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1957-05-13 第26回国会 衆議院 内閣委員会 第39号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和三十二年五月十三日(月曜日)    午前十時四十三分開議  出席委員    委員長 相川 勝六君    理事 福井 順一君 理事 保科善四郎君    理事 山本 正一君 理事 石橋 政嗣君    理事 受田 新吉君       大坪 保雄君    大村 清一君       北 れい吉君    纐纈 彌三君       薄田 美朝君    田村  元君       辻  政信君    眞崎 勝次君       町村 金五君    粟山  博君      茜ケ久保重光君    飛鳥田一雄君       稻村 隆一君    西村 力弥君  委員外出席者         総理府事務官         (内閣総理大臣         官房審議室参事         官)      滝本 拝彦君         文部事務官         (大臣官房総務         参事官)    斎藤  正君         専  門  員 安倍 三郎君     ――――――――――――― 五月十一日  恩給額調整に関する請願赤松勇紹介)(第  三〇二二号)  同(小金義照君外二名紹介)(第三〇四七号)  同外一件(首藤新八紹介)(第三〇四八号)  同(八田貞義紹介)(第三〇七八号)  傷病恩給増額に関する請願赤松勇紹介)(  第三〇二三号)  同(井谷正吉紹介)(第三〇二四号)  傷病恩給受給者家族加給に関する請願赤松  勇君紹介)(第三〇二五  号)  元外地鉄道職員に関する恩給法等特例制定に  関する請願石村英雄紹介)(第三〇六五  号)  恩給法の一部改正に関する請願石村英雄君紹  介)(第三〇六六号)  寒冷地手当薪炭手当増額に関する  請願笹山茂太郎紹介)(第三〇七七号)  傷病恩給支給開始月改正に関する請願(永山  忠則君紹介)(第三一〇〇号)  寒冷地手当等増額に関する請願平田ヒデ君  紹介)(第三一〇一号) の審査を本委員会に付託された。     ――――――――――――― 五月十一日  追放解除復職した教職員の恩給年数通算に関す  る陳情書(第九二  五号)  米軍水上機訓練水域小松島港等海域に設置  反対に関する陳情書(  第九二六号)  同外二件(  第九八八号)  水産庁漁港課部昇格に関する陳情書  (第九六〇号)  金鶏勲章年金復活に関する陳情書外一件  (第九八三号)  寒冷地手当等増額に関する陳情書外十四件  (第九八七号)  町村合併による地域給均衡是正に関する陳情  書(第九九二号)  建国記念日制定に関する陳情書  (第一〇〇九号)  傷病恩給支給に関する陳情書  (第一〇一四号) を本委員会に参考送付された。     ――――――――――――― 本日の会議に付した案件  連合審査会開会に関する件  国民祝日に関する法律の一部を改正する法律  案(纐纈彌三君外三十七名提出、衆法第一号)     ―――――――――――――
  2. 相川勝六

    相川委員長 これより会議を開きます。  国民祝日に関する法律の一部を改正する法律案議題とし、質疑を続行いたします。受田新吉君。
  3. 受田新吉

    受田委員 私きょうは時間をいただいて、提案者改正案問題点についてお尋ねを申し上げたいと思います。私は日本の国に国民全体があげて祝福する例の新しい祝日を制定した当時の委員の一人であることは、先般提案者小川さんからも指摘された通りであります。顧みれば、この新しい祝日を作りましてちょうど十年の歳月がけみせられておりますが、あの当時を振り返ってみますと、終戦後の混乱の中で国民の落ちついた気持を取り戻すために、何とかして感覚を新たにしたお祝い日を作ろうじゃないかという世論が巻き起り、革新政権片山内閣の当時に話題が提供されまして、社民連立内閣芦田内閣においてこれが実を結んだという、これはいわく因縁の深いお祝い日であります。ところが当時からちょうど十年たった今日の日本祝祭日を再検討してみますと、新しい問題が起っておる。それはたとえば九つ祝祭日のうちに、文化の日とかあるいは勤労感謝の日とか、何だか国民祝日としては文化性があり過ぎて、少しさばけ過ぎた名称のお祝い日じゃないかという声が国民の一部にあります。また成人の日を作り、子供の日を作っておる以上は、当然母の日や年寄りの日も作るべきではないかという国民の声もある。その他クリスマスとかあるいはメーデーとかいう、いわゆる民間行事として高く評価されているものの取扱いをどうしたらいいかという世論も起っておるわけです。日本祝日全般についてこの際再検討を加えるという気持が、提案者の頭脳の中にはなかったのであるかどうか、まず御答弁をこいねがいたいのであります。
  4. 纐纈彌三

    纐纈委員 受田先生は、現行祝日を決定された際におきまして、委員として当時のことは十分に御承知のことと思うのであります。ただいまのお説のように、いろいろ祝祭日につきましては再検討の要のあるものもあるのではないかというふうに、私どもももちろん考えたわけでありますが、特に二月十一日の問題があの委員会において論点の中心となり、結局委員長の決に待つということで、占領軍の方との折衝をせられまして、バンス宗教課長との数回にわたる折衝の後に、ついに占領中は絶対にまかりならぬという命令的の強い言葉がありましたために、これはやむなく保留となったのでございます。そこで御承知のようにサンフランシスコ講和条約が成立後独立をかち得たために、この問題が再燃して参りまして、国民の間において、この留保になった問題をぜひ取り上げて祝日に加えてもらいたいという世論が、非常に強くなって参ったわけであります。また一面には、御承知のように、その後年々国民奉祝大会というようなものも盛んになって参りまして、そうした民意を尊重するという意味におきまして、とりあえずあのときに留保となった問題をまず祝祭日に入れたい、こういうのが私ども提案者考え方でございまして、もちろんほかの現行九つ祝祭日に対しましても、もう少し検討をする必要があるであろうということは考えておったわけでありまするが、とりあえず二月十一日の問題を一つ解決したい、こういうつもりで提案したわけであります。
  5. 受田新吉

    受田委員 とりあえず提案されたこの建国記念の日につきましては、すでに新しい祝日を制定する法案審査の際に議題に上せられて、国民あげて祝う国初めの日を設けようではないかという空気は見解が一致していた。ただ、その日取りについて種々疑義が起りまして、結論に至らなかったという一つの由来を持っておるのです。その点は私は提案者建国の日を提案されようとする意図のあることについては共鳴するのでありますが、問題はその日取りです。日取り十分検討を加えられることなくして、二月十一日説を固執されて提案されたというところに、問題がひそんでおる。ここを野党とよく相談して、いつにしたらよいかということを十分検討を加えて、できれば与野党一致提案にして、国民あげて祝う祝日の意義を完成させる方が、より大きな効果があったのではないかと思うのでございまするが、いかがでございましょうか。
  6. 纐纈彌三

    纐纈委員 国民祝日でございますから、お説のように、やはり国民全部がこの問題に賛成するということはもちろん望ましいのであります。従いまして、私どももこの法案研究いたしました際において、社会党の幹部の方にも党の執行部から御相談を申し上げたのでありますが、結局私どもの判断では、全然考え方が違っておりまするために、なかなか話がうまくまとまらぬ、こういうような情勢にもありましたので、   〔委員長退席山本(正)委員長代理着席〕 私どもはもちろん与野党とも話し合いでこれができれば――またそういうふうの性質のものでありますから、それは望ましいことであったのでありますが、今までの審議の状況からいきましても、文化委員会におきまする当時の状態から見ましても、どうしてもその点において考え方が違っております。そこで私ども国民世論を尊重し、しかも二月十一日をぜひ祝日にしてもらいたいという世論が非常に強いということで、もちろん歴史の点からいきまして、いろいろの疑義はあるでありましょうが、私どもは少くとも日本の正史として伝えられて参りました日本書紀にはっきりとその日が出ているので、これをやはり一つ根拠としてこの日を祝日にしたい。もう一つは、明治、大正、昭和の三代にわたって、これが国民の間に祭日として行われてきたという一つの実績もあるわけでございますので、そういう点からいたしまして、二月十一日を祝祭日にしたいということに結論を得たのであります。もちろん二千数百年前の歴史のことでありますから、その日が絶対に確実かどうかということは、これは議論をいたしましてもおそらく容易に解決のできないことでありまして、これらはいましばらく歴史学者専門家研究にまかして、私ども国民世論を尊重して二月十一日をお祭にしたい。またいろいろ考えてみましたが、どうも国の初めあるいは建国の日というものには、結局私ども考えでは他にふさわしい日がないという結論になったわけでございます。
  7. 受田新吉

    受田委員 その結論になった場合に、もう一度野党話し合いをして、できれば、こういう結論になったのであるが、何とかいい案はないであろうかという相談を持ちかける努力をしばしば繰り返して、できれば、両党の共同提案という形で満場一致国会を通すというのが、私は国民あげてこぞって祝い、感謝するという祝日法律目的にもかなうことになると思うのです。従って一方的に時の政府、与党の多数をもって法案が押し通されるということになると、国民こぞって祝い、感謝するという国民祝日の第一条の法律目的を達成し得ないと思うのですが、多少の時日はかかっても、その時の至る、その機の熟するを待つという形をおとりになることが、提案者としては妥当な道ではなかったかと思いまするが、もう一度御反省の余地はないでございましょうか、お答え願います。
  8. 纐纈彌三

    纐纈委員 お説もまことにごもっともなこととは存じますが、先ほども申しましたように、相当社会党の方面ともいろいろ話執行部の方でやっていただいたわけでありますが、その結論がなかなか容易じゃないということであり、またこの前から留保になっており、しかも独立したならばきめることは別に問題ないだろうということをバンス氏も言っておったような関係もありますし、私どもは少くとも二千六百年の間日本歴史というものを尊重してきました国民感情というもので、国民の間にそういう古い歴史を持っているということこそが、やはり民族発展一つの誇りであり、またどこの国を見ましても、国の歴史を尊ぶということが国の発展の上に非常に大きな寄与をいたしておる、そういうような観点からいたしまして、私はこの際残念ではありまするけれども国民世論が八〇%を越えておるというような問題でありまするので、この機会にぜひ二月十一日を祝祭日にしたい、こういう気持提案したのであります。
  9. 受田新吉

    受田委員 世論調査結論をしきりに先日来お出しになっておるのでございますが、私はこの問題は世論の上においてはすでに昭和二十二年に国民祝日を作ろうではないかという空気の起った当時から、しばしばこの紀元の日を作るべきであるという声を求めた歴史があるので、これは私一応否定しておりません。しかし、一方においては国の政治の衝にある人々世論を正しく指導するという立場も必要なんです。いたずらに世論々々といって、古い形に閉じ込められた神社庁その他の指導による誤まられた世論ということも起り得るわけなんで、公平に見て若い世代も含めて、世論喚起の上に適当な啓蒙も加え、指導の衝に当る政治家たちの正しい討論の場面等もこれを展示して、世論を喚起するという形が行われなければならない。そこで今お説のあった建国記念の日を作ることをまず取り上げたいということでございますが、私はその世論の背景になるものを、指導的立場から誤まらせないようにこれを展示しなければならない理由に、次の問題を持ち出したいと思うのです。纐纈先生は、この問題を十分検討された歴史学者であられると想定をしてお尋ねをするのでございますが、伝説の日であるとこれは万人が認めている、紀元節肯定論者の大半もこれを容認しておられる、その二月十一日、これはもう一つさかのぼって考えなければならない。それは古事記にも日本書紀にもいわゆる記紀日本で一番古い二つの歴史書開巻まつ先に出ておる。すなわち天照大神以前、以後、神武天皇以前の神代時代、すなわち神話時代というものは一体どう考えられておるのか。古事記をひもといてみますと、開巻第一発に太安万侶がまとめた文章ですけれども、「天地のはじめの時、高天ノ原に成りませる神の名は、天之御中主ノ神。次に高御産巣日ノ神。次に御産巣日ノ神。この三柱の神は、みな独神成りまして、身を隠したまひき。」というところから始まっておる。しかもその次に書いてある、はなはだおもしろいことがある。「次に国稚く、浮脂の如くにして、水母なす漂へる時に、葦牙の如萌え騰る物に因りて成りませる神の名は、宇麻志阿斯詞備比古遅ノ神。次に天之常立ノ神。此の二柱の神も独神成りまして、身を隠したまひき。」と書いてある。すなわち、その当時の情勢天地創成場面をまことに微妙に物語っている書き出しです。この書き出しの字で、日本書紀神代巻にも、これと大同小異のことが書いてあるわけなんです。ところがこうして天地創造時代を過ぎて、伊邪那美伊邪那岐美斗能麻具波比によって生れさせた神が天照大神ということになる。その天照大神からある程度の統一的な社会が形成されて、稲作等養蚕等も始められて、ここに「水母なす漂へる」時代から、やや安定した社会情勢になってきておる。これは記紀町方に出ている。そしてその次に出ておいでた天忍穂耳尊という神の次に瓊瓊杵尊という天孫降臨の神が出ておいでる。それから彦火火出見尊、磐命彦尊という順序で、神武天皇、すなわち神日本磐余彦尊に到達しておるわけですが、「水母なす漂へる」、「葦牙」のごとく、「浮脂」のごとくにただようた時代から、ようやく落ちついて、天照大神の君臨した時代に到達した。それから神代のいわゆる六代の時代を経て、神武天皇に立ち至った。その間の神話時代――神話時代というても、その次の大和朝廷時代と、これは同じ神話ですから、みな私は神話ということになると思うのでございますが、神武天皇以前の記紀に現われた時代は、建国の日を作るのに当ってどうお考えになっておられるか。それは国初めよりも以前の問題としておあずけにすべきだという想定であられたかどらかをお答え願いたいのであります。
  10. 纐纈彌三

    纐纈委員 ただいま古事記最初の文を御引用になりましたが、あの辺も、私どもきわめて浅薄であるかもしれませんが、結局いわゆる天地創造の説が、いわゆる雲霧説からだんだん天がきまり、土地ができ、草木がはえ、そうして人間が生きものの時代から――そうして面足神というようなことから初めて、可美葦牙彦舅神に至って、ほんとう人間ができて、そこで結局それらの大綱の中のこまかい点におきましては、今の天文学といいますか、何といいますか、から考えればどうかもしれませんが、大体論としては、私は今の天文学天地創造から人間ができるまでの間のことをきわめて明瞭に言い表わしておると思うのであります。それでその当時は、天然現象というものを一つの神格化しまして、結局もと太陽から出ておる。これはおそらく世界のどこでもそうじゃないか。太陽あるいは月というものを中心にしてだんだん出てきたところの神話伝説というものが唱えられてきたと思うのですが、あの当時すでにそういったところまで神話あるいは伝説で伝わってきたことがあるということになりますと、今日われわれの考えからいいましても、相当の文化が進んでおったのではないかと思うわけであります。天之御中主神がいわゆる宇宙の中心にして、それから天常立神、それから国常立神、それから豊国野神、それから国見野神ということになって、結局大戸之道神、それから吾屋惶根神というものができてきておるわけでありますが、そこで私はその神話時代のなには、考古学等によって古い時代がだんだんわかってき、この間も井上先生でありますか、五千年くらい前から、日本でも、とにかく人が住んでおったという話があるのでありますから、それ以前のことはどんどん考古学によって、学問的にも研究ができて、いろいろと明らかにされるだろうというのでありますが、ともかくも、今おっしゃったような神代時代を経て、神武天皇が天の子として大和に都をお作りになって、当時としてはあるいは部分的であったかもしれぬけれども近代国家から見て一つの国の形というものができてきたというふうに私どもは見ておるわけであります。従いましてその前の、そうした神話伝説というものも、もちろん私は国の成り立ち――もちろん今までの世の中の初めから終りなき、終りまで続いてきておるわけでありますから、そういうものがだんだんさかのぼればさかのぼるほど、いにしえのことがわかってくるのでありましょうが、とりあえず新しい今の状態からいきましても、神武天皇大和朝廷を作られて、そこで一応現代的に見て国家の体形ができた。そして御承知のように、日本大和民族でずっと続いてきておる。この間もちょっと申しましたけれども神武天皇の御即位の三年前のみことのりを見ましても、ほんとう平和主義であり、民主主義の理想のもとに国を立てていこうという御詔勅が出ております。そのために、いわゆる皇室一家を宗家として、国民がこれを慕い奉ったと。ほかの国では、民族が、もちろん古くから発達しておるわけでありますけれども、だんだんいろいろの民族が寄って、そこで結局闘争の時代が出てきまして、最初民族はほかの者に滅ぼされる。またその天下をとったのが、次にまたほかの者にやられるというようなことを繰り返してきておったのでありますが、日本歴史は、そうした支配者と支配される者との間には、すなわち皇室国民との間には、ほかの諸外国で行われておるような争いというものがなくして、ずっと皇統連綿として続いてきておるところに、私は、日本国柄のよさ、これは世界に誇るべき日本国柄であると、こういうふうに見ておるわけであります。でありますから、神武天皇一つの今のエポックとして大和朝廷を作られたということを、今日の日本の国の初めとすることは、必ずしも、私は無理でなく、むしろ自然ではないかと考えておるわけであります。
  11. 受田新吉

    受田委員 神代の、すなわち純粋の神話時代のことを、皇統連綿たる基礎的要件にこれを取り上げて、大和平定の日をもって紀元の日と定めたいという提案者の御意図のようです。少くとも私は、この日本書紀もとにせられ、古事記には大和平定日取りが書いてない。そこで日本書紀の方の、大和平定橿原即位の日をもってこれが暦的に現われた、日繰り的に現われた最初の日であるから、これを取り上げたということ、これは何ものかを根拠にしたいというお気持から、私は当然うなずけることです。しかし、もう一つまた深く考えていかなければならぬことは、少くとも伝説をある目標のもとに、信仰的にでもこれを具体的にしようということになるならば、国民を十分納得させるほどの用意が必要である。たとえば私自身におきましても、例のイギリスや、またアメリカ自身におきましても、クリスマスというのは、これはキリスト教もとに立つ祭日でございますが、こうしたキリスト生誕もとにした、あるいはその死亡もとにしたお祝い日があることを考えたときに、このお祝い日根拠が、やはりはっきりした科学的な実証のないキリスト生誕であり、死亡であるということを考えると、西欧国々の、キリスト教中心にした国々お祝い日にも、一つ伝説的な要素が入っておるということを、私は肯定しなければならぬと思うのです。これは日本の場合における過去の紀元節が、二月十一日をもとにしたことにもつながりがあるわけなんです。従って、ヨーロッパの国々アメリカ国々の中で、少くとも孔子や、釈迦や、あるいはキリスト中心にした祝祭日を持った国々の、そうした伝説的、あるいは少くとも科学的実証の明瞭でない日付をもって、この祝祭日を作った国々のあることも、これは否定できない。その点においては、全部実証される日をもって祝祭日を作らなければならないという根拠は、私自身としては、ある程度これを強硬に主張するわけにもいかぬと思うのですが、それは少くともその国のおい立ちその他を考えた場合に、ある程度宗教的要素を持ち、あるいは信仰的な立場から生まれた祝日というものが、世界国々にはある程度あるということは、私肯定します。しかし、日本の場合は、今ここに生まれかわった国として誕生したのである。従って過去の悲しい思い出をなるべく去って――その悲しい思い出というのも戦争につながる思い出、それを去って、純粋な日本のよさ、美しさを取り立てるような形の祝日を制定する努力が、新しい時代を背負う政治家の上に課せられた責務だと思う。だからこれから作ろうとする祝日の場合には、少くとも従来の古い観念を捨てて、新感覚もと祝日制定に当らなければならない、こう考えております。この祝日法律を制定する当時、小川さんがおいでになったらはっきりするのでございますが、二月十一日を紀元節にしようということを一度きめたということでございますが、きめたのじゃなかった。紀元節としては、二月十一日というのが、世論の結果においても、多数出ておるということをわれわれは検討をしたのであって、二月十一日を決定したんではなかったのです。それほどまだ、とにかく日取りについては問題があるというので、これを後日に検討をするということに持ち越したわけなんですが、そういう意味から申し上げますと、この二月十一日説というものについては、なお十分検討をする必要がある。今後できるだけ国民の多数の人々に知恵をかりて、国民の多数の人の納得のできるような形で、この日取りを決定すべき必要がある、こういうように考えるのです。   〔山本(正)委員長代理退席保科   委員長代理着席〕その検討をする必要がある上から、もう一つ当時の日本の置かれた国際的地位考えてみたいと思うのでございますが、西暦紀元前六百六十年という時代は、アジアの国々におきましては、孔子時代のちょっと前である。そうすると、そのころに、インドの国におきましても、お釈迦さんの御存在もあったわけだし、それから西欧諸国におきましては、ソクラテスなどの存在をした時代も前後するわけでございますが、そうした世界的な一つ流れから見ると、神武天皇という御存在が、孔子釈迦あるいはソクラテス、そういう世界的に指導的立場に立った非常な尊敬を受けた人々と対応する意味で、古事記日本書紀著者たちが、日本にもそうした英雄一つ考えていきたいという時代的な一つ流れがあったのではないか、こういうことも考えざるを得ぬと思うのでございますが、一つ歴史を作っていこうとする、歴史的大著述をやろうとする、そうした大きな意図をもって編さんを命ぜられた元明天皇のときの古事記及び元正天皇のときの書紀というものの編さん意図等考えて、何かそこに偉大な中心を持ちたいという心組みが自然に手伝ったのではないかというお気持は、あなた御自身の頭の中にもひらめくことではございますまいか。これは二月十一日説を御提案になられたあなたの結論に重大な影響のある判定資料になるので、お答えを願いたいと思います。
  12. 纐纈彌三

    纐纈委員 日本民主国家になって生まれかわった国だから、新しい感覚もとに制定されなければならぬではないか、その点は私どもまことに同感であります。ただ委員会では、お説のように結論も出たわけでもなかったのでありますが、とにかく委員長にまかせるという結論で、大多数は二月十一日でいいじゃないか、こういう御議論だったことはおそらく受田先生も御承知と思いますが、当時の議論の中心は、要するに科学的根拠がないということ、またほかにいろいろ天皇制の復活にひっかけてみたり、軍国主義あるいは侵略主義にひっかけてみた議論が、当時の速記録を見ても非常に多いのでありますが、私はこの前も申し上げました通り、神武天皇が国をお始めになったのは、絶対に侵略主義でもなければ軍国主義でもない、いわゆる平和主義であると同時に民主主義をとっておられることが、あの詔勅ではっきりいたしておるわけであります。そういう意味合いにおいて神武天皇の御即位というものが、たまたま歴史において日本書紀においてもはっきり日が出ておるわけであります。ただその点はっきりした根拠があるかどうかという点については、私はもちろん疑問がありますが、しかし一月一日に御即位になったということが、私は非常に意味があると思うわけであります。さような意味合いから、それを正式に逆算して持ってきたのでありますから、二月十一日ということがそういう意味でやはり生きてくると私は思うわけであります。そういうことから、当時の歴史編さんは舎人親王が中心になられたのですが、あの編さんの様子を見ましても、これは良心的に考えていろいろの説を取り上げつつ、はっきりしたものは決定し、はっきりしない異説等もあげて、これを決定しないままに持ってきておるという、この編集の趣旨から考えてみましても、私はそこに非常な政治意図があるかどうかということについては、必ずしも受田先生と同じような考えを持っていないのであります。   〔保科委員長代理退席委員長着席〕
  13. 受田新吉

    受田委員 シナの歴史書をひもといてみますと、これは孔子の誕生をBC五五一年としております。それからBC五六五年ごろ釈迦が誕生した。ちょうど神武天皇と前後するころであります。それで繊緯説の例の辛酉革命、つまり十二支十干、この計算で六百年目に一度起るというこの革命説などを基準にして、ちょうどこのあたりへ結びつけたらという一つの東洋、西洋の英雄的な中心人物を、神武天皇に持ってきたのではないかという想定もできるのではないかと私は思うのです。しかしそういうものを持つことは悪いというのではなくして、国民感情の上にそういうものが取り上げられたことは、日本国民の特性を物語るものとして納得ができると思うのです。ただここで繊緯説の辛酉革命方式をとるならば、一つ問題が起ってくるのは、記紀両方とも神武天皇のところは比較的詳しく書いてある。その次の綏靖、安寧、オン徳、孝昭、孝安、孝霊、孝元、開化天皇のところまで非常にざっと書いてあって、今度崇神天皇のところへくると、また四道将軍派遣等のくだりがこまかく書かれて、これが一つ英雄的な天皇ということになっておる。それからその次の垂仁、景行、成務、仲哀、応神天皇のところらに至って、やや具体的なことが書いてあるけれども、天皇の御在位は非常に長い。それから仁徳天皇の御在位も非常に長い。それから履中、反正、允恭、安康、雄略というようなところへいくと、もうずっと天皇の御寿命が非常に短くなってきておる。それからだんだん進んで武烈天皇までいくと、まるで暴虐無礼な天皇がおられて、とんでもない暴行をせられたので、ついにその天皇を断ち切って、およそ皇位というところからははなはだ縁の薄い形の継体天皇を跡継ぎの天皇として持ってきておられる。こういうふうに何らかそこに一つの創作といいますか、一つ国民的な感情を盛り込んだ夢の世界というものが、ちょいちょい中に入ってきたような印象を受けてならないのです。後漢の末に出た三国志、あの記事の中に魏志倭人伝、これは例の有名な卑弥呼という文句で出されておりますので、世に喧伝された書物でありますが、これは日本の悪口を書いたといえばそれだけのものでありますけれども、そういうものを見ましても、日本歴史と比較すると、そこに日本と朝鮮と漢国との間において、非常に飛躍した記事が出ておって、時代のずれがある。卑弥呼を日のみこだというふうに日本では解釈したらいいだろうというようなことをいっておりますけれども、とにかくこれもある程度のこじつけであろうと思うのでありますが、そこに根拠のはなはだ薄弱な想像がぐっと盛り込まれたような時代が相当期間続いておることは、これは否定できない。しかも古事記日本書紀のその記述の仕方が違う。いかがでしょうか、纐纈先生、そうした点におきましては、伝説の書き方にある程度の根拠ももちろんあっただろうが、しかし今度は国民感情一つ盛り込んで編さん意図などが、何か非常な印象的な人物があったところを大きく書いて、そうしてそれのなされた徳というものを非常に誇大に書かれるとかいうような編さんの仕方になったであろう。文書のなかった時代の、言い伝えだけを中心にした応神天皇十五年に、初めて漢字が入ってきたぐらいですから、その以前、漢字のなかった時代の言い伝えの中には非常な創作が入ってきたであろう、そうしてそれがある程度人為的に、その創作に付和雷同的な文句も入って、ここに記紀における日本の古代史が編さんされたということをお考えではございませんか。
  14. 纐纈彌三

    纐纈委員 今繊緯説、辛酉革命のお話がありましたが、あの当時は、御承知のように、民族がお互いに争っておりますから、ときどき小さい争いとか、そういうものはしばしばあったわけで、それをシナのいわゆる繊緯説によります辛酉革命論を持ってきたということが、日本紀元を引き延ばした一つの大きな原因になり、同時にあとからそれをあれしたということでありますが、これはこの前も稲村先生の質問に対して私はお答えしたわけであります。繊緯説というのは、その当時シナで行われておったのですが、日本でそういうものがほんとうに信仰的に考えられたのは室町時代でありまして、まだ少くともその当時は、日本ではそれほど信仰的にはなっていないということが一つ考えられるわけであります。そういうことで、それは必ずしも私は、日本紀元を引き延ばした有力な原因としてあげられておりますけれども、やはりこれに対しても全幅の信頼はおけないのであります。それから神武天皇から崇神天皇までの間はきわめて簡単であります。これはわれわれの祖先の系図を見ましても、またわれわれの祖先のことを聞く場合におきましても、相当そこで家を復興したとか盛り上げたとかいうようなことについては、非常に詳しくあれしますけれども、その次のものはほとんどあれしてないと同じで、しかもまた文字もないときの言い伝えでございますから、これも何も特別の意図があったとは私は考えておらぬのであります。
  15. 受田新吉

    受田委員 古代の文字のなかりし時代、またこれを後世に伝えるための紙もなかったという時代のことでありまするから、そこに創作も相当出るということは私はやむを得ぬと思うのでありますが、非常に簡単にした時代が長く、九代にわたって簡単に書いてあるということは、これは十分その簡単にした理由があると思うのです。その九代の開化天皇までをごく簡単にお名前とその御陵を書いておる程度のものであるということは、そこが空白期であるので、そこに欠史、つまり歴史が欠けておる時代であるので、何とかそこに名前をつけようというので書かれたと思うし、それから稗田阿礼のような博覧強記の人間がおって、歴代語部がおって言い伝えるという時代が続いたにせよ、何代も何代も語っていく間には、そのうちには一つの新しい創作が出たり、誤まり伝えが出たりして、とんでもないことになってくると思うのです。これはお互いの祖先を見てもわかる通り、何代も昔からの話をいろいろ知っておる人々というのは、きわめてまれなんです。それが膨大な記紀の著書となったということを考えると、これだけの文句を語るということは容易じゃないのですから、いかに博覧強記の人物であったとしても耐え得ないことですから、これははなはだおもしろいことなんです。だからこそ古事記日本書紀に非常な食い違いが起っておる。一方推古天皇までの古事記の方と、その推古天皇までの日本書紀とを比べても、たった一代の天皇の差異しかないにかかわらず、あとから加えた筆の書紀の方は、非常に創作的に美文麗句が掲げられて、古事記で簡単に書いてあるところが非常に長たらしく詳しく書いてある。これを見ても古事記日本書紀の二書の間においても、非常に編さんの方針が違って、あとから出た書紀の方に創作的な作文的な要素がたくさん取り込まれたということは、否定できないと思うのです。だから私は、ここでこの間小野先生も証言で申されたのでございますが、参考意見としてお聞きしたときにも、これは伝説の、伝二千六百年という形にしたらよかったということでございました。伝説のワクをはずれるものでないことは、これはもう紀元節を肯定される方方の大半の御意見だと思うのです。ところがもう一つの問題は、この記紀のほかに万葉、祝詞、宣命というようなものの中から、私たちは日本紀元に関連するこれらの上代、古代の社会情勢を見出す要素が発見できると思うのです。これは、祝詞などは明らかにあの壮厳な口調で当時の社会情勢を織り込み、一つの信仰的な社会の機構を表現した文句だと思うのですが、あの祝詞の文句などは明らかに古事記日本書紀伝説の、その当時社会的にもう流布された一つの信仰となったようなものが祝詞に出ておる。「高天原爾神留坐(タカマノハラニカムヅマリマス)、皇睦神漏伎命神漏弥命以(スメムツカムロギノミコトカムロミノミコトモチテ)、」というところから始まっておる、あの天照大神の前で素戔鳴尊が乱暴をされた当時の様子などを中心に書かれた天津祝詞を中心に、また六月祓、大祓、伊弉諾、伊弉冉尊の汚れを払うたことを中心にしておるというようなことから、これら祝詞の中にも日本の古代の様相が十分出ておる。だから一つのこれは信仰的な社会である、こう思うのです。また万葉になってくると、これはまた非常にやわらかいところが出ておるのでありますが、この万葉集の中にも、古い古事記日本書紀に出てくるような時代の歌がたくさん出てきておる。二十一代雄略天皇の御製が一番先に万葉集に出ておりますが、それを見ましても、第一巻に上げてある雄略天皇の御製のくだりには、その当時の皇室のあり方を具体的に示した文句がある。「籠もよ み籠持ち ふぐしもよ みふぐし持ち この岳に 菜摘ます児 家聞かな 名告らさねそらみつ やまとの国は おしなべて 吾こそ居れ 敷きなべて 吾こそ坐せ 我こそは告らめ 家をも名をも」こういうて歌ってある。かごを持ち、へらを持ってこの丘で菜をつんでおる娘さんよ、あなたの名は何というか。われはそらみつ日本の国を治める天皇である。あなたの家はどこか、こういうのです。天皇が地方巡視の際に道で草をつんでおる娘さんに、娘さんよ、あなたのうちはどこかと言う。これは実に民主主義のよく徹底した時代の天皇の姿を歌ったのが、あの万葉集の開巻第一です、こういうことを見ると、天皇の地位というものは今ごろのような民主主義、主権在民と同じような形で、きわめて平民的に、たんぼで菜をつんでいる娘さんに、おいこら娘さん、あんたの家はどこか、名は何というか、それほど平凡に書かれている。その記紀、万葉、祝詞の時代を乗り越えて、それだけ非常に具体的になった時代を乗り越えて神がかり的な天皇の地位に祭り上げたのが明治時代であり、大正時代であり、大東亜戦争の時代であったのです。これは、われわれはその点においては非常に残念でございましたけれども記紀、万葉の精神は実をいうと非常に平民的で、神と名はついていても、天皇を神格化するというような、そうありがたい雲の上人というものではなく、神様でも悪いことをするということがみな書いてある。この文章の中におどり出る皇室であろうと神々であろうと、なかなかたちの悪い人もおられて容易でないことが書いてあるのでありますから、これは非常に平民的な存在であったわけです。それをだんだん神格化し、雲の上の方へ押し込めるような形に後々の人が持ち込んでいって、特定の歴史学者やら国体明徴論者やら政治家やら軍人がそれを一つの方向へ持っていって、ついに天皇を特殊の現人神として尊敬し、紀元の日をもって建国祭とし、またこの日をもって国全体を、世界に誇り得る唯一の八紘為宇の大精神を発揮する使命を持つ、世界で一番ありがたい国であるというような方向に持っていったのが、このいわゆる最終段階における紀元節存在であったと思うのです。だから、今度の紀元の日を復活するということが、今私が申し上げたような形で犯されてきた従来のあやまりを復活させるのではないかという、特に国民の間で平和を祈り民主主義の成長をこいねがう人々の間で非常な疑義を持たれている。この疑問を解決しない限りは、国民あげて祝うという気持になれないことを御了承願わなければならぬ。今私が申し上げたような、古い伝説の中に、きわめて平民的に、きわめて素朴にうたわれた国民感情を神格化し、雲の上人のような形に、人間社会とは異なったもののように持ち込んでいった過去の政治家、軍人、学者等のそうしたあやまりを、纐纈先生ははっきりお認めになるか。またそういうあやまりの中から出た紀元節として、特に建国祭として、最終段階では今私が指摘したような事実をお認めになるかどうかをお答え願いたいのです。
  16. 纐纈彌三

    纐纈委員 私しばしば言っておるわけなんですが、今受田先生のおっしゃったように、神武天皇時代政治というものはほんとう民主主義的であり平和主義的であった。それが今お話のような形に、一部の人の政治意図か何か、とにかくあやまられたことは、私は非常に残念であったと思います。そこで、この神武天皇即位の日を祝祭日にして、ほんとうに今民主主義政治となり、また平和を皆が望んでおるわけですから、あやまった紀元節考え方をむしろこの機会にはっきりさせて、そうして神武天皇が国を始められた気持というものがほんとうに今日の民主政治平和主義にのっとっておるものであるということを、国民のために正しく考えさせていきたい、こういう点において、この紀元節を、二月十一日を祝祭日にすることは非常に意義があるのではないか、こういうふうに私は考えておるわけであります。
  17. 受田新吉

    受田委員 私は、あやまられた戦時中の紀元の日奉祝の意義が復活されるような印象を与えるというところに世論の反撃があるのであって、これを解決しなければ、今ここで強引にその祝日の制定をされても、これは逆効果が国民の間に発生するおそれがある、せっかくのお祝い日に旗を立てない国民ができる、隣の家で立ててもわしは立てないというようなことになってくると、祝日法律の第一条に、国民こぞって祝い、感謝して記念する日を国民祝日とすると指摘された法律の精神にももとることになる、こう思う。だからこの際、纐纈先生自身で、何とかして平和主義に徹底し民主主義に徹底したお祝い日としてこの日を理解せしめたいという御意図でありまするならば、その意図を十分国民に普及徹底させ納得させるようなある期間の努力期間が要るのではないかと思うのです。これは法案を出されたばかりで、まだ国民には、国会に法律案が出ているという程度の印象しか与えていないのでございますが、相当期間をかけて、国民こぞって祝い、感謝し、また記念する日を制定するという形をとることが順序ではございますまいか。
  18. 纐纈彌三

    纐纈委員 紀元節に対するあやまった考え方を直したいということで、この審議におきましても、私どもは、それに重点を置いて皆様方の御質問に答弁をいたしておるわけでございまして、国民がそういうことを十分に納得すれば、必ずこの祭というものが、あなた方が御心配になるような結果にはならないと私は思う。今日、御承知のように天皇は国の象徴となってきているわけでありまするし、民主主義が行われている。また、大東亜戦争の惨禍によって、戦争というものは全く国民が心にしみてこれを憎悪いたしておるわけでありまするから、一面においては、神武天皇の、また天皇がずっと続けられてきたところの、その民主政治平和主義気持を徹底せしめれば必ず国民はこのお祭についてくるであろう、こう私は考えているわけであります。
  19. 受田新吉

    受田委員 国民がついてくるであろうという期待が達成されないおそれを私は感じているのです。私自身におきましても、国初めの日を何とか設けたい、それがほしいなという気持は十年間持ち続けておるわけなんでありますが、この二月十一日が、何か過去の暗い陰のあった日だという印象を取り去ることができるならば、私は今ここで二月十一日に賛成をすることにもやぶさかでないのですけれども、現実においては、この二月十一日という日は、その日取りが、少くとも国民の中には深い憂愁の思い出として残されている日取りである。しかもこれが、神社庁その他の神様の奉祀をするという立場に立たれる神道の尊奉者の間において特に中心に取り上げられているというところに、一そう疑義を抱かれていると思うのでございますが、この紀元節復活の声が一般国民の間に起った国民運動でなく、神社関係の強力な提唱になったという印象を与えているということは、これはどういう行きがかりでございましょうか、お調べになったところをお知らせ願いたいのです。
  20. 纐纈彌三

    纐纈委員 やはり神社といたしましては、私が先ほど申しましたように、紀元節というものがそういった意味のものでなかった、そういうふうに考えられておるということはまことに残念であるから、やはり神武天皇が御即位になったそのほんとうの趣旨というものが平和主義であり民主主義であるというようなことが、誤まり伝えられてきたことに非常に疑念を起しておるわけでありますから、そういう意味におきましておそらく神社当局といたしましても、そうしたほんとうの姿をやはり国民に理解してもらう意味においてこの日を祭日とすることが必要だということを考えて、そういう観点から神社庁としては相当この点に重きを置いておることと私は想像しておるわけです。
  21. 受田新吉

    受田委員 この二月十一日にも全国的な紀元節の奉祝祭が各地で行われておるのでありまして、その奉祝をされた主催者はやはり神社関係で、ある特定の神社の前に集まられた方々がいわゆる右翼の部類に属せられる方々であった。そして郷友会――昔の在郷軍人会の中には、昔の軍服を召して胸にさんぜんたる勲章をつけて出た人もあるやに伝え聞いておるのであります。そういうようなことになると、紀元節というとこれは古めかしい昔をしのび慕う人々の祝う式だというようなことにもなるし、また天皇中心主義の思想を復活するような儀式にもなるという印象を与えるわけなんです。そういうような形でなくて、もっと平民的なもっと大衆と溶け合うような形で、民間行事として紀元節がどんどん復活しているというのであったら、これは国民感情の上にも非常な明朗化を与えて、二月十一日でも害はないじゃないかというような結論が出ると私は思うのですが、そこに何か指導をしておられる人の間においてまずいやり方をしておいでになるのじゃないかという印象を受けてしょうがないのであります。あなたは、最近紀元節復活運動を提唱されている諸団体の間において行われる行事に、何か疑義をお抱きになられたことはございますまいか。
  22. 纐纈彌三

    纐纈委員 ことしは御承知のように、各地において今までになく非常に奉祝大会が盛んでありましたが、もちろんお話のように、その中には右翼団体のものもありますが、そうでないものが相当たくさんやっております。ただああいう連中がちょっと変った格好をしておりますから、それがよけい目につく程度でありまして、参加の数なんかからいきましても、必ずしもそれが多いとは考えておりませんし、私どもはそういった右翼の連中のためにこの問題がまた誤まった形になっていくことについては、これほどこまでも防止して、ほんとうの正しい姿の紀元のお祭りにしたい、こういうことを心から念願しておるわけです。
  23. 相川勝六

    相川委員長 ちょっと受田さんの御質問に関連して、私も提案者に質問をしたいと思いますので、お許しを願いたいと思います。  先般来、受田さんの御質問を聞いておりますと、日本皇室の本来のお姿というものはきわめて庶民的な、平和的な、民主的な存在である、それが明治以来と申しますか、ことに大東亜戦争が近づいてから妙なふうに陛下を神格化して、そしてひいてはそれを利用して侵略主義的な空気紀元節を通じて盛り上げたのじゃないか、こういう御質問のようでございまするが、それに関連いたしまして、私もその本質的な受田さんの御質問にはまことに共鳴する一員でございます。日本皇室というものはそうあらなくちゃならぬと思うのであります。ただ昔の日本と比べて現在の日本は、国家体制が広くなって機構が膨大になったものだから、陛下の御本質は依然としてそうであるけれども、陛下が身軽に一農民の間にもお入りになって世間話をなさることができないということをまことに遺憾に思う。しかし今度この建国記念日ができた場合に、何かしら今受田さんの言われたような、皇室の御本質を自然に表わすような、日本の国の初めというものは決して侵略主義でも何でもない、きわめて民主的な庶民的な平和的な日本であった、これが国の初めであるということ、従来紀元節にややもすれば右翼とか何かが一部利用しておるような空気を是正して、全国民の平和的なお祭りができるように、提案者はこの紀元節の式典のやり方について何か御考案がありますかどうか、その点を一つ御質問いたします。
  24. 纐纈彌三

    纐纈委員 受田先生の御質問に対しまして私は御答弁いたしておりまするような気持で、建国の記念日を国民全体が祝福してもらいたいということでございますので、今具体的にどういうふうにするかという問題は、まだこれがきまりませんのであれでございますが、少くともこれが幸いにしてきまりますれば、私ども考えた方向でこの紀元というもののほんとう意味国民全体にも十分徹底させて、そして国民がなるほどと納得するような意味合いにおいての祭日に持っていきたい、こういう考え方は持っておるわけであります。
  25. 受田新吉

    受田委員 私はこの紀元節の行事に関して今お尋ねしておったわけでございますが、委員長からその行事について民主化をはかられればいいのじゃないかという御提案があったわけであります。この行事の問題は、今度祝日ができた場合における行事であって、今やっている行事というものは、民間が今事前に騒ぎ立てている紀元節復活運動の行事とまた意味が違うのです。今やっている行事というものは、あなた方が今後紀元節はそうあるべきだと考えられる行事とは違った方向に進んでおる。この二月十一日には神武天皇の格好をした神が現われた写真も出ていたことを御記憶にとどめておられることと思います。そして今の景気は神武景気だ、神武以来の景気だ、ところが神武景気は最近修正された。神武景気というものは天照景気である、天の方だけを照らして、富裕階級の方だけ日が照って、下の下々には日が照っておらぬ、天照景気すなわち神武景気であるということを今下々の生活をしている人々は嘆いておる。こういうようなことでは、紀元節の復活が特権的な階級の意欲を満たすための復活運動になり、大衆の中に溶け込む運動でないということになったらこれは大へん悲しいことになる。私が心配していることは、今の紀元節復活運動を提唱されている方々の主流が右翼団体ということである。むしろ大衆の中から国を始める日を作りたいという声を巻き起させて、それを調和させてそれがぴったり二月十一日になってきたら、それはけっこう二月十一日で国民全部が納得して祝う日でありますから、与党も野党も異議がないということになり、国民も異議がないということになれば、そのときにはめでたしめでたしで二月十一日で私はけっこうだと思うのですが、現状における二月十一日というものは、遺憾ながら紀元節復活運動をやり、二月十一日を祝っている人々のあり方そのものに、きびしい批判を加えなければならないような事態に今なっておるのです。だから紀元節を今後こういう形で行事をしたいという、提案者が何かそこに行事的な用意をされておられれば、それも承わりたいのでございますが、この間和歌森先生も、この紀元節の復活を契機として、紀元節のいわれを学校の訓話などで説明する際に、自然に神がかり的な、高知県のあの某校長のような熱情ある校長が出て、子供に復古調の精神でも鼓吹してくれたならば大へんだという心配をしておられたのです。心配はそういうところです。そこに神ながらの道を唱え、皇室至上主義を唱えるような、いにしえの日本社会機構を復活するような形にならぬように、また憲法を改正して天皇の地位を高めようと考えておられる政府与党の方針と、この紀元節復活とが一致したような形に印象せられては困るので、それとは別なんだ、憲法改正とは違うのだという形でこの提案をされていなければ、これは国民が納得しないのです。それはいかがですか。
  26. 纐纈彌三

    纐纈委員 私どもは、これは憲法改正とからんでいるなどとは全然考えておらないのであります。今受田先生おっしゃいましたが、学校の教育で私どもの耳に非常に入っておることは、直接先生から教わったという人の話を私は相当聞いたわけでありますが、今日本歴史はまことにでたらめだというようなことの説が相当強いのですけれども、これは絶対に定説じゃないと私は思うのです。従って学校などで教科書の扱い方は、大体推古天皇、聖徳太子の辺からだけが出ておる。これは文部省から今説明員が来ておられるから、その辺はお聞きになればわかると思うのです。ところが歴史の時間に、紀元節なんというものは全然でたらめだ、そういうことを積極的に教えられている学校の先生が相当あるということも、一つ受田先生よく御承知を願っておきたいと思うのです。そういうふうにゆがめられて、ことさらにこれを誹謗するために、そういうきまってもいないことを若い子供たちに、ことにそんなものはでたらめで架空のものだ――これは架空のものであるかどうかということについては、私どもはそんなに先生たちがおっしゃられるようにはっきり言いきれないと思う。これはやはりもう少し学者の研究に待つべきものであって、そういうやり方を一方でやられておることのあることも、私どもは非常に遺憾と思うわけであります。やはりだんだん国民が落ちついてきて、お互いに日本の国というものを振り返ってみる時分には、神武天皇即位ということ、その日を紀元とすることでありますが、この紀元は、御承知のようにヨーロッパの紀元でもヘジラの紀元というものでも、要するに歴史家が初めなき初めから終りなき終りに至る時の流れ一つのエポックを作る問題でありますから、何もそれが必然に軍国主義であるとか侵略主義に結びつけられる性質のものではないと思うのです。お祭り自体というものは、それがたまたま受田先生のおっしゃったような形のことが、あるいは大東亜戦争によっては行われておったかもしれませんけれども、私は絶対に紀元を祭るということはそういう意味のものではないことを、提案者としては確信しておるわけであります。
  27. 受田新吉

    受田委員 文部参事官斎藤さんがおいでになっておられるのですが、あなたは前に安藤正純文部大臣のもとに仕えられたことがございますね。安藤さんはなかなか気骨のある文部大臣であったと私は思うのですが、安藤さんが、紀元節の復活ということには触れられないで、こういうことを言われたことがあるわけです。小学校の社会科を改める大綱の中に、いろいろな要素を掲げたのでありますが、その中で、憲法における天皇の地位を十分明らかにするようにすべきだ、そして国民祝日についてはこの認識を一そう深め浸透させるべきだという発言をしておられるのを御記憶しておられると思うのです。この安藤さんの――三十年の鳩山内閣のときの二月十一日の紀元節にそうした文部大臣の談話があったわけです。この談話はあなたは耳にしておられますかいかがですか、お答え願いたい。
  28. 斎藤正

    ○斎藤説明員 お話の点は、ちょうど安藤大臣御在任のときに社会科の改訂をいたしました。その中で、特に道徳教育の問題あるいは国家に対する考え、あるいは今おっしゃいました憲法に現われておりますところの天皇の地位というものについてはっきりさせるべきだということで、学習指導要領が改訂になったわけであります。
  29. 受田新吉

    受田委員 その中に国民祝日についての認識を深めさせるという意味も出ておるし、その趣旨徹底のために文部省自身が十分乗り出されるという大臣の意図をどういうふうに具現しておられるか。具体的に申し上げます。憲法記念日は五月三日である。この憲法記念日を各学校等においていかように奉祝するか、その具体的な通牒を文部省は毎年日本国憲法における天皇の地位を深めさせるという当時の安藤文部大臣の趣旨を体していかように徹底せられたか、毎年いかような通知を出しておられるか。各学校に対する国民祝日、最近行われた祝日の趣旨徹底のために出された文部省通牒を、一つお示しを願いたいと思います。
  30. 斎藤正

    ○斎藤説明員 学校における祝日の行事につきましては、昭和二十五年に、これは天野文相の時代でございますけれども、御承知のように、祝日の行事について談話を発表いたしまして、これを学校に通達いたしました。その要旨は、要するにそれぞれ祝日の意義を徹底させるために、それにふさわしい行事あるいは訓話等、学芸会、展覧会、運動会等の行事をし、その際国旗を掲揚し、国歌を斉唱することが望ましいということを出したのでございます。これが文部省における祝日の行事に関する通達の態度のまとめたものでございます。その後学校に対しまして、祝日の行事の方法については通達いたしておりません。
  31. 受田新吉

    受田委員 通達しておられないそうですね。そうしますと、国民祝日に対して学校がいかにこれを祝福しているかという具体的な事例の実態調査はしておられますか。
  32. 斎藤正

    ○斎藤説明員 実はその前に、昭和二十四年だったと思います。私記憶でございますが、国民祝日は文部省限りのことでございませんで、相関するところが非常に多うございますので、たしか次官会議で、各種の祝日の行事につきまして参考の案をまとめて通達いたしたことがあったように記憶いたしております。それが具体的な内容でございまして、それに対して特にまたさらに注意を喚起したのが、昭和二十五年十月十九日の文部省の通達でございます。その後祝日の行事の方法等について、特に集計してどうかということを私存じません。していないのではないかと思います。
  33. 受田新吉

    受田委員 そういうありさまでは――文部省として各学校における祝日の取扱いに関しての集計をしておらないようなことでは、文部省の任務は遂行されておらないと思うのです。少くともこの国民祝日というものは、法律になっておるのです。昭和二十三年の法律第百七十八号として、この国会の意思をもって施行の責任は政府にある。その最も趣旨徹底をはからなければならない政府の中において、担当をしておるのは、一番関係の深い分野は文部省である。厚生省もあるし、いろいろあるけれども、とにかく学校とか、その他社会教育上における問題を総合してみると、文部省の担当分野が一番広い。その一番広い文部省が、昭和二十五年に一度通達を出して、それから何にもしておらぬ。各学校は何をしておるか、さっぱり集録をしておらぬ。そういうことで国会の決定による法律の施行の責任にある政府としての責任は果されますか。斎藤総務参事官の責任、あなたは政治的責任がありますか、ないですか。政治的な発言ができなければ大臣を呼ばなければいけませんが、一つ大臣とかわって答弁できればお答え願いたい。
  34. 斎藤正

    ○斎藤説明員 その前にちょっと一言お断り申し上げますけれども、従前、戦前は学校における行事等もかなり祭日等、具体的に学校を拘束するような命令を定めておったわけです。現在学校を直接責任をもって所管しておりますのは、これは御承知の通り教育委員会でございます。教育委員会がそれぞれ適当だと考えられる行事を、これは祝日のみならず、学校教育の一環としてなされるのが建前でございます。従いまして、文部省は祝日の意義が十分徹底されるように、いろいろ行事をお考え下さいということを、二十五年に通達いたしたわけでございますので、その趣旨に従って教育委員会がそれぞれの責任において、適当な行事を実施しておることと、かように考えております。
  35. 受田新吉

    受田委員 高知県で某校において紀元節の式典をやった。そのことについて清瀬前文相は、別に差しつかえない。ところが国民祝日として法律で定めた日には奉祝をしないで、何ら国の祝日と関係のない日に勝手に奉祝するという、そういう得手勝手なことを放任するような文部省として、道徳の基準を明らかにして教育の大綱を握っておらなければならない文部省として、地方教育委員会の自主性に待つという逃避的な立場からのみ、この責任の逃避をしているやり方は許されるかどうか、あなたとしてもお答えができると思うのですが、明快な御答弁を願いたいと思います。
  36. 斎藤正

    ○斎藤説明員 文部省といたしましては、それぞれ祝日の意義を徹底させるためにふさわしい行事が行われることを期待し、さようにしてくれということを教育委員会に通達しておるわけでございます。この祝日以外の行事につきましても、これは国民がそれぞれお祝いになるということについては、文部省がとやかくいうべき筋合いのことではないと思います。また郷土に特有な行事あるいは国家の行事でも、教育委員会が教育上適当なりとしてお認めになることを、学校でおやりになるということも、一がいに文部省がどうこう申すべき筋合いではなかろうと思うのであります。ただ学校教育以外に社会教育の部面も、文部省が担当しておりますから、お手元に資料に差し上げましたように、ちょうど春のいろいろ祝日の重なり合いますとき、あるいは特別新たにいろいろな要素が加わって参りましたものにつきましては、それぞれ主管局において通達をいたしたことがございます。しかしながら学校における行事につきましては、先ほど申し上げました一般的な通達の趣旨に従って、教育委員会はそれぞれ責任を持って実施されておることと、かように存じておるのであります。(「その通り」)
  37. 受田新吉

    受田委員 その通りという声が真実なる友人から出てきたわけですが、その通りじゃないのです。少くとも日本の教育の実態を中央集権にすることにわれわれは反対してきておるのではあるけれども、各学校で国民祝日は奉祝しないで、ほかの日に勝手に子供を休ませて式をあげるというようなことを、それは教育委員会が勝手にやっておることであるから、よろしいのだ、文部省はこれを放任しておるという形のあり方というものを私は納得できないと言うておる。
  38. 斎藤正

    ○斎藤説明員 現在国民祝日に関する法律で規定してあります祝日は、その意義がかなり多種多様であると思います。ですから、これを一がいに学校で全部の祝日に生徒を集めてやるのがよいものかどうか、それはいろいろ判断があろうと思います。国民感情といたしましても、たとえば春のお彼岸の日、現在生物をいつくしむという意義になっております。これをどういうふうにやるか。式をやるかやらないか、これはいろいろお考えが各人にあろうと思います。ですから、文部省といたしましては、国の祝日に関しましては、それぞれの祝日の意義、それぞれ違っておると思いますから、それにふさわしいような行事をなさるのがいいということを通達しておるわけでございますので、その点は必ずしも祝日に一斉に行事をやれ、そういうことを文部省として申すべきことではなくて、それぞれふさわしいことをおやりになる、これが一番いい方法ではないかと思うのであります。  なお祝日以外の行事につきましては、学校としていろいろ地方によっては学校教育の観点から好ましいもの、あるいは郷土との関連でやって差しつかえないもの等いろいろあると思いますので、それは国民が各人でお祝いするのと同じように、児童でありますれば、児童の父兄にかわる教育委員会がそれぞれ御判断になってやるということは差しつかえないのじゃないかと思います。これは教育委員会の御判断にまかしておいていい。ただ、学校が祝日でないのに、教育委員会考えも聞かないで、独断でいろいろのことをやるということは、いろいろ問題があろうかと思いますので、その点はよく教育委員会が学校の行事についても注意をしていただく、こういうふうに考えております。
  39. 受田新吉

    受田委員 行事というものは、私もしばしば申し上げる通り、祝日にはつきものです。行事を伴うて初めて祝日をお祝いする気分が出るわけです。従って学校でやろうとどこでやろうと、別に儀式をやって行事を満ち足りたというわけではない。これは家庭でやってもいい、社会でやってもいいし、何でやってもいいわけです。ただ私が申し上げているのは、国民祝日として休むべき日でもない、法律で休日とすると書いてない日に儀式を勝手にやる、紀元節奉祝をやるような学校も現われておる。こういうものを放任して、せっかくの祝日の趣旨徹底を怠っているやり方を、私は今指摘しておるわけなんです。
  40. 斎藤正

    ○斎藤説明員 私、ちょっと言葉が足りませんでしたけれども祝日として定められない日に授業を休むということは、よくないことでございます。でございますから、この前紀元節の行事を行なった学校がありましたときも、文部大臣といたしましては、学校の授業を休むということはよくない、学校の授業は正常の通りやって、もしそれぞれ郷土等の関係でふさわしい行事で教育上意義があり、あるいは教育上差しつかえないようなものについては、授業に差しつかえないようにやってもらいたい、こういうことを申されたわけでございますので、先生の申しますように、祝日として法律で定められておらないのに休んでしまうということはよろしくないと思っております。
  41. 受田新吉

    受田委員 先般、岸内閣総理大臣が郷里へ帰られたわけですが、その際に奉祝の意味で学校の生徒がお出迎えに行くという形がとられたわけです。授業を休んで歓迎のために職員生徒がこぞって出かけるということは、勤務上にどういう事項によって認められておるのか、お答え願いたいと思います。
  42. 斎藤正

    ○斎藤説明員 私具体的な事実を存じないのでございますけれども、現在学校教育法の施行令、それから施行規則には、それぞれ教育委員会なりあるいは学校長なりが特別の事由ある場合には授業の変更をする権限も認められております。どういうふうに一年の授業というものをやりますか、それは権限ある教育委員会の判断によってある程度の変更はできるようになっておるわけでございます。ただ具体的な場合を存じませんので、その件については私ははっきり申し上げることはできません。
  43. 受田新吉

    受田委員 これを私が指摘したのは、今こちらからメーデーに先生が休んで出ることに対する意見が出てきたわけなのです。メーデーに休んで行事に参加するという先生もあるということでございましたので、総理大臣を迎えるために学校をあげて授業を休んで、職員生徒が歓迎に出るという実例を申し上げたのです。こういうことについてお互いある程度の融通性というものを認めていいということも、それは実際の学校運営をする上に、私たち自身も体験した問題なのです。しかしながら事をあまり厳重に考え過ぎて、教師の勤務の拘束をするような事態が、最近において佐賀県の事件を中心にして全国にこれが燎原の炎のごとく燃え上ろうとしている動きもあるわけであります。こういうことを考えますと、何だか祖国の前途に権力の乱用、時の政治勢力によって正義の声さえも押えられようというような、まことに悲しい事態が起りかけておると思うのです。このような事態の中で、せめて私たちは国民祝日というような意義のある、国をあげて祝うようなこの日には、その祝日の趣旨を全国民によく徹底をさせ、そうして国民こぞって祝い感謝し、また祈念する日としてこれを意義深く送りたい、こういうように考えておる。しかるにその一番大事な祝日の趣旨徹底の衝に当る政府の中の最も中心官庁である文部省が、趣旨徹底を怠っておる、そうしてどういう行事をやっておるかという収録さえもしておらぬ、こういう怠慢では、国会で通った法律の精神を文部省自身が踏みにじって、その施行の衝に当っておる責任官庁としての責任を果しておらぬ、かように断定しても仕方がないと思うのですが、お帰りになられましたならば、明日合同委員会がありますので、灘尾文部大臣にその責任ある答弁をこいねがいたいとお伝えを願いたいと思うのです。  午前中の質問はこれで終りにいたしまして、午後あらためて質問を続行さしていただくことにします。長時間御苦労様でございました。
  44. 相川勝六

    相川委員長 午後一時三十分より再開することにし、これにて休憩いたします。    午後零時二十六分休憩      ――――◇―――――    午後二時二分開議
  45. 相川勝六

    相川委員長 休憩前に引き続き会議を開きます。  国民祝日に関する法律の一部を改正する法律案議題とし、質疑を続行いたします。受田新吉君。
  46. 受田新吉

    受田委員 この祝日法律は、終戦後初めて法律の形式で生まれたわけでございますが、それ以前は、太政官布告の形で明治の初年に出て、しかも四大節という祝日と大祭日と、この二つに分けて国家の儀式は行われたわけなんです。法律をもって制定した現在の祝日と、従前の太政官布告のような形で命令をもって出された祝日、大祭日との相違を、当時社会教育局長として、文部省における重要な地位におられた纐纈先生は、どのようにお考えになられましょうか。お答え願います。
  47. 纐纈彌三

    纐纈委員 戦後になりまして、法律は国会であれするようになり、勅令だとか太政官布告とかいうものがなくなったことは御承知の通りであります。さような意味合いにおきまして、いわゆる法令として明治時代は――憲法を中心にして、もちろん法と令と重さは違っておったと思いますが、それを行う場合においては、憲法は別でありますが、勅令であるとか太政官布告だとかいうようなものは、扱い方としますれば、大体今の法律と同じような形に行われた。ことに戦後の法律の範囲内には、政令であるとか、あるいは勅令であるとかいう性質のものが相当含まれておるわけでありますから、まあそういう意味において、法律できめる範囲というものは非常に広くなっておるわけだと思います。そういうことで、形式からいけば法律あるいは勅令、政令というようなものの差別もあったのでありますが、実質からいえば、戦後の法律の中には、いわゆる法律以外のそういったものと大体同じ重さを持っているのがあるのじゃないですか、まあそういうふうに私は思います。
  48. 受田新吉

    受田委員 私は日本民間行事の発達史――柳田国男さんは有名な民俗学者でありますが、柳田さんの出されたいろいろな著書、また私は柳田さんにも直接会っていろいろ意見も聞いてみたのですが、民間のあの自然のうちに発生した行事というものは、非常に根強いものがある。その民間の中から自然発生的に生まれた行事、しかもそれが長期にわたって継続され、国民全体が祝い祭っておるという、こういう行事を尊重する政治は必要なことだということは、私も同感なんです。そこで平安時代ころから特に五節句等が、宮中を通じて、地方の有識者までも含めてだんだんと浸透してきて、いわゆる五つの節会として明治の初年まで持ち続けられてきた。それはほとんど法律や命令に該当するほど大きな効果を持っておった五つの節会であったけれども、この五つの節会を形の上で廃止して、三大節と大祭日を設定した明治の初年の太政官布告というものは、新しい国作りとしての一つ政治意図があったと見てさしつかえないと思うのです。あの祝日、大祭日を太政官布告で出された内容を見ますと、神嘗祭、新嘗祭、元始祭、こういうものは完全に神道につながりを持っていた祭日です。また先帝のなくなられた日をお祭りする、明治時代で言いましたなら孝明天皇祭、大正時代では明治天皇祭、こういうようなものは、これは明らかに皇室中心主義のお祭り日である。従って、民間に長期にわたって成育してきたこれらの行事、国民をあげて、上下の分ちなく祝い祭っておったこの行事を、国の祝祭日として指定しないで、単に民間で勝手に祝う行事に転落せしめて、皇室中心主義、神道中心主義とに転換させた太政官布告の祝祭日の制定は、これは結局政治的な意図で、新しい国作りを計画した現われである、かように見られても仕方がないと思うのです。民間行事尊重の観点から見た太政官布告の性格を解剖した、社会教育局長の前歴を有せられる提案者纐纈先生の御見解をただしたいと思います。
  49. 纐纈彌三

    纐纈委員 ただいま受田先生のおっしゃった神社中心あるいは皇室中心というようなお祭が、明治節において中心になったということについては、大体その祭の内容から見まして、そうした意味が含まれておると私は思うのでありますが、これは、御承知のように、王政復古の問題がありまして、徳川時代からああいう明治維新というものが行われて参りまして、そうして今後先進世界各国に任していくためには、やはり一つ国民中心というものを持っていかなければならない、しかも幕府を倒して天皇親政の制度に持っていった、そうした明治維新の性質から、これは当然のことであると思います。日本は昔から神の国といわれておって、いわゆるまつりごととは、政治とお祭が一緒になってきたというのも、これは古い伝統でございますから、そういうような関係からいたしましても、この神道をある程度中心にしたようなお祭が国祭日としてきめられたということも、あの当時の情勢からいけば当然のことであります。外国にも国民祝祭日があるということで、各国に先覚者が行って参りまして、外国の方の様子も聞いてみて、ここでやはり国論を統一し、挙国一致の体制に持っていくためには、そうした外国の例を考え国民全体のお祭を作るということも、当時の行政のあり方からいけば当然でありまして、従いまして神道中心あるいは皇室中心というようなことも、日本歴史のありきたり、またまつりごとが同じ形でとり行われたという観点からいって、当然そういうところへ落ちついたものと考えております。
  50. 受田新吉

    受田委員 当然落ちついたと考えられておることに、纐纈先生一つの御性格が現われておると思うのでありますが、明治六年の一月に公布せられました太政官布告第一号には、次のような文句が書いてあります。ちょうど明治六年に改暦をしたわけでありますが、「今般改暦ニ付、人日、土巳、端午、七夕、重陽之五節ヲ廃シ、神武天皇即位日、天長節ノ両日ヲ以テ、自今祝日ト被定候事」という規定になったわけでありまして、長期にわたる民間行事を廃止したのであります。ことに平安時代から鎌倉、室町、江戸時代、ことに江戸時代においては、もう五つの節句は完全に国民祝日的性格を持って、上下の分ちなく、これを祝い、祭っておった。こういうものが一朝にして神武天皇即位をされた紀元節、それから天長節、元始祭、神嘗祭、新嘗祭というふうに、結局神道中心主義の形のものにこれが改められた。しかも新年というものは四方拝で、これまた上代から続いた神式によるところの儀式が、新年の行事としてとり行われておったのでありますから、結局三大節といえば、新年、紀元節、天長節、三つともこれは神ながらの皇室中心主義のお祝日であって、何ら民間行事と関係なかった。それが突如として新しいお祝日が誕生したわけであります。これは非常に重大な問題であって、私たちが上代からの史実などをつまびらかに検討したところによっても、ことに公事根源などによって、ああいう宮中の中に行われたいろいろな行事などをひもといてみても、少くとも単に神を祭り、皇室の祖先を祭るというのみの行事でなかった。今民間で盛んに行われておるお節句その他の――宗教的に言いましたならば、仏教上のいろいろの行事が取り入れられて、国民のお祝日として尊奉されてきたのです。そういうものを放棄して、単なる布告でこれが改正されたというところに、明治の祝日、大祭日決定の一つ政治的な方向を見出さざるを得ない。結局先ほど纐纈先生のお説の中にありましたような当然の決定だということでなくして、明治初年の広く会議を興して万機公論に決するという比較的民主主義的な宣言はされたけれども、明治親政の一つの方向として、その裏づけとして皇室を大事にし、神ながらの道を強調するための手段として明治政府の大布告が明治初年のこの祝日、大祭日の布告であったと私は思うのです。こういう点は率直にお認め願えばせぬかと思うのです。
  51. 纐纈彌三

    纐纈委員 五節会のごときは昔から行われておったのでありますが、ただいま先生もおっしゃったように、これは相当宗教的な色彩が濃厚であったものでございます。そこで新しく明治維新を行なって、天皇親政の形に持っていった、その維新というものの性質から参りまして皇室中心のお祭がきめられたということも、これは当時の為政者の気持からいけば、私は自然の行き方であろうと思うのであります。神道というものはいわゆる神ながらの国である。先ほども受田先生がおっしゃったように、神話伝説というものが重なってできて、日本は神の国であるということは、いろいろの古くからの文献にも出ているわけでありますから、そういうことと、もう一つは、さっきもちょっと触れましたように、欧米各国を視察して参りましたときに、こういった性質のものがお祭に加わっておる、こういうようなことからいきまして、五節会が宗教的の色彩があまりに濃厚であるために、一応今日の国家をなした基の日をお祭する、それからまた誕生日というものは、和歌森先生もおっしゃったように、名前は違っておりますけれども、昔から外国ではどこでも行われておって、こっちは新しいということを言われたのでありますが、そうした先進国のいいところをあれして、皇室が天皇中心のお祭りを行なったわけでありますから、天皇誕生日を天長節としてお祝いする、こういうこともやはり自然の成り行きであったかと思うのであります。だからそこに、やはり明治維新の性質からいきましてそういった気持が現われてきたことは、私も政治意図があったかどうか知りませんが、維新の性質からいきまして、自然そういう線に持っていかれたものと私は考えておるのであります。
  52. 受田新吉

    受田委員 宗教的な背景がこうした祝日の上に影響していることは、ことに英国の祝祭日などを見てみますと、明らかにキリスト教に関係した宗教的な祝祭日の網羅されたものと言っても過言でないと思うのです。またフランスにおいてもキリスト教関係の祝日が幾つも出できておるし、先ほど申し上げたアメリカでさえもクリスマスという祝日がある。これは明らかにクリスマスをお祝いするためのキリスト教の精神から出た祝い日である。従って、こうした国々の宗教的な祝祭日のことを考えると、日本に宗教的な感覚から出たお祝い日があっても差しつかえないようにも思うのであります。しからば日本の国は神道中心お祝い日をなぜ取り上げたか、つまり今まで、明治から大正、昭和にかけて続いた祭日が神道中心であった理由はどこにあったかということになると、これは天皇をあらひと神として、神としていつき祭る精神と表裏一体した皇室の神格化というところに出発点があったと思う。その神と人との神人一体という観念を打破して、天皇はやはり人間であるという人間宣言をされた二十一年一月一日のみことのり以来生まれ変った日本であるという考えならば、神道一木やりの従来の祝日の性格は、日本の場合においては当然変えなければならぬと思うのです。ことに日本歴史をひもといてみると、欽明天皇以来、仏教が日本に入ってきた。それ以来、推古朝においては、聖徳太子みずからが仏教の精神による十七条の憲法を制定せられて、しかもこの憲法は道徳的な憲法としても後世長期にわたって尊崇を受けておる。奈良朝の天皇は相次いで仏教の尊崇者であり、また中央に東大寺を置き地方に国分寺を置いて宗教をもって国是とせられておる。天皇みずからが仏教に帰依せられ、また女帝であった孝謙天皇は後に仏道に入られて尼になられる、こういうことがあって、私たちのお国の国柄からいいましても、仏教は相当皇室と深いつながりがあったわけです。ところが宗教のうちでは神道だけが、明治以後にそうした祝日、大祭日に取り上げられて、仏教の要素は全然取り上げられていない。西欧においてはキリスト教祭日が取り上げられておるにもかかわらず、日本では神道だけの祝日、大祭日が取り上げられてきた、ここに私は一つ問題点があると思う。いかがでしょうか、四月八日の釈迦降誕祭とかあるいはお盆とかいうような仏教に関係した民間行事はありましたけれども、それは国の祭日としては取り上げられなかった、日本の近世の祝日祭日の制度を見たときに、日本の置かれている政治的な性格は神を中心とした政治である、祭政一致、政治は常に神を祭ることにあるというところに問題があった、かように私は考えるのでございますが、先生もそうお考えでございましょうか。
  53. 纐纈彌三

    纐纈委員 祭政一致の問題は、神武天皇即位のときの詔勅にもやはり天つ神のいつくしみにこたえんというような言葉が出ておりまして、やはり神を中心として祭政一致のまつりごとがずっと続けられてきた。その国柄が、ああいうふうに明治以後において日本歴史を尊重する意味におきましても、そういうことになったのでございましょうし、もう一つは、物部、大伴時代には、御承知のように、仏教が伝来いたしまして相当な争いができたわけでございます。そして聖徳太子は、御承知のように、非常に明敏な方でもあったのでございましょうし、当時はシナというものが東洋での先進国であって、その制度というものは相当取り入れられて参った。それで聖徳太子みずから非常に御信仰なさっておったことも史実に明らかなことでありまして、いろいろ天皇もみずから仏教を御信仰になって、奈良の東大寺なんかもそういうことで作られておるわけなんですが、それにもかかわりませず仏教が思うようにあれしなかったというような関係もございまして、いわゆる神仏混淆というような説が出て参りまして、今日でも古い神社仏閣におきましては、神社においても四天王が山門にあるとかいうようなこと、また仏様のお寺さんにもそういったようなものがあり、また神社には神宮寺というものがあり、お寺の方で神社をお祭りする、こういうようなことがあって、古くから伝えられてきたところの神を信仰するということは日本国民の中からなかなか牢固として抜けない。今日では宗教法人ができまして、神社というものは仏教、キリスト教と同じような形に行われておりますが、明治時代は、御承知のように、神社行政というものが特別にあったのであります。今日でもなお、仏様を祭りながら鎮守のお祭りには仏教の人もキリスト教の人もお参りに来る、こういうような国柄でございますので、そうした日本国民感情考えてみまする場合において、やはり御説のごとく、仏教に特別関係が深かったというようなものが、むしろ神を中心にし、皇室中心とした国民のお祭りから離されて、祝祭日に決定されなかったというふうないきさつがあるんじゃないかと私は想像いたしておるわけでございます。
  54. 受田新吉

    受田委員 仏教の精神を押えて神道の精神を強めた、しかもその神道はいわゆる神社神道の意味ではなくして、国家神道を中心考えていった。従って纐纈先生が局長をしておいでだったころは、まだ神社局でしたが、内務省には神祗院といういかめしい役所があったわけです。そういうことで国費をもって官幣社、国幣社、さらに別格官幣社、こういうふうにして神を祭ってきた。そしてしかも今度紀元節の、復活の根底になった神武天皇開国のみことのりの中にあるところの「上は則ち乾霊の国を授けたまふ徳に答へ、下は則ち皇孫正を養ひたまふ心を弘めむ。」という精神が「山林を披払ひ宮室を経営りて、恭みて宝位に臨み、以て元元を鎮むべし。」という御精神となって現われた。ということになりますと、どうもそこにいにしえの神代は――先ほど午前中の会議でもいろいろ論議しました神々、「水母なす漂へる」この国がだんだんと固まって天地創成の時期に現われたいろいろな神々、その神々の中には夷・蛭子といってかたわの神、できそこないの神――伊邪那岐ノ命と伊邪那美ノ命の言葉のかけ合いの際に、伊邪那美ノ命の方が「あな美哉をとこを」と仰せられた、そのためにかたわの子が生まれた、これはおかしいというのでさらに天ツ神の御意向を聞きたまいて、女の方が先に言葉をかけたのがいけないのだ、男の神の方が先へ言葉をかけるべきであったというので、そこで言い直して伊邪那岐ノ命の方が「あな美哉をとめを」と言って「美斗能麻具波比」をさせたもうた。そういうことで大体上古の国作りも――大へん変な話でございますが、少しまじめさを欠いたような形に国作りがされた傾向があるわけなんです。そういう意味からいいますと、あまりに神格化してこれを非常なユートピアの世界のような考え方に後世が指導していくということは誤りだと思うのです。やはり神としてあげてあっても、神も人間であってそそうもあるのだ、あやまちもあったのだ、だからこそあやまちを犯し、まことに罪汚れを払いたまうという意味で祝詞ができているということを考えたならば、あまりにも古代の神格化を強調することは、これは現実の日本の国としては時代逆行の傾向があると思うのです。  だから今ここで申し上げたいことは、明治時代にできたこの神を非常に大事にせられ、人間も神として祭られる、乃木神社、東郷神社という神ができて神社を非常に尊敬するような空気に持ち込んだ結果は、強制的に個人の自由意思に反してある方向へ無理やりに気持を押しつけていくという政治的な策謀も実を結ぶような結果になった、それが戦争へ発展し、敗戦にも導かれたということを考えざるを得ません。だからこの祝日ということで国全体をあげて祝い感謝し記念するのには、どうしても国民全体が納得して、その背景にはある政治意図が全然ないように仕向けたものでなければならぬということが結論として生まれるのではないでしょうか。
  55. 纐纈彌三

    纐纈委員 日本の古来の風習からいきますと、やはり神話時代と申しますか、その時分は神というものがあった。これは自然現象の中心を基とした、さっきの天御中主ノ神というのもそうでございますが、その後氏神なんというのが部落の中心になって、それを指導していったというような方をずっと祭ってきたというのも、これは日本のならわしなんです。そうしてそれが乃木大将でも、東郷大将でも、それからまた戦争で死なれたみたまを靖国神社に祭るというようなことも、これは日本の古来からの風習であって、何も明治時代になってから特にそういう神様を中心にするような私は政治的な意図でもってそういうことをやったのでなしに、これは日本の昔からのならわしであって、しかもその神に祭られた人は、必ずいろいろの点においては、これは人間ですから欠点もあったでございましょうが、非常にこの人の功績というものをたたえて、これがやはり祖先を崇敬する、同時にまた日本の古い歴史をとうとぶ、これは日本国民の民俗性なんです。だから私どもは今受田先生がおっしゃったように、明治になってから、ことにそういうような政治意図によって、そういうふうに持っていったとはちょっと考え得られないものと思っております。
  56. 受田新吉

    受田委員 今度の建国記念の日を御提案されたことに及ぶわけでございますが、今日本にできている九つお祝い日は、そうした先ほど来しばしば指摘しましたような神ながらの道につながるためのお祝い日という、そうしたにおいを一掃して、国民各層の間に共通の慶祝をなし、記念する日を指定したのが新しいお祝い日なんです。だから令きめられている九つのお祝いの中には神道的なにおいのものはありません。かつて春季皇霊祭、秋季皇霊祭として指定された春分、秋分の日ができておりまするが、それは日がたまたま一つでありましても、これは皇室のみたまを祭るという意味のものではないし、純粋なお彼岸の中日をお祝いするということ。また十一月二十三日の勤労感謝の日は、アメリカのサンクス・ギヴィング・デーをもじった面もありまするけれども、昔新嘗祭としてこの日が指摘された日をたまたま取り上げましたけれども、これも性格は全く勤労を感謝し合う、お互い国民生活の中から働くことを喜び、そしてともに勤労の生産物を感謝し合うというお祝い日にしてあるし、また十一月三日の文化の日なども、たまたまこれが明治節という日に当りましたけれども、これもちょうど一年を通じ一番気候のいいときだし、かつその日を全国的にいろいろな文化行事をするのには好適な日であるという意味で、年間を通じて一番天気のいい、雨降りの少い日が十一月三日である。これも気象台などの報告によってやったわけだ。そういう意味からは、今あげてある九つお祝い日は、どれを見ても神道的なにおいはないのです。子供がだんだん成長して成人になる。そうしてお互いが一生懸命に働くための文化の日を祝う。こういうふうな形から見ますると、九つの現在の祝日は確かにこれは性格が文化性を非常に豊かにし、そうして普遍的に国民各層に及んでいるお祝い日だと私は言えると思うのです。いろいろ批判のある祝日もあるかもしれませんけれども、現実にある特定の人々のための奉祝日でなくして、国民全部の奉祝日だという性格を持っている。これに今度紀元の日が一つ入ることによって、国始めの日であるからという問題だけならいいですけれど、何かそこに建国という名前が建国祭に通ずる。建国祭に何をしたかは、なまなましい印象がまだお互いに頭に残っている。こういうことでちょっと変に聞きとれるわけですね。ここに一つ問題がある。そうした九つお祝い日一つ加えて十の祝日にならうとするときに、何かもっと国全体があまりこだわらないで、さっぱりとした気持で祝えるような形にならぬものでしょうか。
  57. 纐纈彌三

    纐纈委員 春分の日、秋分の日は、今おっしゃったような理屈はそうなんでありますが、そのお祭を祭っておる国民は、実際はやはり明治時代祝祭日とほとんど内容は同じじゃないかと思います。ただ勤労感謝の日というのはどうも少しぴんとこないのでありまして、もちろん日本は農をもととした国でありますから、あの新嘗祭というのはその意味において新穀ができたのでお祝いをするということで、宮中にとっても非常に大きなお祭であって、これもやはり勤労感謝を含めた問題であります。今受田先生のおっしゃったように、理屈はそうでありますけれども、実際問題としては、必ずしもお祭の内容、性質そのものは、少し新しがってそういう名前を特にいろいろ御苦心の上に考えられたことかと思いますが、やはり文化の日は明治天皇を回想するというような形は、あの言葉にも全然現われておりませんし、その行事をやっている場合にもそういうニュアンスはないというのでありますから、十一月三日という日はやはり明治節というその日に行われておるわけでございます。そういうようなことから行きまして、ここに建国記念の日を作ったからといって、今日日本国民考え方も違っておるのでありますから、昔のような考え方を持っていないのですから、またそういった日本の国が侵略主義それから天皇制の復活というような問題はもう過去のあれで、日本人は今日はそれをすっかりぬぎ捨てて、先ほども受田先生おっしゃったように、皇室と民間の間の隔てをだんだん少くする、そうしてそういった形に持っていってしまって、国民が非常に安心しておるわけでありますから、そういう意味でここに建国記念日を作ったことによって、直ちに昔の明治時代かあるいは侵略主義が行われた時代のような考え方を、国民が持ってくるという御心配をなさることは、どうも日本国民を少し信用されなさ過ぎるのじゃないか。今日の日本国民民主主義にもだんだんなれて参ったのでありますし、この後の日本の行く道ということについては相当考えてきておるわけでありますから、ここに建国記念の日をあれして、むしろ日本の古い歴史と取っ組んで、こうした国の成り立ちだということを、この際国民一つの基本観念として植え付けることが、やはり今後日本が正しく発展していく上について私は非常に意義あるものと考えて、その点はどうも遺憾ながら受田先生と多少考え方を異にしておるわけであります。
  58. 受田新吉

    受田委員 二月十一日の日の問題と同時に、この紀元節の祭典を行う上において、他の祝日とは意味の違う様相が現われておるわけです。文化の日にいろいろなお祝いをするけれども、これは明治節の性格は全然なくなった形で、しかもこれは憲法の公布された日ですから、憲法記念日にも当るわけです。それから勤労感謝の日を新嘗祭のような感じを持って今祝っている人はないのです。みんな新しい感覚で勤労を喜び合い、感謝し合っている。ところが二月十一日に紀元節をやるということになると、これはだいぶ性格が違ってくるのです。すなわち橿原神宮においては、肇国の精神に基いてここに盛大な式典をあげられるのです。全国の各神社はこの日にあげて紀元節祭をやられる。そして歌も昔の歌が出るわけなんです。あの歌は非常に名調子であり、私たちも愛唱した歌でありますが、ちょっと魅力のある歌であるということになると、いにしえをしのぶのに非常によいよすがとなるわけです。それを在郷軍人会が勲章をつけて出たりすると、その人々がまだこの世の中におられる限りにおいては、何かまずい印象を与える。むしろ国始めの日であるから、庶民大衆が一緒に出て、わっさわっさと国始めを祝うような形に持っていかなければならぬわけです。そういう努力がどういう形で払われておるか。この祝日を制定しようとする提案者として、大衆の中に解け込んだ国始めの日として、わっしょわっしょとわが祖国の将来を祝福しようとする気分をどういうふうに巻き起そうとしておられるか、御答弁を願いたい。
  59. 纐纈彌三

    纐纈委員 今文化の日、勤労感謝の日が昔と変った形にだんだんなってきた。制定時から十年においてそういう気分がすでに行われてくるようになったというお説でございますが、大体そういうことでありましょう。この紀元節も、私ども最初から申しますように、天皇制の復活だとかまた侵略主義、軍国主義には全然関係がないことであって、むしろ神武天皇の御即位のいわゆる政治中心というものは、平和主義であり民主主義であるわけでありますから、この二月十一日というものが国祭日に決定すれば、これはどういう扱いにするかということは、これは提案者のあれではなくて、政府がやるべきことでありまするが、私どもはそういう昔のようなことを考えられないような、ちょうど明治節が文化の日になり、新嘗祭が勤労感謝の日になったような形においてこのお祭を指導していくならば、受田先生御心配になるようなことは私はないというふうに信じております。
  60. 相川勝六

    相川委員長 受田さんの御質問に関連して私も再び提案者に質問いたします。受田さんの質問は私と相通ずるところがあるから、それをさらに提案者に質問するわけでありますが、二月十一日を建国記念日とするか国始めの記念日とするか、名前は私個人としてはいずれでもいいと思うのでございますが、そういう場合に、受田委員の質問は、ただ在郷軍人会とかあるいはこりこりの国粋主義者の昔ながらの考えの人方だけのお祝い日とせずして、広く国民大衆のお祝い日に、わっしょわっしょとして庶民大衆がお祝いをするというようなことはできないか、それについて何か提案者に御意見はないかという質問でありまするが、私もその受田委員の質問にはしごく共鳴する一人であります。従って提案者は今のところ表向きはただ十一日を建国記念日とするということになっておりまするが、提案者ほんとうの御趣旨からいえば、これがきまりますれば、さらに広い範囲の調査会というか、あるいは協議会というか、国民各層の代表者が集まって、ほんとうに民主的、平和な国初めの記念日にする、それをどうしたらいいかというような協議会なり調査会なりを設けるというようなお気持はないか、これを一つ質問いたします。
  61. 纐纈彌三

    纐纈委員 今まで紀元節の奉祝国民大会というのは、民間が自由意思でやっておったわけでありますから、それに対してかれこれ申すわけにはいかぬ性質のものだと思うのですが、ことに今おっしゃったような軍人が勲章をつってあれするとか、あるいは極右の連中がひどい格好をしていくというような意味だけの祭であってはならないと私は思うのであります。そこでことしの奉祝大会のときにも、どういう行き方で持っていったらよいかというような議論も相当かわされておったように聞いております。従って、右翼の連中があまりに過激な格好をすることはいけないのだということも、相当論議の中心になったように思われるのでありますが、奉祝大会でもすでにそういうことを考えて、これが誤まった方向に持っていかれないようにしたいという意思は、相当私はその中に読めたと思うのであります。ただいま委員長の御質問にありましたように、私どもも今までしばしば申しておりますように、ほんとう民主主義的また平和主義的の政治を行う意味において、神武天皇即位なされましたことは、あの当時の政治のあり方の意味から見まして、ほんとうにこれを推奨すべきものだという考え方でもっておるわけでありますから、この祭の問題については皆様方からも非常に御心配があって、私どもは絶対そういうことばないということを信じておりまするが、今の神格化あるいは天皇制の問題というような方面に引きずられるおそれがあるということがどうも反対の中心論議のように考えられますので、これが祝祭日にきまれば、私もただいま委員長のおっしゃったような意味において、各層の方々に集まってもらって、この祭事をどういうふうに進めるかというような点について協議しつつ、そうして政府にその線にのっとってこの建国祭日国民がひとしくお祭りするというような気分に持っていくような形において、行事を行うようにしてもらうことを進言することはきわめて重要なことであろうと考えております。
  62. 受田新吉

    受田委員 祝日の行事を通して国民の総意を織り込むようにすべきであるということは、私もちろんこれは大事な問題だと思っております。二月十一日の問題は、その日の説明に一つの問題があるわけです。普通の十一月二十三日とか、十一月三日とかいう日、あるいは春分、秋分の日は、これは新しい観点から説明を加えるだけで済むのでございますが、紀元の日を作った以上は、なぜ二月十一日を祝うかということについて、一つの由来を語らなければならない。伝説ではあるけれども、この日は日本ができた日である。その伝説によれば、きょうは畝傍の東南麓の橿原の宮で、辛酉の年の正月一日にここで天皇がひもろぎを囲んで即位の式をあげられたところである、こういうことを一応説明する。そのときに開国の証書もそこで説明される人も出てくるということになると、ほほえましい形でそれがなされればよいけれども――私などだったらそこは要領よくやりますが、しかし古い感覚指導意識を持った人がやろうとすると、ここに日本の誕生があるのだ、日本の万邦無比の国体はここから発生したのだということをそこで言われることになるわけなんです。これはこの間和歌森さんがちょっと触れられて、私共感を帯びた一点でございます。つまり説明に非常な問題がある。神格化した皇室というものに対する郷愁をそそのかすようなおそれがある。纐纈先生は、きょう昼にちょっとお聞きしましたら、今宮司をしておられるということです。宮司をしておられるので、祝詞に非常に精通しておられると承わりました。私大へん恐縮でございますが、祝詞の大はらいの中に、天津罪、国津罪というものがある。いろいろな許許太久の罪があるわけですが、その天津罪、国津罪の中にこういうのがある、母と子と犯せる罪、子と母と犯せる罪、高津鳥の災い。母と子と犯せる罪、子と母と犯せる罪、母と子とが姦通する、子と母が姦通する、獣犯せる罪、まるでわれわれが想像できないようないろいろな罪事を犯して、その罪を払うために、大はらいの祝詞を上げて、罪をのがれるために構想の雄大な文句で書かれておるのです。こういうことが祝詞にさえ出ておるのです。これは私の考えが間違っておれば御指摘願いたいのでございますが、そうした天津罪、許許太久の罪、国津罪の生膚断、死膚断、白人、胡久美、おのが母犯せる罪、おのが子犯せる罪、こういうような罪を犯すようなことがあったのですからね。なければそういうことはないはずなんです、架空の例をとってはないはずなんです。そういうようなことを思いまするときに、単に神格化して、ものを正常に見ようとする気持を無視したいろいろな古代の罪悪も実はあったわけなんです。天皇のお立場も前の憲法には、「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」、天皇は悪をしないのだという理論の上から第三条ができていた。だから天皇が人を殺されようと、どのような悪いことをされようと、天皇が犯された罪には絶対に責任がないということになっている。しかも天皇に対する罪は、前の刑法の七十三条では、陛下に危害を加えんとしただけでも死刑に処せられた。私の郷里の難波大助という人は、虎ノ門事件で危害を加えんとしただけでついに死刑に処せられました。何ら危害を加えてない。こういうふうに天皇の御地位は、人間としての天皇のお立場を無視した形に行われておった。嵯峨天皇には七十二名のお子様がおいでになる。七十二名といえば、一人の皇后様ではとてもできないはずです。そういうことで、天皇陛下も古代においてはいろいろと人間的な行為をされておる。別に神様としての御存在ではなかったのであるが、しかし日本国柄からいったならば、一つ皇室という流れ国民が尊敬申し上げて、皇室を宗家として、とにかく国がずっと続いてきたということで国民は納得してきておったのです。それを、天皇のなされている行為に対しても、みんなが大目に見る。また天皇もそのお地位にかんがみて、自粛自戒せられて、国民の信頼をつなぐように努力せられる、こういうことで国が今日にいたっておるわけです。これを今後も続けていかなければならぬ。従って午前中相川先生が、天皇が非常な特殊な地位に置かれることは陛下御自身が窮屈に感ぜられる。むしろ大衆の中におり立って国民とともにある天皇、主権在民の立場で気楽に国民とともに暮していける天皇の地位の方が自分は好ましいのだというこのお気持と、現在の皇太子殿下が学友とおもしろいところにでも遊びにいくくらいの幅を持っておいでになることが本当の姿だと私は思うのです。それを極端な方向へ持っていこうという指導精神を国民のどの一角かに再現したとしたならば、私は日本の将来を悲しむ結果になると思うのです。  お話が余談になりましたけれども、私どもは神格化された皇室、神格化された国家というものの中には、偏向された思想と背景がひそんでおる。政府の方々や与党の方々の中には、日教組の教育の偏向性をとなえておられる方々がおられますけれども、そうした神格化された皇室考え、あるいは神格化された国家考えるというそのことが偏向であって、あらゆる観点からわれわれは片寄らざる中正の教育をこいねがい、そういう国家をこいねがっておる。そういう意味から、紀元節すなわち建国の記念日を作ることについては、特に慎重を期していかなければならぬと思うのです。私今申し上げました日本皇室を極端に神格化するよりは、むしろ平民的に見て、同じく人間としての行為、人間としての思想、そういうものに束縛のない、全くさばけた形で皇室国民をつないでいくという形の政府というものを纐纈先生はお考えでないでしょうか。これを一つお答え願いたい。
  63. 纐纈彌三

    纐纈委員 最初大はらいの言葉が出ましたが、これは古い時代にはどこの国にでも、やはり母と子と犯せる罪ということもあったでありましょう。しかしそれが罪とされておったのですが、そういうことがあるようです。今でも未開の国にはそういうことがあるのじゃないかと思いますが、ヨーロッパの方でも、ギリシャなどの彫刻の中にも、獣を犯す像が出ておるというようなことで、これは古い時代にはそういうことがあり、逆剥とかあるいは屎戸というような罪も国津罪として出ております。今の祝詞にはそういうものはなくて、そうした具体的の罪名は時世と沿っておりませんので、天津罪と国津罪、許許太久の罪出でむという中には、今受田先生がおっしゃったような昔の毛のは、今から考えれば全然考えられないような、いわゆる具体的の国津罪、天津罪というものは全部削られまして、ただ天津罪、国津罪、許許太久の罪、こういうふうに祝詞の言葉はなっておるわけであります。これは昔できたものでありますから、そういうことが一つの大きな罪としてあげられたことでございますが、今日は罪となるものは、時代が進展して参るわけでありますから、そういうふうに大はらいの祝詞も改訂されておるのであります。それから難波事件につきましては、当時の刑法は不敬罪というものが予備行為も死刑に処するということがあったのですから、法治国でありまするから、その法律によって、かりに危害を加えなかったとしても、これはやはり刑法の示すところによって処断されたものと思うのでありまして、当時といたしまして、必ずしも行き過ぎがなかったのでありまするが、今日の状態からいえば、もちろんそのことは行き過ぎであるわけでありまして、今では不敬罪というものはないというようなことになってきておるわけであります。従ってそういうことで、国民はすでに戦後十数年たって、そういうふうに訓練されてきているわけでありまするから、ここでそうしたような復古調というものが出る心配は毛頭ない、どうもそういう心配をなされることはあまり思い過ぎであり、同時に日本国民を信用されない結果ではないかと思うのでありますが、私どもはやはり陛下もいわゆるあらひと神として神格化されるようなことのないように、人間としてほんとうに少しでも、もっともっと国民と接触されまして、ほんとうに一般国民と同じような気持になっていただくべきだと思うし、この間も有名人が陛下を笑わせる会というのの二回目を行われたのでありますが、宮内庁もああいうことをやるようになったのは非常に進歩であり、またそういうことが皇室のために喜ばしいことだ。だんだんそういうことになってきておるのでありますから、ここで建国の記念日を作ったからといって、直ちに復古調になる、そういうふうなことはない。いわんや紀元というものは、全然いわゆる時の流れにピリオドを打って、国が、今日から見ましても、一応現代的の国家の形ができた、その日をお祝いするということなのでありまして、ただその日に即位されたのが神武天皇であるのですから、そこに結びつけられるのでありましょうけれども、私は紀元を、国の初めを祝うということについては、天皇制も、軍国主義も、侵略主義も、全然そこにはない。紀元をお祝いするという言葉はそのまますなおに一つ受け取ってもらいたい、こういうふうに考えておるのであります。
  64. 受田新吉

    受田委員 そうした軍国主義的な復活などは全然ないのだというところを特に強調されたので、提案者纐纈先生のお気持は私はよくわかります。あなたの清純なお気持は私はよく理解しますし、また軍国主義の復活を考えておる分子が極右団体などにあるとしても、それはもうごく一部であるというのもよく知っております。私はここに同僚議員として御一緒にお世話になっておる自由民主党の幹部の議員さんたちの元軍人出身の方々に、個人的におつき合いをいたしましても、元高級軍人であられた方々が非常に人間的に洗練された穏健な方々であることもよく承知しておるのです。その方の私の心配は全然ないのでございまするが、しかしそのごく一部にある、どの一角かに小さくうずくまっている勢力が、紀元建国記念日ができたことを契機にして、わが世の春をうたうがごとくに、その一角が、ちょうどあのばい菌がだんだん分裂してふえていくがごとくに、ほうはいとした燎原の炎と化するおそれを私は案じておるのです。これは人間の思想というものは自由ということでありますけれども、動あれば反動ありで、こうした時世に紀元節ができた、ああいいことだとわが世の春をたたえるごとく、この人々が動くことは、この間のメーデーの日にメーデー反対の一団がメーデーの大会場に乗り込んで、ちょっとした紛争を起したことを纐纈先生御存じないかと思うのです。数は少くても、その人々が動く動き方によって、民衆を誤まらせる方向に導く可能性は多分にあるわけなのです。もちろん今の時世ですから、私たちがしつかりそこを啓蒙宣伝することによって、その進出を防ぐことはある程度可能ではございましょうけれども、しかし現実の問題として、国の一角に、待望の日を迎えたような感じを持って、ここに橋頭堡を固めていく勢力の出ることは、これは纐纈先生といえども御否定はできないと思うのですが、いかがでしょう。
  65. 纐纈彌三

    纐纈委員 そういうことを受田先生非常に御心配なのでありますが、これはもう今の国民が、そうした少し行き過ぎの気持というものをみんなちゃんと批判しておるのです。ですから私は先生の御心配になるようなことはないし、またそんなものをのさばらせて、それについていくというような日本人であったら、日本はもうよくならないのです。私はそう考えております。
  66. 受田新吉

    受田委員 そういうものがのさばるようでは日本はだめだというあなたの御発言には非常に頼もしさを感じているわけです。そういう議員さんが全部固まっておられるならば、祖国の将来は光芒さんたるものを感ずるのですが、しかし私はこのあとに続くものとして、憲法改正という問題がひそんでいることを否定できません。この憲法改正には、当然天皇の御地位を国の元首として復活するという意思のあることは、岸総理も言明しておられることです。国の元首として天皇の御地位を復活させるということになるならば、おそらく国際的に見て、日本の国を代表するいろいろな儀礼的な行為に、天皇の行為に権威を持たせるということになるでしょうし、同時に政治的な責任の衝に立たされる羽目に陥らせられるだろうし、天皇の国事事項が一そう強化される形になるでございましょうし、残念でございますが、天皇神聖に一歩近づくおそれがある。同時に憲法の規定を変えて、軍隊を堂々と持てる形にもこれが発展するということになると、ちょうどこれは極右団体の得たり賢しと待望している一点でございますので、紀元節復活を喜んだ人たちに所を得しめるという結果にもなると思うのでございます。憲法改正意図しておられる政党の一員としての纐纈先生の御見解をただしたいと思います。
  67. 纐纈彌三

    纐纈委員 試案にはそんなことがちらほら見えていることも私は承知いたしております。またそれに対して、今民主国においても元首という言葉を使っておる憲法もあるというようなことも言っておられるわけでございますが、私どもほんとうに成案がどういうふうに出るかわかりません。一つ社会党の方も、憲法調査会に同調されまして、そういう点を強く改正に当っては御論議なすっていただけば、あなた方が御心配になるような天皇制の復活という問題は、おそらく実現しないであろうと私は思っております。
  68. 受田新吉

    受田委員 憲法記念日を政府与党が奉祝する行事をやめられたということは、これは将来憲法を改正されることを前提としてやめられたと世に批判をしておりますが、さようでございますか。
  69. 纐纈彌三

    纐纈委員 まことに残念でありますが、私はそうしたいきさつについては全然承知をいたしておりません。
  70. 受田新吉

    受田委員 自由民主党の党として、憲法奉祝の行事を正式にやられたでございましょう。
  71. 纐纈彌三

    纐纈委員 党として、私ども党員でありますが、正式のお祭をしないというような通知も承わっておりませんし、また正式にお祭をするのだという通知も受けておらないのでありますから、その辺はよくわかりません。
  72. 受田新吉

    受田委員 しないともするとも受けていないということになるとどういうことになるのですか。
  73. 纐纈彌三

    纐纈委員 国祭日として私どもも憲法発布記念日にはちょうど郷里に帰っておりましたが、その行事には私個人としては参列さしていただきました。
  74. 受田新吉

    受田委員 内閣審議室の滝本参事官に伺いますが、内閣としては憲法記念日に当っていかなる奉祝の行事を計画されたのでございましょうか。
  75. 滝本拝彦

    ○滝本説明員 お答えいたします。私どものレベルにおきましては、上の方からそういう形式の行事の指示がございませんので、積極的にこれを上の方に持ち上げて取り上げていただくというようなことは全然いたしませんでし先。
  76. 受田新吉

    受田委員 そうしますと、内閣としては憲法記念日を無為に迎えたということに判定してよろしゅうございましょうか。
  77. 滝本拝彦

    ○滝本説明員 少くとも私どもの限りにおきましては、内閣としては積極的にこれに対する行事の計画というものはしなかったということは断言できると思います。
  78. 受田新吉

    受田委員 先般内閣審議室が世論調査をせられた結果、われわれが伺いますところによると、憲法の大まかな精神を知らないものが約三分の一、憲法改正手続について知らないものが約三分の二、こういう回答を得た、かように伺いました。事実でございますか。
  79. 滝本拝彦

    ○滝本説明員 私はその世論調査の資料を見ておりませんので何とも言うことはでき得ません。
  80. 受田新吉

    受田委員 それは私は世論調査の新聞発表部分を読んでおるのでございますが、新聞の伝えるところが正確だとしてこれを指摘しますが、これを見ますと憲法が発布されて十年になるのに、憲法の大まかな精神を知らぬものが三分の一、私は憲法記念日のNHKの憲法に関する討論の部分を聞きましたけれども、その中にもいろいろ意見が出てきておったけれども、一般の婦人層などにも憲法などの大まかなあり方もよく御存じない人が多いわけです。憲法改正手続などということになると、こういう専門的な規定などというものはさっぱり承知しないというような人々が多いわけです。新憲法の――新という名をつけるのは、もう十年もたっておるので古くさいのですが、今の、現行憲法の普及はまことに遅々としてふるっておりません。内閣は憲法を普及徹底する責任があると思うのでありますが、滝本参事官、いかがお考えでありますか。
  81. 滝本拝彦

    ○滝本説明員 昭和二十三年に国民祝日法律として制定されましたときに、審議室が中心になりまして関係各省と協議をいたしまして、各祝日の行事実施について主として責任を負う省というものを相談の上決定いたしたのでございます。その決定によりまして、憲法記念日に関する各種の行事、また趣旨の徹底等については主として文部省が責任を負う、そういう決定をいたしているわけでございます。直接私どもの方は実施官庁でございませんので、文部省の方が実施官庁として主としてこれの責任を負うということに決定いたしておるわけでございます。
  82. 受田新吉

    受田委員 この憲法普及のための予算の措置は、しからばどこが担当することになりますか。
  83. 滝本拝彦

    ○滝本説明員 この予算的な措置につきましては、私内閣の方に参りまして三年になるのでございますが、内閣としてこの予算を取るというようなことはいたしません。ただ聞くところによりますと、第一回の憲法記念日に際しまして、皇居前広場で式典が行われたのでございますが、そのとき、陛下が御登壇になる台につきましては、鉄骨でこれを作りまして、現在これを総理府の方が保管しているということは聞いているのでございます。その間総理府の方が予算措置を取ったかどうかということについては、私その間の事情を存じておりません。文部省といたしましては、おそらく社会教育局の行政指導によって、都道府県の教育委員会また市町村教育委員会等に依頼通知等を流しているのではないかというふうに想像されるのでございます。
  84. 受田新吉

    受田委員 私は、はなはだけげんな態度をもって政府が憲法記念日に臨んでおられることを指摘せざるを得なくなったのです。おおむね、地方自治にいたしましても、その他国の行政のいろいろな行事にいたしましても、大体五年とか十年、二十年、三十年、五十年、八十年、百年と、それぞれ国費を拠出して記念行事をやっているのです。そしてわれわれにもその担当国務大臣などから案内が来ておる。しかしながら、国の根本法である憲法の十周年記念式典という歴史的な式典に当って、政府に何らその計画がないということは、私ははなはだ不思議なことだと思うのですが、いかがでしょうか。率直に担当者としてお答え願いたい。
  85. 滝本拝彦

    ○滝本説明員 今まで各種の国民祝日について内閣が総合的な立場から行事の計画実施をいたしたということは、前例としてないのではないかというふうに考えております。内閣の建前といたしましては、主として各実施官庁の行政事務の連絡調整ということを本来の仕事といたしているのでございまして、実施官庁につきましてはそれぞれの省において分担管理をしてもらっているということでございます。憲法記念日については、一応審議室の古い書類によりますと、この祝日が制定されたときに、文部省がこれを担当するというふうに決定されているのでございまして、そういう関係から、内閣または審議室というものが積極的に憲法記念日をどうするかということについては議がなかったのでございます。
  86. 受田新吉

    受田委員 ここには大村先生がおいでになるのでありますが、大村先生は、国民祝日に関する法律の一部を改正する法律案の提出者でいらっしゃいます。大村先生は新憲法ができるときの吉田内閣の国務大臣でいらしたのではないでしょうか。(「内務大臣」と呼ぶ者あり)そういたしますと、たまたま今問題が発展したのですが、提出者である大村先生にちょっとお尋ねしてよろしゅうございましょうか、委員長
  87. 相川勝六

    相川委員長 どうぞ。――大村さん、こっちにお着き下さい。
  88. 受田新吉

    受田委員 大村先生は、吉田内閣の新憲法を公布されたときの責任閣僚である内務大臣ということを今伺ったのであります。そこで提出者として責任を持っておられる大村先生に伺いたいのでありますが、あの吉田内閣の閣僚とせられましてこの新憲法を公布せられる責めに任ぜられ、国務大臣として新憲法に署名せられた大村先生は、その憲法に署名せられるときに、この憲法ははなはだ不愉快な憲法であるがという、内心良心を押える形で署名せられたか、あるいは欣然として署名せられたか、御感想を伺いたいのであります。
  89. 大村清一

    ○大村委員 だいぶ古いことでありますから、こまかい点は記憶いたしておりませんが、御承知のように、新憲法は米軍占領時代の所産でありまして、当時の国会議員諸君もよく御存じのことでありますが、あの制定の経過を徴しますと、原案はことごとくアメリカ側のOKが必要だ、また修正についてもOKが必要だということでございまして、あの制定の過程におきましては日本側としていろいろ希望があったのでありますが、その希望の一部は米軍のいるるところとなりましたけれども、大部分は米軍の意思によって決定されたものでありますから、今日から見ますと、自主憲法というようなことにつきましてははなはだ欠くるところがあったと思うのであります。しかし占領下のあの実情でございますから、全力を尽してできるだけわれわれも国民の期待、希望するような条項を作出することに努めたのでありますが、ついにただいま申しますようにほとんど全部が先方の意思通りにきまったのでありまして、しかしそのときの実情といたしましては、それもやむを得ない、できるだけのことはやってあの結論を得ましたので、あの当時といたしましてはこれにわれわれは公布の副署をするのもやむを得ないという心境で副署したつもりであります。
  90. 受田新吉

    受田委員 当時の憲法公布の責任をとられた、署名された閣僚の最高責任春である吉田茂さんは、憲法の改正をしない、この憲法は民主憲法としてきわめてよい憲法だから、憲法の改正をする必要はない、従って再軍備をしないと、ずっと総理の期間中言明し続けられてこられたのです。少くとも政治家の責任というものは、そのときの情勢で適当に転換できるものではないと私は思います。大臣の責任において署名されたこの憲法をあくまでも守るという立場が、自分の良心であると考えられて、いろいろな批判を受けながらも、吉田元首相は、敢然と憲法を擁護し、再軍備に反対してこられたことに、私は深い敬意を払っておるのでございますが、その署名された大村先生は、憲法は当然改正すべきであるという形を今日おとりになりますか。
  91. 大村清一

    ○大村委員 これは憲法の条章のあります限りは、その憲法の条章に従って政府も国民も進むべきであるということは当然でありますが、しかし時勢の進展、状況の変化によりまして必要なる改正考えられることも、これは憲法がすでに予想しておるところでありまして、私どもはあの当時の事情としては、現行憲法でやむを得ない、これを日本の憲法とすることが適当であろうということで、さきにも申し上げましたように、副署いたしたのでありますが、しかしその後の情勢の変化、日本が今や完全独立の立場になりました場合におきましては、その立場からある改正考えるというようなことは、私は当然なことだと思うのであります。しかしこれはまだ改正をする意見でありまして、現行憲法があります以上は、その条章の通りこれを尊重いたしまして、そうして国の政治を進めるということは当然のことであろうと思うのであります。
  92. 受田新吉

    受田委員 改正ということでありますから、一部が改正される。憲法そのものが根本的な改正をされるような形のものにはならぬ。たとえば明治憲法が現在の憲法に変ったような変革が、今後また現在の憲法に予想されるとお思いになりますか、いかがですか。
  93. 大村清一

    ○大村委員 これはいろいろのことを想像することは非常に困難でありますが、現在の国情、また事態から、必要なる改正は憲法改正の手続によって、多数の賛成が得られるならば、いかなることでも改正ができるというように私は考えております。
  94. 受田新吉

    受田委員 いかなることでも改正ができるという、非常なけんまくをお示しになられたわけです。これは多数をもってやれば、憲法の精神もじゅうりんされて何でもできる。いかなる改正もということは、結局何でも根こそぎ改正できるということに私はなり得ると思う。非常に危険な思想を申されたわけです。そういうことになると、また一つ問題が起るのですが、この憲法の平和主義民主主義の基本的な観念というものは、私は改正できない、それだけは尊重されなければならないと思うのでございますが、それさえも無視されるような改正ができるということになるのでございますか。いかなる改正もということになると、どうでしょう。
  95. 大村清一

    ○大村委員 ただいま申し上げましたように、どういうような意見が起るかということは、予測のできないことであります。それはどういう事項ということを予測することはできませんが、法律的に申しますれば、憲法改正の手続について、憲法が要求しておる条件を満たせば改正ができると思います。しかし国情によりまして平和主義民主主義は、国民の大多数がこれを強く維持していこうという今日の世情でありますから、そういうような社会状態を基本にいたしまして、それらの点を根本的にくつがえすというようなことは、私は実際問題として、そういう改正が企図せられることはないであろうと思うのであります。
  96. 受田新吉

    受田委員 非常にこれは危険な思想です。(「そんなことない」と呼ぶ者あり)ないですか。しかし、それでは大村先生、お尋ねしますが、あなたは今度憲法が改正された場合に、また新しい憲法記念日が、そのできた日に定められるのが妥当だとお考えですか、あるいは今日の憲法記念日、現行憲法の記念日をそのまま置くのが妥当だとお考えでございますか。
  97. 大村清一

    ○大村委員 お答えいたしますが、憲法の将来行われる改正が、ちょうど明治憲法を現行憲法に改正するような大きな改正であるか、あるいはまたさきにも申し上げましたように、現行憲法の基本的な平和主義民主主義は依然として同様に続けていく、その範囲内におきましてある程度の改正が加えられたという、いわば明治憲法が現行憲法になるような大改正であるか、あるいはまたその程度に至らない改正であるかということによって、今お話の憲法記念日というようなことを考える場合には、おのずから違ってくるであろうと思います。ちょうど明治憲法が現行憲法に変ったという程度の大改正であった場合におきましては、そういうようなことも考えられることがあろうと思いますが、そうでない限りは、憲法記念日というものは、現行憲法改正の記念日と同様のものが続くのではなかろうか、私はこう考えます。
  98. 受田新吉

    受田委員 たとえば部分的改正で、根本的には現行憲法がずっと続くものだ、ただその一部の条項が改められるだけだ、もし明治憲法が現在の憲法に変ったような、つまり民主主義平和主義が破壊されて、権力主義的な憲法というものができる場合は別だということになるのかと思うのでございますが、そうしたら大村先生、現在の五月三日というものは、今後憲法が改められたとしましても、これは部分的なものだ、今自民党の考えておられる憲法改正であれば、たとい広瀬試案にいたしましても、部分的な一部改正だということにたるならば、五月三日の憲法記念日を国民祝日として変更する必要はないと私は思います。その改正した日をもって新しく憲法記念日を作るということはあり得ぬと思います。そういうことはお考えでないですか。これは両先生からお聞きしたい。
  99. 大村清一

    ○大村委員 先ほど来申し上げますように、改正の程度によると思いますが、現在の私の見込みでは、そういう根本的な、明治憲法から現行憲法に切りかえるというような抜本的な改正は、ちょっと予想ができませんから、五月三日が変るようなことは当分なかろうというように考えます。
  100. 纐纈彌三

    纐纈委員 今の大村先生と同じ考えであります。
  101. 受田新吉

    受田委員 すると結論は、五月三日の憲法記念日は、とにかくずっと続くんだ。部分的な改正をしても五月三日の憲法記念日は続くんだとすれば、憲法記念日の五月三日をなぜ保守しないのです。基本的な憲法としてこれを尊重していくというならば、自民党の案で一部改正をしても、五月三日を変える必要がないほど軽い改正だ、根本的には現憲法がそのまま続くんだということになるのならば、憲法を実施して満十周年になるという年の記念式典は、政府与党において当然責任を持ってやるべきではなかったですか。(「個人の意見だ」と呼ぶ者あり)個人の意見でも何でも同じことです。そういう立場で令両先生が御答弁されているのですが、個人でない党の意見があるなら、きょうは非常に重大な問題だから、自民党の責任者にお聞きしなければいかぬのですが、十周年記念式典を当然やるべきではなかったかということについて、大村先生はどうお考えになりますか、お答え願いたいと思います。
  102. 大村清一

    ○大村委員 国祭日は憲法記念日のみならずたくさんございますが、いずれの国祭日もことごとく政府が先に立って祝典をあげるという工合に運営されてはいないと思うのであります。むしろこれは国民の国祭日でございますから、国民がその日を休んで、おのおのの立場においてそれを奉祝する者もあれば、無関心で送っておる者もあるという現状でございまして、私は憲法記念日がそれと同じに扱われるのも一つの行き方ではなかろうかと個人的に見ております。
  103. 受田新吉

    受田委員 国民祝日というのは法律できまったものでございますよ。法律の施行の責任は政府にあるのです。政府はこの法律の趣旨を徹底せしめて、国民に啓蒙、啓発をして、末端にまで浸透せしめる責任があるのです。ところが先ほど滝本参事官の御意見を聞いてみましても、お上からの声がさっぱりなかったということです。総理府の世論調査によるならば、現在の憲法に対する理解ははなはだ微々たるもので、国民は憲法の精神を徹底されておりません。初め憲法を公布したときは、文部省が中心になって、天皇にもおいでいただき、相当の予算も組んで、設備までしてやったとさっきおっしゃった。十周年というのは一つの区切りです。十カ年の間にどの程度憲法が普及徹底したかという反省をし、将来に対する飛躍を考えるならば、あらゆる行事を通じて一つの区切りを大きく祝福するのが慣例です。岸内閣総理大臣は憲法を祝福することについて目下十分研究している、何とかしたい、検討しているとしばしば繰り返された。その後政府はこれを奉祝することをきめて与党に相談をしたところ、与党の方ではどうせ憲法を直そうとしているときに、憲法を祝福するなどということはおかしいではないかということでけ飛ばされたということをほとんどの新聞紙が報道しておりました。大村さんはこの実情について御承知ございませんでしょうか。
  104. 大村清一

    ○大村委員 私は現在党の執行部には何らの関係を持っておりません。
  105. 受田新吉

    受田委員 これは重大な問題です。自民党の執行部の方、どなたかにきていただくよう、委員長にお願いします。
  106. 稻村隆一

    ○稻村委員 関連して。これは非常に重大な問題ですから、自民党の方にぜひお伺いしたいのですが、大村先生、纐纈先生、おいでになりますから、お伺いいたします。  憲法の型には、言うまでもないことですが、君主主権の憲法と人民主権の憲法と二つの型があると思うのでございます。たとえばドイツではカイゼルのホーヘンツォルレン家が廃止されまして、ワイマール憲法からヒトラー時代になった。それでも型は同じです。つまり三権分立によらないで行政府の力が他よりもはるかに優越している憲法で、これはヨーロッパに起きた最初の君主主権と同じ憲法なんですね。今の大村先生の御答弁ではあいまいですが、憲法の歴史を見ればどこでも君主主権の憲法から人民主権の憲法に必然的にいっているのです。ところがヒトラーが政権を取って君主主権の憲法と同じ型に戻った。大村先生は時の情勢によってどうなるかわからぬとおっしゃいますが、自民党の方々や大村先生、纐纈先生は、人民主権の憲法はあくまでも守るつもりですか。もしこれに改正を加えようという勢力があるならば、それと戦っても人民主権の憲法を守る意思があるかどうかお伺いしたいと思います。
  107. 大村清一

    ○大村委員 私が前に、多数の意見により手続を踏んで改正するならばいかなることでもできるだろうというのは、これは法律的に申し上げましたのでありまして、現実の問題としては、私の個人的見解によりますと、現行憲法における平和主義及び民主主義を基本としているその根本思想におきましては、きわめて適当ないき方である。この点につきましては私、個人としてはその根本を改正することは必要がない、のみならず現行憲法の平和主義民主主義の基本理念は十分尊重してこれを維持することに努力したいと考えております。
  108. 稻村隆一

    ○稻村委員 よくわかりました。
  109. 受田新吉

    受田委員 私は憲法記念日の取扱いについて建国記念の日と兼ね合せて非常に重大な問題に発展したことを憂えるものであります。なぜかというと、自民党では建国記念日を作られようとしている。一方においては憲法記念日を軽視しようとしている。しかも憲法記念日は、もう憲法を改めようとするのだから五月三日など祝う必要はない、今さら十周年記念日式典をやることはないのだというような声によって、これを押えられたと新聞紙には報道されております。今必要があれば当時の実情を書いた新聞を全部ここへ持ってきてもいい。政府では一度これを自民党に相談を持ち込んだ。この委員会で私から質問したときに、岸総理は十分検討している、念を入れて聞いたところが、やるために検討するのだということだったのです。それほど憲法の番人として、憲法九十九条の精神を尊重する一人として、現憲法が存する限りはこれを擁護する立場に立つのが国務大臣の責任であることも答弁されておったのです。憲法記念日の方は軽視して、建国記念日だけをここで強く取り上げようという考え方の中に私は大きな矛盾があると思う。むしろこの際憲法記念日をこれがどうせ基礎になる憲法であるならば、少々の改正をするぐらいのことはこれは大したことはないのだから、将来やはり五月三日が憲法記念日として続く、改正される場合でも、改正された憲法は五月三日にできた憲法だということになるならば、十周年、二十周年、三十周年と続くのです。平和主義民主主義を盛ったこの基本精神が変更がない限りは続くのだ。これが変更されるということになったら、今稻村議員の言われたような権力憲法になってくるであろう。三権分立が破壊されるのだということになるのですから、結局永久に現在の場合は続くとされている。国際的に見ても共通の理念のもとに立つこの新憲法は、長期にわたって基本的な観念においては変更がないという立場で、これは大いに祝福すべきじゃないかと思うのですが、大村先生いかがお考えでございましょうか。
  110. 大村清一

    ○大村委員 今回憲法記念日を政府なり政党の方でいろいろ手続をとらなかったということについては、私は何も関知いたしておりませんが、先にも申し上げますように、国の祝日法律できめておりますが、これはいろいろの理由から法律できめておると思います。それをことごとく政府なり党が奉祝するような手続を全部とっておるというわけでもないのでありまして、おそらく国の初めを記念する日がさめられた場合におきましても、その扱いはいろいろになると思います。国民の間に盛り上るものがありますれば、国民国民的な祝日としていろいろの行事をすることもありましょうし、また場合によりましては、ただその日を休んで祝意を表する程度で何事も行われないというようなこともあり得るであろうと思うのでありまして、それらの点につきまして、私はここで提案者の一人として一々これを批判しようというような気持は持っていないのであります。
  111. 受田新吉

    受田委員 大村先生はその間の事情をよくご存じない、党の幹部でもない、現在は無冠の大夫だからよくわからない。自民党の内部はどうでしょうか。前大臣として幾回かその任におられた党の長老でいらっしゃる大村先生をかくも無視しているのが自民党の現状でしょうか。委員長、党においてどうでしょうか。本委員会に重大な関係のある問題でございますが、政府が与党に申し入れた、与党がこれをけ飛ばしたというときに、代議士会にもお諮りなく、つい二、三の現在の幹部との間の話し合いでかかる重大問題が処理されておるのが党の現状でございましょうか、お答えを願いたいと思います。
  112. 北昤吉

    ○北委員 私はそのときに総務の一人としておりました。事情をよく知っております。三木幹事長が提案しました。政府の意思を迎えて記念日をやろうという発言をしたところが、憲法調査会長の山崎厳君が発言を求めて、今自由党は憲法調査会を設けて、場合によっては憲法を改正しようというやさきだから、祝賀の意味の記念日はやる必要はない、こう言った。その次に清瀬君が立って、これはマッカーサー憲法だからやる必要はない、おかしいと言ったら、それが圧倒的の空気になって大体賛成しました。私は憲法記念日をやることはほんとうは腹の底では賛成しておりました。憲法祝賀会をやることは少し出過ぎだと思って、私は発言しようと思ったけれども控えました。そして憲法記念日をやることと憲法祝賀会をやることと、こちらは区別しても、集まる大衆は区別しない、自由党は憲法改正を本気に考えておらないのだという意味にとると困るというので、私は憲法祝賀会はやる必要はないと思ったのです。ところが憲法記念日は現行憲法がある以上はやった方がよろしいと考えておった。ところが発言しなかったのは、憲法祝賀を意味するような憲法記念日はやる必要はないという意見が圧倒的になって、これが多数で可決いたしました。総務会で可決したから代議士会は開かなかった。これは総務会が最高決議機関として了承したのであります。事情はそういう事情でありまして、憲法記念会ということには反対は少かったと思う。ところが記念会と祝賀会とは区別されないという発言をやった人があって、それにみな賛成したのです。
  113. 受田新吉

    受田委員 同じく国民祝日に関する法律の一部を改正する法律案の提出者であられる北れい吉先生から、総務としてその間の事情を明白に表明をせられたので、私は自民党内部の事情について了解しました。北先生に率直に申していただいた実情によるならば、驚くべき反動の元凶は清瀬前文部大臣だということがわかりました。今滝本参事官の御発言によって、憲法の普及徹底の責任は文部省にあると言明されている。このことについて文部省はいかなる措置をとられたかということで午前中から私お伺いしたのでありますが、責任の所在がきわめて明瞭になりましたので、あらためて斎藤文部参事官に御答弁をこいねがいたいと思います。
  114. 斎藤正

    ○斎藤説明員 午前の受田先生の御質問にお答えいたしましたように、文部省といたしましては、国の祝日につきましては、その意義が徹底するように、それぞれの祝日にふさわしい適当な行事を学校においてとられることが望ましいということを指導いたしまして、それによりまして各学校におきましては、あるいは教育委員会指導もとにそれぞれ適当な行事が実施されるであろう、こういうことを期待しておるわけでございますので、国の祝日を軽視するとか、そういう考えは毛頭なく、それぞれの意義にふさわしい行事が行われることを期待しておるわけであります。
  115. 受田新吉

    受田委員 先ほど滝本参事官は、国として憲法の記念式典をやる問題などは、内閣でやるのでなくして、文部省が国のそうした行事等についても計画するんだ、文部省に一任してあるんだということであります。最初の憲法公布当時の式典も文部省が中心でやったということであったのですが、あなたの御発言は、ただ学校だけのことを今言っておられるのですが、そうでなくして、国としての行事、計画を私はお尋ねしておるわけであります。
  116. 斎藤正

    ○斎藤説明員 当初の憲法記念日の主催者が文部省であったかどうか私案は記憶がないので、その点についてはなお調べてみたいと思っております。ただ文部省といたしましては、社会教育並びに学校教育の面において適当な行事が行われるということを期待いたして、その点の指導をいたしておるわけでございます。
  117. 受田新吉

    受田委員 滝本さん、そこはどうですか。どうも責任がはっきりしません。
  118. 滝本拝彦

    ○滝本説明員 憲法五周年記念の皇居前の祝典につきましては今記憶にありませんのではっきりいたしませんが、おそらく国会、それから政府、それから東京都、共同主催といいますか、そういう形で執行されたのではないかというふうに考えております。今のところ記録を持っておりませんので、二者あるいは三者の共同主催ということで実施されたというふうに考えております。
  119. 受田新吉

    受田委員 文部省には最近反動的な文相が相ついで職についたために、せっかく盛り上った民主主義の芽を一挙につみとるような措置をやったのじゃないか。大達文相以後の歴代の文部大臣というものは――現在の文部大臣はあすどういう答弁をするかで私は判断いたしますが、これはやはり相当問題だと思うのです。少くともこうした国民的な行事として尊重すべきものについては、大した経費が要るものではないのです。国民に憲法の普及徹底をはかり、周知徹底をはかる形式的な仕事だけでも相当な影響力があるのですから、わずかな予算で仕事ができるのです。それすらもやらなかったというところに、私は憲法軽視の魂胆を発見せざるを得ません。提出者でいらっしゃる先生たちの御意見を伺いましても、祝日とは言うてもどうせ改正しようとしておるのだから、あまりこれを祝うと憲法に賛成したようでへんに思われるからというような、大へんな浅はかなお気持でやられたのではたまらぬです。もっと政治をまじめに考える必要があるのじゃないでしょうか。この点につきましては、提出者のお名前の中にはりっぱな方々が網羅されておることだから、十分御相談をされて、せっかくこの法律案を出された以上は、憲法記念日もあわせて一つ尊重するような方向で、憲法の存する限りはやろうじゃないかというような含みを持って、あなた方は提出者の間で相互のお諮りをなぜなさらなかったのですか。漫然と法案を提出し、漫然と野党に協力を求めるという、この漫歩調の法案提出には私は内心はなはだ不愉快を感ずるのでありますが、真剣に法案と取っ組み、祝日をりっぱに祝おうという国民感情を育てる意味における提出者の御努力が足らなかったことをお認めになりませんか。
  120. 纐纈彌三

    纐纈委員 私どもはこの法案をなるべく早く通していただきたいと考えておったわけなんです。そこで憲法発布の祝日までには通ることかと実は思っておったのですから、そういうことを十分にやっておらなかったことは、あるいは軽率のそしりがあったかと思いますが、そういう気持で私どもは憲法記念日の問題を取り扱っておったわけであります。率直に申し上げます。
  121. 受田新吉

    受田委員 きわめてずるいお考えです。憲法記念日までには通るからというようなことではいよいよもってずるいですよ。私はこの法案審査に応ずるのが非常に不愉快になったのです。憲法の記念日は一応できている。その方は歴史的な十周年さえもしない。しかも憲法記念日までにこの法案は通るだろうという逃避的なお考え提案者から伺った以上は、この質問を続行することははなはだ不満足なんでございますが、今内閣官房長官がおいでになるということでありますから、政府の責任者としての見解をただしたいので、質問を敢然と続行します。がまんしていただきたいと思います。
  122. 纐纈彌三

    纐纈委員 私ども最初から申し上げているように、この紀元節の問題は憲法改正とは何も結びつけて考えていないのです。そういうこともありましたのですから、こういう事態になったことは私ども予想いたしておらなかったのです。ずるい考え方ではなく、まことにまじめに考えて、この問題を憲法の改正と結びつけるというような考えがかえってずるい考えであったかと思いますが、そういう考え方を持たずにこの問題を私は扱ってきております。今日も私はそのつもりでおります。
  123. 受田新吉

    受田委員 先般要求して、いただきましたこの資料は非常にけっこうだし、大体見た問題がたくさん出ていますが、この各省にまたがる行事について、内閣におかれましては各省に対する照会等によって総合的にこれをとりまとめの措置をとっておられますか、ばらばらの形のままですか。
  124. 滝本拝彦

    ○滝本説明員 正直申し上げますれば、この委員会の御要請がありまして、今度三十一年以降現在までの分につきましてお手元に資料として提出いたしたのでありまして、毎年これに関しまして総合的に各省の実施事項を資料として取り寄せるということはいたしていないわけでございます。
  125. 受田新吉

    受田委員 文部省にお尋ねします。文部省は憲法記念日の普及徹底の責任者であると参事官からの御指摘があったわけであります。文部次官通牒で、子供の日に対する行事についての実施の依頼、成人の口の行事についての依頼、春の社会教育週間についての依頼等のうちで、憲法記念日についての具体的な依頼という問題は、これは特に取り上げてないようでございますが、やはり憲法の問題は敬遠されたのでございましょうか。
  126. 斎藤正

    ○斎藤説明員 国の祝日につきましては先ほどお答えいたしましたように、政府といたしまして、昭和二十四年に次官会議で全部の事項について取りまとめて通達をいたしております。なお、学校においてとるべき措置については、二十五年に通達いたしましたことはお話し申し上げた通りでありますが、祝日を、あるものは通知をする、あるものは通知をしないということは、あるものを尊重し、あるものを軽視するという趣旨ではございません。そのときにとり行う行事で、特に言ってやった方がよかろうというものを、それぞれの関係の局課において検討をした末出したものであろうと思います。特に成人の日等につきましては、従来ややともすれば成人に達した者だけを対象とするようにいわれておりましたのを、その後青少年問題協議会等で、成人に達しないような少年たちも対象として行事を行うようにという御意見もありましたので、特にその点を詳しくして出したものと存じております。
  127. 受田新吉

    受田委員 文部省が取り扱っている教科書において、憲法の普及徹底はいかように考えられておりますか、教科書編さんに関する文部省の見解をただしたいと思います。
  128. 斎藤正

    ○斎藤説明員 国の政治組織の基本に関しますような事柄は、学校教育の中では、小学校、中学校、高等学校におきまして、社会科の中においてそれぞれ原則的な事柄については包含されておるわけであります。教科書は、御承知のように、これは個人の著書でございますから、限定はございますけれども、文部省において示しますことは、学習指導要領で、それぞれの段階において、社会、経済のあり方として政治組織にも触れておるわけでございます。
  129. 受田新吉

    受田委員 文部省は、教科書の編さんはそれぞれ民間にまかされておることではありますけれども、何かそこに統一的な指導精神を示そうというようなことを計画をしておられるのではないか。その点について最近の文部省の内部における指導方針をお示し願いたいと思います。
  130. 斎藤正

    ○斎藤説明員 社会科につきましては、午前中先生から御質問の出ましたように、第一次の改訂を行なっております。その中で、社会科でございますから、人間相互の関係について正しい理解と共同の精神を養う。それから郷土並びに国家の現状と伝統について正しい理解に導く、進んで国際理解、国際協調の精神を養う。それから日常生活に必要な衣食住、産業等について規則的な技能、理解を養うこと、こういう事柄が社会科の本質的な目標であろうと、かように考えております。
  131. 受田新吉

    受田委員 官房長官はきょう来られますか。
  132. 相川勝六

    相川委員長 官房長官は来られません。
  133. 受田新吉

    受田委員 私はきょう官房長官が来られたら政府の見解をただして、先ほど来の問題点の説明をはかりたいと思っておりましたが、今官房長官が来られないということになった以上は、明日質疑の続行を許していただいて、政府、与党の幹部の見解の説明を求めることとし、それを委員長において了解いただいて、きょうは質問を終りたいと思いますが、よろしゅうございましょうか。
  134. 相川勝六

    相川委員長 官房長官の説明だけですね。――それではあす官房長官の方と連絡いたします。     ―――――――――――――
  135. 相川勝六

    相川委員長 それでは連合審査会開会の件についてお諮りいたします。ただいま当委員会において審査中の国民祝日に関する法律の一部を改正する法律案について、先刻文教委員長から、本日の文教委員会理事会の協議により、当委員会に対し、文教委員会から連合審査会の開会を申し入れることとなったから、よろしくお願いいたしたき旨私に対し申し入れがありました。文教委員会においては明日午前九時五十分から会議を開いて、この申し入れを正式に決定する予定とのことでありますから、当委員会といたしましては、文教委員会において申し入れの決定がありましたならば、明日午前十時から連合審査会を開会することにあらかじめ決定いたしておきたいと存じますが、これに御異議ありませんか。   〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  136. 相川勝六

    相川委員長 御異議なしと認めます。よってさように決しました。次会は明十四日午前十時から文教委員会との連合審査会を開会し、委員会は午後一時より開会することといたします。  本日はこれにて散会いたします。    午後四時十六分散会