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中原委員 言葉というものは実に便利なものでして、いわゆる
言葉の
魔術というやつがありますが、
大臣は非常に
魔術が上手なんです。これはわれわれもよく知っております。今初めて御説を聞くわけじゃない、もう長い間の御
関係ですから、よく知っております。けれ
ども私は
言葉の
魔術でこの場をあやつられちゃ困ると思うのです。私は初めから何回か申しましたように、たしか十六
国会の
公聴会におけるということを前提として申し上げたと思うのです。何も一般の全部の
学者をひっくるめてお尋ねをしたのじゃなかったのです。だから今の御
答弁は何というかちょっとためにするというか欺罔的な御
発言になると思うのです。そうじゃないのです。そうなるとやはりその
曲学阿世と大きく縛られた方たちの中に慶応の藤林
教授も
おいでになるし、東大の
有泉教授も
おいでになるのですから、その他を含めて当日
公聴会の席上で御
発言ができておるわけです。ただいまおっしゃったように
学者先生たちの御
発言を非常に尊重して
判断をしたというのが事実ならば、その人々の御
発言に対してこの
スト規制法はどういう答えを出しておるのですか。私はどう考えても
判断がいかぬのです。私
どもが寡聞にしまして、先生の切々の御
発言にかかわらず、その御
発言の重要な点をちっとも頭によう残さないで、とんでもないことばかり聞いたのだとすれば、あるいはそうかもしれませんけれ
ども、まず私だけじゃないのです、
委員各位が全部御列席の場でありますから、それでしかも明確に速記がなされておりまするし、その記録もその後配付されておるわけですから、おそらくどんなうかつな者といえ
どもこれを曲げて考えるはずはないと私は思います。従ってこれらの
学者先生たちの
発言に対しては、やはり最初に率直におっしゃったように、
曲学阿世の徒もあるということの中にその人を含めておるのじゃないか、そう思います。そうなりますと
公聴会に御出席になる方々が、
ほんとうにまじめに真剣に
責任を感じて
発言することができなくなると思うのです。幾らまじめに正しいことを力説強調しても、
国会というところではこれは
曲学阿世の
発言と、こうなってしまう。
国会というところは
国民の正常な
判断の外に位しているものであって、
国民の感覚とつながっちゃおらぬ、こういうことに
規定されるおそれが従って起ってくると思うのです。もう少し
国民の動きの実体をまじめにつかみながら国政が運営されていくということになってきませんと、それはときには
立場が違いますから意外にも逆なことが出ることがあるでしょうけれ
ども、よし
結論が逆になりましょうとも、その底辺になるものはつながっておる、
国民感情でうなずける、こうなってきませんと結局
国民全般の憤りというものが醸成されてくると思います。従ってその
国民の憤りというものは反
政府的、反
国会的、私はこうなると思います。
国会も
政府も信用するに足りない、むしろしばしば
国民の正しい
判断をかき乱すものである、私はそういうふうに陥っていくおそれなしと保証しがたいと思います。これはやはり幾ら
立場があられましょうとも、単なる
立場ということだけで
事柄をきめちゃならぬということの重要な証左だと思うのです。これは起りますよ。しばしば起ります。ちょっと話が脱線しますけれ
ども、先般の砂川事件のごときも、得々としてあれをよしとなさっている
政府の
当局もおありかと思いますけれ
ども、とんでもないことです。あれは写真で出ております。新聞にも出ております。だれが見ても正常な
判断が出てくるのです。
政府は何をするか、こうなるのです。その動きが最近いろいろな面でうなづける点もあると思うのです。ただ力で押せばそれで足りる、権力で押せば足りるという
考え方は、もう今日の
判断としては許されちゃならぬ、そう思います。従いまして私は、もう少し
責任のある
立場から、もう少しおのれを省みて恥じざる良心の
立場、
良識の
立場から
事柄を処理するために
努力してもらいたい。これなしには今日のこの本
委員会に付託されておりますこの事項の審議でも、実は真剣にできなくなってくるのです。冗談じゃない。数さえあれば何でもできる、そういうことになってくる。そうなればきめようとする事項それ自身が、今日
国民の
判断で大賛成であるかどうか。一応選ばれたという条件がそれをきめているのであって、実は
国民の
判断に直接に結びついていない、いやむしろ逆なことをとり進めている、こういうことにしばしばなっていると思います。これは決して——総評ということがさっきありましたが、総評がただ
労働者の団体であるから勝手気ままなことを言うておるのと違うのです。総評議会その他の労働団体というものは、たえず
国民の感情にさからわぬように
努力しております。私はそう
判断しておる。従って総評議会の出した方針が
国民感情ととんでもない逆行をしておる、もしそうであるならば、もう総評の存立の
意味を失うわけです。そういう点では誤解があっては困るので誤解のないように願いたいと思うのです。かれこれ思うてみますと、やっぱり
学者の方々の御
発言というものがそう軽率に取扱われたのでは、今後
公聴会等の権威というものがなくなってくる。
公聴会の
発言をそのままに取り入れろというのじゃないのです。その
公聴会における
公述人各位の御
発言に対して、誠実をこめて
判断する
努力がない、このことを私は申し上げているのです。
努力がない。もし
努力があるならばああいう
立法措置が平気でできるはずがないわけですから、そこに問題があると思う。ですから本臨時
国会において、法の命ずるところに従うて存続を求めるの件を議題とするということの可否の問題より、その根本のことが私はやはりどうしても了解できない、こういうことなんです。そのことに関しまして、そんなら
昭和二十七年の
炭労、電産の
ストの問題について、一昨日あたり同僚
委員からいろいろ具体的な指摘がありかかったのでありますが、残念なことには時間や何ぞでがちゃがちゃやられて、とうとう徹底した議論をなさることができなんだと思うのです。もちろんその機会を得て必ず継続の御
発言があると期待いたしておりますが、私はそれぞれ
委員各位からその当時における
争議の実相をもっと明確につかませるように
質疑応答、研究——もし必要ならばやはりそのときに参加いたしました
関係者もたくさんあることでありますから、われわれ
委員たるものは
責任上、
関係者のあらゆる地区、全国的な地域を回って、真相の調査をする必要さえ私はあると思うのです。何でも妙な時間のワクがきまったように聞いておりますけれ
ども、それはとんでもない、そういうワクをとりきめて審議を進めるということは許されません。そうではなくて真相をつかむということを基礎としなければ、存続を承認するか、せぬかということの
判断はできぬと思います。それをもしいや存続すべしと簡単に言い切る人があり得るとすれば、その人の議員としての
責任が果されておるとは思いません。いわゆるそういう真相を十二分にせんさくして、なるほどこれでは存続しなければなるまい、あるいは存続してはならない、すべきではない、いろいろな
判断が出ると思います。そういう
判断の資料を求めるためにも、全国各地域の
関係職場その他の場所を実地に私
どもは踏査して、その当時のできごとを思い起して、真相を誤まりなくつかむ、こういう
熱意を示すべきだと思います。従って、われわれ社会労働
委員会の構成メンバーはだれ一人として私はそのことにいやと言われる方はないと思います。みな熱心であります、どこまでも行きます、行かなければならぬと思います。もしそれをわれわれが拒みあるいはちゅうちょするならば、これは議員としての職責を全うしたことにはならぬと思うからであります。そこで私はそういう前提から考えますと、そんならあの当時の電産、
炭労の
ストライキというものは、
経営者側は
公共の
福祉をこわすまいとして一生懸命に
努力したけれ
ども、労働団体がむちゃくちゃをやったのだ、こういうような資料が出てくるかどうか、私はこの点についてはなはだ疑問というよりもむしろ逆なことを考えている。そうじゃなかった、一昨日もどなたの
発言でしたか、四十数日間団交を拒否し、逃げ紡げたのは
経営者であった、こういうことを言われたと思います。その
言葉を聞くまでもなく、われわれはよく知っておりますが、そうなると、
労働組合が
労働者の要求を相手方
経営側に持ち込んで参りますためには、当然団交を行わなければならぬ、団交を行うといたしますと、法も命じておりますように、団体交渉には応じなければならぬはずであります。それならば四十数日間もあの重要な問題をはらみつつある労使
関係の中で団交を拒否し、身を避けるということにうき身をやつした相手方
経営者、資本家の諸君が、果して
公共の
福祉に対して心を用いておったと言えるかどうか、この点について
一つ大臣の御
見解をお聞きしておきたいと思います。