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多賀谷委員 私は日本
社会党を代表し、
電気事業及び
石炭鉱業における
争議行為の
方法の
規制に関する
法律附則第二項の
規定により、同法を存続させるに
一ついて、
国会の
議決を求めるの件について反対の意思を表せんとするものであります。
私は今臨時
国会の召集に当り、次のことを期待しておりました。それは三年間
本法の
適用を受けた
事件は
一つだになく、しかも労働行政にたんのうな倉石労働大臣のことでありますから、おそらく
政府は、かつて英国においていわゆるゼネ
スト禁止法が廃止されたと同じような提案がされるであろうということであったのであります。一九二六年の炭鉱
争議を
契機として起りました大ゼネ
スト後において制定されました一九二七年の労働
争議及び組合法を廃止するに当り、サー・ハートレー・ショウクルスはその提案理由の説明にこの
法律の効果はほとんど失敗だといってよい、そして労働大衆の間に、不正が行われているという激しい気持、法廷は労働大衆に対抗しているという感情、
法律が労働大衆に不利益になるように復讐的に作られたという信念、そうして労働権が徐々に奪われているという
感じが醸成されただけであったと述べているのでありますが、賢明な倉石労働大臣の口からこれと同様なことがおそらく述べられ、
スト規制法廃止の提案がなされるであろうことを
考えておったのでございます。しかるに私の期待はむざんにも裏切られ、私は遺憾ながら
本法を三度審議し反対するの光栄に浴したのでございます。
本法は
昭和二十七年の炭労、電産の
争議にかんがみて作られたものであることは明白でございます。そこで私は翻って
本法成立の端緒となった炭労、電産の
争議について三カ年たった今日、客観的に冷静に検討してみたいと思うのであります。
炭労においては純然たる賃金値上げの交渉でありましたが、現行賃金の五%引き下げというきわめて非
常識な案を提示され、ここに組合は無期限
ストに入ったのであります。
ストライキ突入四十一日間、交渉は全然放棄せられ、
経営者はその間組合の切りくずしに狂奔し、誠意ある回答によって解決しようとせず、組合の崩壊によってのみ解決せんとしたところに長期化したゆえんがあるのであり、炭労として保安放棄を宣言せざるを得なく至らしめたのであります。しかも
経営者は
ストをもって七百万トンに上る貯炭の一掃をはかり、炭価の維持及び引き上げをねらって、その長期化を期待し、
政府もこれを応援するかのごとく、石炭の需給
関係に何らの
影響なしとして放任し続けてきたのであります。中労委の介入すらも回避せんとしたのは、組合ではなくして、むしろ
経営者であったことを私は指摘することができるのであります。会社の経理状態は当時非常な好況を示し、配当を三割ないし四割を行なっており、
経営者の
態度は賃上げに応ぜられないという以外に別の大きな要因によって動いておったようであります。六十三日の
争議の終った翌二十八年三月の決算においても、赤字を計上する会社は
一つだになく、みな二割ないし二割五分の配当を続けたのであります。一体この
争議の責任はどこにあったでありましょうか。電産におきましても同様でありまして、統一交渉の拒否、統一労働協約の破棄、電産式
生活給賃金システムの破壊、労働時間その他の労働条件の切り下げ、かように一挙に労働条件の切り下げを要求してきたのであります。
これを要するに、炭労、電産の
争議は、
経営者が占領治下において失った労働者に対する専制的支配権を回復し、講和後のわが国の労使
関係を一挙に規律しようとして企図したことは明白であろうと思うのであります。かく
考えるならば、これら
争議の長期化した原因は、一に
経営者並びに
政府にあるのでありまして、これを労働者に転嫁し、しかも報復
立法を作り、三年の後、なおこれを延長することは言語道断でございます。
第二に、この三年間
政府は労使の安定をはかり、
立法当時議論されました労使の均衡を調整する処置を一体とったでありましょうか。
電気労働者は実質的に
争議権を剥奪され、経営参加制度等の代償も何ら得ていないのであります。むしろ既得権でありました若干の経営参加権も奪われ、協約も漸次改悪せられ、
生活給的賃金は職階給的賃金になり、電力行政は九分割の欠陥を遺憾なく露呈し、各企業間における経営のアンバランスを生じ、賃金労働条件に較差を生ぜしめたのであります。石炭
関係においても、石炭政策における
政府の無定見はついに三年間に五百数十の炭鉱を崩壊せしめ、十万に上る労働者を失職せしめ、炭鉱労働者をして悲惨のどん底の
生活に追いやったのであります。さらに合理化法という炭鉱買いつぶし法を制定し、炭界好転の今日も五百名ないし干名の集団解雇が行われているという矛盾した政策を行なっているのであります。しかも本
スト規制法によって炭鉱労働組合の得たものは、長期の全山ロック・アウトであったのであります。かように
本法制定後の
政府の労働政策並びに
産業政策は労使の均衡をとり、安定をもたらすどころか、逆に労使間の不安を助長さすがごとき政策に終始してきたといっても過言ではございません。しかして
本法が労働者の権利のみを封殺し、全く資本擁護の
法律となり、労働者に何らの代償を与えなかった、やらずぶったくりの
法律と化したことは、
本法の性格を如実に現わしたものでございます。
第三に、今日この
法律を恒久
立法として存続する必要があるでありましょうか。前述のごとき
政府の政策にもかかわらず、三カ年間でこの
法律の
適用を受けた
事件は一件もなかっということは、この
法律が必要でないということを何ものにも増して雄弁に立証するものであります。(拍手)
政府が真に労働
関係に関する事項については、
法律をもってこれを抑制し、規律することはできるだけ最小限度にとどめ、むしろ労使の良識と健全なる労働慣行にまつことが望ましいと
考えるならば、この際当然
本法を廃止すべきであると
考えるのであります。
政府が労働組合の実態を色めがねをもって偏見し、労働界の情勢はこの三カ年間に安心できる要素を何
一つ見せていないと朝日新聞で労働大臣が談ずるごときは、全くためにする議論と言わざるを得ないのであります。しかも恒久
立法といたしましては
緊急調整制度があります。先ほどから労働大臣がおっしゃる、あるいは
法務大臣がおっしゃる
公共の
福祉ということにつきましては、その
争議が
規模が大であり、日本の経済に
影響する場合は
緊急調整制度がございます。その
緊急調整制度があるにかかわらず、さらに屋上屋を架すこの法案に対しまして、私たちは反対せざるを得ないのであります。
第四は、
政府は提案当時、この法案は創設的
立法ではなく、
解釈的
立法であり、宣言的
立法である。従来
社会通念上、違法または不当な
争議行為を明確化したにすぎない、こう言っていたのでありますが、果してそうでありましたでしょうか。
ストライキを行なった場合、迷惑をこうむった公衆の心の中に嫌悪の情が起ることは否定できないのでございます。また第三者が当事者に比べて冷静公平な
判断を下す立場にはありますけれ
ども、一方冷酷で無責任な批判者にもなりかねないのであります。労働者は自分では
ストライキをしながら、よその
ストライキには不平を言っているというのが、現在の実際の状態でありまして、かように
民主主義がおくれ、認容の精神が足らない状態では、
社会通念ということの基準はきわめて困難でございます。市民法系にならされ、労働法系の観念が十分成熟していない今日、いまだ
ストライキをもって罪悪視し、革命の手段のごとく
考えられておる人も実は少くない今日においては、
社会通念という言葉で規律するということはきわめて危険であろうと思うのであります。労働法は市民法系の中に割り込んで逐次修正をしながら発展してきた動的
法律関係でありまして、これを
考えるならば
判例の集積こそ労働法における
社会通念を形成し、決定するものであると言わざるを得ないのであります。
しかして
判例は
停電スト、
電源ストに対して違法であると決定したものはほとんどありません。
川崎発電所の
停電に対する東京
高等裁判所、横浜地方
裁判所のごときは重大な
事故発生の危険を伴いやすい
職場放棄等の手段を避け、比較的安全にして効果的な
停電ストに出たことは、
電気事業の
性質上機宜に適した措置であったものというべく、従って本件
停電ストをもって必ずしも正当な
争議行為の
範囲を逸脱したものであるとは認められないと判示しているのであり、
スト規制法制定後の
電源停電ストライキも免訴
無罪となっているのであります。高知地方
裁判所の
電源ストに対する
判決は、資本主義ないし私有財産制度の根幹を否定するがごとき傾向のある
争議行為でない限り、相手方のある程度の自由を阻害し、またはある程度経営権を
制限する結果が生じても、法はこれを認容すべき分野があるとして、
会社側が業務命令をもって
ストに入った以上、会社の指揮命令を離れるので、右、業務命令に従わねばならぬ
義務はないし、
電源職場組合員が
職場放棄と同時に、それまで運転していた発電機を停止するだけのことは、いまだ会社の施設管理権を奪ったものとも
考えられない。スイッチ切断の戦術はまことにやむを得ざる手段であると認定し、
停電ストの合法性を
判断しておるのであります。さらに
昭和三十一年七月十九日の
東京高裁の
判決も
電源ストの合法性を認めておるのであります。かように
裁判所は相次いで
停電スト、
電源ストを合法なりと判示しているのであります。これは明らかに、これらの
争議行為が
社会通念上合法血ものであることを示すものであり、
立法当時
政府の言った
社会通念上、違法または不当なものという
考えは、全く
政府の独断的
解釈であったことを証明するものであります。この点だけでも
政府は責任を
感じて廃止すべきであるにもかかわらず、依然として
解釈立法なりとして欺瞞的言辞を弄し、ほおかぶりをして恒久
立法にし、新たに
争議行為を弾圧せんとすることは断じて許し得ないと思うのであります。
第五に、さらに
本法は
公共の
福祉という名を乱用した、
憲法の精神と相いれない
立法であります。
政府は
公共の
福祉を擁護するためにこの
法律を作ったと言っております。私は
憲法二十八条の
規定する労働者の諸権利は、労働者の長年にわたる血と汗によって色どられた既存の闘争の歴史の遺産であり、何人も侵すことのできない権利であると
考えるのであります。ここに新
憲法の意義があると思うのであります。旧明治
憲法炉
法律の定むるところによりとして、
法律の
範囲内において
国民の権利を
規定し、
法律をもってすればいかなる権利及び自由をも侵害することができると
規定いたしましたが、新
憲法はこの
法律万能主義を捨てて、
国民の
基本的人権は
法律をもってしても侵すことのできない天賦の権利なりとし、この権利の保障をもって
法律にまさる効力ある最高法規たらしめているのであります。もし
政府が
公共の
福祉をもって
基本的人権を自由に
制限し得る万能薬と
考えるならば、それは明治
憲法と何ら異なるところがないのであります。自民党の諸君は、
国会における多数派であるという理由で、多数の
国民の意思であるとして自分たちの
考えを
公共の
福祉に適するものであるとし、自由に
憲法に保障された権利が侵害できると
考えているようでありますけれ
ども、これは全く思い上りもはなはだしいと言わざるを得ません。(「その
通り」)有名な、かのジャンクソン判事は、次のように言っておるのであります。「権利章典の真の目的は、ある事柄を政治的な争いの渦中から引き離して、多数派や官僚の支配できる
範囲の外に置き、かつそれを
裁判所の
適用すべき法原則として樹立するところにあった。
基本的人権は投票に左右されるものではなく、選挙の結果に依存するものではないと言明しておるのであります。この言を
政府並びに与党の諸君は銘記しておいてもらいたいと思うのであります。また遺憾なことは、単なる
公共の便宜と
公共の
福祉を混同された議論がなされておるということであります。それは困るという、単なる
公共の便宜のためにという理由で
基本的人権が
制限されるでありましょうか。もしそうだとするならば、
ストライキは全面的に
制限しなければなりません。
基本的人権が
制限されるときは、他の人の
基本的人権を直接に侵害する場合、すなわち基本権と基本権が衝突する場合に調整的機能としてのみ
制限されるのでありまして、これが
公共の
福祉なのであります。ゆえにかかる
憲法の精神をじゅうりんする
立法に対しては、私たちは承服することはできないのであります。
第六に、
本法を恒久
立法とするにはあまりにずさんであります。
労調法は、
電気事業を公衆の
日常生活に欠くることのできない
公益事業として
規定し、
予告義務その他の
制限をしております。
停電ストが禁止された
電気事業においてそれ以上
制限する必要はありません。しかも条文は「正常な」とか、「直接に」と、きわめてまぎらわしい字句を使っておるのでありまして、これが拡張
解釈を誘発する危険炉きわめて多いといわざるを得ないのであります。すでに労働省は、水力
発電所の水路の塵埃処理拒否のごときを
本法に抵触するごとく
考え、炭鉱の保安炭搬出の問題につきましても、
本法を拡大
適用せんとすることはこれを雄弁に物語るものであり、
基本的人権の
制限をする場合のとるべき
立法技術ではないといわざるを得ません。
第七に、
本法の恒久化を要求しておるのは
国民の世論ではなく、
政府と資本家であります。朝日新聞の社説は
スト規制法を提出すべきでないと論じ、労働法学者はあげて
本法の不当性をつき、全国の労働者は熾烈なる反対運動を展開しており、自民党の党内にも良識ある諸君は、
本法存続の提出を見合わすべきであると主張したと言われておるのであります。しかるに資本家にこびを売るの余り、
政府はあえてこれを提出し、炭労、電産の諸君が今にも
電気を消し、電車をとめ、炭坑を爆発さすがごとき宣伝を行なっており、倉石労働大臣のラジオ放送のごときはその雄たるもので、諸君、この
法律が否決されれば
電気は消え、ラジオも聞けなくなりますよ、こう言っておる。これまさに
国民を扇動するもはなはだしいといわなければなりません。一体
政府がこんな
態度をとっていて、日本の
民主主義は伸びるでしょうか。
政府は
民主主義擁護のために
基本的人権の
制限をせずして労働組合みずからの自主的抑制の中に乱用を戒め、世論に耳を傾けせしめ、その上に立っての戦術の採用をはかるごとくなすことが肝要であります。
民主主義の道はきわめて険しいのであります。ローマは一日にしてはならないと言われております。ちょっとつまずけばその芽をつむという
態度は、
民主主義の木を永遠に繁茂さすものではないと思うのであります。
私は
本法議決に当り次のことを想起いたしました。それはわが国の希代の悪法と言われる治安維持法制定の過程であります。大正十一年二月、時の政友会内閣は
社会運動者を弾圧するために
——これは
牧野さん、よく御存じです。過激
社会主義運動取締法案を提案いたしましたが、院の内外における反対によりついに審議未了となりました。しかし
政府及び官僚はなおもひるむことなく、翌年の関東大震災を
契機に治安維持に関する緊急勅令を仰いで、ついにこれを後に治安維持法にすりかえ、拡大
解釈をして
社会運動者、労働運動者はもちろんのこと、キリ
スト教師まで取り締ったことは吾人の記憶にいまだ悪夢として残っておるところでございます。ところが今回の法案の出し方はそのやり口と軌を一にしておるのであります。
炭労、電産の
争議の経験にかんがみと称して臨時
立法を設け、従来違法としたものを明確にするだけであるとして
国会及び
国民を欺補して制定し、三年たつや一挙に
委員会省略という暴挙をあえてせんとし、しかも恒久
立法にすりかえ、拡大
解釈をせんとする
態度は、民主政治の上から断じて糾弾されなければならないと思うのであります。
政府の言う
公共の
福祉は、それはファッショの
福祉論であります。十八世紀の絶対主義国家、警察国家が
福祉国家という名前で呼ばれており、
公共の
福祉は絶対主義の強力なる権力を基礎づける表現として用いられたものと同意語に使われているのであります。
公共の
福祉はかつての公益優先となり、ナチス・ドイツの
基本的人権圧殺のための、公益は私益に優先すると全く同じ語になってしまったのであります。
本法は、
公共の
福祉に名をかるところの
民主主義破壊の
法律であることを強調し、私の討論にかえる次第であります。(拍手)