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西村証人 用地のことは現在ではほとんど解決いたしました。
それから第二番目の、奉職は、
昭和二十四年四月一日からであります。
それから第三一番目の、どういう方法で
交渉を持ってきたかというお尋ねでございますが、これは
昭和二十八年の何月かちょっと記憶がありませんが、あそこに
ダムを始めるのだ、それで知事の
事業認定書があるから、それを見に役場に来るようにという公告がございました。あの部落では、これまで十四軒多いときはありましたけれ
ども、現在でも新聞を取っている家はないのです。
ダムのことでもその他一切のこと、ほとんど部落の代書人やら一切がっさい私、相談を受けます。その
事業認定書を見に来いといきでも、君も行ってくれぬか
——それで
ほんとうの話をいたしますと、新聞を満足に読める人は一人もございません。そのために私も良心的に行きました。そしてその認定書を見ますと、保木脇の一部だけ、まあかりに三軒か四軒は立ちのいてもらわんならぬ、残るのは三、四軒だそういうようなことでございました。そこに問題があったわけでございます。それで、あの部落ば御存じと思いますけれ
ども、半道の間に点々としてありますし、
昭和十五年にはなだれのために、一瞬の間に十六名というとうとい犠牲者を
出しております。ここへ四軒くらい残っても一体どうなるのだろう。たとえば大牧という大部落、野谷という部落も完全になくなってしまいます。もうなくなってしまいましたが、
ほんとうに四軒だけ孤立するということば
——その災害のときでも、野谷部落、大枚部落があったおかげで何名かの生存者を救い出すことができたのだ。今ここで四軒だけ孤立の状態になって、また毎年見舞われるあの大雪がきたならば、一体われわれの生命をだれが保障してくれるのだろう。そういうなまなましい実例があるのでございますので、それを非常に心配したわけなんです。そこでもし意見があれば意見書を出せということが書いてございましたので、さっそく意見書を
出したわけでございますが、それで全部を移転させてくれるのならば、この
ダムに賛成でございます。もし
関係者だけで、ここ二、三軒が残らんならぬのなれば、それはまことに困るのでございますと、それも私がつたない文章でございましたけれ
ども知事の方へ書いて上げたのでございます。その間、
昭和二十八年からことしの五月十五日まで関西電力から積極的な
交渉も何もございませんでした。それで部落の中では心配いたしまして、二つの
考えがあったのでございます。その
一つは、相談に関西電力から来られないというその
一つは、保木脇は全部買って動かいてもらわぬことには、強く
反対する、こういうのだから、そんなところは買えぬのだから、
ダムの予定を変更して、
ダムの高さを下げたのではないかという、これも純朴な農民としては
ほんとうにそれを信じたのです。それからもう
一つは、知事へそういうとを
出してあるから、全部もう文句なしに買ってくれるのですよ。だから一晩ででも解決できる問題だと、こういう二つの安心感を持っておったわけです。ところが今年の五月十五日になって初めて参りまして、やはり実害を受ける人のみ移転の対象になりますけれ
ども、そのほかの人はならないのだということになったわけでございます。そうしたら、何百年来住んだか知りませんが、そういうお互にクモの巣のように張った親戚
関係とかいろいろなことで、私たちはどうしても田畑が埋まってしまうのだから、行かんならぬ。けれ
ども君たちばかりここに置いていくということば忍びないじゃないか。だから
一つ団結してみんな買ってもらおうじゃないか、とこうので団結をしまして、そうしてがんばったといいますか、過ごしてきました。それで、全部買ってくれという、いや、それは全部は社の原則として買えないという、そんなことを言わぬと買ってくれという、いや実害のないものを買う方法がないじゃないかという、すったもんだで、何回かの
交渉をして参りましたけれ
ども、とうとうたしか八月二十九日だったと思いますけれ
ども、それではお前たちがそれくらい、埋まる人も埋まらぬ人もとも
どもにやるということになれば、しょうがないから、第三者の批判を仰ぐ、ということは
土地収用法へ持っていくよりしようがないからというので、八月二十九日で一応関西電力と折衝が断たれたわけでございます。それで私たちは、たとい
土地収用法が適用されて、どうなっても、この四軒だけがここにおるということはまことに忍びないのだ、そういうので、
土地収用法の適用を受けるがいいか、そういうことを説明あったけれ
ども、かまいませんわ、
土地収用だって人を守るためにできた法だたということを聞いておりますで私だって死ぬるつもりじゃないのですから、
土地収用法でも何でもけっこうでございますというお返事をしたわけでございます。その間において、そういうことで関西電力と、そういうふうに別れましてから、それから村長さんが中へ入られ、それから村議会さんが中へ入られ、そうして最後に県の河川課の方の仲介も受けまして、それも一応村長さん、それから村議会さん、県の河川課、そういうのとも決裂いたしましたけれ
ども、確か十月十七日一の日だったと思いますが、また県の河川課、また村議会、それから県議
会議員、そういう人が仲介下さいまして、そうして実害を受けるものはこれは田畑がなくなるのだから、まあもとより
補償の対象にねる。そうして実害を受けない人は、ああいう半道の間に点々とあるということは困るのだから、一カ所へ
一つ固めようじゃないか、そういうのでこっちからも
要求しまして、これからある地点で開拓団を始める、そういうことに決定して、妥協がついたわけでございます。以上でございます。