りごろにおきまして、日本の国内の情勢と申しますか、それが大きく変りました。そうして戦争へ突入し悲惨な敗戦という結果を招いた。この歴史的な事実に、そういった情勢をかもし出していく過程において、前の紀元節の三月十一日というこの期日が私たちにあっては暗い影を残しておる、私は少くともそう考えるのであります。これは答弁者の皆さんにおかれましては、決して軍国主義的なものと関係があるのではないということをたびたび答弁しておられますが、われわれはこれには何といっても暗い影がつきまとわざるを得ない、こういう気持を否定することができないのであります。従いまして、やはりそういうものを連想させるような暗いものを持たないで、全然新しい立場において、建国記念日ということをお互いに話し合ってきめるということの方がすっきりしておる、こう私は考えるわけであります。従いまして、これで質問はやめますけれども、先ほど申し上げた通り、本日ここでこのままでこれを採決されるということになりますと、あなた方の意見は通るということになるわけでありますが、これは結果的に見ますと、あなたの所属しておられる自由民主党の方が多数でございますから、これは多数決できまるということになるわけでありまして、たびたび申し上げる通り、国民祝日というものを一党一派の多数決でこれをきめて押し切っていこうということは、何といっても好ましくない、最後まで私はこういうふうに考える一人であります。こういう点をもう一度御考えいただきまして、適当な他の期日を定めてはどうかというわれわれの政党と、あなた方の政党と、両党でもう一度協議をしていただいて、そうして新しい日をきめるというようなお考えになっていただけないかどうか、最後にこれをお伺いいたしまして、私の質問を終りたいと思います。
  88. 小川半次

    小川半次君 小牧さんは、二月十一日を明治初年に日本紀元節としてきめたことが軍国主義につながるものであって、非常に暗い影を国民に与えておる、こういうことでございますが、明治初年にわが国の先覚者がこの紀元節を定めたその意思というものは、当時、明治初年にわが国の先覚者が海外に出まして、先進国のいろいろなものを見習って帰ったのでございますが、その際に、先進国はいろいろな祝祭日を持っておる、日本も先進国を見習って祝祭日を持つことが妥当であるというところから、かつての祝祭日ができたのでございまして、当時ようやく維新を行なった日本が、いわば弱小国が外国と戦争しようなどというような大それた軍国主義思想などは毛頭持っていなかっただろうと思うのです。もちろんその後に至って、いろいろ不測な事態から日清戦争とか、日露戦争というものが起ったのでございますが、だからといって、それと二月十一日というものは別個のものであって、二月十一日は軍国主義につながるところの暗い影を持つものであるとは、われわれは全然考えておらぬのでございます。もちろん、そういう意図がもしあってはならないというので、戦後おそらく世論調査等が行われたのではないかと思うのですが、あの戦争直後、あれほど戦争をのろっておったところの国民が、世論の調査の結果、二月十一日を建国記念日にしてほしいというのですから、これは軍国主義とは何ら関係のない、ただ自分たちの祖国の源の日をお祝いしたい、こういう素朴な国民気持の現われが世論調査の結果として現われておるものであろうとわれわれは考えるのでございます。ですから、こうした国民の素朴な気持を受け入れて、そうして二月十一日を建国記念日に定めることが、私は国民にこたえるゆえんであろうと思うのでございます。
  89. 小牧次生

    ○小牧委員 質問は前でやめると申し上げたわけでありますが、ただいまの御答弁のうちで若干私の意見と違うところがあります。というのは、二月十一日にきめたという明治の初年のきめ方、このこと自体が直ちに私は軍国主義的なものに基いておると決して申し上げたのではありません。その点は誤解のないようにお願いをいたしたいのであります。私の申し上げたのは、日本の近代国家の成立の過程に即応いたしまして、だんだんと絶対主義的なイデオロギーというものが非常に強くなって参りました。そしてほとんど昭和七、八年ごろから以後は超国家主義的な立場に進んで参りまして、軍国主義的な方向に日本は進んでしまった。そういった精神的な一つの背景というものをわれわれが考えてみた場合に、今二月十一日というこの紀元節の問題も、その一つの精神的な所産の中にこれが包含されて、そして超国家主義的なものを形成していく一つの要素をなしておった。こういう考え方立場から私は申し上げたのでございますから、明治の初年のことまでさかのぼって申し上げておるわけでは決してないのであります。従って、つい最近において、そういう一つの要素をなしたという意味において今日までわれわれに暗い印象を残しておる、こういうことでございますから、その点は御理解をお願いいたしたいのであります。
  90. 相川勝六

    相川委員長 これにて質疑は終了いたしました。これより討論に入ります。受田新吉君。
  91. 受田新吉

    ○受田委員 私は日本社会党を代表いたしまして、国民祝日に関する法律の一部を改正する法律案 すなわち建国記念日を新たに制定しようとする自由民主党の諸君の提案されたこの法案に対しまして、反対の討論を試みんとするものでございます。  そもそも国民祝日が制定せられました終戦直後の社会情勢をかえりみまするならば、長期にわたり日本の国が特定の軍国主義たちによって指導せられまして、反動的方向に向わせられ、極端なる国家主義者あるいは軍国主義たちの横行する社会情勢となって、その結果大東亜戦争の悲劇が招かれまして、日本歴史始って以来の悲惨なる情勢に追い込まれた。その祖国を再び敗亡の中から再建せしめるために、民主主義国家として新憲法のもとに誕生していた日本は、国民の総意のもとに新しく生まれかわる日本にふさわしいお祝い日を作って、平和と民主主義の芽がすくすくと伸びる国家を祝い、記念したい、こういう趣旨のもとに終戦直後の国会におきまして、この国民祝日の法案が提出せられ、半歳にわたる日月をけみしまして、昭和二十三年七月二十日、法律第百七十八号をもって公布されたことは与党の諸君のよく御承知の通りでございます。ところが、この国民祝日を制定いたしました目的は、従来の皇室中心主義、極端な国家主義、こういう形の祝日を改めて、国民大衆がこぞって祝い励ます形の祝日への転換が目的でございました。ことにこの国民祝日に関する法律の目的は、第一条にはっきりと、「自由と平和を求めてやまない日本国民は、美しい風習を育てつつ、よりよき社会、より豊かな生活を築きあげるために、ここに国民ごぞって祝い、感謝し、又は記念する日を定め、これを「国民祝日」と名づける。」かように規定してあるのでございます。だからこそ、この祝日に関する法律を制定いたしましたときには、その審査の標準の中に、明らかに国民全体がこぞって祝い励まし記念する日であること、皇室中心主義あるいは超国家主義的な祝日はこれを入れないこと、その他国民的な行事として大衆に溶け込むことのできるような祝日であること、これらを勘案いたしまして、九つの祝日が制定せられたのであります。従来の祝日を、当時を顧みまして経緯を考えてみますと、明治の六年に太政官布告で天長節と紀元節が制定せられ、新年を加え後に明治節を加えて四大節となり、さらに大祭日ができ上りまして、祝日大祭日として、国家はこれを休日として、国民があげて祝いお祭りする日として定められました。ところが、この明治初年に制定せられた国民の大祭日、祝日というものを顧みますると、その中身は、皇室中心主義的なお祝い日がたくさんあり、かつ大祭日を検討いたしましても、元始祭、春季皇霊祭、あるいは神武天皇祭、神嘗祭、新嘗祭、あるいは秋季皇霊祭などと、少くとも特定の神道につながりを持ち、皇室特権主義的な要素を網羅した祝日ばかりでございました。国民全体のお祝い日としてはあまりにも極端な、一部の皇室の方がお祝いをし、あるいは神道主議者がお祝いをしていいという祝日国民全部に押しつけた。これが明治以来大東亜戦争の終未まで続いた日本祝日大祭日であったのであります。しかもそれは一片の太政官布告で、国会における法律として生れたものでなくして、時の権力者たちの命会でできたのが明治時代祝日大祭日であったのであります。時の権力者たちによる一方的な、この極端な国家主義的な神道中心の形に行われた祝日大祭日に対して、日本の運命がどういう方向に導かれたかは御承知の通りであります。ことにその中で最も著しい特例といたしましては、戦争末期に紀元節をもって建国祭と銘を打ち、いわゆる軍国主義たちのために奉仕し、あるいは国家主義者たちに奉仕するために全国民が動員されたことは、忘れもできない事実でございます。従って、こうした悲しい姿の権力者奉任の祝日大祭日を改めたい、国民全部の中に溶け込んだ祝日でなくしてごく一部の人のために奉仕するような祝日を改めたい、これが戦後ほうはいと起った平和主義民主主義の基調に立つところの新しい祝日制定の趣旨であったのであります。  私たちは、この法律改正案をながめるときに、終戦直後に制定せられました国民祝日に関する法律趣旨と著しく隔たりを持つ結果が現われていることを悲しみます。当時国民祝日制定に関して種々論議せられた中に、紀元節を長期にわたって論議し、多数の時間を要したことは、提案者の御説明を待つまでもございません。しかしながら、結論は、日本の国の国家主義者たちや、あるいは神道主義者たちに奉仕するような形の紀元の日であってはならない。ことに二月十一日という日取りが、その悲しい思い出をよみがえらせるためにはまことに格好の日であるだけに、二月十一日という日取りについてはこれは納得できないというので、この日取りは十分検討する、しかし国始めの日を祝うという率直な国民の感情を育てることには異議がないという結論であったのであります。その後長期にわたりまして、この新しい国民祝日国民の間にようやく浸透せられ、九つのお祝い日はそれぞれ、この法律の第三条の休日とするという規定に基きまして、国民はこの日を休んでお祝いを続けて参りました。  しかしこの九つのお祝い日を一つ一つ検討してみますと、なお九つのお祝い日そのものの中にも再検討すべきものもあるという批判もあります。けれどもこの九つのお祝い日を一つ一つ拾ってきた場合に、元日、成人の日、春分の日、天皇誕生日、憲法記念日、子供の日、秋分の日、文化の日、勤労感謝の日と網羅された中に、ただ一つ皇室中心主義的な要素があるというのが天皇誕生日、しかもその天皇誕生日も従来の天長節としてでなくして、率直に天皇の誕生を祝う天皇誕生日と、新憲法第一条の規定を十分表象するような形でこれがお祝い日に制定されております。その他子供から大人になり、あるいは文化を祝い、勤労感謝を祝うというような、きわめて大衆的な、民衆の中に溶け込んだこのお祝い日を顧みますならば、その中にここに一つ旧態依然たる紀元節がどっかりと生まれたとしたならばどういう形がここに考えられましょう。私は率直に申し上げて、建国記念日と銘を打って御提出なされた提案者たちのその背後に、いにしえの神国時代、神話時代の姿を日本に再びよみがえらせて、ここにいわゆる復古調豊かな祝日を制定をして、いわば憲法改正につながる新しい皇国日本を再現しようとする意図が、全然ないと断定できない要素のひそんでいることを悲しまざるを得ないのであります。なんとなれば、この二月十一日の根拠としては、提案者はしばしば言われております、日本書紀巻第三に明らかに、辛酉の年春正月畝傍山の東南麓における橿原の宮で即位されて開国の詔書を発布されたりっぱな根拠があるじゃないか。しかしこの根拠は後世辛酉革命説その他で非常な批判をされている日であり、しかもこれは伝説の日として取り上ぐべきであるということを、提案者たちに同調せられておる学者の方々でさえもここの委員会で証言せられております。伝二千六百十七年と、伝という言葉をもってしてもいいとはっきり指摘せられておるほど、この根拠は伝説でしかないのであります。伝説による日取りをもって根拠として定められるのには、これははなはだわれわれは遺憾の意を表さざるを得ないのであります。従って根拠があるという提案者の御説明はわれわれを納得させません。そういう説明の仕方でこの法案を出されたことには、私は自由民主党の立場の方々でさえも納得されない方々が非常に多数あると思うのです。根拠があるということを言うよりは、むしろ変った立場で御説明された方がよかったのではないか。伝説の上においても、こういういにしえの思い出として、こういう日を建国の日としてもいいじゃないかという形で御説明されるならば、もっとこれに対して反対意見が押えられたかもしれないと思う。それほどわれわれは、この二月十一日を歴史的に根拠ある日として御説明された提案者のその提案の説明の仕方には、はなはだまずいものがあったことを指摘せざるを得ないと思います。  従ってわれわれ社会党の立場をもっていたしますならば、できるならば建国の日というものは、与党と野党が一本で、みんなで納得できる形でこれを制定したい。自由民主党の立場で一方的にこれを提出せられて、野党の反対特定の軍国主義者を押し切って、強引に国会を通過せしめたとしても、国民の総意をもってお祝い日としてはこれは不適格であります。祝日法律第一条に規定された国民こぞって祝う目的を達成し得ません。国民の中に三分の一以上の旗を立てない国民がある、そういうお祝い日を強引に制定するということは、これは民主主義国家のとるべき道ではございません。  しからばこの際二月十一日という日取りについては、単に伝説として、ことにあいまいもことした時代を描写した、日本書紀であり古事記であることを省みるならば、これをあこがれの、日本の肇国の時代一つの基礎的な憧憬として考えるという形で、自由民主党の立場紀元の日をお作りになろうというならば、これは保守党の立場では私たちは納得できることだと思います。  そこでわれわれはそうした自民党の立場考え、またわれわれ社会党が二月十一日以外に適切な紀元の日はないかと種々検討している段階等を考慮せられましたならば、この単に伝説にすぎないこの日取りを強引にお定めなさることを遠慮せられまして、野党との間において審議機関でも設けて、適当な期間を置いて、国始めの日をいかにすべきかということを十分検討して、総意を持って両党の意見を一致せしめて国始めの日を制定する法律改正案をお出しになる、こういう形に切り変えられることが妥当ではないか。われわれ野党の立場からも、先ほど申し上げた通りに、紀元の日を作ることに反対しているのではございません。新しい立場から、民主主義立場から、平和を愛する国の立場から、新しい記念日を作ろうとする意欲は私たちも同様に持っております。そうした新鮮な感覚で、新鮮なお祝い日を設けようとする率直な野党の気持国民大衆の気持を十分尊重せられまして、与党の諸君がこの際この改正案を撤回せられて、そして新しく両党の話し合いによる納得のいく祝日制定という形に持っていかれたならば、日本の国の新しい祝日としてはまことに適格性を具備したものだと思います。  この委員会にこの法案を提出せられて、これに充当した審査の日取りがはなはだ少い。しかも公聴人としておいでいただいた学者の中にも賛成反対意見二つに分れている。多数の学者はほとんどこの根拠ある二月十一日に賛意を表しておられると提案者の御説明でございましたけれども、実は多数の学者は伝二千六百十七年ということを捨てて、現実に日本にあるべき姿の立場建国記念日を定むべきであるという説に傾いておられる。従って二月十一日説というものはごく一部の復古調豊かな学者のとられる一つの学説あるいは主張であると、われわれはここに言明せざるを得ないような状況にあるのです。  そこでこの際私たちといたしましては、今や会期まことに迫れる現段階において、この法案をせめて衆議院だけでも通して面目を通したいと考えられておられるさびしいお考えを改められて、どうせ参議院へいっても、審議の日取りは迫っておるのだから流れるんだ、流れるのはわかっておるが、衆議院の面目だけ立てさせてくれろというさびしい気持をお捨てあそばしまして、この閉会中にでも一つ野党と十分話し合いの機会を作るというおおらかな態度に転換されることが、三百名を擁する民主主義国家の大政党としての一つの雅量、度量ではないかと思うのです。従って私たちは、今この委員会において、自由民主党の方々が多数決をもって採択されようとする、この改正案の通過に対する強引な御意欲に対しては、徹底的に反対を申し上げ、国民こぞって祝い、感謝し、かつ記念するというまじめな意味の新鮮な国初めの日を作ることに御協力あらんことをお願いいたしまして、反対の討論を終りたいと思うのであります。(拍手)
  92. 相川勝六

  93. 保科善四郎

    ○保科委員 私は、自由民主党を代表いたしまして、ただいま議題となっております建国記念の日を設定することに対しまして賛成の討論をなすものであります。  建国記念いたしましてこれを祝おうということに対しては、ただいま反対の討論をされました受田委員においてもこれを認められておる。また、先ほど来小川提案代表者の説明にもありました通り、二十三年に、文化委員会において、これは受田委員も入っておられたと承知をしておるのでありますが、満場一致、二月十一日を建国記念の日とすることになっておったと聞いておる。その後何年かたちまして、いろいろの世論調査の結果もすでに発表されておる。また、本委員会においてもしばしば議論された通り、大体建国を祝おうということに対してはもう世論も異存がないものと考えております。結局何月何日を記念日にするかということに問題はしぼられておると考えるのであります。  このことは、過般の本委員会の公聴会の申し込みに非常によく現われておると私は思いますから、それをちょっとここに引用いたしたいと思うのであります。  この公聴会の申し込みは三十五件ありました。そのうちに、建国記念日を設定することに賛成をしておられるものが三十件であります。設定に反対をしておるものが二件、賛否不明のものが三件であります。これはごく新しいことであります。この賛成をした三十人の内訳をさらに申し上げますと、二月十一日となすべしというものが二十四人、八月十五日となすべしというものが三人、五月三日を至当とするものが一人、十一月三日を至当とするものが一人、意見なしが一人、こういうことになっております。  私の今申し上げましたこの統計は、これは国民考え方の最新の縮図であると考えるものであります。この中で八月十五日という賛成者が三人あるのでありますが、これは御承知の通り、敗戦の詔書を出された日で、建国記念日としてはふさわしくないということはきわめて明瞭であります。もししいてこういうものを設ける必要があるとすれば、これは敗戦を反省する日ということに考えるのは当然であると思います。次に、五月三日の同意者が一名あるのでありますが、これは新憲法公布の日でありまして、現行は憲法記念日として祝われておるのでありましてこれをさらに取り上げて、建国記念日とすることは適当でないと私は思います。また十一月三日は、一名あるのでありますが、これは明治維新というものを記念せんとする意欲に出たものと考えるのでありますが、これは文化の日として祝われておるのでありまして、むしろその方がふさわしいのじゃないか。こういうように考えてみますと、残りの二月十一日という問題になります。これは先ほどから議論にあります通り、明治五年に歴史的にも検討をされまして、紀元節と定められて、すでに約八十年間国をあげて祝ってき、国民の伝統の日として親しまれておった国民的感情の上から見ましても、最も適当なる日と私は思うのでありまして、これが国民的良識としての賛成者三十人において二十四人という圧倒的な多数となって、自然に現われた最新の事実であると考えるのであります。また一部にはこの日は歴史的に不確実だということで反対せられておりますけれども、二千六百年前の史実を適当に証拠立てる方法というものが現在において見出されない限り、すでに八十年の歴史的事実となっておるこの日を、建国記念日とすることは最も良識的な考え方であると私は考えるのであります。  こういう観点から、私は本案に対して絶対の賛成をするものであります。
  94. 相川勝六

    相川委員長 これにて討論は終局いたしました。  これより採決いたします。本法律案賛成の諸君の御起立を求めます。   〔賛成者起立〕
  95. 相川勝六

    相川委員長 起立多数。よって本法律案は原案の通り可決いたしました。  なお、本法律案に関する委員会報告書の作成につきましては、委員長に御一任願いたいと存じますが、御異議ありませんか。   〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  96. 相川勝六

    相川委員長 御異議なしと認めます。よってさよう決しました。  次会は明十六日午前十時より開会することとし、本日はこれにて散会いたします。    午後二時五十八分散会      ————◇—————