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1957-05-07 第26回国会 衆議院 内閣委員会 第37号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和三十二年五月七日(火曜日)     午前十時三十二分開議  出席委員    委員長 相川 勝六君    理事 大平 正芳君 理事 床次 徳二君    理事 福井 順一君 理事 保科善四郎君    理事 山本 正一君 理事 石橋 政嗣君    理事 受田 新吉君       江崎 真澄君    大村 清一君       北 れい吉君    纐纈 彌三君       田中 龍夫君    辻  政信君       眞崎 勝次君   茜ケ久保重光君       飛鳥田一雄君    淡谷 悠藏君       稻村 隆一君    西村 力弥君  委員外出席者         議     員 小川 半次君         専  門  員 安倍 三郎君     ――――――――――――― 四月二十六日  委員大坪保雄君及び眞崎勝次辞任につき、そ  の補欠として小澤佐重喜君及び渡海元三郎君が  議長指名委員に選任された。 同日  委員小澤佐重喜君及び渡海元三郎辞任につき、  その補欠として大坪保雄君及び眞崎勝次君が議  長の指名委員に選任された。 同月二十七日  委員薄田美朝君、纐纈彌三君及び淡谷悠藏君辞  任につき、その補欠として林唯義君、川野芳滿  君及び安平鹿一君が議長指名委員に選任さ  れた。 同日  委員川野芳滿辞任につき、その補欠として纐  纈彌三君が議長指名委員に選任された。 同月三十日  委員林唯義君辞任につき、その補欠として薄田  美朝君が議長指名委員に選任された。 五月七日  委員山本粂吉君及び安平鹿一辞任につき、そ  の補欠として田中龍夫君及び淡谷悠藏君が議長  の指名委員に選任された。     ――――――――――――― 五月二日  防衛庁設置法の一部を改正する法律案内閣提  出第一五五号) 四月二日  建国記念日制定に関する請願松村謙三君外一  名紹介)(第一七五号) 同月三十日  恩給額調整に関する請願愛知揆一君紹介)(  第二八九九号)  同(小川半次紹介)(第二九〇〇号)  同外二件(佐藤榮作紹介)(第二九〇一号)  同(戸叶里子紹介)(第二九〇二号)  同(林讓治紹介)(第二九〇三号)  同(村松久義紹介)(第二九〇四号)  同(菊地養輔君紹介)(第二九二八号)  同(竹谷源太郎紹介)(第二九二九号)  同(内海安吉紹介)(第二九四四号)  同外一件(鈴木直人紹介)(第二九八三号)  同(松井政吉紹介)(第二九八四号)  傷病恩給支給開始月の改正に関する請願小川  半次紹介)(第二九〇五号)  同(木村俊夫紹介)(第二九五一号)  同(高瀬傳紹介)(第二九五二号)  同(徳田與吉郎紹介)(第二九五三号)  同(山手滿男紹介)(第二九八六号)  旧軍人の内地り傷病者に対する傷病恩給に関す  る請願木村俊夫紹介)(第二九四五号)  同(高瀬傳紹介)(第二九四六号)  同(徳田與吉郎紹介)(第二九四七号)  戦傷病者目症者に対する傷病恩給に関する請  願(木村俊夫紹介)(第二九四八号)  同(高瀬傳紹介)(第二九四九号)  同(徳田與吉郎紹介)(第二九五〇号)  旧軍人関係恩給加算制復元に関する請願(田  村元君紹介)(第二九五四号)  同外二件(永山忠則紹介)(第二九五五号)  同(橋本登美三郎紹介)(第二九五六号)  寒冷地手当増額及び薪炭手当免税に関する請願  外三件(茜ケ久保重光紹介)(第二九八一  号)  旧軍人の在職中のり傷病者に対する傷病恩給に  関する請願植木庚子郎君紹介)(第二九八二  号)  旧日本医療団職員恩給法適用等に関する請願  (亀山孝一紹介)(第二九八五号) の審査を本委員会に付託された。 五月六日  旧軍人関係恩給加算制復元に関する陳情書外  百件  (第八三〇号)  同外百三十六件  (第八六七号)  地域給制度是正に関する陳情書外二件  (第八三  二号)  恩給額調整に関する陳情書  (第八六八号)  元満州国日本人官吏恩給法適用に関する陳情  書  (第八七〇号)  米軍水上機訓練水域小松島港等海域設置  反対に関する陳情書  (第八七四号)  伊良潮水道に対潜機器敷設反対に関する陳情書  (第八七八号) を本委員会に参考送付された。     ――――――――――――― 本日の会議に付した案件  国民祝日に関する法律の一部を改正する法律  案(纐纈彌三君外三十七名提出、衆法第一号)     ―――――――――――――
  2. 相川勝六

    相川委員長 これより会議を開きます。  公聴会公述人選定に関して御報告申し上げます。明八日の国民祝日に関する法律の一部を改正する法律案に関する公聴会公述人選定に関しましては、去る四月二十三日の委員会において委員長に御一任を願っておりましたので、委員長におきましては理事方々と協議いたしました結果、東京教育大挙教授和歌森太郎君、歴史研究家森清人君、東京大学助教授井上光貞君、国学院大学教授小野祖教君、以上四名の方々公述人として選定いたしましたので、御報告をしておきます。  なお公聴会に応募されました方は三十五名おりましたが、その内訳は、建国記念日制定賛成の者三十名、反対の者二名、その他三名であります。また建国記念日制定賛成の者について、その記念日を何日にすべきかという意見の内訳は、二月十一日とすべき者二十四名、八月十五日とすべき者三名、五月三日とすべき者一名、十一月三日とすべき者一名、その他一名でありましたので御報告いたしておきます。     —————————————
  3. 相川勝六

    相川委員長 引き続き国民祝日に関する法律の一部を改正する法律案を議題とし、質疑を続行いたします。淡谷悠藏君。
  4. 淡谷悠藏

    淡谷委員 建国記念日を作れというこの法案の中には、紀元節復活考えが流れているようでありますが、一体二月十一日の紀元節建国記念日としたという歴史はいつに始まっておるか。建国記念日ですから、どうせ歴史の問題が主になると思いますが、二月十一日を建国記念日とした紀元節歴史というのは一体どういうことになっているか、承わりたいと思います。
  5. 纐纈彌三

    纐纈委員 お答えいたします。神武天皇即位の年を紀元とするということは相当以前から出ておりまして、いろいろの史実に出ているわけでありますが、実際にこれを国祭日としてきめましたのは、明治になりましてからで、明治五年には一応一月二十九日ということでお祭りしたのですが、これでは毎年日にちがきまらぬということで、翌六年に太政官布告によりまして、二月十一日を紀元節とするというふうに定めたものであります。
  6. 淡谷悠藏

    淡谷委員 それくらいのことは私はわかっておりましたが、その前に建国記念日の十一日をきめようという動きはいつごろに始まったのですか、それらについて聞きたかったのです。太政官布告は大体わかっておりましたが、その以前のことをお聞きしたかったのです。
  7. 纐纈彌三

    纐纈委員 それまでは、御承知のように、国祭日というようなものは別に法律できまっておらなかったわけであります。ただ日本歴史を勘案いたしまして、やはり神武天皇が御即位になった日が国の初めという気持は相当行われておったわけであります。ただいまの御質問のように、いつ二月十一日を紀元節としたかということは、ただいま申し上げましたように、太政官布告できまったわけでありますが、ただ神武天皇がいわゆる辛酉の年の一月一日に御即位になったということで、元日のお祭とともに、一月一日にそうした意味を含めてある程度お祝いしたという事実はあったように思うのであります。
  8. 淡谷悠藏

    淡谷委員 明治維新というものは日本政治一つ革命をもたらした。明治維新を境といたしまして、その以前の政治あと政治とは非常に大きな相違がありますが、歴史解釈もこの政治革命の前後では大へん違ってきている。長い日本歴史の、しかも建国という大きなものが明治以前にはほとんど形をなさなかったという理由は一体どこにあるとお考えでございますか。
  9. 纐纈彌三

    纐纈委員 それまでやはり国家体制をなしてはおりまするが、明治になりましていよいよ欧米文化を取り入れて、一応の新しい形の体制になってきましたので、いわゆる維新をやりましたので、その際において将来新しい国が健全に発展していくにつきましては、いろいろと歴史等を勘案しつつわが国発展のために必要なものを取り上げて、そして祝祭日をきめるというような説が非常に強くなりましたために、特にそれ以前は、いろいろ皇室歴史が長い国でありますけれども、国家体制が特に近代的の新しい国家になった、各国にもそうした例があるようなこともおそらく勘案されたのではないかと思いますが、根本は、日本の国の発展のためにやはり祝祭日を作ってお互い国民が国のいにしえを思い、過去の先祖たちが作ってくれた日本歴史というものを尊ぶ一つのよすがとして、この祭日がきめられたのでありますから、それ以前といたしましては、明治に行われましたような祭日はなく、国民お互いにそれぞれ自分たち習慣その他によっていろいろのお祭りというものができておったのでありましょうが、国全体がお祭りをするというような風習はなかったんじゃないか、こういうふうに思っております。
  10. 淡谷悠藏

    淡谷委員 国全体が、神武天皇といったものを大きく祭られた理由の中には、ときを徳川幕府に限って考えましても、幕府政治というものと明治になってからの政治と大へん違いがある。つまり明治になってから神武紀元を祝おうという気分が出ましたのは、天皇中心とする政治を強調しようという一つ指導理念があったと考えますが、あなたはどう思いますか。
  11. 小川半次

    小川半次君 われわれはそういう工合考えておらぬのでございまして、要するに、ただいま纐纈君からもお答えがありましたように、明治初年に入りましてから、わが国先覚者欧米各国文明文化を取り入れたのでございまして、その際に、日本欧米と同様な国を作り上げなければならぬ、それにはやはり自分の国の建国の日はいつであるかということも、国を立てていく源として必要であるというので、これを太政官布告によって紀元節というものを設けたり、あるいは政治の上におきましても、欧米各国と同様ないき方をとっていこうという政治がとられた、こう私たち考えておるのでございまして、もちろんそれ以前には近代国家のような一つ組織的なものが、まず日本にはなかったことは事実でございまして、近代国家としての組織を取り入れたのは、今申し上げたように、明治初年に至って先覚者欧米各国のいろいろな制度を取り入れて作り上げた、このようにわれわれは解釈しているのでございます。
  12. 淡谷悠藏

    淡谷委員 明治政府性格天皇中心政治ではないというあなたの考え方には、私は納得がいかないのであります。一体明治維新をやる以前の王政復古、あるいは天皇一家に対するさまざまな忠勤思想が、徳川幕府によってどのように扱われておったか、あなたはどう解釈されておりますか。非常に逆境にあったのじゃないか、その逆境にあった天皇象というものをもり立てていって、そしてこれを中心にして日本の新しい政治形態を開こうというのが、明治維新の意義であったとわれわれは考えておるのでありますが、その点について非常にあなたの御答弁とは食い違っておる。もっと明らかにしたいと思うのです。
  13. 小川半次

    小川半次君 私はあなたのお説を否定しているのじゃございませんので、そういうこともありましたし、また今私が申し上げたように、欧米各国文化を取り入れて新しい日本を立てていこうという点もあったということを申し述べたのです。
  14. 淡谷悠藏

    淡谷委員 そうなりますと少し話が変になるのです。もっとはっきり突き詰めて考えたい。欧米各国といっても広うございまして、あの当時でもアメリカ、ドイツ、イギリス、それぞれ国体が違っておった。その場合日本のとりました明治維新政治形態というものは、明らかに天皇中心とした一つ立憲思想であった。そうしますと、今明治維新の初めに起った紀元節をもう一ぺんやろうというのは、終戦後の政治形態明治維新当時の政治形態とほとんど違っていないとお考えでございますか、それともはっきり違っておるとお考えでございますか。
  15. 小川半次

    小川半次君 時代進歩とともに大なき進歩があることは事実でございます。その進歩は、要するに当時は何と申しましても、先ほど申し上げましたように、国全体に対する完全なる組織というものができておらなかった時代でございまするし、今日は御承知のように民主主義時代に入っておりますので、当時と今日とに相当大きな差があるということは私自身も認めております。
  16. 淡谷悠藏

    淡谷委員 明治の初年と現在と違っておることは、これは当然であります。それならば、今復活させようという建国記念日構想は、その当時の建国記念日とどういう点において違いをきたしておるか。同じ構想でやろうというのであれば、復古思想にすぎない。つまり日本の敗戦の姿はいつか古い姿に返らなければならないという復古思想としか考えられない。新しくやろうというならば、一体今度の紀元節復活の中にどのように新しい構想が盛られておるか、はっきりお聞きしたい。
  17. 小川半次

    小川半次君 今われわれが新しく二月十一日を建国記念日にしようということは、御承知のように、終戦後新しい祝日が制定されまして、その制定いたしました当初から、建国記念日を設けてほしいというのは、これは国民感情でございまして、その国民感情に伴いまして、数回にわたって世論調査等を行なったのでございます。世論調査を行なったところ、御承知のように、これも七八%二月十一日が建国記念日として適当な日である、こういう結論が出ているのでございまして、その二月十一日が建国記念日として妥当であるという国民意思の現われは、これはやはり日本の古事記あるいは日本書紀を通じての、しかもその以前は、やはり国民の言い伝え、習慣、こういう長い歴史過程において、二月十一日は日本建国の日であると考えるというところにあるのでございまして、これはただ一朝一夕にきのうきょう考えついたものでもございませんので、この長い日本歴史過程を通じて二月十一日が建国記念日であるという根拠に基いて、われわれは新しくここに二月十一日を建国記念日として制定しようということにしたのでございます。
  18. 淡谷悠藏

    淡谷委員 当初の私の質問はそこにあったのです。あなたは長い歴史過程と申しますが、日本歴史は百年や二百年じゃない。もっと長い歴史過程を経ておる。しからばどうして二月十一日が明治以前には国民感情として出てこなかったかという問題。あなたは世論と申しますけれども、世論は、全部とは申しませんが大半は作られる。特にマス・コミュニケーションが盛んになった今日、政府憲法記念日を祝わなければ祝わないくらいに、国民世論というものは変っていく。世論は作られる。それを考えた場合に、どうして明治以前の長い歴史において建国祝日として十一日が祝われなかったか。この当初の質問に対してあなたははっきりお答えになっているのですが、長い日本歴史的な国民感情の中には十一日が浮んでこなかった。明治になってから初めて教育と宣伝によって建国記念日が祝われてきた。それを今またもう一ぺん復活しようというのか、明治以前までさかのぼるのか、明治政府によってとりきたられたあらゆる政治社会指導方針を踏襲されるのかと私は聞いておるのです。
  19. 小川半次

    小川半次君 明治以前には、やはり日本建国の日は神武天皇即位の日である、こういう考え方できたのでございまするが、明治になって太陰暦から太陽暦に改めるときに逆算いたしまして、御承知のように、二月十一日というものを新たに制定することになったのでございまして、これは日としては変りがないのです。それ以前には、先ほど申し上げたように、国家が今日のような組織化された時代ではなかったので、一部の人たち神武天皇即位の日を建国の日であると祝っておったこともあるようですが、国民全体としての祭日というものは行き届いていなかったようでございます。そういう行き届いていなかったことを、明治に至りまして、文明の開けております各国が、やはりこの建国記念日というような日を祝っておるので、日本も古い歴史を持っている以上は、その文明文化の開けておる国と同様に、建国の日を祝わなければならぬというので、御承知のように、紀元節が制定されたのでございます。
  20. 淡谷悠藏

    淡谷委員 明治維新以前に国民の一部にこの祝日を祝うことがあったと言っておりますが、その一部というのはどういう一部ですか。
  21. 小川半次

    小川半次君 それは一部ですから、ここで国民のだれであるかというようなことは……。たとえばまあ皇室においてもそうでございましたし、あるいは神社等においてもそういう記録が残っております。
  22. 淡谷悠藏

    淡谷委員 皇室神社において紀元節が祝われた、このことは非常に重要な意味を持つのであります。徳川幕府が祝った祝日は一体何でございましたろう。
  23. 纐纈彌三

    纐纈委員 徳川幕府時代に国が全体としてお祝いしたということについては、私は寡聞にして知りませんが、少くとも家康が権現様を祭って、そして祖先を祭るというような形は、もちろんあったと思います。そういう以外に、徳川幕府の間に特別な国民祭日というような形で行われたことはない。ただ、あるいは仏教の方、宗教的関係からきまして、祖先を祭る日であるとか、あるいはお節句であるとか、そういった今日も習慣として祭られておるようなものは、これは国民の間に一応祭られたかもしれませんが、徳川幕府が特にこの日を国民祭りとしてやったというような事例は、私はなかったと承知いたしております。
  24. 淡谷悠藏

    淡谷委員 これは纐纈さんは当然御承知だろうと思うのです。なぜ徳川幕府紀元節を祭らなかったということは、あなたは知らないはずないのですから、率直に言ってもらいたいと思うのですが、やはりそこには、台頭してくる王政復古——幕府を倒して明治維新をやろうというようなさまざまな動きを押える必要があったので、やはり幕府としては天皇を前面に出さないため、その他の祝日をもってかえたようにわれわれには考えられるのです。祝日を決定するうしろに存在する政治指導理念社会世論というものを指導しようとする理念、こういうものをやはり取り上げなければ、本体をつかめないと私は思う。徳川幕府祭日は、今の明治維新以後の祭日の観念とははっきり違って、皇室に対して出てくるいとまを与えないような構想で行われておったという事実を、あなたはお認めになりませんか。率直に言ってもらいたい。
  25. 纐纈彌三

    纐纈委員 あるいは政策の上から多少そういうふうな意図を持っておったかもしれませんが、国民としては必ずしもそういう意図をそのまま受けてお祝いしたとは私は考えておらぬのであります。
  26. 淡谷悠藏

    淡谷委員 皇室神社の中において紀元節を祝っていても、国民の大体は徳川幕府のとったお節句を祝っておったでしょう。三月三日、五月五日、今でもなお続いておる。長い国民的な歴史感情から申しますと、私は紀元節よりもこのお節句を祝う感じの方が、日本国民全体としては今でも強いと思う。その間にも、やはり政府明治維新を通して新しい国民感情を作ろうという動きが、紀元節にも天長節にもはっきり現われてきておる。ごまかさないで、やはり紀元節とは、明治維新政府が新しい王政復古理念をもって、新しい国家を作ろうということから作ったものとは言えないのですか、言えない理由がそこにありますか。悪かったのですか、日本皇室中心は……。
  27. 小川半次

    小川半次君 淡谷議員は、天長節紀元節と故意に結びつけようというところから、ちょっとお話が飛躍をしておるように思うのです。建国記念日を制定しようという意思になったのは、やはり欧米先進国建国記念日というものを作っておるから、日本建国記念日というものを明らかにしておかなければならぬというところに二月十一日というものが生まれてきた、われわれはそういう工合に解釈しておるのです。
  28. 淡谷悠藏

    淡谷委員 それじゃ一つその列国の建国記念日をずっとお知らせ願いたい。どういうところに建国記念日があるか、私はそれを知らないのです。
  29. 小川半次

    小川半次君 いずれ後日資料でお届けします。
  30. 淡谷悠藏

    淡谷委員 あなたはあるという答弁をして、今さら資料とはおかしい。あるのでしょう。あるのなら、それを言ってもらいたい。資料あとでもらいます。
  31. 纐纈彌三

    纐纈委員 大体、初めというような意味合いにおいて、各国いろいろ名前が違うのであります。まず、ないところは、イギリスとスエーデンがないのでありますが、ほかの国は大体ありまして、アメリカは御承知のように独立記念日、ロシアは革命記念日フランスはカトリシアの七月十四日がお祭りになっております。ユーゴには独立宣言記念日があります。イタリアにも共和国宣言記念日、西ドイツには連邦共和国記念日ベルギー独立記念日ノルウェー独立憲法採択の日を記念日といたしております。それからフィンランドは独立記念日を祝っております。ポルトガルも、ポルツガルの日ということで、これは国の初めを祝っておるわけであります。スペインも同じであります。それから中国は御承知のように双十節であります。中華人民共和国は建国記念日というのがございます。インドには共和国成立ビルマもさようでございます。そういうようなわけで、国ができたということをお祝いする意味において、大体同じような意味合いのものと私は思っておるのであります。
  32. 淡谷悠藏

    淡谷委員 私も大へん参考になりました。そこで、私はもう少しお教え願いたい。その一つ一つについて、記念日は大体何年ころのものであるか、どういう性格のものであるか、もう少し詳細に御説明願いたい。
  33. 纐纈彌三

    纐纈委員 フランスは一七八九年、革命の日です。スイスは、一二九一年のスイス連邦の結成された時代、新しいところでは、ソ連が一九〇〇年、ベルギーは一八三一年で、オランダからレオポルド一世が独立を宣言した日であります。それからオランダは一五八一年で、スペインから独立した日であります。ノルウェーは一八一四年の憲法採択記念日お祭といたしておるわけであります。ポルトガルはいつからでしたかちょっとはっきりしませんが、スペイン革命があって後にできておるわけであります。中華民国も新しいのでありますし、インドも非常に新しい。そんなふうで、一番古いのはスイスでありまして一二九一年、こういうことになっております。
  34. 淡谷悠藏

    淡谷委員 日本紀元節というのは西暦に直しますと一体何年になりますか。
  35. 纐纈彌三

    纐纈委員 BC六百六十年前であります。
  36. 淡谷悠藏

    淡谷委員 それでは、世界最古建国記念日であるのは日本らしいのですが、一番古い日本建国記念日近代国家における最も古いスイスとの間には何年の開きがありますか。
  37. 纐纈彌三

    纐纈委員 これは今読み上げましたように、御承知のように欧米各国の方は、日本と違いまして、しょっちゅう戦争をやったりいろいろしておりまして、国がごたごたしている。そうして最近の国家というものは新しく出てきたのでありますが、日本皇統連綿としてずっと伝わってきまして、ほかの国に行われた革命というようなものはなかったのであります。そういう意味において日本はその古い歴史を尊びたい、こういうような考え方から、しかも御承知のように、日本の正史であります日本書紀にはっきりとその年が出ておりますので、それを採択したわけでございまして、これは日本は独自のものでございますから、必ずしもほかのところに古い日をお祭にしたことがないということでもって、これをやることが誤まりだというふうに私どもはとっておらぬのであります。  先ほどもちょっと御質問のときにございましたが、今日は少くとも明治時代考え方と時世が違っておりまして、天皇はすでに憲法において国の象徴とされておりますし、さらに民主主義というものは非常に進んできたのでございます。この前稻村先生は、神武天皇が東征して征伐されたということをおっしゃっておりましたが、即位をされる二年前にみことのりを出されまして、その詔勅を見ましても、自分たちが西からやってきて、ここに落ちついて六年になった、そこでようやく世の中も治まってきたので、ここで一つ都を立てて国のまつりごとをよくやりたい、神の教えにならって、少くとも人民の利益を守ってまつりごとを行いたい、こういうことでございます。この紹勅を見ましても、あの当時としては実に民主主義的また平和主義的な考えのもとに行われたことでありまして、これが八紘一宇であるとかなんとか戦争中にいろいろあったのでありますが、この紹勅を見ましても絶対に軍国主義的なものはない。平和主義的であり、そして民主主義的な精神のもとにこれからまつりごとをやろう、こういう、当時からいたしましてほんとうに進んだものであって、その神武天皇即位の気持をわれわれが考えて、ほんとうにここで民主国家となったのでありますから、その昔を思い出すということは非常に意義のあることであります。  なお紀元というものは、私が申すまでもないのでありますが、時というものは初めから終りまでつながっておりまして、けじめをつけるわけにいかないのであります。そこで一つ歴史を研究する場合、どこにそのけじめを置くか、こういうことで、西暦もありますし、どこの国でも歴史というものを解く場合、一つの区切りをつけなければならぬ。そこで日本はどこのときに区切りをつけたらいいか、こういう意味において紀元というものが作られたのであります。それが日本歴史で育てられてきておるのでありますから、日本の国の初めが、そういう意味において室町時代——もっと以前からも神武天皇即位されたという日は相当歴史家等にも言われておるのでありますから、そういう意味合いにおいて、この紀元、国の初めというものを祝おうということは、日本の民族主義を高揚してますます発展せしめるという意味において、これをお祭として当時の何としては採用された、こう私は信じているわけであります。従って、そういう意味からいたしますと、紀元節は軍国主義につながっておるとか、あるいは天皇制につながっておる、関係があるというようなお話がちょいちょい出ますけれども、紀元節それ自体の意味というものは軍国主義につながっておらない。いわんや、ただいま申し上げましたように、神武天皇がそういう平和主義、民主主義のもとに国を立てられたのでありますから、日本紀元が昔から唱えられており、そこに一つ歴史のエポックというものを作るという意味合いにおいて、また、日本の国というものは非常に古い歴史があるから、これをいつまでも民族意識として高揚していくという意味合いにおいて、この紀元節ということが非常に重要な問題である、国の発展には民族意識を高揚しなければならぬ、こういうことであります。日本が初めて負けて、戦後はいささか虚脱状態に陥っておったのでありますが、ようやくにして今日だんだん盛んになってきた。そうしてしかも、先ほども小川先生からおっしゃられたように、紀元節を復活してくれろという民の声が非常に高いのでありますから、この民族意識というものを高揚せしめ、また、民の多数の声を聞いて、ここに二月十一日というものを紀元として祝うという意味合いにおいて、先ほど私が申し上げましたような意味において紀元を祝い、そうして、民主政治の本領をますます発揮せしめる意味において国民の士気を涵養していきたい、こういう趣旨のもとに私どもは二月十一日を建国の日としたい、こういう考えであるわけであります。
  38. 淡谷悠藏

    淡谷委員 そういう御高説もおいおい拝聴するつもりでおりましたが、肝心かなめの私の質問にはまだお答えがないようであります。一体紀元節というものは西暦に直しましてどのくらいになっているか、その西暦に直した年代と、近代国家の一番古い建国祭であるスイス建国祭との間にどのくらいの年代が開いているか、その点がまだお答えがないようでありますから、それをお聞きして、なお、ただいまの御高説に至るまでおいおい質問を展開するつもりでありますから、そのつもりでお答えを願います。
  39. 纐纈彌三

    纐纈委員 お答えいたします。スイスが一二九一年にお祭ができたわけでありますから、西暦と日本歴史とは六百六十年の違いがありますから、一二九一年に六百六十年を加えれば、千九百五十一年前だ、こういうことになります。
  40. 淡谷悠藏

    淡谷委員 スイス建国記念祭と日本建国記念祭は違うので、その間に大へんな違いがある。さっきの小川さんのお話では、明治維新時代に世界各国の例にならって日本でも建国の祭を作ったと言われるが、そうするとスイスでもやっぱり神武天皇があったんでしょうか。スイス建国の由来というのは一体どうなんです。古事記というようなものでもあったんですか。
  41. 小川半次

    小川半次君 やはりスイスの国の文献に基いて日本先覚者が見習ったものだと見ております。
  42. 淡谷悠藏

    淡谷委員 私は無学なものですから、スイスの文献はどういう文献かもう少しお教え願いたい。その文献に基いてどういうことを祝っておられるのが。大体あなたは世界各国の例を引いて、日本明治維新のときにああいう紀元節を作ったと言われるのですから、承わっておきたいのですが、スイスではどういう文献で何を祝っているのですか。
  43. 小川半次

    小川半次君 それは御承知のように、スイスはすでに独立した国柄でございまして、その独立したスイスの国において建国の日というものがすでに定められておりましたので、そういう事実と、それからそのことはすでにいろいろなスイスの国の書物等に当然載っていることでありまするから、日本先覚者もそういう点などを一つのモデルとして、日本にも紀元節を制定した、こうわれわれは解釈しているのでございます。
  44. 淡谷悠藏

    淡谷委員 まだ私聞きたいことがありますが、今日本と親交を結んでおりますアメリカ建国記念日は、一体どういう由来でこしらえられたものか、お聞かせ願いたいと思います。
  45. 纐纈彌三

    纐纈委員 お答えします。淡谷先生も御存じの上での御質問だと思うのですが、コロンブスがアメリカ大陸を発見しまして、欧米からだんだんあちらに移住民がふえていった。もちろん土人もおったわけであります。それがおのおのいろいろの形で一つ国家というものを成さずにおったわけでありまするが、そこでワシントンがこれを治めて全体の国家というものの体制が初めて整ったのであります。それによって合衆国ができました日が独立記念日ということになったと思うのであります。今日のアメリカの国のできたのがその日でありますから、独立記念日という名前でありますけれども、アメリカの今日の国家歴史ではやっぱり建国記念日と見ることができると私は考えております。
  46. 淡谷悠藏

    淡谷委員 フランスとロシヤとのことを聞くとあまり皮肉になりましょうからお聞きしませんが、明治維新から日露戦争に至るまで日本と非常に親交があり、かつ同盟まで結びましたイギリスという古い国がありますが、日本と国柄が非常に似ておると言われましたイギリスの国が、どうして建国記念日を持たないか、その辺一つ御研究のほどをお聞かせ願いたいと思います。
  47. 纐纈彌三

    纐纈委員 私もあまり十分な研究はいたしませんが、イギリス歴史なんか見てみますると、相当前からほかの国に侵略されたり、またそれを盛り返したりというようなことで、いわゆるノルマンディーのあれによってようやくそこでほんとうの国の体制ができたような形です。ところがアングロサクソンがほかのところから攻め立てられてきたわけですから、そういう意味合いにおいて、統一されたときに国のお祭をするということが国民の感情に必ずしも沿わなかった。また古い国であるので、ことさらにそういう祭を作らなくてもよかったんじゃないかというようなこともあったんじゃないかと思うのですが、私はまことに不勉強でその点を十分に研究しておりませんが、ただイギリス歴史なんかのうろ覚えのところから想像しまして、そうした意味合いイギリスは作ってないんじゃないかというふうに見ているのであります。
  48. 淡谷悠藏

    淡谷委員 私はこの国民祝日の問題を一つの感情論として、あるいは一つの感傷としては受け取りたくない。ですからはっきりお聞きしたいのですが、纐纈さんのさっきのお話と今のお話では大へん食い違いがあるようです。日本は古い国柄だから建国にさかのぼって神武天皇を祝う。イギリスは古い国だからそれで要らないとこう言う。小川さんに言わせますと、外国の例にならって、これはスイスにならって作ったと言う。そういう日本と親しい国が、国が古いがゆえに建国記念日が要らぬというのであれば、もっと古いはずだった日本建国歴史をどうして今二千年前にさかのぼって、その日を建国記念日にしなければならないかという議論が、どうも私は論理的に納得できぬ。
  49. 纐纈彌三

    纐纈委員 古い国だから建国記念日が要らぬというのは、それはやっぱりそれぞれの国の事情によるのであります。ことに日本は最初も私が申しましたように、大和民族からずっと伝わってきており、しかも皇室というものは長い間連綿として続いてきております。ほかの国では支配者がしばしば非政を行なって、そのために国民が争いを起して、遂に革命というようなものが起きて、それぞれ支配者がかわってきておるわけです。ところが日本は私は二千六百年の歴史をひもどいてみましても、寡聞にして国民皇室の間の争いというものはいまだかつてないのであります。皇室におきまする皇位継承の争いというようなものはありました。また国民の中にはいわゆる百姓一揆というようなものはあったんですけれども、皇室には絶対に争いをしていない。その理由はやはり神武天皇が、先ほど申しましたようなほんとうにりっぱな詔勅をお出しになって、代々その趣旨を奉じつつ、善政を行なってこられましたというようなことがあるわけであります。戦国時代皇室が荒れておったのでありますけれども、国民は一人として皇室の中へあばれ込むというようなこともございません。これは国情が違っておるのでありまするから、日本はそういったふうで今までやってきて、皇室中心だったということが日本発展のために非常に幸いしておったということも、一つ理由でありましょうが、とにかく今日は御承知のように、憲法によって天皇は国の象徴であるということになって、また民主主義で進んできておるわけでありまするから、私どもは再び天皇の神格化というようなものに戻そうという意味ではなく、ただ最初も申しましたように、紀元というものが今の歴史の初めで、一つのエポックを作る、今は考古学がだんだん盛んになってきましたから、もっと先の方のこともだんだん——文献はないのでありますけれども、出土品等によりますると、やはり相当のものがあるのでありますから、そういうものを研究してみればもっともっと古い時代から日本というものが起っておったんでありましょうけれども、とにかく神武天皇によりまして、一応の国の形というものができ、しかも神武天皇がああした民主主義、平和主義の国を立てて、日本を育成していこうというお心持ちで即位されたんですから、その即位の日をわれわれが建国記念日として考えることは、当然のことだと私は思っております。
  50. 淡谷悠藏

    淡谷委員 えらい当然のところに力を入れられたようでありますが、力を入れられましても、当然とは思えないところがあるわけであります。特にあなたの歴史論はしいて言っておると思いますが、纐纈さんともあろう人が、明白なる事実を曲げて言うはずがないので、当然までくるために、あえておっしゃったんだろうと思いますが、日本歴史にもやはり皇族を流したり、天皇を流したりしておる歴史があることはあなたも御存じでしょう。また国が言うことを禁じた歴史論もあるでしょう。最近までございました。それから徳川時代皇室が大へん衰微して、あるいは戦国時代に衰微して、中へ入ったものはなくても、天皇が色紙に歌を書いてみすの間からこれを売って暮しておったような薄倖の状態もあったし、あるいはその境内に子供たちが入って、盛んに遊んで荒し回った歴史もあるじゃないですか。しいて考えてみますと、その時代が作った歴史は、歴史のニュアンスを持っておるのです。あなたに言わせますと皇統連綿として日本の国は乱れがない、だから今後も引き続いていこうというのですが、どこまでも日本の国は皇室中心でやっていこうというのですか。その点は重大ですからお聞かせ願いたい。
  51. 纐纈彌三

    纐纈委員 私は、先ほど申し上げましたように、皇室の皇位継承の問題で争いがあったことは認めております。天皇をお流ししたということもその一つであります。国民全体が、やはり人事問題になるとそれぞれ今でもお互いに争っているということで、そういうやはり自分の支持している天皇を立てるという意味合いにおいてそういうことはあった。そこは結局皇位継承の皇室だけの争いに国民が味方したわけでありまして、皇室に対する恨みを持って争いをしたということには私としては解釈できぬのであります。
  52. 淡谷悠藏

    淡谷委員 私はここであなたと歴史論をやるつもりはありませんけれども、日本歴史でもって皇室が直接に政治をとった時代は何年ありますか。
  53. 纐纈彌三

    纐纈委員 それはおそらく上古時代には直接おやりになったかどうか知りませんが、いずれそういうことになる。新しいところで見ますれば大化の改新がありまして、そこでやはり皇室中心になっておやりになったが、だんだんいろいろ豪族というようなものがはびこってきて、それが政治を行なっておった。そういう行き方が日本発展のためにはいろいろと阻害してきたということで、明治維新によりまして皇室中心という形においてやられたということだと思うのであります。
  54. 淡谷悠藏

    淡谷委員 それはお話の通り、直接天皇政治をとった歴史の年代ということは大へん少いのです。ほとんど幕府政治が多かった。それがまた日本国民皇室とが直接争いをしなかった一つの大きな理由にもなっている。明治維新はそのたぐいまれな統治形式の一つの類型なんです。あなたはさっき偶然にも——偶然か故意か知りませんけれども、終戦日本の民族は虚脱をしておった、だんだん盛んになってきた、こう言っている。何が盛んになってきたのですか。虚脱した国民の中から何が一体盛んになったのです。
  55. 纐纈彌三

    纐纈委員 それはやはり日本国民が非常に優秀であった。国民がだんだん努力をして、また政治日本のあの虚脱状態を直して、独立した以上は一日も早く日本をりっぱな国にしたい、そうしたやはり国民全体の気持がだんだん日本がもとに返ってくるようになったものと考えます。
  56. 淡谷悠藏

    淡谷委員 一体明治憲法と今の新しい憲法との間に指導理念において相違がありませんか。同じ意味であるか。どっちです。
  57. 小川半次

    小川半次君 明治憲法はやはり日本が維新直後非常に近代国家として発展していこうというところにある程度の意味が含まれているのではないかと思いますし、今日はやはりあくまでも民主主義を建前としたところの憲法の精神が含まれておる、われわれはこう解釈しております。
  58. 淡谷悠藏

    淡谷委員 纐纈さんに伺いますが、天皇中心にした、天皇を絶体とした明治憲法と主権在民の現在の日本憲法と、あなたの皇室中心考え方と矛盾がありませんか。
  59. 纐纈彌三

    纐纈委員 私は紀元節を復活するために、この建国記念日を制定するために、先ほども申しましたように、昔の神格化したような天皇復活の考えはもちろんないのです。紀元節それ自体というものは、天皇制とも、また軍国主義とも、全然関連がないのであります。そうしてまた時勢というものがだんだん変ってくるのであります。この神武天皇のみことのりにもそれがちゃんと書いてある。世の中がだんだん違うようにまつりごとを変えていかなければならない、こういうことなんです。これは実際時勢に応じてやっていくということであります。日本人は非常に進んだ国民だと私は思いますから、再びここで軍国主義に返るとか、あるいは天皇の神格化を復活するというような考えは私は毛頭持っていない。そういう意味合いにおいても、紀元節というものを別な意味において、今の民主主義、平和主義をモットーとされた神武天皇の御即位のことと同時に、あれによって国が始められたということをお祭りしていきたい、そういう意味合いにほかならないのです。
  60. 淡谷悠藏

    淡谷委員 「みつみつし、くめのこらが、あはふには、かみらひともと、そねがもと、そねめつなぎて、うちてしやまむ。みつみつし、くめのこらが、かきもとに、うゑしはじかみ、くちひびく、われはわすれじ、うちてしやまむ。かむかぜの、いせのうみの、おひしに、はひもとほうふ、しただみの、いはひもとほり、うちてしやまむ。」——何か思い出しませんか。これが神武東征の祝い歌なんです。「うちてしやまむ」はいつ始まった言葉ですか。
  61. 纐纈彌三

    纐纈委員 このみことのりにも、まだ周辺が騒いでおるということで、ここへ都を建ててそういう者を言向けやわするということが書いてある。うちてしというのは、行くということです。征伐の征です。征という字が書いてある。行くということなんです。そうしてそれぞれ行かれた国を言向けやわして話をつけて、そうして平和をあれしてだんだんやっていくということ、そうしてしかも大和に政府を作られても、その途中で神武天皇に争ってきた連中と話をつけたわけです。そうして自分の味方にして大将に任命して、やっていかれた。これは決して今の侵略主義でも何でもないのです。それはうちてしというのは今の征伐だ、淡谷先生はそういうことを言っておられるのですが、これは行って治める、言向けやわするというわけですから、そういうふうに祝い歌を解釈していただきたい、こう思うのです。
  62. 淡谷悠藏

    淡谷委員 明治維新の精神というものは、やはりうちてしやまむの精神だったと思うのです。新しく勃興した天皇中心政府がやはりまつろわぬ者ども、しこの者どもをうちてしやまむという精神であったと思うのです。それが明治二十七、八年の日清戦争になり、三十七、八年の日露戦争になり、同時に今度のうちてしやまむの大東亜戦争になって、まつろわぬ者どもを東亜に向ってもあるいは米英に向っても切り従えて八紘一宇をやろうと、ちゃんときまっているじゃありませんか。ここにはっきり明治維新政府のとった建国記念日構想と、新しい日本憲法に基いたその思想とは分けて、その新しい主権在民の憲法に基いた建国観念を飛躍的に定めようという気持はおありにならないのですか。やはりどこまでも復古思想ですか。二千年にさかのぼらなければ日本建国の源というのは明らかにされないのですか。さかのぼるということは、はっきり皇統連綿たる皇室を持ってこようというのです。皇室歴史じゃありませんか。
  63. 小川半次

    小川半次君 お答えいたします。新しい憲法のもとに新しい祝日が制定されたことは御承知の通りでございますが、そのときに白紙に戻して根本的に日本の新しい建国記念日を制定するにあたって、いろいろ学者の意見とか、かなり文献の調査等をいたしましたのですが、当時ここに御出席の受田君も、当時の昭和二十三年の文化委員でございまして、新しい祝日を作った当時の委員の一人でございますが、半歳にわたってこの委員会が開かれたのです。その半歳にわたっての委員会のほとんどの時間は、建国記念日を設けるかどうするかという意見に集中されたのでありまして、意見の全体は新しい建国の日を設けようということに一致したのですが、それではいつの日が建国記念日として最も根拠のある日かということになったわけでございます。結局日本歴史、文献、その他からいくと二月十一日が最もその根拠に近い。それではこの二月十一日以外に根拠のある日があるかといえば、これは絶無だった。半歳にわたって、委員会において、あるいはその審議を通じて、いろいろな意見を参酌したのですが、二月十一日以外の日は絶無である。全然根拠のない日を建国記念日とすることは、国民感情として絶対承服することができぬのでございます。そこでやはり根拠があるという日は、一部の学者では根拠が薄いという説もございますけれども、それはそれとして結局根拠のある日はいつかということになりますと、二月十一日以外になかったのでございます。そこでそれでは二月十一日を建国記念日としようじゃないかということに、大体非公式に話がまとまったのでございましたが、当時は占領下にございまして、これを承認を得ることができなかったのでございます。これは今日までただ等閑視しておったわけでもございませんし、また明治時代そのままの思想、そのままの考え方で受け入れようというのではなくして、白紙に戻して、そして新しい建国記念日を審議しようじゃないか、こういうことになってやったところ、やはり二月十一日が最も根拠があるという説が圧倒的であったのでございます。こういう点なども一つ御参酌されまして、ぜひ賛成していただきたいわけです。
  64. 淡谷悠藏

    淡谷委員 それでは簡単にお聞きしますけれども、今非常にはやっております「なつメロ」という言葉は御承知ですか。
  65. 纐纈彌三

    纐纈委員 それは存じません。
  66. 淡谷悠藏

    淡谷委員 「なつメロ」とはなつかしのメロディです。宴会のときにいらっしゃると、よく「なつメロ」をやれと言うが、これは軍歌をやれということです。この「なつメロ」観念で私は紀元節は作ってもらいたくない。さっきから伺いますと、民の声が紀元節を欲すると言っていますが、民の声は必ずしも「なつメロ」といった場合に、軍歌をやれという意味じゃないらしいのです。中には紀元節というのを知らないで、紀元ぶしと読んだ人もあるそうです。紀元ぶしは「雲にそびゆる高千穂」であると言った人があるらしいのです。米軍が進駐してきた当時は、解放感を感じた者と、征服された感情を持った者とがはっきりあったことは、やはり事実と認めなければならぬと思う。それがあの憲法を作るに至りました経過を見ても、非常に日本の国内に世論の抗争があった。それが米軍に押えられましてやむなく作ったという人もあったでしょう。これでいいんだという人もあったでしょう。それが平和回復と同時に、また新しい解放感を持って、もう一ぺん「なつメロ」に返ろうという思想は、私は反動思想と考えざるを得ない。あの大きな犠牲をもって作った憲法あとへ戻るのじゃなくて一歩進む観念で、私は建国観念というものはこれに切りかえる必要がある。一体古事記のどこを探し、日本書紀のどこを探して、二月十一日が日本建国の日として確実な根拠があるかということが、私はどうもわからない。前の委員会では半年にわたってこのことを考慮して、結論が、あなたたちは十一日ということですが、その当時の委員会であなたが言うように、そういう結論が出たとすれば、私は常識を疑いたくなってくる。一体古事記と日本書紀のどこに確実に二月十一日が日本建国日であるという根拠があるか、もう一ぺんお教え願いたい。
  67. 纐纈彌三

    纐纈委員 日本書紀の第三巻に辛酉の年の春に神武天皇が橿原の宮で御即位になった、こういうことが書いてある。それを、先ほど小川先生もちょっと言われましたように、明治になって記念の日を祭りたいということで調べたところ、ちょうどたまたま神武天皇が正月元日に御位につかれたのですが、その年はちょうど一月二十九日であったわけです。ところが、旧暦と新暦とは毎年日が違ってくる。そこで毎年違ってくるようなお祭りでは工合が悪いから固定した日にしたい、こういうことで逆算をして辛酉の年の春正月、庚辰の一日ということになった。御承知のように、えとは六十年ごとに回ってくる、こういうことになっておるので、詳しく年を逆算してやっておるのです。その辛酉の年の春正月一日ということは、二月十一日に当るのですから、日本書紀に書いてあることではっきり神武天皇即位の日は新暦に換算すれば二月十一日になるということは間違いがないのです。その点は、ただ日本書紀が正しいか正しくないかというような問題が今学界に出ておりますけれども、これも絶対の定説じゃないのです。この前も稻村先生から明治時代には歴史のことを論ずると不敬罪に問われたというようなお話がございましたけれども、那珂博士のごときは、明治十何年ころから日本歴史が違っていることを盛んに言われた。このころは絶対にそういうことの圧迫はなかった。久米博士だとか、津田左右吉さんなんかが話したのは、憲法に引き当てて不敬罪に関連する問題であったので、別に紀元そのものを論じたことについて、また学者的に紀元というものを研究した場合に、全然圧迫は受けておりません。
  68. 淡谷悠藏

    淡谷委員 纐纈さんがそういうことを言われておるうちに、歴史の問題ははっきりしておかなければ、紀元節が復活し、治安維持法が復活しますと、委員会でこういう問題を論議しますと、別段制約は受けないだろうが、あとで不敬罪を受けるおそれがありますから、この機会にはっきり申し上げておきたいのです。日本書紀というものは、あなたの言われたただ逆算しただけの日なんです。日本書紀というものは古事記よりも新しいと私は考えておりますが、いかがですか。
  69. 纐纈彌三

    纐纈委員 お説の通り、何年違っておりますか、古事記は稗田阿礼、太安麻呂——稗田の語りべが伝えたものを編さんしたのでありますし、それから元正天皇の養老四年に日本書紀ができたのでありますから、日本書紀が新しいということはお説の通りでございます。
  70. 淡谷悠藏

    淡谷委員 そうしますと、日本書紀は原典を古事記に求めたといわなければならぬ。古事記の中の記事を、あなたは二千年からした今日、確かなる文献としてあげられますが、この通り学校の子供たちにこれが日本歴史だといって教えられますか。三島ノ湟咋の娘が便所に入っていたのを、やりで突かれたなんて神武天皇のくだりに書いてありますよ。そんな伝説と神話とをもって織りなした古事記というものを、まじめな日本歴史の文献として純真な子供に教えて信じさせることができますか。これは文部大臣にも聞いてもらいたいと思う。
  71. 纐纈彌三

    纐纈委員 古事記は語部が言い伝えたことでございまして、中にはいわゆるおとぎ話といいますか、神話的のものもありましょうし、それから伝説もありましょう。今、淡谷先生がお説になったような、ちょっと常識的に考えてあれのこともありましょうが、しかし文字のない時分にそうして語り伝えてきたことというものは、私は一つの民族の気持というものを現わしたものである。また伝説というものもそういう意味において私は相当これは意義のあるもんだと思うのです。そこでヨーロッパでも外国の方でも、いまだに古い伝説というものが相当言い伝えられておる。こういうことで、ただ文字ができた時分には、いわゆる歴史家というものが歴史編さんをする、こういうことになりますと、相当歴史家の主観というものが出てきまして、これもまた必ずしも国のそのままを間違いなく言い伝えたものであるとはいえないのです。たとえば自分の方の皇室のことはこう——南北朝の時代のことでも、北朝が時の天下だった、それで歴史家は南朝の方のことというものは全然抹殺しておる。いまだにあっちこっちで話がある。今でも自分の味方の方は有利にし、反対のものは不利にする、こういう書き方もあるのです。そういう意味において伝説とか神話というものも、いわゆる民族思想というものを維持するためには非常に価値があるものというふうに思っておるのです。それで日本書紀は古事記をもちろんあれしてやったんでありますが、この編さんの中にはいろいろあの当時——今では古いものは古事記とか日本書紀ですが、当時は文字ができていたのですから書いたものもまだ相当いろいろのものがあっただろう。今はそれがほとんど消滅してしまいまして、なかなか古いものは見つからぬのでありますが、とにかく日本書紀の編さんの方針というものは、いろいろの説がある場合にはほとんど結論を出していないのです。こういう説もあり、ああいう説もあるがということで、結論を出してない点が相当ある。こういう点から考えてみましても、日本書紀というものは相当良心的に編さんしたものである。ただ今の支那の方の文明が相当入ってきたので、そういった形で多少大げさにいったところもあるかもしれませんが、大勢は支那の文献にならったような形になっておりますけれども、あの編さんというものは相当良心的に編さんしたものであるということが、いろいろの点から見て言える。議論のあるものはことさらにこれを結論づけない。結論を出さないという形で編さんいたしておりますから、これは私は歴史の編さんとしては非常に良心的に作られておるものだというふうに見ておるのであります。
  72. 淡谷悠藏

    淡谷委員 これはその当時は良心的であったかもしれませんけれども、できた年代も非常に古いし、その古い歴史がまた古い昔にさかのぼって、語部の語るところを書いた古事記の伝説に基いたものが紀元節です。こういうふうな、まことに悠遠にしてはかるべからざる皇統連綿たる姿を採り求めなければならないというその根拠は一体どこにあるか。さっき小川さんが、世界各国の例にならって紀元節を作ったと言っておりますが、世界各国ともにこういう伝説はあるだろうと思うのです。みんなあるだろうと思う。たとえばイタリアのロムルスにしても、オオカミの乳に養われたという伝説がある。こういう伝説を建国記念日にしないで、はっきり歴史が始まり、科学的な研究が始まった近代の独立記念日革命記念日をもって建国の祭とするということが私はやはり正しいのではないかと思う。それをことさらに日本は違うから、皇統連綿として変らないから、日本だけは紀元節をとるというのであれば、はっきりこれは明治維新皇室中心主義の復古運動にすぎないと私は考えるのですが、この点はいかがですか。
  73. 小川半次

    小川半次君 決してその復古運動につながるものでもないのでありまして、先ほど来幾たびも申し上げますように、国民としてどうしても自分の国の建国の日というものを記念したい。それでは建国の日というのをいつにするかということになりますと、やはり日本書紀あるいは古事記等を根拠として定める以外に、他にそれ以外の口がないのです。根拠がない以上は、やはり根拠のあるものに置かなければならないのでございまして、そういう点を一つ御了解願いたいと思うのです。
  74. 淡谷悠藏

    淡谷委員 古事記などを根拠と考えることが実は誤まっておると私は思う。ほんとうに根拠を求めるならば、外国の例にならって日本でも根拠をはっきりつかめるような近代的な建国の日をきめたらいいじゃないですか。わざわざ二千年の悠遠はるかなるいにしえに建国記念日を求めないでも、手近なところにあるじゃないですか。場合によっては明治維新記念日をきめてもいいだろう、今度の新憲法記念日を求めてもいいだろう。一体この間作った憲法の発布の日を、しかも天皇が詔勅まで下してお祝いしております憲法記念日を、ことしはどうしてやめたのですか。この点から見ましても、明らかに何らかもとに越そうといったような復古思想が出てきている。復古思想は遂には古事記までもさかのぼらざるを得ない。古事記にさかのぼった形から、うちてしやまんという思想が出てくるのは当然じゃないですか。なぜ一体近代的な記念日を作ろうとしないか。
  75. 小川半次

    小川半次君 われわれはあなたの考えとやはりかなり差のあることを特にまたあなたの御質問によって拝聴したのでございますが、われわれはあなたのように、過去の日本のこの歴史を否定するような考えを持っておりません。あなたのお説でいくと、日本歴史を否定する、日本歴史を否定するということは日本国民の過去歩み来たったことを否定するような感を持つのでございまして、われわれはそういう考えを持っておらぬのでございます。やはり日本は古い歴史を持った国であるということについてはわれわれは確信を持っておりますし、その古い歴史の根拠を探求する材料となるのは、やはり当時は未熟であったかもわかりませんけれども、日本書紀とかあるいは古事記というような文献にたよる以外に方法がないのでございまして、そういうところからわれわれは二月十一日を最も建国記念日として根拠のある日である、こう確信しているのでございます。
  76. 淡谷悠藏

    淡谷委員 小川さんがだいぶ誤解があるようですから、この際にただしておきたいと思いますが、私は歴史を否定しておりません。否定したって歴史はあるのです。否定できるものじゃないのです。ただ日本の正しい歴史として、古事記あるいは日本書紀というものだけにたよることに危険性を感ずる。さっき纐纈さんも言ったように、歴史はそのときの為政者の主観によって動きます。古事記に現われた日本歴史というものは、一体領域においてどれだけの歴史かというのが問題です。国をなしたといいますけれども、せいぜい九州と近畿一帯の歴史にすぎないじゃありませんか。書いてあるのはほとんど皇室の連綿たる歴史です。統治者の歴史です。被統治者の歴史じゃありません。こういうことを補い、正すために、さまざまの者がこの古事記、日本書紀と取り組んで、その根拠をついているのです。それを何年たっても古事記、日本書紀一本で日本歴史を見ようという観念自体が非常に誤まった観念であると私は思うのですが、どうですか。
  77. 小川半次

    小川半次君 残念ながら今日の日本においてはいわゆる古事記、日本書紀以外に当時のことを詳細にしるしたところの文献というものがないのです。ない以上はやはりある文献に根拠を置いてきめなくちゃならぬのでございます。そういう点を一つ御了解願いたいと思います。
  78. 淡谷悠藏

    淡谷委員 歴史を単なる文献に基いてやろうという学問は古いと思っておる。この文献の出てきました民族の姿あるいは遺跡あるいは考古学、こういったようなものは今や新しい観点から新しい日本歴史を作ろうとしておる。これは稻村さんからこの前言われた通り、今まで日本歴史には研究がなかった、それは明治憲法のためなんです。皇室中心主義のためなんです。一切のものは不敬罪によって圧殺しようとした専制の遺物のために歴史そのものさえ研究されなかった。それがやっと解放されまして新しい歴史が作られようとする場合、何も固定した一つの文献によってのみ日本歴史をたずねよう、しかもそれによってなお明らかでないところの、列国に例がないところの古い悠遠なる昔の記念日を今日復活させようというこの思想の中に、あなた方の意図を疑わざるを得ないものがある。かつてメーデーがあった。これをたたきつぶしたのが建国祭、建国の名前を振りかざして一つの反動思想をもってこようとした例がある。これは古い歴史ではありません。新しい歴史であります。纐纈さん御承知の通り、こういうものをまた持ち出してきて、虚脱状態から立ち直ったといって、こういう形を出すとすれば歴史はもう一ぺん逆転します。せっかく作った新しい憲法であり、新しい主権在民の考え方であるから、主権在民の考え方に基いて建国記念日を制定したらどうか。私は歴史も否定しません。国体も否定しないけれども、皇室中心主義でやっていけるものだというような古い考え、そういう歴史日本を支えておるという基本的な考えについては、私はあなたにあえて質問したい。
  79. 小川半次

    小川半次君 いやしくも建国記念日を制定しようとする以上は、根拠のない日を建国記念日とするということはこれは無謀でございます。してみれば、やはり根拠のある日を建国記念日としなければならぬ。根拠のある日ということになりますれば、われわれは先ほど申し上げたように、未熟かもわかりませんけれども、日本書紀とかあるいは古事記をたよるより以外にないのでございます。あなたでは、単なるそういう歴史文献のみをたよりにして建国の日をきめるということは、これは軽率ではないかというお説ですけれども、しかしそれ以外に今の日本には他に文献も何も出てこないのです。その点を一つ御了解願いたいと思うのです。
  80. 淡谷悠藏

    淡谷委員 これはあした学者がたくさん来て参考意見を述べるそうですから、それを伺った上でさらに展開したいと思いますけれども、あなたの言っているように、建国記念日は根拠のあるものにしたいという気持が私にもあるのです。ありますから、ともすれば伝説に走りあるいは昔話にすぎないような歴史を根拠に求めるよりは、もっと近代的な新しい日を建国記念日にした方がよろしいのではないか、こういう観点から申し上げている。一体神武東征によって橿原宮にいしずえを定めた、これを近代日本の形成として考えるということは、国家論からいってどうですか。大和の一角に橿原宮を築いた、その時代国家観念と現在では二千年の開きがある。それを直ちにもって建国とする考え方に、非常にわれわれの納得のできないものがあるのです。どうして橿原宮に基礎を置いたということが日本近代国家形成の記念なのか、この点です。
  81. 小川半次

    小川半次君 日本民族というものがこの日本の国土に住むようになったということは、これは遺跡とかあるいは考古学によって、四千年も、もっと古くから住んでおったということは、一応明らかになっていることは御承知と思います。神武天皇即位はそれよりももっと後であって、おそらく当時といたしましてはばらばらになっている民族が、一応一つの軌道に乗せたところの社会生活を営むような国家社会を作ろうという意図で、建国されたのが神武天皇であるとわれわれは信じているのです。ですからその日を建国記念日としてあるいは言い伝え、あるいは習慣として伝えられて、それが古事記になって現われ日本書紀になって現われている、こうわれわれは確信するのであります。
  82. 淡谷悠藏

    淡谷委員 さっき纐纈さんのお話では、えとを逆算する以外に確実性を出す道がなかった。私たちがもっと問題にしたいのは古事記、日本書紀に現われた基本的な考え方です。これは稻村委員からこの前言われた通り、はっきり討征思想で、撃ちてしやまぬの撃ちてしが、撃攘の撃であろうが征伐の征であろうがどっちでもかまわぬ、ここに現われた思想ははっきりこれは一つの軍国思想なんです。これを開いたのが明治政府です。その明治政府はどうなったか。そして新しい憲法ができた今日、もう一度そこに返ろうとする思想、明治維新建国思想に返ろうとする、ここにどうしてもわれわれの納得できないものがある。単にえとという以上に、日本復古思想に現われた一つの戦争観念というものに対して、もう少し徹底した解釈をあなた方にお聞きしたい。
  83. 小川半次

    小川半次君 平和な社会を建設しようとする場合は、やはり治安を確立しなければならぬと思うのです。その治安を確立するということは、やはり邪を退かすということが根本でないかと思うのです。私は神武天皇建国精神はそこにあったと確信しております。
  84. 相川勝六

    相川委員長 午後一時三十分より再開することとし、これにて休憩いたします。なおこの時刻に本会議が開かれました場合には、本会議散会後委員会を再開することといたします。    午前十一時五十八分休憩      ————◇—————    午後一時四十六分開議
  85. 相川勝六

    相川委員長 休憩前に引き続き会議を開きます。  国民祝日に関する法律の一部を改正する法律案を議題とし、質疑を続行  いたします。淡谷君。
  86. 淡谷悠藏

    淡谷委員 午前中に続きまして、一つ纐纈先生の学のあるところを聞かしてもらいたいと思います。  どうも建国記念日を作る根拠が、古事記、日本書紀という深遠びょうびょうたるかなたにある文献になりますので、ちょっと現代ばなれがしてきますが、あなたの大体引かれております根拠というものは、古事記よりもむしろ日本書紀によっておるようですが、古事記によりますと、神武天皇が橿原宮に国を建てる基を置いたというのは、簡単に述べてあるのです。たとえばここにこの当時の古事記を引いてみますると、古事記におけるその部分は大へんに簡単です。たったこれだけです。「かれかくのごと、荒ぶる神等を言向けやはし、伏はぬ人どもを掃ひ平げたまひて、畝火之白檮原ノ宮にましまして、天ノ下治しめしき。」ここにはもう干支も年代も何もない。一転して日本書紀になりますと、このくだりがたちまち冒頭から暦日が入ってくる、暦が入ってくる。「三月辛酉朔丁卯、令を下して曰く、我れ東を征ちしよりここに六年になりぬ。皇天の威を頼りて、凶徒就戮されぬ。辺土未だ清まらず、余妖尚梗しと雖も、中洲の地に復た風塵無し。誠に宜しく皇都を恢廓め大壯を規慕るべし。而して今運此屯蒙に属ひ、民心朴素なり。巣棲穴住、習俗惟常。夫れ大人の制を立つ、義必ず時に随ふ。苟くも民に利有らば、何ぞ聖造に妨はむ。且た当に山林を披払ひ宮室を経営りて、恭みて宝位に臨み、以て元元を鎮むべし。上は則ち乾霊の国を授けたまふ徳に答へ、下は則ち皇孫正を養ひたまふ心を弘めむ。然して後に六合を兼ねて以て都を開き、八紘を掩ひて宇と為むこと、亦可からずや。」まことに大東亜戦争前夜の趣きがある。(拍手)「夫の畝傍山の東南橿原の地を観れば、蓋し国の墺区か。治るべし。是の月、即ち有司に命せて帝宅を経始む。」と書いてあるのです。この古事記と日本書紀との相違というものは一体どういう原因からできたとあなたはお考えになりますか。
  87. 纐纈彌三

    纐纈委員 淡谷先生のまことに学のあるところを承わりましたが、古事記は午前中にも申し上げましたように、やはり語部の言い伝えでございましたものを、太安万侶が書物に編んだわけでございます。それからこちらはやはり太安万侶が舎人親王を主任として元正天皇の命を受けて歴史を編んだわけでございます。この当時はおそらく字が書けるようになったのですから、今伝わっていないようなものがいろいろあると存ぜられますが、午前中にも申し上げましたように、日本書紀というものは、当時の話あるいは伝説、さらに書いたものをいろいろと参考にとって、そしていろいろの点から勘案しつつ正しきものはとり、説のはっきりしたものはその通りにし、また異論のあるものはそのままこれを参考としていくという編集の仕方でございます。そこでやはり神武天皇が国を始められたということ、しかもそれによって今のみことのりにあるような形をもって、平和国家、民主国家の形態を備えられたということでありますので、おそらく日本書紀ではいろいろの参考書類を勘案しつつ、特に天皇の命ぜられた御趣旨でもありましょうから、この辺のところをいろいろの資料から詳しく書き上げたのじゃないかというふうに考えております。
  88. 淡谷悠藏

    淡谷委員 古事記にのっとっていろいろな資料をきめたということは、あなたのお考えのようですが、文字がすでに当時の支那から伝わってき、いろいろな文教方面の知識も支那から伝わったので、日本書紀というものは古事記の伝説に基いて当時の為政者が一つ歴史観を持ち政治観念をもって支那の思想を取り入れて新しく書き直した歴史と見ることは間違っておるでしょうか。特にこの中で学者たちが様々に議論をしておりますのは、午前中のあなたのお話しと若干違うかもしれませんが、神武天皇に反抗した当時の原地人と申しましょうか、原住民族で、兄猾、弟猾という二人の兄弟があって、兄の方は反抗したのに対して、弟が裏切った例があります。この裏切った弟が神武天皇を牛酒(シシザケ)をもってもてなしたとありますが、当時の古代の日本民族は牛など食べないという学者の反論もありますが、そうしますと、日本書紀日本の思想より当時の支那の思想を受け入れた古事記とは違った新しい歴史であるという見方は立つと思いますが、その点はいかがでしようか。
  89. 纐纈彌三

    纐纈委員 その「シシ」と言うものが今の牛を言っておるのか。おそらくイノシシなんというのは野生であったでありましょうし、あるいは野牛というものはその時分にもあったんじゃないか、これも想像にすぎないのでありまするけれども、今淡谷先生がおっしゃったように、そういうものは日本になかったとは言い切れないんじゃないかと思います。
  90. 淡谷悠藏

    淡谷委員 こういう歴史論はあしたの学者の説を聞いてからまた展開することにいたします。ただ私がさっき長々と引用いたしました言葉に拍手かっさいされた中には、当時の将軍参謀の方々がおられまして、あの思想は、やはり明治維新あと日本政治を貫いた根本思想になっておるらしい。ちょうど大東亜戦争に突入する前に、あの神武天皇の御詔勅と伝えられるところが、そっくりそのまま軍隊の精神となって教育されたということを偶然に思い出すが、これとの関連はどうでしょうか。今度これを復活した場合に、ああいうふうな精神教育がああいうような形で出てきてよろしいという方もあるようですし、その賛成の意見もお聞きしたいのでありますが、あなたはどう考えておられますか。大東亜戦争前に行われたうちてしやまむの思想、八紘一宇の思想がもう一ぺんここに復活を見ることは、日本の今後の政治にとっていい結果をもたらすとお考えになっておるか、あるいは逆に逆行したものができやしないかという心配があるが、その点率直にお聞きしたいと思う。
  91. 纐纈彌三

    纐纈委員 先ほど淡谷先生もお読みになりましたおみことのり「然して後に六合を兼ねて以て都を開き、八紘を掩ひて宇と為むこと、亦可からずや。」。この「六合を兼ねて以て都を開き」ということは、当時の古いときでは、いわゆる中心だけが文化が進んでおって、その周辺はきわめて文化が及んでいない、こういう状態というように想像されるのでありますが、くにのうちを兼ねて以て都を開きということは、都を中心として六合にもその文化を広めようというまことにおおらかな民主政治をやるということであり、また、八紘を掩ひて宇となすということも、あめのしたが一家となって団結していこう、こういう意味合いでありまして、これにはちっとも侵略主義も軍国主義も含まれておらなかったんだ。それについていろいろの解釈もあることでありますから、淡谷先生のおっしゃるように、これが軍国主義に結びつけられるんじゃないかという御心配があるかもしれませんが、これをよく読めば、私はそういうふうに解釈するのであります。今までもしばしば申し上げましたように、今日民主主義となり、また侵略主義がいけない、従って戦争というものは国民がだれも心配しており、きらっておるところでありまして、再びここまで進んできた日本が、しかも大した軍備もなくして、今兵器が進んでおるような世の中に侵略主義をやろうなんということは及びもつかぬことであるし、そんなことを考えている国民は一人もないと思うのでありますから、ここで建国の日を神武天皇が御即位になった日の二月十一日として国祭日といたしましても、ただいま淡谷先生のおっしゃったような心配は絶対ない、またそういうことになっては困るという気持は私は持っておるのであります。
  92. 淡谷悠藏

    淡谷委員 歴史はわれわれにとって、将来の問題にやはり非常に大きな指針を与えると思うのです。あなたはそんなことはないだろうと言いますけれども、こういう思想でつちかわれた日本の軍隊は、上層部が悪かったか統治が悪かったか、政治が悪かったか知りませんけれども、一応この詔勅をたてとしてラバウルやビルマあたりまでその戦線を広げて、八紘一宇という旗じるしを掲げた。同じ一つの精神が、あなたが言うように平和主義にもあるいは戦争観念にもなる。こういうあいまいなものであっては、今後国民の思想を統一するのに非常に因ると思うのですが、一体この詔勅というのが、どうしてああいう誤まった方向に向いていったのか、この点を一つ御説明願いたいと思います。
  93. 纐纈彌三

    纐纈委員 それにはいろいろの原因があったのじゃないかと私は思います。とにかく日本はだんだん人口がふえてくるのでありますし、日本発展のためにそういう気持ができたかもしれませんが、これはやはり天ツ神の国を授けたまいしいつくしみにこたえ得なかったのが、ああいう結果を見たのではないか、こういうふうな感じがいたします。
  94. 淡谷悠藏

    淡谷委員 そういうふうに詔勅を曲解してここまで持ってきたというのですが、この新しい紀元節などで、そういうふうな間違ったイデオロギーがもう一ぺん復活しないという保証が一体どこでつくのです。こういうような旗じるしを持ってきますと、これは戦争当時を思い出すのです。それを直すためには、新しい紀元節は決して明治政府の作ったものではなくて、別の建国観念によるのだということをどういうふうにして保証するのですか、宣伝するのですか。
  95. 小川半次

    小川半次君 御懸念の点は、やはり今後の政治家の考え方、その指導精神が、永遠に平和を貫くという強固なる信念のもとにそれを推し進めていけば、私は再び利用されるようなことはないと確信しております。
  96. 淡谷悠藏

    淡谷委員 午前中の小川さんのお話で、大体事案を考えるのは当然だと思いましたが、古事記の中には「荒ぶる神等を言向けやはし、伏はぬ人どもを掃ひ平げたまひて、」という思想があるのですが、この根本思想はやはり変らないのでしょうな。
  97. 纐纈彌三

    纐纈委員 お答えしますが、言向けやはすということは、今ちょうど国会で正常化を話し合うように、お互いに話し合っていくということであります。掃ひ平らげたまひてというのですから別に——先ほど撃ちてしやまぬというお話がありましたが、これはやはり武力を使わずに、お互いにいわゆる邪を排するためにはらい清めてこれを穏かに持っていこう、こういう思想なんでございますから……。私はそういうふうにこれを解釈しておるのでございます。
  98. 淡谷悠藏

    淡谷委員 しかし、それははらい清めといったところで——今の邪悪というのは何だか知りませんけれども、はたきみたいなものを持って頭の上をさらさらとやって……。(笑声)そんなことでなかなか清められないと思う。そうすると、まつろわぬ人どもをはらい平らげるというのは、あれなんかでばらばらっとやるのじゃなくて、別に具体的な方法があるのじゃないかと思うのですが、何かそういう構想はありませんか。
  99. 纐纈彌三

    纐纈委員 それは信仰の問題にもなりますから、はらうだけでそこに以心伝心でありますか、精神的のあれがあるごとに、また神の前へ来て非常におごそかになったところではらわれることによって、精神が清められる。大体日本文明というのは精神文明からきておるものでありまして、はらい清め平らげるということも、そうした意味合いにおいて日本民族の思想統一のために——昔はまつりごとと祭り、いわゆる信仰と政治というものは一致しておったのでありますから、そういう意味合いからいって、この言葉というものが相当味わうべき意味のあるものじゃないかというふうに考えます。
  100. 淡谷悠藏

    淡谷委員 どうも味わうべき言葉なんというのじゃなくて、精神文化と称するものが全く逆な方向にきてしまったというのが、つい十年前の日本の姿だろうと思う。あなたのおっしゃるところによりますと、古事記とか日本書紀の持っておる正しい考え方に立って、日本政治をまつりごとという、つまり祭政一致の段階まで持っていって、何か深遠ひょうびょうとした、神秘的なものに国民のよりどころを作ろうという一つの方針があるのですか、それともただ簡単に、世論がそれを求めておるから、もとあった紀元節の十一日というものを、なつかしのメロディーを歌うように歌い上げようじゃないかという、簡単なお気持なのか、そこをお尋ねしたい。
  101. 纐纈彌三

    纐纈委員 西暦にも、御承知のように、キリストが生まれた日が科学的な根拠がないということで、学者の間に玉相当議論をされております。また仏様の誕生につきましてもそういったことが言われて、いろいろの説があるように承知いたしておるのであります。やはりこの日本建国の日というものも、一つの民族意識というものが結集して、むしろ信仰的な面も相当あるんじゃないか、そういうことで、今科学的に二月十一日の日が証明されなくても、これがある程度は信仰的な点にまで進んでおるような民族意識でございますので、そういう意味合いにおいて私どもはこれを尊んで、いわゆる国の初めのときを思うお祭りとして祭日にいたしたい、こういう簡単な考え方のもとに、一面には、また世論がこれを非常に支持しているということを考えて、私どもは建国記念日を二月十一日にしたというわけであります。
  102. 淡谷悠藏

    淡谷委員 進行的なものが加味されるならば、私は国会で論議することはやめた方がいいと思います。それは法律や政令で定めるべきものじゃないと思う。国民はみな平等の信仰の自由というものを持っておるわけです。これを一々ここで国祭日をきめて、しかも日本書紀的な信仰に統一する必要はないと思う。ここは明らかに、信仰を統一するあの当時の悪い思想の現われじゃないかと思う。自由にまかしておくという気持になれませんか。三月三日、五月五日を祝うような、国民のそれぞれの自由にまかしておいてかまわぬ、信仰ならばそれでいいと思う。むしろ信仰に対して政治家が何やかやとくちばしをいれるのは越権がましいと思うが、この点はどうですか。
  103. 纐纈彌三

    纐纈委員 信仰もある程度加わっておる日本歴史に関する国民の思想というものも、そういうふうにおもむいてきておりますばかりでなく、やはり日本書紀にそういうことがはっきりうたわれており、しかもそれが、明治になってからでありますけれども、国祭日として祝われてきておるわけでありまして、さればこそ、独立いたしまして後に、紀元節国祭日にしてくれという声がほうはいとして起ってきて、年々その気分が高まってきておるのですから、やはりそういう国民の気持というものを私どもは尊重して参りたい。そうしてすでに国祭日というものがきまっておりまして、その中におきましてはいわゆる昔からの風習であるとかあるいは仏教的な、信仰的な意味も加わっているお中日なんかもお祭りになっているのですから、信仰は絶対に国祭日にしてはいかぬというわけのものでもないと思うのであります。
  104. 淡谷悠藏

    淡谷委員 国祭日の中に信仰というものがあるというお話ですが、何をさしているのですか。
  105. 纐纈彌三

    纐纈委員 秋分の日、春分の日というのはやはり仏様の関係から来ているものでございます。
  106. 淡谷悠藏

    淡谷委員 春分の日、秋分の日まで信仰に入れますか。季節の移り変りの……。
  107. 纐纈彌三

    纐纈委員 それはやはり信仰的なものが相当加味されておると私は思っております。
  108. 淡谷悠藏

    淡谷委員 どうもその点私はあなたとは根本的に考え方が違うのです。あれはむしろ別の季節的なものに信仰的なものを付加さしたお祭りであると思っておりますが、これは直接関係がございませんから議論は進めません。ただ、今あなたは日本書紀に書いてあるとおっしゃったのですが、日本書紀はさっき言った通り古事記とは断絶しておる。勢頭「三月辛酉朔丁卯の日、令を下して曰く」と書いている根拠は全く怪しい。そうしますとあなたの主張される基本というものは古事記を全然切り離して、日本書紀によっておるだけとしか考えられない。これは非常に疑問があります。それからなお強力な主張として、国民の間にほうはいとして起ってきているということがありますけれども、果してほうはいとして起ってきているか、これはもう少し考えなければならぬと思う。のみならず最近のマス・コミュニケーションの傾向を見ますと、ことさらに進駐軍の政策、今の憲法の形というものはアメリカ日本征服によって押しつけられたものであって、これをはね返してもとの日本に返せばそれで済むのだという指導方針が見える。午前中も言いましたが、憲法の記念の日をわざと言わなかったり、あるいは紀元節の問題を国会へ持ち出したりすることは、明らかにマス・コミュニケーションの点で民衆を組織しようというような動きが見える。これはよほど慎重にしなければ思想統一の傾向が大いにあると思う。あるいは仏教的な教えをしいるというような神秘論で持っていこうとするならば、私はやはり旧憲法に現われた「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」あそこまで政治的には持っていかなければおさまらない傾向だと思う。これは非常に大事な点でございまするから、私明日の各公述人の公述を聞きまして、さらにこの問題に対して若干質問したいと思いまするが、本日は稻村委員も待っておりますのでこの辺でとどめておきます。
  109. 相川勝六

    相川委員長 稻村委員
  110. 稻村隆一

    ○稻村委員 二月十一日を建国記念日にすべきでないという私の意見は、大体この前私が申し上げたことでおわかりだと思うのです。むろん日本歴史を伝えなければならないけれども、その歴史がうそかほんとうかわからない。ずいぶんうそが多いのですから、この前私が指摘したように、また淡谷さんが今指摘したように、そういうものを十分検討しないで記念日をきめるということは非常に軽率であり、日本の恥だと思うのです。それで私は反対するわけなんです。建国記念日そのものの精神に決して反対するものではありません。そこで先ほど外国の例も出ましたけれども、アメリカ独立記念日、これは当然のことです。植民地から独立国家になったときだし、それからフランス革命もそうであります。そういうものを記念するというならば、それはその国の誇りでもあり、真の記念になると思うのですが、一体よくわからない、まだ真実かどうかわからない神武東征による橿原宮に即位したという日をもって、無理に建国記念日にしてどういう利益があるか、日本のためにどういう誇りがあるか、それを私はお聞きしたいのです。大体建国記念日とかあるいは独立記念日には日本のいろいろな偉い人も外国の公使館に呼ばれます。それと同時に日本建国記念日などをやった場合に外国の人々を呼ぶことになる。そうすると日本は二千六百年の歴史を持っておると自慢してみても、それなら真に日本が二千六百年の歴史を持っておるかどうか、それから神武東征による橿原朝創設というものが事実であるかどうかということを調べれば、すぐにいろんなうそや間違いが出てくると思うのであります。その場合に私は外国人から非常に笑われるのではないか。われわれは外国に誇り得るものはたくさん持っておるのですよ。古代文化的な遺産はたくさん持っておるが、神武即位などというようなものは、何らこれは誇り得べき何ものも持っておらない。こういう点に対してどういうお考えを持っておるのかお聞きしたいのです。
  111. 小川半次

    小川半次君 稻村委員神武天皇即位は何ら誇るべきものでないというお説であります。それはあなたのお説であって、われわれ国民はやはり日本歴史の源として大いに誇り、大いに尊重しなければならないという信念に立っております。そういうところにおいて、あなたとわれわれとの考えは根本的に違うのであります。その根本的な問題から今日までの長き日本歴史過程を通じてみるときに、われわれの考えではやはり根本的な歴史に基いて、あるいは古事記に基き、日本書紀に基き、そうして七十年の国民祝日として二月十一日を祝ってきたというこの現実に基いて、われわれはやはり国民が望んでおるところの二月十一日こそ最も根拠ある建国の日である。記念すべき日である、こういう確信のもとに提出いたしておるのであります。
  112. 稻村隆一

    ○稻村委員 神武の東征というようなことは、支那事変とかあるいは大東亜戦争に悪用されたことはあっても日本のために善用された例はちっともないと思う。あなたはこれは非常に日本のためになった、日本の誇りであると言うけれども、私はちっとも誇りではないと思う。どうもそれは観念の違いかもしれないけれども、むしろ悪用された場合が多い。こういう悪用されたものを、真実でない、多くの間違ったものを持っておるものを、無理に建国記念日として押し通そうという考えは、ほかに意図があるとしか考えられない。先ほど淡谷さんが指摘されたように反動的な、また軍国主義国家やあるいは天皇制実現というふうな、郷愁と申しましょうか、そういう考えから持ち出して来たのではないか、そう考えるのですが、その点お聞きしたいのです。
  113. 小川半次

    小川半次君 われわれは二月十一日の記念日が軍国主義とかいろんなことに悪用されたなどとは毛頭考えておりません。またそういうことはないはずであります。
  114. 稻村隆一

    ○稻村委員 私はこの前も二千六百年、二月十一日というものは、歴史的根拠はないということを申し上げた。何度も繰り返すようですが、実質的に根拠のないものを無理に建国記念日にする必要はないと思う。これはだれでもわかる。専門家でなくてもわかることですが、大体これはこの前も私は申し上げたのでありますが、上代天皇の在位年間は平均して六十五年になっておる。日本書紀の記録によれば、平均六十五才にして皇太子が生まれたということになるのです。しかし人間の生理的の関係からいって、こういうことは事実上あり得るかどうか、そういう点についてお聞きしたいのです。
  115. 小川半次

    小川半次君 お答えいたします。先般の委員会においても稻村先生からただいまと同様の御質問がございましたが、その際に纐纈君からお答え申し上げましたように、あるいは八十年、九十年、中には百年以上も皇位についておった天皇があるということにつきましては、これはその天皇即位一代を意味しておるものではなくして、その子あるいはその孫二代、三代にわたって同一の名前を襲名しておったというところの文献等もありますので、われわれは、今申し上げたような二代、三代にわたって同じ名前を襲名しておったということであろうと確信しているのであります。
  116. 稻村隆一

    ○稻村委員 そういうことは絶対ないと思うのですが、これは議論ですから申しません。そこで、これは久米博士が言っておられるのですけれども、久米博士は、推古天皇即位から孝明天皇の崩御まで父子継承四十六世、千二百七十四年を計算しておるのです。これを各代に平均してみると、一代の平均年数は二十八年弱になっているのです。だから、前の六十五才平均というものがいかに非現実的であるかということは、これでもわかるわけです。そういたしますと、神武の即位から成務天皇の崩御まで父子十三代の総年数は三百六十四年ということになるわけです。しかし各代の天皇の間には、早婚もあるし、晩婚もある、長子相続もあるし、次男、三男の相続もある。この平均年数はもちろん正確ではないけれども、ほぼこれは当っているといわなければならぬ。こういうふうなことで、ちょっと常識的に考えてみても、古代の年数というものは非常に間違っているのです。そういうものによって無理に建国記念日をきめようというふうなことが第一おかしいのです。  日本書紀にはもちろんほんとうがあるのですよ。日本書紀の紀年は、欽明天皇の崩御後は正確なんです。欽明天皇の崩御前は全く不明なんです。これはいろいろな理由があるのですけれども、久米博士ははっきり言っている。日本書紀の紀年の虚構というものは、シナの緯書の説からきている迷信であるということを那珂博士が発見された、こういうことを言っておられるのです。これははっきりした事実なんです。この緯書というのはシナの一つの哲学理論です。ここでは神武即位の年を辛酉の春正月と書いておりますが、これはつまり辛酉革命という迷信からきておるわけです。これははっきりしている。日本書紀の著者は、この緯書のことが頭に入っておるわけです。そして天地の運数の上にて革命辛酉の年にあると信じておったわけです。この緯書によりますと、天地の異変というものは一三二二年に必ずあるとしてあるわけですね。こういうシナの哲学というものが日本書紀の著者の頭に入っておって、それによって、神武の革命、神武の紀元考えたわけなんです。これははっきりしている。この神武の即位というものをシナの緯書に見出そうとしたととろに無理があったわけです。これはだれもいっておるのです。こういうことをちょっと考えても、神武の紀元の算出というものが全然間違っておるのです。先ほど淡谷さんが言ったように、明治政府が軍国主義の建設のために無理にこういうふうなものを持ち出した。しかも私がこの前言ったように、全部学者が反対なのを、当時の官吏が無理にそれを作りしげたという全くの作りものなんです。こういうふうなことははっきりわかっておる。わかっておるのに小川先生の御説明では、学者の説もいろいろ半歳にわたって聞いたと言われておるけれども、これは私はどういう学者の意見を聞かれたのか知らぬけれども、実際問題としてこれくらいのことは学者はみな知っておりますよ。それを、ただ感情論から、みんなが神武紀元を記念するようにせよといっておるから、これを国家記念日として記念しなければならぬ、こういうふうな理屈は全然わからないわけです。一体どういう点からどういう根拠があったか、これは全然いいかげんのものなんです。科学的に歴史の検討もしないで建国記念日をきめるというようなことは、第一外国人に笑われますよ。そうお考えになりませんか。   〔委員長退席、床次委員長代理着   席〕
  117. 纐纈彌三

    纐纈委員 お答えします。ただいま昔の天皇の在位の年数が非常に長いということ、それからいわゆる辛酉革命説というものがあって、辛酉の年に神武天皇即位を持ってきたという那珂博士の説を御引用になったのでありますが、実はこれは朝鮮の古い、たとえば高句麗の始祖の東明王から十一代の東川王まで二百六十…年ですが、これは平均五十三年になっておるのであります。五十三年というのはシナの歴史にもあるわけでありますし、ことに先日の稻村先生の御質問の際にも私は申し述べたのでありますが、当時日本に向うの使節が来て、持ってきた書類にも、当時、日本は非常にりっぱな国であって、おおむね長寿である、大体百才くらいは普通であるというようなことが書いてある。この本は新しい先生たちが金科玉条にして、日本天皇の初めは卑弥呼である、卑弥呼というのはそこに出ておるわけであります。そういうようなことがありまして、今度だんだん医療も進んできましたから年数が延びて、死亡率がだんだん少くなってきておるということになっておりますが、とにかくそういうことも書いてあるわけですから、必ずしも六十年くらいの平均年数が長過ぎるということも一がいには言えぬと思うのであります。  それからもう一つは、今の辛西革命説は、これは今おっしゃったように、シナの一種の天文学的な——迷信というか、信仰というか、これが日本に来て一番信仰されたときは室町時代です。それ以前にはほとんどそういう説は行われてなかったのです。そうして古事記だとか日本書紀が作られた当時には、まだいわゆる繊緯説の辛酉革命論というものはそんなに行われておらなかった、そういうものはほとんど日本に入っておらなかった。そういう時代にこれは書かれておるのでありますから、辛酉革命説でもっていくということが一つ私は盲断だと思うのでありますし、さらに、それじゃ神武天皇辛酉の年から、ずっと辛酉の年に革命があったかというと、日本歴史を見まして、代がかわったということは六百年くらいの間に一度くらいよりないのです。そういう点からいきましても、今あなたが那珂博士の説が間違いないようなことをおっしゃるのですけれども、私は必ずしも全部を信用するわけにはいかぬ。現に日本歴史を見て、必ず辛酉の年に、そのたびごとに革命があったとか天皇がおかわりになったという事実はないのです。そういうことですから、しかも繊緯説の辛酉革命論というのは、古事記だとか日本書紀ができる二、三百年から四百年後に日本に非常に行われてきたのですから、那珂博士は当時の学者がと、そういうことを言っておられますけれども、そういうことでこの日本書紀だの古事記が書かれた当時は、まだ繊緯説の辛酉革命説というものは日本には入っておらなかったという議論もあるわけなんですから、必ずしも今おっしゃることは全部私は承服することはできないと思います。
  118. 稻村隆一

    ○稻村委員 大体実際上は辛酉の年であるかどうかもわからないのです。さっき言った通り、何度も繰り返すようですが、実際この神武時代のことなんかはわからないのですから、わからないものを支那の歴史にあったことを日本にくっつけて書いたような傾向が濃厚なんです。そういうものを持ってきて、そうして建国記念日にしなければならぬという理由がわからない。私はこういう理屈は成り立つと思う、建国記念日をやるのは、日本文化を伝える、日本の民族の偉大さを永遠に伝える、こういう意味だろうと思う。それならば伊勢神宮というものがある。伊勢神宮というものはいつ建設されたか、伊勢神宮が作られたそのときを文化記念日にするとかあるいは何かの記念日にするというなら話はわかる。これは偉大な日本人の文化的遺産ですから、伊勢神宮というものが建築学的に見て、ギリシャの古代建築以上にりっぱなものであるということは、私この前申し上げたように、これはブルーノ・タウトが、はっきり言っている、「日本の再発見」という本に書いている。ブルーノ・タウトが言わなくったって、これは実に偉大な日本民族の文化的遺産なんです。こういうものが作られたそのときを何かの記念日にするなら話はわかる、これはどうしてもしなければならぬ。ところが幾多の議論のある。そであるか真実であるかわからぬ、これはおそらくあらゆる点からついていって、考古学からあるいは民俗学からついていってうそであろうと思われるこの神武東征の即位の日を、紀元節にしなければならぬというようなことは、これは意味がないのです。どういう意味かわからない。これは世論世論だというけれども、これは明治政府の作った、軍閥、官僚の作った作られた世論なんです。こういうものを大衆に説明し納得させようとしたら、何もうそかほんとうかよくわからないものを無理に建国記念日にしようという人はないだろうと思う。こういうものを撤回されて、たとえば伊勢神宮というものはいつ作られたか、これは日本人の実に偉大な文化的遺産であるからこの日をなんとか記念しようというように変更するわけにいかぬのですか。何も神武東征の、あるかないかわからぬものを無理に建国記念日にしようなんという考えは、やはり軍国主義的あるいは天皇政治の復活というふうなものを考えられているからかようなことを今出してくるのだろうと私は思うのですが、その点いかがですか。
  119. 小川半次

    小川半次君 お答えいたします。今稻村先生から伊勢神宮のできたときとか、何かそういう偉大なるもののでき上ったときを建国記念日にしたらどうか、またそれと類似するような……。(稲村委員建国記念日じゃない、何かの記念日です。」と呼ぶ)そういう種類のものを何かの記念日とすることは私は別に差しつかえないと思います。しかし建国記念日ということはそれとはおのずから性質が違うのです。だれしも自分祖先を慕い祖先をたずねたがるのと同様に、日本国民としてやはり国の根源というものをなつかしむしそれを探りたい、そしてそのいつであったかということを持ちたいのが人の心でございます。そういう点などを考えてみるときに、日本建国の日といわれてきているのは——何回も繰り返すようですが、古事記に現われておるあるいは日本書紀に現われておる日を最も妥当な日とする以外に方法がないのでございます。稻村先生はいや反対の学説もあると言っておられますが、これはいつの時代においても、歴史のことのみならずあらゆる問題におきまして一部の反対論とかあるいは否定説があるのは通例でございまして、だからといってその一部の反対説、否定論に日本歴史が根本からくつがえされるということは、私たちとしては承服のできないところでございます。
  120. 稻村隆一

    ○稻村委員 しかし神武東征というものは一部の反対じゃないのだ、この前も私が申し上げた通り、今淡谷さんが言った通り、これは間違いなのですよ。しろうとが考えてもこれは幾多の間違いを指摘できるわけなのです。こういう議論の多いものを十分な科学的検討もしないで、ここで建国記念日にしなければならぬという理由は、私はやはり敗戦後に日本に初めて人民主権の憲法ができた、これに対する不満から、これは敗戦の記念日だと人民主権の憲法を侮辱することによって、憲法記念日を、これは葬式の憲法であるから今さら記念する必要はないなどといって、自民党の人々は政府憲法記念をすることをやめさした、そうして明治憲法のような天皇主権の憲法あるいは反動的な軍国主義あるいは侵略的な帝国主義という方向に日本政治を持っていこうとする無意識的な考えが、紀元節の復活というふうなことに必然的に行ったのじゃないか、こう疑わざるを得ないのであります。あなた方がどう弁明されても私はそう疑うのでありますが、そういう点に対して一体どうお考えかお聞きしたいのであります。
  121. 小川半次

    小川半次君 お答えいたします。あなたのお考えは根本的に日本歴史はうそであるという否定観に立っておられるからでございまして、私たち日本歴史はうそでないというところの信頼感の上に立っておるのです。そこに大きな違いがあるのでございまして、特にあなたがおっしゃるように一部の学者が反対している、しかしその反対している学者たちで二月十一日以外にいつの日が日本建国の日であるかということを明らかにしている学者がいないじゃないですか。ここに重大な問題があるのでございまして、われわれはやはり過去において国民が信じてきたところのその国民を信頼するというところですね。特に政治家は国民を信頼するという信頼感の上に立たなければ、何もかも疑いを持ったような、いわば否定的な立場に立ってはやはりこういうものも成立しないのでございます。そういう点からわれわれは過去の日本歴史というものを信頼し、そうして日本国民というものを信頼しての上にわれわれはこの建国記念日を制定しようというのでございます。またあなたのお尋ねでは、新憲法の日を祝わないなどと言っておりますが、国民は新しい憲法制定の日をみな祝福しているのであって、われわれはそれを否定するような方向をとったことは一度もないのでございます。
  122. 稻村隆一

    ○稻村委員 私は何も日本歴史をちっとも否定しておりません。日本歴史を正しく訂正しなければいかぬというのです。学問というものは日進月歩ですから、日本書紀とかあるいは古事記の書かれた時代は学問の非常におくれた時代ですから、そういうときに書かれた歴史というものを、進んだ学問の観点からこれを訂正していくのは当然のことです。これは当りまえの話で、そんなことを私はここで申し上げる必要はない。だから神武東征の問題、これをいろいろな材料によって科学的に検討し直しても、何もこれは日本歴史を否定するわけじゃないのです。正しく日本歴史を再検討して、そうして正しい日本歴史を作り上げることが、後世のわれわれの任務だと思うのです。それだからおくれた日本の古代史とか、そういうものをもっとみんなで正しく検討して、今ここでもあなた方と一緒に検討しているのですが、検討して、それから建国記念日とかそういうものはいつにすべきであるか、建国記念日が必要ないから日本文化記念日にしたらよろしいとかいう議論が出てくると思います。もっと日本歴史を正しく検討して間違いを訂正する。歴史には真実もあるし間違いもあるんだから、古事記や日本書紀には私が今検討したようなたくさんの間違いがある。こういうものを検討して、そうして果して二月十一日を建国記念日とする価値があるかどうかということを検討してからでもおそくはないじゃないですか。無理に国民感情はこうだというような独断論から、国民がこう考えているからこうだというふうなことをいって、建国記念日をきめようとすることは、いやしくも政治家の態度じゃないですよ。その点もう少し慎重に考えてもらいたい。先ほど申しましたように事実でないものを基礎にして、建記念日などにするということは第一外国から笑われる、日本の恥になる、こういうふうにわれわれは考えておる。この点はもっと慎重に検討される必要があるのではないですか。そんなに急いで建国記念日をこの国会で無理に二月十一日を通さなけばならぬという理由は私はないだろうと思うんです。その点どうお考えになりますか。
  123. 小川半次

    小川半次君 お答えいたします。二月十一日を一つ建国記念日と定めようというのは、きのうやきょう意見が出たのではないのであって、きのうやきょう出たものであれば、これは慎重に大いに研究し、学者の意見も聞かなければならぬということになりますけれども、すでに明治の初年から日本国民建国の日であると祝ってきた日であるのです。しかもこれは根拠があるから祝ってきたのであって、全然根拠のないものではないのでございます。   〔床次委員長代理退席、委員長着席〕 しかしこれはあいまいだという御意見でございますが、あいまいということになると、世界にはいろいろな否定説、反対論があるのと同様に、たとえばキリストの生誕についても百二十幾種類かの異説が出ております。そうしておそらくキリストの生誕については、確実な根拠からいけば百年くらいの差があるのではないかという定説さえ出ているのでありまするが、しかしだれもそれを今日は疑っていない。やはり西暦を年号として世界の人々はそれを信じているのでございます。要はやはり信頼することです。歴史をやはり信頼し、国民を信頼しなければ、歴史を否定し、国民を信頼しないということになりますと、何も成立できないのです。幾たびも申し上げるようですが、私たちはやはり歴史を信頼し、日本国民を信頼しているという、この信頼感の上に立って二月十一日を建国記念日として制定しようというのでございます。
  124. 稻村隆一

    ○稻村委員 何度も繰り返すようですが、何も日本歴史を否定するわけでも何でもないのですよ。うそでもどうでも信ぜよなんということは無理ですよ。これはうそかどうか、どうもいろいろな検討からいってうそらしいから、もっとこれを十分科学的に検討して、間違いないところで決定したらどうかと聞くのですよ。これはきのうやきょうのことじゃない、こう言うけれども、これは淡谷さんもさっき言ったように、明治政府がきめたもので、徳川時代にはこういうことは行われなかった。明治政府になってから紀元節というものをきめたのですからね。それが再検討されなければならぬ時期になっておるのですよ。それだからこれを再検討して、もう一度どうするかということを私は決定すべき時期だと思うのですよ。いい機会だと思う。そういういい機会をわれわれはのがさないで、これを再検討する。そこできめるということ、何も明治維新後間違って当時の官僚や軍閥が作り上げたものを、そのまま無批判にのむ必要は毫末もない。敗戦によって日本はどういう間違いがあったかということ、歴史上の間違いは多いのですよ。日本の実際の敗戦というふうなものは、歴史的な間違いが多い。その間違いを、われわれは再び失敗を繰り返してはならぬからして、その誤謬というものは今のうちに検討し、これを訂正しておかないと、また日本の民族が誤まるという観点からである。非常に間違いが多いのですよ。しろうとが見たって、日本書紀や古事記には正しい点もあるのですよ、だけれども、先ほど言ったように、神武東征などという間違いがずいぶんある。それを十分検討してからでおそくはないのじゃないか、こういう機会に無理にこれをやるというような理由一つも私はないだろうと思う。
  125. 小川半次

    小川半次君 お答えいたします。終戦後新しい祝日を制定するに当って建国記念日につきましては再検討したのです。事実これは慎重に検討した結果、やはり二月十一日以外の日がなかったわけです。そこでやはり二月十一日しかないというので、われわれはここに再検討の結果これを提案するに至ったのです。
  126. 稻村隆一

    ○稻村委員 だれがそういう検討をされたのか知らぬけれども、そういうことを軽率にきめられたことは、これは非常に間違いですね。私ども学者じゃないですけれども、これは何千年前のことをここで言うのは実におかしいのですが、これはもう少しまじめに検討されて——実際笑われますからね。日本だけが二千六百年前にどうかわからぬことを、ここで建国記念日にして祝うなんということは、実際これは笑われますわ。だからもう少し検討して慎重にやったらどうかということを申し上げるのですよ。われわれのようなしろうとだって、幾らでもこれは間違いや欠点はつけるのですから、いわんやこれはほんとうにくろうとの学者が検討したら、これは全然間違いであるということが多くの学者から指摘されると思うのですよ。こういう人たちに意見を聞いたらいいのですよ。そうしていろいろ研究して慎重にきめたらいいと思います。無理に今これを今国会に出して建国記念日をきめる必要は少しもないだろうと私は思う。
  127. 相川勝六

    相川委員長 他に御質疑はございませんか。
  128. 西村力弥

    ○西村(力)委員 私がお聞きしたいのは、前に十分論議があったことだろうと思うのですが、きょうの論議を聞いておりますと、どうも理論闘争というか、そういうような方向に向いておるが、いやしくも建国記念日を制定する場合においては、理論闘争において勝った負けた、そういうことでなされるべきものではない。これはあくまでも国民のあげて祝うべき建国記念日だとするならば、われわれが納得して喜んで賛成されるところまで、あなた方も親切な透徹した解明、そういう心がまえに立った提案者の態度に終始しなければならない、私はそう思う。そうでなくて、言い負かしてやったという工合で、あとは多数でやるのだ、こういうことをしてこの建国記念日が制定されるということになれば、これは決してわれわれの将来にとって幸福なものではない、こう私は思う。そういう点については、現実に他の委員からもあるいは私たちとしても非常な疑義を持ち、ここに国民の喜んだ結集、全部を集めることは不可能だという考えなんです。そういうことに無理していけば、結局またそこに民主主義に対する誤まった教育、プロパガンダが起るということになりまして、そうして結局日本民族の広々とした目というものは閉ざされるのじゃないか、こういうことが考えられるので、そういう点について提案者は一体どういう工合考えておるかということ。それからもう一つは、この建国記念日は今もお話のあった通り、明治になってから明治時代の国策の線に沿ってこれが制定されて、国民にそれがほんとうなんだ、それ以外に進むべき道はないのだという信念を与えてきた。そういう信念というものは決して正しいものでなかったということを、私どもはいやというほど見せつけられたわけなんです。この間私は中国に参りまして、撫順の戦犯の収容所に行って参りましたが、藤田茂という元の陸軍中将ですが、自分たちの今までの行動に対して、自分たちは正しいと思ってやった、しかしながらその現実は強く反省する場合において、あまりにも人道主義に反しておるものであったし、あまりにも偏狭なる誤まった民族主義だったといろいろな自己批判がありました。その最後の発言として、私たちはこういう誤まったことを天皇制の名において信じさせられ、強制された、私たちはこの戦犯収容所にありながら、今祖国日本天皇制復活のきざしというものが徐々に、また根強く現われておる、このことに対しては絶対に許せない、われわれはそのことは憤激にたえないのだということを声を大にして言っておったのです。そういう戦犯の痛烈なる十年間の獄窓における自己反省から生まれた声というものは、われわれも敗戦後の日本の進むべき道としてはまことに傾聴すべき意見だ。個人の意見としてこれを軽々にすべきではない。誤まった明治以来の日本の行き方に対する痛烈なる苦しみを通しての批判というものは、これは日本民族の全体の批判として、反省として取り上げてもしかるべき声であるだろう、こう私は思ってきたわけなんですが、そういう点を思うときにおいて、雲にそびゆる高千穂のなびく民草の上にというような工合に押しつけられた建国記念日は、二月十一日はやはりまた新しい観点から考えなければならぬ問題である、こう思うわけなんで、戦犯で苦しんでいらっしゃるそういう方の声というものは、やはり日本の指針として私たちが傾聴していく、こういう立場を提案者はどうおとりになるか、そういう二点についてお考えをお聞かせ願いたいと思います。
  129. 小川半次

    小川半次君 お答えいたします。お説のように建国記念日制定に当って、理論闘争によって、勝った負けたによってきめるべきものでないことには、私も同感であります。従って私たち社会党の皆さんの御理解を得たいと思いまして、一生懸命にその説明と答弁に努めておるのですから、その点一つ御了解願いたいと思います。  それから明治以来の日本の為政者のとってきたことについて御意見がございましたが、これと建国記念日とは何ら関係がないのでございまして、ことさらそれに結びつけようというあなたの御意見には、私は同感でないことを明らかにしておきます。
  130. 床次徳二

    ○床次委員 先ほどからの応答を聞いておりますと、二月十一日というものが果して建国の日であるかどうかということに対して非常な御議論があるようでありますが、私は建国の日をきめるということ、祝日をきめるということと、日本歴史が正しいかどうかということを決定することとは、別のものであるかと思っておるのであります。何もこの日を国祭日に、建国の日にきめたからといって、日本歴史上二月十一日が建国の日そのものでなければならないというととはないので、これは別に考えてよいのではないかと思うのでありますが、提案者のお考えを承わりたい。
  131. 纐纈彌三

    纐纈委員 ただいまの床次先生の御質問お答えいたします。これは昔の歴史でございますから、これに一つも間違いないということは私どもも言い切れません。しかしまた反対者の言うように、これがでたらめだということも、われわれは絶対に承服はできないのであります。そこでむしろこれは日本歴史と直接の関係なくして、そういう問題はもう少し学者の研究に待って、これが間違っておるということであれば、そのきまったときに私どもはこの日を改めることにはやぶさかでないのであります。しかしそれは今のところでは十年や二十年たってもなかなかこの結論は出ないと思います。しかも国民感情として、とにかく二月十一日を建国記念日にしてくれという非常に強い要望があるわけでありますから、先ほど小川先生もおっしゃいましたように、とにかく間違っていることがあるかもしれませんが、二千六百年の長い間日本歴史というものを国民が信じてきているし、またそういう意味からして二月十一日を建国記念日にしてほしいということが、年々その希望が熾烈になってきておりまする関係から、私どもはこの記念日を二月十一日にきめて祭日としたい、こういうことであります。
  132. 床次徳二

    ○床次委員 国民建国の日を祝いたいということ、これが祝日を設ける一番もとであろうかと思うのでありますが、その祝うべき日をいつにするかとういことをいろいろ考えてみた場合におきまして、今日のところ二月十一日が一番ふさわしい——私はむしろふさわしいという言葉を使うことがいいのではないかと思うのでありますが、これは過去の文献その他から見まして、いろいろの日をきめるとすれば、やはり二月十一日だという考え方になるのではないか、この点が二月十一日を選ぶ一つの大きな根拠であるかと思うのでありますが、提案者の御意見を伺いたい。
  133. 小川半次

    小川半次君 そういう点も含まれていることを申し上げます。
  134. 床次徳二

    ○床次委員 先ほどから質疑を聞いておりますと、建国の祝うべき日を二月十一日にきめますと、神武時代の思想そのままがやはり憲法に再現されてきて非常に悪い影響を及ぼすかのごとく論ぜられる方もあるのでありますが、私どもが建国祝日を設けるということは国の基を祝う、あるいは民族といたしまして民族の発祥を祝うという立場、個人で申しますならばその誕生日を祝うというところに、われわれ国民的な喜びまた民族的な喜びを感ずるのが基礎になっておるのだと思うのであります。従って神武時代の思想そのものを今日の建国祝日において広める、宣伝しようという考え方は持つべきではないと思うのでありますが、この点に関してだいぶ先ほど質疑において疑いを持っておられて、どうも神武東征という観念がこの日においてもう一回再現するのではないかとおそれておられます。この点は非常に違うと思うのですが、提案者の御真意をもう一ぺん伺いたい。
  135. 小川半次

    小川半次君 将来にわたって二月十一日が悪用されないかという御心配の点でございますが、私は将来のことは将来の為政者が行なっていく政治のあり方によってきまることであって、その政治家が良識を持ってあやまちのないように平和主義国家民主主義国家を永遠に維持していくという強固なる意思さえ堅持しておれば、決して二月十一日が悪用されたり乱用されたりすることはないと確信しております。
  136. 床次徳二

    ○床次委員 各国建国のお祝いに対する御説明がいろいろあったのでありますが、いかなるゆかりの日を建国祝日に選ぶかということは、その国民々々の伝統あるいは信念、解釈、信仰、風俗、いろいろのものから総合的に結論が出てくるのじゃないか、国の生まれた日としてふさわしい——私が先ほど申しましたが、ふさわしい日を選ぶということが一番国民の祝うべき日として適当だと思うのでありますが、この点につきましては、やはり日本国民の大多数が希望するところを考える、今日まで世論調査その他をいたしましても、やはり二月十一日という数が非常に多いのであります。今回公述人を募集いたしました場合の数字におきましても、少い数字ではありますが圧倒的に二月十一日ということになっておる。従ってわれわれといたしましては、あえて過去の事実の性格いかんということについては別個といたしまして、国民的信念といたしまして、建国の日がふさわしいしまた建国の日そのものを祝うということがこの祝日の目的ではないかと思うのですが、この点についてもう一回伺いたい。
  137. 小川半次

    小川半次君 お説の通りでございまして、二月十一日は神武天皇即位の日に当るのでございます。これは今までばらばらになっていた日本国民一つ組織体に持っていこうというところに即位の意義があったと思うのでございまして、やはりこの日を建国の日と定めることが最もふさわしいと思いますし、またその日を祝うことも私は当然国民としてそれは適当なことであろう、このように考えております。
  138. 受田新吉

    ○受田委員 一つお願いしたいことがあるのです。私、いずれゆっくりお尋ねしますが、提案者の両先生にお伺いしておきたい一点だけをお答え願いたいのです。  それは、この法律の改正案をお出しになられた根拠の議論は次会に譲りまして、この法律そのものを国民があげて祝福していない向きがある、五月三日は憲法記念日としてすでに日本憲法の制定を祝って国の成長を祈るという意味の目的でこのお祝い日ができておるのです、そのお祝い日を国をあげて祝福すべき政府与党の方々が敬遠しておられるという事態が起ったわけです。これは重大な問題なんですよ。せっかくできた国の祝日政府及び与党の諸君が敬遠するというようなことがあり得るかどうか、お答えを願いたいのです。
  139. 小川半次

    小川半次君 国がきめた以上はこれを敬遠すべきものではないと私たちは確信しております。五月三日は憲法記念日であるというので国民すべてがこれを祝福しているのであります。  それから、二月十一日を祝福しておらぬという受田先生の御意見ですが、現在は祝日に入っておらないから国民こぞって祝福していないのでございまして、もちろん現在祝日として制定はされておりませんけれども、国民の一部には二月十一日に国旗を立てたり祝っている国民もあるのでございます。ですからこれを正式に祝日として制定したならば、国民こぞって祝福すると私たちは確信しております。
  140. 受田新吉

    ○受田委員 私は今、二月十一日のお話を持ち出しているのではないのです。全然今のお尋ねの中になかったのです。私は五月三日をお尋ねしているわけなんですが、すべて国民祝日の意義はこれに伴う行事を添えることによって一そうはなやかになってくるものです。行事を伴わざる祝日というものは意義が非常に薄くなるのです。しかるがゆえに成人の日には成人式や成人祭が行われて、全国の若者たちがふるい立たされておる。天皇誕生日にはまたお祝い日のお儀式が行われておる、子供の日には全国の児童福祉の方々が真剣にそれぞれみな行事をやっておるのです。憲法記念日というこのお祝い日は、当時制定されるときの審議の過程において出た通り単にお祝い日のみではなくして、お祝い日には当然国民あげて喜び祝う行事を伴うのが祝日の意義を深めることだということは、委員長でいらっしゃった小川半次先生もよく知っておられると思う。ところがその行事を伴わない休むというだけなら、これははなはだ不経済な祝日であるから、憲法記念日には——特にことしは満十周年記念です、歴史的な記念日なんです、民間行事とあわして国の祝日というものは古来の国の慣習を尊重する意味からも、一つの行事を伴うというところに意義があるということを考えたならば、せっかく提案者でいらっしゃるあなた方がこうした国の祝日の改正意見を出そうとしておられるときに、現在ある祝日すらも軽視されながらまた新しく祝日を加えるということになると批判が起ると思う。なぜ政府与党においてせっかくこの法律案を出しておきながら、祝日を軽視する措置をおとりになられたか。これは政府が案をお出しになったら与党でけられたということを伝え聞いておるのでありますが、その間の事情を明らかにしていただいたらと思うのです。
  141. 小川半次

    小川半次君 われわれは五月三日の憲法記念日を決して軽視しておりません。御承知のように国内には各地各所で記念行事を行なっておりますし、また政府を代表して閣僚の一人が記念講演会に出演して記念講演をしたりしておりまして、決して軽視しておらぬのでございます。
  142. 受田新吉

    ○受田委員 その閣僚の一人は、どういう人がどこの記念講演会に出られたのでしょう。
  143. 小川半次

    小川半次君 自治庁長官の国務大臣田中伊三次君が、会場は存じませんが、記念講演に出席しております。
  144. 受田新吉

    ○受田委員 それは政府の閣僚の意思を代表して、政府を代表して出席された講演会でございますか。
  145. 小川半次

    小川半次君 間違いかどうか存じませんが、私はそのように承わっております。もし間違っておりましたら、また御訂正いたしますが、私はそのように聞いております。
  146. 受田新吉

    ○受田委員 そうしますると、その記念講演会というものは、政府意思が十分伝達されるような形において行われた講演会であるか、場所はどういうところ、対象はどういう者か、演説会のレッテルはどういうものであったかということを、御承知の範囲内でけっこうですから一つ……。
  147. 小川半次

    小川半次君 まことに残念なことですが、そこまで詳細には聞いておりません。
  148. 受田新吉

    ○受田委員 少くとも国民の総意をあげてできた法律に基く祝日である以上は、そのお祝い日に当って、政府みずからが奉祝の先頭に立たなければならぬと思う。ところがこの委員会でも、岸総理は、憲法記念日には何かの行事をするべく目下十分検討中である、するための検討をしておると答えられた。そしてその後において、政府が何か案を出されたところが、与党でけられたということを私は漏れ承わっているのです。私はこれははなはだけげんな事態だと思うのですよ。政府が与党との間に、一体となっていないという一つの事例にもなると思うのですけれども、その間の消息を、提案者である国民祝日を改正される立場にあられるお二人の方々は、十分承知して、この改正案を出されたと思うのですが、一つ十分そこをわれわれに聞かしていただきたいと思うのです。
  149. 小川半次

    小川半次君 この二月十一日を建国記念日とするに当って、戦後できております新しい祝日について、どの点を政府与党が軽視しているとか、あるいはあまり好意を持っておらぬとか、そういうふうなことは絶対にないのでございます。現在すでに制定されている日はもちろん尊重し、新たに二月十一日を加えるというのであって、今申し上げたように、現在制定されている日については、五月三日はもちろんのこと、国民すべてが祝い、そしてその都度それに応じた行事がふさわしいという意向を持っておるということを明らかにしておきます。
  150. 受田新吉

    ○受田委員 これは私がまた伝え聞いたことでありますのみならず、文字の上に現われた新聞の記事に出ていたのです。憲法記念日はなぜ政府与党が祝わなかったかということについてのお答えがこう書いてあった。政府与党は憲法を改正しようと今企図している。従って改正しようとする憲法を、古い憲法を、与えられた憲法といって拒否しようとする憲法を、あたかも順守するような形において奉祝するということは忍びないことであるという意味で、ついに五月三日の記念式典は中止した、こういうことにはっきり書いてある。これは間違いがあるとおっしゃれば、私はその記事を持ち出してもいいのですが、とにかく新聞の多くの批判が、政府憲法記念日を、特に十周年という意義ある記念日を、奉祝しなかったという理由については、相当きびしい批判をしていられることをあなた方は御承知いただかなければならぬ。これはいかがでしょう。私の考えがひが目かどうかをお答え願いたい。
  151. 小川半次

    小川半次君 政府の方でどういう都合で記念行事を行わなかったか、あるいはそれに参加しなかったか、その点は政府の方の意向をわれわれは聞いておりません。われわれ与党といたしましては、やはり憲法記念日でありまするから、できるだけそれを祝福したいし、また当然すべきであったと、このように考えております。
  152. 受田新吉

    ○受田委員 与党を代表して法案を出されておると、私は小川さんとお二人をにらんでおるのでございますが、間違いありませんでしょうか。
  153. 小川半次

    小川半次君 まあ代表と申しまするか、提案者でございますので、纐纈さんと私は一応答弁の役を仰せつかっておるのでございます。
  154. 受田新吉

    ○受田委員 お二人は、しからば自民党を代表した立場の御資格で答弁されておられますか。
  155. 小川半次

    小川半次君 提案者として答弁しておるのでございます。
  156. 受田新吉

    ○受田委員 同時に自民党の代表としての答弁とそれを解釈してよろしゅうございましょうか。
  157. 小川半次

    小川半次君 まあこれは広義の解釈と狭義の解釈をすれば、これは幾つも分かれるのでしょうが、私たちとしては、提案者として御答弁申し上げておるのでございます。
  158. 受田新吉

    ○受田委員 提案者の代表という意味の言葉がここに出てきたのですが、提案者の中の代表であって、自民党の党を代表した提案者という意味でなくて、単にその提案者、そういう意味ですか。単に提案者ですか。
  159. 小川半次

    小川半次君 提案者でございます。ただし自民党所属の国会議員はすべてこの提案することに賛同しているのでございます。
  160. 受田新吉

    ○受田委員 小川さん、私はあなたの御発言は単に提案者の一人としてやられたというだけでは納得できない点があるのです。それは何かというと、この国民祝日を改正されようとする御意図、特に紀元節を復活されようという御意図は、自民党の党議できまっておることではございませんですか。あるいは党議でなくして、自民党の有志の中で出されたことでございましょうか。そこの関係を一つ……。
  161. 小川半次

    小川半次君 これは党議で決定したわけではないのです。われわれがこれを提案すると発言した際に、自民党所属のほとんど全員に近い人たちがこれに賛同してくれましたので、提案したのでございます。
  162. 受田新吉

    ○受田委員 そうしますと、党議として決定をされたのでないということになると、自民党の大多数の賛成を得て提案されたということになると、これはわれわれも尊重の度合いが違うわけですがね。これは自民党の内部においてすら、この紀元の日を制定することに反対をするあるいは賛成をしていないという方々がおられる形で提案されたとなると、私は事が非常に重大だと思うのですが、全党をあげて賛成して、これは党議として決定して御提案になったというのであるならば、われわれも耳を傾けて考えなければならぬ大事な提案だと思うのです。これはどうですか。そこの消息を一つ明瞭にしてもらいたいのですが、つまり反対賛成でない人が少数おるわけですか。
  163. 小川半次

    小川半次君 反対者は一人もございません。
  164. 受田新吉

    ○受田委員 そうなると、党議としてきまったのじゃございませんですか。党議としてきめられたわけじゃないのですか。まだそこまで、党議まできめてないのですか。賛成は全部を得ておるが、自民党の党議決定にまでは至っていないというわけですか。
  165. 小川半次

    小川半次君 この問題はもう全員が賛成している問題でございますので、あらためて四角ばって党議をきめるという必要がなかったのです。たとえば何か法案、政策の問題で、一部には反対があり、多数は賛成という場合は、これはもういろいろ議論が戦わされて、最後に党議決定という場合があり得ることは、あなたも御承知の通りであります。しかしこの問題は、党所属の国会議員全員が無条件で賛成しておりますので、四角ばって党議をきめるというところまで及ばなかったのでございます。
  166. 受田新吉

    ○受田委員 今あなたのお説の中に、大部分の人が賛成をしたとおっしゃって、賛成しない向きもあるような御発言だったので、私は確かめたのですが、全員一致、漏れなく賛成したというならば、最初から話は簡単に片づいておった。最初大部分であると言ったのと最後に全員と言うのとの相関関係をちょっと御説明願いたい。
  167. 小川半次

    小川半次君 お答えいたします。これは賛成の署名を全員とれなかったから、私はさように申し上げたのです。とれなかった人は、郷里へ帰っていたりしてその日に賛成の署名を得られなかったので、私は先ほどああいう工合に申し上げたのですが、全員賛成でございます。
  168. 受田新吉

    ○受田委員 私はもう一つただしておきたい。そして本格的な質疑応答の時間に移りたいと思うのですが、こうした国民全体が祝い励ますような法律を作る際には、憲法記念日一つの例ができたごとく、国民の一部には奉祝したくないという気持の人がおったり祝いたくないという人がおるのでなくて、全国民があげて祝うという形でこういう祝日は制定されるべきだ、こう思うのです。そういう形からいうならば、との法案が多数決で国会を通る形は好ましくない。全員一致で法案が通る形で制定されるのが好ましい。そういう形を私は考えるべきだと思うのでございまするが、どういう御判断をされるか。しからば、今回のこの法案の審査に当って、社会党側がこれに反対の立場をとった場合に、多数決でこれを強引に国会通過の形で持っていかれるか、あるいは社会党が反対の立場をとるならば、十分その間の調整をはかり、国民のいろいろな世論を聞くような形にして、時間をかけてあなた方のお考えを実現するようにされようとするか、いずれであるかをお答えいただきたいと思います。
  169. 小川半次

    小川半次君 われわれとしましては、社会党の皆さんの御賛同も得て、与野党ともにあげて二月十一日を建国記念日と制定したい、こういう念願を持っておるのでございます。従って努めて皆さんの御賛同を得たいと思いまして、このように答弁している次第でございます。  なお第二の問題は、これは私は委員でも委員長でもないのでございまして、多数決で通過さすとかどうとか、そういうことは提案者が申し上げるべきものではないのであって、委員会の皆様方できめることでございます。私がここでどうこう言うことは控えるべきだと思います。
  170. 受田新吉

    ○受田委員 そうすると、あなた方提案者としてはどういう考えを持っておるのか。この法案の制定を強引にやってやろうとするのかどうか。提案者の心がまえというものがあるべきだ。それがなくて提案されるはずがないと思います。
  171. 小川半次

    小川半次君 提案者といたしましては、社会党の皆さんの御協賛を得たいという念願以外に、現在のところ何も考えておりません。
  172. 受田新吉

    ○受田委員 これはまた日をあらためてゆっくり古ことぶみなどを持ち出して、いにしえの姿を見て、いろいろ意見を交換してみて、今日本の置かれている立場から考えてどう処すべきかということを問答しなければならないと思いますが、委員長におかれましては、この法案の取扱いを多数決でいくという形をとられるか、あるいは全員一致まで時間をかせぐという形をとられるか、そこをよくお聞きしておいて、質問をやろうと思うのです。
  173. 相川勝六

    相川委員長 私は委員長といたしまして、十分公聴会も開き、皆様の御意見も聞いて審議をしてもらいたいという一念だけで今おりまして、最後どうするかということはまだきまっておりません。
  174. 受田新吉

    ○受田委員 けっこうです。
  175. 眞崎勝次

    眞崎委員 私は二月十一日を建国記念日に定められることに非常に賛成ですが、提案者がこういうものを提案せられた理由は、現在の日本が全く精神的統一を欠いて、そうしてこれを客観的に見れば、日本人であるのか、支那人であるのか、ロシヤ人であるのか、アメリカ人であるのか、わからぬような様子になっておるように私は見ておる。これを正しく統一する、無理に統一するのではない、正しく魂を入れることは、ほんとうに建国の初めを祝い、記念日としてわれわれが祝福するのは、非常に意義があるから、提案しておるのじゃないかと思っておるのですが、その点はいかがですか。
  176. 小川半次

    小川半次君 先ほども私が申し上げましたように、人はだれでも自分祖先というものを知りたがるものです。やはり国民として自分の国の根源を知りたいというのが、その心理でございます。そういうところから自分たちの住む愛する国土というものは、一体いつから開かれたものであろうか、いつ建国されたものであろうか、これは無限のあこがれであり、なつかしみであり、親しみでございます。そういう国民一つの心理と申しましょうか、感情と申しましょうか、その国民の心をやはりわれわれは具現しなければならぬ。こういうところからいろいろ研究し、あるいは学者の意見その他文献等を探りまして、そうして古事記なりあるいは日本書紀なり、あるいは明治以来七十年にわたって国民が親しんできたところの二月十一日こそ、最もその建国記念日として妥当であるという結論に達しましたので、提案するに至ったのでございます。
  177. 眞崎勝次

    眞崎委員 私も御同感でございます。そこでほんとうにできるものならば、やはり人類の初めから知りたいというのが、これはわれわれの念願でございます。ところがこれはもう昔から偉い学者も、お釈迦さんでも、幾ら探してみたってわからぬ。従って国の初めもわかるようで、ほんとうにはっきりと科学的にわかり切ろうといったってわかるものではない。古いほどそうなります。たとえば今日憲法記念日を何か特殊の名前で祝日にする、これは別の問題だけれども、これが長い何千年の歴史たちますと、また変形してきてわからなくなる。明治維新のときも、やはり今よりは国家が騒々しくなかったろうと思う。今が一番日本歴史的重大時期だと思います。それで紀元節というものをきめたのは、やはり当時の人心を安定させて、国利民福をはかりたいということに起きたのだと思います。その意味からいえば、今日はなおさら必要だと思います。幾ら科学的にと申しましても、たとえば今日でも最近の二・二六事件のようなものでも、幾ら調べたってほんとうのところはわかりません。これは実際わかりません。かかり合った人に聞いても知りゃしません。そういうものであって、ほんとうのものの真相というものは、わからぬのがほんとうです。わからぬから真理ともいうと思う。長さというものだって、これは絶対にはかろうといったってはかれません。それに近いところはわかる。やはりそこは仮定していくよりほかはないのであります。だからして明治維新のときも、いろいろ皆さんがおっしゃるように、歴史上満足のいかぬ、多少疑念にわたる点は私も認めますが、それらを考慮に入れ、そうしてはっきりしないけれども、日本にいわゆる皇統連綿というような一つの何かがなければ、幾ら世が乱れてもそういう一貫したところの真理だけは持たなければ治まりがつかなかったというところに、日本の特徴がありまして、その発源がいわゆる日本の初めというものを規定したところから出てきておるから、ぜひとも私はそうきめたい。ちょうど私の専門にわたって相済みませんけれども、たまを撃ってみた場合、必ず散るものです。散るけれどもどの範囲に散るか、その公算、誤差を求めてその中心を探すよりほかはない。だから歴史的公算の誤差を認めて、そうして今までの紀元節記念日とすることが一番誤まりが少いというところに意義があると私は思います。  それからもう一つは、いわゆる哲理からいっても、昔の教育勅語にもありますように、「国ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ」というてぼかしてある。そのぼかしてあるところに非常に意義がある。記念日なんというものはそうであって、憲法記念日なんというものは一番意義がある。初めがはっきりしているものは必ず終りがある、なくなります。形のあるものも必ず滅びます。そこで宏遠にして模糊として、信ずべからざるところに国民の感情が一致してもう長い間続いてきているものを、この際はっきりしておくことは、混沌とした今日の日本に対して、非常に重要なことじゃないかと思って、私は満腔の賛意を表しておるわけですが、その点について御意見を聞かしていただきたい。
  178. 小川半次

    小川半次君 最初に明治初年に新しい国の祝祭日を制定した際には、国民の動揺している思想を落ちつかすという意味も含まれていたのじゃないかというお説ですが、多分そういう点もあったでしょうが、やはり一番根本的な点は、明治初年に先進国へ学びに行っておった日本先覚者たちが、日本に帰国してきまして、先進国ではこのように独立祭があるとか、あるいは建国記念日があるとか、いろいろな説を持ち寄りまして、古い歴史を持っている日本が、紀元節を持たないということはどうもおかしいというので、要するに先進国に学んで制定したものである。しかしその際もただ根拠なしに作ったものではないのでございまして、社会党の一部の方々から、それは御用学者がかってにでっち上げたものだとおっしゃいますけれども、われわれは絶対にそういう考えではないのでございまして、やはりその歴史的根拠がある。これはたびたび申し上げますように、古事記、日本書紀等に伝わっておるように、そうした根拠に基いて、先進国から学んできたそういうことを例にとって、そして日本歴史を見て制定されたのでありまして、私はこの精神は決して軍国主義につながるとか、そういうことは絶対にないと確信しております。明治初年にようやく国を開いた日本が、当時のいわば弱国であった日本が、これでもって戦争をしようなどということは、常識上考えられないことであって、これと軍国主義は結びつくなどということは、単なる反対せんがための説を二月十一日に結びつけようとする意見ではないか、このように私たち考えております。
  179. 眞崎勝次

    眞崎委員 御答弁がありましたが、またこの内閣委員会でたびたび私申し上げましたが、戦争の原因については誤解が非常にあります。どこまでも帝国主義、軍国主義でこれが始まったのだ、先刻雑談でも淡谷さんも、日本の軍隊は非常に悪いもののように言っておったが、日本の軍隊くらいりっぱな軍隊は世界にありません。一部の者が悪かったのです。そして政治家がこれを指揮し得なかった。その結果がこういうことになった、日清、日露の戦争のときには、政治家は上手に軍人を指揮し、軍人もこれを尊敬して世界のかがみになっておったから、ああいう効果を上げて、日本は繁盛したのです。決して帝国主義や軍国主義で戦争になったのじゃない。それと紀元節といかにも関係があるように伝えられたところに誤まりがある。かえって軍の一部、政治家の一部がほんとうの思想に理解がなくて日本の国柄をよく知らぬために、日本は君民国家一体の国であるのに、天皇に隷属しておるように考えておったことが、やがて一体主義変じて全体主義になったのです。そしてこの全体主義がドイツ、イタリアの全体主義でなく、スターリンの一国社会主義と同じだ、つまりロシヤの国家社会主義にかぶれて、ほんとうの日本の国柄を忘れたためにこういう戦争になったことを非常に誤解しておる。そこで日本の再建にもこれが非常に災いしておる。先刻からの御説を伺っておっても、そういう誤解があるようにも思いますので、あらためて私はことに申し上げますけれども、そういう日本のほんとうの国柄をわきまえないからとうなったのです。八紘一宇とか何とか言うと、笑いごとにされるけれども、これも間違えておる。ものは因縁の関係で相関関係を持っておる。世界じゅうに他人はない、みな兄弟だ、こういう関係を八紘一宇といっておるのです。個人主義ほどおそろしいものはない。そういう点に根本的に誤解があるために、この問題の審議に際しても災いしておると思いますから、これも御研究になって御説明を願いたい。
  180. 受田新吉

    ○受田委員 資料を要求します。政府の方と——これはどの役所でもけっこうですが、政府と自民党の両方で御相談の上お出し願いたい資料は、最近一年間における九つの国民祝日について、国民祝日の趣旨徹底のために出された通牒——各個別、各省別にあるいは総合的にでもけっこうですが、政府部内から出された通牒及び行事に対する指示、その他について法律の実施上の責任者としての政府及びその与党である自民党のなされた行為を、われわれは判断したいと思いますので、ごめんどうでございますが、各個別に一つ詳細にお出し願いたいと思います。
  181. 相川勝六

    相川委員長 きょうは他に御質問ございませんね。——それでは次会は明八日午前十時より公聴会を開催することとし、本日はこれにて散会いたします。    午後三時三十八分散会