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公述人(吉益
脩夫君) 私は、ただいまの古畑先生、それから正木先生の驥尾に付しまして、
犯罪学の研究をいたしております一学徒にすぎないものでございますが、今日
公聴会に出まして、私の
意見を申し述べさしていただきますことをまことに光栄とする次第でございます。
死刑の問題は
法律的問題、それから倫理的問題、また
世界観の問題としまして、大へん重要でございますが、私は、主として
自分の
経験いたしました
犯罪学的事実に基きまして、
死刑問題に対する私の見解を申し述べさしていただきます。なお、これと同時に、他の
学者の重要な研究結果も参酌してみたいと存じます。
法律的問題は、すでに
法律家の先生方からほとんど御
意見が出尽しておると存ずるのでございますが、形而下の問題、この方面の
意見が比較的少いように存ずるのでございます。
〔
委員長退席、理事
宮城タマヨ君着席〕
それで私は、論述の資料といたしまして、
死刑の判決を受けた者十五名と、それから無期刑の判決を受けた者百四十七名を個別的に審査いたしまして、そしてそれについて、ごく簡単に申し述べたいと存じます。
これらの人は、旧
刑法によれば、ほとんどすべて
死刑の判決を受けるような罪を犯した人でありまして、すなわち強盗
殺人、それから強姦致死、尊属
殺人、こういう罪名の人ばかりでございます。まずこれらの
人々が、
精神医学的に見ましてどんな種類の
人々であるかということから申し上げます。もちろんこの中には、心神喪失で無罪になった者、それから心神耗弱者で十五年とか十二年とかという有期刑を課せられた
人々は全然含まれていないのでございます。そういう者につきましては、今日は申し上げないことにいたしまして、ただ
死刑と無期刑の判決を受けた人だけを見ました結果を申し上げます。これを両方の
人々を一緒にいたしますと、百六十二名ございますが、これがどんな人たちかということをちょっと簡単に申します。
大まかに見てみますと、その中で
精神病
——狭義の
精神病というものが一〇%に足りないのであります。それから
精神薄弱着というのが一四%ございます。それから
精神病質、これは異状性格者でございまして、これはもう
社会にたくさん生活しておるような種類の人でございますが、こういうのが七〇%、七側を占めておりまして、それから正常者
——精神医学的に見ましてノーマルな人というのが一二%ございます。これから見ましても、こういう
死刑や無期刑の判決を受ける人がみんな
精神病者であるなんというようなことは当然言えないのであります。そうして、広い
意味の
精神異常者や性格異常者というようなものを加えましても、みなそういう人じゃなくて、今申しましたように、ノーマルという人もむろんあるわけでございます。そしてこの
精神病質と申しますと、
精神病者のように見えますが、これは普通の言葉で申したら異常性格者でございまして、これが七割を占めておるのでございますが、これは
法律的な
意味では、特別な場合を除きましては、ほとんど完全責任能力者とされておりまして、これは問題にならないわけでございます。ただ、ここで問題になるのは、
精神病者と、それから
精神薄弱者、この両方でございます。これにつきまして、これから本論に入りまして、項目を分けて申し上げたいと存じます。
第一は、
死刑の回復不可能に関しての問題を申し上げます。ここで裁判の
誤判問題でございますが、これにつきましては、
法律家の先生方からお話がございますので、私はこの問題には触れる資格がございませんが、ちょうどこれと並んで重要な問題がございまして、それは
心神喪失者——刑法でいう
心神喪失者と、それから心神耗弱者でございます。こういう
人々が
死刑に処せられるところの危険がいかに大きいかということ、この問題を、私どものやっておる関係のあることでございますので、これを簡単に申し上げていきたいと存じます。私の見ました
死刑の判決を受けた十五名のうち、
精神薄弱者が一名、それから
精神分裂症者が三名、それからろうあ者が一名ございます。責任能力の問題にならない人や、それからその中で、鑑定を受けまして、一審では
死刑を宣告されたのでございますが、鑑定を受けた結果、今度控訴だとか上告、控訴院だとか大審院、あるいは最高裁判所、そこへ行きまして、そして今度無期刑に減刑された、無期刑になった、こういう人は除きまして、こういうものには触れないことにいたしまして、そしてそうじゃない、
死刑の判決を受けた人につきまして、主なものを拾ってみたいと存じます。
第一は、このろうあの青年でございます。これは有名な事件でございまして、浜松の近くの農村におきまして、深夜数回にわたりまして七人を心臓を突きまして、むごたらしい殺し方をいたしました。それからその上数名の人に重軽傷を負わしたという大事件でございます。これが長い間犯人がわからず、地方の
人々を戦慄させた事件でございます。ところが、犯人がわかってみますと、それは一人のろうあの青年だったということがわかりましたのでございます。その鑑定を内村教授と私とが共同鑑定を命ぜられまして、その結果を申し上げますと、この青年は、ろうあ学校へ入って手話法
——手で交通する教育を受けました青年でございますが、これは学校では成績が首席でありまして、非常に頭のいい、ろうあの青年としては珍しい頭のいい青年であります。それでありますから、私どもは検査いたしまして、
精神薄弱者でないことは申すまでもないことでございます。しかし教育の結果、口話法で教育されておりますと、善悪というような抽象的な概念を覚えるのでございますが、手話法でやっておりますので、善悪というような
判断ができないような教育を受けておったのでございます。それで、私どもの鑑定の結果は心神耗弱といたしまして、そうして鑑定書を提出したのでございますが、裁判所は、この青年がそばで大きな声をすると声が聞こえるのでございます。それでありますから、これは難聴者である。なるほど全然聞えないわけではございません。ところが、難聴者ということで、
死刑の宣告をされたのでございますが、このろうあ者というものは、ほとんど全然音が聞えないというものは半分もないのでございまして、この青年のようなものは、医学的に見ましても、それから通俗的な
意味におきましても、これはろうあ者で間違いないのでございます。それを難聴者とされまして
——もっとも私の同僚の耳鼻の先生が鑑定をされておるのでございますが、むろんろうあ者でもあるが、一方から見れば難聴者には違いない。ところが裁判所は、難聴者ということにされまして、そうしてこれに
死刑を言い渡されたのでございます。これが控訴し、上告しましたら、とうとう棄却になりまして、刑場の露と化した哀れた事件でございます。これは私どもは、今なおこれは心神耗弱者で、そうして
刑法で、ろうあ者は罰しないか、あるいは減刑するということがございまして、それに相当するものだと
確信しておるのでございます。これは、おそらくその当時の地方の
人々の
——村民の感情というものは、これを生かしておいたら地方の人が
承知しないというようなことはむろんあったろうと思うのです。裁判のときも、弁当持ちで一ぱい押しかけてくるという状態でありました。それで、地方の人の感情、それから地方の、
国民の一部分の見解としましては、
死刑を望む人が多かったろうと思いますが、しかし、それはほとんど全体の
国民感情とか、それから
国民の
確信じゃないと私は存じておるのでございます。これがこういう心神耗弱者というものが処刑を受けたという一例でございます。
次に問題になりますのは、
精神分裂病でございまして、これは重大問題でございます。一例をあげますと、ある犯人は、一審で尊属
殺人としまして、
死刑の宣告を受けたのでございます。それが控訴で尊属傷害致死となりまして、無期刑になったの、でございます。刑を受けた当時から
犯罪を否認し続けておりましたのでございますが、私が刑務所でこれを見ておりますときには、まあ作業はずっと続けて作業をやっておりました。が、よく会って話しをしてみますと、この人は無罪妄想ですね。
自分が無罪であるという妄想、それからほかにたくさん妄想を持っております。それでその妄想以外では、話をしてみると、一向変ったところはないものでありますから、それを専門外の方から見れば、著しい障害が認められなかったのでございます。ところが、これが数年たちまして、あるとき私が見ますと、そうすると、急に症状が悪化いたしまして、そうして全然刑の
執行にたえないような状態に陥ってしまったのでございます。全くの廃人となってしまった。これなど、犯行当時に、もし私かだれかが鑑定いたしましたならば、すでに分裂病があるいは起っていたのではないかと想像されるのでございます。この犯人などは、前の生活を調べてみますと、前は非常な親孝行の人でありますが、それがむごたらしいことをして、母親を殺しておる。こういうところに、その人の元来の性格とこの犯行とが何かこう食い違った。これを裁判の判決
理由書を読んでみますと、むろん筋が一応わかるわけでございますけれども、ただ犯行の筋道が一応通るということだけでは、その
人間が
精神障害が全然ないという証拠にはならないと思います。これは大切なことでございますが、それで、まあそういう
意味で、鑑定ということが必要になってくるわけでございますが、これなんかもそういう問題の
一つでございます。
次には、ちょうど同様に、一審も二審も
死刑の判決を受けておりますが、上告いたしまして、初めて無期になった人でありますが、これは
殺人、
殺人未遂と、二つの
犯罪で判決を受けた人であります。これがちょうど同じような
精神分裂病者でございます。で、こういうのがしばしば見られるという例でございます。
それからもう
一つは、これも尊属
殺人の犯人でございますが、私がもう刑務所で見ましたときは、すでに二十年もたっておりまして、もうそのときは全く支離滅裂でありまして、すっかり痴呆状態になりはててしまった状態でございますので、それで、これが犯行時どうであったかということ、あるいはいつごろ、刑務所の中へ入ってからいつ
精神分裂病が起ったかということも、これはもうすでにわからないのでございますが、これなども、もし犯行時は何ともなくても、とにかく
殺人という、親を殺したあとに、
精神分裂病という遺伝素質のゆえに起って参ります。こういう重篤な
精神病が起ってきたということは、これはよほど考えなきゃならぬ問題であります。私は、尊属殺の犯人をたくさん見ておるのでございますが、今日は無期刑と
死刑に限って申し上げますので、ちょっと今日の話しの外になりますが、
殺人、ことに尊属殺の受刑者を見ますと、刑務所へ入ってきてからのちに
精神分裂病が起って参りますのが非常に多いのでございます。これは、私はいずれ詳しく学会に
報告したいと思っておるのでございますが、
精神分裂病になるのが非常に多い。それで、これがまあ犯行時との関係が問題でございますけれども、犯行時何ともなかったとしましても、その後しばらくしてから、こういう重篤な
精神病が起ってくるということは、よほど考えなきゃならぬ問題でございます。もしこういう人を
死刑にしてしまえば、そののちに生きておったならば、しばらくして
精神病が起ってくるということを知らずに片づけてしまうわけなんです。ここにも問題があると思います。
それから次の問題は、
精神分裂病と言い切ることはできないけれども、非常に分裂病に近いような状態という
精神病質者でございます。こういうのを分裂病質と言っておりますが、中には非常に分裂病に近い、そしてその鑑別のなかなかむずかしいものがございます。そういう状態のが、私の見ました
死刑囚の中にも二人ある。これなんかはよほど詳しく調べぬことには、分裂病であるか、分裂病質であるかということの鑑別ができない状況であります。それからそういうものになりますと、ここで問題になりますのは、私ども鑑定いたしておりまして、これが今はどうも確定はできない。今はまあ
精神病質の状態であって、
精神分裂病とは言い切れないが、もう一年とか二年とか、あるいは数年したら、こういう人は、あるいは分裂病が起ってくるというように思われることがしばしばございます。こういう場合も、
死刑にしてしまえば、それほそのままで結局わからなくなってしまう。
てんかんでもそうでございまして、てんかんの診断なんかでも、非常にむずかしいのがあるのでございますね。こういうのは、ごくまれなことを申し上げますので、いつもそういうのじゃございませんが、たまには非常にむずかしい場合がございます。そういう場合に、どちらかと言って迷っている間に、とうとうほんとうにてんかんの発作の、だれが見てもわかるようなてんかんの発作の起ってくるようなことがあるのです。しかしそういうのが起ってこない場合は、なかなか判定に苦しむというようなことがあるのでございます。
それからもう
一つ、分裂病で非常に重要なことでございまして、
犯罪精神医学で、最近ことにやかましく言われます問題は、前駆期の
殺人、早い時期に前駆的に
殺人の
行為で始まる。おかしくなってから
殺人をするのじゃなくて、最初の出発が
殺人であるという、こういう厄介な
殺人がございます。そういうのが前駆期の
殺人と申しまして、分裂病者の前駆期の
殺人と申しまして、そういうのがたくさんの、先ほどお話申しましたように、大量の
殺人をいたします。たくさんの人、何十人を殺すというのも中にはあると
報告されているのでありますが、それから非常に
社会を衝動するような
行為をいたします。それが初めての
精神分裂病の症状と、それから
殺人とが一致しまして、そういう場合が非常にむずかしいんです。今まで大した変ったことがない。そういう人が、捜査官がいろいろ尋問をいたしますと、そういたしますと、いろいろもっともな犯行の
動機を一応申し述べます。ところが、有名なウィルマンス教授が鑑定いたしました一例を申し上げますと、友だちと兄を殺しているのでありますが、初めはけんかして殺したというようなことを申します。その次は、今度は
嫉妬からやったんだと申します。それからその次は、今度はやはり実はけんかしてやったのだと、何べんも何べんも申し立てが変るのでありますが、結局よく調べて見ますと、聞かれるから答えるのでありまして、本人にとっては、犯行の
動機が
自分自身にも不可解である。それがほんとうの本人の
精神状態であるということがわかった例でございますが、これなどは、初め前駆期の
殺人でございますので、ほかにあまり目立つ症状がない。ところが、これが判決がありましてから三カ月たったところで、今度はりっぱな分裂病の症状が出て参りました。そうして、これは疑いもなく分裂病者ということがわかった例でございます。
こんなふうに、
死刑をやる前に病気がはっきりしますとよろしゅうございますが、なかなかそうはいかない場合がございます。
〔理事
宮城タマヨ君退席、
委員長着席〕
そうすると、結局
死刑にしてしまえば、わからずじまいであるということなんです。それから、私の見ました無期刑の中に、やはり
精神分裂病者がだいぶたくさんございますが、その中でも、ここに十一名ございますが、これも、その中の二名だけは、はっきりとこれば心神耗弱になっておるのであります。そのあとは、犯行当時あまりはっきりしなかった。あるいは刑を受けてから
精神分裂病の症状が現われてきた。これもはっきりしたことは言えませんですが、そういう例でございますが、そういうのは十一名ございます。そうしてここで初犯者と累犯者と分けてみますと、初犯者の方に多い。累犯者よりも初犯者の方にそれが多いのであります。それで、この回復不可能という問題に関係しましては、時間がございませんから、そのくらいにいたします。
次に、この
死刑の
威嚇力というものを過信することができないという
理由につきまして、少々申し述べさしていただきたいと思います。
死刑に
威嚇力がない
理由といたしまして、
死刑廃止論者から、しばしば
殺人犯人が
死刑を何とも思わないという例があげられておるのであります。これは、現代の
精神医学から見ますと、こういう
人々は、大てい
精神分裂病者または性格異常者でございます。その数はあまり多いものではございません。私の見ました強盗
殺人の一人の、これは
精神分裂病者でございますが、これは無期刑の判決を受けましたあとで、
死刑にして下さいと言って願い出た例でございます。こういう例ば外国にもございまして、有名なオーストリアの女王をスイスで暗殺しましたルイジールッチエシィという男がございますが、これがその典型的な例でございまして、スイスのゲンフ県の
法律では
死刑がないのであります。それでルーッエルンという県の
法律に従って私を
死刑にしてくれと言って、大統領に手紙を書き送っております。この犯人は懲役に処せられまして、それから監房内で非常に興奮いたしまして、そうして自害しております例でございます。
それから有名なのは、ガーフィールド大統領をワシントン駅頭で殺害したチャチールスキントーという有名な犯人がございますが、これは、二人の鑑定人がたしか
精神異常ではない、こういうふうに鑑定いたしまして、処刑されてしまった例でございますが、これは、現代から見ますと、
精神分裂病者と見られる例でございます。やはりこの犯人も、
死刑の最後まで少しもおそれず、詩を口ずさみながら死んでいったのでございますが、こういう例はずいぶんございます。こういう人は死を何とも思わない。むしろ死を望んでいるわけであります。
それから、性格異常者にもこういうことがございまして、私の見ました一人の異常性格者は、前の刑務所で知り合いになった共犯者と相談いたしまして、どうせ毒食えば皿までと決意しまして、死を決意しまして、そうして恩人を殺して、金を奪うつもりでありましたが、偶然被害者が蘇生したために、強盗
殺人未遂罪で、無期刑になったのでございますが、その人の犯行は非常に残忍性を持っておりまして、そうして刑務所へ入ってからも、悔悟の情なんていうものは少しも認められない。こういう犯人でございます。彼もまた
死刑を望んでおりまして、刑を受けてからも、作業に絶対に服従せず、そうして幾ら重屏禁の懲罰を受けましても動ぜず、そうして従容として、頑強に抵抗し続けたのでございますが、こういう無情な人というものは、
犯罪者の中にもきわめてまれな例でございます。それから外国で有名な、大量
殺人者で有名なハリッツハールマンというものがございまして、これは性欲異常者で、同時に性格異常者でございます。これは、二十七件の
殺人をいたしましたのでありますが、彼は非常に虚栄心が強くて、私がこんな多くの人を殺さなかったら、これほど有名にはならなかっただろうと、こう豪語いたしまして、最後まで落ちつき払って、少しの動揺も見せなかったのでございます。これは
死刑にされてしまったのですが、これなども、死をおそれない有名な例でございます。
今申し上げましたように、
精神分裂病者または性格異常者は、私の方の
経験では、大体そういう
人々であります。これに反しまして、多くの
犯罪者は、逮捕されてから後は
死刑をおそれて、何とかして免れたいというのが普通でございますが、しかし、それは犯行後のことでありまして、犯行前におきましては、
死刑というものは、彼らにとりましては、ばるか遠い所に、離れた所にありまして、現在の犯人の意識の中では、もっぱら
犯罪の対象というものによって彼らの意識は占められでおるのであります。それで、こういう
人々がおそれるものは、それはおそれるものがあるとすれば、それは
犯罪の発見されることでございます。これはもう、直接犯人と会いまして、たくさんの
人々を見ておりますと、共通なところがございます。そうして、私の資料では、窃盗や詐欺や、それから強盗や、強姦が発見されないようにするために、人を殺したというのが非常に多いのでございますが、もし
死刑というものが念頭にあったならば、こんなばかなことはするものではございません。彼らは大てい、これはまさか発見されないだろう、そう考えておるのでございまして、ただ漠然とそう信じておるのでありますが、そう考えさせる大きな
原因は何かと申しますと、事件が発見されずにいるということでございます。それで刑事
学者によりましては、この発見されない事件が驚くべき大きな数であると、こういうふうに推定いたしております。
日本でこれがどれだけかということは、私どもも実はわからないのでございますが、それからまた、事件は発見されて発祥したということはわかるのでございますが、犯人が逮捕されないという、いわゆる迷宮事件でございますが、これだけでも一割に近くあるといたしますと、それは、犯人にとりましては
一つの大きな魅力になるわけでございます。なお刑務所では、受刑者が役人のすきを見まして、いろいろ
犯罪の手柄話をいたしますが、そういうときに、事実よりも幾倍にも誇張いたしまして、そうして話し合う。それがまた、大きな刺激になるばかりでなくて、さらに発見されないという犯人の安定感を一そう強めるのでございます。それで、ここで重要なことは、結局こういう発見されない事件というものをできるだけ少くするということが、これが一番大事なことでございまして、これを半分にすれば、この
死刑というような刑を課することよりも、どれだけ
効果があるかということは
一般に言われておる事柄でございます。
それから第三は、改善可能の難易
——改善可能のむずかしいやすいということは、
犯罪の重さと並行しないということ、これを少し申し上げたいと存じます。教育者がすべて
人間は改善可能である、こういうふうに言われるのでございますが、これは理想論でありまして、もちろん教育者としては、このような心がまえのもとに努力されなければならないのでございますが、
犯罪生物学におきましては現実の問題をとらえますので、
犯罪者が釈放されるときに再び
犯罪を犯すだろうと
判断した場合には改善不能、こう呼んでおる。それでありますから、どんなことをやっても改善されないという
意味じゃございませんで、現在釈放されるときに改善されていないという実際的な立場の判定でございます。
ドイツの有名なバイエルンの
犯罪生物学研究所での調査によりますと、そういう
意味の改善不能者というものの率を出しておりますが、ここでは財産犯が一番改善不能者が多い。財産犯におきましては、大体五〇%が改善不能者、こういうふうに言っております。今のような
意味の改善不能者、これに反しまして、暴行犯では九・八%、改善不能者の率が財産犯よりもはるかに少い。それから風俗犯人におきましては二〇%、こういうふうに見ておるのでございまして、それで重い
犯罪をやったから改善不能だ、よけい改善ができないというのではなくて、今申しましたように、財産犯の方がむしろ改善不能者が多いという結果が出ておるのであります。それから不良凶悪囚を見ておりますと、いわゆる不良凶悪囚というのは、改善の困難な不良囚の中には、
殺人で無期を言い渡されたというのはその中には二人しかいない。あとは窃盗だとか、ほかの傷害とか、それから強姦とか、そういうような
犯罪で、重い刑を課せられていないのでございますけれども、改善不能という立場から申しますと、これは非常にむずかしい
——改善の困難な者なのであります。それからまた、有名な例をあげてみますと、ウルジーヌスという有名な毒殺婦がございます。これなんかば、釈放されましてからのち、慈善事業に一生を捧げまして、七十四才で死んだという例がございます。で、重い
犯罪をやったから改善ができないということは決して言えない。それで私どもが見ておりますと、結果ばかりでは判定できなくて、偶然なことで強盗
殺人未遂になりますと、罪が軽いのでございますが、その中には、
死刑囚と危険性におきましては同じような者を幾らも私ども見ておる。それで、現われたものだけからで危険性を
判断するということはできない。
それから
死刑の
社会的淘汰でございますが、
死刑の起源を見てみますと、応報とか復讐という
意味と、それから
一般予防という
意味のほかに、最初には、血族、共同体の中から有害な
人間を排除するという
社会的淘汰の
意味があったのでございます。それが中世期になりましてから、一そう残酷な
死刑というものが現われてきまして、ことに復讐とか
一般予防と結びついて、非常に残酷になってきておりますが、
一つの目的は、そういう有害者を排除するということであります。ところが、民族の素質を健康化するために、そういう好ましくない
人間を排除するということでありましたら、これは今日のように、
死刑がもうすでにごくわずかな数になっております場合には、もうとてもそういう目的は達せられないのでありまして、これは、文化国家におきましては、優生法というようなものに頼るよりほかに道はないと存じます。
そうして最後に、それでは
死刑を
廃止すればそれで済むかと申しますと、私どもは、
死刑廃止と同時にやっていただきたいことがございます。これが私どもの
一つの条件でございまして、
死刑廃止に
賛成であると同時に、
一つぜひこれをやっていただきたい。それは、
犯罪の真の
原因を突きとめて、そうして
犯罪の予防を講ずる、これは申すまでもないことでございますが、このほかに、仮釈放というものの
規定をもっと改善していただいて、そうしてこの審査を科学的に
——今より一そう科学的にしていただくということ、これが非常に大切だろうと思います。私ども見ておりますと、非常に危険な累犯者というものがございます。ただ危険だからといって、それを長く置くことはむろんできませんし、やはり何か
犯罪と、客観的な事実に結びつけなければ人権じゅうりんになるのでございますが、
犯罪を反復しておるという事実、そうして同時に危険性を持っておる、こういうのは
社会にとりまして一番不安のもとになるのでございまして、こういう人は、直るまで
社会にこういう人を出さないということ、それを十分やることは、これは
死刑廃止と同時に非常に必要なことでありまして、そうしなければ
社会が安心できない、こう思うのでございます。そうして、そういう仮釈放の
規定を改良していただく。それから同時に、危険な累犯者に対する保安の方法を確立していただきたい。これが私どもの
死刑廃止と同時に
お願いしたい希望でございます。
で、この
死刑につきまして、私ども
精神医学をやっております者といたしましては、今まで
死刑に対して私どもいろいろ
経験しておりますのでございますが、
死刑に対する見解を発表するという機会がございませんで、今度ちょうど私の方の当番で、この十九日に関東の
精神神経学会を開くことになっておるのでございますが、今度、
死刑の問題を中心としまして、シンポジウムをやりまして、いろいろ
人々の
意見を徴することになっておるのでありますが、今日はここで、ただその一端を申し述べまして、御批判を願いたいと存ずる次第でございます。