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浜田参考人 私はただいま御指名を受けました
浜田でございます。
川口組合長から
明治年間以来の
オットセイの概要につきまして申し上げた
通りでありますが、これはすでに各
先生方が御
承知の
通り、
明治四十四年に
保護条約が
締結されて、その当時四十九隻の
——今で言えば母船であろうと思いますが、その四十九隻に対して
転廃業資金として
政府が百数十万円の
資金を出したのでございます。この
条約は十五カ年後に
失効になるという
内容を持っておったので、
日本政府においては大正十五年かと思いますが、
相手国に対して通告を発してこの改訂を
要請したわけでございますが、
相手国からこれに何らの回答もなかったので、その後十五年にして
自然失効となる
内容であったので、
日本政府においては
昭和十六年にこれを
失効に移したわけでございます。従って
昭和十七年より
日本政府においては
許可制をしきまして、六十隻の
漁船に対して
農林大臣の
許可をくれたのでございます。この六十隻からなる
漁船が、当時われわれの持っておる
イルカの
鉄砲による
漁撈法に目をつけまして、この場合われわれの
団体が
中心になってこの
オットセイ狩をしたような次第であります。御
承知のように、すでに
戦争下に入ったので、非常に危険な
漁業を続けたのでありますが、当時
軍需省から、せめても
飛行士の服の
関節部分だけにも
オットセイの
毛皮を使いたい、なお
高層圏飛行の
潤滑油として
マシン油か
イルカの
脳油が必要であるから、一つこれに対して
協力してもらいたいというような
要請がしばしばあったので、危険を冒して
北海道から
三陸にかけて
オットセイ並びに
イルカの
漁業に当ったわけでございます。この間敵の機銃によって死傷を受けたもの、あるいは
敵弾によって沈没したものもございます。しかしながら、敗戦によってわれわれはいかようにも救いの手を求めるわけにいかなかったのでありますが、必ずやいつかはわれわれの希望が達せられるだろうという望みを持って今日まで参ったような次第でございます。
昭和十七年に
解禁になった後、
昭和三十年でありますか、
連合軍最高指令部の命によって、その権利が剥奪されたのであります。自来われわれは
海上猟獲を
主張して
政府並びに
国会にも
陳情、
請願を続けたようなわけでございます。
その後
昭和二十三年には
アメリカの
生物学者が乗り込みまして、
三陸の
岩手を
中心に
北海道沖の
調査に当ったのでございます。この場合には
日本国政府においても
協力し、なおかつわれわれの
団体においても
協力して参ったのでございます。直来二十四、二十五と
アメリカ並びに
日本政府において
調査を続けたのでございますが、二十七年に至って
日米加の三国の
合同調査が大々的に行われたわけであります。その間
政府においては、
昭和二十五年
法律の一部を
改正したのでございます。これは
アメリカの
要請によって
法律を
改正したようでございますが、この場合には、
衆議院にあっても参議院にあっても、各
先生方がこの
法律の
改正には反対しておったようでございますけれども、遺憾ながら
マッカーサー司令の命令でございますから屈せざるを得ないのでこの
昭和二十五年の
法律改正を通したような次第であると聞いております。それから
昭和二十六年でございますか、
吉田総理大臣と
ダレス長官の問において
書簡の交換がされ、これによって
条約同様にわれわれが縛られて参ったのでございます。その
商水産庁なりあるいは
外務省に対しまして、われわれはこのダレス・
吉田書簡なるものを
失効させるわけにいかないかということをしばしばお願いして参ったのでございますが、
条約に準ずるものであるからこれはなかなか容易でないというので、本
会議に持ち込むはかなかろう、こういう
結論に達しましたので、それからというものは年に数度も足を通わして
陳情請願を続けたようなわけでございます。それで
昭和二十九年に東京において
日米加の三国の
学者会議が開かれたのでございます。これは
昭和二十七年の
合同調査に基きまして開かれた
生物学者の
会議でございました。この場合においては、この
会議終了後すぐさま
条約会議に持ち込まれるような空気でございましたが、
ソ連並びに
カナダ等の都合によって延期されたのでございます。それでわれわれといたしましても、もう近々に
海上猟獲が可能になるだろうという
客観情勢に基きまして、いろいろと
準備態勢に移って参ったのでございます。それから
昭和三十年の三月でございましたか、それらの
関係漁民が非常に困っているので、
政府当局に対して何らか
救済方法を講じてもらいたいという嘆願をなしたのでございます。その場合に、でき得るならば
相当大規模の
生態調査をやらしてもらいたいという
計画書まで出したのでございますが、
相手国から了解をとるに容易でないという
外務省の
見解なので、これもどうしても実現できなかったのでございまして、いろいろな
方法をもって一時的に
漁民の
救済策をわれわれ
自体において講じたような次第でございます。その後三十年の十一月から御
承知の
通りワシントンにおいて本
会議が開かれたのでございまして、最初三週間の
予定で
日本代表が参ったように聞かされておりますが、約一年半を要してこの
暫定条約ができ上ったようなわけでございます。基本的には、われわれはこの
条約には賛成しかねるのでございますが、何せ力の前には屈せざるを得ない
日本の現状をながめた場合においては、いたし方がないというよりほかにないのでございます。従いまして、その間、われわれは少くとも五万頭の
海上猟獲を許してもらいたいというように、
政府当局に対しても
要請を続けておった手前、その
計画に基いていろいろの
準備態勢を整え、またかつて六十隻の
漁船をもって
昭和十七年にやったその
ハンターなりあるいはその
乗組員が、現在百七十一隻になっておるのでございますが、この
漁撈法というのは簡単に修得できない
漁撈法で、われわれ
自体においては、
日本の
国技は相撲と柔道であるが、この
オットセイなり
イルカをとる猟銃の
漁撈法というものは、まさに
日本の
国技であるという
信念を持っておるのでございます。というのは、
一級ハンターになるには、最もすぐれたもので五年を要するのでございます。従いまして、必ずや
海上猟獲ができ得るものと、虎視たんたんとしてその腕をみがいて参ったようなわけでございますが、今日に至ってそれができないというので、
漁民大衆が非常に
失望感を持ったようなわけでございます。けれども、一
たん条約が
締結された以上においては、われわれは国民として守らざるを得ないので、この
政府が調印されました
条約を守るためにも、進んで
協力を惜しまないということに
意見が一致いたしまして、現在では、かつては
密猟呼ばわりをされて遺憾ではございましたけれども、おのおの自粛自戒して、この
条約調印と同時に、
密猟などという
考えを放擲いたしまして、まじめな
漁業に携わっておるような次第でございますが、何せ
生活に困窮しておる
漁民でございますし、この
オットセイか猟獲できなければ
イルカ漁業というものも成り立たない
——ということは、同
水帯におる
関係から、どうしても今までは
オットセイに手をつけざるを得ないというようなうき目を見て参ったような次第でございます。その間いろいろな事故が発生いたしまして、無事の
漁民が何回となく懲罰を受け、苦しみを受けて参ったのでございます。それで、われわれはこの
条約を守るために、完全に
鉄砲を捨てなけれな
条約が守れないから、この
イルカ漁業を廃止するために、これらの
漁民に対して
転換させる
方法として、モウカザメはえなわ
漁業に
転換さしてもらいたいというような
基本線に立って、
政府当局にお願いをいたして参ったのでございます。従って、
水産庁なり大蔵省の深い御理解のもとに、現在ではややわれわれが希望しておるこの
転換問題を具体的に進めているような状態でございまして、一日も早くこの問題を解決してもらいたい、こういうようにお願いするほかないのでございまして、よろしくこの点を
国会を通してお願い申し上げる次第でございます。