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受田委員 古代の文字のなかりし
時代、またこれを後世に伝えるための紙もなかったという
時代のことでありまするから、そこに創作も相当出るということは私はやむを得ぬと思うのでありますが、非常に簡単にした
時代が長く、九代にわたって簡単に書いてあるということは、これは十分その簡単にした理由があると思うのです。その九代の開化天皇までをごく簡単にお名前とその御陵を書いておる程度のものであるということは、そこが空白期であるので、そこに欠史、つまり
歴史が欠けておる
時代であるので、何とかそこに名前をつけようというので書かれたと思うし、それから稗田阿礼のような博覧強記の
人間がおって、歴代語部がおって言い伝えるという
時代が続いたにせよ、何代も何代も語っていく間には、そのうちには
一つの新しい創作が出たり、誤まり伝えが出たりして、とんでもないことになってくると思うのです。これはお互いの祖先を見てもわかる通り、何代も昔からの話をいろいろ知っておる
人々というのは、きわめてまれなんです。それが膨大な
記紀の著書となったということを
考えると、これだけの文句を語るということは容易じゃないのですから、いかに博覧強記の人物であったとしても耐え得ないことですから、これははなはだおもしろいことなんです。だからこそ
古事記と
日本書紀に非常な食い違いが起っておる。一方推古天皇までの
古事記の方と、その推古天皇までの
日本書紀とを比べても、たった一代の天皇の差異しかないにかかわらず、あとから加えた筆の
書紀の方は、非常に創作的に美文麗句が掲げられて、
古事記で簡単に書いてあるところが非常に長たらしく詳しく書いてある。これを見ても
古事記と
日本書紀の二書の間においても、非常に
編さんの方針が違って、あとから出た
書紀の方に創作的な作文的な
要素がたくさん取り込まれたということは、否定できないと思うのです。だから私は、ここでこの間小野先生も証言で申されたのでございますが、参考意見としてお聞きしたときにも、これは
伝説の、伝二千六百年という形にしたらよかったということでございました。
伝説のワクをはずれるものでないことは、これはもう
紀元節を肯定される方方の大半の御意見だと思うのです。ところがもう
一つの問題は、この
記紀のほかに万葉、祝詞、宣命というようなものの中から、私たちは
日本の
紀元に関連するこれらの上代、古代の
社会情勢を見出す
要素が発見できると思うのです。これは、祝詞などは明らかにあの壮厳な口調で当時の
社会情勢を織り込み、
一つの信仰的な
社会の機構を表現した文句だと思うのですが、あの祝詞の文句などは明らかに
古事記、
日本書紀の
伝説の、その当時
社会的にもう流布された
一つの信仰となったようなものが祝詞に出ておる。「
高天原爾神留坐(タカマノハラニカムヅマリマス)、皇睦神漏伎命神漏弥命以(スメムツカムロギノミコトカムロミノミコトモチテ)、」というところから始まっておる、あの
天照大神の前で素戔鳴尊が乱暴をされた当時の様子などを
中心に書かれた天津祝詞を
中心に、また六月祓、大祓、伊弉諾、伊弉冉尊の汚れを払うたことを
中心にしておるというようなことから、これら祝詞の中にも
日本の古代の様相が十分出ておる。だから
一つのこれは信仰的な
社会である、こう思うのです。また万葉になってくると、これはまた非常にやわらかいところが出ておるのでありますが、この万葉集の中にも、古い
古事記、
日本書紀に出てくるような
時代の歌がたくさん出てきておる。二十一代雄略天皇の御製が一番先に万葉集に出ておりますが、それを見ましても、第一巻に上げてある雄略天皇の御製のくだりには、その当時の
皇室のあり方を具体的に示した文句がある。「籠もよ み籠持ち ふぐしもよ みふぐし持ち この岳に 菜摘ます児 家聞かな 名告らさねそらみつ やまとの国は おしなべて 吾こそ居れ 敷きなべて 吾こそ坐せ 我こそは告らめ 家をも名をも」こういうて歌ってある。かごを持ち、へらを持ってこの丘で菜をつんでおる娘さんよ、あなたの名は何というか。われはそらみつ
日本の国を治める天皇である。あなたの家はどこか、こういうのです。天皇が地方巡視の際に道で草をつんでおる娘さんに、娘さんよ、あなたのうちはどこかと言う。これは実に
民主主義のよく徹底した
時代の天皇の姿を歌ったのが、あの万葉集の
開巻第一です、こういうことを見ると、天皇の地位というものは今ごろのような
民主主義、主権在民と同じような形で、きわめて平民的に、たんぼで菜をつんでいる娘さんに、おいこら娘さん、あんたの家はどこか、名は何というか、それほど平凡に書かれている。その
記紀、万葉、祝詞の
時代を乗り越えて、それだけ非常に具体的になった
時代を乗り越えて神がかり的な天皇の地位に祭り上げたのが明治
時代であり、大正
時代であり、大東亜戦争の
時代であったのです。これは、われわれはその点においては非常に残念でございましたけれ
ども、
記紀、万葉の精神は実をいうと非常に平民的で、神と名はついていても、天皇を神格化するというような、そうありがたい雲の上人というものではなく、神様でも悪いことをするということがみな書いてある。この文章の中におどり出る
皇室であろうと神々であろうと、なかなかたちの悪い人もおられて容易でないことが書いてあるのでありますから、これは非常に平民的な
存在であったわけです。それをだんだん神格化し、雲の上の方へ押し込めるような形に後々の人が持ち込んでいって、特定の
歴史学者やら国体明徴論者やら
政治家やら軍人がそれを
一つの方向へ持っていって、ついに天皇を特殊の現人神として尊敬し、
紀元の日をもって
建国祭とし、またこの日をもって国全体を、
世界に誇り得る唯一の八紘為宇の大精神を発揮する使命を持つ、
世界で一番ありがたい国であるというような方向に持っていったのが、このいわゆる最終段階における
紀元節の
存在であったと思うのです。だから、今度の
紀元の日を復活するということが、今私が申し上げたような形で犯されてきた従来のあやまりを復活させるのではないかという、特に
国民の間で平和を祈り
民主主義の成長をこいねがう
人々の間で非常な
疑義を持たれている。この疑問を解決しない限りは、
国民あげて祝うという
気持になれないことを御了承願わなければならぬ。今私が申し上げたような、古い
伝説の中に、きわめて平民的に、きわめて素朴にうたわれた
国民感情を神格化し、雲の上人のような形に、
人間社会とは異なったもののように持ち込んでいった過去の
政治家、軍人、学者等のそうしたあやまりを、
纐纈先生ははっきりお認めになるか。またそういうあやまりの中から出た
紀元節として、特に
建国祭として、最終段階では今私が指摘したような事実をお認めになるかどうかをお答え願いたいのです。