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平沢参考人 私は宮田の一部と東春近、西春近の区民の代表としてこの問題を申し上げる次第でありますが、どういうわけでそういうことを受けたかといいますと、
大正十五年の
水害が非常なものでありまして、
訴願書にもあります
通り、
損害が二億何千万円という一気の
損害を受けて、やむを得ないから、そのとき私は村会の
議長を勤めておった
関係上、この責任を負うことになって、いろいろ研究いたしたのであります。それにつきましてまずどういう契約があるかということを研究いたしますと、
訴願書の中に書いてありますが、ごく短文でありますけれ
ども、重要な点は、もしこの
ダムによって
上流に
損害を与えた場合は、
損害も弁償するし防除施設もするという字があります。その当時契約をしたところの老衰した方がおいでになるので聞いたときに、この契約をかたく信じて、われわれは一銭の補償金もとらなんでこれを承諾した、しかしこれは満足ではなかった、五年間反対をしたけれ
どもやむを得ずこういうことで契約をした、これを信じて契約をとったわけでありますということを聞きましたから、まず中部電力に向ってこの
損害の
現状を
調査していただきたい。また時の県議会へ
請願いたしましたところが、これはもっともであるといって、これはやはりこの
訴願書にも書いてありまするが、採択なされまして、今の
林知事さんにそれを通告したという回答が私のところに来てあります。それからなお地方事務所の所長が
対策本部となって非常にお骨折りをした
ために、中部電力から
調査がありまして、一カ月以上の
調査をいたしましたけれ
ども、悲しいかな、先の設計はこれ以上水が上らぬという、いわゆる基準を打ってあるところは
ダムから二キロ半くらいのところしか設計の基礎がありませんでした。なおその上非常に長い日をかけて
調査した上交渉いたしましたところが、
ダムから千
メートル強の岸石のところまでは埋まっているけれ
ども、それ以上は埋まらぬという御回答で、いかにも押し問答でどうしても法がつきません。それでやむを得ず日本発送電株式
会社本社に行って直談判をいたしましたところが、どうもこれは
ダムが原因でないから、見舞金ならば今でも少しくらいなら上げるということで、ここにも書いてありまするが、今の第三
ダムと第一
ダムの四カ村に対して三百万円の見舞金をいただいたわけであります。そのときは見舞金ということで話がついて、名古屋で調印しろといって、私はそのとき肺炎を起して参上しませんでしたけれ
ども、町
村長会及びその
関係者がお伺いしたときに、文句には、今までの
損害を請求しないということの承諾をこの文面に入れられて、見舞金をいただかなければ法がつかないというところで、やむを得ずこの問題は引き上げましたわけであります。その後この
河床が
上昇しているということにつきましては、どうしても県の
調査を依頼しなければならぬからして、時の土木
委員長に
お願いして、この予算をとって
調査していただきたいということを要求いたしましたら、これは必ず
調査して下さる、こういう文面を受けましたけれ
ども、今日に至るまでまだ
調査の結果の通知がさっぱりありません。ところがこれを継続してくるうちにぼつぼつ年期が来ました。つまり本村との、東西春近との契約には、
大正十五年五月二十五日と思いますが、だから三十カ年というと四月を過ぎては済まないと思いまして、中部電力及び
長野県知事林さんに対して、
ダムの問題が解決しないうちはどうか延長
許可はしなんでいただきたいという通告を、内容証明でお送りしておきましたのであります。これに対して何の御回答もないからして、多分これは了承して下さったことと安心しておりましたところが、たまたま
川路の
村長さんにお伺いしましたところが、どうも黙って認可をしたようだとかするようだとか
——そんなことはあるまいと私は信じておりましたところが、どうも安心がいかないということで、昨年三十一年の十一月長野県庁の土木課へ伺いまして、いろいろの書類を拝見いたしましたところが、二十九年の二月七日に認可になっておりました。これではどうもやむを得ないということで、
訴願書を提出する次第になりましたのであります。その
訴願の理由は、今まで継承者の
中部電力会社が契約をさらに履行しない、解除の方法もとらない、
損害の賠償もしないで、解決がつかないうちに認可をするということははなはだ不穏当じゃないか、こういう
事情で、ただいま申す
通り訴願をやらねばならない
事情に至りましたので、ここに書いてある
通り林
長野県知事に向って、どうかその
伸長許可を取り消していただきたいというのが理由であります。
実際の現場の
事情はどうであるかというと、この
被害地が、四百坪のうち三百何十坪というところが
被害をこうむるところでありますが、どうも
浸水していけないという事由で西春近では九十二
町歩を国家の補助と民間の労力で、何千万円という借金をして完成いたしましたが、これが何年で無効になるかということを
考えなければならないのです。それは三峯川が決壊いたしまして、殿島橋から上六十
町歩というものが全部川原に化したのですが、
昭和十八年にようやく水田に完成いたしまして、今日ならばぼつぼつ耕土もふえて米が多くならなければならぬというときに排水道がとまって、わき水が順次ふえていくようなことになりまして、もうこの六十
町歩も排水しなければ効力がないというような
立場であります。
それから東春近は殿島橋から上をやはり
耕地整理いたしましたが、その下の大よそ九十
町歩は今開墾しても見込みが立たない、こういう
状態であります。さらに西春近の下牧、宮田
地区大よそ五十
町歩でありますが、これも
浸水と冠水両面からきまして、まず農地改良の見込みなしという、非常に嘆かわしい
状態であります。そういうような
状態でありますからして、一応県の議会の方に対しては何とかしていただきたい、こういう
陳情をいたしてあります。
さらにそのところにおきまして、長野県県営の春近
発電所というものの新設を嘆願せられたのでありますが、これも
工事のかげんのせいか、経済
事情でありましたせいか知りませんけれ
ども、その橋の合流点いわゆる北ノ城という一番狭いところに十九トンの水を放水するとかいうようなお話でありますが、こういう問題を解決しないでなおそこへ水を放流されるということは、まことにわれわれは遺憾であるのでありますからして、西春近では村会にこれを提案しまして、必要ならばいつでも議決して
知事のところに
陳情するという順序になっております。
さらに申し上げたいことは、三峯川のはけ口に非常に
土砂がたまっております。これは
写真はわずかしかあらませんからお配りすることができませんが、川幅が大よそ
天竜のそれから
上流と比べると四倍以上あります。そこに一丈以上の
土砂が
堆積しておりますから、今総合開発で高遠
ダムが完成いたしましても、その
土砂の捨て場がありません。殿島橋から北ノ城という、水田の中央に流出させて
堆積するよりわれわれは見込みがつかないと思います。
それから御
参考願いたいと思いますことは、殿島橋が二百十五
メートル余、北ノ城が百二、三十
メートル、そのまん中の一番広いところは三百五十
メートルくらいのはらんだようになっております。都合よく解釈しますと、三峯川の
土砂の捨て場をここに
建設してあるように私には見えます。
それから
考えていただきたいのは、中部電力の第一
ダムの
発電力はごくわずかであります。非常に経済上は利益のない
発電所でありますけれ
ども、これを固着して持っておるということは、この下に佐久間
ダムまで大きい
ダムが五つありますが、その
ダムの
堰堤の擁護にこれを保存しておくのではないか、われわれは自分の解釈でありますけれ
どもこういうような解釈をしております。
こういうような
状態でありますからして、
参考書類が必要ならば即時には間に合いませんけれ
ども、いろいろ書類をお届けいたしますから、この点を
一つ御留意願いたい。
なおいま
一つは、上ったとか上らぬとかいう議論について非常にむずかしい点がありますけれ
ども、殿島橋というのはやはり木橋でありまして、これは流失しましたけれ
ども、今から二十年前
昭和十一年完成いたしました。これは来る前に
建設省の支所を方々調べましたけれ
ども書類がありませんから、来る前の日に私は自身で橋を調べましたところが、ただいま議員さんのところへお配りしてありますけれ
ども、一番少いのは一
メートル二十センチ、一番多いところは二
メートル十二センチ、平均が一
メートル七十センチであります。それでこれを
建設したときには
河床が上った
ために一
メートル強橋を上げて作ったわけであります。それは今現場の地を見るとそっくりその跡が残っておりますから、これを見ていただけばはっきりした証拠になると思います。
こういうような
状態でありまして、その三十年前の
河床というものの基礎が悲しいかな何にもありませんのでここで何
メートルというかたいお答えのできないのはまことに遺憾なわけでございますが、どうぞこういう点を
一つ御了承下さいまして、何とぞ農民の
ために公平なる御判断になることを
お願いしてやまない次第であります。