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1957-08-12 第26回国会 衆議院 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会海外同胞引揚に関する小委員会 第1号 公式Web版

  1. 会議録情報

    本小委員昭和三十二年五月十四日(水曜日)委 員長指名で次の通り選任された。       木村 文男君    中馬 辰猪君       中山 マサ君    廣瀬 正雄君       堀内 一雄君    山下 春江君       櫻井 奎夫君    戸叶 里子君 同日  廣瀬正雄君が委員長指名で小委員長に選任さ  れた。     ————————————— 会議 昭和三十二年八月十二日(月曜日)    午前十時三十二分開議  出席小委員    小委員長 廣瀬 正雄君       中馬 辰猪君    中山 マサ君       櫻井 奎夫君    戸叶 里子君  小委員外出席者         議     員 眞崎 勝次君        議     員 茜ケ久保重光君         議     員 受田 新吉君         外務事務官         (欧亜局長)  金山 政英君         厚生事務官         (引揚援護局         長)      河野 鎭雄君         厚生事務官         (未帰還調査部         長)      吉田 元久君         参  考  人         (中共地区引揚         者)      清水 義男君         参  考  人         (ソ連地区引揚         者)      吉田  實君         参  考  人         (ソ連地区引揚         者)      橋本 正雄君         参  考  人         (ソ連地区引揚         者)      川岸  浩君     ————————————— 本日の会議に付した案件  ソ連及び中共地区残留同胞引揚に関する件     —————————————
  2. 廣瀬正雄

    廣瀬委員長 これより会議を開きます。  ソ連及び中共地区残留同胞引揚に関する件について、調査を進めることといたします。  本日は、本件に関し、引き揚げ実情報を調査するため、先般の中共地区第十六次帰還者清水義男君、山内一男君、並びにソ連地区第十二次帰還者川岸浩君、橋本正雄君及び吉田寛君に委員長より御出席を願っておきましたので、御了承願います。  なおまだ山内一夫君はお見えになっておりませんが、御出席になりましたならば、事情を伺うことにいたします。     —————————————
  3. 廣瀬正雄

    廣瀬委員長 この際、お諮りいたします。小委員外委員より発言の申し出があれば、随時小委員外発言を許すことといたしたいと思いますが、これに御異議ありませんか。   「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  4. 廣瀬正雄

    廣瀬委員長 御異議がなければ、さよう取り計らうことにいたします。
  5. 廣瀬正雄

    廣瀬委員長 なお、参考人より事情を聴取する前に、過日のソ連地区引き揚げ及び先般の中共地区引き揚げの際、受け入れ援護状況等調査のため、舞鶴に参りました委員より、その調査報告を聴取することといたします。中馬辰猪君。
  6. 中馬辰猪

    中馬委員 第十六次中共引き揚げの御報告を申し上げます。  第十六次中共引き揚げ状況及び受け入れ援護状況実地調査のために、中馬委員及び茜ケ久保委員の両委員が派遣されましたが、以下その大略を御報告いたします。  われわれ両名は、五月二十四日興安丸入港の当日、午前八時四十三分に東舞鶴に到着いたし、直ちに地方援護局におもむきまして、局、長より興安丸より入電いたしました状況その他について報告を聴取した後、十時過ぎ援護局内平桟橋において港内艇に分乗して、上陸を開始した引揚者のうち、第一便分乗の御遺骨十七柱及び患者を出迎えました。次いで港内艇に便乗し、引揚船興安丸におもむき、船内各室を回り、上陸を待つ引揚者皆さんの労をねぎらい、激励のあいさつをいたしました。  次いで船長室玉有船長と会見し、引き揚げ輸送に尽瘁せられた御労苦に対しお礼を申し述べ、引き揚げの大要について説明を聴取いたしました。後、いよいよ引揚者全員本船を離れる最終便にて上陸いたしました。午後は二団体乗船代表より、今次引き揚げ実情を聴取いたしました。三時、庁舎において、帰還された十七柱の慰霊祭が行われましたので、参列し、香華をたむけ、その御冥福を祈りました。  次いで、庁舎マイク室に至り、引揚者全員に向って、慰問放送をいたしました。すなわち引揚者諸君の多年の御苦労について慰問の、言葉を述べ、一時引揚者に対しては今後日中親善に力を尽されんことを強調いたしました。これに対し、引揚者、一時帰還者代表して一二名、戦犯釈放者代表しして二名の来訪を受けました。国会に対し、引揚委員会に対し、長年の援護に感謝の言葉を受けました。  以上をもちまして日程を終了いたしましたが、引揚援護局並びに引揚三団体乗船代表より聴取いたしました今回の引き揚げ実情について御報告いたします。  本引揚船は、五月九日舞鶴を出港、十四日塘沽着、十五日天津において、引き渡し事務を開始しましたが、中国側から、戦後一たん中共地区引き揚げ華商及びこれらと結婚した日本人妻子供で再び日本里帰りしたい者があるので、十九日に出航する興安丸に乗せてほしい旨の申し入れを受けたのであるが、華商男女とも乗船を認めない政府方針であるので、紅十字会と三団体との意見は全く食い違ったものとなり、日本側は、もう一度三団体本部に聞き合せる旨を答え、その問答を待って、十八日あらためて会談を開くことを約束しました。里帰りは十四次の引き揚げから三回目になりますが、中国では今度の興安丸最後引揚船になるだろうとの見方が強く、今度帰らなければいつ帰れるかわからないというので、どっと押しかけたようであります。十八日に至りましても日本からの返事がありませんので、当日は鷲見の交換のみで終りました。十九口は出帆予定日でありましたが、当日午後、日本より来電あり、中国人である夫は興安丸に便乗できない、また、帰国華商日本人妻及び子は今回限りの特別措置として興安丸乗船させる、また、帰国華商日本人妻子興安丸に便乗する場合、一世帯について便乗費二千円を各自支払うこと、以上の方針がきまりましたので、三団体代表中国側と協議に入り、出帆を一日延期して、事態の収拾に努めました。華商陳情運動は猛烈でありましたが、不適格者については、紅十字会を通じて説得に努めた結果、中国側乗船申し入れ一千七百七十一人が一千四百八十六名となったのであります。しこうして、今次の引揚船一般帰還者百二十九人に対し、その十倍余の一時帰国者を含む特異なものとなりました。二十日午後六時塘沽出帆、二十四日舞鶴入港いたしました。  今次の引き揚げ人員は千四百八十六人であり、戦犯釈放者六人を含んでおります。その内訳は、一般帰還者大人男子四十四人、女子四十一人、子供男子十八人、女子二十六人、計百二十九人、六十五世帯であります。なお一般帰還者の身分は未復員者二名、一般邦人百二十七名であります。次に、一時帰国者大人男子ゼロ、女子三百六十一人、子供男子二百五十二人、女子二百五十八人、計八百七十一人、三百五十九世帯であります。次に、華人一時帰国者大人男子二、人、女子二百三人、子供男子百二十九人、女子百五十二人、計四百八十六人、二百二世帯であります。なお、三十八名の患者があり、内十三名は痲疹だとのことであります。  次に、引き揚げ地点でありますが、ハルピン、大連、臨場、長春、撫順、チチハル、鞍山、嫩江、錦州、寧安敦化、甘南、牡丹江、密山、北京天津、上海、唐山、南昌、宜賓、長沙等約五十地点で、大部分は旧満州、一部は中国本上であり、中国の全土にわたるようでありまして、中国紅十字会の宣伝、御努力の跡がうかがおれるわけであります。  次に、落ちつき先は東京二百四十五人、大阪百、二十五人、以下全国道府県にわたっておりまして、帰国業務引揚列車編成等は詳細に計画が立てられておりました。  最後に、予想されたような混乱もなく、引き揚げ業務を完了せられた援護局当局の御労苦を一感謝し、報告を終ります。  以上であります。
  7. 廣瀬正雄

    廣瀬委員長 次に、私より御報告申し上げます。  これより、舞鶴に参りまして、ソ連地区よりの第十二次引揚者引き揚げ状況及び受け入れ援護状況調査いたしました結果について、御報告いたしたいと存じますが、後ほど参考人よりの御意見の開陳もあることと存じますので、簡単に御報告申し上げることといたします。  今度舞鶴に参りました派遣委員は、私及び中井徳次郎君の両名でありまして、私たち派遣団は、興安丸入港前日の七月三十一日に舞鶴に到着いたし、翌八月一日早朝舞鶴地方援護局に参り、興安丸が平沖に投錨するまでの時間、局長より今回の引き揚げについての概況報告を聴取いたした次第であります。  その報告によりますと、引揚者総員二百十九名、遺骨三柱、そのうち日本人八十五名、三十一世帯朝鮮人百三十四名三十四世帯でありまして、性別は男百三名、内子供四十一名、女百十六名内子供七十一名で、残留地点別に申し上げますと、樺太二百七名五十三世帯シベリア十二名十二世帯で、樺太地区恵須取塔路、知取、本斗、北小沢、名好、珍内、蘭泊の各地点に残留していた人で、残留邦人が比較的多いと思われる豊原敷香真岡、大泊、落合、内幌等地点からは帰っていないことは注目を要するところであり、シベリア地区は、カンスク、ハバロフスク、マクラコーワ、イルクーツク、タイセット等より帰国しているのであります。  また、さきにデヴォシャン・ソ連駐日大使より通告がありました帰還音名簿の中に所載の者とそれ以外の者を、名簿により照合してみたところによりますと、名簿所載の者は、日本人二百二十五名中五十六名、朝鮮人百四十六名中九十五名になっておりまして、その他はソ連当局よりいつでも帰国させる準備が整っておると通知してきた四名のうちの山城、佐藤の両名とモスクワ日本大使館等を通じて嘆願書を出して送還を要請した約五十名の氏名のうちより四名、及びそれ以外に新しく帰還した者六十二名で、第二回目にソ連当局より通知があった二百五十八名より三十九名も数が減っていたのであります。  なお、未復員者は少く、陸軍三名、海軍二名で、持ち帰り金については五千百六十米ドル、旧日本円四百五円で一世帯平均約二万八千円、中共地区引揚者平均約一万八千円よりは多く、持ち帰り金のない世帯も五丘世帯、全体の八%で中京引揚者の四六%と比べてよく、荷物は二百三コリ、一人平均〇・九コリで、昭和二十四年までの函舘引き揚げ時代の一・一コリ中共地区の一・四コリと比較して、やや少いようであります。  今次ソ建地区引き揚げの特免といたしましては、八年間引き揚げ空白状態にあった樺太在住者引揚再開であり、最近この地区より帰還者のほとんどなかったこと上り見て、未帰還者調査の盲点であった樺太地区調査が明らかにされると思われる等、重要な意義を持つものでありますが、引揚者が当初の予想より人数が少く、しかも大半朝鮮籍の者で、かつ樺太西海岸の者がほとんどで東海岸はわずかに知取一地点であり、残留邦人が比較的多いと思われる地点が残されていること等により、その概況しかつかむことができないようであります。  その他、事前の援護局調査によりますと、未把握者、在籍未確認者が約半数に達し、上陸落ちつき先のない者が多く出る公算があること、一般勤労者のみで著名な人がいないこと、国際結婚者で夫とその子女を伴って帰ってきた者が多いこと、男子は既往においてシベリア樺太で受刑していた者が少いこと、北海道、東北出身者が八割以上を占めていると思われることもその特色であるようであります。  樺太地区引き揚げは、終戦直後より昭和二十年八月、二十四日ソ連軍により宗谷海峡を閉鎖されるまで、内地へ避難脱出する者が激増して、その数約七万余と推定され、閉鎖後も若干の脱出者があり、昭和二十一年十二月五日、米ソ協定により正式に真岡函館間のコースで、昭和二十四年七月二十三日引揚船白竜丸函館へ港まで引き揚げが継続され、約二十九万二千名が引き揚げたのであります、その後、満刑者シベリア引揚者とともにナホトカ経由舞鶴に約百余名引き揚げただけでありまして、従って、今次引き揚げは最近の八年間中絶されていた樺太地区集団引き揚げが再開されたものと言えるものであり、従って、現在樺太に残留している約一千名と推定される邦人引き揚げについても、明るい見通しが見られるようであります。  次に、受け入れ援護につきましては大体従来通りでありますが、特に今回は朝鮮人子供として伴ってきました十八才以下の者については、従来の引き揚げにおける子供の場合と同様に取り扱い、また朝鮮人の夫については、あまり衣服等の貧しい者は被服類等を支給したようであります。さらに定着先決定については、無縁故者が相当多いので、乗船代表の係官が、船中において一人々々引揚者と直接話し合い、内地に実際縁故者があるかないかを確かめ、できるだけ縁故のあるような地方に行って定着するように世話を行なったようであり、一応入港前に十七都道府県にわたって、全員定流先決定したということであります。  次いで、私たち派遣団一行は、ランチに便乗して平沖に投錨しました興安丸へ乗り移り、直ちに船長室へ参り、上行船長に面会し、引き揚げ業務に対する労苦をねぎろうたのであります。興安丸乗船いたしましたときは、ちょうど引揚者が下船の準備を終り、ランチを待っておりましたので、直ちに船内放送室を借り、引揚者に対し出迎えのあいさつを行い、その後興安丸の甲板より引揚者ランチを見送ったのであります。  船よりの引き揚げが完了いたした後、興安丸船上にて、このたび興安丸政府との間に川船の契約が解かれるに際して行われました玉石船長及び乗組員一同に対する表彰式に参列いたし、私も海外抑留同胞救出国民運動総本部会長の代理として、議長より預って参りました表彰状を玉有船長乗組員に授与いたし、興安丸乗組一同の功績をたたえた次第であります。  午後は、援護局応接室において乗船代表本浜事務官石田事務官より報告を聴取した後、引き続いて引揚者代表川岸浩君、吉田寛君及び橋本正雄君より座談的に残留地状況等々一聴取したのであります。  まず、乗船代表よりの報告のおもなものを申し上げますと、二十八日の正午、興安丸は 真岡入港いたしたのでありますが、真岡には今までこのような大きい外国船入港したのは初めてであったために、ソ連側も慎重な態度で取り扱ったようで、ナホトカとは少し趣きを異にし、渡航証明書では上陸も認められなかったということもありましたが、一応問題はなく、午後十時までかかって乗船を終えたようであります。  また、当初の二百五十八名より二百十九名に減ったことについては、ソ連側より説明を受けることができなかったが、推察するところによると、夫に許可がおりなかったこと、帰国に際して真岡までの旅費がなかったこと、帰国梱包材料等がなく、準備ができなかったこと、名簿に載り許可があったが、その後病気等により帰れなくなったもの等の理由によるものではないかと思われるとともに、今回の引き揚げ大半西海山川であるのと、帰国通知がおくれ、また人員が大幅に減ったのは、豊原において許可されなかった朝鮮人が多数帰国警察に嘆願し、北鮮系の者との間にもあつれきがあり、サワリン地区執行委員会モスクワ政府に問い合わせを行なった、いわゆる豊原事件も大いに関係があるのではないかということでありました。  残留者については、豊原にはほぼ三百名くらいで、他の地区はあまり異動がないと思われるところより、全体で約千名で、生活最低限度生活者が多いようであり、まだ四百名以上の帰国希望者があるということであります。  次の引き揚げ見通しについての乗船代表意見は、豊原における朝鮮人の問題の決定がつけば、帰国の処置がとられると思うこと、今次の引き揚げ地点よりなお帰国希望者があること、ソ連政府は現在でも帰国申請書を受け付けていること、引揚者の中に近く次の引き揚げがあるということを聞いている者がおること等より、次の引き揚げはそうおそくないということでありました。  次いで、引揚者代表の話を総合してみますと、まず帰国旅費については、これは引揚港までの旅費は、中には乗車賃を、取らないところもあったようでありますが、大部分は自費でまかなってきております。  生活は、大体、一カ月の収入は平均千五百ルーブルで、生活費は五百から八百ルーブルで、そんなに苦しいことはないが、衣類が少くて高いということであり、ラジオも用いているとのことでありまして、引き揚げ情報についてもソ連官憲通知より先に知っていたと述べておりましたが、引き揚げ通知については、ソ連政府の命令なり通知が、気候的、地理的な条件により、下部まで周知徹底しなかったところもあるようであり、帰国を希望している者でもそのときの時事情により残されたり、許可がないような状態であるので、樺太日本引き揚げ事務専門家等を駐在させるような措置をとってもらったら、引き揚げがすみやかにいくのではないか等との意見も述べられ、われわれ派遣団として、今後の引き揚げ問題の調査に多大の参考となった次第であります、  以上、簡単ではありますが、派遣委員代表して、ここに調査情報を申し上げた次第であります。     —————————————
  8. 廣瀬正雄

    廣瀬委員長 それでは、これよりソ連及び中共地区残留同胞事情につきまして、参考人よりその実情並びに御意見を承わることといたします。  まず、小委員長より、参考人各位に対し一言ごあいさつ申し上げます。参考人各位には、御多忙中のところ御出席をわずらわしまして、厚く御礼を申し上げます。本小委員会は、海外に残留されておる同胞引き揚げ問題の早急な解決のため、調査をいたしておりますので、この点をお含み願いまして、皆様が帰還されるまでの概要、並びに現地における同胞実情等をお話し下さるようお願いいたします。  では、初めに清水義男君よりお話を願うことといたします。
  9. 清水義男

    清水参考人 本日は皆様よりお招きを受けまして、ありがとうございます。なお、この大切な引き揚げ問題に対しまして、各位の絶大なる御努力に対し、厚く御礼を申し上げます。  私は大正十年当時渡満いたしまして、すでに三十七年満州各地で仕事をしておりました。最近十六次で帰りましたときは、ちょうど瀋陽、元の奉天におりました。百二十四名帰りました。現在洛陽におきましては日本人——現地では華僑に対する日僑でございますが、日僑と称するのが六十四人ばかりおりました、現地国際結婚、すなわち中国人の夫を持っておりますものは、これは極秘にしておりますけれども、約四百六十五人くらいだということであります、そういったことで、今の日本人の数は家族を除きましたものでございます。なお、国際結婚のものは、現在一時帰国で帰っておる者を加えた数でございます。ほとんど残っております日僑と称します日本人は、夫並びに家族向うで勤務する、すなわち、工作者でありまして、生活の安定を得ております。なお、青年男女終戦当時十四、五才、現在二十五、六才になって残っておる者も六、七名おります。これを加えまして六十数名でございます。これが現在帰れないというのは、ほとんど家族が、むすこ、娘が向う学校に入れまして、現在向う教育を受けておるという立場——もちろん高等学校以上でございまして、専門学校、大学でありますが、帰れない。この際帰っても意味がないというような、いわゆる子弟のために帰れないという立場のが、今申しました中で約十家族ばかりあるわけであります。もちろんその当人はすでに年も老いておりますし、現在の情勢上帰りたいという意思を持っておりますが、子弟のために帰れないというふうの立場でおります。中に青年男女で六名と承知しましたが、現在瀋陽におります者は、すでに二十一五才から三十才前後になっておりますが、最近は非常に結婚難のために悩んでおる。そうかといって、向こうで教育を受けて、向うで多少安定しているから、よう帰らないというような立場に全部おるようでございます。今度は引き返しまして、国際結婚現地中国人と一諸になっております者の中で、終戦後結婚したのは、これは分けてみますと、Aクラスであります。それから終戦前に結婚いたしました者の中で、安定したところで安居楽業をしておりますのが、約五分の一くらいだろうと思うのです。中で五分の二はどうにかやっておる。残りました五分の二というのは非常に困窮して、瀋陽では一番生活程度の悪い者、一番みじめな者ということになりまして、現状あるわけであります。これに対しまして、当局でも、食えるだけという立場、飢え死させぬという立場において援助しておるという、ことしの春までの現状でありました。これはいろいろの立場で、私ども察するに、国内政策のいろんな意味がまざって、そういうふうになったのだろうと思うのであります。最近十六次の興安丸が立ちますにつきましても、ようやくこれは四月ごろにきまったのですが、こういった五分の二の困窮者には、当局から、区役所またはその下を通じて補助をしておるようであります。まあ困っておる方面はなるべく帰らなくてもいいだろうというふうな政策をとっておるようでございます。  大体この十六次の帰国に対しまして、私どもは、昨年から、この春はあるだろう、それはまず第一に戦犯についてのあれについては興安丸最後であろうというふうに見ておったのでありまして、なお瀋陽におきましては、一月ごろにはかなり国際結婚婦人、いわゆる日本里帰り婦人当局——当局といいますと、握っております警察公安局でございますが、この方面に折衝しまして、まあ待てというようなことになっておったわけであります。三月ごろになりまして、それがはっきりしないというようなことで、現地では、北京以外では、相当各地とも準備をいたしておったようであります。それがこの五月に実現されまして、帰ってきた次第でございます。なお、華南方面の、私どもの聞いたりまた見たりした立場を申し上げますと、すでに瀋陽華商は昨年の春以来、相当猛烈に当局にいわゆる再渡日を迫っておるようでございます。今度興安丸で帰りますときには、天津に残っておる華商がほとんど全部帰りたいという意思を持っておるというふうに、三人ぐらいの華商から聞きました。なお、太原、山西の中心ですが、あの奥地方面華商なんかも無断で興安丸まで、天津の私の宿屋、つまり赤十字の世話でない方面まで待機して待っておったようでございます。かようにして華商はあそこだけで六、七人華商の男がおっただろうというようなことを言っておりました。そういったことで、先ほど御報告がありましたような数の、結局十六次引き揚げとなったわけでございます。  簡単でありますが、これで終ります。
  10. 廣瀬正雄

    廣瀬委員長 次に、吉田寛君にお願いいたします。
  11. 吉田實

    吉田参考人 私は、皆さん方のいろいろ御努力によりまして、今度帰って参りました。私は終戦の一年ほど前に樺太に参りまして、樺太新聞社の記者をしておりました。そうして終戦後、赤軍の発行した日本語新聞に「新生命」というのがありますが、ここで四年間、日本人引き揚げが終るまで、大体樺太地区を回ったつもりでございます。  一番初めに私が言いたいのは、私が帰ってきたあとにまだ残ってる日本人は千家族くらいだったわけであります。これは、調査した人は千名と言う人が多いんですが、私の考えでは千家族、千世帯だと思います。千世帯あるいは八百世帯で、それに家族数を入れますと、二千五百名程度残っておるだろうと思います。この人たち生活状態は、大体中以上です。上位というのはほとんど少い。だから平均千五百ルーブル以下の生活をしているものと見なければならない。特に働いてる方面は、林業がおもです。冬は林業をやっております。コルホーズに入った農民もおります。この人たち生活は、特に苦しい生活をしています。これはどういう理由からかと申しますと、狭い樺太の土地に大陸的な機械化農業を取り入れたものですから、あまり成功していない点もあります。  それから、初めに私たちは十二月に帰国希望の申請を出したのですが、一緒に出した人たちで、相当今度帰っておらないわけです。敷香豊原、大泊、真岡、落合、この方面の人が帰ってきておらないということは、どういう理由から帰ってきておらないか、いろいろ調べてみましたが、第一番に関係していることは、いわゆる豊原事件というものが関係しているのじゃないかと私ははっきり思います。  豊原事件の大体の説明を申し上げますと、これは私たち初め警察当局から言われたのは、日本人だけ帰す、去年の十二月にそう言われたのです。日本人だけ帰国希望書を書いて出したのです。ところが、その後になって、日本のラジオが発表したのによると、その発表の中には、朝鮮人家族も含まれておるということがわかった。私たち向うでラジオを自由に聞いておりましたから、わかったわけです。それはことしの三月ごろでしたが、それじゃ朝鮮人家族引き揚げ希望書を出そうじゃないかということで出して、その後一度私たちの方へ、五月の上旬でしたか、警察当局から帰すという一応の内示があったわけです。そのときに独身の朝鮮人のところにも、日本帰国許可するというような内示があった。それで、今度戦時徴用令で当時徴用で行った朝鮮の人たちが騒ぎ出したわけです。一人の朝鮮人を帰すなら、われわれも帰してもらいたい。ところが日本政府があの当時、戦争中に自分たちの勝手に徴用で連れていったのだから、日本政府に責任があるのじゃないか。日本に帰すのは日本政府の責任だというようなことを言って、外人係ですか、そういう係が豊原にあり、それは引き揚げ方面のことをやっていますが、そこで多くの朝鮮人日本帰国を希望して願書を出したわけです。それが相当な行列のようになってしまいまして、一時それを中止しました。そのときはこれは北鮮系といいますが、これは北鮮系が騒ぎ出したのじゃない。ソ連国籍を持っている朝鮮人の共産党の委員で、それが騒ぎ出したわけです。北鮮側は至って冷静な態度をとっておりました。この人たちソ連国籍を持っている朝鮮人の共産党指導者が連絡をとって、一時騒ぎを静めようとした。それであそこに豊原朝鮮劇場という朝鮮人のために特別に作った劇場がありますが、そこで集会を開いた。集会を開きてましたが、お前たちはロシヤから来た朝鮮人であって、われわれは日本系の日本人だということを言い出したわけです。それでお前たちは関係ないのだ。それは向うで持っているパスポートにも、明らかに日本国籍にあったものであるということを明記してあるわけです。だから彼らが言うのには道理があったわけです。それがいわゆる豊原事件だった。それが五日間くらい続きました。結局何もおさまりがつかなくなって、そのまま解散してしまいました。それから各地方にやはりソ連国籍を持った朝鮮人の指導者おります。朝鮮人がたくさんいるところにはそれがおるわけですが、各地方から委員豊原に集めまして、そこで今後の対策を講じたらしい。それから各地方へその人たちは帰って、地元の朝鮮人を静めようとしたわけです。彼らの考え方は、一番先にはソ連の宣伝をして、これほどいいのだと頭の中に入っているのにかかわらず、なぜ日本へ帰るという気持を起すのか、起すはずはない。起す者はほんの少数の者だろう。こうふうに考えていた。ところが徴用で行った朝鮮の人たちの気持は、全然思想的、政治的なそういう頭でなくて、あの当時連れられていった者はちょうど青年期に達した二十才かそれ以上の者ですから、結婚した春もありますが、それは韓国へ家族は貰いていっておるわけです。それで、若い者でも、母親、肉親に別れて行っているわけです。ただ肉親と会いたいという、これは動物的本能ですね、これが爆発したものにすぎないのです。彼らのソ連国籍にある朝鮮人の見るように、思想的だとか、あるいはそんな問題で起ったものじゃないのです、今度帰られなくなった豊原敷香真岡などにはその例が多いわけです。これは単に豊原事件といいますが、それの分派的なものが敷香真岡、あるいはその他の地方で起きていると見なければならない。このために引き揚げが残された、残留者が多かったのだと私どもは見ております。  それから、今後の引き揚げ促進方法に対して私の考えを述べますと、まず第一に、樺太引き揚げ専門の係官を配置する。これが一番簡単に引き揚げの促進を解決する問題だと思います。これは一人でもいいのですが、一人でも日本人が行って、向うにいる人はロシヤ語はよくできませんから、その人が行ってやれば簡単に——といって、あちらの方がそれを受け入れるかどうかという問題ですが、どうしても係官をそこに配置して、そこで引き揚げ事務をやらせなければならぬと思います。  第二の問題としては、今残っている者は日本人の婦人が多いのです。これは大体朝鮮人国際結婚をしたものですが、この人たち生活は、それほど苦しいとは言えない。中以上の生活をしている者が多い。生活的にも安定しております。ただこの人たち日本家族に会いたい。彼らの言うには、生活が安定しているのだから、ただ日本に行って、日本人たち日本家族、肉親に会ってみたいという気持を持っております。だから私の考えでは、現在中共でとられているような里帰りの方法をやっていただきたいと思います。実際に帰ってきてもらっても、生活の苦しい場合に、向う生活が安定して、安心して生活しておるならば、家族の顔だけ見て、それで帰ったらいいのじゃないか、はっきり言うと、彼らもそういう気持の者が多いのです。  それから、郵便連絡を密にやってもらいたいと思います。現に郵便がどんどん通っておりますから。しかし、以前の住所では届かないわけです。だから引揚者からロシヤ名の住所をはっきりさせてもらいたい。現在残っているものは、単に恵須取じゃなくて、ウグレゴルスク市カール・マルクスならカール・マルクス通りの何番地と、それまではっきり書かなければ行かない、それをはっきりしてもらいたい。  それから朝鮮人の問題になりますが、これは政府の方の考えでは、日本人引き揚げさせるためには、国際結婚をした朝鮮人も、私の考えでは、ただそれは刺身のつまのような考えで、それは日本人を帰すのだから仕方がない、ついてくる付録として帰すといえば帰してもらわなければならない。ただし徴用で行った朝鮮人の問題は、私たちのような者から口出しをすべきものじゃない。  それから一度帰国を内示された者で残された者の生活状態は非常に苦しくなっております。それで、昨年の十二月から私たちは待ちに待っていたのだから、仕事も手につかなかったというのが実際の話です。生活力も自然になくなってしまう。きょう一日働くと——一週間働くと、ラジオでもう帰すような話が出てくる。それではやめて準備をしなければならぬ。それから三月になると、また配船のニュースが入ってくる。これはラジオを聞いておりますから、よくわかっております。だからそのときにまた準備をする。五月になっていよいよ今度は帰れなくなった、今度の帰国に間に合わないという者は、自分の家を全部売っております。自分の家を売って、荷物を荷作っている者が多い。それで生活も、私たちのような自由労働者なんかは、ほかのいいところがあれば移ればいいのです。移って働いていけば生活も苦しくない。あるいは林業でも遠い山に行ってしまえば生活には苦しくないわけです。ところが一部分の土地に落ちついて、そこでやるとすれば、一時的な、腰かけ的な仕事しかできないわけです。そうすると賃金も少くもらわなければならない、生活も苦しくなる、そういう順序になってきますが、現在いる人たち生活はほんとうに苦しいと思います。今度の冬を越すことは、相当の苦労を要すると思います。だから、私の考えでは、一日も早くこの引き揚げの促進をやっていただきたい。以上です。
  12. 廣瀬正雄

    廣瀬委員長 次に、橋本正雄君にお願いいたします。
  13. 橋本正雄

    橋本参考人 引き揚げに対しまして、皆様から絶大なるお力添えをいただきまして、ありがとうございました。  向うの様子につきましては、ただいま吉田さんから詳しいお話がありましたので、私から申し上げることもございません。
  14. 廣瀬正雄

    廣瀬委員長 最後に、川岸浩君にお願いいたします。
  15. 川岸浩

    川岸参考人 今度の引き揚げに対しまして、皆様の絶大なる御後援を賜わりまして、私たちありがたく感謝しております。  私はシベリアのクラスノヤルスク州のカンスクという町に十一年間抑留されておりました。その抑留状態引き揚げ状態に対して、私は簡単に皆さんに御説明を申し上げてみたいと思います。  もちろん私たち収容所生活にあった者の中には、戦犯者の方や、われわれのような満刑になって、地方へ居住地を指定されておる者等、種々の人たち生活しております。それが昭和二十九年の四月十七日に私たちのところから最後引き揚げがありまして、その後現在に至るまで一回も引き揚げ問題がなかったのであります。けれども、その間に自分が個人的にモスクワ嘆願書を出して、その許可がきた場合に、特別二、三の人間が帰された場合がありました。それは三十年でしたか、これが最後で、その後今度の引き揚げまでに一回もありませんでした。しかし、私たちは日本からのラジオや、なおソ連の新聞紙上の日本人引き揚げ問題や、それに関連するいろいろな記事だとかニュースを聞いておりまして、大体私たちは存じておったのであります。それが具体的にはっきりと私たちの耳に入ったのが去年の十一月末、そして、いよいよ私どもの帰還に対して外人係の方から、これは命令でなくて、帰国もしくは残留云々を問われて、そして、帰国希望者は直ちに嘆願書を出して帰国に対する手続をせよ、そしてまた残留する者も同一の嘆願書を山して残留しろというものでありまして、過去において、皆さん引き揚げられた感じと現在の状態は大いに異なっておるのであります。そしてまた、私のおりましたカンスク市には現在約三十余名の日本人が残っております。彼らは昭和二十六年以降満刑になった者が多く、そして現地でもって国際結婚をしておりまして、その中の約半数はすでにソ連の国籍に帰化しております。ソ連のパスポートももらい、すでに軍籍もあるような形になっておりまして、その人たちは今帰国は可能ですが、その手続がなかなか困難でありまして、私たちソ連の国籍にない人たちのように簡単な手続ができかねるのであります。ですけれども、中にまだ帰国を希望している人で、このたび手続をしたけれども、このたびの名簿に自分の名前が載っていなかったというような人が、やはり二、三残っております。しかし、あと大多数の人たちは、もうあそこでソ連の方へ帰化し、そして自分の意思から残留しようというふうな気持で残っておりますが、遠いところにいます人——クラスノヤルスク県にナリンスクという町があります。あそこにまだ日本人が約十五、六人残っていると聞いておりますが、私たちは居住地を指定されておりますので、そういう遠いところからの連絡がなかなかとりにくいので、はっきりした数字はわかりません。そして、エニセイ川の上流約三百キロさかのぼった地点に、アバカンスク、ミヌシンスクという町があります。あそこにもやっぱり十四、五人の日本人が残っております。中には希望者もあるようですが、はっきりした氏名もわかりません。けれども、今度の引き揚げに当って、私たちが集結させられたクラスノヤルスク州の州庁の所在地クラスノヤルスクでもって……。
  16. 廣瀬正雄

    廣瀬委員長 大へんいいお話でございますけれども皆さん聞えないようですから、もう少し大きい声でお願いします。
  17. 川岸浩

    川岸参考人 その係官が申すのには、ここへ日本人が集まる数は十五名集まらなければならない。ところが私たちがあの当時五名しか集まっていなかったわけです。それでしばらく二、三口あそこへ逗留して、あとから来るのを待っておりましたが、乗船する時日がせっぱ詰まってきたものですから、私たちは先に出発したようなわけです。私たちのあとから三名は、時日がおくれて飛行機でもって追っかけてきたので、私たちより先に到着しましたけれども、そういう人がありました。しかし、あとに残った人たちの数字ははっきりとわかりませんが、私のおりました町には約三十二、三名おります。これは姓名も年令も居住地もはっきりと私はわかっております。それから厚生省の方々に私は書類として残してきました。そうして先般関係者の人たち、山城さんたちのお話を承わると、ハバロフスク地方の一部にまだ幾ばくかの人たちが残っておるということを承わっておりますが、私今それは数字もはっきりとわかりませんし、ただ聞いたというだけであります。  そうして、今度の引き揚げに際しましても、私たちがカンスクの町を出発して興安丸乗船するまでの経路、それはもちろん今委員長さんから御説明のあった通り、私たちは、係官の言うのには自費で興安丸乗船するまぎわまでいたというようなあれをもちまして出発したのであります。ところがあそこで私たちはソ連の国籍にしない、外国人の取扱いはしておりましたけれども、国債というものはやはり同一に負担させられておりまして、それを現地のクラスノヤルスクの銀行でもって全部その全額を交換していただきました。そして、途中その出発から乗船まで向うの係官が各所在地からつき添って、親切に送ってくれました。中に一人の病人がおりまして、その人はクラスノヤルスクの町から私たちと一緒に興安丸乗船するまでついておりましたが、その一人に看護婦が一人つきまして、船中、車中、そして乗船のまぎわまでついてきました。そしていろいろと私たちは丁重なもてなしを受けましたことは、かたじけないというふうに思っております。  そこで、今後の残留者引き揚げに対しまして、私たちが帰国して現在残っている遺家族人たちが、いかに心配しているかということは、私個人としてほんとうに胸が痛みます。しかし、あそこで残留している、ソ連に帰化してしまった人たちの気持を考えると、私は何とも言えないのです。帰化した人たちは、もちろん自分自身で帰る気持もない、しかし、祖国の日本では遺家族人たちが待っている、心配している。そこが私には解決できないのでありまして、それは皆さんの御賢明なる御判断を願いたいと思います。もちろん私はあそこに一、二友人もおりまして、日本事情も手紙でもって連絡するように約束してきましたから、一、二の人たちにはこの状態をよく説明して送ってあげようと思います。そして、ほんとうに帰る意思があるかないかということを、私は個人的に彼らの気持を聞いて、私のところへ送ってくれるようにしてもらいたいと考えております。  簡単ですけれども、終らせていただきます。
  18. 廣瀬正雄

    廣瀬委員長 なお本日御出席を願っておりました山内一男君は、都合により広島の方に旅行中で出席できないとのことでありますので、御報告申し上げます。  これにて一応参考人より事情を承わりましたので、これより参考人及び政府当局に対する質疑を許します。  橋本さん、何もお話がないようでありますが、東海津の状況を何かちょっとお話し願いたいと思います。
  19. 橋本正雄

    橋本参考人 私は知取におったのです。そして、このたび七月の十八日に命令が出まして、二十三日に出発したのであります。知取地区には、もう希望しておって、しかもこの三月で向う名簿に載っておる者で残っておる者は五名おります。ほかに朝鮮人と一緒になっておった人が若干おります。それで残ったうちで、非常に困っておる家族があるのであります。これは二年ほど前に半身不随になりまして、その後働くことができない、それから家内、子供も病身で始終入院ばかりしておる。入院中は無料で心配はないのですが、退院後の生活というものは全然立てられない。ですから二年ほど前から私ら日本人が十名ほどみんなで出し合って助けておった。いろいろと警察あるいは共産党本部、そういう方面にお願いしたのですが、なかなかやってくれない。やむなく豊原の本部の方に出かけましてお願いしてみたのですが、やはりだめなんです。こういうふうな工合で、引き揚げてきておらないのです。今後は少くとも豊原敷香方面の残った連中にお願いいたしまして、私らは出発したわけであります。  それで、二十三日に知取を出発したのですが、大へん警察も親切にやってくれまして、乗車するときにも警察署長みずから乗降口に立って、全部私らを優先的に乗せてくれた。そして署員をつけてくれまして、何かと便宜をはかっていただきました。私の考えでは、まだ豊原敷香方面には相当残っておるわけなんです。大泊方面事情は私は数字的にもはっきりわかりません。知取地区の町内はわかりますが、相当山奥に入っておる者の数なんかははっきりしません。それで、三月ころまでですと、朝鮮人と一緒になっている人はもちろん帰れない、こういうような気持でおったものですが、このたび朝鮮人も帰れるのだ、こういうようなことで、どんどん帰国嘆願書を出しておった状態でした。  それから、若い人に多いようなんですが、四九年に帰国船が入ってきてから、その後今日までなかったものですから、もうすでにあきらめて、その間ソ連側から、国籍を移せ、こういうような勧めが始終機会あるごとにあった。それで、われわれは帰れないのだとか、いろいろな気持から、日本人ソ連の婦人と一緒になって、国籍も向うに移した、こういうようなものもかなりあると思います。しかし、今日国籍を返上して帰れる方法はないものか、こういうようなことで非常に悩んでおった者もあります。何でも聞くところによりますと、最初のうちは国籍を返上するということが案外簡単であった。ところが今日は非常にその手続が厄介だというので、嘆いておるような者もあるようです。大体そんなものでございます。
  20. 廣瀬正雄

  21. 戸叶里子

    戸叶委員 皆さん長い間ほんとうに御苦労様でございました。しばらくぶりにお帰りになりまして、生活におなれになるまでどんなにか大へんかと思います。どうぞお気をつけになって、日本生活にまた再びなじんでいただきたいと思います。  いろいろお話がございまして、参考になりましたが、まず、最後橋本さんがお話になりましたお話、よく聞き取れなかったので、御説明があったかどうかもわかりませんが、大体東海岸の方では、今度帰られた方が大へん少かったわけでございます。今度の引き揚げの中でも、承わるところによりますと、八名のようでございますが、橋本さんのいらっしゃった土地で、大体どのくらいの日本の方が一緒におられて、そうしてどのくらいの人たち帰国を希望されていたかということを、参考までに伺いたいと思います。  それからもう一つは、生活の水準はどのくらいでございましたでしょうか。
  22. 橋本正雄

    橋本参考人 私どもは、このたび知取からは町内で一緒に仕事をやっておったものの中から、八名だけ帰ったわけでございますが、一緒に、仕事をやっている中で残ったのが、男三名、女子供三名です。そのほか朝鮮人と一緒になっている家族の人が四名です。それ以外にも一緒になっておられて希望しておる人もあるようですが、はっきりした数はわかりません。敷香町内では自分の知っている範囲で約三十名くらいだと思っております。豊原地区は六十名くらいと思っております。  生活程度は、ただいまも個人的にはちょっと申し上げましたが、一般的には大体千ルーブル内外の収入によって、おもに労働をやっておるようです。労働も建築の方の仕事をやっておるようです。
  23. 戸叶里子

    戸叶委員 その方たちは、一応日本に帰ってこられることを希望しておられるわけでございますね。
  24. 橋本正雄

    橋本参考人 ほとんどが希望しておるようです。ただ先ほど申し上げましたように、国籍の問題で非常に悩んでいる方がおられるようです。
  25. 戸叶里子

    戸叶委員 吉田さんにお伺いしたいのですけれども日本の人で国際結婚をしている婦人がなかなか帰れない、中共の里帰りのような制度をとってもらったら大へんいいというようなお話でございましたが、そういうふうな希望をされている御婦人は、大体どのくらいございますでしょうか。
  26. 吉田實

    吉田参考人 この問題は興安丸船内でも出た問題なんですが、数的にはそれは言えないんです。里帰りということが問題化すればそれから出る問題であって、現在のところは里帰りという方法がとられておりませんから、里帰りということを考えているだけで、とにかく帰れれば帰る、それが先決問題だ。しかし、里帰りという問題が実現化されれば、相当数が里帰りを希望して、向う生活しようという者は多いと思います。数的には私は現在のところはっきり言われません。
  27. 戸叶里子

    戸叶委員 そういうふうなことが発表されれば、おそらく皆さん希望を言い出してくると思うので、数字はおわかりにならないと思いますが、大体日本の婦人がどのくいいられるか、おわかりでございましょうか。
  28. 吉田實

    吉田参考人 大体現在樺太に残っている日本婦人は、八〇%まで朝鮮人国際結婚をした者であります。だからその思想といいますか、考え方も、純粋の日本人の考え方とは違ってくるわけです。民族の違う夫を日本に連れて帰った場合、その生活がどうなるかということが日本婦人の頭の中にあるわけです。その人たちが約八〇%おりますから、その人たちはおもに里帰りの方を希望しているわけです。ただ、中にはこういう人たちもいるわけです、日本人の夫人を利用して、日本を足場に朝鮮に帰ろうという朝鮮人もおります。それは私も実際にそういう事件を見たことがあります。
  29. 戸叶里子

    戸叶委員 川岸さんにお伺いしたいと思います。たしか先ほどのお話では、川岸さんは満刑になられて、カンスクというところで働いていられて今度引き揚げてこられたようなんですけれども日本に帰れるというような通知はやはりソ連政府からの通知があったので、その手続をおとりになったのでしょうか。と申しますのは、私ども中国ソ連からお帰りになりたい方は一日も早く帰れるようにしてあげたい、ことにソ連とは国交が回復されたあと、まだ奥地あるいは知らないところにいらして、日本へ帰りたいにもかかわらず、帰れないということがないように、政府から通達を出してもらうようにしてほしいということを、何だびかこの委員会政府に向ってお願いしたわけでございます。その結果、ソ連の方でもおそらく政府からずっと下部の方に通達を出して、日本人引き揚げたい人は帰れるんだという通達が出て、それに基いての手続を取られて、今度帰られたのではないかと思いますけれども、この点はいかがでございましょうか。
  30. 川岸浩

    川岸参考人 いえ、このたびの私たちの引き揚げは、全部の在留日本人は外人係の管轄にありますから、外人係が全部の日本人——しかしソ連の籍に入っている人、パスポートをもらって軍籍に身を置いている人たちは呼ばれなかったですが、またその手続をしていない人は、全部呼ばれて帰国の希望の云々を聞かれ、そして希望者は嘆願書を出して、即時に帰る準備をしろという命令を受けました。しかし、先にもお話ししましたように、二十九年四月十七日に私たちの方から大多数の引き揚げがありました。私たちのおった町から四百何十名帰りまして、ナホトカから乗船した人たちは全部で八百幾らの数になりましたが、その後私たちにはそういうような命令は一回もありませんでした。もちろん取調べがありませんでした。しかし、今度の引揚げまでの間に私たちが聞いたのでは、四、五回引揚げがあったはずです。しかし、その間に十一月に帰られました高橋末吉さんは、ソ連に国籍を入れてしまっておりました。しかし、あの人がその手続をするのに、約一年半ばかり時日がかかりました。それはいろいろ手続の問題や日本から書類を取り寄せる日数の経過だとか、そういうもので長引いたのでありますが、しかしソ連に国籍がある人でも、手続によって帰ることができます。その方法は若干私も承わっておりました。それは、日本の外務省へ日本への入国の許可——日本人でありながらソ連に帰化してしまったから、あらためて今度は日本へ入国する許可証を外務省から取って、そしてその許可証が来ると、モスクワのやはりソ連の外務省の方へ出して、あらためて国境を通過する許可証というものを取らなければならないのです。その手続がなかなか困難でありますが、しかし許可されるととは確実です。
  31. 戸叶里子

    戸叶委員 ありがとうございました。  樺太からお帰りになりました方がお二人とも口をそろえておっしゃいましたことは、日本の専門の係官がぜひいてくれるならば、早くこの問題が解決するということでございました。  そこで私、外務省の方にお伺いしたいと思うのでございますが、日ソの国交が回復いたしましたときに、モスクワへぜひとも引き揚げ関係の専門の方に駐在してもらうようにということは、何だびかこの委員会が決議いたしまして、おそらくどなたか専門的な方が行っておられると思うのですけれども、今どういうふうな状態になっているか。それから、樺太にどなたか駐在官を置かれるような方法を、今後今の参考人の御意見に従っておとりになるかどうかということを伺いたいと思います。
  32. 金山政英

    ○金山説明員 引き揚げの問題は、政府としてもぜひともスムーズに行いたい希望でございますので、去る五月二日から高橋という厚生省の事務官がモスコーに駐在しております。参考人の先般の証書の中に、樺太にもこういう種類の連絡官を置いた方がいいという意見でありました。こういう点も政府として、よく研究いたしまして、実現に努力したいと思います。
  33. 戸叶里子

    戸叶委員 それからもう一つ、参考人の御意見から出ました日本人国際結婚をしていて、何とかして少しの間でも、いいから帰りたいという御婦人のための里帰りの方法を、外務省なり厚生省でお考えになる御意思があるかどうかを伺いたいと思います。
  34. 河野鎭雄

    ○河野説明員 今回は里帰りといいますか、夫と一緒に帰ってきている婦人が非常に多かったわけであります。ただ私どもまだ実情をつまびらかにしておりませんけれども七たとえば日本人の奥さんがすでに朝鮮籍に入っておる、あるいはソ連の国籍を持っておるという人があって、そういう人たちがあるいは帰らなかったのじゃなかろうかというふうなお話も実は伺っております。この点、実はまだ詳細に詰めておりません。と申しますのは、一応いろいろ調査いたしておりますが、さらに政府といたしましても、今度帰ってこられた方々にお集まりいただきまして、東京と北海道両方に分けて、いろいろ実情を伺っていきたいと思っております。実情を明らかにした上で、考えるべき点があれば考えていかなければならないと思います。ただ、里帰り問題といいますと、引き揚げ本来の問題ばかりでなしに、あるいは入国管理の問題とかいうような問題とも関連して参りますので、関係方面とも十分打ち合せをいたしませんと、政府としてもどういう態度をとるかということをきめかねる問題ではなかろうかと思いますので、その辺の事情を詰めました上で考えて参りたい、かように存じておる次第であります。
  35. 戸叶里子

    戸叶委員 厚生省の方ではまだ、先ほど吉田さんが説明されました里帰りを希望している婦人というものが日本の国籍にそのままあるのか、あるいはまたソ連籍になっているのか、朝鮮の国籍になっているのか、調べてないというようなお話でございましたけれども、先ほどの吉田さんのお話では、日本人でほかの人とは結婚しているけれども日本の籍にあるような口ぶりでありましたし、まだよくわからないわけでございますが、その辺のことをよくお調べになりまして、もしも吉田さんのおっしゃるような状態に置かれていて、しかも一時帰国を希望されているのでしたら、そういう点も親心をもって考えていただきたいと思いますが、もう一度御意見を伺いたいと思います。
  36. 河野鎭雄

    ○河野説明員 実は里帰りの問題というのは、きょう初めて伺ったのであります。と申しますのは、先ほどちょっと申し上げましたように、たとえば朝鮮籍に入っている婦人もおられる。そういう人たちも帰りたいという希望を持っているというお話は、話には聞いておったのですが、一時帰国というふうな形の希望を持っているということは、実はきょう初めて伺ったわけであります。実情をよく調べた上で、検討してみたいと思います。
  37. 廣瀬正雄

    廣瀬委員長 御質疑中でございますが、外務省の欧亜局長がお急ぎになるそうでありますから、局長の方の御質問を早くやっていただきたいと思います。
  38. 中山マサ

    中山(マ)小委員 私はただいまの吉田参考人のお話を伺いまして、戸叶委員と同じ質問が私の頭の中に浮んで参りました。ソ連地区にもまだ相当数の韓国人がいらっしゃる。その方の夫人となっていらっしゃる方が日本の婦人たちである。これは望郷の念にかられるととは、私はその国籍のいかんを問わず、非常なものがあろうと思います。しかし籍が向うにおありになる以上は、これは韓国人とすでになっていらっしゃる方であるか、まず吉田参考人にお尋ねしたいと思います。前の中共からの里帰りのように、入籍しないでいる御婦人たちであるか、それをまず吉田参考人にお尋ねをいたしまして、そのお答えの次第によりまして、欧亜局長にお尋ねをしたいと思います。今いろいろ韓国と日本との間に漁業関係の人で向うに行っている人、また向うの国の人で日本の国内において犯罪を犯して、九州の方で抑留されている人との間の問題でも、非常にもつれているときでございますが、今の吉田参考人のお話は、その奥さんがもしもまだ日本籍にあるならば、奥さんが帰ろうと言えば法律上拒否できないでございましょう。拒否できないといたしますと、日本に帰ってまた元へ帰るという単なる里帰りの方もあろうし、また今どなたかのお話によりますと、これを足場にして韓国へ帰りたいという御発言もございましたので、これは問題が非常に複雑であると見るのでございます。単に中共からの里帰りのように、こっちへ帰ってきて、一応自分の肉親と会って、それで得心してまた元のところへ帰ろうというお方と、違った国のお方と一緒になった方が、ここを足がかりにして、今度朝鮮に帰ろう、この二いろがおありになるようでございます。今日私ども日本国民といたしましては、戦争関係で、その意思に反してそういう土地へ——過去の言葉をかりれば、勝つために行ってもらったという人には、私どもは相当の責任を感ずるわけでございます。韓国の国籍の方にいたしましても、私は巣鴨の方に入れられておりました韓国人の釈放運動に邁進したときもございました。というのは、もうこの人たち終戦になってすでに第三国人になった。過去の時代において、日本人という国籍で行ってはいただいたけれども、今日ではそういうことになっているんだから、まず第三国人である韓国人を先に出してもらうのが至当なものではなかろうかということを私は主張したこともございますが、そういうわけで、二いろになっているのを外務省としてはどうおさばきになるか。今の韓国との国際問題につきまして、こういう方も一応日本に帰ってきて向うへ帰るならば、どういうことを韓国に外務省としては要求なさるか。あるいはまた別途に、これは韓国の方であるがゆえにわが国には関係がない。だから韓国とソ連とが直接に交渉をしてもらうべきものであるとおっしゃいますかどうか。  もう一点は、厚生省の方がこの委員会の要望にこたえて、ソ連へ行っていただいておりますが、そのお方の手はここまで伸びておるかどうか、あるいは全然この方面には手はついていないのかどうか。私の浅知恵でありますけれども、外交官は、外国へ行くと、いわゆる今のような形態の中では、その旅行の範囲が非常に限られておるということを聞いておりますので、そういうところまで手が伸びないというのが事実であろうか、また外務省からそういうところに係官を出張員として派遣してもらうように御要請になったかどうか、また今後御要請になる御意思があるかどうか。いろいろ問題が多岐にわたっておりますけれども、一つずつお答えが願いたいと思います。
  39. 金山政英

    ○金山説明員 御承知の通り、今ソ連にいるというので、名前がわかっているのが九千九百六十一名という数字が出ております。このうち、ソ連側からこれだけの者がいるというのが約一割でございまして、その残余の日本人の消息に関しては、累次ソ連政府調査するように希望しているわけであります。従いまして、ただいま参考人の御説明にありました日本の婦人が韓国人と大部分結婚しておられるというような事情もばく然とはわかっておりますが、ソ連側調査をまだ当方に知らしてきておりませんので、詳しいことは全然わからない状態であります。もちろん法律的ないろいろむずかしい問題はありましょうし、結婚に至るいろいろな事情もありましょうが、日本国籍を持っておられるとおられざるとにかかわらず、もちろん政府としてはできるだけの便宜を供与して、長い間ソ連に残っておられる方々を安心さしてあげたいという気持で一ぱいであります。ただ、結婚しておる韓国人が一緒に日本に帰ってくるかどうか、またソ連籍を持っておる日本人、それから朝鮮人と結婚して朝鮮籍を持っておる方々、こういう問題は非常にいろいろな複雑な法律問題をそこに包含しております。また国際関係から申しましても、韓国政府は、たとい日本側が、そういう日本を仲介としてというようなことを考えても、これを受け入れるかどうか、これまた非常に疑問でございます。現在の日韓交渉の経緯を見ても、はなはだ複雑な問題ではないかと思います。従いまして、結論的に申し上げますれば、政府といたしましては、帰国を希望しておられる日本人、またいろいろの事情ソ連籍あるいは朝鮮国籍をとられた方々も、できる限り祖国に帰して差し上げたいという気持であり、また将来もそういう趣旨でソ連政府と交渉いたすつもりでおりますが、目前の問題としては、たとえばこの間テヴォシャン大使がこの樺太引き揚げの問題について申し入れる前に、中間的な調査の結果を知らして参りました。その中に八百数十人というものが死亡しておるということがあったわけであります。しかし、この死亡者の名前を一つ知らしてくれということに対しても、まだ何ら返答がないような次第でありまして、政府としては今後死亡者も含めたソ連残留の日本人の消息をできるだけ調べる、それからまた帰国を希望しない人々についても、本国との連絡の便宜をできるだけ与えるように努力するという決心でおります。  はなはだ一般的なお答えで失礼でありますが、カバーしない点がありましたら、またあとから申し上げます。
  40. 中山マサ

    中山(マ)小委員 吉田参考人のお話から伺いますと、この豊原事件で騒いだ人たちは、北鮮系ではなかったというようなお話でございましたね。お帰りになって間もないことでございますから、国内の事情もまだつぶさに御聴取願えていない点が多いので、こういうことを申し上げてもいかがかと思いますけれども日本という国は思想的にもいろいろな不安定なところに立っているわけでございます。このみじめな戦争のためにドイツも西と東とに分れて、非常な苦痛を見ているように、朝鮮も南北に分れて非常に同胞相はむというような状態になっております。日本内地におきましても、いろいろな国籍の人がございまして、政府当局としては非常な不安を感じているようなところもあるのでございます。特に北鮮系のお方々は、御承知の通り、やはりソ連式な政治形態を北鮮ではしいていらっしゃるのでございますので、私個人といたしましては、もし日本人の責任においてそこに連れていっていないものならば、やはりソ連と北鮮とは同じイデオロギーによって国を立てていらっしゃるので、その方の関係で国へ帰ってくるという形式を通らないで祖国にお帰り願った方が——今、外務省の方もお話になりましたように、日韓の問題が非常にこんがらかりまして、いろいろな取り消しの問題が起ったり、あるいはいろいろとはかばかしく参りませんで、最も近いところのお隣と十分に手をつなげないような悲しい現状を私どもは見ておるのでございますが、かの地においてはいかがな状態になっておりますか、ちょっと御説明願いたいと思います。
  41. 吉田實

    吉田参考人 これは私の説明不足だったのですが、樺太におる朝鮮民族ですね、これは大体三つに分けられると思います。これはソ連国籍を持っておる者と、それから戦後北鮮から労働の募集で樺太に渡った者、それからもう一つは戦時中、おもに南鮮からですが、南鮮から軍事徴用令で樺太に渡った者とこの三種類——種類と言えばおかしいのですが、そういうものがあるわけです。で、俗に言う豊原事件で騒いだ者というのは、これは戦争中に軍閥の圧力のもとにただ連れられていった者です。だからこの人たちが騒ぎ出したわけであります。大体こちらの方もおわかりにくかったと思いますが、朝鮮国籍になったというのは、あなた方のお考えが少し間違っておられるようでして、向うのパスポートには、国籍欄と民族欄というものがあります。民族はどこまでいっても変りはないものです。しかし国籍というものは変ってくるわけです。日本人であれば、ソ連の国籍をもらっても、それは日本民族であることには変りない。そういうふうに明記されております。だから朝鮮民族と書いた日本婦人があるわけです。それはどうして書いたかといえば、当時、終戦後数年たってから、日本人引き揚げがありました。それで、日本人が全部引き揚げたならば、今度朝鮮人引き揚げるのじゃないかと、それを予想して日本婦人と結婚した朝鮮の人が、それじゃ民族を朝鮮民族にしておこう、そういったのが現在まで続いているわけです。それで、実際には大和民族でありながら、朝鮮民族と書かれている、そういう女かいるわけです。その人たちが、今帰る希望を持っていながら帰れなくなっている。それから、なぜ北鮮系かこのたびの事件に関係しなかったかといいますと、北鮮は戦争後に労働募集で来たものです、だから、彼は北鮮へ帰りたければいつでも帰れるわけです。だから、それは全然問題がないわけです。しかし、日本政府が責任を持って——今回の引き揚げは、赤十字の関係ではなく、日本国家とソ連国家との折衝によって行われたものですから、そうすれば、日本の国籍になったものとパスポートに明記されている者は、日本国の政府が責任を負うべきであろう、そういうわけで彼らは騒ぎ出したわけです。人道的な立場に立っていえば、戦争をやるために、それを援助させるために連れていった、日本人だけ引き揚げてあとは知らないと言えるか、それはそうほおかふりできないと思います。以上です。
  42. 中山マサ

    中山(マ)小委員 今度朝鮮籍の方々が引き揚げてこられる前に、韓国から何かこの問題に関して申し入れが外務省の方にありましたでしょうか。
  43. 金山政英

    ○金山説明員 ございません。
  44. 廣瀬正雄

    廣瀬委員長 受田新吉君。
  45. 受田新吉

    ○受田新吉君 欧亜局長に一言お伺いしておきたい。私は、すでにソ連政府に対して厚生省の高橋事務官を残留者調査その他のために派遣をしておられることに非常に好意を持っておるものでありますけれども、その高橋氏は、向うでは参事官の地位を得られたのかどうか存じませんが、高橋氏の身分上の取扱いとその職務執行上の権限、そういうものがどうあるか。それからソ連政府は高橋事務官に対していかなる処遇を与えておるか。そしてソ連は非常に広い地域でもございますが、ことにきょうお帰りになられた方々の中に二人までおられる樺太地区というものは、これは日本に非常に接近していて、元日本領土でもあったという日本にとっては非常に因縁の深い地域なんですが、そこに、先ほどもちょっとお話が出ておりましたが、高橋事務官の権限が浸透しておるのかどうか、あるいは交渉等において樺太地区に対してどのような経過的な動きがあったのかというような問題を、明らかにしていただきたいと思うのです。  それともう一つは、日本の国籍を離脱した、すなわち向う側で新しく国籍を取得した方々、この方々の取扱いですが、これは日本の国籍離脱の形式をとらないで、二重国籍の立場向うの国籍を取得しておるのか、そういう場合には、日本政府としてはただ一方的な国籍取得という手続のみではなくて、こちらにおいてもこれに対して法律的な、国際条約的な関係からの何かの意思表示を国としてするのかどうか。  いま一つは、先ほどの吉田さんでしたかのお話の中に、向うの住所がはっきりしないので、郵便が宙に迷うようなおそれがあるということでございましたが、日本政府としては、ソ連残留者の住所をきわめて明瞭に調査して、その留守家族をして、あるいは日本国民をして、郵便の発送その他に手違いがないように十分徹底させるように措置をとっておられるのかどうか、ここを三つほどお尋ねしたいと思う。
  46. 金山政英

    ○金山説明員 モスクワに駐在しております高橋厚生事務官は、大使館のメンバーとして二等書記官の称号を持っております。当然外交官としてソ連全土に旅行する自由を持っているわけでありますが、御承知の通りソ連にはいろいろ旅行の制限がございます。まだ樺太まで出張して現地事情を調べるというところまではいっておりません。しかし、最近例の北洋で拿捕されました漁船の漁夫がどういう扱いを受けているか、またどこに抑留されているかということも明らかにされておりませんので、外務省といたしましても、門脇大使に訓令をいたしまして、この抑留漁夫の訪問をソ連に要求している事実がございます。それとこれとはまたもちろん別問題でありますが、ソ連側の本件に関する出方は、おそらく樺太に対する出張の問題を許可するかどうかというような目安もつくと思いますので、その上でぜひ現地について扇橋書記官が広範にこの問題に働き得るように措置したいと考えております。  またソ連国籍を取得した人の地位、これは二重国籍であることは御発言の通りであります。それで明らかにソ連国籍を取得するという意思を表明しない限り、日本国籍を捨てるということを言わない限り、これは日本国籍を保有しているわけであります。  それから郵便連絡住所の調査、これは政府といたしましては、この交渉が始まって以来日本人がどこにいるのか、どういう生活をしておるのかということに対しては、ソ連政府に随時調査を要求しているわけであります。その調査の結果が同質がないのははなはだ遺憾でありますが、今後も調査を続け、交渉を続けて、正確なアドレスを入手するように努力する考えでおります。
  47. 戸叶里子

    戸叶委員 樺太地区への係官の出張の問題、先ほどお二人の参考人からの御要望もございまして、そのことについていろいろ欧亜局長から御説明がございましたが、これはやはり急を要することでございますから、なるべく早くそれが実現するように、万全を期すようにお取り計らい願いたいと思います。  それからもう一点、さっき伺い落したのですが、先ほどの参考人の方が、引揚船が出た場合に、その船まで行く旅費がないために引き揚げられないという場合もあるということをおっしゃったのですが、こういう点について日本政府としてお調べになってあるかどうか、そしてまた今後そういうことがないようにどんな方法をおとりになられるかを承わりたいと思います。
  48. 金山政英

    ○金山説明員 出張の件につきまして、実は御承知でもありましょうが、ソ連は非常に広範な旅行禁止区域を設けております。それで、樺太もその区域に入っているわけでありまして、ソ連政府が果してそういう許可を与えるかどうかという問題もありまして、非常に困難な交渉だと思いますが、できるだけのことはいたしたいと思います。引き揚げ旅費の問題に関しては、これは厚生省の関係だと思いますので、厚生省に……。
  49. 河野鎭雄

    ○河野説明員 抑留者の旅費につきましては、従来から、たとえばソ連地区でございますれば、ソ連の方で御心配をいただいているように承知いたしております。その他の一般邦人につきましては、従来の扱いは自費で船のところまで出る、港まで出るというのが、従来の例になっておるようでございます。今回の引き揚げで帰って来られた方々のお話でも、旅費がなくてというふうなお話がときどき出ているように私らも承知いたしておりますが、この点もなおよく調べてみたいと思っております。たとえば、この間の船が出る少し前に、二百五十八名帰すという知らせがあったわけであります。そのうち現実に二百十九名しか帰って来ない。その違いがどこにあるのかというような点も、できるだけ逐次調べつつあるわけであります。二百五十八名のうち五十六名が今度の引き揚げで帰ってこなかった。数がちょっと違いますのは、二百五十八名の名簿外の人が若干入っておりますために、数字がちょっと合いませんが、二百五十八名帰すと言って名簿に載っておって、今度帰って来なかった人が五十六名ほどおったわけであります。この事情もいろいろ調べておりますが、全部はなかなかわかりにくいのでありますが、その中には全く旅費がなくてというふうなケースはあまり出ていないようでございます。たとえば家を売るのが間に合わなかった。家が売れればおそらく旅費もできたでございましょうが、それができないで帰れないでおるという方もございます。あるいはその旅費がないという一つの例になるかもしれませんが、全然旅費見通しが立たないということとは、ちょっと事情が違うようであります。その他にも旅費がないという方もあるようでございますが、それが主たる理由であるか、あるいは家族が病気であるとかいうことが一緒になって、帰って来られないというふうな事情もあるようにも聞いております。実情をよく検討した上で、さらに対策を考えて参りたい、かように思っております。
  50. 戸叶里子

    戸叶委員 今おっしゃったようなことであるならば、それほど心配はないと思いますけれども、先ほどの参考人の方の御意見の中には、たしか引揚船のところまでの旅費がなかったためにというような言葉もございましたので、私どもはそのことを心配するわけでございます。そのようなことがもしあれば困りますから、なお先方ともよく連絡をしておいていただきたい、これを要望いたしたいと思います。  それから、中共からの引き揚げの問題でございますが、新聞によりますと、近くまた中共の戦犯の釈放並びに居留民の方の帰るための配船をしてほしいというような通知がございまして、そのことについて、明日私は外務大臣、厚生大臣がおいでになりますからお伺いしたいと思いますが、きょうその前に参考人の方に一点だけ伺っておきたいことは、先ほどの舞鶴へいらした方の報告にもありましたが、千七百七十一人帰ると希望して船まで来られたけれども、千四百八十六名だけしか帰れなかったというような報告を受けたわけでございます。さらに参考人の方のお話の中には、華商の方でだいぶお帰りになりたかったけれども帰れなかったというようなお話であり、今回の新聞報道によりますと、中共側から配船を日本に言ってきた中にも、華商の人で来たいという人がだいぶいるようでございます。そこでお伺いしたいのは、この千七百七十一人から千四百八十六人の差の、帰れなかった二百八十五人というのは、大体どういうふうな人たちであったかということをまず伺いたいと思います。
  51. 清水義男

    清水参考人 今お尋ねの二百数名というのは、男の華商でございます。この職業別は、ただいままでこちらから向うに渡りました華商で、日本人の奥さんを連れて行った方は、日本人の奥さんは大半今度の帰国によって帰ったわけであります。私の聞きますところでは、不正確かもしれませんが、向うにおりました華商数名、約五名のお話を十日ばかりおりました天津におきまして聞きますと、まだ約三百数名、向うで私に旅行してきて——政府のいわゆる日本帰還でなしに、出張の形式で、無断で——無断といいますか、各、仕入れその他の任務を帯びまして、日本へ、渡日ではなしに、天津に来ている者が三百数名おる。二百数名はすでにそのケースの中に入って帰るべく当局へ持ち出したものだということを聞いております。その二百数名は、日本から帰りました者は、ほとんど全中国に、分工といいまして、分配工作をする。それは各その技術を中心にいたしまして、各工業会社なら工業会社、農業方面なら農業方面、生産関係、商、あらゆる方面政府の分配して入れておった者が、ここ数年間あったわけですけれども、とうてい向う華商に対する優遇には耐え得られないで、自由国家に帰りたいという意思をほとんど全部持っておるということを聞いておりました。それでこの三百数名の中には、話を聞きますと、今年の二月七日から約三週間くらい国務院にハン・ストして、帰せといって、かなり猛烈に連動したのが、十一名が約百二十名前後になったということを、これもやはり数名から聞きました。そういうふうにして、いわゆる華商は猛烈にこちらの方に帰りたいという意思を持っておるわけであります。大半華商は今まで、帰ってその間商売のさやとりその他をした何もあるようですけれども、今度の華商の意向は、大半もう再び渡中しない。つまり祖国に帰らないというような意思を言っておりました。また中には、その二百数名のいわゆる渡日を願い出ている以外の者で天津に来ている者の中には、東京工業大学何年卒業、熊本県の何のそれがし養子縁組云々というような書類まで持って、最悪のときにはそれで船まで乗り組むというような意気込みでおった人もおります。かように華商は全般的にわたって——また中国としましても、各地方でも華商は非常に成績も悪し、また思想にも非常にそこに矛盾が出ますので、地方では帰すような方針をとり、北京の方では、これについて赤十字と政府の方では非常に困っておるというので、ちょうど立つ三日くらい前まで、夜中まで私ども代表と赤十字ともみ合ったのでございますが、結局華商は一番最前列に出すことになって、中国側当局に要求も出し、いろいろしたのですけれども、結局男だけ、つまり中国人は残るということになったわけでございます。  それからもう一つ向こうで、これは御質問以外のことですけれども、八百数人の向うでは学習組と称する、日本人の若い人がいるわけであります。これはもっぱら思想学習をしておりまして、最後の二十八年度に大半祖国に帰ったときに残らせまして、向うの若い人、現在二十五から三十くらいまでの人が中心でございますが、これが八百二十七人と聞いております。これは、今年の四月の十日に中共の灘陽の共産党委員会の統線部長の許懇という人から面接聞いたのですが、これは現在甲組と乙組とに分れて、中綿はおもにソ連の方に入っておる、乙組の方が最近こちらで各部門に分配工作されるであろうというようなことを聞いておりましたのか、最近六月のしまいには、灘陽その他に某地区からこつ然として一反ってきたらしい。それが全部で約四百数一人おる。あと三百人ほどは甲組として某地区におるというようなことを聞いております。
  52. 戸叶里子

    戸叶委員 もう一点だけ伺いたいのですが、華商の方が乗れなかったということでございましたが、それでは日本の婦人で一時帰国を希望された人は、ほとんど全部お乗りになれたわけでございましょうか。それとも、まだだいぶ残っているでしょうか。それを伺いたいのは、次の配船のこともございますから、一応伺いたいわけであります。
  53. 清水義男

    清水参考人 今度は一時帰国のものは、当局へ正式に願い出たのは全部通っております。なおまだ希望しているのは、第一にには夫の許可がない、第二には経済関係、この二つであります。
  54. 戸叶里子

    戸叶委員 私あと明日大臣に伺いたいと思います。ありがとうございました。
  55. 廣瀬正雄

  56. 中馬辰猪

    中馬委員 私は吉田さんにお伺いしたいのでありますが、樺太に残留しておられる朝鮮人と結婚された日本人の女、及びその子供の問題は、非常に重大な問題だと思います。そこで、先ほど吉田さんのお話では、終戦後北鮮から樺太にいわゆる仕事のために来られた人たち、そういう方が自由に北鮮の方にお帰りができる、こういうお話でございましたけれども、そういう方々と結婚をされた日本人がおるかどうか、あるいはそういう方々と結婚をして、その後北鮮に帰った日本人の妻かあるいは子供がおるかどうかということが第一点であります。  第二は、終戦前に日本政府のいわゆる責任で樺太に来たような人たち、そういう方々と結婚をされた日本人の妻あるいは子供にして、今度樺太から引き揚げた人々がほとんど全部だと思うのでありますけれども、そういう人たちは夫の国籍であるところの南鮮または北鮮に帰りたいという人たち、あるいは戦前住んでおった日本引き揚げたいという人、この三つあると思いますけれども、合計すれば四つのケースがあると思いますけれども、それらについての人数といいますか、割合といいますか、そういうものがもしおわかりでございますれば、それを伺いたいと思います。
  57. 吉田實

    吉田参考人 大体これは一九四六年度に、当時ありました協和会というのが解散になって、そのあとに平和会というものを彼らは作ったのであります、そりときに調べたものによりますと、三万六千人ほどの朝鮮人樺太に残っております。それはいわゆる南鮮系統のもので、北鮮から労働者は入ってきておりません、だからこの三万六千名というものは日本の国籍を持っていたもので、その後朝鮮はもちろん独立しました、大韓民国と、朝鮮民主主義人民共和国と二つにわかれましたが、樺太に残ったものはどっちの国籍にも入っていない、これは入れることもできなかった。ただこれは以前日本の国籍にあったのだという理由が付されておる。私たちもそういう点で同じでありました。それから結婚した比率ですが、北鮮系、戦後北鮮から来た人と結婚したものはごくわずかです。これはパーセンテージにとってみても少いのです。
  58. 中馬辰猪

    中馬委員 そうすると、まだ向うに残っておる人もありますか。
  59. 吉田實

    吉田参考人 残った人もあります。それからこれは北鮮からきた人でもないのですが、こういう方法をとったのです。それは当時から日本にいた人で、北鮮に帰る希望があれば帰してやる、そういうことを言ったのです。そのために南鮮の系統の人でありながら、日本人と結婚をして、日本婦人を連れて北鮮へ帰った人も若干あります。しかしこれは微々たるものです。それから、これは終戦当時の数字ですが、現存減ってはいないのです。その数字は、だから現在南鮮系統、韓国系統の朝鮮人は四万人ほどいます。そのうち日本人と結婚しておる者の数字は、正確に私は発表できません。
  60. 廣瀬正雄

    廣瀬委員長 ほかに御質疑はございませんか、——御質疑がなければ、これにて参考人よりの事情聴取を終ります。  参考人各位には、御多用中のところ、また炎暑の折、長時間にわたっていろいろと貴重なお話をお述べ下さいまして、本小委員会といたしまして、調査上非常に参考となりました。ここに厚く御礼を申し上げる次第でございます。本日はこの程度にいたし、散会いたしたいと思います。なお明日は、午前十一時より本小委員会を開会することにいたします。  本日はこれにて散会いたします。    午後零時三十八分散会