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吉田参考人 私は、
皆さん方のいろいろ御
努力によりまして、今度帰って参りました。私は
終戦の一年ほど前に
樺太に参りまして、
樺太新聞社の記者をしておりました。そうして
終戦後、赤軍の発行した
日本語新聞に「新生命」というのがありますが、ここで四年間、
日本人の
引き揚げが終るまで、大体
樺太地区を回ったつもりでございます。
一番初めに私が言いたいのは、私が帰ってきたあとにまだ残ってる
日本人は千
家族くらいだったわけであります。これは、
調査した人は千名と言う人が多いんですが、私の考えでは千
家族、千
世帯だと思います。千
世帯あるいは八百
世帯で、それに
家族数を入れますと、二千五百名程度残っておるだろうと思います。この
人たちの
生活状態は、大体中以上です。上位というのはほとんど少い。だから
平均千五百ルーブル以下の
生活をしているものと見なければならない。特に働いてる
方面は、
林業がおもです。冬は
林業をやっております。コルホーズに入った農民もおります。この
人たちの
生活は、特に苦しい
生活をしています。これはどういう理由からかと申しますと、狭い
樺太の土地に大陸的な機械化農業を取り入れたものですから、あまり成功していない点もあります。
それから、初めに私たちは十二月に
帰国希望の申請を出したのですが、一緒に出した
人たちで、相当今度帰っておらないわけです。
敷香、
豊原、大泊、
真岡、落合、この
方面の人が帰ってきておらないということは、どういう理由から帰ってきておらないか、いろいろ調べてみましたが、第一番に関係していることは、いわゆる
豊原事件というものが関係しているのじゃないかと私ははっきり思います。
豊原事件の大体の
説明を申し上げますと、これは私たち初め
警察当局から言われたのは、
日本人だけ帰す、去年の十二月にそう言われたのです。
日本人だけ
帰国希望書を書いて出したのです。ところが、その後になって、
日本のラジオが発表したのによると、その発表の中には、
朝鮮人の
家族も含まれておるということがわかった。私たち
向うでラジオを自由に聞いておりましたから、わかったわけです。それはことしの三月ごろでしたが、それじゃ
朝鮮人の
家族も
引き揚げ希望書を出そうじゃないかということで出して、その後一度私たちの方へ、五月の上旬でしたか、
警察当局から帰すという一応の内示があったわけです。そのときに独身の
朝鮮人のところにも、
日本帰国を
許可するというような内示があった。それで、今度戦時徴用令で当時徴用で行った朝鮮の
人たちが騒ぎ出したわけです。一人の
朝鮮人を帰すなら、われわれも帰してもらいたい。ところが
日本政府があの当時、戦争中に自分たちの勝手に徴用で連れていったのだから、
日本の
政府に責任があるのじゃないか。
日本に帰すのは
日本政府の責任だというようなことを言って、外人係ですか、そういう係が
豊原にあり、それは
引き揚げ方面のことをやっていますが、そこで多くの
朝鮮人が
日本帰国を希望して願書を出したわけです。それが相当な行列のようになってしまいまして、一時それを中止しました。そのときはこれは
北鮮系といいますが、これは
北鮮系が騒ぎ出したのじゃない。
ソ連国籍を持っている
朝鮮人の共産党の
委員で、それが騒ぎ出したわけです。北鮮側は至って冷静な態度をとっておりました。この
人たちは
ソ連国籍を持っている
朝鮮人の共産党指導者が連絡をとって、一時騒ぎを静めようとした。それであそこに
豊原朝鮮劇場という
朝鮮人のために特別に作った劇場がありますが、そこで集会を開いた。集会を開きてましたが、お前たちはロシヤから来た
朝鮮人であって、われわれは
日本系の
日本人だということを言い出したわけです。それでお前たちは関係ないのだ。それは
向うで持っているパスポートにも、明らかに
日本国籍にあったものであるということを明記してあるわけです。だから彼らが言うのには道理があったわけです。それがいわゆる
豊原事件だった。それが五日間くらい続きました。結局何もおさまりがつかなくなって、そのまま解散してしまいました。それから各
地方にやはり
ソ連国籍を持った
朝鮮人の指導者おります。
朝鮮人がたくさんいるところにはそれがおるわけですが、各
地方から
委員を
豊原に集めまして、そこで今後の対策を講じたらしい。それから各
地方へその
人たちは帰って、地元の
朝鮮人を静めようとしたわけです。彼らの考え方は、一番先には
ソ連の宣伝をして、これほどいいのだと頭の中に入っているのにかかわらず、なぜ
日本へ帰るという気持を起すのか、起すはずはない。起す者はほんの少数の者だろう。こうふうに考えていた。ところが徴用で行った朝鮮の
人たちの気持は、全然思想的、政治的なそういう頭でなくて、あの当時連れられていった者はちょうど青年期に達した二十才かそれ以上の者ですから、結婚した春もありますが、それは韓国へ
家族は貰いていっておるわけです。それで、若い者でも、母親、肉親に別れて行っているわけです。ただ肉親と会いたいという、これは動物的本能ですね、これが爆発したものにすぎないのです。彼らの
ソ連国籍にある
朝鮮人の見るように、思想的だとか、あるいはそんな問題で起ったものじゃないのです、今度帰られなくなった
豊原、
敷香、
真岡などにはその例が多いわけです。これは単に
豊原事件といいますが、それの分派的なものが
敷香、
真岡、あるいはその他の
地方で起きていると見なければならない。このために
引き揚げが残された、
残留者が多かったのだと私
どもは見ております。
それから、今後の
引き揚げ促進方法に対して私の考えを述べますと、まず第一に、
樺太に
引き揚げ専門の係官を配置する。これが一番簡単に
引き揚げの促進を解決する問題だと思います。これは一人でもいいのですが、一人でも
日本人が行って、
向うにいる人はロシヤ語はよくできませんから、その人が行ってやれば簡単に
——といって、あちらの方がそれを受け入れるかどうかという問題ですが、どうしても係官をそこに配置して、そこで
引き揚げ事務をやらせなければならぬと思います。
第二の問題としては、今残っている者は
日本人の婦人が多いのです。これは大体
朝鮮人と
国際結婚をしたものですが、この
人たちの
生活は、それほど苦しいとは言えない。中以上の
生活をしている者が多い。
生活的にも安定しております。ただこの
人たちは
日本の
家族に会いたい。彼らの言うには、
生活が安定しているのだから、ただ
日本に行って、
日本の
人たち、
日本の
家族、肉親に会ってみたいという気持を持っております。だから私の考えでは、現在中共でとられているような
里帰りの方法をやっていただきたいと思います。実際に帰ってきてもらっても、
生活の苦しい場合に、
向うで
生活が安定して、安心して
生活しておるならば、
家族の顔だけ見て、それで帰ったらいいのじゃないか、はっきり言うと、彼らもそういう気持の者が多いのです。
それから、郵便連絡を密にやってもらいたいと思います。現に郵便がどんどん通っておりますから。しかし、以前の住所では届かないわけです。だから
引揚者からロシヤ名の住所をはっきりさせてもらいたい。現在残っているものは、単に
恵須取じゃなくて、ウグレゴルスク市カール・マルクスならカール・マルクス通りの何番地と、それまではっきり書かなければ行かない、それをはっきりしてもらいたい。
それから
朝鮮人の問題になりますが、これは
政府の方の考えでは、
日本人を
引き揚げさせるためには、
国際結婚をした
朝鮮人も、私の考えでは、ただそれは刺身のつまのような考えで、それは
日本人を帰すのだから仕方がない、ついてくる付録として帰すといえば帰してもらわなければならない。ただし徴用で行った
朝鮮人の問題は、私たちのような者から口出しをすべきものじゃない。
それから一度
帰国を内示された者で残された者の
生活状態は非常に苦しくなっております。それで、昨年の十二月から私たちは待ちに待っていたのだから、仕事も手につかなかったというのが実際の話です。
生活力も自然になくなってしまう。きょう一日働くと
——一週間働くと、ラジオでもう帰すような話が出てくる。それではやめて
準備をしなければならぬ。それから三月になると、また配船のニュースが入ってくる。これはラジオを聞いておりますから、よくわかっております。だからそのときにまた
準備をする。五月になっていよいよ今度は帰れなくなった、今度の
帰国に間に合わないという者は、自分の家を全部売っております。自分の家を売って、荷物を荷作っている者が多い。それで
生活も、私たちのような自由労働者なんかは、ほかのいいところがあれば移ればいいのです。移って働いていけば
生活も苦しくない。あるいは
林業でも遠い山に行ってしまえば
生活には苦しくないわけです。ところが一
部分の土地に落ちついて、そこでやるとすれば、一時的な、腰かけ的な仕事しかできないわけです。そうすると賃金も少くもらわなければならない、
生活も苦しくなる、そういう順序になってきますが、現在いる
人たちの
生活はほんとうに苦しいと思います。今度の冬を越すことは、相当の苦労を要すると思います。だから、私の考えでは、一日も早くこの
引き揚げの促進をやっていただきたい。以上です。