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1956-05-11 第24回国会 参議院 法務委員会公聴会 第3号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和三十一年五月十一日(金曜日)    午前十時四十四分開会   —————————————  出席者は左の通り。    委員長     高田なほ子君    理事            一松 定吉君            宮城タマヨ君    委員            井上 知治君            小柳 牧衞君            中山 壽彦君            赤松 常子君            小林 亦治君            羽仁 五郎君            市川 房枝君   事務局側    常任委員会専門    員       西村 高兄君   公述人    東北大学教授  木村 亀二君    弁  護  士 正木  亮君    Y・W・C・A    常任委員    渡辺 道子君    日本医科大学事    務総長     河野 勝斎君    東京医科歯科大    学教授     古畑 種基君    東京大学教授  吉益 脩夫君    奈良少年刑務所    長       玉井 策郎君    弁  護  士 島田 武夫君            森戸じん作君   —————————————   本日の会議に付した案件 ○刑法等の一部を改正する法律案(高  田なほ子君外六名発議)   —————————————
  2. 高田なほ子

    委員長高田なほ子君) これより法務委員会公聴会を開会いたします。  刑法等の一部を改正する法律案を議題に供します。公聴会の問題は、死刑廃止是非についてであります。  公述人皆様に一言ごあいさつを申し上げたいと存じます。本日は公述人皆様にはまことに御多忙のところを御出席いただきまして、厚く御礼を申し上げたいと存じます。ただいま法務委員会では刑法等の一部を改正する法律案審議中でございますが、本日の公聴会はこの法律案について、死刑を存置するか、廃止するか、その是非を承わることが趣旨となっております。皆様にはもはや法案内容は御承知のことかと存じますが、この内容刑法その他の刑罰法から死刑の文字を削りまして、それに伴い法文に技術的な整理を加えたものでございます。このようなわけでございますから、形式的には割合に簡明な内容改正案となっております。けれども、問題ほさような形式的な、また技術的な検討によって解決されるという性質のものではないということは申し上げるまでもございません。死刑存廃の問題は、真剣な法律問題として、また一般的な人間性の問題として、洋の東西を問わず、古くから論じられてきているのでございまして、刑罰制度根本に触れるきわめて重要な問題でございます。すでに死刑存廃の問題につきましては、二百年の昔、ルソーやベッカリア以来今日に至るまで多くの人々によって論議をされ、またこれを実行に移した死刑廃止国も現在できているのでございます。あたかも先般イギリス下院では、殺人罪に対する死刑廃止する決議がされまして、世界世論はこの問題をめぐって非常な関心の高まりを示しております。けれども、なお今日議論の跡を断たないものは、一体いかなるゆえんに基くものでございましょうか。それは死刑論の基盤となっているいろいろな要素、つまり私ども人間の持っている正義感、良心、思想とか、社会生活における諸条件といったものは、またその時代国民感情との関連で価値判断がされるべき性格によるものだと考えられます。ここに死刑存廃の問題が、学者の言葉をかりて言えば、今日において決定されるべきものとされるゆえんがあるわけだと存じます。私はこの法案発議者の一人として、今日死刑廃止すべき時期であると確信しているものでございます。けれども、もちろんこれには大いに異論のあるところでございますし、とにかく今日的問題といたしましても、なおかつただいま申し述べましたいろいろの要素について、さらにあらゆる角度から深く検討を加える必要のあることは申し上げるまでもございません。従いまして、わが国民の皆様がこの法案の持つ重要な意義を注視せられ、正しい方向づけをなされますことを衷心より願ってやまないわけでございますが、本日はその一段階として公聴会を持つことができ、特に尊い体験をお持ちになるりっぱな各界の代表をここにお迎えできましたことは、私ども、また国民にとって非常な仕合せであると心から御礼を申し上げ、どうぞ平素からの豊かな御経験をそのまま十二分にここで御意見を開陳せられまして、法案審議のよりよい参考資料を提供していただくことを衷心よりお願い申し上げたいと存じます。  まことに失礼な申し上げようでございますが、時間は大体お一人三十分以内というところにめどを立てていただいて、然るべくお願いを申し上げたいと存じます。  なお本日全委員が御出席の御予定になっておりますが、院内の委員会都合等もありまして、お顔が十分そろってはおりませんですが、後刻お見えになりまして十分に御意見を拝聴することになっておりますので、どうぞこの点もあわせて御了承願いたいと存じます。  委員の方に申し上げますが、午前、午後と切りましてそれぞれ御意見の御開陳が終りましてから御質疑をしていただきたいと思いますが御了解いただきたいと思います。  それではまず法学博士東北大学教授木村亀二さんにお願いをいたします。(拍手)
  3. 木村亀二

    公述人木村亀二君) 私は結論といたしましては死刑廃止賛成、従って今回の刑法の一部改正法案には賛成しておるものでございます。  この賛成理由を申し上げます。皆さんは十八世紀の有名なフランス政治学者で、今日の三権分立論確立者といわれているモンテスキューの法の精神という本を御存じでございましょうが、この中に、日本に関する記事が非常にたくさん出ておるのであります。その記事の出所は必ずしも正確とは言えないのですが、当時ョーロッパの植民地政策一つとして東インド会社を設立したその東インド会社などの報告に基くもので、はなはだ正確とは言いがたいのですが、この中に、日本というのは非常に残酷な国で、日本国民が非常に残虐なる国民である。そしてどんな犯罪でもすべて犯罪死刑をもって処罰しておるというようなことが書かれておるのです。ところがこの本は御存じ通りに十八世紀フランス革命の前後、十九世紀、それから今日に至るまで世界知識階層、それからまた政治理論家の間に非常に広く読まれておるのでありまして、このことから推察いたしますと、日本人死刑愛好国民だということに私はおそらくなっておるのではなかろうか。今次の戦争でも日本人残虐行為ということほ非常にやかましく言われておるが、それは、そうした記事の中にそうした意見が述べられておるというところからきておるということもないではない、こういうふうに私は考えておるのであります。  それからもう一つフランス革命当時にやはり死刑廃止問題がアッサンブレ・ナシオナールで議論になったことがあるのでありますが、それはある意味から皮肉なのでありますが、その後いわゆるフランス恐怖時代を出現させたところのロベス・ピエール、あのロベス・ピエールが非常に熱心な死刑廃止論者でありまして、その死刑虎止の有名なる演説の中に、やはり日本を見よ、この国ほど死刑とかあるいは残酷なる刑罰が乱用せられている国はないではないかということを指摘しているのであります。こうした事実によって、わが国では、自分自身は知らないかもしれないが、世界世論においては死刑愛好国民だと、こういうふうに考えられておる。私は今回死刑廃止法案が出た。この法案が出たということそれ自体によって、私はこうした世界のはなはだ喜ばしからざる長い間の世論と申しますか、偏見というものを打ち破るということができるのではないか。その意味で、そのこと自体が私は非常に大きな世界的な、文化的な発現だとこういうふうに考えておるのであります。  それでは世界諸国では一体死刑というものはどういうふうな事情になっておるか。これはもうすでに皆さん御存じ通りでありますが、世界のほとんど半数死刑廃止してきておるのであります。従って、もし今日初めて、あるいはまた非常に少数の国で死刑廃止の立法をなすというのであれば、私はそこに相当慎重な検討を要しなければならないと思うのですが、これら世界半数に近い諸国死刑廃止の結果というものが、死刑によって鎮圧しよう、死刑によってなくしようとする凶悪犯罪に対して、向う、何ら支障を痛感していないということから見ますると、死刑廃止することによって、これを存置しようとする人々の心配は、長い間の経験によって必要でないということが論証されておるということを、私は知らなければならないというふうに感じておる次第であります。ただ、世界のいわゆる大国といわれる諸国がどういうふうな状態にあるかと申しますと、戦争中にこの枢軸国といって日本と提携して悪名をはせたイタリアでは、戦後二回にわたって死刑廃止決議しまして、今日死刑がなくなっております。それからまたドイツ、これは特に西独ですが、西独ではボンの根本法の中で死刑はこれを廃止すると宣言して、そうして死刑廃止いたしました。刑法死刑規定も数年前の刑法の一部改正によって明確にこれを削除する、死刑に関する規定を削除するという結果になっております。イギリスはまだもちろん保存しておりますが、しかし今委員長がお話になりましたように、終戦後二回にわたって下院廃止決議をなしてきておるのでありますが、これは単に今日の一時的なでき心としてやったのではなくて、一八〇〇年の初めから一五〇年以来のイギリスの長い間の廃止の努力の結果として現われたのでありまして、おそらく私は近い将来にはイギリスにおいてもこの廃止というところまでいくだろうと、こう信じております。またフランスでも死刑廃止法案というものは何回も提案せられておりますが、これは不幸にして実現するに至っていないのです。アメリカでは御存じ通りに、六州がすでに廃止いたしておりますし、私、数年前にアメリカ法学教育の視察に参って、そこの知識層、裁判官、弁護士、大学教授の諸君に会っていろいろ意見を聞きますと、死刑賛成するという意見はほとんど聞き得なかった。むしろ死刑反対だという意見が非常に強く、従ってやはりここでも死刑廃止への意思というものは確実に存在しておると見得るのであります。それからソビエト・ロシアも終戦死刑廃止いたしました。これは後に非常に狭い範囲反逆罪とかあるいはスパイだとかいうふうな、サボタージュというような、非常に狭い範囲で復活いたしましたが、しかしソビエトの建国以来の歴史をながめてみますと、初めからこの死刑廃止というものは国是になっておる。ただ諸種の一時的な事情のために復活ということがありますが、しかし死刑廃止の方向に動いてきておることは事実なのであります。こういうふうに見ますと、今日の世界において指導的なあるいはまた重要な先進文化国と考えられておる国々は、フランスを除いて九分九厘まで死刑廃止のところまできておるか、あるいは死刑廃止しておるかで、その他の小国につきましては戦後わが国がこういうふうになりたいと考えていたようなスイスだとかデンマークだとかスウェーデン、ノルウェーというふうな国は、もう久しく死刑廃止してきておるのであります。また南米の諸国死刑廃止しておりますし、ベルギーのごときも非常に長い間死刑執行せずに百年近くきておるわけなんです。  従って今日わが国死刑廃止したといっても、世界の長い経験というものを基礎にして、決してこれによって、私は死刑を存置することによって防遏しようとする犯罪を、増加せしめる結果にはならないというふうに考えておるのであります。というのは、いろいろの国の経験でそうした事実がはっきり言い得るということは、イギリスが一番この点についてよく研究しておるのでありまして、イギリスでは千九百二十九年に下院におきまして死刑に関する特別委員会というものを組織いたしまして、これが世界諸国死刑に関する経験について報告を詳細に集めまして検討をしてきておるのですが、その報告結論を見てみますと、今申しましたデンマークとかあるいはノルウェーというふうな諸国では死刑廃止したからといって決して殺人等凶悪犯罪がふえなかった、ふえたという事実がないという事実を示しておるのであります。またベルギーでも千八百六十年代から死刑執行していないのですが、そのために死刑宣告数がふえたかというと、決してふえていないということを明らかにしておる。またアメリカでは一たん死刑廃止してそうして後に死刑を復活したという諸州もないではないのでありますが、これらの諸州におきまして死刑を復活したからといって殺人罪が減ったかというと、その事実がないのです。こういうふうに考えますと、死刑がないからといって殺人罪その他の凶悪犯罪がふえるということもなければ、また死刑があるからといって殺人罪その他の凶悪犯罪が減少するという事実もない。すなわち死刑凶悪犯罪に対して何らの効果を持たないという事実が証明されておるのであります。それで世界学者はこれについてどういうふうな結論を示しておるかと申しますと、よく引用せられるのは非常に古い思想カントとかヘーゲルというふうな人が、死刑を擁護しました。カント死刑カテゴリッシェル・インペラチーフ——断言命令——だというふうなことを言っておりましたが、こういうふうな人は何らの死刑についての経験というものなしに、ただいわゆる形而上学の一つ自分ドグマ結論を示したというだけで、これは何らの賛成論根拠にもならないし、反対論根拠にもならない。カントというのは非常に偉い学者で、御存じ通りに三つの批判書を習いて、この思想の中には実にりっぱなことを書いておりますが、しかし社会科学とか法律についてはやはりプロシャのケーニヒスベルグという非常にいなかの一学者にすぎなかった。見聞は実に狭い、そうして当時の——十八世紀のいわゆる封建的な思想のもとに事を考えておる。これは刑法を見ましても、その他の法律を見ますと、今日では実に笑うべき事柄がたくさん書いてあるのです。例は何ぼでもおあげすることができますが、そうしたカントが、死刑はこれは断言命令と言ったからといって私ほこれを一つも信用する必要がない。ヘーゲルもそういうふうなところがありまして、むしろその後においていろいろの経験基礎にして死刑是否ということが非常に科学的な見地において論ぜられてきたその結論が今日重要なんであります。また、たとえばユーゴーとかあるいはドストエフスキーがまた反対論をしておりますが、これも死刑廃止論者という意味において非常に参考になりますが、しかしいわば一種小説家あるいはまた詩人の一つ感情論というものが基礎になっておるのです。今申しましたような諸国の実際の死刑執行、また刑罰制度経験基礎とした科学的な論拠の上に立った議論ではないのであります。それではそうした犯罪学あるいはまた刑罰の機能というものを基礎にして最近論じているところの刑法学者など、あるいはまた犯罪学者というものはどういうことを言っておるかというと、私の知る限りでは、非常にすぐれた学者死刑を擁護して、これを存置しなければならないということを言っておる人が全然ないのです。ただカトリックだとかあるいはその他の宗教的な信仰、これはローマ法皇がこう言ったからそうだというふうな、そうした一種の宗教的なドグマの上に立って死刑は入り用だというふうなことを言っておる人は、御承知通り世界にもあるし日本にもあるわけですが、これはやはり単純な信仰でありまして、何らの科学的な根拠がないと私は考えるのであります。代表的な学者といたしまして、たとえばドイツにはエクスナーという、これは刑法の方でも非常に偉い学者でありますが、犯罪学の方では実にドイツの指導的な学者ですが、この人がやはり死刑というものはこれを廃止しても決して凶悪犯罪というものはふえないということを言っておるのです。それでは凶悪犯罪というふうなものをどうして防遏したらよいかというと、結局犯罪の捜査を科学的にして検挙をする、犯罪がなされたら必ず発覚するという確信国民に持たせるということによって、凶悪犯罪その他の犯罪一般というものは防遏し得るのだ。死刑をもっておどかしたからといって防遏することができるものじゃないということを言っておるのであります。またアメリカ学者でサザーランド、これも数年前に死にましたが、有名な犯罪学者ですが、この人も死刑があったからといって凶悪犯罪が減ったという証明はできないと言っておりますし、フランスでもやはり最近までフランスの第一流の学者として有名なマニョールという学者が同じようなことを言っておるのであります。このマニョールは、死刑というものは意味がないから、イギリスのように一種の、五年なら五年という、実験期間を置いて廃止してみたらどうかという提案までしておるのであります。こういうふうな意味で、世界の今日の犯罪学基礎の上に立った学者たちが論じておるところでは、死刑というものが意味がないということは一応論証せられたと見ておるのであります。  ところが人々の間には死刑を置いておけば、すなわち死刑法律規定の上に置いておき、また死刑に当る犯罪がなされて、この死刑執行したならば、社会一般人、また犯罪人、という者は、おそれをなして死刑に当るような殺人その他の凶悪犯罪をなされないだろう、こういうふうに信じておる人々が非常に多いのであります。そのように死刑を置いておけば、それによって、おそれをなして犯罪をなさないという考え方を、われわれは死刑威嚇力、こういうように言っておるのですが、この死刑威嚇力一般の人は信じておられるのではなかろうか。そこでこの死刑威嚇力ということを批判してみなければならないのですが、これがやはりいろいろの方面から詳細に説明せられて、そうした威嚇力というものは単純な迷信にすぎないという結論が与えられておるのであります。なぜかと申しますと、たとえば死刑に当る犯罪とせられておる殺人罪について申しますと、殺人罪をなす連中の中には精神異常者が非常に多いのです。ところがこの精神異常者というのは御存じ通り刑法では心神喪失者として責任無能力というので無罪になるわけなんです。そうすると、彼らに対して死刑を置いておいたからといって、彼らに何らかの死刑に当るような犯罪をなす動機に対して、反対動機として役に立つかというと、全然立たない。だから現在の刑罰制度また刑法の建前からいうと、こうした精神病者殺人その他をなすという事実に対して、刑罰は何らの威嚇力を持ち得ない。というのは、これは刑罰範囲外に置かれておるからというのが一つ理由になっております。それからもう一つは、これは皆さん新聞その他を注意してごらんになっておるとすぐにわかるのですが、死刑に当る殺人罪をなした連中殺人行為の前後の事情を見ますと、彼らは人を殺したと同時に自殺をはかったり、あるいはまた自殺をしておるという事実が非常に多い。これも数字的にたくさんの例をあげられるわけなんですが、こういうような連中は、人の命を何とも思わないで殺すのですが、また自分の命も大事にしない。要するに人間の生命というものに対して無感覚である。人の命であろうと自分の命であろうと、とにかくそれを殺すということについて平気である。こういうような連中に対して、もしお前が人を殺したならば死刑に処すぞと言っても、そういうおどかしは全然きかない。そういう連中殺人罪その他の犯罪をなしておるということが論証せられておるのであります。それからもう一つは、殺人罪原因につきましていろいろの原因がございますが、激情犯と申しまして、これはいろいろの場合があるのですが、一番多いのは嫉妬その他によって人を殺す場合などです。イギリスの統計で見ますと八〇何%の女の人が嫉妬その他のいわゆる激情犯によって殺されておるということがあげられておるのですが、こうした激情犯において、その行為動機となっておるたとえば性愛というふうなものは、これはモーパッサンの小説の題ではありませんが、死よりも強い、自分の命なんかそのためにはどうでもいいというふうな考えをもって行動する連中なのでありますから、こうした激情犯行動、そうしてまた激情犯によってなされる殺人犯というものを防遏しようとして死刑を掲げても、全然効果がない、こういうふうに言われております。それからもう一つは、今エクスナーの点についてお話し申し上げましたが、犯罪人というやつは、ちょっとどうもその自己の行動計画において抜けたところがあると見えまして、自分行為は絶対に発覚しないという確信行動しているものが非常に多いのです。これは窃盗だとかあるいはまた詐欺のような犯罪でもそうですが、殺人強盗などにおいてもやはり同じことがあるのでありまして、これは日本のみならず、世界的に認められている。この例といたしまして、私が直接に経験いたしましたのは、終戦当時に、十何人の女の人を殺して、宮城刑務所死刑執行になった小平という男ですが、彼はその前に自分の妻君の親を殺して、小管で十年服役してきておる者なんで、その事実を私は知っておったものですから、君は前に殺人によって十年の服役をしてきたじゃないか。もし今度犯罪が発覚したならば死刑になるということはこれは間違いないというだけの心がまえがあったのかと尋ねましたところが、絶対に私はそんなことはない。犯罪をなすたびに新聞をよく注意して、そして新聞記事が載れば場所を変更して、絶対に発覚しないと思っておった、こういうふうなことを言っておりましたが、実際彼の事件が発覚したのは、当時の検察関係の人に私が聞いたところでは、前の親殺しの虚実があって、そして指紋を調べて見たところが、ようやく彼であるということがわかって、それから手がついた。それまでは警察に呼び出しても知らぬ存ぜぬというので、どうにも手がつかなかったという事実が明らかになったのだということを聞きましたが、そのように、こうした凶悪犯人という者は、自分のなす犯罪というものは絶対に発覚しないという確信のもとに行動している。発覚しないと確信しているのだから、発覚したらば死刑になるだろうというふうなことを考える余裕がない。従って死刑を置いておいたところで、彼らの行動に対して反対動機になるということはあり得ない。これが今日の犯罪学結論として認められた一つの事実なんです。  こういうふうな例を見ますと、死刑というのは個人の行動において、いわゆる威嚇力というものが全然ない。心理的に見まして、ない。もし人を殺したなら殺されるというふうに、合理的な判断によって行動する人間がありましたとしたら、そしてまたそれが普通の人間ですが、初めから人殺しなんかするわけはない。こうした犯罪をなす連中は、普通の理性の判断で合理的に考えて自分行為結論を十分承知して行動するというふうな人間ではない。そういうふうな人間ならもちろん死刑があっても人殺しなんかしないわけですが、そうした合理的な判断を欠いているというところに問題があるので、それをそういうふうな人間犯罪人に対してやはりきき目があるだろうと考えるところに、非科学的な迷信というものが、威嚇力の信念の根底にあるとわれわれは考えている次第なのであります。  それからさらによく死刑反対論根拠とされております死刑執行が一たんなされましたならば回復が不可能だということ、これも大きな事実で、間違って誤判によって死刑執行がなされた場合に、この問題はしょっちゅう起っている。これは世界的に非常に大きな例がありまして、今委員長の話されたベッカリア死刑反対論の中には、その点が論ぜられなかったのですが、当時フランスでジャン・カラという人がやはり誤判によって死刑執行を受けた。これに対するヴォルテール等の当時のいわゆる百科辞典派の人人、アンシクロペディストが非常なプロテストをなした。そして死刑反対論をなしたというその風潮の上に、今のベッカリアの本が当時のヨーロッパを風靡したわけなんで、やはり死刑反対の一番重要な根拠として、誤判によって死刑執行がなされた場合に、どうしても回復することができないじゃないかということを、われわれもやはり考えている次第なのであります。御承知通り最近新聞を見ましても、日本の裁判がいかにずさんで、いかに間違った裁判をそちこちでやっているかということは、われわれも十分知っているわけで、今日のようなあるいは非常に科学的な証拠法の上に立っておっても、やはり誤犯というものはあり得るわけなので、もしこれが殺人事件についてそうした事件があったとしたならば、やはりこれは考えなければならぬ。イギリスの先般の死刑廃止法案も、この誤判の事実が非常に大きな動機をなしておるということは皆さん御存じ通りなのであります。ところが、あるわれわれ刑法学者の一人が、誤判ということは自由刑だってあり得る。いわゆる懲役とかあるいは禁固にだってあり得るじゃないか。だから何も死刑に限らない、こういうふうに言われるわけですが、回復不可能ということは、必ずしも死刑に限らないと言われるわけですが、それは非常に私は間違っておる。たとえば間違って懲役に処せられたというような場合には、もちろんその処せられた違法な自由の拘禁というものは回復することはできないが、将来にわたって彼の自由を回復してやるということは可能なわけですが、死刑については、一たん奪った生命というものは、それが間違いであったということが後に発見せられても、もう一度その生命を回復するということは不可能なんです。この大きな質的な区別を全然考慮しないで、死刑にしたって自由刑にしたって、回復不可能は同じだというふうな議論は、われわれ刑法学者の観点から申しますと、実に粗雑な論理で、刑法を論ずる資格はないと私は考えておる次第なのであります。こういうふうな議論をされては、日本刑法自体、実に私は不名誉だと、こういうふうに考えておる次第なのであります。  それから、今申しましたような点は、大体死刑廃止賛成論の実質的な根拠なのでございますが、なお、道徳的あるいは文化的にも非常に大きな意義を持っておるというのは、死刑刑法上認めて、すなわち存置いたしまして、執行いたしますと、これは国家が人を殺すということです。ところが刑法殺人罪を禁止して、これを処罰するということは、人を殺すということを国家が禁止しておる、こういうことになるわけですが、そこに一つの矛盾がある。国家は刑法で人を殺すということを禁止しながら、みずから公然と法の名前によって人を殺す。死刑という形式において人を殺すというのでは、私は国家は道義的な、文化的な国家となり得ない。新しい日本憲法が実施せられたときの勅語の中に、文化国家の建設ということが大いにうたわれておりますが、文化国家というのは、たとえそれがいかなる場合においても、私は道徳的に許されないような行為をなす、すなわち、人の生命を奪うというふうな、たとえそれが法律の名において公然となされるというふうな場合でも、国家がそうした不道徳な残虚行為をなすというような、そういう国家であれば、これは私は文化国家と言えない。従って死刑廃止して、死刑というものをなくした。従って殺人を禁止し、これを処罰するという精神に合致したときに、初めて日本が文化国家の段階に立ち上り得るわけなので、今回のように死刑を認めているということは、日本がまだその点において文化国家たり得ない証拠である。その意味死刑廃止法案というものは、日本が文化の一段高い段階に上り得る私は一つの足がかりになったという意味で、非常に心強いものだと信じておる次第なのであります。  それからもう一つは、死刑というものは実際執行いたしますと、今日では密行で、公然とはやっておりませんが、やはりラジオ、新聞等で報道がなされますと、これを、死刑に処せられた人間をまねするような人間が非常に多いのであります。これも諸国の例でたくさん例が出ておりますが、死刑の言い渡しがあっただけでも、その死刑事件の行動をまねするような人間が出るということは、特に今の精神的な欠陥者にやはり非常に多いわけです。松川事件の第一審の判決によって死刑の言い渡しがなされたときに、仙台の近所で、やはり鉄道に枕木を置いて汽車を転覆させようとした男がありましたが、これはやはり精神的にちょっと欠陥がある。なぜやったかというと、松川事件のように有名になりたい。何だかこう有名になりたいというふうな、非常に単純な動機から死刑に当る犯罪をやってみたいというような気持がある。そういうふうになる。死刑を置いておくということは、かえって死刑に当る犯罪を挑発するというような結果になるわけなんです。そうでなくても、死刑に処せられるということは、国家という大きな権力の主体と、個人といういわゆるアシの茎のような弱いものとが相対立する。そうなりますと、一般世論というものは、その弱い人間に対して非常な同情が集まるわけなんで、その死刑執行を受ける人間が英雄化せられるというようなことがありまして、かえって死刑効果が薄らぐというようなことをいわれておるのです。これは私はほんとうかうそか知りませんが、戦犯裁判のときに、一部では死刑を言い渡さないという意見があったそうですが、もしあのA級戦犯を死刑に処すると、彼らは英雄化せられて、かえってこの戦争裁判の効果を薄めるというような議論がありましたが、そうした効果死刑の中にあるわけです。そうした意味で、私は死刑というものは、死刑によって鎮圧しようという殺人罪その他の凶悪犯罪を、かえって誘発するという弊害があるということを指摘したいのであります。  それからもう一つは、死刑廃止するという考え方について、一般の人の誤解と申しますか、十分理解していない点は、死刑廃止すれば殺人罪その他の犯罪に対して何らの刑を課さないんだという、ごく簡単な考え方を持っておる。これは私は根本的に一つ間違ったところで、死刑廃止しても、現行制度としては御存じ通りに、無期刑、無期懲役とか無期禁固というものがあるのでありまして、これによって私は死刑にかわるべき十分な効果をあげ得る、こういうようなことを信じておるのでありますから、死刑廃止したからといって、決して犯人をそのまま放置しておくということにはならない。また被害者の立場を考えてみなければならぬ、あるいはまた被害者の遺族の立場を考えてみなければならぬというふうな議論もありますが、その遺族の考えで、そうした犯罪を繰り返さないようにするためには、死刑が唯一の方法ではない、無期懲役または無期禁固でも十分間に合うというところまでいけば、そこで私は国家の仕事としては十分意義を持ち得る。それ以上に殺した者は、殺さなければならぬという、この復讐感情というものまで国家が保護しなければならないかということになりますと、私自身疑問を持っておる。人類の長い歴史から見ると、昔はその復讐感情だけによって行動しておったのでありますが、文化の向上というものは、こうした復讐感情というものをお互いに押えて、そうして恩讐のかなたに平和な社会を建設していこうというところにある、そういうような意味において、被害者の、あるいはまた被害者の遺族の立場というものは決して無視しておるのではない。無視すべきものでもないし、また無視するというふうなことで死刑廃止論を考えておるのでないということを十分考えなければならない、こう考えておる次第なのであります。  今まで簡単に申しましたが、結局それでは今日のように凶悪犯罪が非常に目に立つというのはどこからきておるかと申しますと、これは死刑があるとかないとかの問題ではなくして、終戦後の経済的な混乱だとか、あるいはまた戦争中平然として人を殺していたというふうな、非常に不道徳な戦争中の弊害というものがまだ残っておるというふうなところからきておるので、社会秩序が安定し、また社会一般人の道義が回復せられたならば、私はこうした犯罪というものもだんだん抑制せられて、殺人罪等の凶悪犯罪も減っていく。ただ、また最近は言論の自由のために、行動が非常に自由になっておるために目に立ちますが、しかしそれだけで判断するわけにいかない。もちろん社会を改造してよりよき社会を作れば、そうした犯罪もだんだんと減るのであって、死刑を置いたからといって、そうした犯罪が減るというわけでは決してない、こういうふうに考えておる次第でございます。非常に簡単でございましたが、私の考えを一応述べさしていただきました。(拍手)
  4. 高田なほ子

    委員長高田なほ子君) どうもありがとうございました。   —————————————
  5. 高田なほ子

    委員長高田なほ子君) 続いて法学博士、弁護士正木亮さんにお願いをいたします。
  6. 正木亮

    公述人(正木亮君) 私はこの刑法等の一部を改正する法律案が提案されましたことを、むしろ私としては感謝しておる次第であります。従って全面的に賛成いたします。賛成理由といたしまして、法理論的な点は木村博士がただいま全面的にわたって御説明がございましたから、私から重複して申し上げることを避けまして、私は実はこの死刑廃止問題は、どうしても日本を文化国にするためには絶対に必要であるというような考えから、実はもうすでに実践運動に入っておりまして、これに関する会を組織し、そしてこれに関する雑誌も発行し、ささやかな雑誌でございますが発行し、そしてまた実際の面において死刑囚たちとも会い、それでその実践運動をやっておりますし、また被害者の方を訪れてその被害感をも調査しておりますが、そういう具体的な面を御参考のために主としてお話を申し上げて、そして私の本案に賛成するゆえんを御了承願いたいと思うのであります。  まず本案に対して法律的に私が全面的に賛成いたしますことは、これはもう、もちろん人間人間を殺してならぬということから出発するわけであります。ところがその人間人間を殺してならぬということを基盤にしてこしらえられておりますがゆえに、刑法の百九十九条で人を殺した者は死刑にする、軽い者でも三年までにするという規定が作られておる。親殺しをした者は死刑か無期懲役という規定ができておるわけであります。ところがその法律を専門的におやりになる方になりますというと、その法律の面だけごらんになって、それでこの条文がなくなる、あるいは親殺しの中から死刑規定がなくなる、殺人罪から死刑規定がなくなる、強盗殺人の二百四十条、二百四十一条から死刑規定がなくなる。そうすると非常にあとから犯罪が出るのじゃないか。現在今日のざまを見ろ、こういうようなことを法律専門家は言うのであります。しかし人殺しをするということは、そういうような法律規定されておる刑罰の重さとか、そういう問題だけでは絶対にないのです。これはやはり日本の中で必要な倫理でありますとか、道徳であるとか、教育であるとか、宗教であるとか、そういうものを取り除いて考えてはいけない。ところが宗教と法律だけくっつけて、教育とか、あるいは経済とか、こういうものを取りのけて、ただ宗教と法律だけを結びつけて考えたりいたしますというと、またあのカトリックのようにきびしい考え方になってくるのですから、これはもう全面的にいろいろの面を考えていかなければこの問題は解決できないのだと思うのです。先ほど木村博士がお示しになりましたあのモンテスキューでありますが、あのモンテスキューという人は非常に偉い法律家で、三権分立を確立した人であります。ところがどうですか、あのモンテスキューという人が、この死刑問題と取組むことができなかったというのです。それでベッカリアが偉大なる長官——あれは裁判所長官をやっておったようですが——偉大なる長官のベッカリアが、死刑問題ではかけ足で通っておるじゃないか、こういってやゆっております。これはやはり法律家というものは法服を着て冠をかぶって、バーの上におって、法律ばかり見るから、そういうように萎縮したものの考え方をやるからまあこういう法案が出て死刑をやめようというと、これがなくなったら銀座の親子殺しみたいなものがまた出るぞ、こういう心配をなさるのだと思うのであります。ですから私はそういうような多面的な原因にからまっている刑罰でありますから、どうしてもこれを私はほどいていかなければならぬと思うのです。またそういう法律があるために死刑というものが行われているのですが、この死刑のある限りにおいては、ただいま木村博士のおっしゃったように、非常に矛盾がある。国家が人に、自分国民に、人を殺すなという命令をしておきながら、自分法律で、自分だけは殺してもいいのだといって殺しているのです。しかもその殺しておるのが、裁判長が被告人を死刑に処するのであって、自分が最後のボタンを押しておきながら、自分では手をかけないのです。これは私は利己主義だと思うのです。それほど死刑というものが大事なら、言い渡した裁判長がみずからこれは首を切るべきだと思うのです。ところが裁判長はそれを言い渡す、検事は求刑をしっぱなしだ。裁判長は死刑の言いっぱなし、そうして何も知らない、事件のことも何も知らない、しかも宗教的に道徳的にすっかり真人間に帰っておる、もうむしろそこらを歩いているあんちゃんたちよりりっぱになっている死刑囚を目の前に置いて、おれは命令だからといって看守に首を切らしているのです。これは実に私は利己主義だと思うのです。自分は最高裁判所長官だから言い渡しさえすればいいけれども、あいつらは月給が少くて一番下級なんだから、あれらに首を切らせればいいという議論は出ないと思うのです。何も知らない人に、人の首を切らすなんていうことを、国家の政治で許すというところに、私は大きな矛盾があるのだと思うのです。だからそういう意味におきまして、私はこの死刑というもの、刑法の百九十九条あるがゆえに、政治的にも、あるいは裁判所制度においても、あるいは行刑制度においても、いろいろの面において非常に矛盾点が出てくる。その矛盾点がすなわち利己主義であります。この利己主義あるがゆえに、いつまでたっても殺人罪は、これは減らないのだと私は思います。ですから、どうしても死刑を存置するなら、それに向くように利己主義制度というものをすっかりなくしていく制度から事を賢明にやらなければならぬのでありますが、裁判官も検察官も法務省の役人も、すべての人が、ただなくなったらあとが困るだろうということだけで、一つ検討しないところに、私はこの死刑制度が反省されないゆえんがあると思うのでありまして、私は少くともそういう意味でも、この死刑問題を取り払ってしまわれましたならば、おそらく私は新たなる制度に対してすべての役人が反省をし、研究を続けていくであろうと、こう考えている次第であります。  そこで、それならば、犯罪原因というものはどこにあるかというと、ただいま木村博士のおっしゃいましたように、経済的な面が非常に大きい、それから戦争帰りの者の中に殺人罪が非常に多い、いろいろな面に原因がございますが、この点について私は強盗殺人の犯人がどういう気持で人を殺したか、殺した後にどういう気持を持っておるかということを検討するために、仙台の死刑囚と座談会をやってみました。またせんだっては大阪の刑務所に行って十人の死刑囚に会って、座談会をやってみました。ところがほとんど——彼らの中には非常に頭の狂ったのもおります、またまだ非常に粗暴な考えを持っている者もおりますけれども、その多くは、ほとんど改悛して、そして非常に死をおそれると同時に、また非常に恭虔な気持になっておるのです。その人たちに会っていろいろ話をしてみますというと、心底から殺すときは夢中で殺しておるようであります。法律があるからこれを殺したら私が殺されるのだというようなことは一つも考えずに殺しておるようです。これは先ほど木村博士がその点をおっしゃいましたが、それは私は実証することができると思うのです。殺してしまって急に命がほしくなるのです、自分の命がほしくなる。そこで殺してしまって急に命がほしくなるものですから、自分が生きたいということが卒然として出るものですから、そこでそばで見ておったやつをまた殺してしまうということになるのです。だから私の友人であります昨日の公述人磯部常治君の奥さんが殺された、私は磯部君と話したのですが、あのお嬢さんが道連れにされたのも、おそらくはお嬢さんがそれを見ておったので、犯跡を隠蔽するためにこれをやったに違いない、そうすると、結局犯罪人は殺してしまってから自分の命がほしくなったということであれを殺しておるのだと思うのです。これがほとんど異口同音の死刑囚の答えでありました。そこで、私はそれらの人に尋ねてみたんですが、君たちは一体人の命をどういうように考えておったのか、自分の命をどういうように考えておったかということを尋ねてみますというと、これはまた驚くべきことは、彼らは人の命なんというものは一つも考えておらない、また自分の命なんというものも一つも考えておらない、ちりあくたであります。それで人を殺して、いよいよ死刑の判決を受ける、死刑台に上ってきてから非常に自分の命というものを大事がってくるのです。それで私は聞いたのです。君たちは自分の命をそんなに大事がっておるが、今、人さまはどうだと、こう言いますというと、すべての——特に大阪の拘置所におきましては、死刑台に上る三日前に茶話会をやるのです。しあさってにはいよいよこのAが執行されるのだというと、茶話会の席上で涙をもってお別れをするのです。そしていよいよ朝九時に監房を出て引かれていきますときは、監房の窓から手を出してみんな引かれていく人の手を握ってお別れをしております。さきには人を殺したやつなんです、人の命をあくたのごとく考えておったやつが、今執行台に上っていく人の命を惜しんでやって、手を握っておるのです。これは私は何を意味するかといいますと、これは彼らにあとでそんなことを教えないで、もっと先に人の命は大事なんだという教育を普及しておったならば、私は彼らは死刑囚にまでならないで済んだのじゃないかと思うのです。言うなれば、この世の中に生命尊重の教育というものが実に不徹底だと思うのです。ですから私は死刑なんというものを置いて人を威嚇するよりも、生命——人の命は大事々んだ、自分の命も大事なんだということを普及徹底せしめるにおきましては、自分の命は非常に大事にするようになる、従って今度は人の命を大事にするようになって、殺人罪というものは非常に少くなると思うのです。せんだって私は自分の会をこしらえましたときに、その会員になってくれたのですが、吉川英治さんが私に手紙をくれたのです。正木、お前は死刑廃止運動に突入したけれども、死刑廃止運動というものは自分の命を大事にすることから始めろよ、突拍子な旅行なんかして、それで自分の命を粗末にするような人間死刑廃止論なんか言えないのだ、こういって私に手紙をくれられたことについて、私は非常に感激しました。それまでは、もうしょっちゅう言っては人を笑わすのですが、もう年をとって、これで下手やるとよいよいになって、しっこもうんこも取ってくれる女房もいないので、これは困ったら飛行機に乗って、飛行機が落ちて死んだ方が楽だと考えておった。ところがこの運動に突入しまして吉川君にそれを言われてみてから、私はよいよいになっても、最後の最後まで自分の命を大事にするという思想を持たなければいかぬのだという決心をして、それでまあ刑務所をずっと歩いて死刑囚に会うのです。死刑囚に会いまして——これは一つのエピソードなんですが、仙台に行きましても大阪に行っても、言ってやるのです。お前たちは命を大事にしろ、あした知れない命なんだ。しかしその理由づけはわからないのです。それで私はよくものに書いているけれども、石田三成の例をとるのです。最後に引っ張られて行って、今首を切られようとするのに、茶屋でカキを出されたが、カキは当るからと言って食べなかったという話が吉川の太閤記に出ております。これは人間というものは天寿というものがある。その天寿をみんなが全うするように教育普及するにおいては、自分の命も大事にするが、おのずから人の命も大事にする、こういうようなことでおそらく殺人罪というものはなくなってくるだろう。今、木村博士も言われました戦争帰りの話が出ましたが、それはあるのですよ。戦場で人の首をぶった切り、うしろからピストルで殺した、その人間を粗末にする麻痺状態が続く限りにおいて、日本殺人罪がふえたということは当然のことだと考えます。そういう意味におきまして、私は死刑廃止——存置するよりも、むしろ先に生命尊重の教育を普及徹底することの方が急務であると信ずるのであります。  それから第二に、私はこれも法律専門屋や裁判専門屋が特に言うのでありますが、死刑によって犯罪が予防されるということを非常に信じておられるのです。きのうの公聴会新聞の概略で見てみますというと、やはり安平さんでも小野先生でもみなそういうような考えを持っておいでになるようであります。ところがこれはこの前私は放送討論会で聞いてみましたら、羽仁先生が、死刑というものは迷信だということを言われました。それからでありましょう、このごろ死刑迷信だという言葉が非常にはやってきております。全く私は死刑迷信だと思うのです。これは強盗殺人をやったり殺人罪をやったりする人はみんな知っているのです。別府という男が銀座で親子を殺した、これは死刑になるということは、あんちゃんたちみんな知っているのです。知っていながらそれにいくのです。ですからこれを見ても、死刑というものの予防力というものは絶対に信ずることはできません。できないのですが、死刑をもしやめたらあとのかわりがないじゃないか。あとのかわりはどうしたらいいんだということが言われるのです。これは私、大村博士、二人の恩師であります牧野英一博士も刑法の教科書に書いておられたんですが、死刑というものは絶対廃止すべきなんですが、かわりになる制度というものを考えなければいかぬということをしょっちゅう言っておられるのです。そこで私はこの死刑にかわるべき代案をここでお示しいたしまして御賛同を得ますかどうかを、これは私は行刑の専門家でありますから、まあ正木案としてお聞き取り願いたいと思うのです。  一体、今も木村博士の言われましたように、死刑がなくなったら、これは無期懲役、無期禁錮に頼らなければいけません。そこでこれはまあローイ・カルバートあたりも、もう無期刑というものがかわりの処置だと言っておるのですが、ところがその無期刑にしたら一般の人がすぐ反対するのです。無期刑にしたら、十年たったら仮出獄になるじゃないかと、こう言うのです。これに恩赦がきたら無期を今度二十年にされて、七年たったら仮釈放になるじゃないかと。銀座で親子を殺したやつが、もうそこのカフェーで一ぱい飲んでいるぞという非難がくるのです。これは私もっともだと思うのです。これをどうするかというのです。またもし無期懲役にした場合には、被害者というものの被害感情を忘れておるじゃないか、こう言うのです。そこで私は考えたんですが、無期懲役というものもやり方によっては皆さんの御満足のいくような制度ができ得ると思うのです。すなわちこの刑法等一部改正法律案の中には、そこまで触れておられませんが、あの仮出獄の二十八条の規定に、無期懲役が十年たったらというのを、死刑を宣告するような程度の罪については十五年になさる。十五年たたなければ仮出獄はできない。それから恩赦の適用はこれをしない、恩赦の適用はしない。これはほんとうに刑事政策的な社会予防をやるのですから、恩赦の適用はしない。しかしこれはやはりそのまま十五年以上入れっぱなしにしておいて、それでよくなった者には希望をやらないというと、一九二九年アメリカで大暴動が起きた、あのダンネモラの大暴動のごときものが起きます。社会が乱れるもとになります。そこでその無期懲役監には付属の仮出獄委員会を作る。それには当該の判事も検事も、学識経験者も、特に世論代表とそれから被害者代表を委員の中に加える。そして十五年たちました暁において、さあそれから釈放審査会をしょっちゅうしょっちゅう開く、そして被害者代表が、こんなによくなっておる、あの恩讐のかなたの主人公のようにもう実に感心な男だ、まあ実に悔悟しておる、よくやっておると、これは出してあげて下さいと言って被害者代表がむしろ賛成をする、世論賛成する。そういう場合に一体これを憎んで、いや死ぬるまでという方が、私は一人でもいらっしゃるであろうかと思うのです。こういう委員会は決して私は予算のかからない委員会であると思うのです。おそらく日本の統計を見ますというと、最近は一時あれしましたけれども、一年間の平均死刑執行が三十人であります。これを二十五年プールいたしましても七百人です。ですからその七百人を無期懲役監に入れまして、そしてそこで作業賃金のうんと上がる仕事につける。そしてその作業賃金はいわゆる賠償金庫に入れる。それを基盤にして被害者の家族あるいは死刑囚の残しておる家族、これに対する社会保障制度を確立していく、こうしましたら、おそらく被害者というものは私は死刑によってかたきを討ってもらった以上に喜ばれるんだと思います。こういうことは絶対に不可能なことではございません。ですから私はむしろ提案いたしますのは、この死刑等一部改正法律案につけ加えて、今の仮出獄の期限を御変更になることと、それから恩赦を適用しないということをおつけ加えになって、そしてそれらに対する釈放委員会というもの、これに被害者及び死刑囚家族の救済というものを織り込んでいかれましたら、私は実に合理的な制度ができ上るんじゃないかと、こういうように感じまして、むしろそれをつけ加えてこの案をお通し下されば、私は一つの進歩であると確信をいたしておる次第であります。  それからもう一つ被害感情ということをしきりに言われるのです。きのうもだいぶん出たそうです。そんなこと言ったって被害者はどうだということを言われます。これは私は最近身につまされて、二つの事件を持っておるのです。まだ係属中ですから名前は言えませんが、ある強盗殺人であります。この強盗殺人の被害者に法廷に来ていただいて、それで証人訊問いたしましたら、実にそれは憤激しておられました。よよと泣いて、そしてあれを極刑の極刑に処してくれと、こういうことを言われました。ところが強奪された数十万円の金は返っておりません。そこで私は加害者の親たちに言いまして、もう何は何でもだれに金をやらなくてもいいから、この数十万円をこしらえて、そしてすぐ被害者にお返しなさいと言って、金を集めさせまして、私の弟子の弁護士に被害者のうちに持ってやりました。そうしたら剣もほろろで寄せつけません。玄関にも入れてくれません。ところが一年たち、二年たち、三年目に、私に電話がかかって参りました。それでお会い下るかと、はい、喜んで参りますというので、私はその弟子の弁護士とそのお宅へ伺ったのです。そうしましたら、こういう話があるのです。これは御参考です。皆さんは被害者というものは世の同情を受けておるとお考えでしょうか、絶対しからず。この強盗殺人にあった家族なんというものは近所近辺からみんな白眼視されておると、こう言うのです。被害者は、もうやっぱりおやじが悪かったから殺されたんだぞとか、あれのつきあいが悪いから殺されたんだぞというんで、非常に白眼視されておるそうです。ですから非常に私どもは困っておるんですと、そして今度は自分の子供を学校に入れておる。そうすると学校の先生が、ずいぶん執念深いわねと、こう言うというのです。こういうことで身につまされて、もう私たちはやっぱし考え直さなければならぬ、こう思っておるのですと、それにだれに助けを求めても助けてくれないものですから、食うに困ってきたと、そこで、先生あの金を今もらうとまた親類中に問題が起るから、どうぞ一つこの事件が判決にでもなりましたら御周旋願いたいと、こういうことを申しておりました。これがほんとうの偽わらざる被害者の感情です。ところがもう一つあるのです。私に手紙が参りました。その手紙を御参考に申し上げて、それで結論にしたいと思うのですが、麻布のある青年からです。昨年私はNHKの放送討論会で植松教授と放送討論会をいたしたのですが、そのときに私がこういうことを申し上げたのです。一体、死刑をするよりも、被害者の家族あるいは囚人の、死刑囚の家族というものを、次の犯罪に行かないように国家で保障してやらなきゃいかぬのだという話しをしたのです。そうしましたら、そのある人が、被害者が、名前は忘れましたが、手紙をよこしまして、実は私は今から六年前、七年前ですかな、麻布で集団強盗が家に入りました。そして母親が殺されて、兄と姉とが重傷を負って、そうして私も入院いたしました。ところがそれに対して、だれ一人入院料を払ってくれるものもいない。葬式を出してくれるものもいない。自分たちの一家は葬式と入院料ですってんてんになってしまったと、こういうのです。これでは、私は死刑だけやってもらっただけでは満足できないんだと思っておった。ところが先生のそういう放送があったので、これはやっぱし理屈はあなたの方にあると思ったという手紙をくれたのです。ただしうらみには、正木先生はいつも死刑囚の家族のことばかり言っておるけれども、私たちのことを二の次にしておるのがしゃくにさわるという手紙でございました。そこで私はあやまって、それは私の考え違いなんで、決してそうじゃございませんと、一番大事なのは被害者、それから囚人の家族、これで訂正しますといってすぐ手紙を差し上げたのであります。それからもう一つ、今度は自分の身近についての被害感を申し上げてみたいと思うのです。この間も磯部常治君が奥さんと子供をなくされたとき、あれは私の親友だものですから、すぐかけつけて行って、あれは前からの死刑廃止論者なんです。そこで磯部の手をとりまして、君も被害者だけれども、ぼくも被害者だと、立場が違うだけなんだと、君は強盗にやられたが、ぼくはアメリカにやられたんだと、こう言ったのです。ぼくは非常にかわいい子供を女子大からおろして、広島まで連れていって、そうして平和に暮しておったところへ、無警告に原子爆弾がぱっと落ちて殺されてしまったと言ったのです。それで君、あのために私がアメリカに対してかたき討ちをやるぞと、アメリカ戦争しようなんという考えは毛頭私は持たぬ。それは腹は立つよ。腹は立つけれども、決して持たぬけれども、しかし戦争というものはいやだなあ、原子爆弾なんというものはいけないなというので、水爆、原爆禁止と戦争反対へ実に全力をあげて、その方に私は向いているんだ。磯部君、あんたの被害感もそっちに向けた方が仏の供養になるぞと言って、二人で手を取り合ったのでございます。これは私は実感なんです。それで、そのときに一つ私は生命尊重を地で行ったつもりなんですが、そのときに私と女中が埋められたのです。それで私はまあ掘り出したのです。ところが見ると、女中がいないのです。埋められているのです。ところがその女中は殺人犯なんです。栃木から連れてきておった女中なんです。あの原爆の燃えさかっている中ですから、そのまま置いても、口をぬぐってしまったら、今日私はだれにも発覚できなかったと思うのです。しかし私はね、これを無視することができないで、一生懸命三十分ばかりかかってその女を引き出したんです。引き出した。そうしたらその女中が言うんです。それで泣くんです。わしみたような前科者を、どうして救い出したんです先生、と、こういうんですね。そうじゃない。君を見殺しにわしができるか。しかしお嬢さん死んでますと、こう言うんです。しかしな、人間というものは、まだはっきり死んだということがわからない限りにおいては、全力をささげて救い出すべき義務があるんだと、こういうことを言ったら、まあその女中が非常に泣いた、それで、とうとう原爆症で後に死にましたが、私は生命尊重ということを、このときくらいその女中が身にしみて感じたことはないと思うんでありますが、これは私の被害感と、それからまた生命尊重とが触れ合った点であります。  そういう意味から申しましても、私は死刑なんというものは、もうなくても、決して犯罪人というものはふえるものじゃございません。それよりも、むしろ犯罪人というものを、殺人犯人をなくするために、人間の命を大事にするという教育を普及徹底することの必要を感じている次第でございます。  まあ非常に粗末なことでございますが、ただ私の実験談ばかりでございますから、御参考になりましたら仕合せと存じます。(拍手)
  7. 高田なほ子

    委員長高田なほ子君) ありがとうございました。   —————————————
  8. 高田なほ子

    委員長高田なほ子君) 次に弁護士、Y・W・C・Aの常任委員であります渡辺道子さんにお願いいたします。
  9. 渡辺道子

    公述人(渡辺道子君) 私は死刑廃止賛成する一人の社会人としての立場から意見を述べたいと存じます。  今日社会には、死刑制度を是認する一つ理由として、死刑は好ましくないかもしれないけれども、凶悪な犯罪に対しては死刑をもって臨まなければ社会の正義が保たれないのだというようなことが言われておるのでございます。この考え方は、刑罰の本質だの、目的だのをどういうふうに解釈するかというようなこと。それから社会の正義というけれども、一体どういう社会の、どのような正義を言うのかというような角度からも問題になると思いますけれども、私はここでもって次のような面からこのことを問題にしてみたいと思うのです。  それは、死刑制度を社会の正義を保つために必要であるという考え方はあまりに観念的なものではないか。現実において、果して死刑を行うことによって社会の正義を達せられるのかということを、もっと具体的に、実記的に掘り下げて見なければならないのではないかと思うのでございます。法務省の刑事局の調べによりますと、昭和三十一年四月二十六日現在、死刑の確定者が六十八名おります。現在東京に記録のあります五十一人について調べました結果は、父親、あるいは母親が死亡か、生別、または両親とも死亡という、いわゆる普通の家庭でない家庭に育ったものが四十一名ございます。両親のある十名のものも、家が非常に貧しいか、あるいは家が貧しい上に、兄弟が七人、十一人、十二人というような家庭に育っているのでございます。帝銀事件の平沢を除いては、中等学校以上の教育を受けているものはございません。すなわち小学校中退が二名、小学校卒業が十五名、高等小学校中退が一名、高等小学校卒業が二十七名、工業学校中退が一名、卒業者が二名、商業学校卒業者が二名、中学校卒業が一名ということになっております。その犯行の動機を見てみますと、六十八名のうち、五名を除いては全部が生活に追いつめられて、窮した結果、あるいは遊興費に困って、わずかな金銭を奪おうとして凶悪な犯罪を犯すに至っているのでございます。その五名と申しまするのは、一人は三鷹事件の竹内、ほかのは借財と単なる遊びのために家族のものから非常に冷淡にされたというふうに邪推して、自暴自棄の結果、一家皆殺しを図った。看守が同囚のものに私的制裁を加えたのを怒って、これを殺した者、強姦したときにその被害者がみんなに言いふらすと言ったためにこれを殺害した者、強盗、母親を強姦して、そしてその子供二名を殺したというような者でございます。その犯行の形態を見てみますと、窃盗あるいは強盗の目的で入って、気づかれたり、あるいは騒がれたりしたために殺人を犯した者が二十六人、非常に偶発的に殺人を犯したものが八名、計画的に殺人を犯した者が三十四名ということになっております。全体を見てみますと、彼らの多くは徒弟とか、あるいは工員、炭坑夫というように、転々としていて、二十代の者がほとんどで、徴用とか、軍隊に送られて、復員後ブローカーなどをしている者なのでございます。  昨日公述人の一人が、栗田と申します非常に凶悪な犯罪者のことをお述べになりました。そのときに、このような極悪な犯罪を犯した者というお言葉をおっしゃったのでございますけれども、調べて見ますというと、この栗田という人は、一番凶悪な犯罪を犯している人でございます。一番凶悪な罪を犯している人を例に出して、このような極悪というふうに言うことには、私は賛成できないと思うのでございます。もしその一人の極悪な人を例に出すならば、私はここに二つの非常にかわいそうな例をやはり出さなければいけないのじゃないか。その一つは、犯行当時二十三才の青年でありました。十二人の兄弟の五男として生まれて、非常に生活が困難であった。だけれども、父親思いであり、兄弟思いであったというのでございます。おじの家で大工をしていて、正月休みに帰ってきました。そうすると、兄がけがをして入院をしていて、その入院費に非常に出費を重ねている。それから妹が結婚式が近くなって、その費用の調達に父親が非常に因っている。そういうようなことを見て、何とかしてお金がほしいと思った結果、強盗に入って、そうして気づかれたと思って二人を殺害し、二人を傷つけているのでございます。もう一人は、前科者が風呂屋に奉公していて、事ごとにその主人から前科者というふうにののしられて、あるとき自暴自棄になっていたときに、また前科者と言われたのを憤って、そこの一家四人を殺した人でございます。その人には私先日大阪の拘置所に行って会ってきました。これは五十一人についてであり、他の十七人についてのことはわかりませんが、おそらくこれと全然違ったいい立場にあった人たちだとは私は言えないのではないか。ほとんど同じようなことが言えるのではないかと思っておるのでございます。  そうしますと、この私が調べましたのは、刑事局からいただいた資料を私がまとめましたもので、非常に大ざっぱなものでございますけれども、これを見ただけでも、先ほど正木先生がおっしゃいましたように、これらの死刑に値いする犯罪を犯した者たちというものが、人間のとうとさというものを自覚させられるような環境になかったということが、はっきり言えるのではないかと思うのでございます。すなわち彼らは人間らしい扱いを受けてこなかった。生命尊重の意識など持ち得るはずがなかったということであります。  それからもう一つ注目されますのは、六十八名中四十七名が二十代の青年であるという事実でございます。戦争の最中に幼年時代、少年時代を過して、青年期を戦後の混乱の中で送ったということは、古いよき時代に育った戦前の私たちおとなには想像も及ばないような影響を与えているのではないかと思います。幼年期、少年期の情操教育というものが欠けていたような場合は、どのような人格が形成せられるか、心理学者の説明を待つまでもなく、私たちが身近かに経験していることであります。その環境から見て、犯罪に落ちる一歩手前の人たちが、親切な隣人のために、あるいは運よく国家施設の手によって救われたという事実を、私たちはよく見聞きするのでございます。不幸にもそうした隣人あるいは国家の施設の手が届かず、悪条件に囲まれて、そして生れつき、素質もそうすぐれていると言えないこれらの人たちが、生活の貧しさに追い込められ、あるいは遊びの金に困って、わずかな金銭のために凶悪な犯罪を犯すに至っているということを見てみましたときに、私どもは、この人たちを死に値いする罪人として責めることができるかどうか。自分の家族さえ幸福であればかまわないというような私どもの利己的な考え方というものが、私どもの力で防ぎ得る犯罪をどのように見過してきたかということ、そういうことを思うとき、私どもは責任を感ぜずにいられないのでございます。私どもは社会の一員であるということにおいて、お互いによき社会人となるということについて、責任を負い合うものであると思うのでございます。死に値いする罪を犯した者に対してなど、なぜ責任を負う必要があるのだということを、あるいは世の中の人は言うかもしれません。このときに私はいつでも忘れずに思い出しますのは、戦争責任の問題なんでございます。私はオランダに昨年の秋旅行いたしまして、アムステルダムに参りましたときに、迎えてくれた案内の人と一緒にある大きなレストランに入りました。食事をしていますと、何だか最初から変な何か視線が私に注がれているのを感じたのでございます。ふっと顔を上げて見ましたらどのテーブルからも食事をするのをやめまして、そうして、こうしてからだを乗り出して私の顔をじっと見つめています。その冷たい目を見たときに私は身がすくむような思いがしたんです。氷のような冷たい目というのを小説でよく読みますけれども、ああいう目だと思ったんです。そのとき私が考えさせられましたのは、私は戦争中おとなでありましたから、もちろん強く戦争の責任を感じます。しかし、もしもあの当時十歳くらいであった子供たち、その子供たちに世の中の人は戦争の責任があるということを考えないかもしれません。しかし一歩外国に出た場合には、日本国民の一人であるという立場において、戦争責任はみんなが負わなくてはならないものなんでございます。十歳だった子が青年になって、もしオランダに留学したならば、その子供は私と同じような目でもって見つめられるということを私たちは考えたいと思うのでございます。その意味において、私はこの死刑に値いするような犯罪者を作ったということに対して、私ども社会の一人々々及び国家は、責任を負わなくてはならないと思うのです。死刑の歴史をずっと振り返ってみますと、死刑制度が存置され、あるいは廃止されたということ、それから凶悪な犯罪の増減というものは、先ほど木村先生がお触れになりましたように、社会経済的な条件の変化の影響を非常に受けているのを見出します。ですから死刑廃止したその国のそのときの経済状態というものは、非常に安定したものであり、社会の状態も非常によかったのであるということが言われるわけでございます。凶悪な犯罪の増減についても同様なことが言えるのでございますが、私どもはその例を遠い所に求めるよりもつい身近かの戦後の混乱に求めることができるだろうと思うのです。戦後の混乱のときに、人の心もすさんで、経済生活が非常に不安定だったときに、凶悪犯罪が激増したことは、もうみんな知っているように、統計に明らかでございます。従って死刑の判決を受けた者の数も昭和二十三年は百十六人というような数が出ておりますし、そのころに凶悪な犯罪を犯して、そうして死刑確定したという昭和二十七年、そういろときにまた多くなって、そしてあと少しずつ減っているというふうになっております。こういうような凶悪犯罪の激増を起した原因戦争にあるということが明らかであるならば、この戦争を起したことに対して、私どもは大きな責任を感じなければならなし、国家もまた責任を感じなければならない。そうなれば、そうした環境の中でもってあらゆる悪条件を負って死刑に値いする罪を犯した人たち、その人たちに事後に死をもってその罪を償えと、そういうふうに責めることが社会の正義を通すということになるのであるかどうか。私は決してそうはならないと思うのでございます。この立場から第一に私は死刑廃止賛成いたします。  次に、死刑を存置することを主張なさる方が一番おっしゃるのは、先ほどもたびたびお触れになった死刑の、一般予防のための、威嚇力のことだと思いますけれども、これは私は今言う必要はないと思いますけれども、私は先ほど木村先生がお述べになりましたように、存置論者が、死刑というものは、それはすぐに犯罪を犯そうとする者、その者に威嚇力はないとしても、長い間に死刑というものの存在が、人人の心の中にその本能を抑制する力を作っていくのだと、そういう価値を見のがしてはいけないということをおっしゃるのですけれども、私どもが考えてみて、確かに死刑という制度があるために犯罪をしないというふうに考えられ得る人というのは、そんな威嚇なんか必要のない人なんでございます。もしも思いとどまるとしたならば、あるいはそんな悪いことをしないということがあるならば、それはもっと経済的な、あるいは社会的な、あるいは宗教的な条件によっているのではないかと思うのでございます。ですから、犯罪者がもっと直接的な動機をもって行うとしたら、彼らが一番おそれている悪いことをしたらつかまるかつかまらないかということが、直接的な一番のブレーキになるのであるとしたならば、もっと科学的捜査の方法を完備することによって、死刑にりっぱにかえ得る威嚇力を持ち得るだろうと思うのでございます。  次に、それならば死刑にかえて、被害者に対してあるいは国家がどうすればいいか、あるいは犯人に対してどうすればいいかという問題が起ってくるだろうと思います。先ほど正木先生が、被害者に対しての救済の問題、あるいは被害者の感情のことをお話しになりましたけれども、私はいつでも考えていたのは、国家が被害者に対して、被害者の気持をどうするのだ、あるいは社会の、あるいは国家の人がそういうふうに言うけれども、果して社会の人が、国家の人が、何をしているかということをいつでも考えざるを得ないのでございます。どこにも被害者の家族がどうしているかということをはっきりと調べたものはございません。そのことが、いかにそれを等閑に付してきたかということを物語っていると思うのでございます。  その次に、それならば犯人に対してどうしたらいいか、私はあらゆる方法をもってしても犯人が改善不可能であるということを信じないのでございます。現在ある資料をもって改善不可能なものがあると、もし言うならば、それは行刑の点において欠けるところがあるからであると、そう言いたいのでございます。これは単なる人道主義的な気持からだけでは解決できない問題だと思います。あらゆる科学的な方法をもって、あるいは真に人間に倫理観を起させるような、罪の意識を起させるような宗教の力をもって、そうして行刑制度全体を整えていくことによって、できるだろうと思うのです。これはたくさんのお金を要することなく、私たちがその気になれば手をすぐにつけていくことができるのではないかと思います。その場合に、それならば一体そういうふうな世間では悪い者といっているその人たちの改善のことばかり考えて、貧しさに追い詰められて苦しんでいる善良な社会人のことを一体どうするのだということを、ある人は言うかもしれません。このとき私は考えなければならないのは、この非常に悪条件の中に苦しめられている犯罪人を、ほんとうの理解と同情とをもって真人間に返させようという努力をしない国家は、決して貧しさに苦しみ、あるいはほかのことで苦しむ善良な社会人を保護するような政策を立て得ない国家であるということを考えなければならないのではないかと思います。  次に、死刑を言い渡された死刑囚の人たちが、いかに生きたいという願いでもって再審の訴えをし、あるいは恩赦の上申をして、死刑執行の期日をかせいでいるかという事実なんでございます。これは数を出してみますと、一番古いのは昭和二十四年の七月十三日に確定して、そうして再審の請求を八回し、抗告を三回しというようなことでもっていまだに死刑執行をされていない。その死刑囚はおそらく、しよっちゅう再審のことばかり考えていて、却下されれば、またもう一つの再審を出す、あるいは数カ所に再審を同時に出しておくというような方法をもってやっておる心理状態にあるときに、決してこの人は死をもって自分の犯した罪に対して償いをしようというような気持にはなり得ないと思うのでございます。そうすれば、ここにも死刑制度の一つの矛盾を私は見出すことができるのじゃないかと思います。  最後に私は希望したいのは、この法案が出されましたことは、先ほど皆様がお述べになりましたように、私としてほんとうにうれしいと思います。しかし正直にいって、これが一度二度でもって私には通るとは思えないのでございます。そうすれば、ここでもって特に死刑制度を研究する調査委員会を設けてほしいと思うのでございます。どのような社会の素朴な考え方がこれをはばんでいくのか、どのようなことを示したら、社会の人が順次に納得していってくれるのか、そういうことを真剣になって調査していただきたいと思います。それは各国の死刑廃止をし、あるいは復活をした国の実情を、表面的でなしに、ほんとうに突っ込んで、社会的な、経済的な条件、そういうものから全部調べてほしいと思うのです。もしも外国から取り寄せた資料で間に合わないならば、どなたか、りっぱな学者あるいは実際家、そういう人を送ってほしいと思います。そのようなことに使われる税金なら、私たち国民は喜んで出したいと思うのでございます。そうしてほんとうに実証的に、だれもが納得できるように、あるいは証明できるデータが集められないかもしれませんけれども、能う限りそれを集めて示していただきたいと思うのでございます。これをすぐにやっていただきたいと思います。この中には委員として存置論者、廃止論者、それを公平に入れていただきたいのでございます。なぜかと申しますと、存置論者は、死刑はいつかは消滅する制度かもしれないけれども、今は時期尚早だということを理由になさるのですが、その中には、そのまま今の死刑制度を肯定するような考え方が働いて、死刑廃止の方へ持っていく努力が足りない、そういう欠陥があるのではないかと思うのです。そこで両方の立場から入っていただいて、思う存分に検討をしていただきたいと思います。そうしてこの死刑廃止法案というものを、でき得る限り多くの人の支えを得て、早く通すようなふうに持っていきたいと思うのでございます。多国の死刑の存廃の歴史を見てみますと、非常に偶然的に起った凶悪な犯罪というようなもので世論が刺激を受けて、非常に興奮した結果、死刑廃止を叫んだり、あるいは死刑復活を叫んだりしておることを見出すのでございます。そのような愚かな例を私どもの死刑廃止の歴史に持ちたくないと思うのです。私どもはあくまでも冷静に事実を見詰め、事実の中からほんとうにこれは廃止すべきだということを見出して、この法案を通していただきたいと思います。(拍手)
  10. 高田なほ子

    委員長高田なほ子君) 大へんありがとうございました。   —————————————
  11. 高田なほ子

    委員長高田なほ子君) ちょっとお諮りをいたします。  速記をちょっととめて下さい。   〔速記中止〕
  12. 高田なほ子

    委員長高田なほ子君) 速記をつけて下さい。   ただいまの公述人に対しまして御質疑のおありの方は順次御発言下さい。
  13. 赤松常子

    ○赤松常子君 ちょっと一、二正木先生とそれから渡辺さんのおっしゃいました中に、聞き違いかもしれませんけれども納得いかない点が一つございました。それは正木先生のいろいろ死刑囚にお会いになって、その殺人動機をお尋ねになったときに、ほとんど偶発的だということをおっしゃったのです。そうすると、今、渡辺さんのお話の中にいろいろの実例をおっしゃいましで、計画的に殺人をしたパーセンテージを相当多く述べられました。そこはどういうふうに解釈すべきなんでしょうか。
  14. 正木亮

    公述人(正木亮君) 私の申し上げましたのは、殺しますときに偶発という法律的の用語でなしに、夢中で、殺したら自分も殺されるというあの法律の条文を意識して殺すのでなしに、殺してからあと非常におそろしくなって、自分も殺されるという不安感を持つようになる、こういう意味で申し上げたのでございます。計画的なものはおそらくこういうことが発覚したら、つかまったら殺されるだろうということは思っておると思います。しかしそれはまた犯罪人に共通点がありまして、ちょうどとばくみたようなもので、犯罪必ずしも発覚されるのでなしに、また犯罪はうまくのがれるという一つの投機的な考えは犯罪人にはございますのですが、必ずしも計画的であるから、その法律の抑制を越えていくというわけにはいかぬと思います。
  15. 宮城タマヨ

    宮城タマヨ君 正木先生にちょっとお伺いします。  先生が仙台の死刑囚のために刑務所にテニスの道具をおやりになりましたその直後に、私もその死刑囚に会うために仙台の刑務所をたずねたのでございます。そのときにちょうどとてもお天気がいい日で、死刑囚たちみんなが外に出ましてテニスしていたのでございます。その様子を見まして大へん私は喜んでありがたいと思ったのでございますが、そのときに死刑囚が、正木先生が最後まで体を大事にせいよとおっしゃった、それでこうして運動もしておりますということを言っておりましたが、その意味がきょうの先生の御説明でようやくわかりまして非常に私は喜ぶものでございます。それはお礼を申し上げるのでございますが、そこで私もこの死刑囚に対しましては無期懲役で臨みたいという願いから、その無期懲役というのは、先生と考えが同じだということは、あまり失礼かもしれませんけれども、私はこれは離れ島にでも無期刑の言い渡しを受けました者を入れておきまして、つまり死刑囚をみんな入れておきまして、そこで百姓をしましたり、あるいはその持ち前の仕事をさせまして、たとえば百姓に例をとりますと、その人がとりましたお米なり、野菜というものを被害者に送るということによって、なしくずしにおわびをするというような方法というものはできないものかなと、かねがね思っておりました。ところが先生のきょうの御説明では、国家が一応その収益をとりまして、賠償金としてその被害者の方に渡したらいいじゃないかという御説明だったように思っておりますが、そうでございますね。
  16. 正木亮

    公述人(正木亮君) そうです。
  17. 宮城タマヨ

    宮城タマヨ君 それで私のような考えはやはりあまり個人対々になりますということに害がございましょうかということをちょっとお伺いします。  それから今一つ死刑執行をいたします最後の、つまり印を押すのでございますが、極印を押します者は、あれは法務大臣と聞いておりますが、それは一体どういうわけなんでございましょうか。裁判所が言い渡しをしておって、その執行の最後の責任を法務省で、しかも法務大臣の決裁がなければ執行ができないということは、法的にはどういうふうになっておるのでございましょうか。
  18. 正木亮

    公述人(正木亮君) じゃお答えいたします。ただいま宮城先生のおっしゃいました今の流刑の問題でございますね、これはもう方々でむしろ流刑にしたらいいじゃないかというお説がございます。ところがこれはまた同時に、昨年の明るい社会を作るときの放送討論会のときに、宮城先生の御主張なんですが、今の刑務所の仕事をやらして、しかもその作業賞与金というものをやって、帰るときにふたをあけてみたらたった三百円か四百円で、旅費にもならないじゃないかと、これでは囚人を明るくすることはできない。むしろその賃金をやって、それでりっぱにその賃金で口すぎをするように、養っていかなければならぬということを堂々とおっしゃったことを記憶しております。これと私の考えております死刑囚のための、無期懲役になった場合には無期懲役、監獄というものがからみついております。島流しをやって、そうしてとれたお米をなしくずしにやるということは、ただ感情だけの問題だと思います。ところがもし死刑囚のかわりに無期懲役になりまして、これを最低十五年というものを出ないでやらすとしますと、これは労働省とかその他の点と結び合って一番いい技術と一番最高の賃金を持たして、そうしてそれをイタリアの一九二〇年の刑法草案にもあったのですが、罰金金庫とか賠償金庫というものがございます。そういうところへ本人の更生資金を天引しておいて、あと全部入れる。それを基盤にして政府からいわゆる社会保障金制度というものに入れるためには、相当にもうけさして、そうして家族を養うだけの、ただ雀の涙ほどでなしに、本気に本人にかせがして、被害者を救済するということにさそうというのが一つのねらいでございます。  それから今の、法務大臣が判を押しますことは、これは刑事訴訟法で規定されておるのでございますが、昔からもう裁判は判決の言い渡しをいたして終りますので、刑の執行は行政官庁に移る、三権分立の観念からきておるのじゃないかと思いますが、イギリスでは御承知のように誤判に判を押したチューターイのごとき、内務大臣がやりました。日本では法務大臣、こういうことになっております。
  19. 羽仁五郎

    ○羽仁五郎君 非常に質量な御意見を伺わせていただきましてありがたいのですが、最初にそれぞれお三方から教えていただきたいのは、昨日もやはりそのことをお述べになった方がございましたが、死刑誤判については外国にはいろいろな死刑誤判があり得たのだろう。しかし日本にはそれを聞いたことがない、聞いたことがないという公述には、いわゆる形式的に誤判によって死刑執行せられたというのを聞いたことがないようなお考え、それからそれに結びついて明治憲法時代の裁判制度というものに対する特殊の御感情からそういうものがないというようなお考えと、両方あったようですが、日本死刑誤判というものが事実ないというふうにお考えになっておられますか、あるいはあるのだけれどもそれはわからないということがあればどういうことでありましょうか、日本死刑誤判について、それぞれ御教示願えればありがたい。まずその点伺いたい。木村教授からどうぞ。
  20. 木村亀二

    公述人木村亀二君) 私の考えでは終戦後の裁判で誤判事件が非常にたくさん出ましたのは、裁判に対する国民の何と申しますか、関心が非常に高まった、と同時に裁判に対する批判という言論の自由が許されたために、従来黙っていたのがだんだんとはっきり出てきたのじゃなかろうかというふうに考えているのですが、ところが、御存じ通り、今日でも社会の雑音を封鎖しようというふうな裁判の行き方というのは非常に強くあることは事実なので、明治憲法時代の裁判は、私はおそらくは国家が最後的に下した判決については信頼しよう。それについて疑うべからずというところもあり、日本国民が非常に何といいますか、長いものには巻かれろというようなところから、おそらくは誤判問題が表に出ずに、泣き寝入りになったのじゃないかという想像をしておるのであります。わが国の裁判だけが一度も間違ったことがないというようなことは、それこそ神様でない日本にはあり得ない、こう思います。また事実上問題にならなかったことは事実だと思います。
  21. 正木亮

    公述人(正木亮君) 私は検事局におりましたからその実例をよく知っているのですが、はっきり誤判——死刑の判決を受けてあとで誤判だということがわかったことは、形の上ではございません。ございませんが、私の覚えておりますことで、一つはっきりしておりますのは、皆さんの中には御存じの方もあると思いますが、ちょうど大正七年ごろであったと思いますが、大森に砂風呂というものがありまして、そこの湯女にお春というものがおりまして、これが殺されておった。ところがそれが懐妊しておりました。そこでこれは情痴関係の殺人であるというので、それの情夫の小守壮輔というものを検挙いたしました。それで検事が調べて、そうして長い間予審にかけまして、公判に移して一審で死刑になった。それで二審であれは乙骨半二という検事が担当して調べておりましたときに、当時市ケ谷監獄に入っておりました石井藤吉という殺人犯人、これは形がちょうどよく似ているのですが、今度のチモシー・エバンズそれからクリスティとの関係みたいなものなのですが、全くそうだと思っていた、ところが殺人犯のやはり石井藤吉は十人ばかり殺人しておった、ところがそれがキリスト教のマクドナルドという宣教師及び有馬四郎助というクリスチャンの典獄に感化されまして、この話を聞いて、それは気の毒だ、自分がやったのだという自首をしたのであります。そこで当局は、非常にそういうものを一緒に当時十人ばかりやっておりますから、自分でそれをかぶるのだろうというので、なかなか相手にしなかったのですが、当時の検事局に本人が自首するものですから、その自首するままに捜査をやったら、凶器まで発見した、そうしてとうとうこれは石井藤吉が真犯人で小守壮輔が一審の誤判であったということがわかって無罪になったことがございます。これはニューヨークとロンドンでジェントルマン・イン・プリズンという名前で英訳までされております。  それから近ごろはこれは政治的にだいぶん論議されるというので、あまり、当局あたりはおきらいになると思うのですけれども、幸徳秋水事件につきましても、あれは非常に誤判による死刑が中に含まれておるのだということをいろいろと書き立てる書物もございますけれども、それは私どもはわかりません。わかりませんが、少くとも私の知っておる限りにおいては、ただいまのような誤判死刑事件についてございました。先般銀座で岩本平という強盗殺人の嫌疑を受けて警察で二十二日勾留されておった事件と、楊集竜という中国人夫妻が玉川署管内において火をつけて人を殺した。こういうので勾留されて、これは放火殺人の嫌疑でつかまっておりましたが、これはあとから、とうとう、これは検事の手柄であったと思うのですが、真犯人が出て参りましたが、あれももし今回の京都事件のような捜査の行き方でありましたら、ああいうものが公判に送り込まれて、結局死刑になるという段取りになるのじゃないかと存じます。
  22. 渡辺道子

    公述人(渡辺道子君) 私もその幸徳秋水の事件を考えていたのでございますけれども、私はむしろ日本の今までの国家権力が非常に強かった。そういう状態のもとにおいての裁判というものを考える場合には、形式的な誤判というような問題よりも、むしろ国家がどのような目的のもとにおいて、どのような社会情勢のもとでもって死刑というものを言い渡してきたか、あるいはそれを執行してきたかというようなところを、もう少し私たち調べてみなければならないんじゃないかというような感じをいつも持たされるのでございます。
  23. 羽仁五郎

    ○羽仁五郎君 どうもありがとうございました。昨日もお述べになりましたように明治憲法時代から一審二審三審ということで、一番最後には特段の慎重な手続があったので、外国と違って、ない。それから外国には現在陪審がございます。陪審では誤判があるのが当り前というような、どういう理論的根拠に基く御関係であるか、陪審の方が陪審でない裁判よりもおくれた裁判であるというような先入主を持たれた御意見であったかと思うのですが、そういうことでもあるのですが、要するに最後まで事件が誤判であったという事実が日本になかったということについて、私どもはいろいろ研究してみまして、実は法務委員会の専門調査室で専門室長の西村君などが調べました結果では、明治時代、あれは司法省の記録ですかに、二つほど、統計の中であります。統計上、一つは被害者がその犯行以前にすでに死亡しているという理由によって再審の申し立てをしている例が一つございます。それからいま一つはその被害者が犯行後において生存しておる。つまり殺されたと訴えられている人が、その後に生きておるということを理由として再審申し立てをしている場合が一件ございます。この両件について当局に、当時の記録を出すことを要求しているのでありますが、明治時代のことでありますので、古いその記録が出て参りません。従ってその統計上のそういう要件を持ったそれらの事件が、具体的にどういう事件であったのか、またその再審の結果がどうであったのかわからないのでありますが、それらは明らかに被害者が、殺されたはずの人がそれより前に亡くなっておられる、あるいはそれより後に生きておるということで、これもしかし再審の結果、あるいは無罪ということになって、死刑誤判ということにはならなかったかもしれないのでありますが、それらの統計はどういうふうに解釈したらよろしいのでございましょうか。この点は正木弁護士にお教え願えたらよろしいのではないかと思います。
  24. 正木亮

    公述人(正木亮君) ちょっとどうも……。やっぱしそれは事実関係がもう少し解明しないと、統計を変更することはできないのじゃないかと思いますけれどもね。ですから、昔の、今日よりももっと昔の裁判というものは、まあ一たん係属しましたら、警察で自白した以上はなかなかこれをくつがえすことはできない……。
  25. 羽仁五郎

    ○羽仁五郎君 私お教え願いたいと思いましたのは、そういう統計がどういうふうな性質を持っているものであったろうか、明治時代に。それからそういうものの記録というものを捜査する、現在探すということはどういう方法によったらいいか。
  26. 正木亮

    公述人(正木亮君) 死刑記録は終身記録でしょうけれども、本人が死んだら廃棄してはおりませんでしょうか、それは……。それからそれが事実はっきりすれば、統計をその点で直すことはできると思うのですが、今の程度じゃちょっと変更できないのじゃないかと思いますね。
  27. 羽仁五郎

    ○羽仁五郎君 これは木村教授にお教え願いたいと思うのですが、私が最近読んでおりました材料の中に、アメリカのウィスコンシン州では最近行刑制度を非常にコペルニクス的に転換したということをいっておられるようですが、罪によって刑を適用するということは間違っているのじゃないか。もちろんそれを考慮するけれども、それよりも罪を犯した人に対して適当なる刑というものを考えなければならぬじゃないか。そういうような考えから、ウィスコンシンでは二年か三年ほど前からその実験を開始せられて、その二年間に、従来では刑務所に送られるような措置をとられる六千人について、その三千人を刑務所に送らないで社会に出して、そうして社会で非常によい待遇を受ける。保護観察官の観察のもとに置いて、そうして第一の条件としては、本人の最も希望する職業にその人をつける。そういうことによってこの改善をはかっている。今日まで二年の間に、それらの人々が再犯の事実がない。この六千人の中の三千人の中には、いわゆるマンスローターといいますか、故殺といいますか、傷害致死とかあるいは過失致死、それらの人々についてはおよそ二五%、百人のうちの二十五人というのを刑務所へ送らないで社会に出して、本人の希望する職業につけて、今日まで再犯がない。それからアームド・バーグリー、凶器を持つ強盗でございましょうか、それについては、そのパーセンテージはずっと下りまして、百人についておよそ七人ほどを刑務所に入れないで社会に出して、本人の希望する職業につけさせて改善をしていく。これらの統計を目にしたのでありますが、こういうこの実験についてすでに日本刑法学者の間に研究をせられておるのでございましたならば、それについての学問上の所見を伺わしていただければ非常にありがたいというふうに考えております。
  28. 木村亀二

    公述人木村亀二君) 今の羽仁さんの御質問になったウィスコンシンの事実は、私はまだ見ておりません。しかしその犯罪という、その行為ではなくして、その犯人というものを中心にして考えなければならないというのが刑法でいうところの主観主義で、われわれの考えなんです。ところが従来の自由主義的な刑事訴訟法それから刑法の考え方では、やはり行為を中心にして判断しなければならないというのが従来の考えで、これが客観主義の思想です。さてこれを刑事手続でどうするかということについては、最近まであまりすぐれた議論もなし、また特等的な研究もなかったのであります。終戦後にミラノの弁護士をしていた弁護士のフラマチカという人が国際社会防衛協会というものを組織いたしまして、今日この裁判で、有罪の事実とそれから刑の言い渡しというのを二つに分けまして、それでこれは有罪であっても直ちに刑を言い渡して執行しなくてもよい。場合によっては、今のように執行せずに保護観察その他によって適当に処分をするというふうに分けてやろうという運動が非常に大きくなりまして、そうしてフランス、イタリア、スイス従来のラテン系統それからドイツ学者たちがそれをどうこの組織を刑事手続の中に持ち込むかということを研究しているわけであります。わが国もそれにわれわれ非常に賛成いたしまして研究しておりますが、まだ具体的に訴訟法の中にどう織り込むか、まだ実際上それに対する社会的な保護とかあるいは観察をどうするかということを十分実現されていないのですが、そういうような調査所を裁判所に付置する、あるいはさらに刑務所に付置してそうして組織的にやるという機構をわれわれ数十年——は少し大きうございますが、二十年ほど前から考えている。正木さんもやはりそういうような考え方なんです。そういうふうになると、もっと正確な犯罪対策というものが実現できるのではないか、こういうふうに信じております。
  29. 羽仁五郎

    ○羽仁五郎君 ありがとうございました。  最後に正木弁護士と渡辺弁護士にお伺いしたいと思いますが、正木弁護士は先ほど死刑にかわる無期の自由刑についての正木私案をお示し下さいましたが、それはすでに何かに御発表になっておられますでございましょうか。それでございましたらば、何に御発表ございましたか、それを教えていただきたい。もしそうでなければございませんでしたらば、その私案をこの委員会にお示し下さることができましょうか。渡辺弁護士に対しても先ほど最後に死刑問題についての調査会を設置しようという非常に貴重な御意見をちょうだいしましたのですが、その御意見についてすでに御発表でございますかどうか、御発表でございましたら、いずれに御発表でございますか。もし御発表でなければその御案をこの委員会を通じてお示し願えますかどうですか。以上二点お願いいたします。
  30. 正木亮

    公述人(正木亮君) 私のただいまの死刑代案は「法律のひろば」のおそらく五月号になるんだと思いますが、もうすでに印刷して近く出ると思いますので、お届けいたします。
  31. 渡辺道子

    公述人(渡辺道子君) 私は別に何も発表してございません。ただイギリスや何かのあの調査会でございますね、王室のあの調査会なんかのやっているところを見まして、日本にもこういうふうなものがもし作られて、徹底的に科学的にいろいろな調査がなされたら非常にいいのではないかということを考えましたので、この死刑廃止法案をお考えになりました委員の方々の間で、どのような形で調査会を持つのが一番適当かということをお考えいただければ大へんありがたいと思います。
  32. 羽仁五郎

    ○羽仁五郎君 ありがとうございました。
  33. 小林亦治

    ○小林亦治君 委員長お願いしておきたいと思うんですが、今ではあそこは最高裁か法務省かよくわからないのですが、司法資料というものがあります。薄っぺらなものはここにありますが、これよりもっと厚いのがあります。これなどはあるいは正木先生あたり御存じかもしれませんが、たとえば昭和になってからだと思う。隣人関係から部落民全体に対してすねた男が、炭鉱夫が、帽子の前に二つほど電燈をつけて坑内に入る、そういう武装をして、ピストルを持って、しかもそのピストルをもってどうやったら百発百中になるか、かなり練習した。それで一晩に二十何人殺しまして、しかも最後は姉のうちに立ち寄って、そこから晴着をからだにつけて自分の父祖伝来のお墓の前に行ってピストルで自殺してしまった、これは司法資料にしてはまれによくできておるのです。というのは、大がい司法関係は客観主義なんですから、もののやり方が。そういう極悪なしかも多数殺した者に対する判断というものはそう同情的にはできてないのですが、その資料だけは非常に、かような善良な男が、といったような結論を出して資料にしておった。また私どもが司法官試補時代にそれを読んだ。小説よりもおもしろい。しかもまたその中に教えられるものが多い。昨日安平さんが複数殺つまり多数殺の凶悪なることをるる熱をもって強調せられておったのに関して、その資料を一つわれわれも見、安平さんにももう一ぺん読んでもらいたいと思ったようなことでございますが、それを一つ委員会から——これは最高裁か法務省かどっちかわかりませんが、お願いしていただいて、でき縛るならばこれは全部の委員の方に読んでもらいたい。雑誌や小説なんかよりはるかにおもしろくあり、かついろいろなものが中にございますので、できれば……。  それから正木先生に一つ伺いたいのは、死刑囚の御説明をいただいたのですが、そのまあ不足を申し上げるのじゃありませんが、一体どういったものを読んでおるのか、読みものやそれから被害者に対する、ただ生命といったような気持でだけ——どういった気持で改心しておるのか。それから絞首刑を目前にして、死というものに対して一体どういう——ただ生きたいというような本能的なものだけでなく、何か観念的に、当然死ぬんだが早く死ぬだけだと思っている囚人もございましょうし、あるいは先生おっしゃったように、ほんとうに強烈に生に対するあこがれを考え始めたという者もございましょう。一つその辺をお聞かせ願いたい。
  34. 正木亮

    公述人(正木亮君) 二つのお尋ねですが、一つの今おっしゃいました前の方のあれは、全部で二十三人ですかあるいは三十人かもしれませんが、おそらく世界史上でもまれに見る大量殺人がありまして、これは岡山県津山です。ちょうど昭和十四年に、私が大審院検事から広島に次席検事に転出いたしますときに起った事件です。そして、その当時の岡山大学の遠藤博士が非常に珍らしい、法医学的にも珍らしい、ぜひあれを解剖さしてくれと、こういうことを検事正に申し出ましたら、検事正が不許可にしまして、そのまま処分してしまったのです。私はその話を広島に赴任する途中に聞きまして、それから後に岡山の次席になりました今福岡の検事長をしております市島誠一検事に非常にこれは貴重な材料だ。直ちにこれをあとから調べてそして書類にせいというので、こしらえ上げてあの司法資料の中におさめております。これは本日おいでになっております吉益東大教授が近ごろこれを御発見になりまして、非常に御研究になっておられるようですから、あとでそれをお聞き下されば非常に参考になるものだと思います。  それから今の死刑囚の生命欲の問題でございます。これは私は座談会でしばしば聞くのですが、もう判決を受けた——これはほとんど異口同音ですが、判決を受けた即時は、もうすぐ死にたいという気がするそうです。ところがだんだん日がたつに従って、非常に生命欲が出てきて、ほとんどの人が死を戦慄しております。そこで教誨師とか、そういう牧師とかお坊さんが行って、これを非常に改善しておりますが、非常に徹底いたしましてもまた命が非常にほしくなってきて、先だっても、ある死刑囚が私に——これもう非常にカトリックになっております。初めのうちは死んでおわびをするという手紙がずっときておったのですが、近ごろは非常にまた命がほしくなって、私の死刑廃止運動に大いに獄内から拍手を送ってくる。そこで私は手紙を書いてやった。この問題は私たちの問題で、あなたは死んでおわびをするという気持を現わさなければいけないのだという手紙を書いてやったほどでございますが、近ごろは、最初は非常に死んでおわびするという、生ということにそう恋々としておりませんが、日がたつに従って恋々とするようになる、これだけは、これは実験の上でわかります。
  35. 小林亦治

    ○小林亦治君 特に読みものなんかはどういうものを読んでいますか。
  36. 正木亮

    公述人(正木亮君) 読みものはいろいろ——ほとんど何でも差し入れております、執行までは。ただ、死刑廃止論みたいなものだけは許されぬようですが、(笑声)ほとんど全部が許されておりまして、たとえば週刊朝日でもサンデー毎日でもみな受け付けているようです。
  37. 小林亦治

    ○小林亦治君 好むものはおもに宗教的なもの、それから哲学的なものも、教育が浅くてもそういうものは非常に読むように聞いておりますが。
  38. 正木亮

    公述人(正木亮君) むしろ宗教的なものを好んでいるような人が多いようですけれども、たとえば左翼的な人でも良寛なんかというものを非常に喜んで歓迎していることを経験しているのですけれども、そういう世の中のことを知りたいのですから、普通の新書版なんかもちろんでございますが、しかし宗教ものはたいていの者が読んでおります。
  39. 高田なほ子

    委員長高田なほ子君) ちょっと、時間がたいへんおくれて恐縮ですが、簡単にお尋ねいたしますので、お願いいたします。一つは、昨日の公聴会でも感じさせられたことですが、裁判関係の方、また非常に専門的に御研究になっていらっしゃる方の中に、偶然だと思うのですけれども、死刑廃止には御反対の御意見が強かったように考えられます。これは偶然であるかもわかりません。けれども、法は必ずしも人間の生命よりは重いものではないというような御発言もあったので、どうもなぞが解けません。その点を木村先生と正木先生とにお尋ねしたい。  それから、特に正木先生は弁護士というお立場であられますから、それにつけてお伺いしたいことは、先般週刊雑誌で拝見したのですが、弁護士の方々の中で、死刑廃止に対する賛否論が統計的に見られたようですが、概略してみると、東京とか大阪におられる弁護士の方々の方が、死刑廃止すべきであるという論が非常に強いのですが、ある地域では、全部死刑賛成だという弁護士さんがあるというのが多かった。総体的にいうと、弁護士の方々の中では、死刑廃止に反対という意見が強いようです。どうもこういう意見をお持ちになる弁護士さんがあまり多過ぎるので、私はどうも何か割り切れない気持がしているのですが、こういう地域的にどうしてこんなに賛否論が画然と分かれているのか、そんなことについてお伺いしたい。  最後にこれは学問的の立場から伺いたいのですが、木村さんにお尋ねしますが、先般私は警視庁に参りまして、科学捜査の、科学を誇るといわれるその姿を見て、実はあぜんとしてしまった、こういう捜査陣が日本の誇る捜査陣であるかと思うと、非常に心もとない気がいたしましたが、一体日本の科学捜査陣というのは国際的に見てどういう地位を占めておるのか御存じでございましたならばお尋ねしたい、どうぞお願いいたします。
  40. 木村亀二

    公述人木村亀二君) 第一の点でございますが、私きのうの公聴会の問答を全然拝聴しなかったのでわかりませんが、御存じ通りこの刑法の中には学説がありまして、刑罰というものについて古い考え、古くから存在する考え、これはわれわれ反対しておるのですが、応報刑、応報刑というのは殺人というふうな行為について申しますと、人を殺した者に対しては人を殺さなければならない、殺して返すというのが、これが正義だと、こういうような考え方なのです。ところがきのう見えたおそらくは小野、安平両先生はこれは日本の応報刑の代表者なのです。だから自分刑法の立場を維持するためには、死刑廃止するということになると、自分の理論がくずれるのじゃないか、だから自分は宗教家としては賛成だという議論をされたということを今さっきも正木さんから聞いたのですが、そこに矛盾があるのじゃなかろうか。それから宗教的な立場で特にカトリックですが、特にカトリックの牧師その他の有力な地位にある人は、実は悟りができているので、本心に死刑廃止という考え方を持っている方は個人的に非常にたくさんあるのですが、やはりローマ法王の教旨というか、その中には死刑を肯定しておるのですね。そうするとやはりカトリック信者としてはどうしてもそれを否定すると背教者になるという矛盾から、そういうような主張をなさっておるのじゃないかという私は推測をしておるのです。そういうような意味で、私はこの死刑問題というような深刻な問題は、ある特定宗教の特定のドグマとか、あるいは、特定の学説の特定の結論というものを離れたほんとうに良心的な見地から、しかも感情とか気分ではなくして、科学的なデータによって、犯罪対策として死刑というものは果して有効かどうかということを基礎にして判断しなければならないのじゃないかという考えを持っております。  今渡辺さんが言われましたように、私も一言触れましたが、イギリスでは一九二九年から例の国会における死刑に関するセレクト・コミッティーが聞かれまして、実にたくさん材料があるので、それをごらんになると非常に有益ではないかと存じます。私も大賛成です。そういうような制度ができることには大賛成です。  それから第三の御質問の、日本の科学捜査の点については、これはむしろ正木さんの方がよく御存じでしょうが、終戦までは大ていは勘でやっておったらしいのですが、終戦アメリカのサゼッションでいろいろの科学的な捜査方法がとられるようになりまして、警視庁の研究所もよりよくできておるから一度見ておけといわれて、まだ私拝見しておらないのであります。しかしそれほどまあ世界的にはおくれているというのではなくて、まだその運用がおそらくはうまくいっていないという点に欠点があるのではないかと思っております。実はこの点についてはまだ見ておりませんから、はっきりした話はできません。
  41. 正木亮

    公述人(正木亮君) 一の点は木村博士の御答弁に譲りまして、週刊朝日に出ておりました弁護士の死刑存廃の数でございますが、あれは、全部で今日六千有余の弁護士がおりますそのうちで、回答をしない者が三千なんぼある。そうして回答した者の数を比べますというと、賛成者が約千人、それから反対者がその倍、こういうことになっております。それで実は私は自分の雑誌にも書いたのですが、まず第一に非常に驚いたことは、法律をもってなりわいとしておる弁護士の半数がこの問題に無回答であったというところに、弁護士会の実にふまじめさがしゃくにさわると書いておる。そうして今度は反対に、今の法律木村博士は全くの新進刑法学者なんですが、日本の多くの刑法学者は応報刑学者である。それから裁判官もそうである、検事もそうであるという中で、約千人もの弁護士が死刑廃止論であるということを見まして、私は非常にうれしかったのです。(拍手)ああ日本にも千人からのわれわれと思いを同じくする弁護士がいるかと思って、非常にうれしくて、実はさっそく、高松あたりはほとんど全員が賛成だというのですから、思いあまって、すぐ代表の佐々木一珍弁護士に、君も一つ入会してくれないかと言って、入会を勧めてやったくらいでございます。しかしそれにしても数が少いのですから、それならどういうわけで死刑存置が多いのかと申しますと、これは弁護士の業務は民事と刑事二つございます。私のような刑事一本でやっているのは、ほんとうに純粋な刑事だけやっているのは私一人じゃございますまいか。あとはほとんど民事と刑事とやっております。それで、ことに刑事はちょっとしたものをやって、あとは全部民事をおやりになる方が多いのでございますが、この民事関係の方が、刑事に一つも関心をお持ちにならずにやりますと、勢いまあ攻撃防御戦争状態の法律をお扱いになりますから、この方たちに直ちに法律的に死刑廃止賛成して下さいということは、なかなか無理だと思います。ですからそれはやはり弁護士の職業的な点からそういう点がずいぶんあるのだと思います。しかしそれにしましても、非常に近ごろ弁護士会にいきますというと、あっちでもこっちでも死刑廃止論の話を私の顔を見るとみんなぶっかけて参ります。おそらくこれはだんだん弁護士会の世論も向上していくと思いますが、少くとも私はここで委員長に非常に喜んでいただきたいことは、日本の弁護士会に千人の死刑廃止賛成者がいるということは、これは非常な大きな問題だということを確信しております。
  42. 羽仁五郎

    ○羽仁五郎君 委員長お願いがあるのですが、先ほど正木弁護士の試案というもの、それから渡辺弁護士の御要求になりました死刑問題調査委員会を設けることを、この委員会でぜひ問題にしていただくようお願いいたします。
  43. 高田なほ子

    委員長高田なほ子君) 承知いたしました。  どうも長時間にわたりまして公述人の方々に御苦労をおかけいたしました。大へんありがとうございます。お食事の時間がおくれまして、まことに人権侵害になりまして恐縮でございます。二時から午後の部を再開いたしたいと存じますので、よろしくお願いいたします。  なお、ただいまの羽仁委員からの御発言もありまして、渡辺さんと正木さん、それぞれの御希望がありましたが、当委員会としてもぜひそのようにさしていただきたいと存じますので、お手数でございますが、資料をぜひお送りいただけるようにお願い申し上げます。どうも失礼いたしました。  これで休憩いたします。    午後一時十九分休憩    ————————    午後二時三十一分開会
  44. 高田なほ子

    委員長高田なほ子君) これより公聴会を再開いたします。休憩前に引き続きまして、死刑廃止是非について、公述人の方々から御意見を承わりたいと存じます。まず、日本医科大学理事長河野勝斎さんにお願いをいたします。
  45. 河野勝斎

    公述人(河野勝斎君) この死刑廃止問題がこのごろ社会で、だいぶあちこちで話題の中心をなしておるのでございますが、従って、私もこの問題の世論の状態などに関心を持っております。ところが、たまたまこの委員会公述人としてお招きをこうむったのでございますが、私は、全くこの法律等に対してのしろうとでございまして、他の職業に従事しております。その関係から考えてみまして、きょう午前中伺いましたような法理論とか、法律論とか、あるいは法哲学に関する事項等に関しましては、私は全くの門外漢でございまして、午前中皆様の御説明を、逆に伺っておったというようになった次第でございます。その私がここへ来て、あえて御招致に応じて、説明さしていただくというのは、私は長い間、犯罪者の更生保護という仕事を私の篤志でいたしております。特に、終戦後更生保護法が立案されまして、全国に約六万の保護司がおりまして、これが仮釈放の刑余者及び昨年刑法改正によります執行猶予の対象者である者の再犯防止及び社会復帰というような、刑余者に対する教育的な補導をする任務をいたしておるのでございます。従いまして、職業的には全くこの法律の畑からしろうとではございますが、その社会生活の間に、おのずから犯罪というものに対する、しろうとはしろうとなりの考えを持ってきたのでございます。しばしば刑務所等も訪れまして、死刑の判決を受けた人々の生活なども、相当のぞいてみるというような関心を持っておったのでございますが、ただ、その間に、一番私の程度の知識、従いまして、社会人の専門家でないような方々と同じであろうと存じますが、そのくらいの程度の知識から判断いたしまして、この死刑という問題に、こういう疑義を一応原則的には持ったのでございます。生命の絶対的な至上的なものであるということは、これはだれも異議のないものでありますし、終戦後民主国家に切りかわって、個人の生命の貴重さというものが再認識あるいは再自覚をされた今日、生命の貴重さというものは、だれ人もこれはもう今日では疑義を持っておりません。それをあえて奪った、殺したというその罪は、許されない罪である、これは、もう天地にいれることのできない一つの罪悪である、こういうふうに社会法律家も御判断されておると思います。それに処するのに、国が法律の力または国家の力をもってするならば、その人間として許されないところの殺人の方法を合理化して、そうしてこれを解決しようということは、一体どういうことなんであろうかという疑義を常に私は抱いておったのでございます。それは、ただ単なる一つの概念としてお笑いになるかも存じませんが、この問題を最近友人知己に話し合ってみましても、そこに返りますというと、この素朴な議論がはたと行き詰まりまして、だれしもそこのところが非常にわからぬ問題になってくるというところに大ていの人は一致しておるようでございます。でございますから、そういう論点から話し合ってみまして、死刑というものに対して、庶民的な立場の人は、従来法律家の唱えておるような高邁な理論の点で肯定するのではなくて、一応そこに防衛的な、社会を防衛するというような考え、あるいは報復するというような考え、かたきを討つというような考え、その点だけで、この死刑の存置を肯定しておるのでございます。しかし、私はそういう考え方に全面的に反対いたしまして、そして今日では、確信をもって、死刑廃止されなければならないものだというような考えを持っておるのでございます。以下、その私の根拠を若干述べさしていただきたいと存じます。  ただいま申し上げました、防衛的な一つの手段として、大きな殺人というような人類的な悪を防衛する方法として、その人類悪を法律及び国家の許容によって正当化してやっていくという考え方は、これは、非常にその内部に矛盾を蔵しております。のみならず、こういう考え方が存置されておるならば、理由づけによって正当だと考えられる場合は、人を殺すことも許されるのだというこの概念というものは、やはりあとに残っていくものだというふうにも思われます。すべて一つの結果というものは、原因に逆行していくということも、やはりこの際考えてみたいと存じます。そういうような、人を殺すということが合理的に、殺すことが合理的に取り上げられるということの結果は、やがてそれはほかの解釈になって、またその人を殺すという一つの衝動の方へ逆行するということも、これも考えられる問題であります。  それから、かたき討ち的な問題、報復的な考えということは、これは全く個人の感情とか、あるいは関係者の感情とか、社会正義的な立場からの感情として、これは人間の持つ一つの本能的な感情ではございますが、しかしこれをやっておったならば、社会及び国の権威というものは、これはなくなるものであって、そうしてこれは一つのから回り、常に悪循環をしていくというようなこともできる、あるいはときによりますと、法律によらずして、みずからの判定においてこれはやってもいいんだということになると、かたき討ち的なものをみずから許していくというようなことも、これはできてくる問題と思います。そして、最近われわれが特に注意していただきたいと存じますことは、もう少し個人の行動を動的に見て、動的に観察していただいて、つまり環境的に人間性を観察する、そういうようなことからこの犯罪を眺めていただく、そうして犯罪者に対して自覚を促していく、あるいはこれによって暗示的な一つの補導とか、あるいは教育を加えて、そうしてりっぱな社会人に復帰せしめるということ、これは、一般犯罪人の扱い方の中に国が採用しておることでございます。これは、終戦後における日本の文化国家としての一つのりっぱな進歩でございまして、その現われとしまして、現在法務省におきましては、行刑局は廃止されております。刑を行う局は廃止されております。そうして、教育主義刑罰という考えが採用されまして、そして、今では行刑局が矯正局という名称になっております。刑務所等におきましても、それぞれ執務の方法などに改革を加えられておるのでございます。現在、昔の行刑局は、法務省におきましては矯正局と申しております。この矯正局は、文字の示しますごとく、犯罪を起す者に対するところの特殊な教育主義的な矯正をしていくという理論が採用されたのであります。でございますから、いろいろの、法務省あるいは裁判所、あるいは検事局関係の方々の中には、死刑というものは存在することは必要だという御主張をせられる人もたくさんございます。しかし、一般犯罪に対しては、すでに過去のごとき犯罪観というものは、法務省においてはなくなっておりまして、それは、文化国家と同時に、一応矯正という矯正刑を用いるという方にこれは発展をしておるのでございます。しかるに、この死刑というものの執行だけは、矯正ではなくて刑の行刑になっておるのでございます。行刑の専門家であります正木先生などの御意見がどういうふうにこれを解決して下さるかと思っておるのでございますが、これだけは矯正の範囲を離れまして、矯正局が刑の執行をしているというようなことでございます。これはわれわれのグループに、常に一つの法務省に理論的な混乱があるような印象を与えておるのであります。われわれも、多くの刑余者を対象といたしまして、これらの社会復帰の仕事に従事しながら、常に考えさせられますことは、犯罪というものを単に一つの個人の責任だけで片づけてしまうことはできないという、その考え方でございます。先ほど渡辺弁護士のお言葉の中にもございましたが、犯罪に対して環境的な責任は、やはり社会人は一般に負わなければならないという考え方、この考え方は、われわれの保護司の仲間では、これは金科玉条として採用されておるところの理論でございます。そういう立場から、保護司活動というものは、常に社会的な連帯の責任において、われわれは刑余者に対するところのいろいろな社会復帰の問題に活動しておるのでございますが、死刑という問題だけは、これから、全くらちから離れておりまして、これは従来通りの行刑という建前をとりまして、先ほども申し上げました通り、これは、矯正局が法務省において行刑を行なっておるのでございます。そういうようなことは、少しこの死刑という問題に対する考え方が、あまりに死刑そのものが大きな問題であるだけに回避されている。  それからもう一つは、先ほどからいろんな公述人のお言葉にもございましたが、これをちょっとでも手を加えることの影響性というものを非常に顧慮して、むしろこれは、手をつけないでおいた方がいいというようなお考え方が支配しておるのではなかろうかと、われわれは庶民的な立場から常に推察をしておるのでございます。これは、そういうふうに考えて参りますというと、この殺人犯というようなものに対しましても、社会はやはり一つの責任をもって考えなければならぬ。人を殺したやつだけが非常に憎むべき凶悪な犯罪者であるというような断定のもとにみずからも安んじて、これに絞首刑を加えただけで事が終ったという考え方は、やはりわれわれとしては採用しにくい、こういうふうに考えたのであります。そういう考え方から、勢いこの死刑というものはやはり行うべきものではありませんと、これに対する他の方法をもって、この人々をやはり最後は死ぬときまでにはりっぱなざんげの生活をさせていく。ざんげの生活に入った死刑人を殺すということは、人間にはできないはずだというような考えをしております。  先般、検事をしておる方々を友人にしておりますので、お尋ねをいたしました。死刑囚に対する死刑執行のときの感想はどうであるかというふうに尋ねました。そのときに、二、三の検事は、皆同じように、私にこういう説明をいたしました。おれは悪いことをしたのじゃないと言って、最後までわめきおののいて抵抗する人を絞首台に乗っけることに対しては、それほど苦痛ではないと、しかし、被害者の家の方向はどっちですかと、いろんなことを尋ねて、そして礼拝をし、仏前に未来を祈って、そうして従容として死刑台に上っていく、あの死刑囚の死刑執行したときは、非常に一日中思い出が悪い。そうしてわれわれは、その時分は市ケ谷にあったときの話を私は聞いたのでございますが、護国寺へ寄って、そうして死刑執行された者の冥福を祈って帰るのが常であるということを、二、三の検事から伺いました。その話から割り出してみますと、もうそれは本当に悔悟の生活に入った者、その者に今の刑の考え方として、それを断頭台に乗っけてしまわなければならないのかどうかということも、われわれは一つの疑義を持つのでございます。  それからもう一つは、応報主義的な、かたき討ち主義的な方法でやるということは、人間の衝動の感情ではございますが、このかたき討ち思想というものは、もうすでに言うまでもなく、近代社会においては、これは否定されておる一つの考え方でありまして、これは過去の時代の考え方であります。それでございますから、こういうところに根拠を置くということは、たとい遺族のためにはこの方法が非常にいいことになるかしりませんが、広く社会的に考えた場合には、かたき討ち思想というものは採用さるべきものではない、こういうふうな私考え方を持っております。目には目をもって、歯には歯をもってしろという考え方、死には死をもって報いよというこの報復の考え方も、やはり同じような考え方であると思います。こういう考え方は、先ほども申しましたように、うっかりすると、どっかの片隅で悪が循環的に行われるところの一つ根拠になると、まあこういうふうに考えられます。それでございますから、やはり死刑というものを行なった場合の、それの社会に対するところの逆にまた反撥してくる可逆的な結果が、可逆的に作用するという問題を考えてみましたり、あるいは機械的な因果律だけで死刑というものを肯定されてはならないと、こういうふうに私は考えております。  それから現在では、先ほど申し上げました通り、この犯罪の環境という、犯罪者を環境的に見ると、あるいはこういう考え方からこの社会人の行動の責任というものが自覚されまして、教育刑が採用されておる。行刑の面では教育刑が採用されておるということは、先ほど申し上げましたが、これは全く確実に、次第に一般犯罪に対しては、よき結果を現わして来ております。そうしてこれこそは、近代科学のりっぱな根拠を持った一つの考え方でございまして、ただここに、死刑に該当する犯罪者がこれに入らぬということはないことであって、これはやはりそこへ持っていかなきゃならぬ問題である。そうしてそのためには、死刑廃止されて、先ほど来いろいろのお言葉にも出ましたが、これに対するところの一応の他の方法をもって解決されなければならないと思う。かようなことを私は考えております。そうしてこの可逆的に作用していくというような、社会心理的な作用というものは、すでに今日では、これは学説としても人は肯定しておる問題でございますから、特にこういうことは注意をする必要があるのではなかろうかと考えます。これは、青少年の問題では、とりわけてこういうことはよく用いられて、いろいろな言葉の中にも出てくるようでございますが、おとなの場合でありましても、この考え方はやはり同様に採用されなければならぬと、こういうふうに考えております。  それから、一般犯罪に対しまして更生保護が採用されておるということも、この教育刑が採用されたという一つの証拠でありまして、国にすでにそういう方針が採用された今日、死刑だけはそのまま手をつけずにおいていいという考え方は、事が重大であるがために、それを避けているというような印象しかわれわれには与えられていないのであります。先ほど来いろいろ皆様方のお言葉にもありましたが、この問題は、今後とも十分に一つ御研究の上、国民全体に納得のいくような一つの理念と具体的な方法が採用されることを最後にお願い申し上げまして、私の公述を終りたいと思います。
  46. 高田なほ子

    委員長高田なほ子君) ありがとうございました。   —————————————
  47. 高田なほ子

    委員長高田なほ子君) 次に、医学博士、東京医科歯科大学教授古畑種基さんにお願いいたします。
  48. 古畑種基

    公述人(古畑種基君) 私は東京医科歯科大学で法医学を専攻いたしております古畑でございます。今日、死刑廃止是非の問題に、公述人の一人としてお招きを受けたことを大へん光栄に思っております。午前中、この公述人としておいでになりました正木博士、木村博士などは、私が平素最も尊敬しておる方でございまして、特に正木博士は、私の年来の尊敬しておる親友でありまして、その正木博士の心から今運動に従事しておられますこの死刑廃止の問題については、私は賛成なのであります。原則として賛成なのであります。しかしながら、この皆さんの御意見を伺っておりますというと、その立場によって、よほどその御意見が変るように思われるのであります。私の立場をこれから一応説明さしていただいて、まあ自分の説明になるので、はなはだ心苦しいのでありますが、お許しを願って、私はどういう立場でここに公述人となって、その意見を述べさしていただくかということをはっきりしておいた方が、私の意見がよく御理解願えるのではなかろうか、こういうふうに考えます。  私は、法医学を専攻しておりますが、法医学者と申しては僭越でございまして、法医学を専攻しておる学徒にすぎないのでございますが、私の専攻しておりますこの法医学が一体どういうことを願っておるものであるか、これは皆さん承知のことで、釈迦に説法のようなことになって、はなはだ失礼なのでありますが、私の公述の順序上一応述べさせていただきたいと思います。  わが国の法医学の開祖であります片山先生の分類に従いますというと、医学を分けて、基礎医学と応用医学に分けるのであります。応用医学に三つあるのでございまして、そのうちの第一が、普通一般の方々が医学と言っておられるところの臨床医学、つまり病気を診断し、病気をなおすところの医学でございます。これが一般人が医学と言っておりますところの観念の大部分を占めておるものだと存じます。これは治療医学または臨床医学と一般に呼ばれておるのでございます。第二の応用医学は、病気にかかった人をなおすのではなくて、病気にかからない以前に防ぐ、こういう思想の下に起っておりますところの公衆衛生というものでございます。臨床医学と公衆衛生のほかに、第三の応用医学といたしまして、法律上の問題に医学の知識、技術を応用してその問題を解決する、こういう部門がございまして、つまり法律の中にいろいろ人体や医学に関係のある問題が出て参りまして、このことが解決しなければ、本当の法律上の問題が解決がつかないような場合がしばしばあるのでございまして、こういう問題を特に取り上げて研究いたしておりますところのものが法医学なのでございます。  で、この法医学というのは、日本の法医学は、ドイツ、オーストリアから輸入せられたものでございまするが、これよりももっと古い発達をしたものに、中国の法医学があるのでございます。中国では、洗寃録、無実の罪をそそぐ、洗うという、それは一二四七年に出ましたもので、これは世界で一番古いところの法医学書でございます。それからその次に出ましたところのものが平寃録、やはりこれは無実の罪にかかっておる人の罪をそそぐという意味で、平寃録という本が出ました。これらはいずれも、中国の裁判官がその裁判をするに当って、あやまって無実な人を裁判にかけて罪したと、こういうようなことがあったことを先輩の人々から話を聞いたり、また自分経験から得ましたその経験を集めて、後の裁判をする人のために、今後再びこういうあやまちを繰り返すことのないように、注意のために書き集めてあったものなのでございます。ところが、この洗寃録、平寃録は、寃をそそぐのでございますから、これは寃をそそぐというのは、すでに無実の罪にかかっていた人があるということを前提といたしておりまするので、それではいけない。初めから無実の罪で刑に処せられるような人がないようにしなければいけない。それで無寃録というのが出ている。洗寃録、平寃録に続いて無寃録ということになっております。それでわれわれ学徒の中では、法医学は個人の寃罪を防ぐ学問である、個人の人権を守る学問であると教えられておるのであります。しかしながら、そのほかにもつと大切なことは、社会の治安を守る、社会一般の人の安全を守るための医学である、あるいはこれを科学であると申してもよろしいのでありますが、公安を守る科学であると、こういうふうに申しておるのでありまして、今日私どもの同僚たちは、法医学のことを公安医学と申しております。パブリック・セーフティーの医学、一般の人が平和に暮せるように、あやまって罪せられることのないように、社会の福祉を増進するために、この医学を応用する公安医学であると、こういうように申しておるのであります。はなはだどうも、こういうことを申し上げて失礼でございますが、一応私の立場を申し上げておきます。  それで、私は個人の人権を守るという立場、そのほかに、社会の安寧を守るという広い立場に立っておる者でございまして、この死刑廃止是非を論ずるに当りましても、死刑廃止することが果して世の中の一般の人にこれが幸福をもたらすことであるか、いいことであるかどうだかということを主眼にして考えておる次第なのであります。で、死刑廃止するということについては、私は毛頭反対ではございませんので、賛成でございます。しかしながら、現在これを廃止するということが現在の日本に幸福であるか、現在の社会人にとってこれがよいかどうかということを私は考えてみるのであります。なぜかなれば、私の学問は、今まで過去四十年間にわたりまして、殺人で殺された被害者を解剖してその死因をきめた、それが自殺であるか他殺であるかをきめたり、あるいは死因が何であるかと、こういうようなことをきめることを専門にいたしてきたのでございます。年々こういうような、私たちが解剖しなければならないような凶悪なる犯罪が東京だけでもかなりあるのでございまして、こういう犯罪を毎年……、まあそれほどふえても参りませんが、戦後は相当ふえて参っておりまするが、こういう犯罪をこのまま手放しにしておいてよいのかというのが私どもの疑問とするところなのであります。こういうような凶悪な犯罪が現在一方においてますます増加するような傾向にあるときにおいて、これを犯しました殺人犯人の生命を救うがために、死刑廃止するということが果して妥当であるだろうかどうか、こういうことが問題なのであります。私は、悪人といえどもその生命の尊貴なることは心得ておりまするから、これを死刑になるたけしないような方向に持っていきたいということは、私も念願とするところでございますが、私は、公安医学の立場から、社会の人に少しも不安を与えないように、社会の人がますます安心して生活できるようなふうに、政治をとる者あるいは法律をとる者が力を入れねばならないのではなかろうか、生命の尊貴なることはもちろんでございますが、社会一般の何らの罪もない人が殺されているのを、私のように毎年見ております者が見ますると、こういう犯罪を一日も早くなくしたいという気持になるのは当然なのでございます。私は、こういう犯罪をできるだけこれをなくしたい、こう考えるのであります。つまり犯罪防止、つまり殺人のようなことがこの世の中からなくなることをこいねがっているものでございます。  その次に、私たちの念願は、真実の発見であります。真実の発見ということ、これに裁判官、検察官、警察官及びわれわれのような解剖する人が努力して、真実を明らかにしなければならない、真実の発見ということにもう少し熱を入れなければならない。その一つといたしまして、真犯人の確定ということであります。死刑廃止論者の大きな理由一つといたしまして、誤判ということがあげられております。つまり裁判によってあやまって、その人が殺人犯人でないのにもかかわらず、殺人犯人の極印を押されて死刑に処せられる、そうしますると、一度処刑せられてしまったならば、これを償うことができない、これは大へん大きなあやまちであるから、誤判を避けるという意味においても、不確かな裁判を避けて、できるだけ死刑をやめた方がいい、こう言う、私もごもっともだと思うのでございます。スイスから出ております「犯罪学及技術的警察雑誌」の一九五二年の一月号の中で、ジュネーヴ大学のグラヴァン教授が「死刑の問題及びスイスにおけるその再現」と題しまして、死刑の問題の特集号を出しておられるのでございまして、これを牧野英一先生が「刑政」第一巻第二号の中で詳細に御報告になっているのでございます。これによりますというと、一九五一年十二月五日夜、チューリヒで銀行家バンワルトという人が、自分の自動車の中で殺害されているのを発見されたという事件が起ったのであります。このバンワルト事件が機緑となりまして、チューリヒ選出の上院議員ギスラー氏が死刑復活案を議会に提出したのであります。これがギスラー案と申しまして、今までは、スイスでは死刑廃止しておったのでありまするが、これを機縁として、死刑を復活せねばならぬという動議を参議院に出されたのであります。この動議は、一九五二年の三月二十六日の議場に上程せられまして、ギスラーは、治安の方法の確立せられなければならないということを説きまして、この際死刑を復活すべきであるということを論じたそうであります。そうしますると、これに対しまして司法長官のフェルドマン氏は、死刑の問題の複雑性を説いて、スイスは一九四八年以来殺人罪が増加しているのではあるけれども、だからといって、死刑を認めることは正当とはいえない。で、治安の策としては、犯罪捜査の方法をさらに完全にするように努力すべきであるといたしまして、また誤判が免れないことであるということを理由一つとして反対をいたして、死刑廃止復活案は、ここで討論の末、動議は三十一対八十で否決せられているのであります。スイスでは、この問題は相当重大視せられましたようで、グラヴァン教授の死刑復活論に関する特別号が出ていることは、ただいま申し上げました通りであります。ところが、最近ニュージーランドの下院死刑を復活することを議決したということを新聞で拝見いたしました。同国では、一九四一年に死刑廃止せられていたのでありますが、三十八対三十一で下院を通過し、上院の通過も確かであろうと、通信に載っておりましたが、その後のことは存じませんから、その後どういうふうになりましたかは、私にはわかりません。  かくのごとく、世界の文明国の中では、死刑廃止している国は幾多あるのであります。しかしながら、その後、一度廃止しました死刑をさらに復活せねばならぬと主張しておるところの国もまた出てきておるのでございます。それゆえ、私はここで、このスイスの事件のときにも、その反対の理由といたしまして、誤判が免れない、あやまって人を殺人犯人と判定する、そういうあやまちを犯す危険があるということを申しておることに対して、私は私の専門の立場から、こういう問題は、これは避けることができるのではないかということを申し上げたい。  で、私今日ここで申し上げたいことは、死刑是非ということよりも、これにはもうすでに幾多の専門家が出まして、法律的にあるいは法理論的に、もうあらゆる方面からお論じになっておるのでありまするから、私のようなしろうとが、今さらこれについて可否の意見を述べることは、ただ蛇足にすぎないと存じます。  こういうようなわけで、誤判というものがある。誤判というものを避けることができるかということ。私は科学が進歩すれば、これは誤判を避けることが可能であるということを申し上げたいのであります。午前中に高田委員長が、警視庁を御覧になりまして、科学捜査の面が不十分であるようにお感じになったというお話がございましたが、この委員会では、死刑是非そのものよりも、犯罪の捜査のやり方及び裁判そのものが、もっと科学的に、合理的になるという方向に、この委員会が持っていっていただくことを心から私は念願するものなのであります。私にとりましては、死刑はその次なのであります。死刑廃止かいなかを論ずる前に、私は、社会の治安を守る、こういうような犯罪をできるだけなくする、そうしてまた正しい犯罪捜査をする、人権をじゅうりんするような犯罪捜査をなくし、そうして裁判は正しい裁判をする、こういう方向に持っていかなければならぬということを考えておるものでございます。  私どもの学問は、医学のうちで最も進歩していない、それから最も恵まれていない学問なのであります。どうか高田委員長は、一度一つ委員の方をお連れになって、東京大学の法医学教室を御覧になっていただきたい。一番きたない、一番こわれかかっているような教室をお探しになったならば、それが法医学教室でございます。この法医学教室というのは、もう御承知でもございましょうが、東大の法医学教室は、明治政府ができましたときに、明治天皇が——その当時は、日本は外国人を日本法律で裁くことができなかった、外国人は治外法権、それで、独立した以上は、日本は全く完全なる独立を得たい。そのためには、外国人といえども日本において行なった犯罪は、日本法律に従ってこれを裁きたい。こういう考えで、明治の先覚者は大へん努力をなさいまして、英米の公使と相談せられましたところ、英米の公使は、これほごもっともだ、独立国となっては、自分の国で行われた犯罪自分の国の法律で裁判するということは当然のことで、その御趣旨はよくわかる。しかしながら、われわれが安心してかかれるような法律日本にはないじゃないか。欧米の文明人でも従うことのできるような、りっぱな法律を作ることがまず先決問題であるということを申されました。なるほどそうであるというので、日本では、司法省の顧問をしておりましたボアソナード氏がフランスの法典にならって、初めて日本刑法の草案ができたということを承わっております。で、たまたま司法卿の大木喬任卿が明治天皇に謁見をいたしましたときに、明治天皇は、この草案をごらんになっていたものとみえまして、この草案の中には、裁判官不明なるときは医師をして鑑定せしむということが書いてあるが、日本で鑑定せしむるような医者があるのか。つまり裁判医学と申しますか、裁判医学というのは日本にあるのか。裁判医学を日本で教えておるのかという御下問があったのであります。大木司法卿は即答を避けまして、しばらく御猶予を願って帰って参りまして、自分の省で、皆に、日本では裁判医学というものを教えているのか、裁判医学をやっている人はあるのかということを聞きました。裁判医学なんて、そういうものは知りませんということです。それで、時の東京大学の総理を呼びまして、東京大学では裁判医学を教えておるのかというお話があって、で、総理は、医学部の学長を呼び出しまして、医学部の学長に、東京大学の医学部では裁判医学を教えておるのかと言うと、いいえ、教えておりません。こういうことで、それではいけないというので、さっそく裁判医学の専門家を養成するようにというお話がございまして、それで学校の方では、極力その専攻者を物色されたのであります。しかしながら、一人もその適任者がございません。たまたま片山国嘉先生が、小児科医になられるつもりでございましたが、生理学の教室で生理学を習っておりましたときに、生理学の教授のチーゲルという先生が、これは外国で裁判医学を習っておられましたので、司法裁判所及び警察の幹部の方を集めて、裁判医学の概要をお話したことがあるそうであります。そのときに片山先生は、これはドイツ語で話されるものですから、通弁に雇われまして、その通弁をしたのであります。それで、片山先生はチーゲル先生の法医学の通訳をしたことがあるから、これは一番適任であろうというので、呼んで話されましたが、片山先生は、いや、とてもそういうようなことはお引き受けできません。これは、法医学なら、法律も知らなければなりませんし、医学も知らなければなりませんから、そういうことはとてもできませんと言って、辞退をいたしました。そのうちに大木喬任卿は、司法卿から文部卿におかわりになりました。それで今度は、文部卿は自分の管轄でございますから、あの件はどうなったか、早く後任をきめろというお話がありましたけれども、その話はまだ進んでおりません。それで、片山という一人の候補者があるが、これはどうしても承知しませんということを申し上げましたら、大木卿は、それでは自分の所にその人を連れて来い、私から話すからということで、この司法卿の官宅にお伺いをいたしましたところが、明治天皇の御下問の一条を述べて、日本が独立する上においては、日本法律を置かなければならない。法律を設けることになった。外国人といえども日本法律に従うようになる場合には、ここに裁判医学をやっておる人がなければ、これの運営がいかないのだ。ぜひお前、私が命ずるのじゃなくて、頼むからやってくれ、こう司法卿が言われた。それではというので、法律の方は梅謙次郎先生、それからその他の日本の先覚の法律学者が指導することになりまして、それで、四年間オーストリアに留学された。そうして日本に帰って来て、この法医学をやったのであります。ところが、これはその当時、そういうことで、必要があって起りましたけれども、その後各大学におきましては、法医学講座というものは最もみじめな存在で、人員におきましても、その研究費におきましても足りませんので、その研究は十分であるとは申せないと思う現状でございます。それで私は、今日ここで、この委員会皆さんお願いしたいことは、ぜひ裁判の科学化ということをお願いしたいのであります。裁判の科学化が欠けておる。裁判の中にもう少し科学性を入れるということ、で、犯罪捜査ですね、ただ勘で捜査をするのではなくて、科学的に捜査し、それからまた、裁判も科学的にこれを判定するならば、この誤判は避けることができる。そしてまた、治安を守ることが今日よりも以上にできることが疑いないと信ずるものでございます。  かくのごとく、私は、自分の専門から、この死刑是非はさておきまして、その死刑の前の犯罪捜査と裁判が正当に合理的に行われるようになるように、この法務委員会におきましてお取り上げになって、こういう問題をもう少しく御研究していただきたい、こういうことをお願いする。法律上の問題は、私から何も申し上げませんけれども、結論を申し上げますと、私は死刑廃止賛成でございます。ただし、今日それを施行することが国民のために利益であるかどうだかということを十分にお考えになって、研究していただきたい、こういうことを申し上げたい。  はなはだ失礼なことを申し上げましたが、お許しを願います。
  49. 高田なほ子

    委員長高田なほ子君) どうもありがとうございました。   —————————————
  50. 高田なほ子

    委員長高田なほ子君) 医学博士、東大教授の吉益さんにお願いいたします。
  51. 吉益脩夫

    公述人(吉益脩夫君) 私は、ただいまの古畑先生、それから正木先生の驥尾に付しまして、犯罪学の研究をいたしております一学徒にすぎないものでございますが、今日公聴会に出まして、私の意見を申し述べさしていただきますことをまことに光栄とする次第でございます。死刑の問題は法律的問題、それから倫理的問題、また世界観の問題としまして、大へん重要でございますが、私は、主として自分経験いたしました犯罪学的事実に基きまして、死刑問題に対する私の見解を申し述べさしていただきます。なお、これと同時に、他の学者の重要な研究結果も参酌してみたいと存じます。法律的問題は、すでに法律家の先生方からほとんど御意見が出尽しておると存ずるのでございますが、形而下の問題、この方面の意見が比較的少いように存ずるのでございます。   〔委員長退席、理事宮城タマヨ君着席〕 それで私は、論述の資料といたしまして、死刑の判決を受けた者十五名と、それから無期刑の判決を受けた者百四十七名を個別的に審査いたしまして、そしてそれについて、ごく簡単に申し述べたいと存じます。  これらの人は、旧刑法によれば、ほとんどすべて死刑の判決を受けるような罪を犯した人でありまして、すなわち強盗殺人、それから強姦致死、尊属殺人、こういう罪名の人ばかりでございます。まずこれらの人々が、精神医学的に見ましてどんな種類の人々であるかということから申し上げます。もちろんこの中には、心神喪失で無罪になった者、それから心神耗弱者で十五年とか十二年とかという有期刑を課せられた人々は全然含まれていないのでございます。そういう者につきましては、今日は申し上げないことにいたしまして、ただ死刑と無期刑の判決を受けた人だけを見ました結果を申し上げます。これを両方の人々を一緒にいたしますと、百六十二名ございますが、これがどんな人たちかということをちょっと簡単に申します。  大まかに見てみますと、その中で精神——狭義の精神病というものが一〇%に足りないのであります。それから精神薄弱着というのが一四%ございます。それから精神病質、これは異状性格者でございまして、これはもう社会にたくさん生活しておるような種類の人でございますが、こういうのが七〇%、七側を占めておりまして、それから正常者——精神医学的に見ましてノーマルな人というのが一二%ございます。これから見ましても、こういう死刑や無期刑の判決を受ける人がみんな精神病者であるなんというようなことは当然言えないのであります。そうして、広い意味精神異常者や性格異常者というようなものを加えましても、みなそういう人じゃなくて、今申しましたように、ノーマルという人もむろんあるわけでございます。そしてこの精神病質と申しますと、精神病者のように見えますが、これは普通の言葉で申したら異常性格者でございまして、これが七割を占めておるのでございますが、これは法律的な意味では、特別な場合を除きましては、ほとんど完全責任能力者とされておりまして、これは問題にならないわけでございます。ただ、ここで問題になるのは、精神病者と、それから精神薄弱者、この両方でございます。これにつきまして、これから本論に入りまして、項目を分けて申し上げたいと存じます。  第一は、死刑の回復不可能に関しての問題を申し上げます。ここで裁判の誤判問題でございますが、これにつきましては、法律家の先生方からお話がございますので、私はこの問題には触れる資格がございませんが、ちょうどこれと並んで重要な問題がございまして、それは心神喪失者——刑法でいう心神喪失者と、それから心神耗弱者でございます。こういう人々死刑に処せられるところの危険がいかに大きいかということ、この問題を、私どものやっておる関係のあることでございますので、これを簡単に申し上げていきたいと存じます。私の見ました死刑の判決を受けた十五名のうち、精神薄弱者が一名、それから精神分裂症者が三名、それからろうあ者が一名ございます。責任能力の問題にならない人や、それからその中で、鑑定を受けまして、一審では死刑を宣告されたのでございますが、鑑定を受けた結果、今度控訴だとか上告、控訴院だとか大審院、あるいは最高裁判所、そこへ行きまして、そして今度無期刑に減刑された、無期刑になった、こういう人は除きまして、こういうものには触れないことにいたしまして、そしてそうじゃない、死刑の判決を受けた人につきまして、主なものを拾ってみたいと存じます。  第一は、このろうあの青年でございます。これは有名な事件でございまして、浜松の近くの農村におきまして、深夜数回にわたりまして七人を心臓を突きまして、むごたらしい殺し方をいたしました。それからその上数名の人に重軽傷を負わしたという大事件でございます。これが長い間犯人がわからず、地方の人々を戦慄させた事件でございます。ところが、犯人がわかってみますと、それは一人のろうあの青年だったということがわかりましたのでございます。その鑑定を内村教授と私とが共同鑑定を命ぜられまして、その結果を申し上げますと、この青年は、ろうあ学校へ入って手話法——手で交通する教育を受けました青年でございますが、これは学校では成績が首席でありまして、非常に頭のいい、ろうあの青年としては珍しい頭のいい青年であります。それでありますから、私どもは検査いたしまして、精神薄弱者でないことは申すまでもないことでございます。しかし教育の結果、口話法で教育されておりますと、善悪というような抽象的な概念を覚えるのでございますが、手話法でやっておりますので、善悪というような判断ができないような教育を受けておったのでございます。それで、私どもの鑑定の結果は心神耗弱といたしまして、そうして鑑定書を提出したのでございますが、裁判所は、この青年がそばで大きな声をすると声が聞こえるのでございます。それでありますから、これは難聴者である。なるほど全然聞えないわけではございません。ところが、難聴者ということで、死刑の宣告をされたのでございますが、このろうあ者というものは、ほとんど全然音が聞えないというものは半分もないのでございまして、この青年のようなものは、医学的に見ましても、それから通俗的な意味におきましても、これはろうあ者で間違いないのでございます。それを難聴者とされまして——もっとも私の同僚の耳鼻の先生が鑑定をされておるのでございますが、むろんろうあ者でもあるが、一方から見れば難聴者には違いない。ところが裁判所は、難聴者ということにされまして、そうしてこれに死刑を言い渡されたのでございます。これが控訴し、上告しましたら、とうとう棄却になりまして、刑場の露と化した哀れた事件でございます。これは私どもは、今なおこれは心神耗弱者で、そうして刑法で、ろうあ者は罰しないか、あるいは減刑するということがございまして、それに相当するものだと確信しておるのでございます。これは、おそらくその当時の地方の人々——村民の感情というものは、これを生かしておいたら地方の人が承知しないというようなことはむろんあったろうと思うのです。裁判のときも、弁当持ちで一ぱい押しかけてくるという状態でありました。それで、地方の人の感情、それから地方の、国民の一部分の見解としましては、死刑を望む人が多かったろうと思いますが、しかし、それはほとんど全体の国民感情とか、それから国民確信じゃないと私は存じておるのでございます。これがこういう心神耗弱者というものが処刑を受けたという一例でございます。  次に問題になりますのは、精神分裂病でございまして、これは重大問題でございます。一例をあげますと、ある犯人は、一審で尊属殺人としまして、死刑の宣告を受けたのでございます。それが控訴で尊属傷害致死となりまして、無期刑になったの、でございます。刑を受けた当時から犯罪を否認し続けておりましたのでございますが、私が刑務所でこれを見ておりますときには、まあ作業はずっと続けて作業をやっておりました。が、よく会って話しをしてみますと、この人は無罪妄想ですね。自分が無罪であるという妄想、それからほかにたくさん妄想を持っております。それでその妄想以外では、話をしてみると、一向変ったところはないものでありますから、それを専門外の方から見れば、著しい障害が認められなかったのでございます。ところが、これが数年たちまして、あるとき私が見ますと、そうすると、急に症状が悪化いたしまして、そうして全然刑の執行にたえないような状態に陥ってしまったのでございます。全くの廃人となってしまった。これなど、犯行当時に、もし私かだれかが鑑定いたしましたならば、すでに分裂病があるいは起っていたのではないかと想像されるのでございます。この犯人などは、前の生活を調べてみますと、前は非常な親孝行の人でありますが、それがむごたらしいことをして、母親を殺しておる。こういうところに、その人の元来の性格とこの犯行とが何かこう食い違った。これを裁判の判決理由書を読んでみますと、むろん筋が一応わかるわけでございますけれども、ただ犯行の筋道が一応通るということだけでは、その人間精神障害が全然ないという証拠にはならないと思います。これは大切なことでございますが、それで、まあそういう意味で、鑑定ということが必要になってくるわけでございますが、これなんかもそういう問題の一つでございます。  次には、ちょうど同様に、一審も二審も死刑の判決を受けておりますが、上告いたしまして、初めて無期になった人でありますが、これは殺人殺人未遂と、二つの犯罪で判決を受けた人であります。これがちょうど同じような精神分裂病者でございます。で、こういうのがしばしば見られるという例でございます。  それからもう一つは、これも尊属殺人の犯人でございますが、私がもう刑務所で見ましたときは、すでに二十年もたっておりまして、もうそのときは全く支離滅裂でありまして、すっかり痴呆状態になりはててしまった状態でございますので、それで、これが犯行時どうであったかということ、あるいはいつごろ、刑務所の中へ入ってからいつ精神分裂病が起ったかということも、これはもうすでにわからないのでございますが、これなども、もし犯行時は何ともなくても、とにかく殺人という、親を殺したあとに、精神分裂病という遺伝素質のゆえに起って参ります。こういう重篤な精神病が起ってきたということは、これはよほど考えなきゃならぬ問題であります。私は、尊属殺の犯人をたくさん見ておるのでございますが、今日は無期刑と死刑に限って申し上げますので、ちょっと今日の話しの外になりますが、殺人、ことに尊属殺の受刑者を見ますと、刑務所へ入ってきてからのちに精神分裂病が起って参りますのが非常に多いのでございます。これは、私はいずれ詳しく学会に報告したいと思っておるのでございますが、精神分裂病になるのが非常に多い。それで、これがまあ犯行時との関係が問題でございますけれども、犯行時何ともなかったとしましても、その後しばらくしてから、こういう重篤な精神病が起ってくるということは、よほど考えなきゃならぬ問題でございます。もしこういう人を死刑にしてしまえば、そののちに生きておったならば、しばらくして精神病が起ってくるということを知らずに片づけてしまうわけなんです。ここにも問題があると思います。  それから次の問題は、精神分裂病と言い切ることはできないけれども、非常に分裂病に近いような状態という精神病質者でございます。こういうのを分裂病質と言っておりますが、中には非常に分裂病に近い、そしてその鑑別のなかなかむずかしいものがございます。そういう状態のが、私の見ました死刑囚の中にも二人ある。これなんかはよほど詳しく調べぬことには、分裂病であるか、分裂病質であるかということの鑑別ができない状況であります。それからそういうものになりますと、ここで問題になりますのは、私ども鑑定いたしておりまして、これが今はどうも確定はできない。今はまあ精神病質の状態であって、精神分裂病とは言い切れないが、もう一年とか二年とか、あるいは数年したら、こういう人は、あるいは分裂病が起ってくるというように思われることがしばしばございます。こういう場合も、死刑にしてしまえば、それほそのままで結局わからなくなってしまう。  てんかんでもそうでございまして、てんかんの診断なんかでも、非常にむずかしいのがあるのでございますね。こういうのは、ごくまれなことを申し上げますので、いつもそういうのじゃございませんが、たまには非常にむずかしい場合がございます。そういう場合に、どちらかと言って迷っている間に、とうとうほんとうにてんかんの発作の、だれが見てもわかるようなてんかんの発作の起ってくるようなことがあるのです。しかしそういうのが起ってこない場合は、なかなか判定に苦しむというようなことがあるのでございます。  それからもう一つ、分裂病で非常に重要なことでございまして、犯罪精神医学で、最近ことにやかましく言われます問題は、前駆期の殺人、早い時期に前駆的に殺人行為で始まる。おかしくなってから殺人をするのじゃなくて、最初の出発が殺人であるという、こういう厄介な殺人がございます。そういうのが前駆期の殺人と申しまして、分裂病者の前駆期の殺人と申しまして、そういうのがたくさんの、先ほどお話申しましたように、大量の殺人をいたします。たくさんの人、何十人を殺すというのも中にはあると報告されているのでありますが、それから非常に社会を衝動するような行為をいたします。それが初めての精神分裂病の症状と、それから殺人とが一致しまして、そういう場合が非常にむずかしいんです。今まで大した変ったことがない。そういう人が、捜査官がいろいろ尋問をいたしますと、そういたしますと、いろいろもっともな犯行の動機を一応申し述べます。ところが、有名なウィルマンス教授が鑑定いたしました一例を申し上げますと、友だちと兄を殺しているのでありますが、初めはけんかして殺したというようなことを申します。その次は、今度は嫉妬からやったんだと申します。それからその次は、今度はやはり実はけんかしてやったのだと、何べんも何べんも申し立てが変るのでありますが、結局よく調べて見ますと、聞かれるから答えるのでありまして、本人にとっては、犯行の動機自分自身にも不可解である。それがほんとうの本人の精神状態であるということがわかった例でございますが、これなどは、初め前駆期の殺人でございますので、ほかにあまり目立つ症状がない。ところが、これが判決がありましてから三カ月たったところで、今度はりっぱな分裂病の症状が出て参りました。そうして、これは疑いもなく分裂病者ということがわかった例でございます。  こんなふうに、死刑をやる前に病気がはっきりしますとよろしゅうございますが、なかなかそうはいかない場合がございます。    〔理事宮城タマヨ君退席、委員長着席〕 そうすると、結局死刑にしてしまえば、わからずじまいであるということなんです。それから、私の見ました無期刑の中に、やはり精神分裂病者がだいぶたくさんございますが、その中でも、ここに十一名ございますが、これも、その中の二名だけは、はっきりとこれば心神耗弱になっておるのであります。そのあとは、犯行当時あまりはっきりしなかった。あるいは刑を受けてから精神分裂病の症状が現われてきた。これもはっきりしたことは言えませんですが、そういう例でございますが、そういうのは十一名ございます。そうしてここで初犯者と累犯者と分けてみますと、初犯者の方に多い。累犯者よりも初犯者の方にそれが多いのであります。それで、この回復不可能という問題に関係しましては、時間がございませんから、そのくらいにいたします。  次に、この死刑威嚇力というものを過信することができないという理由につきまして、少々申し述べさしていただきたいと思います。  死刑威嚇力がない理由といたしまして、死刑廃止論者から、しばしば殺人犯人が死刑を何とも思わないという例があげられておるのであります。これは、現代の精神医学から見ますと、こういう人々は、大てい精神分裂病者または性格異常者でございます。その数はあまり多いものではございません。私の見ました強盗殺人の一人の、これは精神分裂病者でございますが、これは無期刑の判決を受けましたあとで、死刑にして下さいと言って願い出た例でございます。こういう例ば外国にもございまして、有名なオーストリアの女王をスイスで暗殺しましたルイジールッチエシィという男がございますが、これがその典型的な例でございまして、スイスのゲンフ県の法律では死刑がないのであります。それでルーッエルンという県の法律に従って私を死刑にしてくれと言って、大統領に手紙を書き送っております。この犯人は懲役に処せられまして、それから監房内で非常に興奮いたしまして、そうして自害しております例でございます。  それから有名なのは、ガーフィールド大統領をワシントン駅頭で殺害したチャチールスキントーという有名な犯人がございますが、これは、二人の鑑定人がたしか精神異常ではない、こういうふうに鑑定いたしまして、処刑されてしまった例でございますが、これは、現代から見ますと、精神分裂病者と見られる例でございます。やはりこの犯人も、死刑の最後まで少しもおそれず、詩を口ずさみながら死んでいったのでございますが、こういう例はずいぶんございます。こういう人は死を何とも思わない。むしろ死を望んでいるわけであります。  それから、性格異常者にもこういうことがございまして、私の見ました一人の異常性格者は、前の刑務所で知り合いになった共犯者と相談いたしまして、どうせ毒食えば皿までと決意しまして、死を決意しまして、そうして恩人を殺して、金を奪うつもりでありましたが、偶然被害者が蘇生したために、強盗殺人未遂罪で、無期刑になったのでございますが、その人の犯行は非常に残忍性を持っておりまして、そうして刑務所へ入ってからも、悔悟の情なんていうものは少しも認められない。こういう犯人でございます。彼もまた死刑を望んでおりまして、刑を受けてからも、作業に絶対に服従せず、そうして幾ら重屏禁の懲罰を受けましても動ぜず、そうして従容として、頑強に抵抗し続けたのでございますが、こういう無情な人というものは、犯罪者の中にもきわめてまれな例でございます。それから外国で有名な、大量殺人者で有名なハリッツハールマンというものがございまして、これは性欲異常者で、同時に性格異常者でございます。これは、二十七件の殺人をいたしましたのでありますが、彼は非常に虚栄心が強くて、私がこんな多くの人を殺さなかったら、これほど有名にはならなかっただろうと、こう豪語いたしまして、最後まで落ちつき払って、少しの動揺も見せなかったのでございます。これは死刑にされてしまったのですが、これなども、死をおそれない有名な例でございます。  今申し上げましたように、精神分裂病者または性格異常者は、私の方の経験では、大体そういう人々であります。これに反しまして、多くの犯罪者は、逮捕されてから後は死刑をおそれて、何とかして免れたいというのが普通でございますが、しかし、それは犯行後のことでありまして、犯行前におきましては、死刑というものは、彼らにとりましては、ばるか遠い所に、離れた所にありまして、現在の犯人の意識の中では、もっぱら犯罪の対象というものによって彼らの意識は占められでおるのであります。それで、こういう人々がおそれるものは、それはおそれるものがあるとすれば、それは犯罪の発見されることでございます。これはもう、直接犯人と会いまして、たくさんの人々を見ておりますと、共通なところがございます。そうして、私の資料では、窃盗や詐欺や、それから強盗や、強姦が発見されないようにするために、人を殺したというのが非常に多いのでございますが、もし死刑というものが念頭にあったならば、こんなばかなことはするものではございません。彼らは大てい、これはまさか発見されないだろう、そう考えておるのでございまして、ただ漠然とそう信じておるのでありますが、そう考えさせる大きな原因は何かと申しますと、事件が発見されずにいるということでございます。それで刑事学者によりましては、この発見されない事件が驚くべき大きな数であると、こういうふうに推定いたしております。日本でこれがどれだけかということは、私どもも実はわからないのでございますが、それからまた、事件は発見されて発祥したということはわかるのでございますが、犯人が逮捕されないという、いわゆる迷宮事件でございますが、これだけでも一割に近くあるといたしますと、それは、犯人にとりましては一つの大きな魅力になるわけでございます。なお刑務所では、受刑者が役人のすきを見まして、いろいろ犯罪の手柄話をいたしますが、そういうときに、事実よりも幾倍にも誇張いたしまして、そうして話し合う。それがまた、大きな刺激になるばかりでなくて、さらに発見されないという犯人の安定感を一そう強めるのでございます。それで、ここで重要なことは、結局こういう発見されない事件というものをできるだけ少くするということが、これが一番大事なことでございまして、これを半分にすれば、この死刑というような刑を課することよりも、どれだけ効果があるかということは一般に言われておる事柄でございます。  それから第三は、改善可能の難易——改善可能のむずかしいやすいということは、犯罪の重さと並行しないということ、これを少し申し上げたいと存じます。教育者がすべて人間は改善可能である、こういうふうに言われるのでございますが、これは理想論でありまして、もちろん教育者としては、このような心がまえのもとに努力されなければならないのでございますが、犯罪生物学におきましては現実の問題をとらえますので、犯罪者が釈放されるときに再び犯罪を犯すだろうと判断した場合には改善不能、こう呼んでおる。それでありますから、どんなことをやっても改善されないという意味じゃございませんで、現在釈放されるときに改善されていないという実際的な立場の判定でございます。ドイツの有名なバイエルンの犯罪生物学研究所での調査によりますと、そういう意味の改善不能者というものの率を出しておりますが、ここでは財産犯が一番改善不能者が多い。財産犯におきましては、大体五〇%が改善不能者、こういうふうに言っております。今のような意味の改善不能者、これに反しまして、暴行犯では九・八%、改善不能者の率が財産犯よりもはるかに少い。それから風俗犯人におきましては二〇%、こういうふうに見ておるのでございまして、それで重い犯罪をやったから改善不能だ、よけい改善ができないというのではなくて、今申しましたように、財産犯の方がむしろ改善不能者が多いという結果が出ておるのであります。それから不良凶悪囚を見ておりますと、いわゆる不良凶悪囚というのは、改善の困難な不良囚の中には、殺人で無期を言い渡されたというのはその中には二人しかいない。あとは窃盗だとか、ほかの傷害とか、それから強姦とか、そういうような犯罪で、重い刑を課せられていないのでございますけれども、改善不能という立場から申しますと、これは非常にむずかしい——改善の困難な者なのであります。それからまた、有名な例をあげてみますと、ウルジーヌスという有名な毒殺婦がございます。これなんかば、釈放されましてからのち、慈善事業に一生を捧げまして、七十四才で死んだという例がございます。で、重い犯罪をやったから改善ができないということは決して言えない。それで私どもが見ておりますと、結果ばかりでは判定できなくて、偶然なことで強盗殺人未遂になりますと、罪が軽いのでございますが、その中には、死刑囚と危険性におきましては同じような者を幾らも私ども見ておる。それで、現われたものだけからで危険性を判断するということはできない。  それから死刑社会的淘汰でございますが、死刑の起源を見てみますと、応報とか復讐という意味と、それから  一般予防という意味のほかに、最初には、血族、共同体の中から有害な人間を排除するという社会的淘汰の意味があったのでございます。それが中世期になりましてから、一そう残酷な死刑というものが現われてきまして、ことに復讐とか一般予防と結びついて、非常に残酷になってきておりますが、一つの目的は、そういう有害者を排除するということであります。ところが、民族の素質を健康化するために、そういう好ましくない人間を排除するということでありましたら、これは今日のように、死刑がもうすでにごくわずかな数になっております場合には、もうとてもそういう目的は達せられないのでありまして、これは、文化国家におきましては、優生法というようなものに頼るよりほかに道はないと存じます。  そうして最後に、それでは死刑廃止すればそれで済むかと申しますと、私どもは、死刑廃止と同時にやっていただきたいことがございます。これが私どもの一つの条件でございまして、死刑廃止賛成であると同時に、一つぜひこれをやっていただきたい。それは、犯罪の真の原因を突きとめて、そうして犯罪の予防を講ずる、これは申すまでもないことでございますが、このほかに、仮釈放というものの規定をもっと改善していただいて、そうしてこの審査を科学的に——今より一そう科学的にしていただくということ、これが非常に大切だろうと思います。私ども見ておりますと、非常に危険な累犯者というものがございます。ただ危険だからといって、それを長く置くことはむろんできませんし、やはり何か犯罪と、客観的な事実に結びつけなければ人権じゅうりんになるのでございますが、犯罪を反復しておるという事実、そうして同時に危険性を持っておる、こういうのは社会にとりまして一番不安のもとになるのでございまして、こういう人は、直るまで社会にこういう人を出さないということ、それを十分やることは、これは死刑廃止と同時に非常に必要なことでありまして、そうしなければ社会が安心できない、こう思うのでございます。そうして、そういう仮釈放の規定を改良していただく。それから同時に、危険な累犯者に対する保安の方法を確立していただきたい。これが私どもの死刑廃止と同時にお願いしたい希望でございます。  で、この死刑につきまして、私ども精神医学をやっております者といたしましては、今まで死刑に対して私どもいろいろ経験しておりますのでございますが、死刑に対する見解を発表するという機会がございませんで、今度ちょうど私の方の当番で、この十九日に関東の精神神経学会を開くことになっておるのでございますが、今度、死刑の問題を中心としまして、シンポジウムをやりまして、いろいろ人々意見を徴することになっておるのでありますが、今日はここで、ただその一端を申し述べまして、御批判を願いたいと存ずる次第でございます。
  52. 高田なほ子

    委員長高田なほ子君) ありがとうざいました。   —————————————
  53. 高田なほ子

    委員長高田なほ子君) 次に、奈良少年刑務所長の玉井策郎さんにお願いをいたします。
  54. 一松定吉

    ○一松定吉君 ちょっと私、御講演をなさる方にお願いがあります。まず結論を出していただきたい。死刑廃止には賛成、反対と、それから何ゆえに賛成であるか、何ゆえに反対であるかというように、それを説明していただくと、われわれ非常によくわかりますから、どうかそういうように御講演を願いたい。
  55. 玉井策郎

    公述人(玉井策郎君) 私は、二十八年間の刑務官生活と、その間に六カ年間の間の死刑確定者のめんどうを見さしていただいた経験から、死刑廃止賛成するものであります。  この理由について、一応しばらく話してみたいと思いますが、これは、あくまでも私個人の考えであるということを御了承願いたいと思います。  刑務官すなわち矯正職員の任務は、受刑者を矯正して、善良なる国民の一人として、この社会に復帰させることであります。従って私たちは、私たちの職責を遂行するに当はて、常に私たちは教育者であると自負し、誇りを持って私たちの仕事に精励しているのであります。と同時に、受刑者に対しても、その心構えをもって常に接しておるものであります。ところが、この死刑確定者、いわゆる極刑者に対しては、この尊い教育者としての使命は通用いたしません。人の生命を奪って何の教育でありましょう。教育と死刑、この二つの相反する現実に直面する私は、その大きな矛盾に悩んできたものであります。死刑という刑罰が存在する限り、そしてその執行を私たち矯正職員が行わなければならない限り、私は方便的に任務を遂行するのであって、そこに教育としての良心は片鱗をも示すことはできない。人殺しとみずからあざけっておるものであります。この点から考えても、私は当然死刑廃止してほしい。そして、もし直ちに廃止することができないとするならば、さしずめ死刑執行は矯正職員にやらせることだけは、せめて直ちにやめさしてもらいたいということを懇望するものであります。(拍手)これは、私が過去六カ年間大阪拘置所長として、数多くの死刑確定者と接し、彼らの死刑執行に立ち会ってきた経験から結論づけられたものであります。  前にも話したように、私は昭和四年にこの刑務官を拝命しました。昭和二十四年から昨年まで、まあ六カ年大阪拘置所長として勤務しました。その間に、四十六人の人の死刑執行をして参りました。言葉をかえて申しますというと、いかに法律という定めによって、この手続によって執行するとはいえ、四十六人の人々を私は殺してきたものであります。死刑人間人間の生命を剥奪することであって、これほど血なまぐさい残虐な刑罰はありません。憲法にも規定してあるように、公務員によるところの拷問及び残虐な刑罰は絶対に禁じている。でもある一のに、私はこの残虐な刑罰執行し、目撃せねばならないのであります。個人的には何の恨みもないその人間人間が殺す、その不法の瞬間を私思い知らされてきたのであります。凶悪な犯罪は、もちろん天人ともに許されるところではありません。ただ、目の前に起った犯罪の事実だけでそれを見て、その人間が生れつき野獣性のある人間だと断定して、絶対に真人間にはなれない極悪非道な悪人だときめてしまっていいのでしょうか。私が六カ年間に接してきた、そうして送った四十六人の人々は、やはりその性は善でありました。人間としての美点も持っておりました。いな、かえって自分の犯した大きな罪に対して反省ができてからの彼らは、むしろ私たちよりも、その心の持ち方ははるかにすぐれておったのであります。そんな気持になった彼らをも殺さなければならない。何が何でも、人を殺した以上、その人を殺してやるぞというような応報的な考え方、目には目、歯には歯をというようなかたき討ち的な考え方の中に、どこに教育的な要素が見出せましょう。私たちが刑罰執行の場としての刑務所での受刑者に対する考え方、すなわち教育的な行刑理念とは、これは根本的に合致しておりません。最初に申しましたように、私たち矯正職員は、刑の執行と同時に、受刑者を更生させて、社会に復帰させるという大使命、これをもって彼らに彼らの間違った考え方、行為を反省させて、これを善導し、教育して、再び社会のりっぱな一員として世の中に送り出すことに懸命の努力をしているのであります。彼らを矯正して、一日も早く刑務所の門から社会に送り出すことに、ほんとうの生きがいを感じているものであります。この喜び、この感激を踏みにじるものが死刑の存在であります。何としても死刑廃止しなければなりません。このように苦しみ悩みながら、私は法と義務、人情と道徳のジレンマに陥り、その苦しみ悩みをごまかすために、法律の定める手続によっているのであるからとか、公共の福祉に反する場合はとか、火あぶりやはりつけと異なって、現在の執行方法は普通各国で行われている方法であって、さほど残虐ではないんだなどと自己弁護をして、彼らに接する場合には親切に、そうしてその執行後の死体は丁重に埋葬してやるというようなことによって、みずからを慰める方法を見出し、辛うじて自己満足的な理論の裏付けをしようとして苦しんできたのであります。どんなにしかしごまかしてみても、人間人間を殺すということは残虐であります。これ以上の残虐はないと思います。もちろん自分は現在死にたくない、死の恐怖におびえている彼らは喜んで死ねる境地、この境地は実際に本物かどうか、あるいは私だけの自慰かもしれません。この境地にまで持っていき、絞首台に立ったとき、安心立命して往生させようと、文字通り懸命の努力はして参りました。しかし、それでもなおかつ死刑執行が残虐であるという事実は否定できません。私は、死刑執行のつど、このように考えました。日夜多くの職員あるいは教誨師その他の関係の方々の努力によって、こんなにまでりっぱな人間にしてやったのに、もし社会がこの人に何かを求めようとするならば、普通の人以上にその期待に沿える人間にまでなった。この成長した人を、それなのに、何ゆえに今になって彼らを殺さなければならないかという疑問、死刑を存続させるという考え方は応報刑罰にほかなりません。従って、教育刑を信奉する刑務官としての私は、死刑廃止すべきであると結論し、現在の死刑に該当する犯罪者に対して、もっと合理的な、かつ、もっと効果的な制度があるのではなかろうかと思うのであります。不定期刑制度等もその一つではなかろうかと思います。  死刑廃止根拠は種々ありますが、矯正職員である私の立場から以上を論じ、死刑廃止賛成するものであります。(拍手)
  56. 高田なほ子

    委員長高田なほ子君) ありがとうございました。   —————————————
  57. 高田なほ子

    委員長高田なほ子君) 弁護士の島田武夫さんにお願いいたします。
  58. 島田武夫

    公述人(島田武夫君) このたび、参議院で死刑廃止法案発議されて、死刑の可否について国民意見を徴せられようということに相なりましたことは、まことに有益なことで、発議された議員各位に対して敬意を表するものであります。  私は弁護士をやっておりまして、死刑囚もかなり扱った経験があるのでありますが、学問的に死刑というものを特に研究したことはないのでありまして、午前中公述されました正木先生、木村先生などの御意見をときどき伺って。私の身につけておる次第であります。なお、参議院のこの法務委員会委員各位におかせられましては、すでに十分御研究になり、私が申し上げることは、すでに陳腐に属するものであるかもわかりません。また、今まですでにお述べになった方もあるかと存じますが、私は死刑廃止に反対する意見を申し上げたいと思うのであります。まだ私の意見も未熟でありますが、弁護士会でときどき弁護士諸君の意見を聞きましても、死刑廃止反対の意見の人が多いようであります。それに私の意見をつけ加えて申し上げる次第であります。  申すまでもなく、刑罰は犯人の責任に適応して課せられるものであります。責任に適応する刑罰は、これは応報刑であります。責任に対する応報刑を主張する学説は、これを責任刑法といっておりますが、責任に応報する刑罰を課するということは、現代人の信仰であり、先天的な思想であると思うのであります。責任と刑罰とが均衡を保つことが正義であります。しかし、この応報ということは、先ほどもお述べになったように、復讐という意味ではないので、責任の限度という意味でありまして、これは、前世紀の応報刑と今日の応報刑というのは、全然法律根拠を異にしておる、内容が違ったものになっておるのであります。しかし、犯人の責任が明らかになったからといって、直ちに責任に応ずる刑罰が発見されるわけのものではないのでありまして、応報という抽象的な言葉には、刑罰の種類、内容というものは入っておらぬのであります。この点がその責任刑法という立場における一つの欠点と言われておるのであります。責任刑法と対立するのは、危険性刑法と言われておりますが、この危険性というのは、将来侵害行為が予想されることであります。それで、この派の主張者たちの言われるところによりますと、犯人の危険性は、もっぱら自然科学によって定められるのであって、犯人の責任の有無ということには関係がない、こういうふうに言っておられるのであります。従って、危険性に対する応報というようなものは全然意味をなさない。危険性刑法刑罰は、共同利益の保護を目的とする保護刑、または犯人の改善を目的とする教育刑ということに相なるのであります。最近わが国における死刑廃止論も、主としてこの危険性刑法の立場から論ぜられておるようであります。午前中お話しになりました木村先生、正木先生、それから羽仁委員、これらの方はいずれも危険性刑法の立場から、または人道主義の立場から、保護刑あるいは教育刑の傾向を強く打ち出されておるように見受けるのであります。死刑廃止の主張のうち、最も私有力な主張と思うのは、死刑は犯人を改善する作用を営まないという点ではないかと思うのであります。この派の人たちの主張によりますと、先ほどもおっしゃたのでありますが、刑罰は復讐であってはならぬのであって、犯人を改善して、善良な国民に立ち直らせるというものでなければならぬ。しかるに、死刑は犯人を殺してしまうのであるから、これを教育して改善する余地がない、このような改善の余地がない刑罰は、刑罰としての意味がないのである。死刑はこれを不定期刑あるいは無期刑をもってかえるべきである、こういう主張であります。しかし、犯人の改善ということは、先ほど吉益先生がお話しになりましたように、現在の文化の程度におきましては、努力の目標であって、到達した結果ではないと私は思うのであります。すべての受刑者は、刑期が終ったときにことごとく改善されておるかどうか、必ずしもこれは保証しがたいのではないか。ことに刑を終ったときの状態で、改善がされたかされないかということをきめるのであってみれば、その後にまた同じことを繰り返すというようなことがあるのもまた当然な結果だと考えるのであります。前科七犯、八犯ないし十犯以上というような犯人のおることは、改善刑に全幅の信をおきがたいということを証明するものではないかと思うのであります。改善は不可能ではないと思いますが、必ず改善されるということは言えない。そこで、非常に悪質な犯人で改善の見込みのない者、こういう者もおるわけである。それが青年であったら改善可能だという説もありまして、木村先生など、そういうことを言っておられるのでありますが、それにしても、改善不能とされる者に対しては、改善刑、教育刑ということは、これは徒事ではないかと考えるのであります。で、この派の主張者は、改善不能の凶悪犯人は無期刑に処すればよいのであって、必ずしも死刑に処する必要はないと、こういうふうに言われるのであります。社会防衛という立場から見れば、もっともな主張であります。しかし刑罰には、犯人の道徳的責任を問うという一面があるのであって、責任を切り離した刑罰は、特別予防も一般予防も期待できないのではないかと思うのであります。国民法律的道徳的な概念が死刑を要求する場合には、死刑を認めることはまことにやむを得ないことだと思うのであります。また、この派の主張によりますと、犯罪を自然現象と見ておるのであります。たとえば雷が落ちるとか、あるいは悪疫がはやるとか、あるいは狂犬にかまれるというのと、犯罪行為を同格に見ておる傾きがあるのであります。最近「死刑」という本を著わされた正木先生のこの書物の中を見ますると、犯罪というものは、刑罰の有無にかかわらず、もっと深刻な面、たとえば衣食住、恋愛、怨恨、酒、貧困等によって、窮したあげくの果ての自然現象であるということを忘れてはならない、これを忘れて、あるいはそれらを考慮することなしに、きつい刑罰を設けさえすれば犯罪が防げると考えることは、為政家の無知であり、責任の逃避であると言われておるのであります。このように、犯罪を自然現象と見るときに、犯人の責任を問うということはできなくなるのではないかと思う。狂犬や、あるいは雷に刑罰を課することができないと同じことであります。しかし、われわれはいかに貧困の果てであっても、人を殺して、殺さなくても済まされることを知りつつ人を殺した場合には、それは単なる自然現象ではなく、人間の責任ある行為である。みずからその結果について全責任を負わねばならぬものである。これは、精神の正常なるわれわれにとっては、普遍妥当的な結論ではなかろうかと私は考えるのであります。なお正木先生は、この「死刑」という本の中で、今日の日本死刑制度について見よう。その多くは強盗殺人が絞首台上にのぼされる、一、二を除いては、その多くが生活に窮して、その日のかゆにもありつけない妻を持ち子供を持っている。強盗殺人の、しかも断頭台の露と消えた夫の妻、その子に対して、世の中が一片の同情を与えるであろうか、政府は、これらの者に対してどれほどの救助の手を差し伸ばしているであろう。窮境に立たされた死刑囚の妻子たちの落ち行くところは自殺にあらざれば犯罪のみである。こういうふうに言っておられるのであります。これによると、死刑囚にはみんな妻子があるように感ぜられるのでありますが、私が昭和二十四年の一月から昭和二十五年の九月まで、一年九カ月間に確定した死刑判決の受刑者を見ますると、九十二人おりますが、その九十二人のうち、妻のある人が九人、妻と子と両方ある者が十四人で、残りの六十九人は妻も子もない人であります。総数の四分の一が妻子ある者である。この少数の妻子ある者について、遺家族の問題が論ぜられる余地があると思うのであります。死刑囚の遺家族が生活難に悩まされるということは、これは実に同情すべき事柄であります。これは、世の中の誰でもが同情すると思うのであります。しかし、よく考えてみると、このことは、死刑囚に限られたことではないのであって、無期刑囚の家族も同じように困窮する者がいると思う。また七年、八年、十年というような長期の自由刑に処せられて、獄中生活をする者の家族も同じように困窮するであろうと思う。境遇と環境によっては、二年、三年の自由刑の家族でも、これに劣らぬ困苦に陥る者があるであろうと思うのであります。家族が困窮するのは、すべての受刑者の家族に共通なものではなかろうかと思う。私は、すべての受刑者の運命を悲しむ。その家族に限りない同情を寄せるものであります。しかし、かように家族を困窮に陥れることは、犯罪の当時に予想されることではなかろうか。それにもかかわらず、これを顧みず、犯行をあえてした殺人犯人の責任は重いといわねばならないのであります。殺人犯人や被害者の遺家族に対する社会補償ということも、これも考えてよいことでありますが、それがために、かえって殺人犯人の遺家族について社会補償があるから、安心して人殺しをするというのでは、これは将来に残された重大な問題だと思うのであります。これも対策を講じなければならない問題でありますが、非常にむずかしい問題だと思うのであります。羽仁さんの死刑についての論文の中に、これは午前中にも御議論があったようでありますが、死刑は、裁判に誤判があった場合に、受刑者に対して償いのできない災難を与えるということをご論じになっておる。正木先生の「死刑」という本の中にも、このことが多くの先輩の意見を並べて論じておられたのであります。まことに、誤った死刑を宣告して、その判決が確定して、執行されるということになりましたならば、これこそ取り返しのつかない重大な結果になるのであります。死刑、死者は再び帰ってきませんし、これが償いは不可能であります。で、かような危険な刑罰は、すべからく廃止すべしという意見には、傾聴に値するものがあるのであります。しかし、午前中にも問題になっておりましたように、私、日本において死刑執行された人で、誤判であったということがわかった例をまだ聞かないのであります。第一審で死刑の判決があったが、第二審で無罪になった被告人の弁護をしたことがあります。また、一審で死刑になったが、二審で無期懲役になった人の弁護をしたことがありますが、死刑執行を受けた者で、誤判であったことがわかったというような例を、私は未だかつて日本における例を聞かないのであります。従って、誤判があるから死刑廃止せねばならないという主張は、あるいは将来あるかもしれないという危険はあるかもしれませんが、日本においてはあまり強い響きを持たないのではないかと私は考えるのであります。  それから、死刑廃止論者であるドイツのリップマン教授の説によりますと、死刑廃止社会保全に対して危険をもたらすことにはならない。従って、死刑の持つ一般予防的効果を信ずることは、単に感情的に受け継がれた迷信でしかないと言っておられる。わが国においても、同じような説を説いておられる方が少くないのであります。しかし、死刑に当る犯罪が増加しなかったという事実をとらえて、死刑社会保全的作用が皆無であると即断することはどうかと思うのであります。犯罪現象は、ひとり刑罰だけの威力によって抑圧できるものではないのであって、その他の経済的、政治的、教育的、また宗教的働きと相待って、犯罪防止の作用を営んでおると思うのであります。従って、これらの諸条件が死刑廃止の前後を通じて全然同じであった場合においてのみ、死刑威嚇力を否定することができるだろうと思う。ただ単に、死刑を課せられる犯罪の年次表だけをもって事の真相を知ることはできないと思う。もし死刑に何ら威嚇力がないのであれば、アメリカのある州あるいはイタリア、ソ連、また古畑先生が先ほど述べられたように、ニュージーランド等におきまして、一たん廃止した死刑を再びこれを採用するということは、どういうわけのものであるか、私、その理由をつまびらかにしないのであります。統計の示すところによりますれば、わが国では犯人は年々ふえておるのであります。昭和二十二年に千五百十六人の有罪者がありましたが、二十九年には二千六百九十九人にふえております。そして死刑の宣告を受けた者は、年々減少しておって、昭和二十二年に百十六人死刑の宣告を受けたのが、昭和二十九年には二十人に減っておるのであります。これは死刑に威力がない論拠にもなりますが、また死刑はあまり課しないから、殺人犯人がふえたのだという論拠にもなろうかと思います。  なお遺憾なことには、身体に対する罪が終戦以来激増しております。昭和二十二年に暴行事件は二百七件であったのに、昭和二十七年には百十倍の二万二千六百五十六件にふえております。また傷害事件は昭和二十年に四百五十件であったのに、昭和二十七年には百倍の四万八千三百九十六件にふえておるのであります。日本人ほど生命身体に無とんちゃくな国民はないのではないかと私はいぶかるのであります。これらの数字から見まして、殺人犯が今後減少する傾向にあるとは考えられない。傷害罪と殺人というのは紙一重であります。本人の弁解いかんによって、殺人にもなり傷害にもなる事件であります。まことに両者の区別は微妙なのであります。あの自動車強盗が簡単に運転手を殺しておる事件や、若い人がけんかをし、強盗をして、強姦をして、あっさり人を殺している事実を何と見たらいいでありましょう。銀座のまん中で殺人がしばしば行われる、昭和三十一年一月二十七日の読売新聞には、神奈川県の主婦のM子という人が投書したのが載っかっておりますが、それによると夫を勤めに送り子供を学校に出して、たった一人家庭を守っておる主婦は全国にあまたあると思う。私もその一人だが、銀座の殺人事件の記事を読みながらふと恐怖に襲われた。そこで今後このような事件を防止するために、殺人犯死刑という極刑で強く臨んでもらいたい云々と、るる述べております。これは日本の婦人の持つ共通な意識ではないかと私は想像するのであります。  私はせっかくお招きをこうむりましたので、幾らか参考になる資料をと思いまして、八十件ばかりの判決書を、これは死刑と無期に当る裁判書でありますが、八十件ばかりのものを読んだのであります。まあ一々お話すると長いことになり、また有益でもないのでありますが、まあいろいろなのがありますが、その一つを拾ってみますと、こういうのがありました。  被告人山田作一、年二十才は昭和二十三年末ごろおばの家を飛び出し、北海道の小樽市内を放浪しているうちに所持金を費消し、かねて一、二回立ち寄ったことのある山下富三郎方で、同富三郎は未復員、まだ復員しないで、同人の妻山下クニエら女子供だけで留守をしていることを思い出して、家人を殺害して金品を強取しようと考え、刃渡り四寸の匕首、及び懐中電燈を携えて、昭和二十三年四月二日午後十一時ごろ、覆面をして同家表入口をこじあけて屋内に侵入し、物音に起き出たクニエが誰何するや、同家土間にあった俗にバリと称する長さ一尺余の金具を携えて茶の間にかけ上り、クニエの頭を数回殴打したので、クニエは一たん倒れたが辛うじて百円札四枚を出して、これで帰って下さいと哀願するのを、なおもバリで同女の頭部を殴打し、さらにクニエが奥の間から衣類を出して、これで帰って下さいと頼むのにもかかわらず、ヒ首で同女の胸部を三回突き刺し、物音に眼をさました長男和義、九才、次男、和美六才を見て、同人らを殺害せんと決意し、バリで両人の頭部を乱打し、ついに右三名を間もなく死亡せしめて、屋内を物色して金品を強取した、こういうのがある。これなんかというのは、全く遊興の資を取るために、夫の帰りを、子供二人を養育しながら貞節を守っている婦人を、残酷な仕打でもって殺すということは、まことに残酷なことだと私は思うのです。  なおこういう例はたくさんありますが、もう一つ上げさしていただきたいのでありますが、これは熊本県の事件で、まだ経済統制の時代で、砂糖を作る所が熊本県にある、その砂糖を買ってきて熊本市で売ると高く売れるというので、斎藤守という二十二年の青年ですが、これが知っている女の人のところへ行って、この女は橋本ミヨ子と言っておりますが、一緒に砂糖を買出しに行こう、一万円ぐらい金を持って、砂糖の買出しに行こうという約束をした。ところがこの斎藤という犯人は、その女が持っている一万円を途中で取ろうという考えでありますから、匕首を胴巻の中に入れて、自分は金を持たずに、二人で自転車に乗って出掛けたわけであります。そうして山道の下り坂にかかったときに、自転車を下りて、二人が休息して、そうしてハンドバックの中に、この女が一万円を入れていることを見届けた上、情交を迫った。女はやむなくこの情交に応じたわけであります。そうして山の中であおのけに寝たときに、この犯人は隠し持った匕首でもって、左の胸を力強く突き刺した。それで女はおどろいて逃げ迷うのを、追いすがってところきらわず突き刺した。イモ畑に昏倒するや、胸の急所を数カ所切りつけ、突き刺し、そうして昏倒しているその女に、頭の大きさの石を二尺の高さに持ち上げて、二、三回上から頭の上へ落して、頭の打骨を生ぜしめて、ついにその女は死んでしまい、犯人は休んだ所に置いてあるハンドバックから、一万八百円の金を奪って逃げた。これが背中、胸部、頸部等二十一カ所の刺傷を受けているのであります。それから頭に三個の挫傷を受けている。その写真は二度と見れないほど酸鼻をきわめたものであります。死刑はなるほど残酷であるが、その犯人が人を殺す行為がそれ以上に残酷なものであるということを私は思うたのであります。  私は三味線の音を聞くと遊興を連想します。散財することを連想します。日本刀を見ると殺人を私は連想する。これと同じように、殺人犯人は殺人を企てようとするときに死刑を連想しないものでありましょうか。私は殺人犯人は死刑の潜在意識を有するであろうと思う。死刑を連想すれば、あとに残る妻子の困苦に思い至らないはずはないのであります。吉益先生がおっしゃったように、精神病者であればこれはやむを得ませんが、これが正確に判断できる者としますれば、正常な精神の持ち主であれば、その結果いかんということは当然連想することと私は思います。死刑の制度があるということは、死刑を防止する心理作用を営ましめる契機になるのではないかと私は思うのであります。また他面、死刑一般人に安堵感を与え、安心感を与える。現在のような社会状態においては、死刑がなかったら多くの人は安心して生きていけないと思うのが現実ではないでしょうか。私はこのような理由で、わが国の状態におきましてはなお死刑は必要であり、今直ちに死刑廃止することはできないと思わざるを得ないのであります。しかし私は死刑が行われていることを決して名誉とする者ではありません。私は死刑が行われていることを不名誉と感ずる前に、人殺しの罪が行われおることを一そう不名誉に思います。生命は尊貴であり全地球よりも重い。この重い尊い生命を私利、私怨の犠牲にされてはならないのであります。われわれは死刑をなくする前に、殺人罪をなくすることに努めなければならんと思う。それがためにはあらゆる人知を動員して、あらゆる手段を講ぜねばならないでありましょう。死刑もまたその一つの手段であります。殺人罪の増加するのを放任して、死刑だけなくするのでは何もならないのではないか。われわれは死刑がないということよりも、殺人罪がないということをもってより誇りと感じます。統計によると、死刑囚の多くは、尋常小学校中途退学または卒業程度の者が多く、中学校卒業以上の者はきわめて少いのであります。これによって見ましても、教養と犯罪とが重大な関係を持っていることが知られる。教育者は子供の道徳的情操を練磨することに重きを置かなければならんと思います。物質文明だけが二十世紀で、精神文明が前世紀のままであってはならないのであります。また死刑囚の中には、早く両親に離れて父母の慈愛を知らない者や、貧困でどん底生活をしている者もおります。かような不幸な人たちに対して、社会保障の制度をしくほかお互いにあたたかい同情をもって救援の手を差し伸べねばなりません。かようにして今年よりも明年、明年よりも明後年には殺人犯人が減少し、死刑の制度は漸次無用になっていく経過をたどるようにいたしたいのであります。そうなれば死刑は必要はありません。この意味においては私もまた死刑廃止論者であります。  はなはだ蕪雑なお話を申し上げまして、御清聴をけがしたことを陳謝いたします。(拍手)
  59. 高田なほ子

    委員長高田なほ子君) どうもありがとうございました。   —————————————
  60. 高田なほ子

    委員長高田なほ子君) 最後に北海道苫前郡初山別村初浦小学校長森戸志作さんにお願いいたします。
  61. 森戸じん作

    公述人森戸じん作君) 私は北海道の一小学校長でございますが、このたび職域より抽出されまして、この重大至厳なる立法の前に発言の機をお与えいただきましたことを生涯の光栄と存じますとともに、この大英断を敢行されました高田委員長並びに各法務委員の方々に深く敬意を表するものであります。  昨日来より幾多法曹界諸賢のあとを受けまして、私のごとき門外漢は御参考にもならんかともちゅうちょいたしますのですが、一応選ばれた民衆の声といたしまして二、三庶幾することを申し上げ他山の石ともなれば望蜀と存じます。  結論から申し上げますと、私はまだ死刑廃止すべきでない、まだその機でないと存ずるものであります。理由といたしまして四つ申し上げたいと思います。  一つ目、最高刑として法の尊厳のため、はた国民の懲罰として、情状酌量の余地のなきものはよろしく合法的に断行してしかるべしと存じます。最近とみに激増しつつある凶悪殺人犯の成因を愚考いたしまするに、世上恒心を欠き、宗教的情操、信仰心の貧困、人命軽視の風潮、誤まれる民主主義から来たるところの自我、利己主義は、おのれの欲するまま手段を選ばざる近道反応を呈しまして、処刑方法の寛大さと相まってゆゆしき風潮が底流していると思うものであります。  第二番、人はよく性善説を堅持いたしまして、罪人もまた人なりの前提として、すべてが教わるるがごとき仮説を立てますが、果して累犯が絶無でありましょうか。免囚保護事業の不徹底のゆえにのみ重犯ありと断定できるでしょうか。大方諸公の判定を待つまでもないと存ずる次第であります。その動機あるいは結果においてまことに許すべきものもありますとは思いますが、過失はあくまで過失であります。現法律におきましては、該当したる殺人罪はよろしく断罪に付して、主権の発動、国家の尊厳を失墜させてはならんと思うのであります。半獣半神、これが人間の真実の姿ではないでしょうか。  第三番、因果応報、すなわち懲罰刑は天人ともに認めるところではないかと思います。もし人間社会の千古より永遠にわたり貫くものは、この世に楽土を築くこと、この一事に尽きると思います。その意味からも人工の淘汰作用としまして、社会改良のためこの種冒涜族を駆逐するにちゅうちょがあってはならんと思います。  第四番、当室に現在参列なさっておる各位は、国民として教養の高い文化人、インテリ層ばかりと即断してかまわないと思いますが、当委員会一般民衆の底の声、叫びをいかにしてはかられようとなさいますでしょうか。日々に報道を欠かない凶悪犯の続出に、国を憂え、その犯行に大いなる憤激を増しつつあるを御推察あるでしょうか。試みに一流新聞死刑是か非かのアンケートを募るならば、すでに二、三の新聞は敢行してはおりますが、過半は時期尚早、時として無用に傾くことは想像にかたくはないと思うものであります。国情いまだ廃止の理想境に近づいてはおらんと思うものであります。もし先進国英国が廃止を実行しておりますとしても、これは豪州開発の具といたしておると申しまするのは暴論でございましょうか、代議士各位にお願いいたしますことは、まず社会悪の一掃から漸を追うて、しかしてのち社会改良のため該法案をお建てになってはいかがでしょうか。防犯運動しかり、教化活動を八千万一丸となって相愛精神、人命尊重の普遍向上の時を待っても遅くはないではないかと思うものであります。法に暗い私が不明な認識不足の点が多々あったと思いますが、しろうととしてその点平に御容赦していただきたいと思います。  次に申し上げますことは、単に私の夢想するところのものでありますが、某国の某時代においてという仮定でお聞き流しのほどを願いたいと思いますが、もしも刑の執行を行うならばということを御参考のために次に申し上げたいと思います。一言にして申し上げますと教育刑、あるいは累進制というものをやはり法定化していただき、仮釈放審査規定あるいは行刑、累進処遇制度そういうものも幾ぶんその累進を取り入れ、そうして次の段階によって処刑していったならばと思うのであります。私はまずこの宣告された死刑犯は戸籍から除去してそうして断種を断行いたします。公民権の剥奪と劣性防除のためであります。事実上の人間喪失であります。これで目的の大半は達せられると思います。一つには性欲過剰からくるところの犯罪の大多数の原因は、これによってあるいは救われるのではないかとこう思うものであります。  次にそのうちの壮年囚は漁田の開発、ある島によってでありますが、青年囚は役務賠償、特定の外国に賠償役務に従事する、国外追放ではありません。女囚、老人囚は治山治水工事のため、格子なき牢獄にするのであります。少年囚これは法律上は殺人犯ではないかもしれませんが、すでに犯した十八才未満を指しますが、酪農的な修道農場に入れましてひたすら罪の償いと更生を期す。具体的な場所につきましては国際的や政治的な関係がありますので具体的には申し上げられませんが、ただ中共再開、あるいは北海道の開発と関連があることを御想像いただきたいと思います。服役中はひたすらなる贖罪的な信仰生活を教誨官の導きによって、新制度であります、教誨官の導きによって行なっていく、もしも神の来迎を見、昇天の期が至ったと認めた際には、本人の承諾ののちに薬物によって安楽死を与えてもよろしい。ただ私の現在決断を鈍らしている事柄は真の悔悟というものは果して死にあるだろうか、あるいは生であろうか、この点はいまだはっきりいたしかねております。最後にはなはだむごい言葉で申し上げましたが、特別審議制というものを設けまして、犯罪生物学的な観察あるいは治療によって、釈放後の保護によって完全に真人間に帰れると見込みがついた場合には、累進制完遂ののちに仮釈放することもあってもよいではないかと存ずる次第です。このことをひたすら求め、光明として従労生活したならば、彼らは異常なまでのノルマをあげていくことは火を見るよりも明らかであります。救われた者へは生を、そして救われ得ない者へのみに死を与えてやる、これが私の小論の尽きるところであります。  以上であります。
  62. 高田なほ子

    委員長高田なほ子君) ありがとうございました。   —————————————
  63. 高田なほ子

    委員長高田なほ子君) 以上をもって公述人の方々の御意見の開陳が終ったわけでありますが、御質問がございましたらまた順次御発言をお願いいたします。
  64. 羽仁五郎

    ○羽仁五郎君 これはまあ御質問申し上げるということでないかもしれませんが、各位から貴重な御意見をお示しいただいて、伺っている間に私感じた、直感なものですから、まず最初にそれを申し上げさせていただきたいと思います。別に私自身が死刑廃止という主張を持っているからであろうかしらとも反省しながら、実は昨日、本日皆さんのお説を伺っていたのですが、どうもそうでない、客観的にそういう印象を受けるようでありますが、廃止論を伺っておりますと、私にも何か将来に希望があるような感じがして明るくなって参ります。廃止に反対のお説を伺っていますと、私自身がそのむちを受けている気がします。残酷な例をお読み上げになりまして、私先ほどから委員長並びに各委員皆、本日偶然でありますが、女性の方々で私一人男性であるために一そうつらく感じたのでありますが、その人が私であるような気がする、そしておっしゃる言葉が一々私にはイバラのむちであるように伺っておりました。私自身にも全く絶望であるというような感じがしてきました。これほおそらく私自身の個人的な感覚であれば非常に仕合せだというふうに思っております。けれども、やはり人は励まされればどこまででもよくなり、責めさいなまれれば地獄にでも落ちていくのじゃないか、というような感じを受けたことを一言申し上げることをお許し願いたいと思います。いろいろ御質問申し上げたい予定であったのですが、今の感じがあまり強くなってしまったものですから、御質問申し上げる勇気を失ってしまったのですが、ただ最後にお述べ下さった方は現在小学校の校長をしておられるようでありますが、失礼な質問でありましたらお答えいただかないでもけっこうでありますが、これまでどういうふうな教育を受けておいでになりましたのかお教えを願えれば仕合せだと思うのであります。
  65. 森戸じん作

    公述人森戸じん作君) 最終は師範学校出でございます。
  66. 羽仁五郎

    ○羽仁五郎君 もう少し詳しく教えていただければありがたいのですが。
  67. 森戸じん作

    公述人森戸じん作君) 学歴でございましょうか。
  68. 羽仁五郎

    ○羽仁五郎君 略歴。
  69. 森戸じん作

    公述人森戸じん作君) ずっと教師をやっております。
  70. 羽仁五郎

    ○羽仁五郎君 戦争時代にはどんなふうに。
  71. 森戸じん作

    公述人森戸じん作君) 多少、四十五日間ばかり従軍しました。
  72. 羽仁五郎

    ○羽仁五郎君 あとは主としてほとんど教育に従事しておいでになるのでございますか。
  73. 森戸じん作

    公述人森戸じん作君) はあ。
  74. 羽仁五郎

    ○羽仁五郎君 ありがとうございました。
  75. 高田なほ子

    委員長高田なほ子君) ちょっと森戸さんにお伺いをいたします。  私も実は個人的なことを申し上げますが、二十五年あなたと同じ教職にあります。それで非常に実は教育者という立場からの御公述に私は非常な期待を持ったわけであります。どうもこれは討論するわけでありませんが、教育者という観点に立った場合にはおよそ子供はすべて性善なるものとして教育の任に当り、そしてその成長をこいねがうのが私は教育者としての当然の使命のように考えられますので、そういう観点から、この罪に不幸にして陥った者に対してもすべては救われ、また救われなければならないという気持になるわけですが、森戸さんにお尋ねをしたいことは、すべては救われるという仮説の上に立ってものを考えている委員の方々は大へん甘いのじゃないかというお考えでありますが、大へん失礼な質問に当るかもしれませんが、あなたはあなたの学校の子供がすべてよく成長するという確信の下に教壇にお立ちになっておるのでございますか、いかがでございましょうか。
  76. 森戸じん作

    公述人森戸じん作君) その通りであります。けれども成長するに従ってやはり獣の心も住むだろうとは思います。
  77. 高田なほ子

    委員長高田なほ子君) もう一つお尋ねしたいのですが、育つに従って獣の気持もわく。すなわち人間の性は半分が神であり、半分が獣であるというふうに御説明になられました。教育はその獣であるところを真に人たらしめるために果される仕事であって、もし半神半獣ということが絶対に不可能の定説であるとするならば、それは私は教育者の大いなる責任であるように考えられますが、この点はどうお考えになられますか。
  78. 森戸じん作

    公述人森戸じん作君) これもお説の通りでございます。私はきょうは一民衆人として職場から離脱して申し上げるのであります。
  79. 高田なほ子

    委員長高田なほ子君) もう一つお尋ねをいたしますが、教師は社会人であり、同時に教育者であると私は存じます。いついかなる立場においても教育者であるという自負と責任と使命というものはたえずあり得るもののように私には考えられます。そこでお尋ねをするのですが、この死刑廃止の問題について、あなたの職場で何人かの先生がおいでになられると思いますが、職場でこういう問題を御討議になっていらっしゃいますか、それが一つと。それから今、教員組合は人間の生命を尊重する、いかなる場合においても人間の生命は尊重されなければならない、こういうような新しい教育の目的に向って大きな運動を進めております。私もまたこの人間的な運動に対しては非常な敬意とまた期待を持つ一人でありますが、森戸さんは教員組合の運動に御関係におなりになっておられますか、いかがでございますか。
  80. 森戸じん作

    公述人森戸じん作君) 第一の職場でそういう討議をしたことがあるか、まだそこまではひまがありませんし、その機会もなかったのですが、このたびは突然なお召しであったものですから、近くの人たちから御意見を伺うひまもなくはせつけたという次第です。つまりまだ一般民衆はその意識まで行っていないとも言えないこともないと思います。  第二の問題。私は支部長も勤めさせられたことがありました。組合の運動におきましては普通並みにやってきておるつもりでございまして、人命尊重は人よりも決して劣らないつもりでありまして、それだけに社会悪を憎むものであります。
  81. 高田なほ子

    委員長高田なほ子君) もう一つお尋ねをいたしますが、社会悪の現象的なものはやはりこういう犯罪という形になって来ておると思いますが、そういう犯罪現象は現象だけではなく、こうした凶悪犯罪を生む最も大きな原因は、まあこれは教育者としてお尋ねしたいのですが、どういうところにあるとお考えになっておられますか、御意見を承わっておきたいと思います。
  82. 森戸じん作

    公述人森戸じん作君) いろいろあると思いますが、先ほど申し上げました中の信仰心というふうな情操方面から、経済的な理由から、一体にその青年層がこの犯罪に対しての犯す率が高いと思いますが、その人方の考え方が人命を軽視しておるのでないかとこう思っております。それでよろしうございましょうか。
  83. 高田なほ子

    委員長高田なほ子君) それでもう一つお尋ねをしたいのですが、私は非常に教育者として今の二十才台の青年に対して申しわけのない気持がされておるわけです。戦争前の教育とそれから戦後の混乱の中で、彼らはほとんど十分な人間的な人間完成のための教育が行われてこなかった。これは教育者としては私はほんとうに申しわけないと思うし、また社会人としても申しわけないと思いますが、その断層の中で一番犯罪の数が多いということが先ほどからたくさんの学識経験者によって論じられておりますが、森戸さんは私と同じ立場にありますが、こういうことについて二十才台のこの青年層の教育が完璧であったか、そういう点について御意見を承わっておきたいのですが。
  84. 森戸じん作

    公述人森戸じん作君) 確かに空白は認められます。そうしてその禍根が今現われてきたということにおいては委員長と同じ考えであります。で、その手を拡げる、青年教育が今最もこの社会において必要でありながらその制度がまだ完全していない。先ほど申し上げました免囚保護事業よりも何よりも人命尊重の運動が国民運動としてもっともっと法制化され、一般化されるようにならないといけないと同時に、今の青年たちのほんとうの向うべき正義感、道徳観念というものをこのときこそ盛り上げなければならない時代であると思う次第であります。
  85. 赤松常子

    ○赤松常子君 私森戸先生にちょっと先ほどから非常に贖罪の意味から、宗教的な環境でいろいろ服役するというようことが理想だとおっしゃっておりましたし、人命尊重に対する考え方も非常に強調していらっしゃいます。で、この先生の結論から申しますと、善なる、改善悔悟の気持の強い者は殺さないでもいいが、どうもそういう悔悟の念がなくて手に負えない者は死刑に処したらいいと簡単におっしゃっておりますが、私はそういう宗教の極致というものがそういうことでよろしいのであろうか、先生は宗教というものと死というもの、生というものをどういうふうに考えておられるのか。私は非常にそこに矛盾を感じる受取り方をいたしました。先生のそういう宗教上の立場に立つ生と死の問題について少しお話し願いたいと思います。
  86. 森戸じん作

    公述人森戸じん作君) むずかしい問題でお答えできないことは先ほども申し上げておきましたが、どちらが正しい生き方であるか私は知りませんが、まずこの死刑廃止までにいく暫行的な制度をしてこんな法があっていいのじゃないかと思うばかりに一方便として申し上げたのでございます。その人々によって扱い方が違っていくのではないかと思います。私、宗教家でも何でもありませんので、果してこの人が救われたかあるいは救われざるかという判定さえも、凶暴囚には判定のつけようもないと思いますが、もしこの教誨官というふうな、今までぼやけた教誨師さんたちが完成化されることによっていろいろ診察、所見というようなものを出せるものがありましたならば、その判定はあるいはその人ばかりによって出せるのではないかと信じます。おそらく私はそのあとの方のように光明を見詰めてこの社会に再び新しい名前で出るのじゃないかという理想のもとに申し上げております。
  87. 宮城タマヨ

    宮城タマヨ君 河野先生と玉井さんにちょっとお伺いしたいのであります。河野先生は司法保護の大家でいらっしゃいますし、長い間たくさん受刑者を取り扱っていらっしゃるのでございますが、それからまた玉井さんは行刑面で長く御努力下すった方で、そこで私は両氏にお伺いしたいのでございますが、一ぺん人殺しをいたしまして、刑を受けまして、そうしていろいろの事情で再び社会に出てきました者で、二度と人殺しをした者があるかないかということであります。いかがででありますか、法務省で調べましたらないということでありますが、いかがでしょうか。
  88. 河野勝斎

    公述人(河野勝斎君) 玉井さんの方のまたお答えもあるかと存じますが、私ずいぶん長い間関係しておりますが、そういう例にぶつかっておりません。もちろん刑が長いから人間性がすっかり変ってきて、どんな凶悪犯罪を犯すような人間になっていないのかもわかりませんが、殺人をした人たちが有期刑になり、あるいは無期刑になり、そうして幸いにして社会に出されたときに再犯の事実はまだ聞いておりません。
  89. 宮城タマヨ

    宮城タマヨ君 玉井さんいかがですか。
  90. 高田なほ子

    委員長高田なほ子君) 玉井さんどうぞ。
  91. 玉井策郎

    公述人(玉井策郎君) 御質問の内容はこんなふうなんですか、死刑の確定を受けてそれが何かの機会でたとえば無期になり、恩赦かあるいは仮釈放になって外へ出た者が再び死刑のような犯罪をした者があるかどうかということでございますか。
  92. 宮城タマヨ

    宮城タマヨ君 もう一ぺん人殺しをした者があるかという事実を聞きたいのです。(「殺人の罪を」と呼ぶ者あり)
  93. 玉井策郎

    公述人(玉井策郎君) 詳しいことは存じませんが、自分が今までおった中で、再び人殺しをした、つまり一回してまた刑を受けない前ならばこれはたくさんあることは承知しておりますが、一ぺん刑を受けて、それから出て再び死刑に値する殺人罪を犯したという例は私の記憶ではないように思います。
  94. 赤松常子

    ○赤松常子君 吉益先生にちょっとお伺いしますが、いろいろ貴重な調査及び先生の御研究の結果を伺いまして非常に私教えられた点が多うございます。その中で先生の御調査の結果その改善不能者という者、これがあるように伺い、そうしてパーセンテージも相当出していらっしゃいますが、私どもほんとうに人間は性善であるという考えを持ちたいと思い、それを信じたいと思っておるものでございますが、この改善が不可能だというその決定はどういうところでなされたものでしょうか。それは科学的な根拠があるものでございましょうか。もう少し時日をかせば改善する可能性もあるものなのでしょうか。絶対にだめなのでしょうか、ちょっとその辺を伺いたいと思います。
  95. 吉益脩夫

    公述人(吉益脩夫君) 大へん重要な問題でございまして、私が時間がございませんので申し上げますことが大へん粗雑でございましたのでまことに申しわけないのでございますが、これはまあ長年犯罪生物学の研究をしておりまして、いろいろな人々の私は代表的なものを申し上げたのでございますが、先ほど申しましたように、改善不能というのは、どうしても改善不能だという意味じゃございませんで、全くの実際的なものでございまして、刑務所を出るときにまたやるだろうと、こういうただそれだけのものでございまして、それをもっと長い間りっぱな人が教育したり、それからいろいろ社会の状態も改善されればこれはやはりなくなるだろう、こういうのでございます。  それからただいま死刑じゃございませんが、殺人を犯して、それからまた殺人を犯すということがないかというお話でございましたのですが、私どもの経験では残念なことにはそういうのも経験いたしておりまして、一度殺人をやりまして、それから刑務所を出まして、それからまた殺人をやります。それから三度やったという、これはごくまれでございますが、そういうのもございますが、これは精神健康者じゃございませんで、精神に欠陥を持っている人でございます。まあそういうのがございますので、私は、先ほど死刑廃止と同時にぜひ危険な累犯者、非常に死刑者にも劣らぬ危険な人がいるわけでございまして、それでそういう人に対しましてとにかく無害になるまでは社会を守るということ、これはぜひやっていただかなければ安心できないことだと思うのでございまして、そういう例は決してたくさんあるのじゃございませんですが、まあ私が三十年ばかりの経験では今記憶しておりますだけで、二、三ございます。しかしそれはある者はまた精神衛生法なりで予防することもできますし、それから今のような、私が望んでおりますような保安処分というものができて参りましたならばこれは予防できるものでございまして、決してこれは二度やることが防げないという問題じゃございませんが、それは現実には非常にまれではございますがそういう例もございますので、そういう意味におきましてぜひもっと、今もやられておるのでございますけれども、もっと行刑を科学的にすることを推進していただきたいと切望しているわけでございます。
  96. 宮城タマヨ

    宮城タマヨ君 その記録は先生の所におありでございますか。
  97. 吉益脩夫

    公述人(吉益脩夫君) はあ、私持っております。
  98. 宮城タマヨ

    宮城タマヨ君 この委員会にお送り願うようにお願いできませんか。
  99. 吉益脩夫

    公述人(吉益脩夫君) 多分私記録しておりまして、帰って差し上げられると思っておりますです。
  100. 宮城タマヨ

    宮城タマヨ君 私どもとしたら重要な材料にさせていただきたいと思っております。そしてそれはみんな精神異常者でございますね。
  101. 吉益脩夫

    公述人(吉益脩夫君) 私一人覚えておりますのは精神薄弱者、これはまあ心身耗弱者でございます。心身耗弱者でございまして刑期が短いのでございますが、普通だったら無期になるやつが十二年とかで出まして、そしてそれが保護が十分されてないためにまた殺人をやったという例でございます。それからそれがたしか刑務所に入っておる間にまた刑務官を殺した、三回やっておるのでございます。そういう例でございます。これなんかは精神薄弱者でございますのでこれは当然もっと保護しなければならぬ例でございます。それからもう一つ殺人あるいは未遂だったかと思うのでございますけれども殺人をやっている。それから殺人放火でございましたかちょっとはっきりしたことを覚えておりませんでございますが、そういう例が二、三ございます。その性格異常者とかそういうものもございます。今の心神喪失だとか耗弱にならない者でもございます。そういうものに対する保安ということをぜひ同時にやっていただきたいと私は希望いたしております。
  102. 高田なほ子

    委員長高田なほ子君) 大へん吉益さんに御迷惑だと存じますが、貴重な資料でございますのでお手数でも御提出いただければ仕合せと思いますから、よろしくお願いをいたします。
  103. 羽仁五郎

    ○羽仁五郎君 時間が大へんおそくなりまして、簡単に伺わせていただきたいと思いますが、最初に吉益さんに伺いたいのですが、この精神異常の人に対する外科的な治療の方法の最近の発達について、何か私どもしろうとがときどき新聞記事なんかで、アメリカなんかで頭脳外科というのでしょうか、頭を開いてそのあとその人が健全になるという話を聞いておるのでございますが、そういうことは学問上研究されておるのでございますか。
  104. 吉益脩夫

    公述人(吉益脩夫君) それは比較的簡単でございまして、もう精神病院なんかでは若い人は大ていみなその手術はできるのでございまして、それでたくさんの人に脳の手術、ごく簡単な、切るだけでございますのでやっております。おもに精神病者にやっておりますが、中には非常に興奮しやすい人だとか、性格異常者にもやっておりますのですが、中には多少……相当効果のある者もございますが、やはり無効な者もございまして、なかなかそれでなおるというわけにはいきません。
  105. 羽仁五郎

    ○羽仁五郎君 次に玉井所長に二点お伺いしたいと思います。長い御苦労になりました間に、死刑執行せられました方で誤判の疑いのあった方がおありになりましたか、どうでしょうか。
  106. 玉井策郎

    公述人(玉井策郎君) 四十六人の中で誤判というのはおそらくないと思いますが、本人があくまで、死んでいくまで自分はしたんじゃないと言ったのはございます。それは朝鮮人でしたが、戦争後、私まだ帰って来ない時代ですからこっちのことは事情よくわかりませんが、朝鮮人だけで警察力が足りないので自警隊か何かを作った時代があったのだそうでございます。そのときにその自警隊員に不当になぐられたので、それを袋に入れて殺したというような事件だったと思います。それは殺したのじゃない、それは今北鮮に逃げているんだと言い張りつつ、やむを得ぬから自分は死んでいくけれども、あくまでもあの人間は生きているといって、これは当時の進駐軍方面からも十分調査されておりましたが、その事実はないということになって、死刑執行した事実はあります。それ以外は別にございません。
  107. 羽仁五郎

    ○羽仁五郎君 もう一点玉井所長に伺いたいのは、現在は少年刑務所で御苦労下さっているようですが、死刑という制度はあることが少年刑務所に収容されておる少年たちに対する影響に対して、特に御所見がございましたら御教示願いたいと思います。
  108. 玉井策郎

    公述人(玉井策郎君) 少年はもちろん死刑というもののあることは承知しております。しかしそれに対して別に取り立てての少年の動きというようなものはまだ感じたことはございません。
  109. 羽仁五郎

    ○羽仁五郎君 少年刑務所でやはりその少年がいい人間になるという確信を与えておられることだと思うのですけれども、社会にはいい人間になれない、おれはよくはなれないというようにひねくれているというか、俗語で言えばひねくれているというふうに考えている少年もあるのじゃないか。そのときに現に改善の余地なしとして死刑になる人があるのじゃないかというようなふうに考えている子供たちが……、お気づきにもしなりましたら……。
  110. 玉井策郎

    公述人(玉井策郎君) 少年で一部戦前の少年と戦後の少年の気風が大分違うようでございます。最近の少年は非常に自暴自棄になっている者が多いようでございます。それらに対して教育するには非常に戦前以上にわれわれとして困難を感じておるのであります。しかし必ずあくまでも独居拘禁とか、あるいは反則の数回をやりつくしている者でも、もちろん仮釈放はそういう者には行なっていないのでありますが、それでも出て行くときは大ていの者は非常にしかられたり懲罰をされているときには怒って、なおその懲罰に不服だといって職員に食ってかかる、あるいはなぐって来る少年は多数あります。それを取りしずめるために法的な手錠をかけ、あるいは革手錠をかけ、そういうようなこともしております。それに対してその当時は非常に本人としての反感を持っている。そうしてやくざの言葉で言えば必ずお礼参りに行くからということを数回にわたって言ってわれわれをおどしておる者もあります。しかしいよいよお父さん、お母さんが迎えに来て帰してやるときには涙を流して、先生お世話になりましたと言って帰って行きます。おそらく出たならばあの看守をやっつけてやろう、今度こういう手口でやってやろうというような考えを持っている者は一人もないと思う。おそらく今度こそまじめになってやってみようという決心で出て行くのですけれども、再び帰ってくる者はこれは何かそこに欠陥が社会的にあるのではないかとわれわれは思うのであります。
  111. 高田なほ子

    委員長高田なほ子君) 他に御発言はございませんでしょうか。——それでは公述人の方に一言ごあいさつを申し上げます。非常に長時間にわたりまして貴重な御意見をお伺いすることができまして、当委員会といたしまして深甚な謝意を表したいと思います。昨日来本日にわたる数々の貴重な御意見は、日本の向上のために必ず大きな光彩を近い将来に放つその基礎となって下さることを確信いたしまして、長い時間また遠路御苦労下さいましたことにつきまして深甚なる敬意を表したいと存じます。また当委員会といたしましては、御多忙中の各位に対しましてそののちまでも資料の御提出などまでお願いを申し上げたのですが、これは当委員会があくまでも日本の正しい方向を方向づけるための努力である、こういうふうに御了解下さいまして、これを御縁に今後ともよく御意見を十分に承わりたいということをお願い申し上げまして一言お礼にかえたいと存じます。(拍手)  それでは本日の公聴会をこれで散会いたします。    午後五時二十九分散会